2009年5月23日土曜日

神を信じると言うこと

*新・メール感謝です*
「それ」は自分にとって
決して決して嬉しいことではありませんでした。
ところが、
主は私に迫るように語られたのです。
「あなたにそのことが与えれたこと、
それにあなたは同意してくれますか?」と。
そこには主の深い深い愛がありました。

☆
メール感謝です。
その時の「深い深い愛」とは「あなたの感覚」をさえ超えた、
「その向こうにある」不動の主の愛なのでしょう。そうです、
ただ一言 主は私達に言いたいのです、
「たとえそうであっても、私を信じなさい」と。

一体、信じるとは「本来そういうもの」なのではないでしょうか。
嬉しいとき、悲しいとき、苦しい時、その他どんな時にでも、
それらの感覚はひとまず「かたわら」に置いて、或いは「無視して」
神を信じ主に従うこと、それだけを主は願っておられるのでしょうね。
(何故なら主は御自身にとても大きな自信があるからです!)

更に言うならば、
とても信じることが出来ないような状況や、私の「ひどい感覚」の中でこそ
「信じるという価値」が浮かび上がるのです。なぜそんな事が言えるの
でしょう。なぜなら、私達の信じる対象が「神」であるからです。
「あの偉大で素晴らしい神」であるからです。「その神」であるからこそ、
私の感覚が干からびて無味乾燥、豊かな感覚が何も無いとしても、
また仮に、神にさえ捨てられたのではないかと「感じさせられる」
ような時でさえも、信じることが出来る、のではないでしょうか。

さて本来信じるとは「自分がどう感じるているか」とは
何の関係もない筈です。人は自分の感情や感覚にどうして
それほどまでに左右されるのでしょうか。むしろその方が極めて
不思議なことである、と言わなければなりません。(多分実はこの点に
大きな深い敵の秘密・ウソが隠されている、と私は考えております。)

信じるということの「本質」は、興奮することとは全く無縁な、
①信じる対象が一体誰であるのか、またどうであるのか、
と言う「私の評価」が先ずあり、次に
②私に与えられている自由意志を行使し「そのお方or その言葉」を
選び取ると言う、ある意味で一つの「冷静な作業」である、と言える
のではないでしょうか。(当然その後に、信仰の結果として賛美や
感謝など、感覚的、感情的な世界が展開することは充分あり得る
でしょうが、それらは「信じることそのもの」ではありません。)

だからこそ、これまで、
神によって、私達に、時に与えれる感覚的でウットリとするような
「天的な日々と時間」は決して長くは続かなかった、のでは
ないでしょうか。それは、主が敢えてわざとそうなさった結果
なのでしょう。いかなる場合でも、どんな物や事によっても、
揺さぶられることなく(或いは最小限に止どめて)「ただ
神の言葉を信じ、主の御心に従うように」という神の明確な
強い意図がそこに存在していたから、に違いありません。

*
神はあなた方を「子として」取り扱っておられるのです。
(ヘブル12の7)

十字架の更に深い働き

*先人の言葉から*

「健康の喜びなどの外側の身体上の幸い」や
「この世の楽しみ」に対して私達が死ぬ時、私において既に
十字架の最も完全な働きはなし遂げられた、と私達は思うかも
知れません。

しかし、
私達の旧創造を取り除く神の働きの中には、まだ
十字架のより深い働きがあることを、私達はあまり知りません。

神は私達が「神が与えて下さる喜び」にさえ死に、ただひたすら
「神の御心」に対して生きることを願っておられるのです。

肉的な事や世的な事よりも、神と神を近く「感じるならば」
私達は幸いを覚えるかも知れません。しかし、神の目的は
神が下さる喜びを私達が享受することでさえなく、
ただ彼の御心に従うことです。

「神が喜びを与えて下さること」だけを願い、苦難を嫌うのであれば、
私達はまだ、十字架のより深い働きを経過しているとは言えません。

「私達は・・信仰によって生きている。」
(ガラテヤ2の20、ローマ1の17、Ⅱコリント5の7)

☆
この文においては、
十字架の第一と第二の働きについては全く述べられておりません。
僭越ながら、ここに十字架の働きについて、その一部を
敢えてまとめようとすれば、以下のようになると思われます。

第一はキリストの御血による複数形の罪の洗いです。
第二は「罪、肉」に対する私の死です。
第三は「健康の喜びなどの外側の身体上の幸い」や
「この世の楽しみ」に対する死です。そして、
第四は「神が与えて下さる喜び、例えば燃えるような愛や
主の臨在の実感、昇天の超越した感覚等」に対してさえ、死ぬことです。

第三で述べられていることの多くは決して「悪」ではありません。
しかし、確かに旧創造には属するでしょう。
第四は、普通キリスト者の到達するべき最高の高嶺、
とされているものです。
第三は十字架の深い働きであり、第四は十字架の更に深い働き、
であると言えるでしょう。
これらは禁欲による達成などとは全く無縁です。

先ず私に対してそれらの達成に関して強い願いが与えられ、そして
その真理について天からの①啓示、そして②信仰を通して、
「永遠の領域におけるキリストの十字架」の効力が、真に時空の中に
伝達される時、初めて私においてさえ③経験 となるはずです。

2009年5月22日金曜日

息子の葬事(4)

今回、
私の「直覚」の中に「息子の葬儀は家族だけでよい」と言うものが基本的に
あったように思われます。ですから、その基本にそって他の総てが無理なく
付随的に決定されて行ったのです。
かように、どんなことをする場合でも、先ずキリスト者の「直覚の中に
何があるのか」はとても大切なことではないでしょうか。

「葬儀」はいつ行われるべきか:
それは、やはり、ひつぎ(棺)を保管場所から火葬場へと搬送する直前の
ひと時がいろいろと都合がよいと思われます。
(むろん火葬後に、日を改めて行うことも可能でしょう)

次に考えるべき極めて大切なことは、
「いわゆる葬儀という集まり」に何が必要なのか、と言うことです。
私はそれを、イエスキリストとキリスト者達 と考えました。
即ち、それはそのような場合、どうしてもそこに必要なものは、唯二つの
もの「主イエスとキリスト者達だけ」であると言う意味です。

これ以外に一体何が必要なのでしょう。
もしもこの二つ以外に何かが必要であるとすれば、それは、
その場の雰囲気を盛り上げる為の何かでしょう。

しかし、生けるキリストとキリスト者にとって、その場のムードを掻き立てる
ための専門家とか、大道具、小道具など本当に必要なのでしょうか。
それとも、そのようなものがどうしても必要とされなければならない程、
キリスト者の中に生きるキリストイエスの存在は小さいものなのでしょうか。
そして、肝心かなめである私達の主キリスト御自身は、
そのような「者や物」を本当に必要と思われるのでしょうか。

そうです、
本当に必要なものは、生けるキリストの真の存在であり、
キリスト者達が「故人をしのぶ心」を背景とした、神への感謝と賛美だけ
でしょう。もしもそれさえあるならば、そこにはもう既に「葬儀に必要な総て」
が準備されているのです。しかし、
もしそれらが本当にないのであれば「真実なる何物」もそこには
存在していない、と言うことになるのではないでしょうか。

(余談ですが、このように考えると、葬事の集まりも「普段のキリスト者の
集まり」と、その本質的な意味では何も変わらないように思われます。)

*
と言うわけで、当日その時、そこにあったのは、
一切の装飾のない和室、息子の簡素なひつぎ、そして私達遺族4人
だけであったのです。式次第も事前の準備も何もありません。
キリスト者が顔を合わせる時、何がどう進んで行くべきかは、
その時になれば、「無理なく自然に」分ってしまうのです。
そうであってこそ「人の意志を尊重される聖霊」も、その場への介入が
可能となるのです。そうでなければ、人は本当に聖霊なる主を戸の外に
締め出してしまう、ことになりかねません。

そのようにして、あの時 そこには
祈りと賛美、ジュンをしのぶ交わりと少しの涙、そして上からの
「暖かいとさえ言えるほどの慰め」だけがあった、と言えましょう。
不思議に、誰の目にとっても、そこに存在したはずの
「唯一つの小道具」、「ひつぎの上の美しい花束」も
僅かの印象さえ残すことがなったのです。

今確かに言えること、それは
あのささやか極まりない「葬儀」におけるシーンの一こま一こま、
それを私は、一生決して忘れることはないであろう、と言うことです。


☆          ☆
注「私の直覚」:
この場合、それはいわゆる聖書の真理における「聖霊からの直覚」
と言う意味ではなく「人がその最も深い存在において、無理なく真実に
感じているもの」と言う限定された意味で使用しました。

*
多くの場合、当然、
キリスト者達が、やむなく関わらなければならない葬儀には
その出席者達の多様性に伴い、多くの難しい人間関係が付きまといます。
ですから、私の裁量に総てが任せられた今回の、
「とても小さな葬儀」と言うケースは一つの参考に過ぎないでしょう。

とにかく「一切が無理なく自然に行われる」のであるならば、それが
どんな葬儀であったとしても、よしとされるべきです。
何故なら葬儀がどう行われようと、キリスト者である故人の霊は神によって、
完全な守りの元にシッカリと護衛されているのですから。

2009年5月21日木曜日

息子の葬事(3)

今回の私の息子の場合、
彼の葬事の為の備えは、既にその死の数日前には、
神によって用意されていたように私には思われるのです。

先ずは
上からの促しによって、息子のために祈って下さるようにと言う
父親の求めに応じ、エクレシアの中に、広く、緊急で切実な
祈りが突然として起こされたのです。

ですから、彼の葬事は、そのエクレシアにおける祈りから
既に始まっていたのではないでしょうか。
間もなく(二日後or三日目)彼は、人の全く予期し得ない方法で、
アブラハムの懐に迎えられ、
そして次に、葬事は、それを聞いた「エクレシアの驚き」と、
次第に明らかになった様々な事実の証しを通し、大きな深い
神への感謝と賛美となって、進行して行ったのです。
今まだ続いている「余韻のような やさしい慰めの調べ」は
いつその終わりを迎えるのでしょうか。

以上のことこそ、
「息子のための葬事の実質と価値」であったのであり、
「家族4人だけによる、祈り、語り合い」と言う「いわゆる葬儀」は、
そのささやかな「一部分」に過ぎなかったのです。

*
「本当に大切で価値あること」は、
人間生活の中の、喜びと悲しみが織り成す普通の出来事の中でこそ、
粛々として行われ、現わされなければならないはずです。

いにしえの日、
その人間生活の、むしろ苦しみと悲しみのただ中に敢えて介入され、
その中でこそ、御自身の真の姿を現わそうとされたのが
「あの福音書のイエス」だったのではないでしょうか。
今日、見えざるそのイエスの出現そのものこそ、
「葬事」における「真の価値」に違いない、
と私は考えております。

三つのブログから

この教会はキリストの体、すべてのものをすべてものの中に
満たす方の充満である。(エペソ1章3節、22節、23節)

「充満」とは:
時間的要素は全く無く、諸々の存在がキリストを中心に
1つ1つ有機的に結合されて内容的に豊かな大宇宙を
形成していく様の表現。(岩波訳の注解より)

*
人間の指揮によってではなく、頭なるキリストの指揮によって
「群れる」のであるならば、それを神の言葉は
「すべてのものを、すべてのもののなかに満たす方の豊満」
であると言う。

頭としてのキリストが、
アリアリと(有り有りと)、エクレシアとしての体、即ち
「信仰に堅く立つ天的な群れ」を通して、ご自身を顕現なさり、
更に、ご自身を1人1人の召された者たちの中に
拡大し続けて行くのである。

目に見える事柄が解決されれば、確かにそれは良き事には
違いないが、地上的な事柄を越えて「天的な復活の領域の何ものか」
によって祝福され、人は初めてキリストを慕い続けることができる
のだと思う。

・・その事のために人の作る柵はいらない。
箱庭のような「教会」はいらない。必要なのは「地に散らばっている
霊の子どもたち、を治めているのは、頭なるキリスト御自身である」
という信仰だ。
もしそれがあるなら、聖霊は私たちを、いつも「豊かな牧草地」に
導いてくださるに違いないのだから。

☆              
やはり鍵は、「それら」とは一切関係ない
素朴な兄弟姉妹たちの交わりですね。
今「まことの頭」に直結する兄弟姉妹たちが起こされつつあることは
大いなる励ましです。単純・素朴・ただキリストのみ・・・。

☆              
キリストの「からだ」が受ける苦しみ、病、深刻な問題、逆境 
これら一つ一つは、神の民の中で、
「キリストが大きくされる」ためにこそ、備えられたものでしょう、
わたしたちは、恵みへと至る確かな道を獲得しているのですから。 

2009年5月20日水曜日

柄沢兄弟のこと

私達の愛する柄沢兄弟が今朝、8時20分、
人生の総ての労苦と大変な肉体の苦痛から解かれ
「主の更に濃い臨在」の中へと、
「完全な神の安息」の中へと、帰られました。

*
おととい、
いつもの午前の交わりのさい、
姉妹が「これから礼拝するからね」と言ったら、
兄弟は「アーメン、アーメン」と声を出されました。

昨日の朝は、兄弟、大きく両手を上げ、
その呼びかけに応えられたと言います。

そして昨晩。

以下は
姉妹からのメールです:

「お風呂に入るよー」と言ったら、
彼、「うん」と返事をしましたよ。そして、
大好きなお風呂を終え、ピカピカになり、
今寝息を立て、
とても安らかな顔をして眠っておられます。

冠婚葬祭について

当然ですが、
冠婚葬祭をどう扱うか、については、それが私とどの程度関係が
あるのか、どれ程、私の裁量に任せられているのか、が大きな
前提です。その状況がもしも私に100%委ねられているのであれば、
私は、神とそして人々の双方が出来るだけ満足出来るやり方で行いたい、
と思うでしょう。即ち、このようにすれば、人々に神の祝福が
伴うであろう、と言う理想的なやり方のイメージは確かにあるのです。

しかし実は一方で私は、冠婚葬祭などどうでもよい、と考えております。
何故なら一つに、現実問題においては、複雑雑多な多くの要素がそこに
からんで来るからです。慶弔の問題は実に生きている人間の問題です。
そして人々は、他と妥協できそうもない様々な
考え方をしっかりと持っているからです。

しかし、人生にどうしても妥協できない問題など、そんなに沢山は
ありません。「なくてならぬものは多くはない、いや、実はそれは
唯一つです。」ですから 取りあえず、それがその状況の中で
「無理なく自然に」行われるのであれば、それでよし、とするべきです。
慶弔のことは絶対こうでなければならない、等といくら息巻いて見た所で、
それは、現場に要らざる混乱を来たらすのみで、
大した意味も価値もない、と私は思っております。

仮に、今回ある事情の為、
我が息子の葬事が私の手から100%離れて「その道の専門家や宗教家」
に任せざるを得なかったとしましょう。その場合、私はどう思うの
でしょうか。多分、随分お金がかかっているらしい、そのケバケバした
葬儀をかたわらで見て私は、確かにある不快感は持つでしょう。しかし
「私の霊」は少しも動揺することはない筈です。なぜなら、その葬儀に
よって、肝心の息子のパラダイスにおける現実が1%の影響さえ
受けることは絶対にあり得ない、ことを私は確かに知っているからです。

肉体を離れた故人は完全に神の裁量の領域へと移されます。そこに
人間が僅かでも介入する余地は全くありません。この世とあの世の間
には大きな淵が横たわっているのであり、そこには神の主権のみが
存在するのです。神は少しも揺らぐことはあり得ないし、故人にも
何らの変化もありません。それらは全く不動です。(*1)

しかしその儀式によって、今生きている人々は影響を受けるでしょう。
そうです、葬儀とは「死人の為」を装った「今生きている人のためのもの」
です。繰り返しますが、儀式によって、既に神の中に移された故人が
影響を受けること等決してありえません。

また結婚の場合であれば、大切なのは、そのお二人がどうであるかです。
従って儀式などはどうでもよい事であり、自分達で自由に 
「祝福の集まり」でも行えばよいのではないでしょうか。

(*1)
もしも仮に故人が、生きている人の
①生活状態の立派さや、また
②故人のために出費するお金の額、
③専門家や俗人の念力や祈りのパワー等によって
少しでも影響されるのであれば、それこそ大変です。

生きている人はいろいろですし、出す金額も変われば、
祈りのテーマも様々な上に、その念力パワーの出力も
必ず変化するでしょう。

もしそうなれば「黄泉の国」は実に困ったことになります。
そこの住人達は常に右往左往、上がったり下がったりで、
毎日が「大いそがし」に違いないからです。

2009年5月19日火曜日

今日 山に向かいます!

いよいよ今日、山に向かいます。
ちょうど一月半ぶりです。今回の旅はひとしお
感慨深いものとなることでしょう。

しかし、途中 青い大海原や美しい阿武隈の山々を遠望し、
私は、ついうっかり息子の名を呼んではなりません。
どこから飛来するとも分からない、
何者かによる甘い不思議な誘惑には要注意です。要するに
私は息子と「直接」交流しようとしてはならないのです。
(そこにはある、危険な「メカニズム」が確実に存在します。
それについては、いずれ述べる機会もあるでしょう。)

しかし、間接的には可能です!
それは、「私はキリストとの交流を通して息子を持つ」
と言うことです。それは必ず「今日のキリスト」との交流
を介在させること によらなければならないのです。

「パウロであれ、ケパであれ、また世界であれ、命であれ、死であれ、
また、現在のものであれ、未来のものであれ、総てあなた方のもの
です。あなた方はキリストのものであり、キリストは神のものです。」
(コリント3の22、23)
ですから、とても確実な意味と実質において、
今息子は真に私のものです。

このように見るとき、当然
今生きている兄弟姉妹とは直接的な交流も可能なのですが、本当は
それとて、キリストとの交流を介入させるべきなのでしょう。
とにかく、キリストの介在しない交流は総て危険要素を含むのです。
それはいずれ必ず腐敗→死、を生み出します。それは「この世の霊」
(Ⅰコリント2の12、エペソ2の2)の働きによるのです。

今日は快晴。私の旅も
きっと健康で爽やかなものとなることでしょう。

下山は6/5あたりになると思います。

2009年5月18日月曜日

息子の葬事(2)

実際的、具体的にお話して見ましょう。

(1)病院から遺体が家族に渡されるまで、
「その現場」から、病院に運ばれた息子・・
それまでも懸命に行われた心臓マッサージは、その後も
そうとう時間 続くことになりました。これはおおむね遺族の心情を配慮
してのことなのでしょう。(救急救命士の皆さん、長時間本当に有難う
ございました。)そして遂に、正式の死亡時間が確認されると、

医師やその他の方々がその部屋から全員退出され、病院は
息子のなきがらと私達だけをその部屋に残してくれる、
という心配りを示してくれました。

そして、私達の気のすむ迄と言う時間の後、
看護士さん達は、遺体を別室に運び、その処置をして下さいます。
その処置の後、白い浴衣をキレイに着せてもらった息子の遺体は
病院の安置室に運ばれます。
この段階は即ち、病院から私達が「遺体をこの安置室で受け取った」
と言うことを意味しているのです。これで
病院としての責務は総て完了したのです。

(2)葬儀屋さんへの依頼
従ってこの時点から、葬儀屋さんに私が依頼したことを、彼らが
実行してくれる、と言う段階に入るのです。
それでは、私は葬儀屋さんに何を依頼したか、それは・・

①病院から葬儀屋への遺体の搬送、
②公共の火葬場で火葬が可能となるまでの、多分一両日の間、
保管場所(葬儀社の一室)での遺体の適切な(防腐等)保護、保管。
③その日になり、火葬場への遺体の搬送です。

要するに私は、葬儀屋さんに対して
保管と搬送と言う、この二点のみを依頼したことになります。

(3)ダビに付す
その日になり、火葬場に着くと、遺体は葬儀屋さんの手から離れ、
公営の火葬場で働く「お役人」の手に渡されます。
最後に彼らから、遺骨が私の手に渡され、一切が終了するのです。

*
日本においては埋葬の前にダビに付すのが通常です。
ですから以上の行程が、遺体をどうすればよいかと言う、その
「ハード面」の総てである、と言ってもよいでしょう。
一つハッキリ分かった事として「ハード面」だけを見る限り、
葬事と言えども、それはそんなに難しくも複雑なものでもない、
ということが言えるのではないでしょうか。

☆
実際的には、少なくも
(2)の①までは、特に私が彼らに どうこう言わなくとも
(病院と葬儀屋の手によって)事は機械的に運んで行きます。

今回の場合、遺体が葬儀社に運ばれ安置された段階で
業者との最初の交渉が行われたのです。

2009年5月17日日曜日

「生」から「卓越した生」へ

葬事とは埋葬することです。ですから、
人の体が死を迎えたら、なるべく早くそれを地下に
埋葬するべきです。それが葬事の本質です。

さて、実は
人が死ぬことは神の御心の中心です。人にとって死は欠くことの
出来ない重要事項である、人は必ず死なねばならない、
それが神の御心です。

しかし神の御心は、それに留まりません。神は人をして
更にその「死の深い認識」に至って欲しいのです。

従って、ある人の死の事を聞いて知るだけでなく、通常人々は
その人の埋葬に立会います。それによって、言わば「死の上塗り」
を目撃しなければならないのです。今あの人は死んだ、彼はもう
この世に戻ることはあり得ない、墓にさえ入ってしまったのだから、
と深く印象づけられるのです。それこそ葬事・埋葬の意義です。

*
実はキリスト者のバプテスマとはその埋葬を意味します。
信じることによって、神の命を受けたキリスト者は、
自分が既にキリストと共に死んでしまった、と言う認識の後、
更に死の水の中へと自分を埋葬させることをもって初めて、
クリスチャン生活のスタート地点に至るのです。
それがなければ、キリスト者の生活(命ではなく)は
根本的に存在し得ない、と言ってもよいでしょう。

何故なら人は、徹底的な死に至って初めて、
次なる復活があり得るからです。埋葬されること、
即ち絶対に生き返る余地を残さない墓に入ってこそ、
人は初めて復活と復活の生活に至ることが出来るのです。

人は、
アダムから受け継いだ「通常の生、天然の生」を伴ったまま
必ず死の中へと入って行かねばなりません。それによって、
その古き天然の生を完全に終結させ、その上に
埋葬によってその事実を確認した後、
初めて「卓越した生による生活」の中へと入るのです。

その「極めて卓越した、完全に新しい生」、
それこそが、キリストの復活から生ずる
あの永遠の命に他なりません。

父の死

*メール、有難う*

2年前に父が亡くなった時、私が大声で泣いたのは、
その体が、家から火葬場へ運ばれる瞬間だけでした。
しかしその後家中に、深い安息が満ち、
穏やかな雰囲気と変わって行ったことを今思い出します。

生前父が戦っていた長く大変な病の終結と、そして何と、
父のキリストへの不信が死の直前に至り、初めて逆転されたことが、
これほど大きな安息に繋がるとは思いもしませんでした。

死の間際に、やっとキリストを受け入れたのですから、父は
(上からの、力の)聖霊も受けておらず、復活の味わいも
知らないままでこの世を去りましたが、父親っ子だった私が、
人として薄情なのではないかと思われるほど
「悲しみ」に浸ることがなかったのです。
むしろ、父を思い出すとき今も、キリストによって
「隔ての壁」を取除かれた安息が心を満たすのです。

我が子の死は、親の死とは比べることもできないほどに
深い痛みに違いありません。それでも愛する者の死さえ、
キリストの中では安息である、とは何という事実でしょう。

「死は勝利に飲み込まれた」・・・
ほんとうにそうなのですね。

2009年5月16日土曜日

息子の葬事(1)

遺族は肉親の死をただ悲しんでいればよい、と言うわけには行きません。
その死に関わる様々な状況に私達は迅速に、そして極めて具体的に応じて
行く必要があるのです。それはとても過酷ですが、私達は自分の明確な
意志に基づき、シッカリとそこを通過して行かなければなりません。

具体的に言うと、
①誰に知らせ、誰に来てもらうのか、
②遺体に関して葬儀屋さんに何をどう頼むのか、
③葬事をどうするのか、等です。
こう言うと簡単そうに聞こえますが、実際は以上の三点は非常に複雑で、
かなり厄介な問題を含んでいるのです。

*
ここで最も大切なのはあなたの意志です。これら全般をどういうふうに
行って行くべきか、についての私の意志です。
それでは「私のその意志」は一体どこにあるのでしょう。

それは、私の心の中にあります。それは、
「今この事態の中で、今の我が家にふさわしい、穏当で、無理の無い、
自然な形はどうであるべきか」について、私の最も深いところに存在する
「本当の私」がどう感じているのか、と言う「私の真の態度」です。

それは、私やあなたの最も深い「直覚」(今は「聖霊からの直覚」と
限定しません)と言ってもよいものでしょう。即ち、直覚と言うからには、
あなたはどうすればよいのか、についてあなたはもう既に知っている、
と言うことです。即ち、考えるまでもなく、どうするならば真の私は
平安を感じるのか、それをあなたは、少なくも
「あるイメージとしては」深い心の中に既に持っているのです。
それこそ、あなた自身の真実な声です。

次に、あなたは上の3点について「その真にあなたがよしとすること」
に基づいて一点一点、アーメンを言いながら、その詳細を紙にでも
書いて見るとよいでしょう。それらが上の三点に関する、あなたの意志
ということになります。ですから、あとは、あなたはそれに基づいて
シッカリ実行して行けばよいのです。

*
しかし実際問題、事はそんなにヤスヤスとは行きません。
何故なら、人の死にまつわるこのような事態に関しては世の中の、
特に葬儀屋さん等の主張する常識、やりかた、通念等が、
その背後に存在する強力な力を伴って、
「あなたの直覚」にジワリと対抗して来るからです。

しかし、もし私が、私の真の声をどこかに押しやり「いわゆる常識」に
何となく屈するとするならば、それはあとあとまでも残る不快感として、
私を苦しめることになりかねないのです。

これは我が息子に関わる、私の人生の大事な一こまです。
それなのに私は人の言いなりになって、自分を放棄することなど、
決してあってはならないはずです。

2009年5月15日金曜日

妻のある文書から

・・当然のことながら
その日、私達 家族の受けたショックと動揺は極めて大きなものでした。
一晩中、泣き明かすばかりであった、ジュンと同じ病を抱える
長男ケンの体調が大いに気遣われたのです。・・・

さて
葬儀の日、葬儀所の和室に遺体を安置してもらい、遺された私達四人は、
神に祈った後(私達は実はクリスチャンなのです)それぞれが、
ジュンについて思うことを率直に語り合うことが出来ました。

実は一年前、私の母が他界した際、牧師さんが聖書から、
「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。・・・しかり、彼らはその
労苦から解き放されて休むことが出来る。」と言う言葉を読まれたのですが、
その時の母の顔を見て私は正にその聖書で言う安息を感じたのです。
そして、今回ジュンの時も本当に
「ああ、ジュンは今ようやく苦しみから解きはなされたのだ」と言う実感が
あり、私は大きな安らぎと慰めを得たのです。

その和室での時間は短いものでしたが、それは正直で、飾り気のない、
何か慰めに満ちた、とてもよい時間となりました。
それでそのあと、私達は元気を取り戻し、火葬場へと向かったのでした。

さてその日一切を終えたあと、私の心が「あるところ」に収まって行くのを
感じました。そしてそれを境に、日一日と私の心が軽くなって行くのを
覚えたのです。そしてそれまでは決して見えなかったものが、
次第に見えて来るようになって来たのです。

とても不思議なのは、ジュンのことを思い出だすとき、心に浮かんで来る
のは決まって、とても爽やかで安心し切っているジュンです。何と
それは家族全員が共通に感じているジュンについての
思いでもあったのです。

彼の生前の苦しみは、それはそれは大変なものでした。
ですから今私が正直感じるのは、よくもあの体(様々な弱さを持っていた)
そしてあの病を抱え、35年も生きてくれた、と言う思いなのです。
また、私達家族も彼と一緒に、決して晴れることの無い大変な
苦しみの中に日々いたのだ、とも思わされました。

*
聖書に「主が与え、主が取られるのだ、主の御名は褒むべきかな」
と言う言葉があります。人生には、私達には理解出来ないことが
山ほどありますが、神にとっては、総て一切がつじつまが合うように
なって行くのだなあ、と今つくずく思わざるを得ないのです。

生前、皆様から与えられたジュンへの沢山の愛と慈しみ、そして
ジュンがこれまで頂いてきた暖かい交流を思うとき、
私はただただ感謝するばかりであります。

皆様の上に、神の祝福が豊かにありますようにと
心からお祈り致します。
本当に有難うございました。

生者は死者の為に何が出来るか

タイトルへの解答はとても単純です。
それは「一切何も出来ない」です。

しかし、
もとよりキリスト者は自分の為、のみならず、他の総ての人の
「永遠の福祉」の為に生きるべきです。

所がそれが可能であるのはこの時空内に限られます。
具体的に言うと、私が「ジュンの永遠の福祉」の為に尽力できるのは
ジュンがその肉体に留まっている時間帯のみであったのです。

彼の霊魂が彼の体を去った瞬間、私がジュンの福祉の為にする
一切は完全に終結しなければなりません。これは厳粛な一つの
ルールです。即ち、その死の瞬間、ジュンの存在と彼のための福祉は、
完全に神の手の中に移された、のであり、最早そこには、
私が決して犯してはならない神の主権が存在するのです。

ですから 今時空に留まっている私が、あの世のジュンの
幸福の為に何かをしようとするのは、その神の主権を犯すことになり、
それははなはだ危険な思いと行為になります。

ご存知のように、カトリックや多くの宗教には、生きている人が死者に
影響を与えようとする様々な企てがあります。その思想の源は人の
生まれながら持っている底知れない宗教的な血の中に存在するものです。
それはまた生者が持つ、死者に対する深い自責の念等から、容易に生じて
来るものに違いありません。しかしそれは正に「人の事を思う思い」であり、
決して「神の事を思う思い」ではありません。(マタイ16の23)

のみならずここで、そのような思想は、聖書の真理とは真っ向対立する
何ものかである、とさえ言わなければなりません。人がもしも真剣に
そのような行為に手を染めようとするならば、必ず「聖霊ならぬ他の霊」の
深い影響をこうむることは避けられないでしょう。

聖書によれば、
ジュンは「死んで御使い達によってアブラハムの懐に
連れて行かれた」(ルカ16の22)
のであり、そこで彼の為に、神によって準備され、行われている
福祉は、肉体に留まるよりも「遥かにまさっているのです。」
(ピリピ1の23)
これはイエスとパウロの口から発せられた神の聖なる言葉です。もしも
「イエスやパウロが人を慰めるために、いい加減なことを言ったのでない」
とするならば、ジュンは今、地上に留まっている私などよりも、
遥かに心地よい環境におかれているのです。
それこそ、神からの確かな情報であり、真理です。

しかしながら、一体どこから私の思いへと飛来して来るのでしょう、
「今ジュンはとても気の毒な状況にあるに違いない」等とする、
何の根拠もない感覚に私は決して振り回されてはならないはずです。
ですから、私は今日も、力ある神の真理をして、
人の妄想にしっかりと対抗して頂かなければならないのです。

2009年5月14日木曜日

お祈り下さい

*ある方へのメールより*
今、柄沢家、渡辺家に電話しました。
今目に見える状況には 
とてもきびしいものがあります。
衰弱も進んでいるようです。

私の今の感じはこうです:
それは、ジュンの時と全く同じで、
登兄弟は今確かに
神の手とエクレシアの祈りの手の中に保護されている、
と言うものです。
そんな安心出来る場所が他にあり得るでしょうか。

神の御業が現されますように。
ただ主にのみ栄光があるように。

2009年5月13日水曜日

あるメールから

ジュンさんに起きたことは、私達二人は
「間違いなく主がされたこと」と感じています。
そのことを通し、主は本当に私たちの思いを超えたお方である、
と聖書のみことばを確認した思いです。 

これからも、神からのレーマの言葉を、畏れつつ受け取っていきたい、
と思っています。受けた言葉は、絶えず主からのものか、自分の
思いなのかを吟味しながら。

今私たちは、カナンを目指す為に集められているのである、
と感じています。
「立ち止まらずに進め」というような言葉を何度か受けています。
カナンへの道は決して楽なものではないでしょう。
でも、主が先頭に立たれていて、私たちを導き守って下さる!と信じ、
そして確信を持って前進して行きたいと思います。
でも決して頑張らず、いつもの通りに、ですよね。

主は、「私たちが喜んでいること」を喜んで下さると思います。
私たちが喜んでいるとき、主を知らない人達へさえ、
主が伝わって行くのだ、と思います、単に言葉だけによらずに。

これからも、主からたくさんの愛をいただいて、
ご近所の方や、友達ともつき合って行きたい、と思っています。

*
柄沢登兄弟のこと、本当に主が支えておられると思います。
トイレに一人で行ったとありましたが、きっと、一人でトイレに
行きたい、と思う登兄弟の願いを主が聞いてくださり、
主が支えて下さったのだ、と感じました。 
主のされることは私たちの理解を超えたものであり、
主は制限のないお方であると、登兄弟のことを見ても分かりました。

ですから、これからも登兄弟のために祈り続けます。
登兄弟はまだこの地上で、これからするべきことがあるのでは、
と感じています。主が私たちの祈りに答えてくださると信じます。
ですから、「制限をしない祈り」を主にしていきたいと思います。
これから、たくさんの祈りが立ち上り、主が動かれることを期待します。

2009年5月11日月曜日

今、登兄弟に何が起こっているのでしょう

このゴールデンウイークの期間中、
兄弟は極めて苦しい中を通られました。
それは黄疸の悪化による、繰り返すひどい吐き気と背中の激痛でした。
余りの苦しさに、兄弟は嘔吐の中、次のように祈られたと言うのです。
「主よ、苦しいです、限界です、もう耐えられません」と。
それを目の前にする姉妹達も、彼の為に最早どう祈ったらよいか、
ただ立ち尽くすばかりであったのです。

ところが、
この9日(土曜日)の朝、ある変化が起こりました。
朝、部屋に入って行った姉妹は、兄弟を見てあることに気付きました。
それは「あ、今日の登さんは話が出来そう」と言うことでした。
しかし、
それまで、言うべきかかどうかと思いあぐねていた姉妹は、
とうとうあることを彼に切り出したのです。
「登さん、今はもう無理をしないで。もし、登さんが
行きたいと言うなら、病院へ行ってもいいんだよ」と。これは、
状況はそれ程であった、と言うことなのでしょう。

しかしその時です。何と登さんは、目をしっかりと見開き、
姉妹を真っ直ぐに見て言ったと言うのです。
「大丈夫、大丈夫です!」と。

そして昨日、日曜日、
相変わらず、吐き気は止まりません。
良子さんが背中をさすりながら登さんに言いました
「もうこうなったら、賛美しかないね」と。
そして、良子さんは一人で賛美を歌い始めたのです。
そのあと、しかし良子さんがビックリすることが起こりました。
何と登さんも吐きながら、良子さんに合わせて、
賛美の唱和を始めたのです。

そして次にある不思議なことが。
水分を吐いた際、登さんは突然言ったのです。
「あ、今吐いたの、オレじゃなかった。つるっと出たんだ、
苦しくも何ともない、ツルッと出たんだ」と。

もう一つ。
それまで、登さんをトイレに連れて行くのは
大変な作業であったのです。
普通なら一動作、布団の上に起き上がるのでさえ大苦労です。
一回トイレに行くのにその他、沢山の大変な作業の手順が要るのです。

所が、
そのあと、姉妹達を驚かせる事態が発生しました。
いつの間にか、
何と登さんが一人でトイレを済ませていたのです。
一体今、登さんに何が起こっているのでしょう。

そして今日、
彼はとても穏やかであり、体調も改善され、祈り、賛美し、
主にアーメンを唱えておられると言うのです。

真理はあなたを自由にする

*ある質問に答えて*

私の場合であれば、
①息子の死に関して、邪悪な者から射こまれる諸感覚(虚構) 
対  
それに対抗する神の真理、
と言う構図を先ず知ること。

②霊を用いて「祈ること」と「宣告すること」(注1)
と言う二つの手段によって、
真理をして、その虚構に対抗してもらうようにするのです。
即ち、働くのは私でなく真理です。
力はあくまで、私からではなく「真理、即ち神のことば」から
来なければなりません。

・祈りの場合:自分の霊を、まっすぐ神にのみ向けて、
神に対し、敵への「仕返し」を求め、要求する。(注2)

・宣告(証しのことば)の場合:「私の霊」を強く用いて
「その虚構(敵が築く、虚偽と言う山)やウソの諸感覚の実体者」
に鋭く真理を「射こむのです」。この場合これは
「私からの、邪霊に対する直接的な攻撃」(悪魔に対する抵抗)に
なりますので、必ずキリスト血の覆いが必要です。
この戦いは実に大変です。

さて、私達の意志力はどうしても必要ですが、
しかし、その意味は
私の意志の力を敵にぶつけると言う意味ではありません。
私達の意志の力で敵と戦うのではありません。
そうではなく、
私が自分の意志を用いて、先ずは①「真理と異なる総ての諸感覚」を退け、
②明確に神の真理を取り、真理の側に立ち、 
神の真理が虚構に対して力を発揮出来るようにする、
ということに過ぎません。
私が自分の力を用いるのであるならば、私は必ず敗れるでしょう。

*
あなたの場合は、このたび、
レーマのことば(あなたの霊への聖霊の直接的な語りかけ)
「自分をおさめなさい」があった、と言うことです。
もしそうであるならば、あなたが受けたそのことばは、
聖書のことばと全く等しい権威と力がある筈です!
あなたは先ず、それを信じなければなりません。
それはサタンにさえ効力があるのです。何故ならそれも
「神の真理」であるからです!

(真理とは単なる事実以上のものです。
真理というとき、それは先ずサタンのウソを意識しています。
そして真理は虚偽に対抗し、虚偽を打ち負かすと言う必然的な
機能と力を含んでいます。
真理はそのためにも私達に与えられているのです。)

次に、ですから、
聖書のことばと同様に、その与えられたことばの持つ力と権威を
敵や「あなたの戦いの現場」に対して使用しなければなりません。
「敵よ、これは神のことばである」と。

*
もし、あなたがそうするならば、
確かに「真理はあなたを自由にします」。
即ち、神の真理の言葉には本来充分な力があるのであり、
あなたを「諸霊の縛り、ウソによる拘束」から
容易に自由にする事が出来ます。

もしも、自由と言うものを実際的、具体的に定義するならば、
自由とは、
「諸霊の縛りから解放され、聖霊の保護の元にあること」
に他なりません。そこにこそ「実際的な」自由があるのです。

☆   ☆
(注1)
これが「証のことば」です。(黙12の11)

(注2)
ルカ18章、力のない「寄るべなきやもめ」(私達)の話:
「私の相手を裁いて、私を守って下さい」の別訳は
「私を訴える者に仕返しして下さい」です。

「私を訴える者」とは、キリスト者に攻撃を加え、
「あなたの方に非がある、あなたこそが悪い、そして更に
あなたの状況は暗く、もう救いようがない、と
執拗につきまとう「あのウソつき」のことです。

これは正に法的な戦いです。
その際先ず、あなたに「私は私の為の裁判官や弁護士」の
側に明確に立つのだ!と言う意志がなければなりません。
そうでなく、あなたが何とはなしに受身的な態度であるならば、
ウソの方が必ず勝ちます。
それは、この世の法廷においては時に、ウソや金が
勝利するのと全く同様です。あなたには先ず、ぜひとも
「私はこれから法廷闘争をするのだ」と言う
明確な覚悟や意志が必要なのです。

私達の真の裁判官は
ルカ18章とは違い、愛のある全能の神ですから、
あなたは「見えないやくざ」の空しいオドシの「実感」に恐れることなく、
先ずは「あの裁判官・神」に日夜しつこくつきまとい、
あの嘘つきのことを日々刻々訴えるべきです。
「神よ、彼に仕返しして下さい!」と。
それが、私達の祈りに他なりません。そうするならば、神は
あなたの状況に現れ、力を出される事でしょう。

2009年5月9日土曜日

自責の念 対 キリストの血(1)

*真理は悲しみに打ち勝つ5*

ここに神のことば・即ち「真理」があります。
「もし、私達が自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、
その罪を赦し、総ての悪から私達をきよめて下さいます。」
(Ⅰヨハネ1の9)

さて、ここに述べられている罪のきよめの為の条件は何でしょうか。
それは唯一「自分の罪を言い表すならば」です。
誰に対して、でしょうか。それは明確に神に対してです。
これが真理です。

しかしもしも、子供がまだ死んでおらず、あなたの目の前にいるのであれば、
直接一言「ごめんね」と言えばよいでしょう。何も長々と、小説の描写
のように述べ立てる必要はありません。彼もそれが何であるのか、すぐに
分かるでしょう。だから、一言「あの事、ごめんなさい」と
言えばそれでよいのです。

*
しかし彼がこの世にいない場合はどうでしょう。
その場合あなたは、あの世にいる彼に向かって決して謝ってはなりません。
その理由については後で述べることになるでしょう。

もしもあなたがそうするならば、霊的にあなたは大きな失敗を
することになります。あなたがパラダイスにいる息子に涙の中で罪の
告白をする時、あなたはある種の心地よさと甘さを感じるかも知れません。
しかしながら、あなたはそれを決して行ってはなりません。

もしもそれをするならば、真理はあなたの味方になることはないでしょう。
従ってそれ以後、真理が、あなたに降りかかる敵からの多くの邪悪な
諸感覚を退けることが困難になるかも知れません。
それはとても重大な問題です。

「何が真理であり、何が真理でないのか」そのしゅん別は極めて大切です。
あなたは明確に真理の側にシッカリと立つ必要があるのです。
あなたは「唯、神に向かって」あなたの罪を言い表すべきです。
それが真理です。

*
あなたが、そうするならば、その結果はどうでしょう。それは
「神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、総ての悪から
あなたをきよめて下さるのです。」

その神の赦しの根拠は、神の太っ腹ではなく、唯一キリストの血です。
あなたの多くのとても重い罪のための弁償代金・キリストの血は、
もう既に充分な額として支払われました。その支払いの相手は
「神の義の要求」です。あなたの罪がいくら重く、高いとしても、
神の子、キリストの血の値は無限です。ですから、あなたの罪の為の
弁償代金としては、それは際限が無いほどの「有り余る金額」なのです。
それは必要額を遥かに超えるのです。従って神の義の要求は既に
完全過ぎるほどに満たされているのです。

キリストの血の代価によって満足されたのは先ず神です。ですから、
神には全く問題はありません。ですから、あなたはただその「神の御血に
対する評価」を受け入れればよいのです。即ち、神のことばを信じ
受け入れること、これがただ一つの条件です。

2009年5月8日金曜日

真理は悲しみに打ち勝つ4

自死によって
我が子を失った親の悲しみには極めて深いものがあります。
多くの親が、自分も死んで我が子に会いたいと思う心理には
相当 共鳴出来るものがあるのです。
私の経験から、その親の心理は三つの範疇に分けられると思います。

①自責の念、即ち自分に罪があると言う心理です。
②「子供が余りにかわいそうだ」と深く思う思いです。
親はこの二つの思いに日夜さいなまれる、と言っても
決して過言ではないでしょう。
そして、最も難しいのは
③深い喪失感から来る
・子供と「一目会って謝りたい、そして交流したい」です。
その切実さの故に、それらは時に
・子供の名を呼ぶ、子供に願い事をする、そして死者を礼拝をする、
に容易に変容する可能性があると思われます。

ここで触れておきたいのは、
これら三つの辛く苦しい思いには、ある奇妙な心理が伴う事です。
それは、その深く暗い穴の中に引き込まれて行く時、そこにはある種の
かすかな薄明かりの中の「快感や甘さ」の様なものが存在することです。
それは確かに「むしろこのまま私は、死んだ子供の所に、どこまでも
どこまでも引き寄せられて行きたい」と言う心理に通じるものがあるのです。
それは親をして、その穴の中にいつまででも留まらせておくのに、
充分な効果があると思われます。

それでは、その正体は一体何なのでしょうか。
それは、明らかに「ある種の奥深い暗い誘惑」に違いありません。
従ってそのような親を真に慰め、そこから引き離すのはとても
難しい事と言わなければなりません。
そうです、それはとても難しい事なのです。
従って私には、この種の問題の解決にはどうしても「霊的な分野」の中へ
一歩踏み込まざるを得ない、と思われるのです。

*
それでは以上のような「この世の最大の苦しみ」に
解決は無いのでしょうか。あります!
何故なら、
私達の主イエスキリストは「その死の苦しみ」の真っ只中に
敢えて入って行かれ、その死の根本的な力を内側から
完全に爆破し粉砕し尽くしたお方であるからです。

そして今私達の手の中には、そのイエスキリストのことば、
死をも打ち砕く力を内に秘めた「神の真理」があるからです。
そうです、私達には神の真理があるのです。
確かに、真理は悲しみに打ち勝つのです。

二つの意志の対峙と人の意志

*真理は悲しみに打ち勝つ3*

世界(時空、特に地上)には明確に二つの意志が働いています。
一つは神の意志であり、他は神の敵の意志です。

神の意志はただ聖霊によって人に伝達されます。更に言えば
聖霊の意志は、聖書の真理と人の環境を介して、先ずはただ
人の霊にだけ伝達されるのです。方や、神の敵の意志は人の
環境を介して、人の霊以外の総ての器官(魂と体の)に伝達される、
と言ってもよいでしょう。

従って神の敵が人を偽る領域は、神が人に真理を伝達する領域に比べる
ならば、相当広いと言えるのです。その状況の故、私達はひたすら、
「聖霊と人の霊」に注意を集中しなければならないのです。

神が人の思いや感情、ましてや体に、直接御心を伝えることは決してあり得
ません。もしも思いや感情そして体に、ある「霊的、超自然的な」興奮を
覚えるとするならば、それらの興奮の起源は聖霊ではない別の霊から
であると知るべきです。キリスト教社会においてこの類の誤解と実行は
今日広く行き渡っており、その度合いは今後必ず増大し続けること
でしょう。この点については今後多くの言及が必要であると思われます。

次に、神の意志は真理で構成されている、に対して、
今日年を経たヘビ(偽る者の意)の意志は、極みに至るまでに巧みな
虚偽で構成されています。実に彼が本音を語るとき、それはそのまま
ウソとなるのです。イエスも言われました。「悪魔(誘惑する者の意)は
初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼の内には真理は無い
からです。彼が偽りを言う時には、自分の持っているものから語るのです。」
(原文、ヨハネ8の44)彼にはただの一個の真理さえありません。

どうか覚えて下さい、神の真理と矛盾するサタンの構築したもの、
の一切、私達の眼前に展開されている、実にリアル感覚に溢れた情景は
総て完全に100%虚偽のみで構成されているのです!

*
さて、以上の二つの意志の中間に人の意志があります。ここで仮に
神の意志は既に発動したとします。そうする時、直ちに、
第三の独立した意志、即ち私達人の意志は立ち上がり、
神の意志を断固選択しなければなりません。

さて、ここで強調されねばならないことは、人の意志の発動に際して、
「神は手出しが出来ない」という事です。何故なら、神は人に自由意志を
既に与えてしまったからです。これは実に大きなポイントです。
神は、エバがあの二本の木の間で迷い、そして遂に「自分の意志で」・・

( と言うよりは、エバはその時、怠惰な優柔不断の中で、
ある感覚の誘導に応じて、言わばウス笑いを浮かべながら、いい加減に
彼女の身をその場の雰囲気に委ねた、と言うのが実情だったでしょう。
にもかかわらず、それでも彼女はその時「極めて重大な運命」を選び取る
と言う決定的な誤りを犯してしまった、と言わざるを得ないのです。
余談ですが、総ての発端は、エバが誘惑者の問いかけに応じて、つい
うっかり、ある反応を示してしまったことでした。そこに、神のことば
即ち真理に対する彼女の認識の軽さが現れ出た、と言えましょう。)

・・エバが「自分の意志で」
知識の木の実を取ろうとして行動を起こした時でさえ、神はエバの
為に天使を送って、彼女を阻止しようとはなさらなかったのです。
何故なら既に神は、真理の伝達によって御自身の意志を人に明確に
語り済みであったからです。実に人は神の意志を退ける主権をさえ、
神によって与えられている、と言えるのです。神がその時点で
人を助けることはあり得ません。従って正に人の意志こそ、
その人の総てを握っている、と言えるのです。

所が、創世記でエバの前で働く悪魔であるヘビの姿を見る時、彼は充分な
手出しが出来るように見えます。何故なら敵は、エバの持つ広範囲な
感覚器官の総てに対して、時間をかけ「ねんごろに」誘惑の手を伸ばす
ことが出来たからです。(彼女の思い、感情、美的感覚、食欲等に、
即ち人の体と魂の知覚総てに。)

*
次にその二つの意志の意図とは何でしょうか。それは、
先ず神の意図は、人の中に永遠の命と真理を入れ込むことによって、
神と人との一つを実現すること(一の原則)であり、敵の意図は、
神の命から人を隔絶し(それが死の機能です)ウソと言う毒を人に
注入することによって、世界に「二の原則」即ち「対立の原則」を
創設することだったのです。それ故、今日この世界に
一の現象はとても少なく、一方、対立の現象は、
この地上の至る所に満ち満ちているのです。

2009年5月7日木曜日

真理は悲しみに打ち勝つ2

*Ⅲ、Ⅳのアウトライン*

Ⅲ神の真理と矛盾する諸感覚
1.愛する者の死による絶望的喪失感。
2.彼の死の責任の一端は明らかに私にある、とする自責の念。
 あの時どうしてこうしてやらなかったのだろうとする後悔と責め苦。
3.故人は今 非常にかわいそうな境遇にあるに違いない、だから
 何とかしてあげないと、と言う思い。
4.故人に一目会いたいとする切なる心、せめて故人との交信を願い、
 故人に思いを集中し、故人の名を呼ぶ、故人に罪の赦しを請う、
 遂には故人を礼拝をする願いを持つ。

Ⅳ神の真理によって諸感覚に対抗する。
1.神の真理と矛盾する総ての感覚は一切敵からである、ことを知る。
2.神の真理の特質
3.諸感覚の特質  
4.受身的な態度を一切排除し、神から人に与えられた意志を行使し、
  神の真理を自分の意志として立ち上がる。        
5.神の真理をして、実際的に虚偽の感覚に対抗させ、聖霊の力によって
  諸感覚を徐々に死に追いやる。

2009年5月6日水曜日

真理は悲しみに打ち勝つ1

Ⅰ.今「愛する者」が救いに入れられていると言う真理の確認
1.
ロゴス(恒常的神のことば)による確認。
彼は、主の名を呼び、バプテスマをした。
「主の名を呼ぶものは皆 救われる」(使徒2の21)
「信じてバプテスマを受ける者は救われます」(マルコ16の16)

2.
レーマ(即時的神のことば)による確認、言わば「状況証拠」。
これは御言葉や様々な状況の中で「彼は大丈夫だよ」と言う
「私の霊」に対する聖霊の静かで一貫した語りかけです。
この語りかけは数多くあり、しかも日を追ってそれは深くなり、
その静けさも増し加わっているようです。以下はその中の数例です。

①その死は人の力によってはどうしても避け得なかったこと、即ち、
彼を地上から取り去ったのは神であった、と知らされたことです。
神が「永遠に救われているキリスト者」を敢えて肉体の死に
至らせる場合はあり得ます。(Ⅰコリント4の9、Ⅰコリント11の
27~30)しかし、このたびのケースはそれらⅠコリントの例とは
更に別の意味を持つと思われます。

②死の直後の遺体の状態。
③彼の死後、間もなく家庭を訪れた平和と安らぎ。(人と神、人と人との)

④エクレシアにおける、キリスト者間の繋がりの中の呼応、共鳴において。
・その死の2、3日前、息子の為に聖徒達が祈った後に彼らを
訪れた予知的感覚において。
・兄弟姉妹の納得と賛美において。
・「この死は永遠において知られ、神によって注意深く準備された
ものであった」と言う私の文章を読んだ一姉妹の内側から、
直ちに湧き出た復活の認識と大きな賛美において。

⑤ルカ16章の貧乏人ラザロは我が息子であったことを
知らされたことにおいて。

Ⅱ.今現在、彼はどうしているか、に関する真理。
1.
その霊魂は完全な安息(眠り)の中にある。
・アブラハムの懐にいる(ルカ16の20~23)即ち
・キリストと共にパラダイスにいる。(ルカ23の43)

2.
再び体が与えられる次の時代においては、先ずはキリストの
ジャッジを受け、ある任務や「学習」に入って行くために、今は
待機の状態にあります。キリスト者が体を持たない期間は、ただ
この時期に限定されるのであり、それは例外的な時期です。
霊魂のほか、体を有して初めて人は「完全に人」であり、その時
キリスト者もその任務の遂行や学習が可能となります。

(ただパラダイスにおいて体のない霊魂が活動している例が僅かに
見られます。黙示録6の9~11。これはしかし、大艱難直前だけ
のことであり、それも「一部の勝利を得た聖徒の霊魂に限る」と
私的には考えております。これ以外にもう一つ、サムエルの例があると
言えるかも知れません。)

従って原則的に言って、パラダイスにいるキリスト者の「仕事」はただ
安息です。故に、そこは安息と待機の為の場所なのですから、神はそこを
その目的の為に明確に確保、守護している筈です。安息場や保養の
場所とはそういう所であるはずです。従ってそこにいる人の霊魂が神や
聖霊のようになって、地上に舞い戻ったり地上の人間と交信することなど、
絶対にあり得ません。これは、時にキリスト者の間でさえあり得そうな
発想ではありますが、断じて「真理」ではありません。

(しかし、人の血から湧き出てくる宗教にはことごとく
その思想があります。これにはよくよく注意しなければなりません。
尚このことには後ほど更に触れたいと思います。)

彼はある意味でそこで「眠り」についているのです。眠っている人に
対してはやはり一定の私達の態度と言うものがあるでしょう。
それはこの上ない平安と安息の場所に違いないのであり、私達が
憶測でいろいろと彼のことを心配するなど正に余計なことです。

*
聖書によると、
この場合のパラダイスは天ではなく「地下」にあるでしょう。
なぜなら「ダビデは天に上ったわけではありません」(使徒2の34)等、
それを擁護する少なくない聖句があるからです。

地下は必ずしも不快な場所ではありません。否、むしろそこは、
聖徒達の為に神によって用意されたのですから、
アブラハムの懐にふさわしい、温まりのある霊的に実に清潔で
非常に心地よい場所であるはずです。

ただ、体を有したまま地上から取り去られたエノク、エリヤは別です。
彼らは体を持っているのですから、パラダイスにはいません。
この二人は(一人はエノクでなく、モーセであると言う人もいます)
黙示録11章における、特別な彼らの任務遂行の為に、例外的な神の
取り扱いを受け、今彼らはパラダイスとは別の場所(天のどこか)で
神によって待機させられ、その活躍の時を待っているのでしょう。

2009年5月3日日曜日

教会を敢えてエクレシアと呼ぶ理由

聖書には教会が出てきます。そして聖書は
「聖書が指し示す教会」を私達に提示しております。
ですから私は教会を否定することが出来ません。
私が否定出来ないのはその「聖書が指し示す教会」です。

所が「今日のいわゆる教会」の殆どは「聖書が指し示す教会」
と比べる時、余りにも変質してしまっており、それらを教会と呼ぶ
ことは到底不可能です。ですから、私はどうしても「今日の
いわゆる教会」を「カッコ」でくくらなければならないのです。 

所がいくらカッコでくくって見ても、人々がその言葉・教会に接する時、
聖書が指し示していない、余りにも多くの不必要なイメージを抱いて
しまうのです。例えば人々は「屋根に十字架のついた建物、一人の牧師、
そして日曜礼拝と言う三点をワンセットとしたコミュニティ」を容易に
連想するでしょう。しかし、その三点セットは断じて聖書で指し示す
教会ではあり得ません。
(教会はそれら三点ではなく、ただ「一点キリスト」です。)

当然それらの中にも「本来の教会」が持っている性質、即ち「真正の
キリスト者の中の復活の命」が含まれていることは充分あり得ることです。
(故に厳密に言って、その部分だけは教会と呼べるでしょう。)
しかし、そのコミュニティそのものは、「聖書が指し示す教会」
でないことは余りにも明らかです。
ですから最近私は敢えて、教会と言う言葉の使用を避け、
その言葉の原語・エクレシアを用いているのです。

*
さて、神から生まれた、
「真正な古今東西のキリスト者の中に存在するキリストの復活の命の総計」
がエクレシアであることは明らかです。それは時空を超えたエクレシアです。
しかし、問題なのはそのエクレシアが時空の中にどう現れるか、です。
どうすれば、時空に現れるエクレシアであっても、その変質から逃れ、
聖書が指し示す本来のエクレシアの性質をキープ出来るのだろうか、
これが問題なのです。

御霊は直接教えてくれますよ

*あるメールから*
私は今、内村鑑三の「キリスト教問答」という本を読んでいます。
私はこの本を読んだから「教会」を離れた、というのではなく、
「教会」を離れたから、彼の本に出会うことが出来たのだ、
と言うことが今、私を楽しくさせているのです。

この本の「教会問題」の部分には、体験してきた15年間の
教会生活の中で私が感じて来たことが書かれていて、既にあんな昔に、
もうそのことを感じていた人がいたのだ、と驚きました。
Sugar 兄弟もそんな人なのでは?

私は「無教会」という言葉すら知らず、そういう人がいるなんて
全く知らなかったのです。今「教会」に属している人で、この人の
主張を知らない人がたくさんいるのでは、と思います。
今まで知らずにいたことが、今になって私に少しずつ明らかに
されて来ていると言う今日このごろ、これが私にはとても楽しいのです。

「個人的啓示の道」を読みました。
私も、御霊が直接教えてくれる、ということを体験しています。
「教会」を離れた途端、主はまるで「待っていたよ」と言わんばかりに、
今いろいろな真理を私に分からせて下さっているのです。以前はなぜ
この聖書の箇所を、あんなふうに理解していたのだろうか、
などと今思うのです。
 
所で私の15年間の「教会」生活は決して無駄ではなかったと思うし、
必要だったのだと思います。そして、今「私をそこから出させたのは
主御自身だったのだ」と感じます。当時私にも、狭い部分しか見えて
いなかった事が今分かるのです。

主に感謝する日々が続いています。
主が私の牧者なのですから、今からも主御自身によって、いろいろ
教えてもらえるのだ、と期待充分です。
何故なら主の教えは真理なのですから。
ではまた。今の私の思いでした。

2009年5月2日土曜日

個人的啓示の道

*「鷲のように翼を張って」さんへ*

「その不思議な御言葉の真実を捜し求める者に、神は惜しみなく
その意味するところを教えてくださいます。・・・
主の導きを慕うようになります。」

とてもアーメンです。
言われるように人が真実に「真理」を求めるならば、聖霊は必ず
その人に「個人的に」教えて下さいます。これは確実です。
「この道」は決して「集団教えられ体制」などではなく
徹底した、神御自身からの「直接的、個人的啓示の道」です。
もしもその点で「少しの後退」があるとすれば、正にその程度の
堕落が始まっているのです。

従って新約聖書には・・
「真理の御霊が来ると、あなた方を総ての真理に導き入れます。」
(ヨハネ16の13)と言うイエスのことば、また
一寸それは少し極端ではないですか、と言いたくなるような、
「キリストから受けた注ぎの油があなた方に留まっています。
それで誰からも教えを受ける必要がありません。
彼の油が総てのことについてあなた方を教える・・」(Ⅰヨハネ2の27)
などと言うことばをさえ記録しているのです。

しかし普通、人はこの事実を信じようとしません。ですから、聖霊ではなく、
人に聞こうとするのです。このような人の傾向に乗じて、例えば一人の人が
教える実権を握り「全員いっせいに」、その上「競って」その一人の人の
教えに聞き従おうとするような、とんでもない状況が生じて来るのです。
その結果、そこには自ずと、さまざまな弊害が生み出されるのです。
(例えば「知っていることを装う」或いは「人に合わせる」等の偽善)

聖霊が人を真理に導き入れる方法とテンポは千差万別です。
しかしある人が「神によって定められている真理の道程」を
どこまで進んで行けるのか、それは、その人が日ごろ
「どんなふうに真理の門を叩いているか」にかかっているでしょう。

「それはそれとして、私達は既に達しているところを基準として、
進むべきです。」(ピリピ3の16)

2009年5月1日金曜日

もしもそれが

神の敵をサタンと呼ぶとき、
そのサタンという語の意味は「憎しみや敵意」
であると言います。創世記3章を見ると、
神は「キリストとサタンの間に敵意を置く」とあります。
サタンは必ずキリストを憎みます。
これは避けられない必然です。

しかし、
何故サタンは、取るに足らないキリスト者をも憎むのでしょうか。
そのわけは、キリスト者がキリストと一つであるからです。
他の理由はありません。
キリスト者はキリストとの結合の故に、
どうしてもサタンによって憎まれるのです。
これは、第二の必然と言ってもよいでしょう。

キリスト者に降りかかる困難が、
たとえサタンの憎しみからであったとしても、
「もしもそれが」
私達がキリストと一つであると言う理由からであるならば、
それは何と素晴らしいことでしょう。

第三の意志

*キリスト者は死後、どこで何をしているか3*
この地球とそれに属する天空は戦いの現場そのものです。
その戦いそれは、決してぶれることなどあり得ない二つの意志、
神の意志とサタンの意志の戦いです。
その戦いにおいて、神の手段は真理と命であり、
サタンの手段は虚偽と死です。
この場合、真理は虚偽に対応し、命は死に対応します。
神は人に真理を介して命を与えようとし、サタンは人に虚偽を
提供して(神の命から引き離す)死に至らせようとするのです。

それでは人の役割は何でしょうか。それは:
神から与えられた意志を十分に機能させ、神の意志を選択し、
サタンの意志を断固退けることです。
ここに、その二つの大きな意志の中間に、人の意志と言うものが
存在すると言う図式が浮かび上がるのです。このように世界の中で、
大きな二つの意志が戦っているのですが、人に与えられた
第三の意志は、そのはざ間において
極めて重大な役割を担っていることが分かります。

それでは、神はどのようにして、人に真理を提供するのでしょうか。
それは神のことばの人への語りかけによります。それに対して、
サタンは「ウソの語りかけ」(その中に死を含む)によって、
神からの真理が人に到達することを全力で阻止しようとします。
何故なら、その真理の語りかけによって、人に永遠の命が
入り込んでしまうからです。

しかし、いくらサタンの虚偽が巧妙であるからと言って、もしも
「人の神への信頼」が堅固であるならば、人は単純に神のことばを
選択するでしょう。何故なら彼は、神は神であり、神はとても誠実
なので、決てウソなどつくはずはないことを知っているからです。
だから人がもし、決してぶれることなく、その態度をしっかりと
とり続ける限り、何の問題も起こり得ないはずです。

2009年4月29日水曜日

ラザロ

*御両家の皆様へ*
こんな用事をメールですみません。
お心遣い、本当に有難うございました。

*
ブログに書いた「wさんへ」は私達の真実な心です。
本当に不思議です。あの時以来、それ以前にはなかった、
「深く確かな安らぎ」のようなものが、
我が家をとても暖かく包んでいるようです。

そうそう、今思い出しましたよ!
16日に、ブログの「二つの不思議なメール」を
ジュンが読んでくれて、涙を流したことを。

そして18日、
病院に私達が駆けつけた時、激しい完全な即死にも関わらず、
何故か
ジュンの顔と体の表面に、転落の損傷が全く見られず、
全身、一筋の出血さえも無かったこと。そして、
その顔が、正にあの眠っているジュンであったこと。
(最初に手当に当たられた担当者が敢えて告げた。)

それは、
病気に苦しみ、汚れた生き物が
その病気を舐めているばかりのあのラザロをさえ、
人が普通に持つべき心の満たしもなく、神に対して何らの
功績も記録されることの無かった貧乏人ラザロをさえ、
アブラハムの懐に連れて行ってくれた御使いの、
きっと「その手の支え」であったのでしょう。

そのような、
ラザロのようなジュンの死でさえも
このエクレシアの中においては、
時空を超えて
霊の中における総ての聖徒達との
深い繋がりの中においては、これからも
少なからず、ある意味を持って行くのではないだろうか、
なぜか、そんな気さえするのです。

*
心からの神への賛美の中、 
この感謝を御両家の皆様に送ります。
本当に有難うございました。


   ☆          ☆
ラザロ:
ルカ16章。このラザロはあのマリヤ、マルタの兄弟、
蘇生したラザロとは全く別人物です。
ラザロを舐めていた犬、ユダヤ教においては、
それは汚れた生き物(原文は複数)でした。
「ラザロの信仰」、それは一体どんなものだったのでしょう。
聖書はそれについて、直接には何も語っておりません。

w さんへ

*             
昨日、新緑の輝く光の中、

ジュンの部屋の片付けから帰る道すがら、

それは、

妻と深い静かな「喜び」を 分かち合うひと時となりました。

「ジュンは本当に爽やかに、サッと私達から去って行ったね。」

これが、妻との完全に一致した、とても不思議な思いでした。

*
主イエスよ、ジュンのこと

これまで、ホンとに有難う。

「偉大な御心」との関連において

*ジュンは今どこで何をしているか2*
総ての問題は、それ一個で屹立(きつりつ)することは少なく、
他の多くの問題との深い関連の中で起こります。「ジュンは今・・」
のこともその例外ではありません。この問題の背景をなす諸問題の
背景は驚くほど深いようです。

先ず、私達は「その人の生涯に対する神の御心」とその一問題、
との関連を見なければなりません。
それは、「ダビデの心」が先ずあり、そして「ダビデの国」の一国民である
その人に突然降りかかった「悲劇」が次にあった、と言うことです。
その問題を唯一単独であると捉え、もしもその人がいつまでも、それのみを
凝視し続けるならば、彼の倒れ方は酷いでしょう。そして倒れ方が酷い
だけでなく、彼のそれ以後の人生に深い意味を見出すことはとても
困難なものとなるでしょう。それは極めて残念な事です。

しかし、彼がダビデの偉大な心を真に知り、もしも彼がダビデと一つである
ならば、たとえ彼が一晩は夜通し泣き明かすとしても、翌朝には早くも、
イスラエル全体の問題の中における彼の一問題の位置づけに彼は容易に
気づくに違いありません。即ちその問題は、他の多くの神の心に関わる、
価値ある大切な問題との関連において、敢えて
「神によって」許されたものである、と言う事実に思い及ぶ筈です。

そして更に彼は、彼の個人的であると見えるその一問題が意外にも、実に
大きな価値さえをも含んでいることを知るのです。ここに至るならば、
彼は何の無理も無く賛美と感謝を神に捧げることでしょう。

それだけではありません。この段階に到達し彼は初めて、
「彼の個人的な悲劇そのものにさえ注がれたダビデの深いケア」をも
知るのです。即ち彼は、自分の心のケアよりもむしろ、王ダビデの深い
御心に思い及ぶとき、その時彼は、既にダビデがいかに彼の個人的問題に
対しても、大きな愛の配慮と決め細やかなケアを注意深く
用意されておられたかを知るのです。この時、
彼の涙の性質は完全に変化することでしょう。

*
今私達も、
先ずは「私達の真のダビデ」が今何を目指し、何を大切にしておられるのか
を本当に知る必要があるのではないでしょうか。次にそれとの
関連において、ダビデが「私の全生涯」にどのような御心を持っておられる
のかも知るべきです。それがパウロの言う
彼の「全行程」「走るべき道のり」(Ⅱテモテ4の7)です。

それでは、「その道のり」をどうやって今私達が知り得るのか。
これはまたもや、実に大きなテーマとなります。
しかし敢えて簡単に言うならば: 

①先ずはダビデの心にある偉大な神の御心に関する幾多の「知識」が
必要です。それを簡単に言うならば、カナンのよき地において、それを
不法占拠している多くの強敵と日々戦い、それらを駆逐し、その様にして、
その地に神の宮(今現在は主のからだとしてのエクレシア)を建造し、
次に時代における「完全なソロモンの王政と主権」とを
天地にもたらす、備えをすると言うことです。
私達は今それらの詳細に関わる、神からの私に対する個人的な啓示に
深く触れられ、印象付けられる必要があるでしょう。

②ここに至るとあなたは喜んで、あなたの神の御心を前にして、
神に対して喜んで「真の献身」をするに違いありません。

③次に今度は「私の生涯に関する神の御心」を知ることを
願う真実な心が必要とされます。
そうする時に、必ず神はあなたの霊に(頭にではありません)
喜んでそれを啓示されるに違いありません。
それが一旦与えられるとき、あなたはそれを、人の言葉で他人に
軽々に語ることさえ はばかられるかも知れません。しかしあなたは、
それをある深い、動かしえない神からの、あなたに対する
生涯の御心として、確信することが出来るのです。

そして更にあなたは、それ以後、一歩一歩の日常生活における
神に対する従順の中で、それが真に神の御心であったことを追認識し
(その時、具体的で深い思いへの理解も与えられるでしょう)
そして、ただ神を賛美するに至るのです。

2009年4月28日火曜日

ジュンは今どこで何をしているのか

この問題に人の頭脳が答えようとする、
それは一言「愚かです」と言うしかありません。
ですから、この問題への正しい、そして正直な反応は
唯一「分かりません」である筈です。

何故なら、人の頭脳はしょせん物質であり、頭脳が持つ能力の
範囲は「物質の世界」(いわゆる自然界)即ち、時空内現象に
限定されるからです。それでは、人の魂はどうでしょうか。
魂は明らかに物質ではない側面を持ちます。
しかし私達は人の魂とは、物質起源のものであることを
記憶しなければなりません。魂の基本的な特徴はこの世界に属する
と言うことです。(従って余談ですが、自然的な人が「魂の命」から
脱却することは極めて困難なのです。)

ジュンは今どこで何をしているのか、この質問は絶対に人には
答えられません。これは今シッカリと確認しなければならない
とても重要なポイントです。

*
しかしながらここに、
大いなる希望と逆転の根拠があります。
それは、
「初めにことば(御子)があった。
ことばは神と共にあった。
ことばは神であった。・・
総てのもの はこれによってできた」
と言う真理です。

「総てのもの」ですから、そこには時空とその中の万物も含まれる
はずです。ですから、ある日ある時、全宇宙は御子によって創造された
のです。ヨハネ1の1の「ことば」とは人に対して表現された神、
と言う意味です。(人もそのことばによってその人を表現するように)
神は「そのことば」(御子)によって万物を創造されたのです。
更に、コロサイ1の16によると、万物は「御子のなかで」創造された
とさえ言っております。何と御子は大きなお方でしょう!

従って真に偉大なのはこの御子であり、時空などではありません。
この広大な全宇宙でさえも、それはある時、神のことばによって、
神のことばの中で創造された、物質の一体系に過ぎないのです。

さて、もしもそのような神が実在するのであれば、
その神は当然、大いなる能力と知性をお持ちになる筈です。従って万物の
創造においても、そこには人では計り知ることが出来ない立案性、計画性、
そして芸術性さえあるはずです。ですから、この時空世界の創造には、
明確な目的があり、ある時に始まり、その目的が達成された日には
必ず終結を迎えるはずです。

*
ジュンは今どこで何をしているのだろうか?
それは、初めから神と共にあった「ことば」に聞けばよいのです。
それは「ことば」なのですから、これも私の「真実なことば」によって
その「ことば」にお聞きしようとする、真実な私の心さえあるならば、
その「ことば」は、むしろ直ちに答えようとして、私の「ことば」
(問いかけ、祈り)を待ち構えていて下さるのではないでしょうか。

しかしそうしないで、人の頭脳と魂、そしてその感覚の世界に、この
質問を投げかけそして、そこからの反応に不用意に触れ、受け入れて行く
ならば、それは必ず大変な時間の無駄となり、そして更に単に無駄である
に留まらず、極めて深刻かつ、底の見えない深い悲しみに「引きずり
込まれる」結果となるのです。(これについては後日触れる積もりです。
これは大きな問題です。)繰り返しますが、もしも万物を創造されたお方、
万物の前に「存在された」お方がおられるのであれば、その方にお聞き
するのが一番であり、むしろそれはとても賢いことであるはずです。

万物そのもの、即ち自然界については科学者に聞けばいいのです。
感謝なことです、私達は、彼の血と汗による何十年の成果を
一つの質問によって直ちに手に入れ、その恩恵に浴することが出来ます。

しかし、自然界を超えた事柄については、彼に聞くのはお門違いですし、
彼も困惑するばかりでしょう。しかしながら自分の頭脳や人の魂の感覚に
聞くことは更に愚かであり、それ以上に極めて危険であると言えるのです。
ですからここに至り、どうしてもやはり、このたぐいの質問は「初めに」
万物の前に「存在」されたお方、にお聞きする以外に他の方法は
全くあり得ない、と言う結論に到達せざるを得ないのです。

2009年4月27日月曜日

初めに

ヨハネ1の1「初めにことばがあった」の初めに、は
「究極的な過去」いわゆる「永遠の過去」です。
創世記1の1の「初めに」は
時間の創造における「初めに」です。

*
初めにことば(御子)があった。
ことばは神と共にあった。
ことばは神であった。・・
「総てのもの」はこれによってできた。

ある姉妹の言葉

昨日電話で、この数年来ガンと戦っておられる
ある姉妹と交わることが出来ました。
最近はこの姉妹、そのブログの更新も自由になりません。
声もかすれ、長い電話での会話にも注意が必要です。
以下は彼女の言葉です:

今私には死への不安、恐怖のようなものはありません。
苦しみは多いのですが深い所において、動かしえない安らぎ、
「感覚を超えた安らぎ」があるのです。
それに不思議ですが、あのジュンさんの生前の大変な苦しみが、私には
手に取るように分かったのです。だから、遂に得られたアブラハムの
懐でのジュンさんの今の安息が実に真実なものであるとの
確信が私にはあるのです。

・肉体の死を見ることなく天に携え挙げられるために、今死に抵抗すること、
・主イエスとの一つ、そして総ての聖徒達とのエクレシアにおける有機的
 結合の中において更にこの地上に留まること、
・そして勇躍パラダイスの安息に入らせられること、
今私はこの三つの素晴らしい事実の中で、どれを最も願うべきなのか
その板ばさみの中にいるかのようです。

最近こんなことがありました。
薬の副作用だったのでしょう、私は様々な混乱した画像、
映像のような感覚に悩まされたのです。
ところが、そのようなものとは全く別に、私に
ある深い、声でないような声が来た、と思います。
それは「今この時点が折り返し点ですよ」と言うものでした。
(それは奇しくも18日正午頃のことでした。)

2009年4月26日日曜日

真のダビデ、ソロモン、ブドウの木&永遠の命

「真のダビデ」とはエクレシア時代における王キリストです。
「ソロモンより勝った者」とは次の千年期における王キリストです。
キリストだけがいつの時代においても「ザ・王」であり、「ザ・主」です。

ヨハネ15の1で、主イエスは「私は真のブドウの木」と言われました。
この言い方をそのまま受け入れるならば、ブドウの木とはキリストであり、
他のいわゆるブドウの木は、真のブドウの木ではなくなることになります!
これは大変な主張ですが、こういう表現は新約聖書にいくらでもあります。
(真の~、永遠の~、等はみなそうです。)

そうです。新約聖書における基本的な主張の一つは正に
この点にあるのです。即ち、紀元前千年頃に生きていたあのダビデや
ソロモンは実は真のダビデ、ソロモンではなく、そのリアリティは
キリストである。彼らは単に、真のダビデ、ソロモンとは
いかなるものであるかを描く絵、説明、ひな型に過ぎない、
と言っているのです。即ち、リアリティ、実在、真の存在とは
神ご自身であり、キリストであり、復活のキリストである、
と言っているのです。

そういわれて見ると★「究極的な過去」においては時空も、宇宙も無く、
ただ霊である神のみが存在していたはずです。(もしそうでなければ
時空や宇宙が神よりも偉大であることになってしまいます。)
だから初めのリアリティは見えないもの・霊なる神でした。
それは創造されず、時空の前にあり、初めも終わりもない正に
「存在」そのものでした。それこそが真のリアリティです。
聖書で言う「真の」「永遠の」というのは正にこの意味で、なのです。

ですから後に「神のことばによって」出現した「時空と目に見える
その中の万物」の「実在の度合い」は「真の実在である神」の
「実在の度合い」と比較するならば問題にならないくらいに低いのです。
それは限りなくゼロに近づきます。いや結局それらは実在ではないのです。

所で、私達が受け入れ、私達の中にある「永遠の命」とは
正にそのようなたぐいの「真の」命です。だからこの場合の
「永遠」とは、この物質界にある「いわゆる時間」のエンドレス
などではありません。永遠の命とは、初めからあった、
創造されることのなかった、しかも人の死を破壊し尽くし、今や
何物にも制限されることのあり得ない、卓越した神の命なのです。

・神はモーセに言われた:私は「私はある」という者である。
 意訳すれば、私こそ「存在」である。(出エジプト3の14)
・私(イエスキリスト)が実際なのです。(ヨハネ14の6)
・私達は見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。
 見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
(Ⅱコリント4の18)

★「究極的な過去」:ヨハネ1の1「初めにことばがあった」の
初めに、が「究極的な過去」、いわゆる「永遠の過去」です。
創世記1の1の「初めに」は時間の創造における「初め」です。

「初めにことばがあった。
ことばは神と共にあった。」

2009年4月25日土曜日

ダビデの時代

・・
そのためには、「無数の日々の礼拝」
(交わりと祈り、そして賛美と感謝)は
どうしても欠かすことの出来ない要素です。

しかしながら
その真の礼拝の背後には必ず、
敵との戦争が存在しなければなりません。
ですから「今の時代」
即ち「ダビデの時代」における礼拝はどうしても
剣を帯び、甲冑をまとった
「敵の前の宴(うたげ)」「荒野の食卓」(詩23)
でなければならないのです。
・・
そのような激しい戦闘を伴った宴が
私達の現実となる日、即ち私達がダビデに従い
流血を伴う無数の戦いを経過する時、
神の義が支配するソロモンの絶対的な王国へと、
真に時代が転換する可能性があるのです。

「見よ、真のダビデがここにいる、
ソロモンより勝った者がここにいる!」

*
「真のダビデ」とはエクレシア時代における王キリストです。
「ソロモンより勝った者」とは次の千年期における王キリストです。
キリストだけがいつの時代においても「ザ・王」であり、「ザ・主」です。
*「流血」とはキリストと共に十字架に付けられて私の「天然の命」
魂の命を注ぎだすこと、即ち「私の旧創造」を死に渡すと言うことです。
それによってのみ、私達は戦いに勝利する可能性があります。

ただし、
この「流血」は神の子キリストにおける贖いの流血ではありません。
当然のことながら絶対的に私達罪人にその分はあり得ません。

2009年4月24日金曜日

痴呆症の父と私の「礼拝」

*あるメールから*
父がICUに入ってから一週間がたった頃から、
天に召されるのだなという覚悟ができてきた。
もう頭も身体も疲れていて、
毎日 その日が過ぎていくにまかせていた。
父も昏睡状態に入り
声をかけても、応答できなくなっていた。

召される2日前だった。
眠っている父に、「お父さん、お父さんの好きな
『人生の海の嵐に』を歌おうね。」と語りかけたら
ピクッと眉毛が動いた。

父の耳元で静かに歌い、
「さあ、『主の祈り』を祈ろうね。」と続けて言うと、
私の声にあわせて、まるで祈りの言葉をかみ締めるかのように
ユックリ、ユックリと首を振っている。

私自身、心も身体も限界に来ていた。
それまで反応が無かった父が、賛美と祈りに応答したことが
慰めであり、天で再び会えることが希望であった。

*
あれから7年が過ぎようとしている。
かってアンドリュー・マーレーの「キリストの御霊」を読んだ時
人間的なものからいっさい解放された、
霊とまことの礼拝について書かれている箇所を読み、
そうありたいと願い続けてきた。

7年前、あの惨めさの極限を超え、肉体、魂の力がつきはてた時、
父は主に向かい、ただ主だけを礼拝していたのだ、
と気がついたのは、ごく最近のことだ。

気がついた時、ただただ泣いた。声を上げて泣いた。
頬をつたう涙は、温かかった。
慰め主なるお方を、ほめたたえる。

天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたまえ
御心の天になるごとく
地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を 今日もあたえたまえ
我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり (主の祈り)

確かに人には「霊」がある。
信じる者には、キリストが内に住んでくださる。
そして、主との豊かな交わりが持てる。
慰めてくださるお方が、共にいてくださる。

☆
Sugar:
有難う、更に慰めを得ました。
今はもう、
総てを後にする時であると、感じさせられております。

無数の礼拝が必要です

簡単にお答えします。
総ては「神対サタン」です。ですから私達は
断固 神に組し、サタンに恥辱を加えるべきです。
キリスト者が今敢えて時空の中に残されている意味は
正にその点にあるのです。

「今回のこと」もおそらくそれでしょう。
神が何かをなさろうとするとき、何故か彼は先ず
キリスト者の霊に「ある負担」を与え、そして祈らせます。
しかし、祈っても初めの内、思いの中ではそれが何であるのか、クリア
でないことが多いのです。しかしとにかくその時あなたは、神に対して
その負担を祈りとして「あのうめき」と共に表出しなければなりません。
だからこそ、様々な「祈りと交わり」(礼拝)が多く必要とされるのです。
(これこそ、実は「戦闘」の開始なのです。)

以上の一つ一つの過程がもしも「本物であるならば」そこに必ず
サタンが到来し、キリスト者の礼拝と実生活を迫害、攻撃します。
(しかし多くの場合は、残念ながら本物ではないので、
サタンはそれらを殆ど無視することが出来ます。)サタンの攻撃の結果、
それは一見、手ひどいキリスト者の敗北のように見えます。
(主の十字架のように)

しかし、実はその時こそ、永遠性のキリストイエスの復活が、時空内に
到来し、サタンの時空内現象に対し、遥かに超越するチャンスとなり得る
のです。即ち永遠のキリストの復活の超越性が、様々な勝利現象
として時空に残されている「弱くはかなきキリスト者の肉体」と
その環境の中に現れるのです。

これこそが今、時空(特に地上)を支配するサタンが恥辱を受ける方法です。
これが神のやり方の原則であり、このようにしてのみ、神の業は進んで行く
のです。この原則が働いていない いかなる「キリスト者の活動」も
絶対的に「神の業」の名に値することはありません。

今こそ私達は「神の御こころ」とそれを遂行する
神の原則(十字架と復活)を内的に見、尊重しなければなりません。
神が何かをされようとするとき、いかなる時であろうとも私達は留まって
一休みなどすることなく、神と共に前進しなければなりません。(しかし
ながら真に「神と共に前進する」とは「真に死ぬ」ことに他なりませんが・・)

そのためには、「日々の礼拝」(真の交わりと祈り、そして賛美と感謝)は
どうしても欠かすことの出来ない要素です。従って真の礼拝と言うものの
背景には必ず「激しい戦闘」が存在するのです。ですから
この時代(ダビデの時代)における礼拝は必ず
「敵の前の宴」「荒野の食卓」(詩23)でなければならないのです。

①神からの負担と、祈りへの促しが来る→
②日常生活におけるキリスト者の祈りと交わり(礼拝)→
③必ずサタンからの死と虚偽による攻撃、迫害がある→
④「永遠性の」キリストの復活・超越、勝利が
明確な現象として「時空の中へと」現れる→
①「神からの、更に進展した祈りと交わりへの促し」
この循環は極めて重要です。

必ず「このような循環」がこれから地上の至るところに
出現しなければなりません。それが現実となる時にこそ初めて
(隠された総てがあらわにされる、ソロモンによる
絶対的な王国へと)真に時代が転換する可能性があるのです。

ですから聖徒達よ!
あなたが住むその場所で、神が与えたあなたのパートナーと共に
この「礼拝の生活」に、今直ちに入られるようにと切望いたします。
何故なら今、時は迫っているからです。
(「使徒の働き」13の1,2)

2009年4月23日木曜日

兄弟の言葉、そのままに2

ジュン君は『殉教した』。
私はそう思います。
ジュン君の死は「種」となり、
祈りによって関わった私達エクレシア
の中に蒔かれました。
ジュン君の20年間には
キリストの足跡だけが残って見えます。

そして長男のケン君も「主の所有」として、
違う形で、違う場面で、違う領域で、
出番が用意されているのでしょう。

今回のシュガー兄弟を中心とした一連の主の業は、
私に励ましと慰めとを与えて下さいました。

2009年4月22日水曜日

ある記録

ジュンが突如として主の安息に入ったのは
18日の正午頃です。
誰がこのようなことを予測できたでしょうか。
誰にも出来はしません。

しかし、
その3日前あたり、少なくも4人のキリスト者がジュンに関して、
「ある程度ハッキリした感覚を主から受け取った」
と言うことはどうも事実のようです。そこで
ここに、ブログやメールに残されているそれらの言葉を
まとめて置きたいと思います。

*
15日朝6時 
私シュガーが「ジュンの為の祈りの依頼」をブログに載せた。
(当然このようなことの公表に多少のためらいがあったことは
否めませんが、内側にある促しがあったことも事実です)

15日夜
それに応じて
T姉妹が祈った後に受けたもの:
ジュンさんの上に起こっていることは、
何か主があらかじめ予定されていたことのように感じています。
必ず神の御業が現れるように感じます。
主が何かをする、というような感覚を受け取っています。
主は「わたしはわたしの民を整える」とも言われます。

T兄弟:
主は「わたしはする」と言われたように思います。

16日朝8時、
シュガー:
今のジュンの状況は少し大変ですが、「必ず一両日の内には」
何とか「収束に向かう」のではないか、と感じております。
人を「困惑のさ中に閉じ込める、このような出来事」の中にも、
何らかの「主の積極的な意図」が隠されているはずです。
先ず私がそれを信じること。そして、霊の中で、神の敵に
対する絶対的な優位な地位と立場を堅持して行きたい、
と願っております。
T姉妹へ、
「ジュンさんを縛っているもの」が取り除かれるように、
と言うあなたの一句がとても感謝です。(特に最近、それこそが
親としての切実な願いでした。)

16日午後1時
Y姉妹:
ブログでジュン君のことを読んだ瞬間
私よりも先に「私の中におられるお方が祈っておられる」
ことを知らされました。

兄弟の言葉、そのままに

ハレルヤ!
キリストはサタンを打ち砕きました!
主はシュガー兄弟を御自身と一つになさり、死の中に置かれました。
兄弟が御こころに抵抗されないさま。
主の御心への服従のさま。
私には、人の子イエスの弱さの様が、そこに
オーバーラップして見えたのです。

ジュン君を、主が用いられましたね。
何度も、ではなく、ただ一度流された御血の様に!
ジュン君の「人生」は「キリストの中」で完結したのです。
ハレルヤ!ハレルヤ!

主の御計画は、はかり難いです。
そして兄弟の中でまた新たな主の働きが、
この春の初々しい若葉の様に、もう既に芽生えている事でしょう。
主の御心の故にただ感謝と賛美を捧げます。

メールを有難う

シュガーさんへ
ブログを読み、感動しています。
柄沢登兄弟のこと、彼が私に模範を示してくれたと感じています。
正に「神の勝利、サタンの恥辱」・・この言葉ずんときました。

私もまた、いつかこの地上で、体から解き放たれる時が
必ずあるのですが、登兄弟のことはその時まで私の記憶に
留まるでしょう。いろいろな思いが私にあり、
今までメールを送ることもできませんでした。
*
ジュンさんのこと・・このような形で主の計画が訪れるとは、
私もうちの兄弟も考えませんでした。4月15日の夜の祈りで、
ジュンさんのことを祈ると、私に「わたしはわたしの民を整える」
そしてうちの兄弟には「わたしはする」と聞こえたように
思われました。しかし、私たちはその時、その意味を明確に理解する
ことはできませんでした。だから私達は思いの中で、
ジュンさんが癒されるのでは、と考えていました。

そしてその3日後に主がされたことを知り絶句しました。
でも、シュガーさんに電話を取り次いで下さった奥様の声は
明るく平安に満ちていました。主がそこにおられました。
私は難しいことは分かりませんが、ただ「そこに主がおられること」
を感じ取れたのです。ハレルヤです。

またいつか、主がシュガー兄弟と会わせて下さると
思っています。今、私にも平安があります。主に感謝です、  
止めどなく涙が流れるままに。

☆
「4月15日の夜の祈りで、ジュンさんのことを祈ると、
私には主から「わたしはわたしの民を整える」
そしてうちの兄弟には「わたしはする」と聞こえたように
思われました。
↑
このことを知らせてくれて、本当に有難う。
ここに一つの事実があります。
ジュンのことを、神の聖徒達が主に真剣に祈った時、
明らかに「主が反応された」のです。
だから、その結果がどうであろうと、それは
「主から出た神の御こころ」であったと、確信出来るのです。
今「息子を取り去ったのは、主であった」と心から信じることが
出来る父親は何と幸いでしょう!

今私も
「これら総てが神の真実から出たものである」と
感じる取ることが出来ます。
しかしこれは、正に霊的な戦いです。
これからも、私はこの「神からのレーマの言葉」を信じ、
悪霊から来る総ての邪悪な感覚を直ちに退けます。
主の御こころを私の意志として取ります。
ただ主を賛美します。


☆  ☆                       
 

柄沢家、訪問診療の医師の言葉

おととい、柄沢登さんの為に、
担当医による訪問診療が行われました。
その時の医師の言葉です:

「柄沢さんが、今一生懸命に無理をして
演技をしているのでなければ、
黄疸(おうだん)がここまで進行している患者が
これほどの 安らかさ の中におられるというのは
常識では全く考えられないことです。
耐えられないほど過酷な全身のダルさの為に
暴れる患者も珍しくはないのです。」

*
今兄弟は、重い病にもかかわらず、
全地のエクレシア(キリストのからだ)との、
有機的な繋がりの中、神の国の前進の為に
大きな役割を担っておられることは明白です。

これは医師や人間に対してのみならず、
事のほかキリスト者達に絶えず注目している、
目に見えない世界に生きる、超自然的能力を持つ
無数の「生き物達」
に対する強烈な証でもあります。
これが、「時空」に表現された
「永遠」における神の勝利、サタンの恥辱なのです。

*
ここにこそ
キリスト者が永遠性の霊の他に 
時空、物質に接し得る肉体を持つと言う
極めて稀有な存在意義があるのです。
(「今の時代においては」その両性質を持つ存在は
イエスの他、キリスト者に限られております。)

そして、これまたこの時代において「サタンの活動範囲」は
時空、物質に制限されています。(魂も物質の領域に属します)
従って、キリスト者が、神によって
「敢えて肉体(時空)の中に留まらせられる短い時間」を
どう過ごすのか、
と言う問題は極みに至るまで大きい、
と言わなければなりません。
何故なら、全宇宙における気宇壮大なストーリーは
結局「神対サタンの戦い」であるからです。

この時空の中、私達は一体
誰の為に生きようとするのでしょうか。

姉妹、メール感謝です

シュガーさん
おはようございます。

今朝のブログを読ませていただいて、
わたしの中に大きな喜びが沸き起こりました。
そして口をついて出てくる賛美は:

「死と悪魔に勝ちし 
君こそ勝利の主なれ 
君こそ真の主なれ
褒めよイエスを 
勝利のイエスを」と、

賛美が沸き起こるではありませんか。
更に天から復活の大きな波と言うのでしょうか、
あるいは力とでも言うのでしょうか、
それがワーと押し寄せてくるのです。

これは
「私がすでにキリストと共に天のみ座の前にいる」と言うことが
啓示によって開かれたときの感覚と一緒のものです。
すごいすごい!今こうしているときも天から
復活の事実が押し寄せてきます。
ジュンさんの死は勝利に飲み込まれてしまいました。 
ハレルヤ!!

美しい花籠を贈ってくれた兄弟へ

兄弟、残念ながら
花は昨日のジュンの場面には間に合いませんでしたよ。
でも、妻がその豪華でとても落ち着いた色調の
花籠を居間のテーブルの上に飾りました。
我が家の居間が美しく変化しました。
以下はその時 私が妻に告げた「あなたのお言葉」です:

「・・しかし、後に残った者の感情は、信仰に立っていても複雑な
ものがあります。特に男性よりも女性、中でも母親は大変です。
お差支えなければ、お祈りのために、奥さまやお子様のお名前を
お教えいただけますか。」

それを聞いた彼女は長男に笑いかけ、
「あ、私は母ではないかもね」と言いました。
これは事のほか嬉しいジョークです。

更に兄弟、実は私にとって全く予期出来なかった、
驚くべき「天からのプレゼント」があったのです。
それは、私が本当に長年の間 彼女の口から聞くことの
出来なかった「信仰の言葉」です。

・先ずはおととい、ジュンがなじんだ町八千代市の役所と
ジュンの部屋に行く車の中、突如として彼女が語り出したのです:
「確かに信仰は働く。人には分からないことが多い。でも
信じることによっていずれ主が状況の中で御業をなさる。
それだけは確実。」私が聞いた「主」と言う言葉の驚き。

・次は昨日 葬儀ホールの一室、ジュンのヒツギのかたわらで
彼女の口から捧げられた祈りの言葉です。

・火葬を待つ間、ロビーで私に語りかけてくれた言葉:
「ジュンの体との最後の別れは辛かった。しかし、それによって、
新エルサレムの意義が明らかになった。キリスト教で言う、
天国へ行くだけであるならば それは何か足らない。人の体は
復活する、そして万物は新たな形に再生する。この確かさこそ
素晴らしい。だから体は人に必要なのだし、いとおしい。」

それに次いだ私の言葉:「ジュンは今日焼かれるが、
かの日必ず復活する。それは決して蘇生などではない。
だから万物も必ずある日焼かれなければならない。」
これらは確かに上からの啓示です。

最近、ジュンの死の前から、彼女の内面に
何かが起こっていたことは疑い得ない事実のようです。
これはジュンの死が我が家にもたらした
最も価値あるものの一つでしょう。

だから確かに、
「あの時のジュンの死」とその前後の出来事は
総て永遠の過去において予期され、
そして注意深く準備された天来のものに違いありません。

T姉妹、そしてM家の皆様へ

メール有難う。私は元気ですよ。
でもそれは一つの条件付き。キリスト者がどうしてもつい
使ってしまうあの言葉「不思議」を伴った元気さです。
そう、私はその不思議の中で元気なのです。

キリスト者にとって親族の死とどう向き合えばいいのか、
これはやはり大問題ですね。愛する親族に明確な信仰告白が 
無かった場合であればなおさらでしょう。私達は
これらを一体どう考えるべきでしょうか。

いずれにしろ、やはりキリスト者はそれらを必ず克服して
行かねばなりませんし、今私はそれは可能であると考えております。
キリスト者にいわゆる「タブー」や「不問に付す」等と言う言葉が
あってはなりません。あのイエス様にその様な暗い部分などある筈が
ありましょうか。ですから、これらについてもおいおい、このたび
受けた沢山の「不思議な」思いを少しずつ書いて行きたいと
考えております。(でも私の考えはかなり風変わり、
皆さんがそれを受け入れて下さることが出来るでしょうか)

とにかく、ジュンの死は、これから(もう既にかな?)何らかの形で、
様々な面で生かされて行くことは確実である、との
これも「不思議な」感じがあるのです。
私はこれから必ず種々の不思議さをいろいろな場面で
見て行くことになるでしょう。

しかしどうしても残る言葉は、やはり「主に対する感謝と賛美」、
これは今の私にとっても、最後の不動の言葉です。

2009年4月20日月曜日

ジュンのこと 2

17から35才に至る彼の後半生は
この厄介な病・統合失調症との激しすぎる戦いでした。
近年 彼の精神病はある程度 改善されはしましたが、それにも
かかわらず、未だに残された病根の深さには計り知れないものが
あったと思われます。

更にまた、病気のある程度の改善は、新たな重い問題の
浮上でもあったのです。それは、それまで病気がブロックしていた
「病気を持たない人間の悩み」の部分的出現です。それを彼は
「あの頃は無神経であったから」という言い方で説明するのです。

次に 彼独特の性格的な弱さです。
はたで見ていても痛々しい程の余りに繊細で傷付きやすい
生来の彼の心です。それ故、例えば対人関係における他人との
距離感と言うものに、彼ほど神経をすり減らした人間も
いないのではないでしょうか。

最後に、どうしても克服出来ない飲酒と喫煙。しかし今このように
見て見ると、あれほど苦しんだ飲酒と喫煙でさえ彼にとっては
マイナーな問題点に過ぎなかったのかも知れないと思います。

こういう様々な要素が複雑に入りくんだ問題を抱え、それでも
彼はけなげにも、その解決の為に具体的かつ様々な努力を
し続けたのです。(例えば、安らぎを得んが為のギターの練習、
青空を見る、ファミレスの安価なドリンクバーの試み、絵を描く・・)

しかし、残念ながらその努力はことごとく壁に突き当たっていた
ようでした。何をしても何の感動もない、何の興味もわかない、
がその悲惨な結論だったのです。
結果、生きることの上で彼には「楽しむと言うことが殆ど存在しない
毎日の生活」が残るのです。ここで敢えて、あの忌まわしい病の圧迫から
逃れることが出来なかった彼の18年間を一言で表現しようとするならば、
世に言う「心の捨て所」や「はけ口」などというものからは、
完全に見放されてしまった短い一生の殆どであった、
とさえ言えるのではないかと思わされます。

にもかかわらず、
それでも、これから私がどのような言葉をいくら懸命に書き連ね
ようとも、彼の心の奥底の闇を的確に表現する人間の言葉など
この世には決してあり得ないに違いありません。

(「ジュンのこと2」は以上です)

☆
ここで一つの「ただし書き」が必要でしょう。
次回等で、逐次触れて行く積もりなのですが
菅原家は確かに悲しみの中にあります、しかしまた、一面
今、奥深い不思議な安らぎと喜びと平安が今この家を包んでいる、
とも言えるのです。

恐らく「ジュンのこと3、4・・」では、どうしても
皆様方にとって「非常識極まりない」多くの言葉を書き連ね
なければならないであろうと今から妙な懸念を致しております。
なぜなら、それは私にとって極めて真実であるからです。

*
本日「彼の古き体」をダビに付します。しかし、彼の霊と魂、即ち
「彼そのもの」は「アブラハムの懐、パラダイス」で、彼が生前
どうしても得られなかった全き安息を楽しんでいることは確実です。
それ故、もはやジュンの為ではなく、
私達の為にお祈り下されば幸いです。

2009年4月19日日曜日

ジュンのこと

わが次男、潤、35歳は18日1:02PM 肉体の束縛から解かれ、
主イエスにある全き安息に入れられました。(実際には正午頃)
公的文書に記録された「状況説明」は高所からの転落です。

潤はある「教会」の小学生クラス、中高生クラスによく出席し、
中学生の時にバプテスマを受けています。その頃、その教会では
「主の御名を呼ぶ」ことを熱心に行い、潤もしばしば
「オー、主イエスよ!」と叫んでおりました。

とは言え彼は近年、主から遠ざかり「イエス様のことが分からない」
などと兄に話していたそうですが、霊の外側の人の機能、魂の思いに
おける思考によって、クリスチャンがそのような発言に至って
しまうことは十分あり得ることです。

永遠の救いは単なる感覚や思考の問題ではなく、誕生、命の問題です。
従って一度イエスの復活の命によって、人の最深の機能である霊の中で
誕生した者は永遠の完全な救いにあずかります。

「主の名を呼ぶものは皆 救われる」(使徒2の21)
「信じてバプテスマを受ける者は救われます」(マルコ16の16)
などの御ことばによっても彼の救いは確信出来るでしょう。

*
21日朝、ある葬儀ホールの一室で、
「家族だけの」小さな会合を持ち、
その後、火葬場へ向かいます。
その他、一切の儀式的行事は行いません。
  

2009年4月18日土曜日

神の道

私に何ができましょう。

主イエスよ、

私はどこに行けばいいのですか。

*
そうです、

私にはただあなたしかありません。

この私情を超え、あなたの道の故に

私の家族の一切をあなたに委ねます。

あなたの道が総てです。

今あなたの道のみを高く掲げます。


☆
ジュンの為に
皆様方に祈っていただいたこと、
今深く感謝致しております。

2009年4月17日金曜日

高山家の父上、その最後の日

それは今月、3日のことでした。
医学的、数値的には 生きているのさえ全く不思議と言う
ほぼ半年もの間、娘清子さんのもとで楽しく生活しておられた
父上はその前日まで、それまでと全く変わらない
とても安定した暮らしぶりであった、と言います。

しかしその日の朝を迎え、
まずはトイレで十分用を足されたのでしたが
(これは意味のあることなのです)
前日まで驚くほど食欲旺盛であった父上がその朝に限って、
朝食をとられなかったのだそうです。様子がなんだかダルそう
なので、たまたま来ておられた清子さんのお母さんが、
その夫を布団に寝かせたのです。
しかしその内、お母様はフトと、何とご主人の目の瞳孔が
開いているのに気づかれたと言うのです。

その様にして、救急車で病院に送られたお父上は
遂に午後一時に至り、とても穏やかな空気の中
眠るように息を引き取られたのです。

その日、以上の出来事の一こま一こまが総て、
平穏と人々の落ち着きの中で執り行われて行きました。
その不思議さを、今清子さんは感嘆の中で話されるのです。
その4月3日はまた、それも全くの「偶然」だったのですが、
何と親族一同が高山家に揃っておられたのでした。

父上の人生最後の一日、それは、
バタバタするような雰囲気のまるで無い、娘清子さん、そして
親族の皆さん一人一人にとって、全員が十分納得する
最後の「お見送りの日」となったのです。


☆   
以下は
当ブログ昨年10月31日の転載です。

突然入院された高山清子さんの父上92才のその後です。
お父様はおととい深夜、急に苦しみを訴えられ救急車で病院へ。
心不全、腎不全が原因で肺に水が入り、呼吸が苦しくなられたのだ
そうです。肺炎の恐れもあり、重篤な事態を迎える際には、もはや
過分な医療は行わず、自然死を選択すると言う遺族の意志さえ確認
させられたのだと言います。

その時、清子姉妹は正直に主に次の様に祈ったそうです。
「主よ、御心に従います。でもわがままを言わせてもらえるならば、
もうしばらく地上で、父と一緒にいる時間を与えて下さい。
私はまだ父と一緒にいたいのです」と。

「私はまだ父と一緒にいたいのです」と言う娘の祈り、
その結果なのかどうか、その後 医師が投じたある薬の効果が
顕著に現れ、何と病状は急激に改善され、早や昨日の夜などは食事を、
普通の量の三分の二ほども食べらるまでに回復されたのだと言います。

皆様のお祈りを感謝します。
それにしても、改めて主のなさることは不思議と言わざるを得ません。
今後の高山家において、主は一体何をされるお積りなのでしょうか。

大村兄弟から

主の御名を崇め賛美します。
ジュンさんは少し落ち着かれましたか?

私のためにもお祈りくださり、ありがとうございます。
今週の検査の結果を見て順調な回復以上の回復をみせているので
担当医が驚いています。担当医は、軽度から中等度の心不全は
残ると考えておられたようです。しかし、今週の検査結果は、
軽度の心不全の状態まで改善していたのです。
まさに兄姉方のお祈りに主が答えられているようです。
菅原兄とご家族のためには祈り続けます。

☆
「軽度の心不全の状態まで改善していた」!
何ということでしょう、本当にびっくりですね。
ただ主を賛美するのみです。

ハイ、ジュンは今落ち着いています。
しかし昨日も大小4本の缶ビールを飲んだようです。
(日本酒からビールへは改善点かも知れませんが・・)
今日、ジュンと三人で「NPO茨城断酒つくばね会」
と言う所に行って見ようと思っております。
ジュンに関し大村兄弟から何かアドバイスでも
いただけたら幸いです。(薬で治すのは無理としても)
皆様のお祈りに本当に深く感謝致しております。

☆
ジュンさんの状態が落ち着いて本当によかったですね。
依存症には「・・・会」がとてもよいと思います。

アルコールでも、ギャンブルでも、同じことをしても
脳内の神経回路や化学伝達物質が依存症にならない人
とは、違うということが分かってきているようです。
ですから「御霊による自制」のことは横に置いておいて、
依存症になりにくい人々が大脳における自制心が弱い
とか強いとか言える話ではないと思います。

断酒会に行けば、同じ苦しみの中にある人たちに会えます。
ご本人にはそれが大きな慰めと励ましになると思います。
自分だけではない。Aさんは、断酒を決心しても5回も
失敗している、でもまた頑張っているんだ。
という話を聞いたりすることもよいことです。
同じ悩みを持っている人の中では、段々と本当の気持ち
を話せたり、人の話を聞いて自分と同じだと思ったり、
時間はかかりますが、決して依存症のない人たちには
なしえないことが起こると思います。
うまくいっている時は、「よかったね」
飲んでしまったことを告白された時は、「がっかりしないで
何度でも挑戦してみたら」と普通の表情で言ってあげることが
できたらと思います。

大切なことは、とにかく断酒会に行き続けてもらうことです。
断酒会に行けないときには、ひそかに断酒をやめていることも
あります。
時を主に委ねて、とにかくお祈りしています。
大村

神のいのちは

・・・
それは
キリストのからだの肢体たちが、死と復活の中でキリストと
一つになることによってのみ可能です。
この一つを知るまで、私たちのクリスチャン生活は
ほとんど有効ではありません

自分がキリストと共に古い自己に対して死んだこと、そして野心、
欲望、計画、観念、規範いっさいを伴う古い世に対して死んだことを、
最初に一度限り十分に認めることによって、私たちは自分の席に
着かなければなりません。

そして次に、復活のいのちが私たちの間でますます現されるために、
死が私たちの中に日毎に働くことを許さなければなりません。
神のいのちは旧創造の中に来ることはできません。
それは新創造のいのちです。
(オースチン スパークス)
*以上は
ブログ「イエスの愛と満足のために」から。

私たちの自由

礼拝は使徒信条から始まって同じ時間、同じプログラムの
流れに型組みされて・・・・肉はそれで一安心
「今は教会に行っていない」というと「では礼拝はどうして
いるの?」と聞かれる。
「だって、朝起きた時から礼拝でしょ?」と問うと
しばし不思議な沈黙が漂う。

もちろん一日中主を意識して主のことばかりを考えて
いるわけではないけれど、
日曜礼拝をやめてからというもの、主の事柄を考えたりを
主に時間を捧げたりまた、思わぬ交わりが開かれたり、
2年前の状態と比べたら雲泥の差、
こんな豊さがあったのかと思う。

「教会」を否定しているのではない。新生してから教会に躓いた
という思いは一度もしていない。むしろ自分を十字架につける
訓練の良き場であると今でも思う。それほど自分という存在が
厄介であることを教会は私に教えてくれた。
教会をとおして豊かに主が働いてくださったことも大きな事実だ。

だからこそ、そのなかにある「不自由」が悲しい。
でもそれは「きれいごと」だとよく人は言う。
でもわたしは妥協したくない。こけようが躓こうが、この先
小さな教会に導かれようが、主がご自身のいのちをかけて
解き放ってくださったこの自由を何ものとも引き換えに
したくはないからだ。

ただ十字架を日々見上げて生きる事、主の大きな目的に向かって
歩むこと、開かれた交わりを主のなかで慈しむ事 
それはどこで何をしていようと、
「この地」に来てからも変わりない主からの導き。

今朝もささやかな主の語り、
「私がすべてを知っているから いいではないか」
はい、おまかせいたします。

・「キリストはこの自由へと私たちを解き放ってくださったのだ。
それゆえに、あなたがたは堅く立って、
再び奴隷状態のくびきにはまってはならない。」ガラテヤ 5章1節
・「まさに、キリストイエスにおいては、割礼も無割礼もなんの
効力ももたず、むしろ愛をとおして働く信仰が効力をもつの
である。」ガラテヤ 5章6節
(ブログIn Adorationから)

2009年4月16日木曜日

二つの不思議なメール

こんにちは、
ブログでジュン君のことを読んだ瞬間から
祈りよりさきに
私の中におられる方が
祈っておられることを思い知らされました。
祈っています。
(Y)
私も、ジュンさんの上に起こっていることは、
何か、主があらかじめ予定されていたことのように感じています。
必ず、神の御業が現れるように感じています。
主は、うちの兄弟との祈りの中で、明確には答えられていませんが、
主が何かをする、というような感覚を受け取っています。
さらに、祈り続けます。
(T)

☆
お祈り本当に感謝です。

ジュンは長年の精神障害が、近年相当改善し
(とは言え当然、統合失調症は完治したとは
言えない)私ども親は大喜びしていたのです。
所が、これは不覚にも後で分かったことなのですが、4年間
施設で過ごしていた頃、病気からのストレス故の飲酒が習慣化
してしまい、ある程度「依存」傾向も見えていたようです。
それが数日前、飲酒の上の、外出先でのトラブルに
繋がったのです。残念ながら、今ジュンの生活の上で
毎日の飲酒はもう欠かせないほどのものになっています。

極めて深刻なアルコール依存症になってしまう前、遅くも
今のような段階で、なんとかよい方向に方向転換してくれれば、
と言うのが「親としての」正直かつ切実な気持ちです。
*
ジュンは小さい頃から「教会」の集まりに参加しておりました。
しかしこの2・3年、キリストへの関心が相当薄らいでいるような
感じが私には見受けられ、気にしていた所でもあります。

今日のおもしろ一句

*あるメールから*
S兄弟やK兄弟、あるいは 
ほかの兄弟姉妹との交わりを通して、
自分の内側(霊・精神・身体)が
健やかになって行きつつあることを、
メールを読み返すたびに感じるのです。
でも、
甘党だけはどうしようもないようで!

お祈り感謝します

シュガーさんへ
ブログ読みました。すぐに、家で兄弟と二人で祈りました。
これからも、ずっと息子さんたちのために二人で祈ります。
私達は主がそれを望んでいると感じています。

私たちにできることはわずかです。
でも、私たちが心を合わせて主に祈り求めるとき、
必ず主はそれに答えてくださると信じます。
いろいろな苦難がこの地上の幕屋では起きます。
でも、全部主の許しの中で行われていることですよね。

祈り、それこそが私たちに許されている特権です。また
当然ですが、その祈る対象である素晴らしい主である
神がおられること、そして
私たちは決して「みなしご」ではないことを主に感謝します。

また、ジュンさんを縛っているものが、
取り除かれるようこれからも祈ります。

☆
ジュンのこと、お祈り感謝します。
昨日は彼のことで、夜遅くまで八千代市の彼のアパートやら、
病院やらを、3回ほど往復しました。
私にまだこんな力が残っているのか、と思いました。

そのようにして昨晩、
彼をとりあえず実家に連れて来ることが出来たのです。
少し大変ですが、必ず一両日の内には
何とか収束に向かうのではないか、と今感じております。

こんな人を困惑のさ中に閉じ込めるような出来事の中にも、
きっと何らかの主の積極的な意図が隠されているはずです。
先ず私がそれを信じること、
そして、少なくとも霊の中で、神の敵に対する絶対的な
優位な地位と立場を堅持して行きたい、と願っております。

「神の敵に対する絶対的な優位な地位と立場」
それはあのキリストの十字架、復活、昇天、そして
御座によって既に完璧に成就され、そしてそれが
私にも与えられているのですから。

そして、
「ジュンさんを縛っているものが取り除かれるように」
この一句がとても感謝です。
どうか続けてお祈りに覚えて下さいますように。

2009年4月15日水曜日

第三歩目で皆こけた

一歩目は再生、新生です。
聖霊が人の霊を生かし、彼を神の国の中に誕生させます。
これは完全に聖霊の働きでありその時、神と天使、そして人も
大いに喜びます。この段階においては「人のもの」が介入する
余地は皆無と言っていいでしょう。

二歩目は、小さな交わりです。一人の真に新生したキリスト者は
必ず他の新生したキリスト者との触れ合いを慕います。(そうでなければ、
その「クリスチャン」は偽者です。)それは、同じ父から生まれた
神の子供としての、自然な「命の成り行き」であるからです。だから彼は
他の同じ命を受けた少数の兄弟と「交わらない」わけには行かないのです。
この第二歩目・二人、三人の交わりも純粋に聖霊からのものです。

この現象は例えば、今「硬直した組織」の中にいるキリスト者であっても 
偶然出会った他のキリスト者と図らずも小さな交わりを
交わす時などに容易に感知出来るものです。
何故ならその時、彼らがそこで楽しんでいるのは、その純粋な交わり
そのものであるからです。彼らはその時、彼らの「とても難しい背景」を
総て忘れ、ただ「交わりそのもの」を楽しんでいるのです。
これは何と素晴らしいことでしょう。
(しかし仮にそこで、一方のキリスト者がひそかに「ある意図」を抱く
場合、その純粋な交わりは直ちに破壊されるでしょう)

このように一歩目、二歩目においては何の問題もありません。
何故なら、繰り返しますが、この第二歩目までは神を源とする生命現象
そのものであるからであり、その交わりの主導者は聖霊であるからです。
第二歩目までの命の現象「誕生と交わり」は完全に「神のもの」です。

*
それではこれから第三歩目を見て行きましょう。
さてここで仮に、第二歩目までに現れた小さな純粋な交わりが
ある地域に6、7個 現れたとします。
その時 人はどんな反応を示すのでしょうか。

結論から言ってしまえば、人は「その反応」の結果、必ず
この三歩目で「こける」のです。第一歩と二歩目でこけることは
むしろ難しいことでしょう。しかしながら、第三歩目となると
何故か人は実にたやすくこけるのです。

これは何故なのでしょう。
何故なら人がその6、7個の第二歩現象に接するとき、そこに
「人のもの」が巧妙に「入り込まざるを得ない」からです。
悲しいかな、その「人のもの」を完全に防御するのは至難の業である、
と言ってもよいでしょう。だからこの二千年間、どんなに優れた
キリスト者のリーダーであったとしても 
(彼らの総て、と言っても良いかも知れない)
この第三歩目で皆こけたのです。


☆私情報
千葉の八千代市で一人暮らしを始めた
次男のジュン(精神障害を持つ)がこのところ
不安定な状況に陥り、私はいまだに実家におります。
何らかの対応が必要になるかも知れません。
皆様の祈りに覚えていただければとても幸いです。

2009年4月14日火曜日

佐倉訪問

*あるメールから*

もう、何と言ったら良いか分からないほどの
喜びで満たされています。
主は私の願いを、今日かなえてくださり、柄沢登兄弟、そして
その姉妹たちに会わせて下さったのです。

登兄弟の平安に満ちたお顔を拝見し、そして語り合い
「もう主は何というお方だろう!」と主を誉め称えます。
言葉はいらない、会っただけで全てが通じ合うのだ、と分かりました。

W姉妹と再会できたことも感謝です。主が、今日会うための道を既に、
去年の12月から備えておられたのでした。
エゼキエル33章と34章について私が語ったとき、瞬時に彼女が
反応してくれたこと。私はこんなに嬉しいことがないほど喜びました。

主が私を 既にたくさんの人達と繋げてくださっているのだと
今確信しています。主に感謝します。
「この道」は、主が全てを用意されておられ、私たちはそこを
進むだけです。これからも、主に自分の全部を明け渡し、
喜びと平安に満たされて歩くことが出来る!と感じているのです。
主に感謝しつつ。 

2009年4月13日月曜日

柄沢兄弟の為にお祈り下さい(7)

*余りにかけ離れた二つの情景*

柄沢登兄弟が
本日4月13日、自宅に戻られました。

[医師の判断とその言葉]
黄疸の症状が重く、数値的に極めて悲観的な状況である。
腹内に漏れ、散らばった胆汁を取り出さないと他の臓器の為に危険
である。しかし、胆汁を取り出そうとすれば、危険は更に増大する。
現実はそれほどまでにきびしい。

家族や親族が希望的に見るのは自由であるが、客観的に見て、
急速に日に日に悪化の度を加えており、回復は全くあり得ない、
これは直らない。ハッキリ言うと必ず死にます。だから最期の時、
緩和ケアを受けるか、自宅にするかを決めてもらったのです。
もしも明日、そういう時が来たら、本人が話せなくなり
意識を失った様に見えたとしても、話しかけ続けて下さい、
本人には分かるものです。

[病院内と帰宅の際の登さんの様子]
・登さんの様子と雰囲気:全く無理をしていない様に見える、自然体、
そして苦痛の表情がない。
・退院の前:登さんは一人でシッカリ シャワーを浴びた。
・退院に際しての看護士さんの言葉:柄沢さんは、こちらにミスがあった時も
嫌な顔一つすることなく、いつもニコニコしてくれたこと、本当に感謝です。
・最も病室にいることの多かった妻、良子さんの言葉:とにかく、
一緒にいることの大変さと言うものが全くなかった。

・どうやって帰宅したか:マイカーで帰った。こういう場合、途中の
急変にそなえ、それ用の車両を用いるのが普通であるが、本人の
希望により、良子さんの運転する自家用車で、娘と三人で帰宅した。
途中、スターバックスに寄り、
登さんの好きなアイスコーヒーを買い、楽しんで飲んだ。
・入院中、登さんがよく口にした言葉:有難う、嬉しい、
イエス様を信じてよかった。

*
真実に主を受け入れる前の登さんは、
自分をさらけ出すことなど決してなく、どちらかと言えば、
自分の中に閉じこもる人であったと言います。

今、以上の様な二つの余りにかけ離れた情景を前にし、
姉妹達はただ驚くばかり、
僅かの期間に、登さんをこのように変えてしまわれた主を
ただ賛美するばかりのようです。

祈ります:
「主よ、登兄弟が地上のエクレシアの中で、あなたが彼に与えられた
果たすべき使命を、余すところなく完全に達成するまでは、
主イエスよ、彼がみもとに帰ることを決して許さないで下さい。
それがいつであるか、一体誰に分かるでしょう。
登兄弟の父なる神よ、私達はあなたに完全に信頼し、
一切を委ねます。」

千葉は佐倉、柄沢登兄弟の家、
午前10時、朝ごとの礼拝が あす再開します。

☆  ☆

三つの方法

*あるブログから*
クリスチャンが死に勝利する3つの方法:
(1)私達の働きが終わるまでは死ぬことはないと
信頼することによって。
(2)死が訪れるとしても、死のとげは抜かれてしまった
と知るゆえに、死に対する恐れを全く持たないことによって。
(3)主が戻られる時には取り上げられるのだから、私達は完全に
死から解放される、と信じることによって。

「働きが終わるまでは死を見ない」ということ;
クリスチャンが自分の働きが終わり、もはや(地上に)留まりなさい
という主の要求がないと単純にわかるのでないかぎり、
その人は何としても死に抵抗すべきです。もし死の兆候が既に
体に現れていたとしても、まだ働きが終わっていないなら、
彼は積極的に死とその兆候に抵抗すべきです。彼が抵抗したことに対して、
主が働いてくださることを信じなければなりません。
彼にはまだ成すべきことがあるからです。

それゆえ、任命された働きから解雇されるまでは、身体的に危険な
兆候があったとしても、私達は安心して主を信頼することができます。
主と協力し死に抵抗することで、私達は即座に主が主のいのちによって
死を飲み込む働きを見ることになるでしょう。
(ウォッチマン・ニー著 「霊の人」より 私訳)
*   *
心に大きなアーメンがあります。
emi

☆
Sugar:
「主が戻られる時には取り上げられる」とは
キリスト者が、自分の肉体の死を経験することなく、
天に取り上げられること、携挙。

私を捕囚にせんとする巨大な力、即ち
私を取り巻く環境、感覚と経験(物質界の総ての様相)を
一切無視し、
「私に対する主の御こころ」のみを
「私の意志」として立つ。

2009年4月12日日曜日

死を征服する

*昨晩のメールから*

「霊の人」の最終章を少しずつ読み始めました。
興味深いです。

私達は、罪に服従するべきでないのと同様に、
やすやすと死にさえ服従するべきではないのです!

これには 敵に対してと同様、
「私の態度」と言うものが鍵となるでしょう。

ニー兄弟はひどい持病を持ち、その上
極めて過酷な環境を通らされました。
にも関わらず、70年以上も生きられた。
これはそのことと深く関係がある筈です。

今「主の御心」を知りたい、と
深く願わされております。

2009年4月11日土曜日

あるメールから

・・・
ところである失敗をしてしまいました。
先日、私が「主との調和」などと、御心について語った矢先、
今回、ある品が欲しくて(必要なのではなく)買いに走ったのです。
実は運転しながら「これは少し違うかな」と感じていたのです。
でも「やってみなければ結果はわからない」などと、
自分に言い聞かせながら。
・・そして、遂に買い物、終了。

ところが、
財布、あらゆるカード類・現金・診察券、玄関の鍵・携帯電話etc
一切が入っている大切な手提げ袋、それをちょっと脇に置き、食料品を
カートから袋に移している間に、消えてしまったのです!
「置き引き」というのでしょうか。正に自失呆然、しかしすぐさま
店と最寄の交番に届け出ました。しかし未だ出て来ません。
今日で3日目です。

神とこの世の物 全てが、私に相続財産として与えられている、
としても、私が、自分の自由と自分の力を むやみに行使していい、
と言うことはない筈です。
本当にあの時「これはおかしいな」と思った時点で、やめるべきでした。
その「これはおかしいかな」と思ったことが聖霊からの直覚であったなら
私はそれに従うべきであり、それこそが真の「主との調和」なのだと、
今気が付かせられているのです。
今改めて、自分の肉の強さを思い知らされております。

私たちの「物質的な必要」を打ち明けるべき相手は神です。神は、
神の子たちの必要を満たし、そして私達を感動させて下さるお方です。
以前永い間、宗教的クリスチャンライフを送っていた時でさえ、
神はどんなにか、私の経済的困窮を豊かさに変えて下さったことか。
それも何回も。
そんな経験していながら、今回 無くてもよい物を無理に手に入れよう
として、私は神を試すようなことをしてしまったのです。
でも、これを悔い改めます。

そして今、
「私の体の中でキリストが拡大されることを
求める切なる願い」(ピリピ1の20)
これが、切なる私の願いです。

*Sugar:
「私の体の中で」とは、
「私が肉体に留まっている間、この時空の中で」と言う意味です。

とらわれの身であった当時のパウロを思うとき、
私達が幾多の重い制限の中、この地上で生きると言うことの
意味の深さを思わされます。

その後、パウロはしかし、なおも果敢に生きました。
ピリピ書等 極めて貴重な書簡を残した4、5年あと、
彼は最後のⅡテモテを、再び獄中で書き、そして
ネロの突然の大迫害によって殉教したとされています。

「私は今や注ぎの供え物となります。
私が世を去る時は既に来ました。
私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、
信仰を守り通しました。
今からは、義の栄冠が
私のために用いされているだけです。」
(Ⅱテモテ4の6,7,8)
確かに彼は死を征服したのです。

今日のメールから

なぜか、とても、わくわくしています。
広がっていく「この流れ」を感じているのかも知れません。

今日、3時から兄弟と「祈り、聖書を読み、また祈る」という時間を
持ちました。その時に、兄弟に次のようなイメージが主から
送られて来たのです:
太い川があり、そこから無数の細い川が流れ出て地を潤していく。
その細い支流はまるで人の毛細血管のようであったと。
そして、その川の源に主である神が、水を注ぎ入れている、と言うのです。
完全な映像ではないのですが、イメージのように見えた、と言っています。

私も、主は明らかに今、何かを始められていると感じています。
私は、ここのところ2度「見よ、わたしは新しいことをする。
それがもう起きている」という言葉を受けています。
「何だろうね」と私と兄弟は言い合っていますが、具体的には何も
分かりません。しかし、主は「新しいこと」を始められたのです、
今までになかった何かを。

2009年4月10日金曜日

辞められない

*あるメールから*

「クリスチャンは辞められない」
これはまた「教会」にも言えることです。
「聖書で言っている教会」は
人がいったん「その中に生まれたなら」
辞めることはもう不可能です。
入会や脱会など無用ですし関係ありません。
これを真に霊の目で見るなら、もはやその人の
右往左往は完全に停止するでしょう。

最近私はその混乱を避けるため、教会でなく
エクレシアと言う原語を使っています。

「物質の十字架を印とするソサイティとしての教会」
は辞めることが出来ます。しかし、
エクレシアは永遠に辞めることは出来ません。

2009年4月9日木曜日

Ⅰコリント7:14、聖別の意味

この箇所のパウロのことば:
「キリスト者の妻や子供が聖別される」にある「聖別」とは
性質上の聖の所有ではなく、地位的な聖別、言わば神による
区別に過ぎません。元々聖別とは、神の目的の為に分離される事
です。神から見てキリスト者は性質上あまりにも聖い
(キリストの故に)ので「そのキリスト者に属する妻子」
は、地位的に、時空の中、物質世界において、神は彼らを
「他のものから分離、聖別する」のです。

この「地位上の聖」については原則的に
「黄金を聖いものとする神殿」(マタイ23の17)や
「祈りによって聖められる食物」(Ⅰテモテ4の5)
と同じ原則が適用出来るでしょう。

*
真のキリスト者とは、人の霊の中において、
実質上、本質的に、神そのものの命と一つにされた聖なる存在、
即ち聖徒です。だから内的には彼はイエスと全く同じです!
それは神にとってあまりにも貴重な存在です。

故に、その「キリスト者に属する」人さえ、即ち彼の妻子も
「地上的には、物質的には」彼の一部なので、立場上「他の彼に
属していないもの」とは区別して、神は大切に扱って下さるのです。
それが地位的な聖別、分離、区別です。
だからキリスト者の妻子が「永遠の命を頂く」ためには 
とても恵まれた場所、救いに極めて近い所にいると言えるでしょう。

しかしある時、彼らでさえ、個人的にイエスに心を開き、
イエスを神の子として受け入れる瞬間が必要です。
その瞬間その人は、神の命を内に頂き、神の国の中へ、何と
「神から生まれる」のです。それは「ある身分の賦与」のみならず
言わば「神の家族の霊的天的な血」*を受け継ぐことです。
それは決定的、本質的、性質上の問題なのです。

*
人が救われる為に、信仰は欠かすことが出来ません。仮にもし
「キリストの血は全世界のためであったから、人は神を信じなくとも
救われる筈である」と人が言うならば、それは神の真理の
根源的な部分を破壊することになるでしょう。
これは決して小さなことではありません。
信仰は恵みと絶対的に一つであり、それらを人の手によって
切り離すことは出来ません。それは「神の定め」なのです。

アブラハムとサラは決して「別れられなかった」のですが、
その場合、サラは恵みを、アブラハムは信仰を表しています。
従って、もしある人が「その一方の信仰」を破壊するならば、
その人は、神の恵みをも破壊することになり、彼はいずれ、
相当深刻な事態を身に招くでしょう。(アブラハム、サラの物語から)

人は、キリストの十字架が「個人的にその人に適用されること」によって
初めて救われるのす。しかし、またもや人が、人は「肉の血縁」によって
救われると言うのならば、彼は神の救いの真理の根幹に触れ、おのずと
「キリストの十字架の価値」と「その適用の必要」の真理に
抵触して行くことになってしまうのです。これは深刻な事態です。
「神の第一級の」性質上の命の救いにはどうしても、人の信仰による
個人的適用が欠かせないのです。

☆
以下は付録として記します。

しかし聖書にこういう他の面はあります。
真のキリスト者は神にとってあまりに尊いので、それ故に
そのキリスト者が艱難に遭遇している時、水一杯をキリスト者
(イエスの兄弟)に恵んだ人でさえ、その行為の故に
その人が「神から頂くある大きな幸い」から逃れることはありません。
その恵んだ人は「神を内に命として頂くという性質上の救い」
に預かることはありませんが「神の救いの領域の中に」救われる
人となるでしょう。そういう人々は最終的には新エルサレムにおいて
「地的領域における諸国民」を形成するでしょう。

また命を分与される「恵みの福音」或いは「天国の福音」でなく、
艱難時代に「永遠の福音」を受け入れた人々も同様です。
(黙示録14)彼らは神を正当に拝む人々となるでしょう。
しかし彼らとて「神の家族、イエスの兄弟」となり、
命・性質において神のものになる、ことはあり得ません。

*
キリスト者、キリストの命を内に持つ者とは、あまりにも卓越した
霊的、天的な存在です。はや千年王国でさえ、彼らの中の
「正常な者達」は「天において」イエスと共に、
地と地の民とを支配するでしょう。
一方「物質的、地的な神の民」ユダヤ人、そのレムナントは
地的領域を支配し、人々に、真の神への礼拝を指導する筈です。

しかしそれらの素晴らしい救いでさえ、あの「第一級の卓越した救い」
には遠く遠く及ばないのです。
今この時代に永遠の命を頂くという稀有な救いに預かる少数の人々は
言わば「気が遠くなるような」恵みに浴するのである、
と言ってもよいでしょう。それは完全に人の思想を超越する事実です。
何と彼らは「神の子となる特権」にあずかるのですから。

注*:
「神の家族の霊的天的な血」と書きましたが
厳密に言って、天には「からだ」はあっても、血はありません。
何故ならイエスの血は、あの十字架において
総てその骨肉から注ぎ出されたからです。
今回、分かりやすさの為、「命の結合」を表現するべく、
敢えてこの言葉を用いました。

2009年4月8日水曜日

emi さんのブログから

姉妹から、K兄弟の病院での様子を聞いた:
主に直結してしまった兄弟。内におられる御霊が、
日々いのちを与えておられる。内なる主の認識、御言葉の近さ。
院内のスタバへ行かれたこと、きびきびとした動き。

今日、生かしてくださる方。
「生きよ」と言われる方。
よみがえりのいのち。
主から流れてくるものが、私たちの内で働き、
また私たちから流れて行く。

神の全能の力の働きによって、私たち信じる者に働く
神のすぐれた力が、どのように偉大なものであるかを、
あなたがたが知ることができますように。

Romans 8:11
もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、
あなたがたのうちに住んでおられるなら、
キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、
あなたがたのうちに
住んでおられる御霊によって、
あなたがたの死ぬべきからだをも
生かしてくださるのです。

柄沢兄弟のことば

*柄沢兄弟の為にお祈り下さい(6)*

昨日、妻の良子さんが病室から
帰られたあと、医師が一言
「家に帰っても、もう点滴、いらないですよ」と
言ったという。
いろいろな意味に取れる、この不用意で舌足らずな
医師のことばに、登さんはすっかり落ちこんでしまいました。
このことを知った姉妹は、直ちに励ましの言葉を
登さんに送ったのです。

以下は、それに対する登さんからの反応です。
これは彼が落ち込んだ、それから間もない頃に
書かれたと言います。

☆
主は私のただ中におられます。

「シオンよ。恐れるな。気力を失うな。
私の神、主は、私のただ中におられる。
救いの勇士だ。」

私に、その愛によって安らぎを与える主に
感謝、感謝、感謝 ♪♪(この音符も彼です)
☆

今日登さんの様子は
とても「元気」であったそうです。

2009年4月6日月曜日

同じ思い

*あるメールから*

柄沢兄弟のこと、
どのように祈ったらよいのだろうか、
と思わされ、そして私はある所に行き着いのです・・

人として、自分に体があるならば
癒しを求めるのは当たり前のこと。
でも
本当に価値あることはそれなのだろうか。
ならば、先ずは「神の目に価値あるもの」を
求め、そのために祈れないものであろうか、と。

私に信仰があるとするならば、次に私は
私の総てを真に「神のもの」として欲しい、と思うはず、
だとすれば、私はそれを決心し、そして実際に
私自身を神に捧げるべきではないのだろうか、と。

*
驚ろいたことは
これと同じことを良子さんが思い、
その答えをお姉さんから与えられ・・と言う出来事。
なんと不思議でしょう。
私に与えられた祈りが、
遠く離れた所にいる姉妹たちと
全く同じだったとは。

信じます。
これは本当に
主から来たことに違いありません。

兄弟はこれから、どこでどう過ごそうとも、
身も心も真に主のものです。
ただ神を賛美します。

知覚を超えた喜び

*あるメール交換から*

神に自分を捧げてからは、
自分の苦しみは神の苦しみとなり、
またそれを自覚(理解)することで、苦しみの共有に至る。
生のすべてが主に取って有用となり、価値を持つ。
主が受け取って下さったあとは、
それは霊においてのことがらなので、
意識において何を感じていようと、
あるいは感じることができなくても、
関係ないのでしょう。
私もまた、ただ主を信頼していようと思います。

スタート地点においては「自分の苦しみ」であっても、 
霊において主と共有するのは、それも含む主の
さらに広範囲に渡る苦しみ…
「聖徒たちが完成に至るための苦しみ」なのでしょう。
そこに、共に預からせていただける。何ということでしょう。
理解が深まりました、感謝です。


☆
「意識において何を感じていようと、
あるいは感じることができなくても・・」

そうです。
私達の場合、
苦しみのただ中にいるとしても
「主と共なる苦しみ」であるが故に
「ある深い喜び」が確かにあるのでしょう。
しかし、それは殆ど知覚出来ない、知覚を超えた
苦しみの中の喜び。

しかしかつて
「父と共なる」苦しみをさえ
完全に奪われた、ただ一人の人がいたのです。
しかし「その人」にも、唯一確かな
知覚出来ない喜びがあったのでしょう。
それは、命なる父からさえ、
遠く切り離されたその無限の苦しみと死こそが
正にその父なる神の「御こころ」。

そして、
この苦しみと死は、
復活への只一つの門であり、
かつては神の敵であった、多くの人々をして
「超越した彼御自身」・
「エクレシア」の中へと至らしめ得る絶対確実な門。

☆
「私が(十字架に)上げられるなら、私は総ての人を
自分のところに引き寄せます。」(ヨハネ12の32)

2009年4月5日日曜日

柄沢兄弟の為にお祈り下さい(5)

*柄沢兄弟の献身*

・「あなた方の手足を不義の器として罪にささげてはいけません。
むしろ、死者の中から生かされたものとして、あなた方自身と
その手足を義の器として神にささげなさい。」(ローマ6の13)
・「あなた方のからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として
ささげなさい。それこそ、あなた方の霊的な礼拝です。」(ローマ12の1)

この御ことばについて聞いた姉妹は、すぐにこれを登兄弟に伝えたい
と思いました。そこで、先ず妻の良子さんにそのことを話しました。
するとある不思議なことが分かったのです。と言うのは・・
良子姉妹はその日に至るまで、御前で次のように思い巡らし、
求めていたと言うのです:

「私は夫の為に、これから何をしてあげるべきなのだろうか。
彼が永遠の命を神からいただいたこと、これは言うまでもなく、
感謝なことではある。でも果たしてそれだけでいいのだろうか。
完全な永遠の救いを与えられた今、この貴重な時間の中で次に
「永遠に価値のあること」があるとすれば、それは一体何なのだろうか。
神の御前で、私は夫の為に何を話してあげるべきなのであろうか・・」と。

その時お姉さんから、あの「ロマ書の御ことば」を示された
良子さんは直ちに「それこそ私が神の御前で求めていたもの、
そのものであることが分かった」のです。

病室に登さんを見舞い、その二つの神の御ことばを
彼の前に置いた姉妹達は兄弟に語りました。
「登さん、この御ことばは決して神の強制ではありません。
でもそれは、永遠の命を既に持っている兄弟への神からの勧めです。
だから、あなたは自分の判断でそれを受け入れるかどうかを
自分で決めればいいのです。それで、登さんはどうされますか?」と。

登さんはどうされたと思いますか。
彼はハッキリ「その御ことばを受け入れます」と言われたのです。
ベッドに横たわったまま彼は、次のように祈ったと言います。
「主よ、私はこの私のからだを、あなたにおささげ致します。」

☆
多分あすかあさって
登兄弟は大切な決定をしなければなりません。それは
今後、退院し、自宅で療養を続けるか、それとも
ホスピスのような緩和ケアを受けるのか、と言う決断です。
幸いなことに、
私がお聞きしたところによれば、3日現在、兄弟は、
「大過のない」時間を過ごしておられます。

☆
祈ります:
その献身を喜んで受けられた「柄沢兄弟の神」よ、
あなたの御手の中に置かれた兄弟の霊と魂とからだを、
この時代の中、そして、エクレシア・神の国において、
今こそ生きて働く永遠に価値あるものとして下さい。
そして、神よ、あなたはその御業を
今既に力強く行われていることを信じます。

2009年4月4日土曜日

献身

「あなた方の手足を不義の器として罪にささげてはいけません。
むしろ、死者の中から生かされたものとして、あなた方自身と
その手足を義の器として神にささげなさい。」(ローマ6の13)
これは確かに「神の勧め」ですが、決して「神の強制」ではありません。

ここに一つの事実があります。それは、
神は「人の自発性」を事のほか尊重される、と言うことです。
確かに信仰とは「神ご自身がキリストにあって既に達成されたこと」をただ
信じ受け入れることです。それ故にキリスト者の生活とその態度は、総て
「神から受動的に受け入れるだけである」とキリスト者は誤解し勝ちですが、
実は決してそうではありません。

自由意志、これがキーであり、人と神の間にある決定的な要素です。
神はいったん人に自由意志を与えられた以上、神にさえ介入出来ない
「人の部分」と言うものが確かにあり得るのです。
敢えて言えば、神はあの日以来、大いなる制限の中にご自分を
閉じ込められた、と言ってもいいでしょう。偉大な神は、人が自由意志を
行使し、神を拒絶する「権利」をさえ人に与えられたのです!
従って「人の自発性」というものが、神と人の双方にとって極めて重大な
意味を持つのはこのような背景から十分言えることなのです。

それでは、神が事のほか喜ばれる人が実行すべき「その部分」とは
一体何でしょうか。それは「人が自分の自由意志を十分に行使し、立って、
神の御こころ、神の意志を、自分の意志として選らび取ることです。

前述の「自分の手足を神にささげること」はその最たるものでしょう。
人にその義務はありません。しかし、それをあなたが神の心をくんで
自発的に行うとき、神は、あなた自身とあなたの手足とを、事のほか
喜んで引き受けられるのです。これこそが真に聖書的な「神への献身」
です。(現在広く常識となっている「職業的な伝道者に志願する」
等と言う意味は聖書のどこを捜してもありません。)

あなたが、あなた自身を神にささげた日以来、神はあなたの手足、
体の総てを、神ご自身のものとして受け入れられるでしょう。手足とは
何か時間の中の存在です。従って神は、あなたの人生の残された
総ての時間をも、あなたの手足同様、御自分のものとして
ご覧になり、取り扱われるのです。

それは、神と私にとって、
その日までの「私のための神」から「神のための私」への
一大転換の日となるのです。

2009年4月2日木曜日

不思議な導き

*以下はルーク氏のブログからの転載です*

今晩、九州のHさんからお電話をいただいた。
30年以上前にペンテコステ系の"教会"でぼろぼろになり、
その後聖書に立ち返り、個人的な主との交わりにあって真理が
開かれ、結果としてそこを追い出されて、現在は名前もない
兄弟姉妹の交わりを非定期に行っているとのこと。彼は言われた、
「キリスト教とはもう縁を切った。大切なのはいのちであって、
普通の生活を淡々と主と共に生きることです。今のいわゆる
リバイバル運動などは偽者です」と。

驚きました。何か打ち合わせたかのように、私と同じ事を
言われるのです。年齢も私よりも上で、ちょうどSugarさんと同じ位。
55で早期退職をして、主の道に専念し、現在は20人程度の兄弟姉妹と
集まっておられる。「教会はキリストの体だから別に名前をつける
こともない」として、名前もない。しかも毎週集まるわけでもない。
集まる時は兄弟姉妹の交わりを楽しみ、主を賛美するだけ。

こう言った歩みをされている方がいるのです、全国のあちこちに。
キリスト教と言う囲いに閉じ込められることなく、広い牧草地に
出られたことは幸いであったと。かなり厳しいところを通られたよう
ですが、今、主にあって安息しつつ歩むことを願っているそうです。
初めてのお話でしたが、何だかあっと言う間に違和感なく主にある
交わりに入れました。いつかお目にかかる日も近いことでしょう。

☆
これは掛け値なしに素晴らしい。
何か純度を感じさせられます。
敵はこれから、その業をエスカレートさせて行くでしょうが、
主も間違いなく働かれます。このような人々がこの地上のあちこちに
もうすでに準備されていると私は何故か信じているのです。
それは人の汗と熱などとは全く無縁な何かでしょう。
本当にただ主を賛美するだけです。

ある兄弟のメールから

3/31
昨晩の実験はうまく行きませんでした。
今日がリミットのラストデイです。

4/1 朝8時
今電車で東京本社に向かっています。とても残念ですが、
以前から私が会社経営幹部の方々に約束したレベルまでは
到達出来ないまま、リミット3月31を迎えてしまったのです。
今日、他のことも含めて社長に状況を説明します。

しかし、
いかなる状況でも、総ては神の御手の中にあり、自己を死に渡す
絶好のチャンスです。今私は、神の同労者になることの真の
苦悶の中にあると感じております。
状況は違っても、柄沢兄弟も同じこのような苦痛や苦悶、キリストの
十字架の死を通過することができますようにと祈っております。

夜10時
不思議です。
今日の午後4時頃、現在の状況を社長に説明しましたが、驚くことに
社長は「別会社にして、やれるところまでやりなさい」と
言われたのです。そして、更にまた不思議なことには、
先程工場に電話して見たら、目標に達するデータが出たと言うのです。
まさに1日遅れで目標値に達したのです。
本当に不思議です。

ある情報から

アメリカでは、臨死体験者が急増しているようです。
魂が肉体から離脱し、二つを結んでいる銀のひもが
延命治療のために切断されず、魂が天国体験、神体験、光体験等、
超能力体験をして人生が変わる、と言うのです。
東洋でも、神秘体験やヨガの呼吸法などでも、
臨死体験が起こるとされます。
ヒマラヤの神智学、クンダリーニと言われている蛇の覚醒、
チャネリングと称して宇宙意識の声を聴く瞑想。
ブリーヂングと呼ばれている過呼吸法などがあります。
クリスチャンの中にも、臨死体験を十字架の死だと
信じている人もいるそうです。

☆
兄弟、情報をありがとう。
「神はただ、人の霊の直覚を通してのみ
神の御こころを知らせられる」
と言う真理がいまこそ強く主張されなければなりません。
これは神の一大原則なのです。

しかしながら今もう既に、相当の悪影響がキリスト者達を侵害して
しまっていることでしょう。私たちも今、神の前にへりくだり
既に受けてしまったであろう「霊的な」影響を想定し、それらをよく
調べて見る必要があるのではないでしょうか。なぜなら
「空中を源とするこの世に吹く風」を「優しく」ほほに受けた
ことのないキリスト者はほぼ皆無であろう、と考えるからです。

私たちが記憶しなければならないのはこれです:
あまたある人の書物の中で「ただ聖書」のみ、そして
あまたある人の知覚の中で「ただ人の霊(直覚)」のみ、
と言うあまりにも基本的な真理です。

「内側から人の霊に語る聖霊、そして外から語る聖書」オンリー
神が人に語る手段はただこの二つです。これをまとめて言えば
「聖霊」は「聖書」を通して「人の霊」に語る、
と言うことになるでしょう。「おびただしい数の書の中で、
ただ聖書、そして、無数の人の知覚の中で、ただ直覚」だけです。
(この両者、聖霊と聖書は内外で互いに呼応・エコーイングすること
を知るべきです。その両者の実質は全く同じであるからです。)

これは明確な神の定めであり、神はこの二つの為にこれまで敵と
幾多のバトルを繰り返して来られたのです。この時代以後その有様は
必ずその度を増し加えるでしょうが、表面的には敵が優位に立つ
かの様に見えるでしょう。そのような混沌とした状況の只中に住んで
いる故に、真に真理を識別出来る「キリスト者」はごくごく少数に
限られるはずです。人々はいともたやすく諸々の「悪霊」の仕業を、
神の働きとみなし、それらを礼拝するでしょう。ここで礼拝するとは、
それらの現象を尊重し愛することを意味します。
(その場合の礼拝もやはり24時間です。)

もし聖書がなければ、どこに神のことばがあるのでしょう。
そこにあるのはただ混沌です。
もし人の内的な機能である「人の霊」がなければ、
どこで神の声を聞くのでしょう。
そこにあるのはただ大混乱です。
しかし今既に、その混沌と大混乱が地上を埋め尽くそうと
している、と私達は見るべきです。

*
上述の「空中を源とするこの世に吹く風」:それは
「この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として、
今も不従順の子らの中に働いている霊」です。(エペソ2の2)

*
「あまたある人の知覚」について:
これについて述べるとすれば、殆ど際限がないことになるでしょう。
人の感情の持つ無数の知覚、思いに訪れるおびただしい考え、身体の
多くの器官が感ずる諸感覚、それらの一つ一つに対して「他の霊」は
「不思議で素晴らしい」働きかけをすることが十分可能です、
もしもあなたが神の意志を自分の意志として取り、その上に立ち、
「諸霊」に対して断固抵抗するのでなければ・・。

「愛する者達、霊だからと言って、みな信じてはいけません。それらの
霊が神からのものかどうかを、試しなさい。何故ならにせ預言者が
たくさん世に出て来たからです。」(Ⅰヨハネ4の1)

2009年4月1日水曜日

今朝、ある兄弟のメールから

以下はある本の記述です。

『私はキリストのために生きます。
これはどのような意味でしょうか?
多くの人は、主のために生きるとは、「主のために働くこと」である、
あるいは、「主を愛すること」であると思っています。
そうではありません。

主のために生きるとは、神のみこころのため、
神の利益のため、神の王国のために「生きること」です。(中略)

私たちが単に、私たちの自己のために、神からの慰めと幸いを
求めているだけなら、それは神のみこころを行なうことではありません。
(中略)主のために生きるとは、自分自身のために少しの余地も残さず、
進んで自己を完全に死に渡すことを意味します。』

*
さて、
総ての状況は神の御手の中にあり、自己を死に渡す
絶好のチャンスです。実は、私も仕事の上で今
とてもとても苦しい立場に立たせられております。
柄沢兄弟はしかし、比較すら出来ないような、言語に絶する
苦痛、苦悶の中におられます。
にもかかわらず私はこの時、兄弟がその苦しみのさ中においてさえ
主イエスと共に「真の十字架の死」を通過して
行かれるようにと祈らざるを得ないのです。


*
Sugar:
イエスは弟子はおろか、彼が忠実に従われた父からさえ見離され、
全く完全孤独の中、ただ御こころ成就の為に、
一人黙って死の真ん中を通って行かれました。
しかし私達は孤独ではありません。その主御自身が私の苦しみを
共に担われるだけでなく、「キリストの苦しみの交わり」
(ピリピ3の10、原文)をも与えようしておられるのです。

柄沢兄弟の為にお祈り下さい(4)

幸いなことに、
入院後直ちに受けられた水分の点滴によって
登さんは元気を取り戻し、
その晩はよく眠られたと言います。

しかしながら客観情勢は極めて厳しいものです。
黄だんの症状は重く、飲食物の通過障害が激しく、
更に、もしも胆汁が血液に流れ込み脳に達することがあるならば、
精神的な錯乱もあり得るとのことです。
そのような状況から、担当医師は何と「あと二ヶ月」を覚悟して下さい
と言われたのです。しかしセカンドオピニオン(姉妹達の兄弟
である医師)の判断は更に更に過酷なものであったと言います。

今、その「覚悟」について触れるならば、
登さんは、神に対する様々な願いは願いとして
「主に一切を委ねる」と言う心積もりは、
相当以前から持っておられたようです。

今、登さんをもまじえた姉妹達の交わりの中で、
世に言ういわゆる「禁句」のようなものは一切無いと言います。
死について、覚悟について、彼らの間でその他必要な会話を阻害する
壁は、彼ら主の復活にあずかった聖徒達の間からは、
ことごとく取り払われてしまった、と言えそうです。

*
旧約聖書から、ゼパニヤ書、3章の14節から17節。
これは妻の良子さんが、
ご主人の為にと主から与えられた神の御ことばです。
これを登さんは病室で、
今、毎日のように読んでおられるのです。

☆
シオンの娘よ。喜び歌え。
イスラエルよ。喜び叫べ。
エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。
主は、あなたへの宣告を取り除き、
あなたの敵を追い払われた。
イスラエルの王、主は、
あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。
その日、エルサレムはこう言われる。
シオンよ。恐れるな。気力を失うな。
あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。
救いの勇士だ。
主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、
その愛によって安らぎを与える。
主は高らかに歌って、
あなたのことを喜ばれる。
☆

「主は、あなたへの宣告を取り除き、
あなたの敵を追い払われた。
イスラエルの王、主は、
あなたのただ中におられる。
あなたはもう、わざわいを恐れない。」

2009年3月31日火曜日

あるメール交換から

今、ブログを読みました。
柄沢兄弟のこと、
読んでいて涙が止まりませんでした。
兄弟が、主を受け入れられた時、
心から主に祈るとき、主はそれを聞き届けて下さること、
主は生きておられ、私たちの声に応じてくださること、
みなとても感謝です。
必ず、柄沢兄弟のことを家族で祈ります。

実は私の夫も
まだ完全に主を受け入れていると言う訳ではないのです。
でも、主がその時を、今から準備されているのだと信じます。
人が救われること、それに勝る喜びはないのです。

☆
感謝です。
ゼヒゼヒ、柄沢登兄弟の為にお祈り下さい。

佐倉、酒々井の交わりには、確かに今「主の生ける何か」が
流れているようです。その中の一人の姉妹が言われました:
状況はとても過酷なのですが、何故か私達の間に、人からではない
不思議な深い平安があるのです。いつも顔を見合わせる時、
必ず言うのです「この平安は一体何でしょう」と。

さて、登さんの為に祈る時、その祈りよって、
遠くにいる私達も、彼らの交わりそのものの中に、
今直ちに入りこむのではないでしょうか。
そしてその交わりは同時に、父なる神と
主イエスキリストとの交わりなのです。(Ⅰヨハネ1章)
この交わりこそが、エクレシア・教会の
実質、本質そのものに違いありません。

この尊いエクレシアの交わりが、
今苦しみの只中にある登兄弟の奥深い霊にも達し、
そこから神御自身の何ものかが、兄弟の中へと
確実に伝達されるに違いありません。

このエクレシアの真実な交わりを思うとき、
私達はただ、神を賛美するだけなのです。
なぜなら、それはみな
神御自身の真実から、だからです。

だから主よ、登兄弟を、そしてかれの肉体を
あなたの「その真実」の中にゆだねます。

ある試み「腑に落ちる」

A:人への神の直接的な語りかけは、人の霊以外の場所に対して
行われることは絶対にない。他の、人の機能(魂や体)への
ダイレクトな感覚はむしろ神の敵からの感覚であることが多い。
だからキリスト者は「人の霊」に対する神からの「感覚を超えた
かすかな感覚」をキャッチしなければならない。
これはキリスト者にとって極めて重要かつ、
実際的実践的な日々の課題である。」

B:しかし、とは言っても、上記のことの実行は容易なことでは
ありません。何故ならこれを実行する為の基礎部分には、
単なるハウトゥでは片付かない多くの「深い学び」が
要求されているからです。

しかし私は、もしも主が許されるのであれば、
ここである試みをして見たいと思うのです。それは今述べたBと言う
「深く重い学び」はとりあえず脇に置き、いきなりAに入り込んで見たら
どうなるのか、と言うことです。(実際経験では、AとBとは、後になり
先になりして進んで行くものでしょうが・・。)

*
そこでここに、ある兄弟の体験を紹介します。
しかし当然のことながら私は、この兄弟の記述と経験が、神の真理に
照らした上で、全く総て正しいと言いたいのではありません。
これはあくまで、彼独自の追及と実行に過ぎません。
また「彼にはBの学びがない」などと言うつもりも毛頭ありません。

ただ確かに言えることは、この兄弟の体験は、私達にとって大いに
参考になり、そして多分私達の助けにもなると思われることです。
少なくとも今この兄弟には、ややもすると私達に見失われがちな
主を思う心と若さ、そして実践力があるのです。これは貴重な要素
であることは明白です。主は御自身の為に「夢中になっている魂」を
愛されることはいつの世においても否定出来ない事実なのです。
 

N兄弟:
いわゆる「腑に落ちる感覚」というものが一番大事かと思います。
魂の部分で「こうだ!」とか、「こういう啓示を受けた」と思っても、
内側がざわめくとき、それは決して上手くいきません。

しかし逆に、魂の部分で「嫌だな」と思っていても、内側の霊に
深い安息と、時として沸き立つような喜びがあるとき、それは必ず
上手く行きます。魂の部分と内側が同調して、魂も内側も深い安息と
沸き立つような喜びがあるとき、それは絶対に上手く行くのです。
それを私はまとめて「腑に落ちる」と言っています。

以上が、私が短い「経験測」より導き出した答えです。霊の語りかけが
不明確でささやかなとき、私が行うことは「主よ、しもべはここに
おります、聞いております。どうぞお語りください。」という短い祈りです。
するとそれは御言葉による祈りですから、邪霊やサタンは引き下がり、
御声がはっきり聞こえるようになります。

ただし、この前提として必要なのは、
・主は生きておられ、私に対して明確に語る御方であると知ること。
・「何でも内なる油に聞きなさい」ということを知ること。
・そして、その二つを、自分に適用するという意味において、
自分の意志を用いて信じることです。
もっと簡単に言うと「霊に語られる言葉は神様の言葉である。
神様とケンカしても勝てないから、逆らわないのが利巧」である、
要は「聖なる打算」の下に、神様に「白旗」を上げることである、
と私は考えております。

それでも、自分の思いか御声かわからないときには、
神様に丸投げしています。

2009年3月30日月曜日

柄沢兄弟の為にお祈り下さい(3)

*入院に至る*
「昨晩 眠れたことを感謝します」と彼が祈ったその日はまた
吐き気の為に水を飲むことが困難な日ともなってしまいました。
その夜のことです:
入浴をした登さんは、ひどくノドの渇きを覚え、一人で次のように
祈ったのです「主よ、水が飲みたいのですが飲めないのです。どうか
助けて下さい!」その時です、登兄弟は「今飲みなさい」と言う
語りかけのようなものを感じたと言うのです。直後、ムカつきは直ちに
おさまり、シッカリ水を飲むことが出来たのです。これには登さん
自身がとても驚き、翌日の集まりの際に、皆にこれを証ししたのです。

その朝の集まりの中、彼は次の様にも祈りました。
「主よ、私には、見たいもの、聞きたいものがあり、そして
行きたい所もまだ多いのです。だからもっと生きたいのです」と。

しかし、
過酷にも症状は更に進み、登兄弟の頭の中は常にセミが鳴いて
いるようになり、腹部、胃の張りはひどく、更に背中に強い痛みを覚え、
そして黄だんの症状も現れてしまいました。しかし最も深刻に懸念
されるのは、体の脱水状態です。
このようなぎりぎりの状況の中、つい数日前の3月25日、自宅療養は
今、既に限界に達してしまったと判断するに至ったのです。

あるメール交換から

N兄弟:
私達は、どんなことがあっても、周りでどんな教えの風が
台風のように吹き荒れても、イエスにとどまり、御言葉に
留まり、そして御父に留まるべきと考えます。

Sugar:
アーメン!それこそが信仰の真髄です。
信じるということの本質は、実は感覚よりも意志の中にあります。
「神の御こころ・御ことば・神の意志」を、私の意志として取り、
受け入れ、その上に堅く立つのです。その時に、私がどう感じようが
何を思おうが、その感覚や考えに神はあまり関心を寄せられません。
神は、私達がただ彼のことばを率直に信じて欲しいのです。

私自身のことを言えば、信じた後、強い幸福感をよく経験する者
なのですが、その時喜び過ぎて、その感覚を見つめることは
決してよい結果を生みません。下手をすると、私はこんなにも
臨在感覚や天的感覚を感じることが出来るのだから、きっと霊的に
大いに進歩したに違いない等と思うかも知れません。
それは実にこっけいな状況なのです。

そのような時、キリスト者はいつの間にか、キリスト御自身や御言葉
よりも、この世界に存在するリアル感に満ちた無数の物達の影響
によって引き起こされる私の感覚、雰囲気、環境を信じ、それを
追いかけ、遂にはそれらに振り回されるようになってしまうのです。
この状態は大いに危険です。

もしそうであれば、キリスト者が、幸福感とは逆のマイナス感覚
や逆境などの状況に四方八方取り囲まれる時、自分を見る影も無く
哀れなものと感じ、信仰さえなくなってしまったのかと
大いに誤解し落胆するのです。これがよく私達が経験する
キリスト者のアップダウンです。

真に信じるとは、物質から来るリアル感、常に変化する様々な
状況などに影響されることなく、不動の「見えないもの」
神の真理に目を注ぐことです。
信仰とは3K、自分の感覚、環境、経験が総て入っているガラスコップの
「背後に」立ち「その小さなコップの中の3Kの総て、笑いと嵐を」を
静かに見おろすのです。
そして自身は何の上に立つのか。
それはただ神の真実と真理、動くことの無い神のことばの上にです。

柄沢兄弟の為にお祈り下さい(2)

残念ながらこの三月に至り、柄沢登兄弟の病状は進行しつつある
と言えそうです。胃の圧迫感、吐き気、食欲不振がその度を
加え、柄沢兄弟を苦しめているのです。

しかし3月10日に至り、主はあることを開始されました。
それは登さんのもとに3姉妹が毎朝集うことです。登さんは、
吐き気が強いため、そばにビニールの袋を用いして、集いに
加わわられます。彼はそこで姉妹達に、祈って下さいと
言いました。皆で賛美を歌い、次に姉妹達は声を出して次々と祈る時、
皆さんの祈りの後で登さんもアーメンと言います。

ある日、彼は夜、眠れなくて苦しいと言いました。その機会をとらえ
ある姉妹が「登さん、そのつらさをそのまま、声を出して主に
訴えてごらんなさい」と勧めました。その時、登さんは「主よ、辛いです。
夜も眠れないし、食べることも苦しいのです。助けて下さい」と
祈ったのです。翌日の集まりで、どうだった?と聞かれると、
彼は「眠れました!」と言ったので、今度は「それではそのことを
主に感謝して見たら」と勧めました。そして彼は「主よ有難う。
吐き気はありますが、眠れたことを感謝します」と言ったのです。

*
今しかし
状況は予断を許さないほど深刻であると言えます。エクレシアにある
皆様方の、緊急なお祈りが急務であることは極めて明らかです。

「登兄弟を愛し、その命をも捨てられた主よ、
あなたが今 彼に御自身を現わされますように。そしてあなたの御こころが
あますところなく、彼の上に実行されますように。しかし主よ、私達の願いは
彼が今、その苦しみから解き放たれ、その肉体が癒されることです。」

今現在 彼は入院中です。

2009年3月29日日曜日

ある質問に答えて

復活とは
Aを消滅させ、天からのBを、Aのあった所に入れ換える事ではなく、
AはあくまでAとして、その古き要素は捨て置き、Aそのものの中に
天的要素を入れ込むことです。

人そのものについて言えば、十字架において
神は人を全く消滅させること等決してなく、復活において
人に復活の天的要素を入れ込む、或いは人を
「復活という要素」と一つとする、と言うことだと思います。

人の魂の機能をエンジンの機械部分とし 
その魂の命を電気(或いはガソリン)に例えるならば
機械も電気も「旧物質」であり、旧創造なので、これらは
十字架と言う手段によって墓に捨て置かれなければなりません。
しかし、その意味は、神が人の魂の機能と命(機械と電気)の
総てを墓の中で永遠に消滅させると言うことではありません。

神は
A「人の復活した電気」(復活した魂の命)と
B「天的な電気」(聖霊)とを一つにして下さるのです。
そのようにして一つとされた天の命(エネルギー)によって、
私達は将来 永遠の中で、いつまでも人として生きることに
なるのです。聖霊には死と復活は必要ありませんし、
あり得ません。余談ですが、神は人(物質)となられたイエス
において、死が初めて可能となったのです。

神は神が創造された人のいかなる部分、人の魂の機能と
魂の命も失敗作として「完全破棄」されることは決してなく、
それを天的な要素と一つに結合されるのです。
その為には先ずもって、古き要素だけは必ず、
十字架において破棄されなければならなかったのです。

*
それにしても、復活とは不思議です。
死による完全な終結の後で、その原型を留めたまま、
それが、天の成分、復活と言う要素で満たされ得るのです。
(或いはこれを「新物質」と呼んでも許されるかもしれません!)

しかし、これは人の知性にとって、その理解は極めて困難です。
何故なら、人の辞書では、死・終結とは、新しい開始など
絶対にあり得ない完全な「終わり」を意味するからです。
人の「旧物質である頭脳」の知的能力は、その対象がただ旧物質
と言う範囲内に留まらざるを得ないのであり、それが死と復活と言う
経験を経由すること無しに「新物質」に及ぶことはあり得ないからです。

神は、彼がせっかく創造されたキリスト者の
いかなる部分(魂の命でさえ)も決して完全消滅されません。
実の所、消滅されないどころか神はどうしてもそこに、
復活という要素をプラスされることを永遠の過去において、彼の
喜びの中で計画されたのです。これは真に人には及びもつかない
途方も無いアイデアであったと、私達は畏れと驚嘆の中で
言わなければならないのです。

十字架は完全な死であり完璧な終結なのですが、
しかし何と、その後、それに復活の要素を入れ込むことを
可能とするお方が私達の神なのです。

もともと「時間の中における人の創造」にも終結と言うものは
無かった筈です。しかしこの場合は、単にエンドレスな時間という
意味での「永遠」に過ぎませんでした。しかし単にエンドレスな
時間というものには決定的に何かが欠けているのです。それは
究極的な満足を神に与えることはあり得なかったのです。
復活なくして、神が永遠に満ち足りることは絶対にありません。
復活こそ、神の心なのです。

そこで神は、サタンの故に、サタンから出てきた
終結(死)というものを、神の至高の知恵によって、
時間の中においてそれを「活用された」のです!

時間の中で死は完全終結です。従って時間の中に存在する
旧創造・旧物質は死によって完全に終結されます。しかし、もしも
ここに、キリスト・イエスにある神御自身が介入されるのであれば、
イエスの復活において、死・終結は完全打破されるのです。それは、
神に創造されたいかなるもの(時空と万物)も創造者御自身に勝る
ことなどあり得ないからです。敵によって汚染された万物を完全終結し、
しかもその万物を生かして、それを「新物質」とする唯一の手段、
それが死と復活であったのです。
ここに初めて人は復活において「卓越した永遠」と
一つに結合されることが可能となったと言えます。

当然この場合の「卓越した永遠」とは、繰り返しますが単に「旧物質」
であるエンドレスの「旧時間」ではありません。それは全く異質の
超越した実質です。敢えてそれは何かと問われるならば、卓越した
永遠とは、イエスの死と復活を経過して初めて人の中に導入されるべき
現在のキリスト・イエス御自身にある「永遠なる神」である
とでも言わざるを得ないでしょう。

信仰とは結合を意味します。従って信仰がなくては「復活と
卓越した永遠」に対して人が結合されることはあり得ないのです。
しかし人はイエス・キリストとの信仰による結合において、
今既にそして未来において
「復活を伴う卓越した永遠」そのものを内にいただき、同時に
「復活を伴う卓越した永遠」の中へと入り込むことが可能となるのです。

☆おことわり:
以上の文は、ある人のある質問に答えたものです。従って
分かりにくい所も多いのではないかと懸念しております。

柄沢兄弟の為にお祈り下さい(1)

千葉県の佐倉、酒々井(しすい)地方に
主によって3名の姉妹達(この世の姉妹関係でもある)
が起こされ、今明らかに、その3姉妹を中心にした
交わりがエクレシアにおける、キリストの活動の
一つの基点・前線となっております。

その中の一人の姉妹の御主人が柄沢登氏です。
氏はホンの一年ほど前、奥さんからの信仰の勧めに対し、
人がびっくりするほどの、思いがけなくも、強烈な拒絶反応を
見せたのでした。それは一つには奥さんの一計を案じた
伝道方法等に強く反発したもの、でもあったようです。
しかし不思議なことに、この出来事以来、主はこの家族に対し
とても色濃くそして深い働きを始められたようです。(人が
真に正直であることは、何と神をも引き付ける一要素なのです。)

さて話はさかのぼる5、6年前、氏は胃ガンの摘出手術を
受けられました。(その際、明らかに認められていた6センチ
ほどの腫瘍が、開けて見たらその実体はどこにも見当たらず、医師も
首をかしげていたと言う一つの逸話があります。)
その手術の前、氏は勧められるままに「一応」キリストを受け入れ
られたと言うことなのですが、残念ながらその後の氏に、
主を真剣に求める様子等は見受けられなかったと言います。

そして、去年に至り、ガンの転移が発見されたのです。
ところが実に不運なことに、その部位(腹壁あたり)は手術が
出来ない場所であっただけでなく、放射線治療さえも不可能
であったのです。あとは抗癌剤しか残されていないのですが、
今度はそれへの拒否反応(おうと、視力の著しい減退、歩行困難等)
が余りにも苦しく、遂に氏は総ての医学的方策を放棄せざるを得ない
と言うぎりぎりの状況に追い込まれてしまったのです。
ただ自覚症状は回復し、視力も戻り、ある結婚式にも参列する
ことが出来たほどでした。
にも関わらず、今年一月遂に、ガンは2、3センチの大きさ
となってその姿を現したのです。

しかしこの間、
主は同時に、このご夫婦の間に明確に介入されたのです。ある時
姉妹はシッカリと信仰に立ち、まっすぐご主人に対されたのです。
即ち、その時姉妹は内にあるメッセージを次の様に
御主人に告げることが出来たのです:「今ゼヒあなたは、あなたの
人生の中でどうしてもしなければならない大切な選択をして下さい。
それは、あなたの意志で明確に主を受け入れるかどうか、
と言う選択です」と。

それは完全に主の御導きでした。
その時、姉妹の単純さから来るイエス御自身の清さが、聖霊の中で
登さんに触れ、その結果登さんは明確にキリストを受け入れられ、
そしてバプテスマをされ、その様にして、神そのものの中にだけ存在する
「永遠の命」をいただき、明確に神の国へと誕生したのです。即ち
柄沢氏は確実に、イエスと同じ父と、全く同じ父からの命を持つ、
柄沢登兄弟となったのです。
思えば、これは何たる神の御業だったことでしょう。
私達は、ただ主の御名を高く高く掲げるのみです。

2009年3月27日金曜日

神の御こころ3

ある書物によると
「御こころ」と訳された原語の意味は、
旧約では、
①心、内部、真ん中、等の意味、
②好意を持つ、と言う意味
③喜ぶ、と言う意味、
新約では
①意志、思い、から
②望む、志す、から
③計画、目的、等から「御こころ」と訳された、
と言うことになっています。
これが正しければ、日本語の「御こころ」と言う訳語は
問題なく的を得ていると言えそうです。

当然ですが、ここで私達が読み取るべきポイントは
御こころは、単なる神の「冷徹な計画」と言うことに留まらず、
神の心が強く反映されている何か、であると言うことです。
それは神の心からの願望、熱望なのです。

もしも、神が、旧新約の神の民にとって、真の「主君」である
とするならば(神が主であるならば)、主君の「心からの計画」
や「心からの望み」を、愛する主君の為に、それを実現して
差し上げたいと「お家」の家臣達が念願したとしても、
それは当然のことだったのでしょう。

さて、聖書とは「神の御こころを書き綴った書」であると言っても
そんなに間違いはないでしょう。従って、歴代の忠信なる神のお家の
家臣達は、先ずは聖書を懸命に読み調べ、そして彼らは遂に、神の
御こころを突き止めるに至ったのです。それ故、彼らは大いに喜び勇み、
そして、彼らの中のある者たちは、彼らの為に真実を捧げ尽くされた
愛する主君の御こころ実現の為に、彼らの命さえも喜んで捨てて行った
と言う無数の歴史的事実は、余りにも当然の成り行きであった、
と言えるでしょう。

私達が、今でさえ赤穂の忠臣の話に心を打たれるのは、それを
聞くとき、私達の意識を超えたある認識の中で、目には見えない
「真の」主君や、宇宙にある「真の」お家、と言うものに、
その時、私達の心が深く繋がって行くから、かも知れません。

2009年3月26日木曜日

今日のメールから

今日は実に楽しいメール、
ホンとに有難うございました。

長年、相当○○を勉強されたんですね。
一度ぜひ拝見させて下さい。
メールを読ませてもらって、何だかあなた様のこれまでの半生、
私にも「結構見えたっ」と言う感じがしたんですよ。
ま、そういうこともないんでしょうが・・

大学も千葉県の大学で・・もう完全に千葉の人ですね。
私は茨城県ですが、駅は千葉県です。だから皆さん、あの辺は
「チバラキ圏」だ、などと言っているようです。
(でも私、もともとは秋田県出身ですが)
あなたの次回の「あかし的文章」がとても楽しみです。

それにしても、
今改めてつくずくと「キリストは凄い!」と思います。
私の人生もこれまで、まーイロイロありましたが、
数年前、山で一人でいるとき、
「ただ一点小さなキリスト」に集中してみたら、何と直ちにです!
「私を取り巻く大変な状況の一切」が、その日その瞬間を区切りに、
正に確実に、全部が実によい方向へと、ゆっくりと
回転し始めたのです。これには正直 驚きました。
でも神様だからあたりまえか、とも思いましたけどね。
(その回転は今でも続いているのです。
それに、どうも加速度が付いてるよ)

クリスチャン人生と言うのは、ある意味では 
とても「ラクチン」なものです。
こんな素敵な人生の秘訣、ほかには絶対にありません。
キリストは正に宇宙の中心、これホンとです。
それでは また。 

神の御こころ2

聖書を見るとき、新約聖書だけでも「御こころ」と言うフレーズが
相当頻繁に登場することに気づきます。その一部をあげてみると・・

・マタイ6の10:御こころが天に行われる通り
地でも行われますように。
・マタイ7の21:私に向かって、主よ、主よと言う者が皆
天の御国に入るのではなく、天におられる私の父の御こころを
行う者が入るのです。
・マタイ26の42:父よ、どうしても飲まずに済まされぬ
杯でしたら、どうぞ御みこころの通りをなさって下さい。
・マルコ3の35:神の御こころを行う人は誰でも、私の兄弟、姉妹、
また母なのです。
・ヨハネ4の34:イエスは彼らに言われた。「私を遣わした方の
御こころを行い、その御わざを成し遂げることが、私の食物です。」
・ヨハネ7の17:誰でも神の御こころを行おうと願うなら、
その人には、この教えが、神から出たものか、私が自分から語って
いるのかが分かります。
・使徒22の14:私達の先祖の神は、あなた(パウロ)に
御こころを知らせ・・
・Ⅱコリント8の5:神の御こころに従って、まず自分自身を主にささげ、
・コロサイ1の9:神の御こころに関する真の知識に満たされますように。
・ヘブル10の5~7:キリストは・・こう言われるのです。「神よ、
あなたの御こころを行うために・・」
・ヘブル13の:御前で御こころにかなうことを私達の内に行い、
あなた方が御こころを行うことが出来るために・・
・Ⅰペテロ4の2:あなた方は、地上の残された時を、もはや人間の
欲望のためではなく、神の御こころのために過ごすようになるのである。
・Ⅰヨハネ2の17:世と世の欲とは滅び去ります。しかし、神の
御こころを行う者は、いつまでも永らえます。

「神の御こころ」に意味上は極めて近いと思われる「神に喜ばれること」
なども加えたら、それはかなりの数に上るでしょう。

2009年3月25日水曜日

神の御こころ

以下はあるキリスト者の言葉です:

サタンの目的は 
人間を得て神の御心に挑むこと。
それゆえ サタンが最も恐れるのは
神の御心を行う人。
神の目的は、
サタンのすべての働きを破壊する人を得ること。
「神よ、イエス・キリストの中で
兄弟姉妹一人一人が
神の御心で満たされますように」
(コロサイ1:10b)Dr.K訳

☆
キリスト者にはどうしても
「神の御こころ」と言うフレーズにフト
しかしシッカリと捕らえられる日がなければなりません。
キリスト者が「神からいただいた新しい命」は、
(もしそれが本物であるならば)
必ずある日、
神の御こころへの関心と愛を喚起します。
この不思議な働きは
天来の霊的な活動によって初めて可能です。

しかしこれは神と私の、容易ならざるラブストーリーの
記念すべき新しい開始の日となるのです。

2009年3月24日火曜日

北の国から

「遠い遠い」北国に転勤が決まったとか。
ごめんなさい、他人のことながら、
私は勝手に信じていたんですよ、
「きっとそれは主からである」と。

ところが今日、何と何と、同じ北の国の「ある教会」から
突然電話があって「兄弟、ゼヒ交わりに来て下さい」と。
でもこれ、どうなってるの?!
私はこういう状況を前に一体どうすればいいんですか。

ハイ、でもすぐ分かりましたよ。
「私」がすることなどホンとに何も無い、と言うことが。
私のすることは、ただ総ての肩の力を抜いて
次のように祈ること:
「あなたの御こころは、必ずあなた御自身が実行されます。
主よ、私は一歩一歩、あなたについて行くだけです」と。

環境の中、
「神からの?なんらかの語りかけ」があったら、祈りによって
その語りかけを「そっくりそのまま」神にお返しします。
そうすれば、その後で、きっと神様はまた、私の環境と
私の魂の静けさの中で「私の霊」へと、
彼の繊細な御声として「何か」を投げかけられるのです。
私はそのような繰り返しの中で、その度ごとに、小さな一歩一歩を
主の前で「おそるおそると」踏み出して見るだけです。
それにしてもこれは何とワンダフル(不思議一杯)で
楽しい主との「道行き」でしょうか。

さあ、それでは早速祈りましょう。
これ第一回目。

*
環境の中、
「神からの?なんらかの語りかけ」について:

電光石火のヒラメキのごとき、人の意志を
無視したような「語りかけ」にはむしろ、
要注意です。(総ての「神がかり現象」は
「他の霊」からであると思うべきです。)

神は、私達の奥深い霊の中で「圧迫するような、重苦しいような、
何かを語っているような、語りかけではないような、しかし
時間の中では一定不変、しかしあくまであなたの自由意志・人格を
尊重される何ものか」として語りかけられます。ですから
あなたがそれを今、意図的に無視しようとすれば「一時的には」
それはあなたから退かれるでしょう。☆☆:

私達は旧約の預言者とは根本的に違います。以上のような姿が
今の時代、神が一人一人のキリスト者に対して望んでおられる
「神とのお付き合い」なのです。それが究極的には
「私達がキリストを生きること」に繋がって行くのでしょう。

ですから、どうしても
「おそるおそる」や「一歩踏み出してみる」「神との
キャッチボールのような地道な祈りの作業」は欠かせないのです。
その様にしてまで、神は私達に祈らせたい、
神に対して問いかけさせたい、神を待ち望ませたい、のです。
それは私達の日常生活一歩一歩において、私達が遂には、100%
真実に神により頼むようになるためです。目の不自由な人が、手を
引いてくれる人により頼まなければ、全くただの一歩も歩けない様に。

☆☆:
この人の霊の「直覚」を通して、軟膏をあなたの肌に「指先で微妙に
優しく塗る」ような聖霊の語りかけは、私達が普通「感覚」と呼ぶ
ものとは全く次元の異なったものである、と言えます。人の所有する
感覚はそれが外の器官であればあるほど、分かりやすく、しかし
より荒々しくなります。(体の感覚はその最たるものです)
しかし魂の感覚とは言え、それはあくまで被造物のそれです。しかし
聖霊は基本的に「被造物ではない」のであり、それはあのイエスの
中に存在した「真の命が持つ無限の繊細さ」を持っているのです。

多くの場合、初めその深い「感覚」は一体それが何であるのかさえ、
把握出来ません。ですから、私達はそれを無視するのが普通です。
また霊を取り巻く私の魂の活動(感情、思い)が一日中、余りにも
にぎやかあるならば、その繊細な霊の動きに私達が気が付く
可能性さえないでしょう。(なお、霊の一機能・良心も直覚を介して
私達に感知されます。)

さて
聖霊はこの直覚を通してだけ、人に語りかけられるのですから、
私達は内におられる聖霊というお方に対して深い敬意と
愛とそして十二分の注意深さをもって、接しなければなりません。

さて
私達がしばしば聖霊からの感覚を無視してしまうもう一つの大きな
理由は、聖霊の意図はあなたの理性や感情とは関わりなく、直接
神から来るという事実です。(だから直覚と呼ばれるのでしょう)
聖霊が私の理性や理屈、好みに問い合わせすること等ありません。
従って普通私達は「ある聖霊の意図」を感知したとしても、「そうは
言われても、そんなに簡単に服従するわけには行かない」と
軽率に反応してしまうのです。

にもかかわらず、聖霊があなたに対して彼の意図をたやすく変更する
ことはありません。しかし、あなたに語りかける静かな語りかけに
対して、あなたが長期間 服従することをせず、敢えて何度でも
無視するならば、遂には「そのレベルでの」聖霊の働き・あなたへの
神の意図を、あなたは決定的に遠ざけてしまう結果となるのです。
しかし、それは神とあなたにとって、
極めて大きな損失であることは言うまでもありません。なぜなら
それはあなたに対する一つの「聖霊の譲歩」であったからです!

2009年3月23日月曜日

今朝のメールから

結局 私達の戦いは、
「目に見えないものども」との戦いのようです。
彼らが私達を攻撃するのは「あらゆることで」
であるのでしょう。
もしもその攻撃が本当に「あらゆることで」であるならば
私達は当然「絶えず目を覚まして」いなければ
ならないことになります。

それは戦場に送られた兵士達の絶えざる心配りを
少し考えるだけで容易に分かることです。
「あなた方の霊、魂、体が完全に守られますように」
(Ⅰテサロニケ5の23)

*
O兄弟からメールがありました。
仕事と静養と運動をバランスよくしっかり実行して
おられるようですよ:
「400-700m位を普通の人の半分の速さで歩いています。」

Oさん今「キリスト者の標準」を再読されているとか。
本当に嬉しいことです。

*
今日は石膏ボードを買いに 
大越町まで行かなければなりません。
それにしても石膏ボードを買いに行くとき、
どうやって目に見えない悪鬼どもに対して
自分の霊、魂、体を完全に守るのかな。

2009年3月22日日曜日

世に死なない命

メールを有難うございました。
「真理は世に死なない命を証された」
が特に嬉しかったです。

そのようにして 光に照らされた正にその分だけ 
私達は主に仕えることができるのでしょう。

何回も言うようですが、
先日の兄弟との出会いは、私にとって非常に
意味深いものでした。
これからも、この交わりは「主からのもの」として
大切にするべし、と明確に感じさせられた思いでした。

交わりこそが、総ての主の行動の前線と基点です。
私達が何もしないとしても(否、むしろ総ての人の意図等
捨ててしまった方がいい)そこにささやかな
真の交わりさえあれば、確実に主自らが動かれます。
本当にそれだけでいいのだと思っております。

小さな交わり、
その中に存在する、人の知らないある不思議な力には、
私達が今はその全貌など把握するすべもない、
天的で無限の可能性が秘められていることでしょう。

ps:
すみません。
例の「直覚と意志」はその後、だいぶ付け加えて
しまいました。わずらわしいことでしょうが、
もし、再読して下さるならば幸いと存じます。

2009年3月21日土曜日

今、山です

先ほど、小屋に着きました。
のどかな春の日差しの中、はるばる
太平洋を望む6号線と福島路を走って来ました。

山も平和そのものの無風快晴ですが、さすがに少し寒い。
やはりここは3月になってもストーブは十分必要なのです。
(4月になっても、かな)
予報を見るとあさってあたり、何と雪になるとか。

多分今回は丁度2週間の山暮らしでしょう。
床の野地板張りと壁工事はどれぐらい進むのでしょうか。

その間、三春の滝桜を見たいと言う東京のカップルとの
「早朝4時の花見」は本当に実現するのかな。
未明の薄明かりに浮かぶ樹齢千年の
ベニシダレザクラとはどんなでしょうか。

例の「三階建て4層鍋」での「世界一の手抜き料理」がおいし
過ぎて、あれ以来、確実に太り気味。対策は「間食をひかえる」
と言うことで、今、結構努力しているのです。

だから、お腹が空きましたね。
今日の鍋の中は、一寸さびしく、ほうれん草と豚肉だけですが。

そうそう、途中、いつも寄る水戸近くの露天の八百屋さんで、
絶対に、ゴミ袋いっぱいはある、大量の人参が何と
たったの380円。
だから、明日から当分毎日人参です!
(マルシアよ、こんなときはどうしたらいいのかな)

2009年3月19日木曜日

直覚と意志

基本的なこと:
①ただ御ことばと私の霊の中の直覚において、
②聖霊の啓示によって神の意志(みこころ)を知り、
③それを私の思いで理解、確認し、
④私の意志を行使して(サタンの意志を拒絶し)
その神の意志を選択し受け入れ、
⑤聖霊への全き依存の中で、神と同労する。
以上が基本です。

*
しかし、以上の基本的なことには2つの大きな前提があります。
1
旧創造を一掃する為に、死に向かい、死を受け入れ、そして新創造導入
の為に、復活し、御座につかれたキリストの経験を真に認識し、
それらのキリストの経験をキリストとの一つの中で
自分のものとして日々経験すること。(これはおもに積極面です)
2
キリストにおいて既に達成されているが故に、それを根拠に
私の罪、肉、この世、魂の命(機能ではない)の除去を
私において達成すること。キリストの死と言う霊的世界における
決定的分離を時空の中のわが身に適用すること。(これは消極面です)

*
基本①②の説明:
神が、私たちの霊の一つの機能である直覚以外の場所で、直接に神や
神の意志(細かなその人に関わる神の御こころを含め)を人に知ら
しめることはあり得ません。このことの認識が無いとキリスト者は
たやすく、人の霊以外の場所(魂と体)に働きかける敵から来る
感覚を神からのものであると誤解します。これは大きな悲劇です。

例えば、キリスト者が最高度に評価する、不思議で
超自然的な感覚:「燃えるような愛」「臨在感覚」「第三の天の感覚」
「聖霊からの火のような感覚」、時には体のしびれや、目によって
不思議なものを見る等、敵が送る種々の超自然的感覚がそれです。
極端な場合、例えばある人達は「彼らの」目によって「イエス」の姿を
見たと公言します。これはさまざまな宗教や修行に見られるいわゆる
「深み」です。これらの魂や体の感覚はある程度、外側から人の霊に
さえ(聖霊にではなく)影響を与えるので、彼らはそこに「ある深さ」
を感じ「これは神が与えた神からの感覚である」と誤解するのです。
そのようにして彼らは確実に彼らの世界の中で、
ある種の崇拝と座が与えられるのです。

しかしながら、私達は、これらの殆どは、特にキリスト者をターゲット
にした神の敵のかく乱や真理からおびき出す巧妙な「エサ」であること
を知るべきです。私達はそのエサに決して食いついてはなりません。
堕落した天使長から来る虚偽と光の偽装の深さは殆ど無限であり、
自らの破滅の運命を予知する彼の究極的な狙いは
「彼と共なる死」「滅亡への道ずれ」なのです。

キリスト者は、特に今後の世界において、神の敵が多くの不思議、
奇跡を行うことを忘れてはなりません。それは遂には全世界の
神を憎む人々が、こぞって「物を言う偶像」を礼拝するようになる
と言うクライマックスに確実に至るでしょう。ですから今、敵は彼が
憎むキリスト者達の魂と体に対してさえ、超自然的な業を少しずつ
始めている、としても何の不思議もありません。もしかして敵は
「不思議崇拝」の世界的な潮流を先ずはキリスト教徒から
始めたいのかも知れません。

私達は知るべきです、神が評価するのはただ信仰であり、信仰は
感情や思いとは直接には関わりがない、ということを。(思いや
感情で信じるのではない、と言う意味)信仰は人が、自分の感覚、環境
経験(3K)以上に神に信頼を置くが故に、ただ神のことばを
「選択する」と言う冷静な意志の中にこそ存在するのです。
それこそが、神が喜ばれるものです。

当然、キリスト者が真に信じた後で、神がよき感覚を与えられる
可能性は十分あり得ます。しかし「神から来る幸せな感覚」にさえ、
過大な評価を与えることは危険です。決して「天的多幸感覚の獲得や
不思議体験」そのものがキリスト者の切望であってはならないのです。
私達の切望はひとえに真理そのものと、それが私の霊に啓示される
ことであるべきであり、その後に訪れるものがどんなに素晴らしい
ものであったとしても、それらを決して抱きしめてはならないのです。

「リアリティ」の獲得も感覚や思いによってではありません。それは
キリストとの結合に対する信仰によるのです。なぜならキリストこそ
そのリアリティそのものであり、信仰とは結合であるからです。

③の説明:
この時、私達は決して受身的な態度に陥らず、状況を判断し、冷静に
聖霊によって新しくされた「思いを用いる」必要があります。ここに
おいて、直覚で得られた真の知識を思いの中での理解によって
確認するのです。しかしそれは先ず霊において知るということ
(啓示)がなければ、何の意味もないことです。だから
キリスト者は総てにもまして神からの啓示を求め、待つべきです。
しかしその聖霊による啓示は、必ず唯あなたの「霊の中の直覚をとおして
のみ」であることを正確にしゅん別する必要があるのです。

④の説明:
宇宙には3つの意志があります。神の意志、サタンの意志、人の意志です。
この3者は完全に独立しています。ですから人は自分の意志を固め、
サタンの意志を拒絶し、神の意志を選択する必要があります。これは
完全に人の役割です。神が人に代わって神の意志を選択してあげること等
絶対にあり得ません。「神が人に自由意志を与えた」これは神の大原則
であり、今更、神でさえそれを覆すことは不可能です。神の願いは、
(あの時のエバのようにふにゃふにゃせずに)人が自らしっかりと立ち、
神と神のことばを自由意志の中で選択することなのです。

今日この点の誤解は広く行き渡っており、キリスト者は何もせず、ただ
「来るもの」を受け入れるのが素晴らしい信仰であると考えます。元より
神は人の自由意志を尊重して動きません。所が人は何もせず、時には
意識的に自分の思いをさえ振り払って、唯何かを待ちます。従ってここに
「何でも」受け入れてしまうと言う危険な状況が発生するのです。

そんな時に何が起こるのでしょうか。「第三の意志」が待ってました
とばかりに巧妙なだましの手口で行動するのです。その時、敵の対象は
人の体の機能と感覚、そして人の感情と思いであり、終局的には
人の意志でさえ麻痺させてしまいます。程度の差こそあれ、今日
このタイプのキリスト者は何と多いことでしょう。それは人の最も大切な
機能・自分の意志を神の御前で明確に働かせなかった結果なのです。

これは霊的世界の法則に従った現象です。即ちある原因があれば必ず
その結果が伴うと言うことです。だから私達は決して、夏の家畜小屋のハエ
のようにこの地上におびただしく実在する所の、極めて知的で超自然的能力
を持つ、目に見えない人のような生物・悪霊達が、私達の魂と体に付着する
原因を作ってはなりません。(悪霊共の意志はとても明確)そしてその原因を
排除できるのは、あなたの思いと感情に働きかける敵、に対する断固とした
拒絶と神のことばのみを受け入れるしっかりとした意志なのです。

⑤の説明:
「自分の十字架を負い、魂の命を失うべし」と言うイエスのことばが
ここにおける関連です。魂の「物質的」エネルギー・命
(魂の個性や機能ではなく)を十字架に渡すと言う日々の私の作業があって
初めて、聖霊の命と性質が、人の魂の機能を通して、神の意志を
この地上に表現することが可能となるのです。