2011年2月23日水曜日

先祖(せんぞ)達の言い伝え

パリサイ人や律法学者達が
エルサレムからイエスの所に来て言った。
「あなたの弟子達は、
なぜ昔の先祖(せんぞ)達の言い伝えを
おかすのですか。」・・・

イエスは彼等に答えて言われた。
「なぜあなた方は、自分たちの言い伝えのために
神の戒めを犯すのですか。」・・
「彼等が私を拝んでもむだなことである。
人間の教えを、教えとして教えるだけだから。」
(マタイ15の2、3、9)

「先祖達の言い伝え」とは
聖書にないことがら総てです。

今の時代、「先祖の言い伝え」は 
当時に負けないくらい多くて重いです。
なぜなら この二千年らい それは
ひどくつみ重なっているからです。

私達はすみやかに一切の「先祖達の言い伝え」を捨て
ただ「神の戒め」(聖書)にのみ従うべきです。


イエスは旧約聖書を「律法と預言者」と表現しました。
ここではそれを単に「神の戒め」と呼んでいます。

また「先祖達の言い伝え」とは要するに
「歴史的キリスト教」の遺物(いぶつ、異物)総てです。

2011年2月21日月曜日

魂の力によらず

今朝の聖書:

黙示録8の9「魂を持つ被造物」(原語)※1
聖書は「生き物」を「魂を持つもの」としている。
これは創世記1の24の「地はその種類にしたがって
魂を生ぜよ」(原文) ※2も同様である。
何故か聖書はここで他の生物に対しても
人の魂と同じ語・魂を使用している。

ここで暗示されていることはまず 
人の魂も被造物、旧創造のものに過ぎない
ということである。人の魂は素晴らしいものには違いない。

しかし最も大切なことは
神は人に対して(他の多くの生き物のように)
魂の力※3によって生きるのではなく、ただ新創造のもの、
即ち死を経過したキリストの命、復活の命、霊の命によってのみ
生きて欲しいということである。


※1新改訳では「命のあるもの」と訳している。
※2新改訳では魂を「生き物」と意訳している。

※3
「神の命の力」は
人の魂の機能を支配下に置き、それを用いるのです。
私達が十字架に向かわせなければならないのは 
魂の命(力、エネルギー)であり「魂の機能」ではありません。
もしも魂の機能さえも死んでしまったら 
人は人でなくなってしまうから大変です。
神はそのようなことはされません。私は
とこしえに至るまで人であり また私らしいでしょう。
私の魂の機能と個性は永遠に不滅です。

私達がもしも 
自分の魂の命(力)を十字架に「連行する」ならば
キリストの命が直ちに「人の生来の命の力」に
取って変わり 
神の力が私達の魂の「思い、意志、感情」(魂の機能)を
用いられるでしょう。
即ちあなたを動かす力の源がその瞬間 神の力に変わるのです。
これこそ最も素晴らしいことです。

またキリスト者が良く用いる命という言葉は
分かっているようで分からない言葉です。
それを上記のように「生きる力、エネルギー」と
変えて見ると分かりやすいのではないでしょうか。
 

2011年2月19日土曜日

今日の山暮らし

今日は我ながらよく頑張りました。

朝一段落してから 愛知県のKさんに葉書を書きました。
こんな時代でも 昔の私みたいに、メールもパソコンもやらない
人が結構おられるのです。それにしても字が書けなくなっている!

全く久しぶりに車に乗って街へ。ナンだか車の運転がなつかしい。
大越町まで行って石膏ボード(182センチ×91センチ)を4枚購入。
花粉症の耳鼻科はあまりの込みぐあいに恐れ入り 何もせずに
退散。今から あの患者の数はどうだ、これでは今年の最盛期は
どうなるのだろう。 最後はスーパーでリンゴ、納豆、さば、砂糖、
パン、お弁当を買う。

我が集落・岩井沢に着いて、運転のしあげは まだ雪深いロイヤル
ロード。何回もハンドルを取られたが「ここで止まってなる
ものか」と 右へ左へとヨタツク車にムチ打ちながら坂を登る。

遅い昼食後、天井に石膏ボードを張った。ボードを適当に
カットしてから 踏み台に上って、一人で高い天井に大きな
ボード張るのは結構キツイ仕事です。

最後は日課の山散歩:
無風快晴 夕暮れ時の「ダビデの丘」はとても美しかったです。
あ、今日は結構ピアノ(電子ピアに)もひきましたね。
例の曲、最近ようやく 最後の段階にたどり着いております。
(一年余りかかりました)
スゴイ低音で 終曲に向かう数小節が快感です。

2011年2月18日金曜日

雨がザーザー降っている

*今朝の日記から*
今、朝の6時半。待望の雨だ。これがもう3時間続く。
これでようやくロイヤルロードも 車が通れるようになるのだ。

思えば今回入山した際内側に 食料の買いだめとは別に
「たとえ大雪が降っても今回は大丈夫」という安心があった。
その理由が今回の雨と高温だったのかな。

こういう安心感は他にもある(当然全部ではないが)。
「その見える現実」がたとえ「大変よういでない状況」
だとしてもである。まるで主が「その事は私にまかせなさい」と
言っておられるかのようである。

でも夕方から気温が下がる。
雪や雨が少しでも残っていると 舗装(ほそう)された
林道はテカテカ状態になる。これはたいそう危険である。

今日の和室の工事は天井張り。
昨日までは そのための下ごしらえであった。
この二日間、その下ごしらえにずい分 手間取ったものである。
(工事というのは こういうことが多いのです)

魂の放蕩(ほうとう)に注意。それへの誘い出しには
「そら来た」と スグにわれに戻るべし。
そのわれとは「最も内なる私」。

2011年2月17日木曜日

雨よ降れ

夕方の山散歩から帰って来た所です。
感謝なことにロイヤルロードの雪も大分溶けていました。
とは言え、あの積雪では まだまだ 車は出られません。
(不精な私、結局ロイヤルロードの雪かきは
一度もせず 黙って雨を待っていたことになります。)

所が幸い予報によると明朝 気温が4、5度で
何と雨になるらしい。岩井沢が4、5度だとここは
零度か1、2度だろう。果たして雨になるかミゾレになるか。
ま、いずれにしろ明日あさってくらいで 大分溶けてくれる
だろう。もう数日で いよいよ陸の孤島から解放されるのだ。

とにかく今回は食料の買いだめが効いた。
人間 雪などにいくら閉じ込められたとしても 
水と食べ物さえあれば生きられる。

都会の安い市場から食料をどっさり買い込んで
山に入る。これからは年中この手で行こう。
そうなると夏は大きな冷凍庫が いりますね。


ロイヤルロード:
除雪車の来る林道までの 小屋から250メートルくらいの
奥の細道。この辺では春 最も遅くまで雪が残る。

エクレシアの看板(かんばん)

さきほど
聖書に暗示(あんじ)されている
模範(もはん)的なエクレシア(教会)の姿
について思いめぐらしていた時 フト
当時 キリスト者たちがよく集まっていた場所に
はたして「お店のような看板」があったのだろうか、と
思わせられた。答えは大きなイナである。

彼等は 時には公共の場で しかし殆ど大多数は
彼等の家々で集まっていた。

その意味は 彼等の礼拝の場所は
「普通の人間生活の場」であった、と言うことである。
(家とは 人間がとても「人らしく」ふるまう場所である)
従って彼等の中の正常なキリスト者たちは あたかも
呼吸でもするかのように 殆ど無意識のうちに、一日中
神を礼拝していた筈である。(呼吸を意識的にする
のは健康によくない。)

そのようにして見ると
ただ天の空気(キリスト)を呼吸することによって生きていた
当時の正常な兄弟姉妹達は 今度は絶えず とても自然に夜昼 
天的な魅力をはき出していた、即ち彼等の持つ呼吸
(空気、即ち霊)は天的吸引力をたたえていたのである。

それだから 当時のキリスト者たちの特徴(とくちょう)とは
とても自然に、しかも強烈(きょうれつ)に
「互いに引きつけ合っていた」と言うことである。
彼等はあたかも「恋人どうしのようであった」に違いないと
私は ほとんど確信している。
そのような彼等が しばしば集まらないでおられようか!

個々のキリスト者が持っていた とても自然な深い吸引力、
それこそが彼等が 人の生活の中心である家々で 
しばしば「集まってしまった」唯一の理由である。(当然 
彼等の魅力の本体は復活のキリスト以外にはあり得ない)

このように考える時 彼等が
ある特別に美しい家を選んで 看板をかかげ、
魅力的な「出し物」を用意、陳列(ちんれつ)し 
周到(しゅうとう)な演出によって
あまり来たくもない不特定多数の人々を
何とか かき集めなければならなかった とは
きわめて考えにくいことではなかろうか。

2011年2月14日月曜日

今日は雪かきです

穏やかな曇り空です。昼ごろだけ晴れで 夜から
明朝にかけては再び雪である。しかし予報ではあさって
からは気温がグッと上がる模様。
とは言え10度に届くことはまず無い。

今日の作業は午前が調理で、そのあと北デッキから雪かき
である。ロイヤルロードはまだいいだろう。今どうしても
車を使わなければならない用事はないからである。
こうなると灯油と食料の買いだめが効いてくる。
ロイヤルロードは気温の上昇とお日様に期待しよう。

ただし大きな北デッキはどうしても 雪が溶けにくいし
あまりに雪の量が多くなると少し怖い。だから
どうしても雪かきは北デッキからということになる。

雪かきの優先順序:
北デッキ⇒東デッキ⇒(二つの西デッキは先回やって
あるので今回は手を抜く)⇒ロイヤルロード。
こうなって見ると デッキの作り過ぎかな!

2011年2月12日土曜日

大雪です(3)

*バンクーバーから*

シュガー兄弟
そんなに積もった雪の中で、大丈夫ですか? 
確かに、食料品と燃料が有れば安心でしょうが。 

一度、そちらの写真をブログに添付して下さいな。
こちらは、8-10度で寒くは無いですよ。


モト兄弟
(と呼んでもいいんですよね?)

今お昼ご飯を食べて ホッとしている所です。
心配してくれてどうも有難う、私は大丈夫ですよ。
後日の雪かきは大変でしょうが・・。

今殆ど、雪はやんでいます。
少しですが 屋根からシズクが落ちている所を見ると
気温が高くなっているのでしょう。
阿武隈が大雪になるとそれは 春が近いシルシ、
どこかで心がおどっています。

写真ですが、カメラも持っているのに 
どうやってブログに載せるのかが分からないのです。
面倒くさがりやの他に私ほとんどパソコンオンチです。
でも今度 誰かに聞いて見ますね。

バンクーバーって暖かいんですねー。
・・今少し眠くなってきました。
それでは また。

大雪です(2)

今7時、外の気温は-7度。
明るくなって良く見ると、今のところの積雪は意外にも
25センチ程度である。しかし降雪は夕方まで続くとあるから 
結果としてはかなりの量となるであろう。
天気予報が 雪が降るのは昼まででなく18時までと
変更されてしまったのです。とすると、雪かきは明日ですね。

この程度でも 阿武隈では大雪です。
会津の人に言ったら笑われてしまうでしょうが。

大雪です(1)

今12日(土)朝6時前、まだ外は真っ暗だが 相当の
積雪(せきせつ)であることは ロフトの窓からだけでも
十分にうかがえる。下の車がスッポリと雪にうもれた
ように見える。(しかし事実はどうか、明るくなったら
調べてみよう)これが 冬と春がせめぎあうこの時期に
降る阿武隈の大雪というものである。

しかし何故か気持ちはきわめて安らかである。恐らく、
一つに 灯油と食料をたくさん買いこんであるからであろう。
そうだ、灯油と食料の備蓄(びちく)がさらに完全
であれば、たとえ一冬小屋に閉じ込められたとしても
何とかならないことはないのだ。

予報によると、降雪(こうせつ)は昼までであり、
明日は気温は低いが晴れ。あさってはまた雪とあるが 
火曜日からはお日様マークが続き 気温は確実に上がる。

しかし今日 雪がやむ午後は あさっての更なる降雪に
そなえ あるていど 雪かきをしておくべきであろう。除雪車
(じょせつしゃ)がくる林道までの「奥の細道」
わがロイヤルロードは多分200メートルはある。

2011年2月10日木曜日

マジックミラー

午後 和室と納戸の間の透明な大きなガラス戸に 
あるフィルムを貼りました。これを貼ると和室から
納戸のみっともないボロが隠せるのです。
(それが目的)

しかし不思議なことに、納戸が和室よりも明るいと
(この納戸は結構明るい)納戸のボロが和室から丸見えに
なってしまいます。だからこれから納戸の窓を何かで
覆って、納戸を和室よりも暗くしなければなりません。

そうやって納戸が和室よりも暗くなると、
納戸の中は全く見えなくなる上に 和室側から見ると
そのガラス一面が鏡状になるのです。
(別名マジックミラー)
だからうまく行けば更に 和室を大きく見せる効果も
期待できるでしょう。

しかしフィルム貼りと言うのは 全く初めての経験。
不器用な私には相当難しい作業でした。
どう見ても美しい仕上げとは言えません。

それにしても世の中 色んな製品があるものです。

何がどうであれ神を信じる

Kさんが亡くなられた。
普通、このような時、キリスト者の反応は
「彼は救われたであろうか」である。しかし、
このような時 私達人のとるべき基本的な態度は
「ただ神を信じる」でありたい。

土から造られた壊(こわ)れやすく 実にはなかい器(人)が、 
「ことばによって全宇宙を創造された創造主」が行われる
全てにクビを突っ込むべきではないし それは 不可能である。
否、それは殆ど滑稽(こっけい)に近いであろう。

存在するもの総てに 
それ独自(どくじ)の分というものがある。
神には神の分があり、人には人の分がある。
人の分とは何か、それは神のお手伝いすること
などではなく、唯神を信じることである。
私達は「何がどうであれ」神を信じるのである。

聖書は実に膨大(ぼうだい)な書ではあるが
そこに書かれてあることを一言でいうならば、
「神は神であるから 神を神としなさい」そして
「神を信じなさい」につきる。

神がそれまでして 
「人に与えた唯一の分が神を信じることである」と
分からせようとしているからには
「信じる」には 人が計りがたい、途方(とほう)も
無い価値があるのではなかろうか。

私達はかの日、この目をもって(実感をもって)
詳細(しょうさい)にいたるまで「かつて時間の中で
神がされたことの完全さ」を知らしめられるであろう。

しかし今この時代においても、私達は「信仰を用い」
kさんを安心してこの素晴らしい神の御手に委ねる事が
出来るはずである。何故ならこの神は いつでも
どんな時でも私達が完全に十分に「信頼するにたる神」
であるからである。

今この時代における「信じることの価値」は 恐らく、
かの日に 実感を持って神の完全さを知ること以上に
大きな価値を持つのではなかろうか。
信仰によって今でさえ私達は知っている、
神のなさることは間違いなく 
完全で美しく またベストであることを。

2011年2月9日水曜日

ある姉妹の証し(2)

2月8日kさんは息を引き取られました。
お祈りを感謝します。
心拍数150以上で、ちょうど人がマラソンをしているような
状態でよく3週間も生かされたと感謝でいっぱいです。

主人とは親しかったのですが 私は一度しかお会いした
ことがなく私は 祈るにもどうにも 自分の心が伴(とも)わなく
実は苦しい数日間でした。

しかし
「主はわたしたちの主であるとともに、そのすべての人々の
主です」(第一コリント1:2)

当たり前のように受けていたこの御言葉を黙想(もくそう)
していたとき 出かける前日「すべてのものは私のもの
です」という主の声を聞いたような気がしたのです。

それまで祈ることもできないほどに冷(つめ)たかった私の
心が その瞬間(しゅんかん)から息を吹き返したように 
喜びと感謝で祈ることができたのは 恥(は)ずかしい
ことですが、出かける前日でした。

主の恵みがなければ何一つできない自分の(みじめな?)
真の姿を 今回もまた思い知らされました。

今は、
主が触れてくださった奥様に 主への飢え渇きが
起こされますようにと祈るばかりですね。

「出かける前に みなさんと親しく交わり
主の栄光のために ともにお祈りできた事」※ は、
思い出すだけでも主の綿密(めんみつ)な恵みだったと
感謝でいっぱいです。

ほんとにありがとうございました。


奇(く)しくも主は 事前にこの姉妹を 二つの
「交わりと祈り」へと導いておられました。

主とエクレシアは 
この姉妹と夫である兄弟と共に
その現場にも存在していたと信じております。

  

2011年2月8日火曜日

皆さんお祈り下さい

*ある姉妹の証し*
土曜日5日 主人が親しかった元同僚(どうりょう)の
Kさんを見舞ってきました。彼は今 意識がなく
延命装置(えんめいそうち)によってかろうじて
生きているという状態です。

出かける朝
主に願っていた御言葉が与えられたので、喜んで
主人とともに その言葉で祈ってから出かけました。

しかし気になることがありました。それは
集中治療室に入れられているので どの程度
彼に近づけるのか、またそばにおられる未信者の
奥様に はたして祈る機会を与えてもらえるかどうか、
ということでした。 

ところが感謝なことに
今回と同様 以前 植物状態の知人を見舞った時の
ことを 主人が奥様に話した時 自然に無理なく 
祈りに入ることが出来たのです。

そして
朝いただいた詩篇139篇の通り祈っていると
奥様がすすり泣き出されたのです。
奥様が御言葉に触れられているのを知って、ここは
一番大事なところと思い
139篇全部を 思い切り(思いを切って)
大きな声で お祈りしたのです。

祈り終わると 奥様は一言
「ありがとうございました。これでほんとにスッキリしました。
最後まで あきらめないで主人に話しかけます。」と
泣きながらおっしゃって下さいました。
とても嬉しかった一言でした。

ここで不思議なことが起きました。
意識(いしき)が全くなく あと2週間のいのちと
宣告(せんこく)されているにもかかわらず 
さまざまなチューブでがんじがらめになって 横たわっている
Kさんの左目から 一筋(ひとすじ)大きな
涙が流れ出て来たのです。

前回同様に、未信者の霊にさえ 主がふれてくださった、
としか思えない 出来事でした。
主と主の言葉が この先どのように実を実らせていくのかは
主だけがご存知です、それでいいのですね。

私たちの役割(やくわり)はここまでですが、
それでも希望を持って祈り続けたいと思っています。

2011年2月7日月曜日

「風邪引き部屋」を作るのかな?

先月の風邪は これからの私の生活設計に一石を投ずる
ものとなりました。
とても大きな問題は これからもあり得る厳冬期に引いて
しまうやっかいな「シュガー風邪」。

それへの対策とは:こらから一年をかけて地下に
冬ごもり部屋、風邪引き部屋を新築することかも知れない。

ワンルームにし、そこに壁のないむき出しのシャワーやトイレ、
流し、ベッド、デスクをポンポンと置くのです。こうすれば、
小さな灯油ストーブ一個で一日中 昼夜寒さ知らずの生活が出来、
真冬でも 一人安心して風邪を引けるというものです。

どうもこの方法が 老人が一人で冬を越すためには
最も現実的で しかも安上がりなアイデァなのかも知れない、
と思っているのです。

ある対話

昨日は本当に長い一日でした。
まずは朝の祈りから:

ある古い肉の思いが私をとらえ始めたそのとき
”いい逆らうあなたは何者ですか”という御言葉が思い
浮かびました。その瞬間、何とその思いがスーッと
無くなったのです。 こんなことは初めてでした。
これこそ、本当に「静かな神の働き」だったと思います。
その後は賛美賛美でした。


昨日午前 兄弟姉妹との交わりのあと、
久しぶりに妻と二人でパン裂きをしました。
そしてお昼を食べてから、
家でずーっと二人で キリストの話オンリー。
途中 みたらし団子など作って食べながら・・。

午前に交わった内容を再度分かち合い、
本当に神は神であるがゆえ、神の主権を再確認し、
そして今に導かれたことの恵み、そして これから
「熱いか冷たいか」どちらを歩むべきか
(もちろんキリストに熱くです!)
また一点十字架、キリストのみによって
「強く導かれて歩みたい」と切に二人で思いました。

そんなこんなで、なんとこれが夜まで続き、気がついたら
8時も過ぎていました。 それから、晩ご飯の支度して、
焼き魚を食べながら、またまたキリストの 話でした。
さすがにあきれるほどですね(笑)



ハレルヤ!
キリストは「永遠そのもの」なので、常にフレッシュです。
だから「キリストにあきる」事など絶対にないだけでなく
彼の新鮮さは キリスト者達を今日よりは明日と
永遠に引きつけてやみません。
 
だからエクレシアの中において この時代の中でさえ 
永遠が「物質の時間」を越える現象、その実感を
私達が経験することさえ十分あり得るのでしょう。

さらに私達が キリストの永遠の新鮮さを楽しむことは
加速度的に増し加わり、千年期をへて ついには
永遠の時代に至ります。今この時代における喜びと
楽しさは ホンのホンの前味に過ぎないはずです。
 

2011年2月6日日曜日

主の手の中の星

*今朝の通読から*
黙示録1の15、2の1
「右手に七つの星を持つ方」、このお方は当然主です。
主は常にその右手に星を持っておられます。
七は完全を意味しますから、この星は時空を越えた
エクレシアの中で輝く星々でしょう。

ところで時代も進み、黙示録になると
「人間の長老達」はどこにも出てきません。
(天使達の長老は出てきますが)
だから今現在この黙示録の時代においては 
どんな肩書きや理屈よりも
キリスト者が「実際的に輝く星であるかどうか」
「現に発光能力があるかどうか」に 神は注意されるのです。
悪魔によって暗くされた時代の只中(ただなか)
において、私は真に輝く星でしょうか。

しかも、その星々は暗い空、離れ離れで一人
輝くのでは ありません。不思議なことですが
それらの星々は主の右手の中に堅(かた)く保護され 
隠されて輝くのです。暗い大きな空の中に星は輝くのですが、
それらは 極めて安全な主の手の中に 
堅く守られているのです。

夜、暗黒とは「何も分からない」を意味します。
今は 人が進むべき道、方向、自分はどこにいるのか、
明日何があるかさえ分からない時代です。
それは ひとえに光の欠如(けつじょ)によります。
即ち、太陽(キリスト)本来輝くべき月(教会)が
隠されて見えない時代における輝く星々の欠如です。
しかし、間もなく力強い義の太陽が昇り、時代は昼を迎
(むか)え 総てが明らかにされるでしょう。
主よ来たりませ!

どこでもエクレシア

*ある若夫婦の証し*

今日は妻と一緒に町田にあるリス園に行ってきました。

実は昨日まで風邪を引いていましたが、良くなったので
散歩がてらに 町田からバスに乗って行きました。
リスが放し飼いにされていて、ヒマワリの種をやったり、
リスをおちょくったり、結構楽しめました。
近くには薬師池公園があって、結構大きな池のある公園で
ブラブラして帰ってきました。

こうやって過ごすときでも、何気ない会話の中に、
やはりキリスト話になってしまいます。
可愛らしいリスや池のコイなど見て話しても、結局
キリストなのです。
家にいるときだけでなく、道歩くときも、遊んだりしてる
ときも、景色を見ているときも、コーヒーを飲んでいるときも
ふたりでいるときはエクレシア(教会)なのだと思います。

2011年2月5日土曜日

天井が結露した

混合栓は首尾よく交換できて ヤレヤレよかったと
思ったのもつかの間、今度は・・

(天井裏のない)90度勾配(間違いました45度ですね)
ロフトの北側の天井の多くの部分に、どうも結露が生じて
いるらしく、このごろは高温?だったし、130ミリの
断熱材経由で何と水滴が落ちて来た!今年の超低温と
風呂からの大量の蒸気が主要な原因なのであろう。

どうするか、
とりあえずは なるべく風呂から蒸気が外に漏れないような
工夫をしてみる他はない。従って入浴時 これからは
換気扇を回しっぱなしにしなければならない。
いずれ根本的対策は春になってからですが、それにしても
根本的対策などあるのだろうか。
(まだ最後のボードを張っていなかったのはラッキーでした。)

断熱材は全部除去することになるのかな、
あの羊の断熱材はどんなものだろう、薪をガンガン
焚いたら結露は出ないのかな?
いずれにしろ結露というのは相当難しい問題です。

こんな具合ですから たった一人の山暮らし 
退屈することなど決してあり得ません。

あるメール交換から

私は死ななければいけないことを知っただけでも、
大きな前進だと思っているのですが・・

そうです。霊的事実を知ることは
間違いなく大きな前進です。

私達が死んでいなくなると
神はとても安心して 初めてキリストを流し出すことが
できます。私達が生きている間は
神は恐ろしくて何も出来ないのです。

その死に方ですが、
自分で死のうと決心するだけでは効き目がありません。

しかし、神があの十字架の上で 
イエスの中に私を入れたので
イエスが死んだ時に私も死んだのです。
私はキリストと共に復活 昇天し、今あなたは
キリストと一緒に御座に座っているのです。
(だからサタンはあなたの足の下です)

以上のことを 信じ宣言することによって
それらの「神の真理」があなたの経験の中に現われます。

今日あなたの生活から その復活のキリストが
人々の内へと流れて行き あなたもその
キリストの流れ出を目撃(もくげき)しますように。

(ただし、あなたがそれを知り経験しビックリするのは 
しばらく後になるかも知れません。だからあまり 経験しよう
経験しようとしない方がいいでしょう。あなたの役目は
ただ神の真理を見て、それを信じ、宣言することです。
あなたの経験へと導くこの世にはあり得ない不思議な力は
ただ聖霊から来るからです。)

2011年2月4日金曜日

春が来たのかな

しばらくぶりの阿武隈です。
これから一週間くらいは全国的にもよい天気だとか。
ここも今朝はまるで春のようです。
(それでも先ほど外は-3度)
今「ロイヤルロード」(林道から小屋までの奥の細道)
の積雪は10~20センチ程度ですが 
これからドンドン解けるでしょう。


けさの聖書通読で感じたことです↓

黙示録1章:
ここには力強いイエスがある。イエスとは何と
すばらしい神であろうか!
さらに私は「このお方を内にいただき、
私はこのお方の中にある」のだ。
総ての「者、物、もの」はこのお方の手の中にある。

けさ何故か 私は家族、兄弟姉妹、環境に関し、
いかなる心配もうれいもない、
もしもこの神が私の神であるならば。


私は自分の過去と現在の思いは知りえるであろう。
しかし当然それとて ある程度であり、ゴクゴク一部に過ぎない。
しかしこれから私の「思いが向かうところ」を知ることは全く
不可能である。これから一時間13分後に一体私は何を思って
いるのであろうか。

ところがⅠ歴代誌28章には
「主は総ての心を探(さぐ)り、
総ての思いの向かうところを読み取られる」とある。

これは その生涯(しょうがい)この神を求め、また
「格闘」し続けたあのダビデ晩年のことばである。
彼は彼の人生の最後に このような
エホバ神を深く認識していた。

2011年2月3日木曜日

またまた凍結トラブル

山小屋に来ております。

二時頃小屋に着いたのですが
先ほどまで一人で
あれやこれやの大童(おおわらわ)。

何とまー浴室の
「お湯と水の混合栓」の水抜きをしないで
下山してしまったので
混合栓内部が凍結で壊れてしまったのです。
(以前もこんなヘマをしたような)

小屋に着いて
水道の元栓を開いたら バッとばかりに水が飛び散り、
混合栓の内部の数個の部品と氷のカタマリが
漫画みたいに バラバラと床に散乱したのです!

こういう場合、
ジタバタ修理など考えない方がいいでしょう。
明日コメリに行って同じ品番の新品を買ってくるべし。
全く予想外の出費(1万7千円)ですが 責任は完全に私、
やむを得ません。

「対凍結」これにはこれからも
いろんな経験が必要のようです。

2011年2月2日水曜日

神の静かな力

「私は、律法に対して死にました。」(ガラテヤ2の19)
これはパウロの言葉です。その時、彼は何と言う自由を
覚えていたことでしょう。

しかし、更に私は
「私自作の律法、私の決心、壁に貼り付けた決意
(即ち私設立の義、人の義)」にさえ
完全に死んでいると信じているのです!
それら総てに対して私達は既に死に、のみならず 
墓の中に葬られ 今それらとは全く関係ない
完全な自由の中にいるのです!

あなたが そのようにして何もかもを忘れ
全く人としての原点に戻り
「神のために何かをしなければ」という観念からさえ 
完全に解放される日、
総ての「ねばならない」から解(と)き放たれる日
即ちあなたが 何ものにも束縛(そくばく)されなくなる日、

あなたは 
「とても静かな神の力」に気付くでしょう。
この気づきには極めて価値があります。
その日初めて「神を信じると言う意味」がとても明らかに
なるからです。

(そうでなければ本当の意味で 人は神にだけ
100%の感謝をささげ、賛美することはあり得ないでしょう。
人はどこかで人や自分を賛美するからです。)

その力はあたかも 長い冬が去り、時いたってある日
ある不思議な力が、枯(か)れ木の中で 生命の営みを開始し、
日一日と静かにその復活の力を表すかのようです。
その命の静けさはとても美しいです。何故ならそれは
死からよみがえった「神そのものの美しさ」であるからです。

私達が信じている神とはこのような神です。だから
神は「あなたの手助け」など少しも望んでおられません。
むしろ神は
「あなたの力」を否(いな)み退(しりぞけ)るように
働かれるでしょう。

神は あなたとあなたの家族の為に 
死から復活した命の方法によって
その総てに超越した力を しかし極めて美しく静かに
あなたのゴクありふれた生活の中において
表現することを望んでおられるのです。

アーメン!
主よ私達は
そのようなあなたの力を信じ経験したいのです。

シュガー

2011年2月1日火曜日

甘く不思議な午後

午後ケンの所に行きました。

彼は水中毒がまだ治っていないので、皆のトイレを
使用出来ない関係で カギのかかる個室にいます。
(トイレの水を沢山 飲んでしまうからです)

さて今日彼の個室で とても自然に祈りに導かれました。
私に続いて ケンも祈りました。しかし彼が何と祈ったのか
私にも把握できません。にも関わらず とても深い満足感が
ありました。

その後 ジュンの話になったとき ケンは泣きました。
でもそれは決して悲しみのためではなく 
主の慰めが 彼に及んだためであることが分りました。
とても甘くそして不思議な午後でした。