2011年5月31日火曜日

山に来ております

今日は9時頃・実家を出ました。
「いわき」から、好きな山道399を走りました。
この道は 「物すごい山奥に来た」と言う感じがいい
のです。 (ホンとはそうでもないのに。)

小屋に着いて少し疲れていましたが、片付けをし、
インスタントコーヒーを 飲んでから「ピアノ」に触れました。
今やこれも確かに山での私の楽しみと なってますね。
月光の一楽章は「一応」終わりまで来ましたので、今
ショパンのノクターンの初めの所に触れて見ています。
これは「チョー」難しそう! 特に左手が・・。どこまで
行けますか。行ける所まで行って見ましょう。

二人の兄弟のやりとりを拝見していたら
なんだかとても嬉しくなりました。ホンとに
「キリストをいただいた」という感じでした。


今回下山中、
幾つかのことを感じさせられました。特にマタイ
12と ルカ10から。

悪霊を追い出し、喜んで帰って来た70人に対してイエスは
「喜んではなりません」といわれました。
そういえばイエスも使徒達も、悪霊をいくら 追い出した
としても、有頂天になる、などと言うことは絶対
ありませんでした。多分その原因は、彼等の日常が正に
戦いそのものであったからでしょうね。 即ち24時間、
彼らが生きると言うことは即ち激しい戦い
(極めて強力な 宇宙的暗闇の陣営との)であったからでしょう。
決して「対ひと」ではありません。

そのようにして
「彼等のゴク普通の生活」のところどころがしばしば、
超自然的な表れを示したのです。それは即ち、彼等にとっては
当たり前の人としての生活から・時に奇跡として「天的能力が
こぼれ落ちた」とでも言えるのではないでしょうか。

ですから、よく誤解されているように
それは絶対に、デモンストレーション的に力をふりしぼり
顔をゆがめて、エイヤッと悪霊を追い出す、
などというのではまるでないと私は確信しているのです。


もう6時です。今日はあと食事をし、寝るだけに
しましょう。こん回は中15日の長い滞在となる予定です。

2011年5月26日木曜日

私が山で戸外活動の際に浴びる放射線

それは
年間0・81ミリシーベルト(810マイクロシーベルト)
ほどのようです。

仮に
・山小屋の数値がこれから1・5マイクロシーベルト毎時
とします。
・山小屋に滞在している時
戸外で年中一日も欠かさないで3時間ずつ
散歩や大工仕事をしたとします。
・また私が一年間の中で、
山小屋で暮らす日数が6ケ月くらい、
180日とします。

以上で計算すると
1・5×3時間×180日=
年間810マイクロシーベルト、
即ち0・81ミリシーベルトとなります。

当然、これにプラスして
・実家(千葉、茨城の境目)にいるときと
・窓を閉じた山小屋の中にいる時
また、
・夏分小屋の中にいるとしても窓を開けている
場合(ここは寒いので多くはないが)

の値を、810に加えないといけません。
結論としては皆さんよりは年間、相当多く
浴びることにはなるでしょう。



悲観的、否定的な専門家も含め、
殆どの学者が共通して認めることは
「ガンになるリスクが高まる」
という数字は
年間100ミリシーベルトだそうです。
(必ずガンになる、というのではない)

だから今「一応安全」とされるのは
以下の3つの数字と言うことになります。
・100(年間、ミリシーベルト)
・20
屋外活動を制限する基準として
国が定めた毎時3・8マイクロシーベルトがこれ。
・1
即ち、事故前の基準

さて
野口邦和・日大講師(放射線防護学)は
次のように言っているそうです。

100、20、1、いずれもICRPから
「安全」の根拠を得ているが、
さらに「そのもとは何か」と言われれば、
本当に妥当なラインはよく分からないのです。
ここから先は科学の話ではなく、研究者の哲学、
人生観、立ち位置が反映されると思います。

当たり前ですが
今後、カリマンが1・5に安定せず、
急激に上昇に転ずる場合が来るようであるならば
よく考えなければならないことは明らかです。

いずれにしろ
私の健康について心配されている皆様方には
本当に感謝しております。


同じカリマンの住人
イモクボさんの今朝の計測では1・47だそうです。

イモクボさん、
ログハウス建築の再開、おめでとうございます。
さてさて、
我々のしめっきった建物内ではどんな値が
大よその平均値でしょうか。
また、オープンした窓での屋内の値も・・。
ずうずうしくてスミマセンね。

2011年5月25日水曜日

余震がありました

★6:26
浜どおり5弱とのことですが、
大して大きいとは感じませんでした。
(この小屋にしてはめずらしい)
それにしても
今日もすばらしい緑と日の光です。


ヨシュア記を見ておりました。

1の3
(主は「サタンが占拠している地」を私達に与えては
いるが、キリスト者は それを時空の中で、実際に
その中に入り込み、その地を 踏まなければならない。)
1の6
律法(神の法、真理のことば)を口から離さず、
昼も夜もそれを口ずさまなければならない。
1の6
強く、雄々しくあれ。

2の24
主は、あの地をことごとく私たちの手に渡されました。
(これは十字架と復活における永遠的主の勝利と獲得
を意味しており1の3と同じです。)
この世を占領している住民(悪しき霊達)は、
私たちのことで、震えおののいています。
(これが悪霊達の心理状態とは!)

6章
・「万軍の大将」の確かな守り、
・契約の箱(主ご自身)との一つの中で、

・角笛を吹く、
・ときの声を上げる
(この二つは、キリスト者の霊から真理を外に向かって
言わば発射、発砲することです。黙示録にある、ラッパを吹く、
ハチをぶちまける、また詩篇最後の、大いに楽器をかきならす
等も基本的には同じことでしょう。それをおこたると私たちの霊は
いつの間にか、敵によってとりかこまれ、幾重にも圧迫されます)

・敵が守っている城壁の周りを回る(キリスト者の敵とは誰か、
どこにいるのかを明確に知り意識し、霊の中で敵と対抗しつつ)

以上のことで、最も基本的に大切なことは、キリスト者の
霊の姿勢です。 私たちはシッカリと敵(絶対に人ではない)に
対立して 立つ、という霊(最も深い私の存在)の態度を
取るべきです。

それは決して(よく誤解されているように)魂や体における
「いわゆる勇ましさ」等ではなく、むしろ「落ち着きや
静けさ」の中でこそ表現されるものでしょう。

神に従いなさい。悪魔に立ち向かいなさい。(ヤコブ4の7)


今日は1・47マイクロシーベルト:
「やませ」・おおよそ原発方向からの初夏の風
の状況はどうなのでしょうか。・・あ、明日は東からですね。
明日に注目です。

2011年5月24日火曜日

今日の作業

寒い朝です。
ストーブをつけています。

今回、滞在の目標は:
外に放りぱなしの板等の大量の建材を
収納するための棚作りが可能なように
前回まで修復した基礎、土台を仕上げることです。
そうでないと小屋の周辺に散在している大量の建材が
片付かないからです。
(3・11に殆どの地下の棚が崩落)

具体的には
・基礎土台の垂直と水平を確認し、修正する。
・最後の締めをする。
・釘打ちをする、
ということになります。

言うは簡単ですが、この目標、今日終わるのでしょうか。
やってみないと分かりませんね。


本日は1・42マイクロシーベルトとのことです。
ここは高地なので「平地」岩井沢より高い数字なのでしょうか。
明らかにここの方が高いようです。

2011年5月23日月曜日

したたる緑

先ほど山に着きました。
四方八方、どこもかしこも
したたるような緑です。
今年もまた小屋が、
緑の海に沈むような初夏が来ました。

居間の窓から見ると今回は
展望が実によく開けており
樹木に妨げられずに遠くの山が美しい。
冬、この時期の葉の茂りを考えて
彼がちょうどいいアンバイに
木々を伐採してくれたことがよく分かる。

今回は中3日だけの山暮らし、
もう週末には下山しなければならない。

相変わらず
3・11の後始末を少しだけ前に進められれば
それだけでいいでしょう。


「いもくぼブログ」はありがたい。
今日のカリマンは1・33マイクロシーベルト毎時とのこと。
夢の世界から現実へ、ですね。

2011年5月22日日曜日

何を信じるかです

心配してくれて有難う。
でも結局のところ、
「何を信じるか」ということではないでしょうか。
で、私の場合は
「学校での戸外の活動の基準は3・8マイクロシーベルト毎時」
を信じますし、これで行きますよ。

今、色んな人がさまざまなことを言っていますが、そんな
際限の無い情報にいちいち振り回されていたら、実家にいても
和歌山に逃げても、いずれノイローゼになってしまうでしょう。
それは楽しくないし、とてもソンな生き方ではないでしょうか。

しかし、
「間違いなく、一年後に動けなくなるほど」の健康被害がある
という状況になった場合はスタコラ山をおります。それは当たり
前ですし、山小屋などどうなってもかまいません。

さて現実問題、放射能によって私が「不自由な健康状態」になる
よりも、今既に私の体のどこかにガンが発生しているという
可能性の方が、ハルかにハルかに高いのです。要するに、
放射能等と関係なく私はもうすぐ確実に死にますが、その確率は
100%であり、このこと以上に重要で確かな「情報」はありません。

いずれにしろ私の場合、主の恵みを得て
これから10年間、元気で活動できるとすれば
他に言うことは全くないと思っております。

それに、今一日一日、
私の霊は不思議なほどに安らかです。
そのようにして死ぬ日も迎えられたら素敵ですね。

2011年5月21日土曜日

ポイントは今後10年間?の私の健康です

「都路はセシウム137だけだと6Ci/km2
チェルノブイリの第二区分(保障付き任意移住)に相当する」
との情報、有難うございます。
しかし、さらに深刻なのはこれから数値は確実に上昇する、
とのことですね。


それで教えてください。
これから5年~10年、一年の半分近くを都路の岩井沢で暮らした
場合、私の体、健康は具体的にどのように悪化するのでしょうか。
その確率も知りたいのです。(可能性がある、ではなく)

「この場合」福島や日本がこれからどうなるか等はどうでもよい
ことであって、ポイントは正にそこ(神に仕える為の「私の」
体力状態)なのです。

もう10年で80歳、私に残された時間は僅かです。
これからの10年間?ひたすら祈りとエクレシアの為にささげた
生活をしたいだけであり、他に欲しいものは全く何もありません。
(その点、山は祈りに最適)

だから、確実に健康が損なわれることがハッキリしているのに
「自分好みの山暮らし」をしたいから、というので私が山に通い
続けるならば、それは明らかに理屈に合わないことであり
明らかに「みこころ」にも反します。また当然、そこには十字架も
何もないのです。
さらにキリスト者は「聖霊の宮、自分の体」のを重んじる
べきであり、そのような好き勝手な生き方は、
キリスト者として神の前に当然・非常によくないことは明白です。
「イエスこそ私の主」であり「私が私の主」ではないのです。

そうした場合、この時代において、或は次の時代において
この違反のゆえに、私が「神からの悪い報い」をまぬがれる
ことは決してあり得ないでしょう。
それは私にとっては更に深刻な大問題です。

だからよろしくお願いします。

2011年5月19日木曜日

コメントをいただきました

・・・
そう
①みこころ②十字架③万物への宣べ伝への中で。


アーメンです。
今日は、創世記34、35章を聞いていました。

「そうして私たちは立って、ベテルに上って行こう。
私はそこで、私の苦難の日に私に答え、
私の歩いた道に、いつも私とともにおられた神に
祭壇を築こう。」(創世記35:3)

ここに至るまでも、ヤコブは主の御心の内を
歩み続けられたわけではなく、
多くの問題行動がありました。
しかしそれでも
「私たちは真実でなくても、神はいつも真実」
ですから感謝です。

「いつも私とともにおられた神」
この神の故に私はホッと肩の荷が下ります。
事実「聖霊は私のような者の内に
住み続けてくれている」
のですから本当に感謝以外にありません。

イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりに
感謝し、また今日は、ブログのことばの内に
兄弟との交わりを頂いて感謝です。

これから老犬と
ノソノソと家の周りを散歩です。


この兄弟は、とても大きな心臓の手術のあと、
生活上、極めて制限された行動をよぎなくされて
おります、自宅でお仕事をなさりながら。

さて、十字架とは他でもない
人が「自発的に主からいただく」制限や不自由
のことです。

また神のみこころは他でもない
主が私に下さる十字架を
生活のささいと見える場面で、人知れずに黙って
受け入れることの中にあります。

しかしその「3日後」私達は確実に
「キリストにある真の自由」を
主と共に密(ひそ)かに楽しみ、そして
一人深い礼拝をするでしょう。(復活とは、
十字架の死を経過した後、神からいただく無制限です)

また大切なことは
本来十字架と復活は人々に隠されており、
世界がそれを見ることは不可能である、
という事実です。
それも大きな神のみこころです。

(それにしても多くの人々は十字架について
何とヒドイ誤解をしていることでしょう。
「十字架の実質」は決して目には見えないものなのに
十字架の外側のみを見て、それを迷信的に自分や他人に
適用しています。そのような思いと行為は間違いなく
「邪悪な霊達」によって用いられるでしょう)

2011年5月18日水曜日

みこころ、十字架、万物への宣べ伝への中で

言われるように
今の時代が黙示録の中であることは論を待ちません。

今生きている総ての人は、もうスグ確実に死にます。
その、他人や人類でなく「自分が死ぬ」ことこそが
「大艱難」そのものです。それは明日かも知れません。

しかし、
死ぬこと自体は大した問題ではなく、
「どういう内面(霊)で死ぬか」こそ極めて重要です。

ですから
福島、日本、世界に「漂う空気」が
今どうであろうと、またどうなろうと、

みこころ、十字架、万物への宣べ伝への中で、
今主が私に与えられた場所に身を置き
日々淡々として、今日与えられる「私の生活」を
生き、また死ねばいいのです。

それこそが、絶対に確実不変な人にとっての
最上の暮らしであるからです。
そう、
①みこころ、②十字架、③万物への宣べ伝への中でです。

2011年5月16日月曜日

土台修復工事進行中

このところ、土台の修復をがんばっています。
(フショクした独立基礎1本の取りかえは既に終わっています。)

今分かっているダメな土台は4本、
これもかなり腐食(ふしょく)いていた上に、あの大地震に
よって結構な損傷(そんしょう)を受けてしまったのです。

(正直、初め発見した時はややゾッとしましたね。
それに、家の完成は遠い先だと言うのに
もう土台がクサっていた、というのはあまり聞かない面白い話
です。この理由の説明は長い話になりますので・・)

なにしろ事は土台、早く何とかしないと大変なことになる。
下手すると家屋がドサッと落下して、もう住めなくなってしまう
かな、と思ったほどでした。

しかし不幸中の幸い、
その部分は、そんなにスゴイ重量がかかる
ところではなかったのです。(南デッキの床部分です)

方法としては、
土台をすっかり取りかえるということはあきらめ、
その土台のスグそばに新しい土台をはめ込み、
それを太い鉄パイプ(単管)で支えることを考えました。

工事中、実に面白いことがいろいろと出て来ましたが、
それらの話は全部ハショッて手ミジカに書きますと・・

1地面に穴を掘り、車のホイールを埋める。
2それに鉄パイプを立ててホイールに固定する。
(後日ホイールにコンクリートを流し込んで安定を更に堅固にする)
3単管の上部を新しい「土台ケン、ネタ」に固定する
というすんぽうです。
今日までで、地下に5本の単管が立ち上がり、明日はもう
2本を立てます。(長いのは1・5mほど)

この方法は、比較的作業が楽であり
お金もそんなにかかりません。
われながらグッドアイディアだと思っております。
それにしても、孤軍奮闘(こぐんふんとう)は疲れます。

2011年5月14日土曜日

コメント有難う3

いまだに
コメント欄に私のコメントが載らない状態が続いて
おります。私のパソコンが古いせいかな。


主はそう言う「しつこい」祈りを喜ばれるのでしょうか。


はい、ルカ福音の「やもめ」によると確かにそのようですね。
さて
1・神がキリスト者に御自身の「みこころ」を啓示される
2・キリスト者がそれを「自分の願いとして」 神に「しつこく」
懇願する
3・神がそれをかなえられる

どうも、以上は神が意図された定めのようです。 だから、
シッカリと「みこころを知ること」が 総てのよきことの
始まりなのでしょう。 それにしてもキリスト者の祈り無しに、
神は何事もなさらないとは実に不思議なことですね。
だから今私達にとって「真の祈り」を学ぶことが
緊急の課題であるはずです。

さて
私は物すごく健康であるというわけでもありません。今年は
新年に風邪をひいて寝込んだし、きのうあたりまで
花粉症で結構不快な時を過ごしておりました。

熱心なキリスト者は霊を重んじるあまり、肉体を軽視、または
蔑視する傾向があるように思いますが、「私の霊の真の状態」は
私の肉体を通して現れざるをえません。即ち、私が肉体において
行う総ては私の霊の現れ、真相である、ということです。私が
断定できることは、神の目から見て 人間の体は本来、とても
すばらしいものに違いない、ということです。

だから私は「聖霊と共なる私の霊」が無理なく自然に
私の魂と体に対して、その聖なる支配を表現する、
というような キリスト者でありたいのです。

もしもそうであれば、彼はキリストと共に 今でさえ万物をも
治めるでしょう。その時、彼は「キリストを王にいただいた
天国の一表現」そのものに違いないのです。

(「支配」は非常に重要な聖書のテーマです。また神の言葉に
よると「支配」は人民によってでなく、王によります。だから
聖書に民主主義はありません。そしてそのような天的な
王による支配を天国、御国、神の国と呼んでおります。また
「キリスト者が死ぬと天国に行く」という記述も、少なくも
聖書では、どこを捜しても見出すことが出来ません。)



サスケさん
今御座におられるキリストは、今度は「彼の総ての達成」すなわち
キリストの完全な勝利とサタンの全き敗北・滅亡(福音の中身)をさえ
含んだ聖霊として今、私達の最も深い部分におられます。

しかし言われるように、その「天国としてのキリスト」は
とても隠されており、あたかも小さな種か、黙示録に出てくる
あの封印された小さな巻物のようです。
(こんな神秘なことが他にあるでしょうか!)

しかし更にすばらしい事実は
もしもある人が、日常において、喜んで土に埋められるという
「自分の十字架」を否むことが無ければ、
その隠された永遠の種は、今度は時空の中でさえ 発芽、成長を
経(へ)、キリストが支配される御国として彼から徐々に現れ、
遂には開花に至る、ということです。(永遠と時空は対比され
ます。また「完全な全き開花」は次の時代において、
でしょうが・・)

その時に彼はキリストと共に 命と愛の中で 万物
(彼の魂や体をも含めた彼をとりまく総ての環境)をも、何事も
無いかのように自然に支配し、治めることが出来るはずです。

(しかし普通見られる光景は、魂や体が、その荒々しい自分の
欲望のままに「霊からの繊細で聖なる主張」を抑圧し無視して
います。これは混乱、混沌であり、聖なる王の「不到来」を表して
おります。それは逆に「神の敵・この世の王」の支配を示す
ものでしょう)

そのように私達は、もともと神が意図されたように、
サタンの支配を退け、万物を支配する存在でありたいのです。
聖書によると、キリスト者とは本来その身分上何と「王達」でも
あるのですから!むろんキング、オブ、キングスは
ただ一人、主イエスキリスト以外にはあり得ませんが・・。

2011年5月12日木曜日

コメント有難う2

なぜか再三の試みにも関わらず、私のコメントが
コメント欄に載りません。やむなくここに掲載する
ことをお許し下さい。


匿名さん、感謝です。お会いすればもう互いに知って
いる人なのでしょうか。
心から・またのコメントをお待ちしております。

サスケ兄弟
真に「御国」(サタンに代わるキリストの統治、支配)
が「近づく」だけでなく、そのリアリティが今の時代、
実際にこの地上に現れますように!

「キリストの完全な支配、統治」は次の時代に、
この世界にも「公に」(誰の目にも分かるように)出現しますが、
「この時代における御国の現れ」に関しては
そのカギを握るのが、今現在のキリスト者達の姿・実際です。

即ち
今この時代、少数のキリスト者達を通してであったとしても
ある程度「その御国のリアリティ」が現に地上に出現するか
どうかはとても重要であると言うことです。

その理由は
その分量(キリストの実際的な支配の分量)がある一定に
達する時点で、初めて教会時代は終結し、時代が転換する
からです。


そのために必要なのがひたすら祈りです。
それは「キリスト教宗教」のように、人の願望、欲望を
かなえていただくための「お祈り」であってはならない
でしょう。(そういう祈りはダメだとか、そういう祈りを
神は決してかなえない、とは言いませんが)
この時代、神が心からキリスト者に要求されている祈りとは・・

・悪らつなサタンに対して神が報復して下さることを
神に日夜懇願する(しつっこいあきらめない)祈り。
(ルカ福音18の「やもめ」のように)

・キリスト者が直接、サタンを糾弾する証しの言葉(黙示録12)

・サタンが万物を用いてキリスト者の目前に構築する
「山」(御国の現れの上で、殆ど不可能であり、極めて困難と
見える状況)さえ移すキリスト者の言葉(マタイ17)などです。
(以上を「祈り」と総称することは可能でしょう)

そして
それらは日夜、キリスト者が自分の口を開き、自分の霊を
前面に押し出し、外の世界(霊的な神の敵の支配)に向け、
神の言葉(キリストの勝利、即ち福音)が、自分を含めた
総ての創られたモノ達に対して発せられねばなりません。

その際、当然のことながら
敵は霊であるゆえ、私達も霊の中に入り、霊によって
対抗し、また攻撃する必要があります。(攻撃は最大の防御
であり抵抗でもあるからです。真に神の国をこの世に出現させる
ためには、「祈り」が実は「祈り風、魂のツブヤキ」であるならば
殆ど何の意味もなさないでしょう。)

さて、先ほどのルカ18によると、イエスはその時、
この最後の時代において「地上にそのような信仰が見られる
であろうか」と言われましたが、それは決してイエスの
ため息ではなく、そのようなキリスト者の祈りこそ、今再臨を
願われる神の子キリストにとって、切迫した切実な願いであった
ことを意味しているのではないでしょうか。

しかし、そのようにして今の時代に「隠された方法で」
この地上に現れるであろうキリストの統治(神の国、天国)は
決して、この世やキリスト教世界によって賞賛されることはなく、
むしろ迫害されるであろうという事実を
私達は今から知っておく必要があるでしょう。

また以上のような祈りにおいては
「人の魂を源泉とする血肉の熱心」は絶対的に
退けられねばならないことも肝に銘じるべきです。

2011年5月11日水曜日

昨日のコメント、有難う

こんなことを感じました:

「宣言する」はやはり
「神につかわされ外国に出て行って宣教をする」
と言う意味も持っているでしょう。

しかしながら
ある人が真の命を神からいただいた 本当のキリスト者
であるならば、彼は 例外なくそのミッションを神から
託された 正式で公的な布告者「ミショナリー」(宣教師)
でもあるはずです!

なぜでしょう。それは
「全世界という外国」はすでに日常の私達の身の回りに
存在しているからです。(私達は実は外国人です!)
人々が「つまらない」ものと見ている日常生活は、
決してつまらなくもスモールワールドでもなく、
「あるネットワーク」で全世界とつながっているからです。

さて
「その外国」に住んでいる無数の、人の目には見えない
「極めて知的で高度な住人達」は常に
私の体と魂を通して
私の霊(私の中の「最も奥深い私」)を 圧迫、抑圧し、
私をユーウツにし、私の霊をマヒさせ眠らせるか、
あるいは「さまざまなこの世界のモノ」へと
私達の心をそらすようにと 働いております。

ですから、私が「そのミッション」を達成しようと
するならば 24時間・目を覚まし、心のナマケをしりぞけ、
戦うために積極的に霊を外に向ける意志、
私の霊を「その外国」へとおし出す意志が
どうしても必要なのです。なぜなら
彼等は極めて勤勉(きんべん)であり、
眠ることさえしないからです。

出て行って
全世界の
総ての創られたもの達に
福音(キリストの勝利とサタンの敗北の確定した事実)を
宣べ伝える、は一句一語

イエスが天に帰られる際に、総てのキリスト者に
残された 「あの極めて重要な命令」を
形成(けいせい)しているはずです。

70歳になりました

この5月5日で満70歳になりました。
これで私は
名実(めいじつ)ともに老人・おじいさんになったのだ、
と言ってもいいでしょう。(今の日本ではそれは
75歳だよという人もおりますが・・)

実はある意味、私はこの日を楽しみにしていたのです。
それは、老人であるとは一体どんなものであるか、
その実体験をこれから日々味わうことができるからです。

さて
これから80歳までが一区切りです。
それまでの、多分アッと言う間の10年間、
その一日一日、その日々の刻一刻は一体
どんなスリリングなものとなるのでしょうか。

☆☆
前回の記事に
コメントをいただきました。
有難うございます。


>人の口が何を発するかは極めて重要です。
ほんとうに!
主を語るために備えられたであろう「口」という器官を、
今までいかに、この世に同調するために使ってきたことか!

マルコ:16-15
『全世界に出て行き、すべての造られた者に、
福音を宣べ伝えなさい。』
宣べ伝える=宣言する、これなら何時でもどこでも、
一人でも、出来ますね♪ 

2011年5月10日火曜日

7日、カリマン(小屋付近)の線量です

イモクボさんが実際に線量計で計っています。
それによると
(小中学校等で、外で体育などをするときの安全基準が
3・8マイクロ・シーベルトですので)
この小屋は安全と言えるでしょう。


イモクボさんのブログ

Sさんから、線量計を一日借りて遊んでしまいました。
・国道(288)で0.8~1.0マイクロシーベルト位。
・カリマンのMさんちの田んぼ脇(地表)の
タンポポの横で1.5マイクロシーベルト位です、
・家の中では0.5~0.8マイクロシーベルト、
本日午前11頃の測定です。


☆・☆
今朝のメールから:

昨日(9日)小屋に戻りました。
今ようやく黄緑一色の若葉の山小屋です。

今ロフトの窓から、
何と言う名前なのでしょうか
「山桜」の花びらが風に舞っています。

Yさん、Tさん達のこと教えてくれて感謝です。
そのような
このごろの出来事に接するときに

私達が出て行き(即ち、自分の霊を前面に押し出し)
日常生活のささいな場面で、自分の小さな十字架を負い
総ての創られた者達
(特に見えない被造物達、そして自分にも)に対して
福音(十字架、復活、御座に関する
イエスの勝利とサタンの敗北の事実)を
宣べ伝える(宣言する)時に初めて

神が御使いを遣(つか)わされ
神の敵達を追い払われる、
という現象(法則、法、定め)を見る思いです。

「あなたは
幼子、乳飲み子達の口によって
「とりで」を設けられました。
それは、あなたに敵対する者の為に
敵と復讐(ふくしゅう)する者をしずめるためでした。」
(詩篇8篇より)

即ち、
(か弱き)キリスト者の口が
神の真理を宣告することによって
「とりで」(小さな城)を設けるならば、
初めて神が敵を静められるのです。
人の口が「何を発するか」は極めて重要です。

2011年5月6日金曜日

北デッキを切り落とした

昨日、北デッキを、文字通り切り落とした。
よく見るとデッキの東半分はチャンと土台の上に根太が乗っかって
いるではないか。だったらその部分は廃棄(はいき)することは
ない。あとで下に壁を作り、薪小屋の屋根にでもするとよい。
というわけで、ネタがはずれている西半分のみを
切り落とすことにした。

デッキに足を踏み入れ、ネタが土台に乗っている部分と、
乗っていない部分の境目におそるおそる丸ノコを入れた。
デッキの奥行き1・5間を切ると、最後に、二坪以上のデッキが
3m近い下の地面にフワリ、ドサリとばかりに落下した。
うまく行った、これでよい。

それにしても早くその薪小屋の建築にとりかかりたいものである。
実は今、小屋の西部分に何と大量の薪が地面に散乱している。
と言うのはこの冬、ある人が小屋に来てくれて、周囲の森を
一部伐採(ばっさい)し、たった2日で雪の中、一年分の薪を
作ってくれたのである。(これは本当の話です)
このように一人老人が、山奥で山小屋などを作っていると神は
時々不思議なエンジェルを遣(つか)わしてくれるのである。

今度の冬
ストーブに連日マキをドンドンくべるために、
早く3・11の痕跡(こんせき)を小屋から完全に
消し去り、その薪小屋の中に、芸術的な美しさで薪を
積み重ねて見たいものである。

2011年5月5日木曜日

南デッキの修復

次に南デッキであるが、それは角(かど)部分でないから
三脚(さんきゃく)は使えない。
つり上げ(or押し広げ)にはどうしてもジャッキを使うしかない。

そのためには、ジャッキを安定的に置く台を作らねばならない。
これは相当の手間がかかり出来ればさけたい、と思っていた
のだが、フト「この前買ったサポートを地面にうめ込んで、
それにジャッキを置いたらどうか」と気がついた。結果的に、
これが実にうまく行ったのである。ジャッキもかなりな力が
出るものであると感心した。

①ジャッキでデッキを押し上げて少しの間隔(かんかく)余裕を作る。
②二枚重ねの「数メートルの重い2バイ8」をはずして
一枚ずつにする。
③一枚ずつを丸ノコでわずかに細くする。
④デッキと基礎の間に一枚ずつはさみこむ。
⑤わずかに生じたデッキとの隙間(すきま)は、後でクサビを
打ちこめばいい。

南西と南の二つのデッキの修復が、何とわずか半日あまりで
終わってしまったのである(5/3)。正に「案(あん)ずる
より生むが易(やす)し」であった。


さて突然・話題は変わりますが

どうして永遠に対して
今のような「時間・空間の時代」があるのでしょうか。

それは:
一点に凝縮(ぎょうしゅく)され、
隠(かく)されている「ある実在」を
引き出し、詳(くわ)しく見せるため、
ではないでしょうか。

なぜなら
「ある実在」とは、確定ずみの
「完全なイエスの勝利とサタンの滅び」のことですが
それは(十字架と復活という)①一点であると共に
②経過(けいか)や過程でもある、からだと思います。
(当然①と②は全く同質です)

即ち、十字架と復活そして御座という隠された永遠は
今度は時空の中においても、
総ての創られたもの達に対して
くわしく展覧されることを、
神は大いなる喜びとされるからでしょう。

それは
①一粒の小さな小さな金と
②それを広大な面積にまで押し広げた金の紙(金ぱく)
のようなものかも知れませんし、あるいは簡単に言って

①種と
②その萌芽(ほうが)、開花、結実
のようなものではないでしょうか。

私達が目にする一粒の種とは、
その後の莫大な時間と空間をさえ含むところの永遠
を指し示すための一つの絵なのかも知れません。

従って、私の中にまかれた「永遠の性質を持つ一粒の種」
(イエスの十字架と復活、御座を含む)も
「私の死」を経て初めて現れ、その中に含まれる永遠の真実を
この時間と空間の中に萌芽、開花、結実させるのです。

2011年5月4日水曜日

西南デッキの修復

小屋のデッキ(ベランダ)は全部で4つあり、内3つが
3・11でヒドイ損傷(そんしょう)を受けた。

北デッキは、今無残にも中空にぶら下がっており、
これはとても修復できそうにない。
いずれ何らかの方法で、危険ではあろうが
地面にドサリと数メートル落下させなければならない。

居間に直接接している西デッキであるが、これのみが健在である。
南デッキに続く、西南デッキは基礎からはずれ、大きく傾いて
しまった。

一番大きな南デッキ
(この上を歩いて、小屋の「玄関」にいたる)は、
「2バイ8を二枚重ねた土台」が、西南デッキに
合わせて斜めになってしまったのである。しかし、デッキ
そのものは全く健在であったことはとても感謝であった。

さて昨日昼から、南西デッキの修復にとりかかった。
その作戦とは:
まずは、鉄パイプ三本のアタマを太い針金でくくって、
大きな三脚を作る。そこにイモクボさんから借りた
レバーブロックを取り付け、私を乗せたままデッキを
つり上げるのである。

いろいろと試行錯誤(しこうさくご)した結果、
(機械の威力は偉大)重い重いデッキはつり上がった。
初体験の私にはこれは一寸した感動であった。

後は
基礎の上に適当なライナーを置き、水平機を見ながら
デッキ全体が水平になるようにつり下ろすのだ。
そのようにして、遂にしばらくぶりで、私は春の西の森を
見下ろす、地球に水平なデッキの上に立つことが出来たのであった。

そういえばダビデも
「主は私を水平なところに立たせられる」
見たいなことを言ってましたね。
(水平感、安定感の無い場所に人は暮らせないのだ。)

2011年5月2日月曜日

山ではまだ桜が

ついさっき、小屋に着きました。
今日はまず午前、千葉ニュータウンのジョイフルホンダで
鉄パイプ(単管と言うのかな)を買いました。
3・4メートルを1本、3メートルを二本です。
(そこではパイプの切断や穴あけもやってくれるのです)
それを積んでから出発したので、こちらに着いたのは
5時半でした。やはり少々疲れましたね。
でもこれから片付けて、食事を作らねばなりません。

山はようやく木々から新緑が出始めたといった所です。
こちらの平地ではまだ桜が咲いているのですから。


聖書について大切なことは、
ただ「そこに重要な真理が書いてある」ということ
だけではなく、
それらの事実が「総ての創られたもの達」に対して明確に
宣告されなければならない、と言う点にあるように思われます。

「みことばを宣べ伝える」と言うフレーズは今日
全くいいフルされ、しかもとてもせまい意味で
使用されています。しかしその本来の意味は決して
そうではないでしょう。

その真意は、
神の重要真理(十字架、復活、御座に関する事実、即ち福音)は
本来(イエスが言われたように)対人のみならず
「総ての創られた者たちに」対して
「いちいち日々」明確に宣言されなければならない
と言うことです。

「宇宙の法」の制定者である神は、人によって随時(ずいじ)
それらの真理がハッキリと宣告されることをとても
重んじられるのです。(そして神は「宣言を聞く」
ことがとてもお好きであるはずです。)

また、実際的に言って、どんなにすばらしい法であっても
ただ存在するだけでは「その力と効果」は
殆ど現れないのではないでしょうか。

以上のようなことを
今日道々考えておりました。