2008年6月29日日曜日

ウソが勝つこの世

*あるメールから*

さて、仰せのこと もちろんこの世で働く神の敵の仕業です。
サタンを頭とする敵の軍勢が 私達の勝利の立場をねたみ 
ウソの現象やウソの「証拠」を私たちに見せつけ、私たちがあたかも
勝利の場所にいないかのような錯覚を日夜 わたし達の環境・ 感覚・
経験を通してわたし達の思いに射ち込んでいるのです。この点で
彼らは正に天才であり そのダマシを見破ることが出来る人は
この世には唯の一人もいません。 

実はこの世の総ての虚構は 
ウソつきサタンの「はかなくあわれな」努力の成果に過ぎないのです。 
にも拘らず、この世で私たちを取り巻く「リアル感に満ちた」 諸現象は
神の敵によって実に巧妙に高度に仕組まれたものなので キリスト者と
言えども とてもたやすく 「自分は敗北の中にいる」と思い込ませられ 神に
「勝利を与えて下さい」と祈るのです。そして何度も決心を固め
生来の力を振り絞って 勝利と言う高嶺の花に手を伸ばす涙ぐましい
努力をします。しかし その状態は既にまんまと敵のウソの術中に
はまっている姿なのです。

その原因は要するに、神が発している情報を知らないか、それとも情報を
シッカリ見据えていないか(つまり単に何となく眺めているだけか)或いは
信じる気がないか ではないでしょうか。時にある情報はあなたの 生死を
分けます。それは真剣に取り扱うべきものです。

ウソなど絶対につく筈がない神の
「天地に定まり大岩の如く微動だにしない言葉」を取り、十字架と復活
によって「既に完成し頑丈極まりない神の防空壕・キリスト」の中に
安心して留まること(入り込もうとするのではない)だけが 
唯一の わたし達のするべきことです。私達は唯その場所の
安全さを信じ そこに安息して留まるだけでよいのです。

次に 私が置かれたこの場所がいかに堅固極まりないかを敵に対して
高らかに誇るべきです。(これは攻撃となります)。その「宣告」を実際に
口に出し 断固とした態度で敵の顔面に叩きつけてやることは 相当に
効果的です。「敵よ、神の言葉によれば 私は今 キリストの中にいる、
キリストと一つに されているのだよ、あんたも実は百も承知であるように」と。
戦争とは詰まるところ場所(領土)の争奪であり、そして戦いの
メイン部分は情報戦なのです。(要は神からの情報以外の「雑情報」に
惑わされないこと。)

当たり前ですがその性質上「絶対的に事実はウソに勝ちます」。
しかし真実を知らない人、信じない人、そしてその事実に立ち、 
シッカリ腰をすえてその事実を用いない人は「必ずウソに負けます」、
事実がそこにあるのに。
それは この世の法廷と同じです。

2008年6月27日金曜日

神は人のLIFEを愛す(2)

*キリスト者の集まりにおいても*

神が愛するのは人のライフ、即ち人の命、生活、人生です。
だからキリスト者の集まりも「人間生活的」でなければなりません。
実はこれは軽い問題ではないのです。何故なら人の宗教性は キリスト者
の集まりを人間生活の正に逆方向に持って行きたがるからです。
相当注意しないと私たちの集まりもたちまち その様になって
しまうでしょう。何故なら私たち人は誰しも キリスト者の集まりを日常的
ではなく、非日常的、非人間生活的、生活の匂いのしないもの、或いは
人間的でなく天使的なものに変質させたがる深く強力な根を
生まれながらに持っているからです。

福音書を見るとき、十字架に付かれる前
「人の子」イエスは少数の例外を除いて日常的、
人間的な場面で御自身を表わされました。2回に渡って何千人もの
群集が集まった際も、その焦点は食べる問題、人が生きると言う問題
でしたし、いわゆる山上の垂訓も 実は天的な神の子キリストの命を
天国の民が地上の「人間生活」を通して表現することがテーマ でした。
その他の殆どのケースもとても人間的な状況であり、
しばしば仕事や食事の場面にイエスは登場され、更に 
身近な人の死や切実な自分の病気に苦しめられている人々の
正に「人の生活の修羅場」において
イエスは御自身を私達に啓示しようとされたのです。

復活後のキリストにおいても同様です。
面白いことにその幾つかもやはり食事の場面でした。
食べることほど人間生活的なものはありません。
ある時など 復活のイエスキリスト御自身が まるでお母さん
のように弟子達の為に炭火をおこし朝食の焼き魚とパンを準備
されたのです。その日の労働を終え ある空しさを感じていた男達は
その朝、 主イエスに仕えていただき、焼き魚などを食べながら 
後世に語り 告がれる程の とても重要な集会をしたのです。しかし
その重要集会は とても自然でそして日常生活的、人間生活的であった
のです。 今日のいわゆる教会におけるいわゆる「礼拝」が新約聖書が
示唆する キリスト者の 集まり方とはまるで異質なものになっている
ことは 殆ど論を待たないのではないでしょうか。
 
またパウロが登場する場面も殆どは人間的な場面です。
パウロが非日常的な雰囲気の中、気取って人々の前に
厳かに登場する場面など想像すら出来ません。

従ってあなたは集まる時、決して「超人間」になるべきでは ありません。
くれぐれも使徒行伝に出てくる小ざかしい支配者や ヘロデ王のように
正装に威儀を正し偉そうに人々の前で演説などを ぶってはなりません。
もしかしてあなたは虫にかまれるかも知れない のです。あなたは決して
キリスト者の集まりに「くつろぎや人間的な 弱さ」を敢えて
押し殺さなければならない様なオゴソカナ雰囲気などを
作り出そうと したり 演出したりしてはならないのです。

以上から 基本的に私達の集まりは日常生活の延長線上にあるべき
ものであり、自然に自由に人間的に振舞うことが出来るものでなければ
ならない事は明らかです。それはキリスト者の集まりは 家族生活の中
のリラックスした団欒の場面のようで なければならないと言う意味です。
神の家族にとってこれは当然のことではないでしょうか。
なぜなら、神が心から愛するのは 正真正銘の人の生活から現れ出る
人の子イエスキリストの命と生活であるからです。

2008年6月26日木曜日

神は人のLIFEを愛す

人のライフとは人の命、生活、人生です。
それこそが神が真に愛するものです。

しかし更に正確を期するとすれば
人のライフを通して神性が表現されること、神性と人生が 一つとなる
ことを神は意図し、それを神は心から愛されたと言わなければならない
でしょう。 この様な発想は人の思いからは出て来ません。それはとても
信じがたいことです。 しかし事実神はそれを意図しそれを愛されたのです。
ポイントは人性を通して表現される神性です。

そのことは旧約聖書の中から 人の創造の完成の後に神の大いなる
喜びと安息があったことを見れば明白であり また新約聖書からは
「神の子イエス」が地上に現れられた時、それを見て神はしばしば大喜び
されたことを見ても明らかです。「神の子」は神性を意味し「人の子
イエス」とは人性を意味しています。だから「神の子イエス」とは何と
神と人が その性質において全く一つにされた存在である
ことを意味するのです。

アダムの創造に欠点は全くありませんでした。しかしアダムには最終的な
仕上げ の必要があったのです。最終的な仕上げとはアダムに神の命が
賦与されることでした。それ故に最初のアダムは「命」の木の前に
置かれたのです。しかし 自由意志を与えられていた最初のアダムは
その選択において完全に失敗しました。
彼は「神の命」よりも「善悪の知識や正しさ」即ち 自己をその魂において
肥大させ 自らの力で「神のようになる」道を選択してしまったのです。
この選択が極めて悲劇的な人類の歴史の方向性と終局を決定したのです。

しかし最後のアダム・イエスキリストにおいて
神の意図は完璧に達成されました。だから
わたし達のただ一つの希望は 最初のアダムが私たちから退けられ、
最後の アダムとなられたキリストの 命が私たちに
与えられることにあるのです。 「十字架と復活」とは今述べた
わたし達の希望が達成される為に キリストがどうしても
経過されなければならない神の唯一の方法でした。
従って十字架とは 私たちから「最初のアダム」が完全にマイナスされた
ことであり、 復活とは 私たちに「キリスト・イエス」そのものが
プラスされたことに他なりません。
あなたはこの「途方もない」聖書の主張を信じるでしょうか。

「古き人は十字架に付けられた。
キリストが私の内に生きている。」

2008年6月25日水曜日

流しの詰まりが通った!

実家の流しが詰まりました。
いろいろ試みた(市販の薬品、道具等)がいずれも駄目で、
最後にインターネットの知恵袋にあった下記の情報通りにやって
見たら見事解決。皆さん、この方法は凄いですよ。
(知恵袋さん、有難う。)

その知恵袋とは↓
「我が家は重曹(ベーキングソーダ)を排水溝にふりかけ、そこに
お酢(匂いがダメならクエン酸で)をふりかけると、"シュワシュワ・・・”と
泡がでてきます。そのまま30分ほど放置して、そのあとにやかんの
熱湯を注いでおしまいです。とても簡単なので、
よかったらお試しください。」

駐車スペース作り、始めましたよ。
きのうは重い重い数個の置石の除去、それと二本の立ち木の
伐採等でした。今日はコンクリート製の境界のハツリ作業ですかね。
ハツリと言うのは金づちと特殊なでっかいノミの様なもので
根気よくコンクリートを ガツンガツンと破壊する作業のことです。
これは右腕の筋肉を酷使する。
67にもなると、使っていない筋肉の痛みと疲労は後で来るのです。
あと三日後?に来る 昨日の作業と今日のハツリの結果が恐ろしい。

2008年6月23日月曜日

高山さんが退院です

明日 予定が早まり高山兄弟が退院されます。
輸血の必要も全くなく 総ては極めて順調とのことです。
高山清子さんによると、貞三さん、主を賛美したいから
ギターを 習いたいなどと言っておられるとか。「仕事一筋で
そんなタイプの人でなかったのに」と 奥さんもその変わりように
再び 唖然と言ったところです。
今聖書によく親しんでおられる貞三氏、御言葉から
いろいろと 確信が与えられているようで 奥さんに語って曰く
「これからは 二人でただ命を楽しむ人生を送ろうではないか。
総ては主御自身がなさるのだから。」

2008年6月22日日曜日

二つの世界

明確に二つの世界(A世界とB世界)がある。
A世界はとても分かりやすい世界、即ちこの物質の世界である。
そのリアル感は明らかで そこにある 「存在の確かさ」を
疑う者など殆どいないであろう。

しかしB世界はそうではない。
その世界は一見 分かりにくい、と言うよりも そのリアル感は 
ある簡単な条件を満たすこと無しに感知することは
絶対にあり得ないのである。AとBの間には大きな淵があり AからBに
渡って行くことは 全く不可能なのだ。 (その逆は可能)

ところが聖書は このBこそ真のリアリティであると断言する。
聖書は Aは極めて不完全な世界であるうえに一時的であり、
しかもそれは単なるBの写真や模型に過ぎないとさえ言う。
元より実物と写真の価値を比較することなど出来ない。

もしもこの神の言葉の主張が真理であるならば、A世界の中でのみ
真のリアリティを 追い求めて行く者は必ず、無意味で辛いタマネギの
皮むきと 同じ経験をすることになる。何故ならAの中には実は
「リアリティ」は存在しないからである。従ってタマネギの中にリアリティを
求めるその人の人生の作業には必ず涙が伴い そして タマネギの
中心にも周辺にも タマネギ以外特別なものは何もない、
と言う事実がある日 厳然として突きつけられるのである。
こんな悲劇がまたとあろうか。

その聖書で言う「真のリアリティであるB世界」を実感するには
「Bと言う世界の全体である復活のキリスト」を信じ受け入れるしかない。
それが「キリストは総てである」と言う意味である。
B世界には真のリアリティの一切がある。それは完全な世界であり
そこには永遠、不死、不滅、歓喜、そして完全な清さと愛と真実がある。
聖書で言うリアリティに不完全さなど微塵もないのだ。

そして 幸いB世界に入ることを許された者は A世界にいながらにして
B世界の素晴らしさを感じ取ることが出来、更に今その素晴らしさを
部分的にではあるが A世界に現すことさえ決して不可能ではない。
あなたは絶対にこの幸いなるチャンス、特権を見逃すほど
愚かであってはならない、と私は思う。

その真のリアリティはしかし、
「復活のキリストを信じる」という行為無くしては その人とは全く
無縁であり、早晩彼からその真のリアリティに触れる道は永遠に
閉ざされる、 と言う厳粛な事実を前に 私は今戦慄を覚えざるを
得ないのである。その人にとっては A世界のみが万物の総てであり、
その人の人生は 「この汚染されたはかない世界」にのみ限定される、
と言う事実こそ恐ろしい。

2008年6月20日金曜日

あすは旅

11日間のケンとの山暮らしを終えて、また実家に戻ります。
次回の山帰還は多分 7月の第2週ぐらいではないでしょうか。

実は今回 3日間 東京からお客が小屋に来られていたのですよ。
正にあの14日でした、あの大地震のさ中 よくぞ来て下さいました。
とても楽しく有意義な3日間、本当に有難うございました。

首都圏からここまで、車だとどうしても ひとっ走りと言うわけには
行きませんが もし郡山まで新幹線で来てもらえれば、乗り換えて
3つ4つですからね、驚くほど早いらしいのです。(地震でもなければ)

近く 妻が軽自動車を買うと言うので、実家にカースペースを一台分 
拡張する必要があるのです。こんなものでも業者に頼んだら随分
高くつくのでしょう。そんなことをする積もりは私にはサラサラないのです。
でも隣近所の人たち 私が業者よろしく働くのを見たら きっとびっくりする
でしょうネ。 土木工事とモルタル作業が主な仕事になるでしょう。
うまく行くかどうか分かりませんが 何とかやって見る積もりです。

今回 下でも楽しいことが沢山ありそう、
こんなに毎日 生活を楽しませて下さる主に ただただ感謝。

あなたの存在が

あなたの「言動」などではなく、
ただあなたの存在が、
ひたすら一点キリストと その凝縮された死
の中に留まっているあなたの存在こそが、
キリストと共なる復活の中で
人に見えない啓示の光を届け、
この時空の中 初めて
人に永遠と天来の何かを見させる。

そこに輝くのはただキリストの栄光。
誰一人として
あなたの 神に隠された存在に気づくことはない。
あなたはその時 一人黙って 再び 
あの閉じ込めと死と墓に戻るだけだから、
バプテスト・ヨハネのように。

(ピリピ1の12、20~24)

ガラテヤ2章20節

私の中で本物と言えるものは ただ復活のその命のみ。
その命が生きる、キリストと言うその命が生きられる。
生きるのはその命、この肉体と言う衣をまとって。

だから主よ、
あなたと私は共に 一つのその同じ命を生きるのです、
その同じ一つ生活を、同じ人生を、同じ運命を、
そして同じ永遠を。
ただ御子の信仰の中で。

2008年6月19日木曜日

コイノニヤ電話

M兄弟 へ、
昨日S さんから
「M姉妹から電話をもらってとても幸せでした」と言う
電話を いただきました。
Sさん「それまでどうにもならなかった閉塞感から
この一度の電話で全く自由にされてしまった」と
感動に言葉をつまらせながら語っておられました。

二人の姉妹の電話の中に 
確かに真のコイノニヤ(交わり)があったに違いありません。
その交わりは直ちに、御父と御子との交わりだったのです。
これがⅠヨハネ一章でヨハネが強調していることです。

そのコイノニヤこそ「教会の実質」です。それ以外のいかなるものも
エクレシヤ(教会)の名に値しません。そして 
そのような素朴で自然な人間生活レベルでのコイノニヤの
存在、拡大拡散こそが   エクレシヤ(教会)の
戦いにおける前線、また神の国の前進です。

それは多くの場合、
ほんの二、三人のコイノニヤの中に見られます。
実にこの二、三人こそ 「神の国の秘密」なのです。
どうぞ奥様によろしくお伝えください。
(マタイ18章)

2008年6月16日月曜日

手術成功!

高山貞三兄弟の心臓手術が無事成功しました。

高山氏は手術室に入る前
「今私の心は平安であり、とても穏やかな気分である」と
奥さんである清子さんに告げたそうです。

手術は予定通り本日16日、
午前9時30分から午3時30分にかけて執り行われました。
そして心臓の五箇所にもわたって バイバスを通じさせると言う
大手術が 見事 成功裏の内に終了したのです。
術後 まだ麻酔が切れずに眠っている貞三さんの顔は その言葉の通り 
とても穏やかなものであったと清子さんは言います。

糖尿病を併発している患者にしては
肝臓や腎臓(肝腎)の
状態は 驚くほど良い状態であった上に
手術中全く輸血をする事もなく 総ては極めて順調であったようです。
もし これから貧血の症状が無ければ術後の 輸血の必要も無いそうで、
リハビリを受けた後 何と 10日か2週間後には
退院の運びとなるだろうとのことです。

高山清子姉妹の言葉:
「この期間私は 貞三さんに対する神の守りを、
そして彼は 神に篤く愛されていることを、
また彼のために いかに多くの祈りが 神の家族によって
捧げられて来たかを 実感したのです。
最初はあまりに素晴らしい貞三さんの信仰の変わりように正直 
唖然とするところがあったのですが 今、
そのこと総ては主から出たものであることをハッキリと知ります。
神は私たちに 耐えられない試練を与えることはありません。
今私は主の前にひれ伏し、ただ主を賛美するのみです。」

2008年6月14日土曜日

三角池&地震


この池の中
以前 飼っていた猫(チャコ)に雰囲気がとてもよく似た
小さな白い鯉が一匹 いつもさびしそうに泳いでいるのです。
だから通るたび 立ち止まってジッと眺めてしまいます。
さてさて ついさっき結構大きな地震がありました。
この小屋は地球に直接建っている建物ではないので
巨大地震が来たら相当ヤバイと思っているのです。実はこれ
古電柱利用の弥生時代の高床式建築物なのです。
お蔭様で今回は何とか無事でしたが・・。
とはいえ、居間の大きな鏡を思わずしっかり押さえましたよ。
でも高床式だとかえって地震にシナヤカに対応してくれるのかな。
あ、また揺れた。

2008年6月13日金曜日

その後の高山さん

心筋梗塞で倒れられ、しかし危機を脱したあの高山貞三兄弟は 今
一週間ほど外泊中です。それは彼の会社の色々な調整の為です。
しかしそれも一段落しました。
さて これから貞三兄弟は あす14日再入院、そして16日 
何ととても大きな手術に踏み切ることになっているのです。

過ぐる5月22日体調が急変し、救急車で搬送される貞三さんは主に対し
「主よ、私の一切をあなたに委ねます」と明言したと言います。その後 
一週間ほど意識の無い状態が続いたのですが、
意識が戻った彼は  一週間がホンの一日のように感じられ、
そして次のように思われたそうです。
「ああ 正に主はあの私の祈りに応えて下さったのだ。
この総てをなさったのは主である、主が私を生かして下さったのだ」と。

糖尿病の上今回 動脈瘤も発見されたというこの患者について
医師は 「よくもまあ、こんなボロボロの心臓でここまで・・」という
感想を漏らしたといいます。
執刀は順天堂からの派遣医、バイパスを4本通すと言うこの大手術を
前にし  さすがの高山姉妹もつい心配になり、
御主人にその気持ちを伝えると、 彼は言いました:

「ここまでの総ては全く主であった。主が私を生かして下さったのだ。
だからこれからも大丈夫、全く心配はしていない。 それどころか
私は今 大きな平安と安息を楽しんでいる。実の所を言えば、
不思議なことに  この 手術を 受けることは今私の楽しみなのであり、
それを思うとワクワクする くらいなのだ。
だからもう くどくど主にお願いする必要も無いのだよ。」

2008年6月12日木曜日

山に来ております

きのう、夕方 山小屋到着、今回ケンも一緒です。
10日ほどここで暮らし、21日に下山の予定です。
今日は山、寒いですよ。朝ストーブを焚きましたから。
午前中は「カレーのごった煮」作り、ケンの食欲は物凄く、これは何とか
対策を講じないと。それで安くて美味しい、当地評判の豆腐と、
それに納豆は欠かせないのです。
午後はジョイフルホンダで買って来た新しいウオッシュレットの取り付け:
何とか携帯用ウオッシュレットで間に合わせようと思ったのですが、
やはりどうも駄目ですね。とうとう買ってしまいました。
そういうわけで ウオッシュレット党の皆さん、
安心して山小屋にお越し下さい。

*結構、高性能のウオッシュレットが2万9千円。
これ以外の経費はゼロです。今 取り付けはとても簡単になっていますよ。
(ある業者は 取り付け費こみで8万とか言っておりました。
幾らなんでもこれはヒドイ。)

2008年6月9日月曜日

御血と十字架

神が私たちに罪の刑罰を担わせることは、愛のない義です。
一方、神が私たちに罪の刑罰を担わせないことは、義のない愛です。
私たちにとって罪の赦しは無代価です。
しかし神にとって無代価の赦しはありません。
神にとっては、罪の贖いがあってはじめて赦しがあるのです。
十字架上には 
血を流して(苦しんでいる)主と、我々人間を救うことができるので
満足している主の両方の主が存在したのです。

また私達キリスト者に対する主の方法は唯一
十字架の閉じ込めと死しかありません。
神はすべての人をこの十字架の閉じ込めの中に誘いたいのです。
何故ならそれは必ず神によって復活にもたらされるから、
死を通り復活したもののみが「真の価値」であるから。
あぁハレルヤ。

*以上はある方の文章ですが、
冒頭の所が特に素晴らしく、ここに掲載させていただきました。
さてキリストの血による救いと、十字架による救いは
全く異質なものなのですが 
この文章はそのことの理解にも役に立つでしょう。
分かりやすくする為に勝手に 一部加筆したところがあります。
このご無礼をお許し下さい。

2008年6月6日金曜日

月川兄弟から

早速の返信メール感謝します!全くアーメンですね。
兄弟が「閉じ込め」の中にいるのは私から見ても良く分かります。
不必要な「私」を死に渡し復活するためですね。
自分では、十字架につけませんからね。

そうそう一番の問題は、訪問した時も話題になりましたが「私の正しさ」
「キリスト者の正しさ」です。全体的にかつ完璧に正しいのは主だけです。
沢山の失敗を重ねてきた者としましては、どっかしか間違いがあります。
最初から最後まで正しくはないのです。

昨年、フェリーに乗って○○まで行った時の事です。
船内放送があり「サンダルを間違えられて困っているお客さまが
おりますので、お心あたりの方はフロントまでご連絡をおねがいします」
と数回アナウンスがありました。わたしはその時 口に出しては
言わなかったのですが心の中で
「自分の履物も分からない人がいるんだ」と思ったのです。

それから1~2ヶ月経った時 何かで、自分のサンダルをよくよく見る
機会がありました。その時です、驚きました、自分のサンダルで
ないのです。自分のはまだ新しかったのに、それはかなり古ぼけて
チビッていたのです。そしてすぐ、あのアナウンスを思い出しました。
お風呂に行った時間違えたのです。

人は正しくはありません。間違いだらけです。そのサンダルはすぐ捨てて
しまいました。そうです!「私の正しさ」を捨てればいいのですね。
とは言ってもこの学課も失敗しながら学びつつある者です。アーメン!

2008年6月5日木曜日

月川兄弟へ(2)

月川兄弟姉妹、メール有難うございました。
いやー感動しましたよ、何に?月川兄弟の言葉にですよ。
そうです、おっしゃる様に余裕を持って受け止めればいいのです。

そうすればコチコチの○派だろうが、コチコチの反○派だろうが、
どうでもいい派だろうが、とにかくどんなキリスト者をも
愛することが出来るはずです。なぜなら
その人を照らし その人に真の自分の姿を見せられるのは
「神から発せられる光」 だけであるからです。人にはその分は全く
無いのです。 他人を神の真理の光で照らす、
そんなことが出来ますか! 絶対に出来る筈が ないのです。
(皆さん、何故か人には全く出来ないことを やろうとするのです。)

私に出来ることがあるとするならば、それは ただ黙って主が送られる
「閉じ込め」 の中に 主と共に留まり そしてその中で主と共に
死ぬことです。 不必要なのは「私」であるからです。その時にのみ 
私経由で主がその人に 復活の中にある天からの光を届けられる
かも知れません。 しかしそれとて全く主のことです。私に関して言えば 
総てはひたすら 「私に適用されたキリストの死と復活」にかかっている
のです。 それだけが神にとって有用な何かをなし得る筈です。

この簡単な当たり前のことさえ分かれば キリスト者達の間の
一切の垣根は どこかに消え去って行くことでしょう。
要するに「私の正しさ」などドブに捨てればよいのです。何故でしょう、
それは 神が「キリスト者の正しさ」をさえ木に釘付けからです。
なるほど「正しさ」は良いものには違いないのですが、しかし
正しさをどう細工したとしても、決してそれはキリストにはなり得ないのです。
「正しさ」とキリストのどこが似ているでしょう。全く似ても似つかないのです。
何故なら一方は、とても立派かも 知れませんが しょせん単なる 抽象概念
に過ぎず、 他方は生きている人、パーソン、お方であるからです。

厳然たる事実として 神は断固として「復活のキリスト以外の総て」を
完全に 廃棄してしまったのです。それらは総て神にとっては
全く不必要であるからです。

それが あの3日間に起こったことに他なりません。神はあの3日間を用い
神の真の御こころを全宇宙に提示し 布告し 敢然として宣言したのです。
「私の承認するものは ただ復活のキリストのみである。人から 発した
善も悪も、 正義も不正義も 私は一切十字架につけてしまった!」と。


ただ言われるように 交わってもくれない人、初めからあの人は駄目だと
決めてかかる人、問答無用に敵対心を持つ人は やはり難しいですよね。 
しかし、それでも彼は主が愛される兄弟には変わりはないのです。
(そういう時 私は彼によって殺されればいいのです)
その人をも神は 「いつか」必ず変えて下さるのです。
差異は時期のいかんに過ぎません。

私達の神は 何千年かかろうが 地のチリを必ず宝石に変えられる神です。
これが 聖書の最初と最後に示されている事実であり、このことこそ
全聖書を通し首尾一貫して神が主張してやまない
御こころであり 神の実行なのです。


外はとてもよい天気、これから山を下ります。
それでは。

*○派も、反○派も、そんなものは実は存在しないのです。神の判断
によると それらは総て 死刑に処せられるだけの価値しかありません。
そしてその死刑の執行は2千年前に完了してしまったからです、
最後のアダム、キリストの中において。

2008年6月4日水曜日

あすは旅

もう梅雨 始まったんですか。
ロフトの南窓から見えるのは 
雨にぬれた緑の海の奥深いカーテン。

殆ど出歩かず小屋にじっとしていただけなのに
今回の山は実にスリリングでした。
とても面白くて楽しかった と言えると思います。

今回、下山するのは 家内が7、8、9と白神山地方面へ
旅行に行くと言うので、その留守番のためなのです。
ですから明日 下りても、遅くも12日あたりには
山に戻ろうと思っています。
もしもケンが不調ならば 山に連れて来るつもり。

登ったり降りたりと ガソリン代はかさ張るけど、
これは仕方がないですね。
今日は台所のライトを別のものに替えること、
次回ケンが来ても良いようにケンの部屋、最低限度の準備をすること、
でもタバコ用換気扇取り付けの完成は無理でしょう。
そして後は明日の旅の支度です。

今回、意外な展開が下でもあるのかな。
主よ、期待しております。

2008年6月3日火曜日

エクレシアの祝福

この最後の時代 神は
確かにこの地上において何かを始めておられると思います。
それは永遠のエクレシアの地上への実現です。

あるキリスト者が、真に神の啓示によってこの真理を見、
そして心から そのリアリティを 求めようと するか 否かは
彼の霊的歴史の中で、 正に大きな分岐点となるでしょう。

彼が他の一切を排し、 自分の純度を高め、 ひたすらそこにのみ
身を置うと する時  神は必ずその人に 「エクレシアの祝福」を注がれます。
そこではキリストが彼の総てとなられ、
必ずや神はその人の必要の一切を顧みられることでしょう。
(Ⅱコリント6の16、17、18)

なぜならそこにこそ キリストの再臨の前に、
神がその御こころを実行される、 正にその焦点があるからです。
そこには キリストの十字架の真の目的、彼の御「からだ」があるからです。
このことにおいては キリストの勝利は
既に永遠に定まっているのです。

月川兄弟へ

取り合えずヤン姉妹の電話を お伝えしておきます。
姉妹のロサンゼルスの家ですがOOOOOです。
彼女○日に台湾に帰る、と言っていました。御高齢なのに 精神は
全く衰えていませんね。この事実 嬉しいです。なぜなら 彼女には
神によってまだまだ時間が与えられていると思われるからです。

この姉妹 「教会」についての実に様々なことを経験して後
「私1人であなたを求めて行ってよいのでしょうか」と
主に聞いたのだそうです。
そうしたら主は「それでいい」と言われたと言います。

先日は ヤン姉妹、中谷姉妹、元木兄弟がロサンゼルスでノンビリ
日本語で交わられたそうで、その最中に私に電話をかけて下さったのです。
ですからその3人に私も加わりとてもよい集会になりました、
電話で長々とね。 兄弟 これはもうエクレシアですよ。

DO IT YOURSELF

今回の 山の目的は幾つかの工事です。その一つがトイレ。
使用後流す水がタンクにたまらないのです。だから手も洗えない。
ためしにクラシアンと言うプロに来てもらったら(見るだけで
8千円ですよ!)「これは根本的な故障です」と断言する。総支払い額を
聞いて びっくり仰天キモをつぶす。それで私は
「そうですか、じゃあいいです」と 立派な領収書をいただくことになる。

以来、その不便なトイレを使って来たのです。
その故障、 あのセージさんもなんとかトライしてくれたのですが・・・
そう言うわけであの12人のお客さんには大変不便をおかけしました。
と言う事でいよいよ今回の私の試みとなるのです。
それで私はどうしたのか、結局 数日前
「もうこれはしょうがないではないか」と、 その便器メーカーに電話をし
その故障部品をオーダーしたのでした。

ところがその晩のことです。
もう寝ようかなと その壊れたはずの部品を何ごころ無く
ゴソゴソいじって見ると カチッとある部分がはまったのです。
そして何故か もう一つの故障の原因がパッと頭にヒラメイた。
それで何と 問題は総て5分で解決、
トイレは全く元通りに回復したのでした。
これってどういうこと?

もう一つ 洗面所の蛇口を元管につなぐ技術が私にはなくて 
せっかくの洗面所で顔が洗えない。これもとても困る。
キレイな「形だけあっても 使えない」というのはとても情けないのだ。
これも12人のお客さんには大変御不便をおかけしたのです。
その元管は例のカキオポリ、それは全く新しい技術の製品でとても
私の手には負えないと言う代物だったのです。

でも とにかく
何とかしなければと、遂に昨日重い腰を上げたのでした。
すると何と言うことでしょう。いろいろと別件が発生し半日はかかった
ものの 、まーどおってことなく 完全に解決してしまったのです。
しかしこれも私にとっては不思議と言えば実に不思議。
実感的には、山の如くそびえたっていた問題の総ては とても短時間の内に
どこかにふわふわーっとばかり消えて無くなってしまったのです。

とにかく「人に」すぐ頼ったり 自分には出来ないと思い込むのは
「総てにおいて」ダメですね。
何とか一歩自分で踏み出して見ること、 少なくもとにかく立ち上がること。
そうすれば何とかなる、何かが開けてくる。

これからのお客様、トイレと洗面、大丈夫使えます、お湯もでますよー。



洗面台の鏡とライト、計3000円也。
上記の「12人の」千葉のMさんから、早速下に
優しいコメントが 寄せられました。 Mさん有難う。
また来てくれないかな!