2009年8月31日月曜日

堕落した霊(1)

何故、人・罪人は再生、新生される必要があるのでしょう。
何故、人は上から生まれて、霊の再生を持たなければならない
のでしょうか。
何故なら、人は堕落した霊であるからです。人は、堕落した霊として、
新しい霊を受けるために霊の再生を必要とするのです。

サタンとは何でしょうか。サタンとは堕落した霊です。そして人も(体を
持っている点では彼とは異なりますが)やはり堕落した霊です。

サタンの堕落は、人の堕落の遥か以前に起こりました。そのサタンの堕落を
知ることによって 私達は人の堕落の本質を知ることが出来るでしょう。


人は魂と体においてのみ堕落しており「霊は初めから清い」とするのは
間違っているようです。(確かに人の霊は、ある意味で「ある聖域」には
違いないのですが)

人は霊においてさえ堕落している と聞くと私達は問題の深刻さを覚えない
わけには行きません。更に その堕落の程度はサタンの堕落の深さにまで
達するとするならば ある絶望感をさえ覚えるのです。人は神の前に 
その全存在、霊・魂・体において堕落しているのです。


工事のこと:
これからの壁と天井の素材は 全部石膏ボード、床は野地板で
済ませることにしました。いろいろと考えたのですが、この結論が一番
手間がかからず 安価であるからです。何故か今、工事に対する意欲が
出て来たのは不思議です。

2009年8月30日日曜日

救いとは何でしょうか(2)

被造物は真の救いが適用される前に無にならなければなりません。
従って、真の偉大さは、私達がどれだけ多くを得たかにはよらず、
私達がどれだけ多く失ったか によります。

真の命は人の自己が失われる中にのみ見られます。もし被造物の天然の
性質、命、行動が全く捨てられていないなら、そこには神の命が表される
場所はないでしょう。私達の自己はしばしば神の命の敵です。もし私達が
自分のための意図や経験を失わないならば、私達の霊的な命は
大きな損失を被るでしょう。


「被造物は真の救いが適用される前に無にならなければなりません」:
このことの前提は永遠の中に存在するキリストの十字架(死の力)です。
それを「私の」事実として認めること、即ち キリストとの一つの中で
私の旧創造は既に死んでいるという神のことばに対する信仰が必要です。
次にその事実に基づき 私の具体的な「捨て去る」という意志と行為が
要求されます。そうする時に初めて 永遠の「死の力」と「復活の命」が 
時空の中にいる私において その効力が発揮されるのです。

親鳥の飛翔への促しに「応じる」ヒナ鳥の「信仰と意志と行為」はやはり
必要です。それは それまで ヒナ鳥にとって 総ての拠り所であった
「古き巣穴」を勇気をもって捨て去ることであるとも言えるのです。


「真の命」「神の命」「霊的な命」:
命という言葉の響きはあまりに美しいので、それは人の注意の上空を通り
過ぎるばかりです。即ちそれは キリスト者が命という言葉を聞く時 
ウットリとしてしまい その真の意味を自分に適用して考えることを忘れる 
ということです。このような例は結構 多いのではないでしょうか。さて、

「神の命」とは「神が与えられる私達のための生きる力」ということでしょう。
また「真の命」とは「本当の生きる力」であり、「霊的な命」の意味は
「物質界や人の世界にはない 上からいただく実際的な生きる力」
とでも言うべきものでしょう。

それでは今日 私の命、生きる力、生きるエネルギーの源はどこにある
のでしょうか。今現在 私の生きる力の源泉は一体なんでしょう。
果たして私は「キリストのみが真に私の命である」と言えるでしょうか。

PS
「キリスト、私の命」の意味は
「キリストは私の大切な人」だけではありません。

2009年8月29日土曜日

救いとは何でしょうか

救いとは何でしょうか。
救いとは神が人を、人自身から救い出して、神の中にもたらすことです。

救いには 終結(終わらせること)と結合の面があります。自己に終結
して、神と人が結合します。人が人自身から 神との結合の中へと救われる
という目標を持たない、どのような救いの方法も真のものではありません。
即ちもし人を彼自身から神との結合へともたらすことの出来ない救いの
方法は、単にむなしい言葉に過ぎません。真の霊的な命は、肉体的な
命から切断されて神聖な命の中に入ることです。

被造物に属する総てのものは 出て行かねばなりません。被造物である
私達は 真の救いを得て ただ創造主ご自身の中にある「創造主である
総て」を享受するようにと召されているのです。


相変わらず私のパソコンは変です。しかし時に このように何とか
動くのです。

私は今「なぜか」大工仕事にせいを出しています。
主はどの程度まで、この小屋の工事を進めさせるのでしょうか。
その点は 私も大いに興味のあるところです。

2009年8月25日火曜日

早朝だけ動いてくれるパソコン

これを書いていても
いつプチンと消えるかもしれない私のPC。


昨日は ある聖徒の真の信仰を見せられた至福の時あり。

今日はマルシア家 最後の山の日。


余りに広過ぎる薪ストーブの硬い炉台を壊し

愛莉チャンがゴロンと横になれるスペースを大きくしようと 

きのうその工事に着工したのです。でも、

考えて見ると 来年の夏は 彼女はもう立って

走り回っているのですよ。

ま でもいいか、

居間が広くなるのは 皆さんの為にもよいことです。


山はもうすっかり秋、

今このロフトのマイルーム 

上は長袖 二枚重ねないと とても寒いのです。

2009年8月24日月曜日

9月3日まで山にいます

パソコン、今、たまたま動いています。
間もなく、また だめになるでしょう。


今完全に、マルシア夫妻の、

生後6ケ月の愛莉チャン中心の生活を送っています。

今日は 彼女とグリーンパークの子馬を見に行きましょう。


「まだ罪と自分を知らない存在」が現に本当ここにいる、

という小さな驚き。

彼女は 罪を犯さない、ではなく

罪とは何かを根本的に知らない、

自己を抑えるではなく「自分」という意識が根本的にない。

彼女には 自分とあなたの境界がないから

彼女に触れる一瞬だけ、私も赤ちゃんにされる至福。



私もこのようなお方・イエスを写したい。

そのようなお方が 現に本当に私の中におられるから。

2009年8月21日金曜日

パソコンが壊れたようです

8月4日の朝まで山におります。

こうやって使っていると突然パッと消えてしまいます。
それで今 慌てて書いているのです。

2009年8月20日木曜日

指導的な人々でさえも

聖霊と信者の霊(3)

多くの場合、今日キリスト者の指導者達でさえ、
・自分の霊が一体何を要求しているのか・霊は神のためにどのようにして
「よき事」を開始するのか、また・どのようにして自分の霊を養ったら
よいのか を知りません。また彼は・霊の感覚とはどういうものか、
そして・その霊の感覚が何を表現しようとしているのか が分かりません。

別のあるキリスト者は更に高く、より深い霊的経験を求めます。しかし、
十字架の適用についてある程度知っている彼らとて「罪に打ち勝つ」経験を
した後は ある満足に到達してしまい、もはやそれ以上霊的に前進する
ことをやめてしまう場合が多いのです。

何故でしょう。それは彼らが霊の働き、霊の機能を知らないからです。
そして彼らが何を追求するかと言えば、
・彼らの思考の中で「霊的、聖書的な知識」を求めます。そうでなければ、
・感情の感覚の中で、また自分の体・自分の肢体の中の
燃えるような感覚の中で「主の臨在」を追求します。そして 
・自分自身の意志の力に従って行動し、ふるまいます。しかし、私達は
以上の経験は総て 人の「魂の働き」であることを覚えなければなりません。

そのような魂の働きの結果は何でしょうか。それは 彼自身を欺き、
彼の魂的な経験を過度に強調させ、彼の「自己」を極みに至るまで増長
させることに繋がるのです。そして彼をして 自分の経験は 霊的に素晴
らしいと感じさせ 遂には自分はとても霊的な者である と思わせるのです。
そのことは 彼の真の霊的な成長を完全に停止させる結果となるでしょう。

従って私達は、神の前に全くへりくだり、自分自身を聖霊と聖書の
教えに服従させ 日常生活における自分の経験において、霊の機能と働き
とを少しずつ調べ 霊について一歩ずつ着実に学ぶようにするべきです。
それは私達が 真に霊に従って歩み始めるためです。(先人の言葉より)


以上の三篇は「霊に関する論述」の為の序文の内、その更に
小さな序文と言うべき部分です。

2009年8月19日水曜日

魂と霊の状態

聖霊と信者の霊(2)

再生されていない人の場合、その霊と魂はどのような状態でしょうか。
それは 彼の霊と魂は一つに構成されている、と言ってもよいでしょう。
従って彼は、極めて強力、力強い魂の感覚を知っているだけであり、霊の
存在に気づくことはありません。彼の霊は言わば「仮死状態」であり、
よく言って 眠っているのです。

このような霊に関する無知は彼が罪人となった時に始まり(即ち肉体の誕生
から始まり)そして殆どの場合、二度目の誕生・キリストを信じ、新しく
生まれた後でさえ続きます。(再生によって、キリスト者の肉が清められる
ことはあり得ません。その状態は未信者と同じです。)

しかし、彼は教えられて、自分の中に霊を持っていることを知ります。そして
当然、彼はその霊の中に命(それをもって生きる力)が与えられております
ので、時に彼は「肉的な事柄」に打ち勝つ経験を持つ場合もあるでしょう。
しかし残念ながら 彼にとってそれらの経験は偶発的なものに過ぎません。
彼の生活はその殆どがまだ、彼の魂や体が彼の全存在を導いていると
言わなければならないのです。

キリスト者は本来、彼の霊の中の聖霊が 彼の全存在の主としての地位を
確立し、聖霊が常時彼の霊を導き、そしてその霊が彼の魂を従え、
その魂が彼の体、全存在を支配するべきです。これが人の正常な姿です。

しかし今まだ 彼の霊と魂は一つに構成されています。即ち彼の魂は霊と
一つに絡み合い、霊を取り囲み、霊を抑圧し その結果 霊が正常に機能
することは殆ど不可能です。即ち 強力な魂の命が彼の全存在の頭、主と
なっているのです。それどころか、彼という存在の最も外側にある「体に
ある肉的な命」が魂の命を圧倒してしまうことさえ まれではありません。

この現象を多少大げさに表現するならば、それは完全な「不法」
無秩序状態であり そこにこそ、人類に見る大混乱の根が存在している、
と言えるでしょう。

2009年8月18日火曜日

聖霊と信者の霊(1)

今日のキリスト者の間で最も欠けている「知識」は、人の霊の存在と、霊の
機能に関するものです。多くの信者は、自分の思い、感情、意志の他に、
自分の中に霊があることを知りません。

人の中に霊があることを聞いた後でさえ、彼らは思い、感情、意志を
霊であると誤解したり、或いは困惑して、自分の霊がどこにあるのかが
分からないのです。霊に関するこのようなキリスト者の無知は
とても深刻な問題です。

このことの故、信者は 根本的にどのようにして神と協力し、自己を支配し、
サタンと戦ったらよいかが分かりません。というのはこれら三つのことには
総て「人の霊」の働きを必要とするからです。

信者が知るべき最も重要なことは、人の中には
思いの中の思想、知識、想像、
感情の中の感覚、愛、欲望、
意志の中の考え、意見、決定の他に、
厳然として「霊がある」ということです。

霊は思い、感情、意志よりも更に深いものです。信者は自分の中に霊がある
ことを知るべきであり、また、霊の感覚、霊の働き、霊の力、霊の活動の
原則も知らなければなりません。

そのようにして、初めて信者は いかにして肉的な魂や体に従ってではなく
霊に従って歩くかを知ることが出来るのです。


ここで数回だけ「感覚の生活」を休み、先人の著書から
「聖霊と信者の霊」に関する概略を見たいと思います。

「霊を知る」は「魂と体を知る」とは完全に異質です。何故なら、
人の霊は、物質と魂の創造者「創造されることのなかった神の聖霊」と
極めて密接な関わりがあるからです。そこには
「神直接の護衛」があると私は考えております。従って
神に対する従順を無視し 単なる物質に過ぎない頭脳のみによって、
人の霊を知ることは「人類史上」かつて一度もあり得ないことだったのです。

2009年8月17日月曜日

その祈りが聞かれないだけでなく・・

*感覚の生活(9)

このような経験の中に入る時、多くのキリスト者は霊的に前進することなく、
後退します。彼らは心ならずも、そのような悲しむべき状態に落ち込んで
しまうのです。そのようなとき、彼らは自分の本分をさえ 軽んじ勝ち
ですが、その理由は そこには素晴らしい感覚がなく、冷淡な感覚しか
ないからです。この時期、このように彼らは総てにおいて
「自分の感覚」の支配と影響を受けてしまいます。

以前、彼らの行いが変えられたのは感覚の中ででした。所が今それより
ずうっと前の状態に戻ってしまいました。彼らの感覚が素晴らしいとき、
自分のように振舞わない人達を見て 気の毒に感じたのでしたが 今は
彼らと何も異なりません。彼は今、はるか以前と同じように、おしゃべりで、
軽薄で、遊ぶのが好きです。彼らは一度変化を経験したのですが、既に
それは過去のものとなってしまいました。


信者が幸いな感覚を失う時、彼は総てを失ったと思います。彼らは主の臨在
を感じないと、主は一緒におられないと思うのです。主の暖かさを感じること
が出来ないと、主はきっと自分を喜んでおられないのだ と思います。
(事実はそうでないのに)

やがて彼は 神がどこにおられるのかさえ 分からなくなります。もし彼が
この時点で落胆しないならば、彼は失ったものを一心に回復しようとします。
しかし、その祈りは聞かれません。彼が主を愛し、主を身近に感じていたい
と切望しても、今彼には最早 主の愛の感覚がありません。
果たして彼はこのことに耐えることが出来るのでしょうか。


今日これから、入院したケンのために下山します。
しかし21日にはまた 山に入ります。
この夏もまた、マルシア夫婦が 初めての赤ちゃんと一緒に
泊まりに来てくれるからです。

2009年8月16日日曜日

よき感覚を回復するための祈り

*感覚の生活(8)

このような祈りには効果がありません。
かつての素晴らしい感覚を取り戻すための祈りは 彼が失ったと
思っているものを回復できません。

それどころか、彼は日に日に冷たく、干からびてさえ行きます。
彼は何を行っても楽しくありません。ある場合には 自分の行動は
無味乾燥に思えます。

祈りでさえ仕方なしにやっているようなものです。以前の彼は 数時間でも
祈ることが出来ました。今は数分間祈るだけでも大変です。感覚の上では 
それは全く祈りと言えるものではありません。

聖書は読むのですが、潤される感覚がありません。以前は、聖書を読めば
読むほど、ますます楽しくなりました。今は、石だらけの不毛の地に
いるように思います。

彼は人に会っても 何が起こっても楽しくありません。
自分はキリスト者であるので、なすべきことは何とか行うのですが、
総てのことは無味乾燥で、何か無理があるのです。


素晴らしい感覚に満ちた生活→ それを失った時のキリスト者の反応、
即ち、以前の感覚を回復しようとする試み。
それではその後 多くのキリスト者はどういう経過をたどる
のでしょうか。(当然これらは一般的な傾向に過ぎないのですが)

2009年8月15日土曜日

罪を犯したからだろうか?

感覚の生活(7)

そのような時、信者は「これは自分が罪を犯し、神に捨てられたからでは
ないだろうか」と考えます。しかし こうも思います、「もしも罪を犯した
のでないのなら、何故 主は共にいて下さらないのだろうか?」

彼は最近の自分の行いを調べ「やはり私は主に罪を犯したのかも知れない」
と思います。その結果、彼はあることを告白し、以前のように主が自分に
戻って来てくれること、またあの素晴らしい幸福感を回復して下さることを
願うのです。

ところが、自分を調べて見ても、何も特別な罪を見出すことが出来ません。
総ては大体 以前と同じです。「もし私の今の状況が主に捨てられるもの
であるなら、何故、過去の状態では捨てられなかったのか?」「罪を犯して
いないのなら、今なぜ 主は自分から離れてしまわれたのだろうか?」 
彼はいろいろと思いを巡らします。しかしながら どうしても 
彼が納得の出来る答えは見出すことが出来ません。

彼はそのような紆余曲折の中「やっぱり私は 主を何らかの方法で怒らせた
ので 捨てられたのだろう」という結論に傾きます。そしてサタンはこの時と
ばかりに 彼を責め立て「私が罪を犯したからだ」と信じ込ませようと
します。そのようにして、遂に彼は 主の前に赦しを求め「失ったもの」を
回復して下さるように願うのです。

しかし実のところ そのような祈りには全く効果はありません。

2009年8月14日金曜日

素晴らしい感覚は消え去る

感覚の生活(6)

しかしながら、このような経験は長く続くでしょうか?信者はいつまでも
そのように感じ、一生涯ずうっと楽しく感じることが出来るでしょうか?
結論として 多くの信者にとって、このような経験は決して長くは続き
ません。最も信者を悲しませるのは、一般的に言って一、二か月以内に
彼が高く評価するあの最高の幸せは突然 消え去ってしまうことです。

ある朝、いつものように目を覚まして聖書を読むのですが、何故か以前の
ような味わいがありません。次に彼は祈るでしょう。しかし数句口にした
だけで あと言葉が続きません。彼は 何かおかしいと感じます。

彼は昨日までは、他の信者は「霊的に停滞し、前進がない」と思って
いました。今は 自分もその一人であるように感じます。心も冷えて
しまったようです。内に燃える暖かさは消え去り、それがどこへ行った
のか分かりません。主の臨在を感じません。また主が近くにおられる
という感じもありません。まるで主が遠くにおられるかのようです。

今 彼が苦難を受ける時 幸いでなく、苦しみだけを感じます。彼が宣べ
伝える時、もはや楽しさがありません。数句 伝えるだけで、語る気力が
無いことに気づきます。要するに 総てが暗く、干からびて、冷たく、
死んだかのようです。あたかも自分が主によって墓に取り去られ、心に
慰めが少しもないようです。

今や 彼がいつまでも続くことを期待した
あの素晴らしい感覚は消え去ってしまったのです。

2009年8月13日木曜日

感覚の生活(5)

信者が以上のように感じるとき、その行為も変わります。以前 彼は他人と
話しをするのが好きでした。しかし今は 以上の感覚の故に 彼は静かに
していることが可能です。

そして、彼は他の人が雑談をしているのを見るとき、心ひそかに「それは
良くない」と思います。以前 彼は或いは 軽薄な人であったかも
しれません。しかし今 彼には重みがあるのです。

彼は他の信者が、ある面で敬虔さが足らないのを見て、それを深刻に感じて
罪定めをします。信者がこのような経験を通るとき、彼の行動は確かに
慎重になるでしょう。

更に 彼は鋭い判断の感覚を持ち、他の人の欠点を見ることが出来ます。
他の人が自分のような経験がないのを見て 心ひそかに「気の毒に」と思い
ます。彼は自分自身の幸いな経験を最高であると思い、他の兄弟姉妹が
まだそれを知らないのを哀れに思います。彼は他の信者が主に仕えるのを
見ても「彼らの生活は感動を知らず、きっと退屈なものであろう」と
断定します。

彼は自分のような「神の幸福に満ちた生活」のみが真に最高の生活である
と思います。自分だけが高い山頂にいるのであり、他の人は低い谷間に
いるように感じるのです。

2009年8月12日水曜日

感覚の生活(4)

彼は静まって一人になり、主と顔と顔を合わせることを愛します。出来る
ことなら、後ろの戸を閉じて常に主と交わっていたいのです。何故なら彼は
言い表すことが出来ないような幸いを経験するからです。

以前において 彼は人々の中での生活を楽しみました。そこに何か自分
の要求を満たすものを探していたのです。しかし今 彼は独りでいること
を好みます。彼が主の前で得る幸福は、人々から得られる幸福とは全く
比較にならないのです。

信者はこのように感じる時、なお一層、静まることを願います。何故なら
群集の中に出て行くなら、自分の幸福を失ってしまうかも知れないと
恐れるからです。

またそのような時、彼が主の為に働くことは非常に容易です。以前、彼は
他の人にあまり語る言葉がありませんでした。ところが今、心の内にある
燃える愛の火の故に、主について他の人に告げることは非常に楽しい
のです。語れば語るほど味わいがあります。

また、彼は喜んで主のために苦しもうと思います。何故なら主がとても
近くに感じられるからです。彼は主の為に自分が死ぬことを思ってさえ
喜びを覚えます。総ての重荷は軽くなり、総ての困難は容易になります。
これらは総て 彼の感覚の故です。(先人の言葉より)


キリスト者に対する
全編にわたる先人の一つの心の負担は、
「更に 高嶺があるのです。そして、
それへと至る明確な道しるべも。」
なのではないでしょうか。

2009年8月11日火曜日

ワードが出てきた


昨日台風の中、妹夫婦が 
長野一泊経由で和歌山に帰って行きました。
連日の雨にも関わらず 
今年も とても暖かい空気に包まれた三日間でした。

彼らは 隣村の「いわなの郷」の川魚よりも
都路(みやこじ)の小さなレストラン・ホットハウスの
年季の入った味がたいそうお気に入りなのです。

義弟のヒロキさんが、
私のパソコンの「大掃除」をしてくれました。
それでPC の動きがビックリするほど軽くなり、その上 
何とPC の中に隠れひそんでいたワープロの「ワード」を
ひっぱり出してくれたのですよ。おかげで、
昨日からこのブログがとても書きやすくなりました。
ホンとに主とヒロキさんに感謝です。

そのヒロキさんも来春 待ちに待った停年です。

感覚の生活(3)

そのような感覚の生活をするキリスト者は、主を非常に近く感じ、あたかも
主に触れることが出来るかのようです。彼は主の愛をとても甘く感じます。
また彼は 自分は主を非常に愛している と感じます。心に火が燃えている
ようであり、あたかも天にいるかのように 言い尽くせない幸いを享受
します。感動があります。それは言葉に尽くせない楽しい感覚であり、彼は
まるで最も貴重な宝を得たかのように思います。

このような感覚は彼がどこへ行っても、何をしても彼と共にあります。
彼がそのような経験を通る時、彼は自分がどこにいるのかも分からない
かのようです。この世から遠く離れ、御使いと共にいるかのように
彼には感じられるのです。

そのような時、彼にとって聖書を読むのは非常に楽しいことです。読めば 
読むほど、幸いな感覚が増し加わります。祈りも容易になります。彼は主に
向かって思い切りその喜ばしい感覚を言い表します。そして祈れば祈るほど
天の光が益々明るく輝きます。また彼は主を愛するが故に 主に対して
多くの決心を表明するのです。(先人の言葉より)

2009年8月10日月曜日

感覚の生活(2)


人の魂は大まかに言って、思い、感情、意志から成っています。更に
その三者の中の一つ キリスト者の感情の問題を大別するならば、それは 
おおよそ ①愛情、②欲望、③感覚に関わる三つの問題となります。

先回をもって、その三つのなかの「愛情」の問題は一旦終了しました。
さて、今 ②の「欲望」に関わる問題は 敢えてスキップし、今回から
キリスト者が極めて高く評価する③の「感覚の生活」に関する先人の主張
を見て行きたいと思います。


「罪からの解放→感覚の生活→霊的な生活」とありますが、ここで先人の
言う「罪からの解放」とは「御血による諸々の罪の赦しを知ること」の後に
経験するものです。その解放の喜びは 複数形の罪の赦しを得た喜びよりも
更に深い喜びであると言えるでしょう。この「罪からの解放or 自由」に
ついては 先人による「勝利する命」等の著作に詳しく述べられております。

感覚の生活

キリスト者が主との愛の関係を獲得し、主によって全く満足するとき、
多くの場合、彼は感覚の生活に入って行きます。そのような経験は彼に
とって 非常に貴重なものです。

普通そのような感覚の生活は罪からの解放を経験した後に起こり、そして
完全に霊的な生活(信仰の生活)を経験する前に来ます。即ち信者は 
罪からの解放→感覚の生活→霊的な生活という順序をたどるようです。

多くの信者は 霊的な認識に欠けるため、しばしばこの経験を過分に評価
し勝ちですが、それはおおむね 罪からの自由を得た後に来るものであり、
真の霊的な生活の前に存在する生活であると言うことです。

これは彼らに幸いな感覚を与えます。これはキリスト者にとっての最高の
経験、最も霊的で天的な経験のように感じられます。このような感覚の生活
は幸いで、非常に満足させるものであるので、彼らが一旦このような経験を
するならば、それを手放すのは非常に難しいことが分かります。
(先人の言葉より)

2009年8月9日日曜日

一つのことに気をつける(4)

人の魂は大まかに言って、思い、感情、意志から成っています。
その三者の中の一つ キリスト者の感情の問題を大別するならば、それは 
①愛情、②欲望、③感覚に関わる三つ問題に分かれると言えるでしょう。
その中で今「愛情の問題」について一つの結論に近づきつつあります。

愛情の問題において基本的に大切なことは、私達は自分発の愛情を
100パーセント神にささげなければならない、と言うことです。
私達が誰かを手放すことに困難を感じている時は、私達の「魂の命」
がまだ私全体を支配していることを知らなければなりません。

もし私達の愛が いかなる面においても「神の御こころ」に服すること
が出来ないなら 必ずそこに 非常に多くの「霊的でない事柄」即ち
「人の魂起源の事柄」が混入して来ているのです。

「魂からの愛」は いずれ私達を「この世と罪」に誘うことになります。
もし私達の愛情が「主から出ていない」のなら、遅かれ早かれ、
それは情欲に変わります。

このようなことで失敗した人は、昔から現在に至るまで あらゆる所に
存在し、何もサムソンに限ったことではありません。今日もデリラは、
至る所で人々の髪の毛を剃り続けているのです。

ところが、既に述べたことですが、信者が自分の愛の事柄を完全に
主にささげることは非常に難しいのです。

ですから 自分の手の中の愛情総てを主の足元に投げ出すことは、
真に霊的であることのしるしです。信者がどれぐらい あらゆる
「人の愛情」に対して死に、そして「愛を求めること」に死んでいるか、
それはどのぐらい霊的であるか を示すものです。魂の命に対する真の
死は「神を愛する愛以外の私の愛」を総て放棄することに見られます。

「霊の人」は何と超越していることでしょう。
彼は「人の愛」を超越して歩んでいるのです。
(先人の言葉より)

2009年8月8日土曜日

一つのことに気をつける(3)

働き人、主の為に働く者は、働きの上で、或いは働いているとき 
よくよく注意しなければなりません。それは、働きの中に
「異性の思い」が少しも入り込むべきではない、と言うことです。

例えば、異性の前で栄光を得ようと願うことは、総て堅く拒絶されなければ
なりません。総て異性の影響を受けたあなたの言葉や態度は、真の霊的な
力を無効にしてしまうのに十分です。万事、静かで純粋な動機で行われ
なければなりません。どうか覚えて下さい。罪が汚れているだけではなく、
魂からの総ても汚れているのです!

主イエスは地上におられたとき、マリヤやマルタ、その他の女性との
関わりがありました。重要な点は その愛情が全く神の管理下にあるか
どうか、或いは「魂の作用」がその中にあるかどうかです。

兄弟姉妹が互いに交わるのは正常です。けれども、主の為に働く人は、
働きの上で、或いは働いているとき、十分注意しなければなりません。
即ち、働きの中に異性の思いが少しも入り込まないようにするべきです。
いかなる魂の働き、或いは罪のものもあってはなりません。

信者が「徹底した十字架の御業」を経験する前に、「異性の友」を持つ
ことはあまり好ましいとは言えません。しかし、信者がどのような霊的
成長の段階に達していようとも、もしも彼が心の中で異性の友を慕う
とするならば 私達は確かに魂の支配を受けているのです。
私達は万事につけ、私達に対する神の全能の按配の手の下に服する
ことを学ばなければなりません。

2009年8月7日金曜日

一つのことに気をつける(2)

キリスト者が本当に霊に従って歩もうとするのであれば 彼は事のほか、
愛情に気を配る必要があります。

私達の友人は何よりも 私達の愛情を動かします。その中でも、異性は
最も私達の感情を刺激するものです。男女は身体的にも心理的にも 
お互いに対して適合されるように造られています。従って男女には
生まれながら、多くの相違があります。それ故に それらの相違点が
互いに強く引き付け合う要素となります。
言うまでもなく これらの愛情は明らかに天然的であり魂的です。

人は異性に対する時 愛情が容易に生じやすいのは事実です。同性から
受ける刺激と異性から受ける刺激とでは 比較になりません。相互に
心理的要求があるので、異性に対しては同性よりも 先ずは 親しく
なりやすいと言えます。このような傾向は、普遍的、天然的で、自然な
ものです。ですから異性に対する愛情は 次にホンの小さな刺激で 
容易に燃え上がることになるのです。

以上のことは総て皆 極めて天然的 魂的な面の現象です。従って
信者が「真に霊に従って歩きたい」のであれば、彼はそれらのことに
相当の注意を払わざるを得ないはずです。

例えば、他の人を取り扱う際に、愛を示すべき場面において もし
私達がある方法で同性に接し、別の方法によって異性に接するとする
ならば、その時私達は 明らかに魂の命の支配下にあるのです。即ち
もし、私が異性であると言うことで、同性と全く同じ接し方が出来ない
のなら、それは完全に魂の命から来ています。要するに もし相手が
異性であるが故に、私がその人に何か不思議な引き付ける力を感じる
ならば、私の中で 生来の魂の命が私全体を支配する力として
強く働いていることを認めざるを得ないのです。

しかし、そのような愛情は「正当で立派な目的の中に」混入されている
場合が多いものです。そのような正当な思いのほかに「異性であるが
故の思い」が僅かでもそこに混合されているとするならば、私は霊の
支配下にいるとは言えません。私は決して霊的ではないのです。
(先人の言葉より)

2009年8月6日木曜日

一つのことに気をつける(1)

もしも私達が霊に従って歩くことを願うのであれば、自分の
愛情を「静寂に保つ」必要があります。そうでないと、私達は
人の霊の直覚を通して語られる聖霊の御声を 直接聞くことは
不可能となります。

もし私の愛情が 全く神のみこころに服していないのなら 私の
霊と心は感情によって妨げられます。神に服していない愛情は
霊の導きを阻むのです。従って信者は絶えず、自分の「愛情を
刺激する人やもの」に対して 霊の中で用心深くなければ
なりません。

もし他の事柄で勝つことが出来ないなら、サタンは確かにこの面で
あなたを誘惑するでしょう。このことで これまで どれほど
多くの信者が失敗して来たか分かりません。私達は本当に注意深く
あるべきです。

私達の友人は何よりも私達の愛情を刺激します。友人達の中でも 
異性は最も私達の心を動かすものです。男女は生まれながら
多くの相違があるので、それぞれ互いに引き付けあう力を
持っています。

そこに働くその力は 明らかに魂的、天然的なものです。従って
真に霊に従って歩もうとするのであれば 信者は事のほか 
この点に気をつけていなければならないのです。
(先人の言葉より)

2009年8月5日水曜日

「感じる」から「信じる」へ(2)

キリスト者の霊的初期の段階において、主の愛を「感じる」ことは
やはり必要であり、また助けにもなります。その段階においては 
確かにこれは信者が追い求めるべきものでもあります。

しかし、主の愛を感じるという経験の後、ある適切な時間を経過した
後には信者はもはや そのような「感覚にしがみつく」べきでは
ありません。そうでないと彼の「霊の命」は損失をこうむるでしょう。

キリスト者の経験には、その経験の各駅があります。それぞれの駅に
おいて 適正な経験をすることは キリスト者にとって
欠くべからざることです。

しかし、信者が「以前の駅での経験」を最後の駅まで引きずって行こう
とするのならば それは明らかに間違いです。それは 彼に霊的成長
における「停滞」をもたらします。彼の霊的命の成長は
それ以後は期待できないでしょう。

信者が明確に主の愛を感じた後は、もはやそこに いつまでも留まる
べきではありません。たとえどんな境遇に置かれたとしても、
(たとえ、無感動の暗黒の感覚の中に長い間おらせられたとしても
或いは 主に見放されたと「感じた」としても!)
主は キリスト者が「安定して 主の愛を信じ続ける」という更に
高い段階へと進んで欲しいのです。

その理由の故に、キリスト者の初期の行程において、信者に神の愛を
感じさせたあと、直ちに ではなくとも、神は敢えて 彼に、神の愛を
感じさせないようにされます。この事実は 
私達の多くが経験して来たことではないでしょうか。

それは何故でしょう。
それは たとえどんなことがあろうとも 神は「ご自身の愛は絶対に
不変である」ことを しっかりキリスト者に信じさせたい
からに他なりません。

ですから、もしも主の愛を感じる経験の後、信者が突如として 
それまで楽しんで来た愛の感覚を失った時には、その時こそ神は 
「どんな場合にでも ただ神を信じる」という更に高い段階へと 
自分を導こうとしていることに、気づくべきです。それ故に、
喜びの感覚が失われてしまったからといって、
驚ろくにはおよびません。
(先人の言葉より)

☆     

この白い☆印で
先人の言葉と、私の挿入or コメントを区別しております。
何も無ければ、全部先人の言葉です。
★は全く別の目的の私の文です。

2009年8月4日火曜日

「感じる」から「信じる」へ(1)

主はしばしばキリスト者に 非常に苦痛と思えることを体験させます。
それは信者が「自分自身のために」神を愛さないようになるためです。

信者が自分自身のために、自分の愛をもって 主を愛するとき 彼は主を
愛するために、主の愛を感じなければなりません。しかし信者が神の愛
をもって、神のために神を愛するとき、神は彼に神の愛を感じさせません。
かえって、神は信者が神の愛を信じることを願われます。

神は キリスト者の生活の初めにおいて、いつも多くの方法で信者を
引き付けて、神の愛を感じさせます。しかし、信者がこのことを経験
した後、神は彼を一層深い段階へと導かれます。

その際、神は彼にご自身の愛を感じさせません。かえって、神は信者が
神の愛を 信じることを願われます。キリスト者の生活の初期においては
主はいつも多くの方法で信者を引き付けて、神の愛を感じさせます。

信者がこのことを経験した後、神は彼を一層深い段階へと導かれます。
神は彼にご自身の愛を感じさせるのではなく、神はご自身の愛を信じさせる
という行程へと導かれるのです。私達は主の愛を「更により深く知る」
ことに注意を払う必要があります。これは更に前進することを願う
総ての信者が経験しなければならないとても大切な一歩です。

2009年8月3日月曜日

霊的な愛

神の愛の性質は永久不変です。
それに反し、私達の愛は非常に変わりやすいものです。
ですから、もしも私達が 自分自身の愛で神を愛するとしたら、
神に対する私達の愛は 自分が「楽しくない」と感じるならば 
冷ややかになります。試練が長引くと耐えられません。

それは 自分の愛で神を愛するからです。自分自身のために、
自分自身の幸いなどのために神を愛するからです。
ですから、期待していた「幸い」を獲得できないとなれば、
私達は後退します。

しかし、私達が神の愛で神を愛するならば、自分の状況、地位、
立場がどう変化したとしても変わることなく神を愛するはずです。

「愛は死のように強く、ねたみは墓のように残酷です。・・
愛は大水も消すことが出来ず、洪水もおぼれさせることができない。」
(雅歌8の6、7)

もしも信者が真に神を愛するなら、自分の境遇がどうであれ、
また自分の感覚がどうであれ、彼はなお神を愛します。
魂からの神への愛は 感情が働きを停止すると停止します。
霊からの愛は、強く、残酷で神を離すことはありません。


★ 
急きょ和歌山にいる私の妹夫婦がこの週末 山に来ることに
なりました。長引いていた妹の病気もとてもよくなり
楽しみにしているようです。そのような彼らと今回小屋で
ゆったりと過ごすことは、とても大切なことであると感じます。
大阪の末の妹も近い将来、必ず来てくれることでしょう。

2009年8月2日日曜日

愛から生ずる実(み)2

☆    ☆

「総ての物事の対立」の究極的な姿を最も簡単に表現するならば、それは
「霊と物質の対立」と言うことになる、と私は常日頃考えております。
それは必ずどちらかが 他方を支配する結果となるでしょう。

さて人の魂は物質に属します。
創世記冒頭の「生き物」(人のことではありません)と訳された時の
「物」は原語では何と「魂」だと言います。即ちそれは 人の魂は物に
属すると言うことです。その為に 私達の魂が「物」から切り離される
ことは極めて困難なことです。それが、私達が物、時空、旧創造、
この世界を深く愛し、またそれに執着する理由です。

聖書にあるように、本来キリスト者の国籍は天にあり、私達は決してこの
世界の者ではありません。しかしながら私達は、まだ多分当分?この世に
留まらざるを得ないでしょう。それ故に
私の霊が「魂とこの世界」を支配するか、それとも「物と連なった
私の魂」が霊を無視し 霊を抑圧し続けるか、と言う事は 
私のこれからの歩みにとって大きな分かれ道とさえ
なってしまうでしょう。

神のことば(啓示)が私の霊と魂を切り離す力を発揮し、そして
十字架が 魂の命のエネルギーを実際的に弱くする力を
私達が神から日々いただかなければならない切実な理由がそこにも
あります。神のことばと十字架、それが魂の命を対処する神の方法です。

しかし今それに加え「この世と常に接触しなければならない私達」を
この世から切り離し、この世にありながら この世に属させない霊的な
力が「神を真に愛する所からも来る」と言う「知識」はこの度、私に
とって大きな驚きでありまた「福音」とさえなりました。

結論としてことばと十字架、そして更に愛が 私達をして
この世から分離させ、神の中へと至らしめる有力な力となるはずです。
私もこれから それらの力を本当に体験して行きたいものである
と願っております。

愛から生ずる実(み)

注目しなければならないのは二種類の愛です。
それは 私達の魂からの愛と私達の霊からの愛です。
魂の愛:私は真の意味では霊を知らず、その結果 霊を圧迫抑圧し、
私の魂が 私という存在の中心に位置して私を行動させ、その結果
私の魂は「自由に」私が愛したい人を「私の為に」愛します。
それは通常見る生まれながらの人の愛の姿です。

霊からの愛とは、聖霊が私の主となった結果 私から自然に表現
される愛です。それは聖霊の支配のもとにある私の霊が、魂の束縛から
解放され、更に霊が魂を支配するので 私の霊は私の感情を経由して
「神の為に」そして「神の中で」神と人を愛する、と先人は言います。
彼の言葉は続きます。

☆    ☆

この二つの愛の実、即ちこの二つの愛の結果を見るならば、二つの愛の
源を告げることが出来ます。もしもその愛が魂に属するなら、
そのような愛はキリスト者を永続的に世から離れさせる為に、信者を
助ける力はありません。彼は「この世の引き付けるもの」から離れる為に、
苦労し苦闘しなければなりません。

しかし、一方 愛が霊に属するものであれば、世の事柄は自然に
捨て去られます。この愛の故にです。信者はそれをいやしめ、
それらを憎むべきものと見なします。
彼はもはや「世を見る目」を持ちません。何故なら、神の栄光が
彼の肉の目を見えなくしたからです。

このような神を愛する経験の後、彼は自分を高く評価することは
ありません。むしろ、彼は自らを卑しめ、人の前に小さな者となった
かのように感じます。これが 霊的な神の愛を真に経験した信者が
経験するもう一つの実です。

2009年8月1日土曜日

幾種類かの愛がある

霊的な愛と魂的な愛との相違は何でしょうか。外観からその
相違を表現するのは非常に困難です。しかしキリスト者は自分の
愛の源がどこにあるのかを識別しなければなりません。

魂は私達の自己です。ですから、魂に属する総てのものは、
自己から分離されることはありません。従って主に対するもの
であったとしても魂からの愛は、自己から出た愛です。自己の
幸いな感情を得るために神を愛することも魂的に神を愛することです。

一方 もしも神を愛する愛が霊的であるならば、その中に自己が混入
することはありません。それは純粋に「神のために」また「神を愛する
ために」神を愛することです。そうではなく、全部であれ一部であれ、
自己の幸いのために、或いは別の理由のために神を愛することは
総て魂から出たものです。

☆    ☆

男女における愛情関係において「恋を恋する」と言う言葉が
あります。この意味は、その人たちは「本当に」相手を愛して
いるのではなく、実は彼らが愛し合っていると思っている彼らの
関係において発生する恋愛感覚や雰囲気、ムードに酔いしれている
と言う意味でしょう。だから、ある一定期間が過ぎ、雰囲気が
過ぎ去るとたちまち彼らの関係は消滅する、と説明されています。

しかし、別の人は言うでしょう「いやそこにさえ、彼らには
恋愛感覚を愛する以外に、相手に対するある種の愛がありますよ」と。
そうです。そこにもやはり「人の何かしらの愛」は存在するのでしょう。
それではその「彼らの愛」の源はどこにあるでしょうか。それは
明らかに人の魂であり、更に「魂よりももっと外側の要素」です。
ですからここに既に三種類の「愛のかたち」があることが分かります。
それは感覚や雰囲気を愛する愛、相手の魂を自分の魂によって愛する愛、
そして魂よりも更に外側の要素、即ち肉体からの「愛」です。

私は今それらの愛の「良し悪し」を言いたいのではありません。
何故なら、極めて重要なポイントは「善悪」の問題ではなく、
そこに「永遠の要素」が存在しているかどうかであるからです。

神は永遠の神であり、神が御子の命をさえ代償として、即ち
神が「命がけで」私達に与えようとされたのはその永遠の命、
即ち神御自身の命であったからです。その絶大な価値を
表現する人の言葉はありません。

いずれにしろ神が評価されるのは 唯「永遠と言う要素を持つもの」
だけです。そして神は「その永遠の要素」はただ御子の内にある、
と断言されます。(Ⅰヨハネ5の11)従って私達がその
「永遠の命と言う源」から神と人を愛するならば、
その時神は初めて「私達の愛」を評価されるのです。


★   ★

あの「柄沢登兄弟」の妻、良子さんのお姉さんである
渡辺姉妹が今ご病気です。
(それは軽い病であるとは言えないようです)
以下は ある姉妹へ寄せられた渡辺姉妹の娘さんからのメールです:

「いつも母がお世話になっています。無事に手術が終わりました。
本人は感謝と喜びに溢れているようです。
お祈りして頂きありがとうございました。ご安心ください。」