2009年8月20日木曜日

指導的な人々でさえも

聖霊と信者の霊(3)

多くの場合、今日キリスト者の指導者達でさえ、
・自分の霊が一体何を要求しているのか・霊は神のためにどのようにして
「よき事」を開始するのか、また・どのようにして自分の霊を養ったら
よいのか を知りません。また彼は・霊の感覚とはどういうものか、
そして・その霊の感覚が何を表現しようとしているのか が分かりません。

別のあるキリスト者は更に高く、より深い霊的経験を求めます。しかし、
十字架の適用についてある程度知っている彼らとて「罪に打ち勝つ」経験を
した後は ある満足に到達してしまい、もはやそれ以上霊的に前進する
ことをやめてしまう場合が多いのです。

何故でしょう。それは彼らが霊の働き、霊の機能を知らないからです。
そして彼らが何を追求するかと言えば、
・彼らの思考の中で「霊的、聖書的な知識」を求めます。そうでなければ、
・感情の感覚の中で、また自分の体・自分の肢体の中の
燃えるような感覚の中で「主の臨在」を追求します。そして 
・自分自身の意志の力に従って行動し、ふるまいます。しかし、私達は
以上の経験は総て 人の「魂の働き」であることを覚えなければなりません。

そのような魂の働きの結果は何でしょうか。それは 彼自身を欺き、
彼の魂的な経験を過度に強調させ、彼の「自己」を極みに至るまで増長
させることに繋がるのです。そして彼をして 自分の経験は 霊的に素晴
らしいと感じさせ 遂には自分はとても霊的な者である と思わせるのです。
そのことは 彼の真の霊的な成長を完全に停止させる結果となるでしょう。

従って私達は、神の前に全くへりくだり、自分自身を聖霊と聖書の
教えに服従させ 日常生活における自分の経験において、霊の機能と働き
とを少しずつ調べ 霊について一歩ずつ着実に学ぶようにするべきです。
それは私達が 真に霊に従って歩み始めるためです。(先人の言葉より)


以上の三篇は「霊に関する論述」の為の序文の内、その更に
小さな序文と言うべき部分です。

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