2008年6月20日金曜日

あすは旅

11日間のケンとの山暮らしを終えて、また実家に戻ります。
次回の山帰還は多分 7月の第2週ぐらいではないでしょうか。

実は今回 3日間 東京からお客が小屋に来られていたのですよ。
正にあの14日でした、あの大地震のさ中 よくぞ来て下さいました。
とても楽しく有意義な3日間、本当に有難うございました。

首都圏からここまで、車だとどうしても ひとっ走りと言うわけには
行きませんが もし郡山まで新幹線で来てもらえれば、乗り換えて
3つ4つですからね、驚くほど早いらしいのです。(地震でもなければ)

近く 妻が軽自動車を買うと言うので、実家にカースペースを一台分 
拡張する必要があるのです。こんなものでも業者に頼んだら随分
高くつくのでしょう。そんなことをする積もりは私にはサラサラないのです。
でも隣近所の人たち 私が業者よろしく働くのを見たら きっとびっくりする
でしょうネ。 土木工事とモルタル作業が主な仕事になるでしょう。
うまく行くかどうか分かりませんが 何とかやって見る積もりです。

今回 下でも楽しいことが沢山ありそう、
こんなに毎日 生活を楽しませて下さる主に ただただ感謝。

3 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

連日のコメント、みなさんのコメント覧を占拠しているようで恐縮です。自分でブログを立ち上げてそこで書けばいいのですが、どうもブログを立ち上げることは億劫です。これを最後に今後控えさせていただきますので今までの図々しいコメントご容赦ください。

さて信仰vs因果応報について。信仰を因とすれば、恵みは果となりますが、どうもしっくりきません。なぜしっくりこないのか思い巡らしてみました。因果応報に対する我々の理解は、我々人間の何かの行い、振る舞いによって何かの結果を得る、それらが善いものであれば良いものを得る、悪いものであれば悪いもの得る。現在悪い状況の中にいるのは、自分が悪かったからと考えるのが普通の考えです。つまり総ては自分しだいだという考えが根本にあるわけです。しかし神の恵みとは、救われるに値しない者が無代価で救われることです。それは信仰プラス何かということではなく、信仰のみによるということです。つまり自分とはまったく関係ないということです。つまり信仰による神の恵みは、因果応報を超えるということではないでしょうか?しかしここで注意しなければならないことは、神の信仰以外で現れてくるものは、総て因果応報の中で働くということです。自分で信じたものはそのとうりになるでしょう。自分の努力はある程度報われるでしょう。自分でまいたものは自分で刈り取ることになるでしょう。因果応報を無視して何をやってもいいということではありません。しかし信仰による神の恵みは因果応報を超えます。十字架の死は因果応報を超えます。時空を超えます。我々キリスト者は、聖書を理解できたからだとか、感動したからとか、内側の感覚があるからだとかではなく、「それが神であるあなたのお言葉ですから、私はただそれを信じます」、という信仰の原点に回帰する必要があるのではないでしょうか。

匿名 さんのコメント...

ごめんなさい、大事なことを忘れていました。これで最後です。

因である信仰自体が自分から来るものではなく、神からのものなのです。ですからこの点においても、信仰による恵みは因果応報の法則を超越するのです。

Mr.Sugar さんのコメント...

いえいえ、今まで通り、たくさんコメント
お寄せください。
今や沢山の人が楽しみにしているのでは
ないでしょうか。

自分のブログも無理して立ち上げることも
ないでしょう。
ま、とにかく「自然に無理なく」
と言うのは 命なるキリストに現れて頂く
一つの秘訣のようですね。

信仰、その定義は
「神の言葉に信頼すること」。
しかし、この一句の奥は深い深い。

確かに「信頼の純度」のことは
あるでしょう。それはアブラハムの
「彼は信じた」の歴史の中にも見られる
かも知れません。その頂点はやはり
イサクを捧げた時なのでしょうね。

そして信仰と恵みは一対です。これらは
離すことは出来ません。

それにしても 明確な神の真理が
それを信じない所とは 全く無関係である、
と言う事実こそ そら恐ろしい。