2008年1月31日木曜日

真冬のミステリー?

昨日 夕方小屋に着きました。
早速 水道点検。小屋中 完全凍結ですね。
隣の出羽海氏によるとこの所マイナス10度以下の日が続いていたと言う。
今日からいよいよ「戦い」です。先ず、かろうじて水が出そうな庭用の
水道を確保すること。お湯でもかけてコレを何とか出るようにしないと
基本的に生活が成り立たないからです。(人は水ですネ。)
次は水道管に全部断熱材を巻くこと。(ヤレヤレこれ相当の距離ですよ。)
その前にその作業のための環境整備をしないと。それは地下小屋の
ガラクタを片付ることです。そもそもこれがまた大変。以上の作業 
今日だけではとても終わらないでしょう。

それから昨日奇妙な現象が一つあったのです。
皆さんはどう思われるでしょうか。
昨日小屋に着いて目を上げて見ると 2つあるロフトの南の窓の
小さい方の窓が何と完全に開いていたのです。昨夜からいくら考えても 
この説明はいまだに出来ないでいるのです。
可能性は二つ、一つは私が窓を開けて下山したこと。
他は留守中、誰かが小屋に侵入したこと。

しかし、前者はあり得ない。小屋を離れる際 車の中からチラッと
小屋の南側全体を目で確認したのである。それにこの窓は
普通の窓ではなく、ハンドルで横に直角に開くもので
(だから構造上 地震で開いてしまうことは無いし また外側から
開けることは絶対不可能)殆ど冬中開けること等ない窓なのだ。
その上アメリカ製のいかにもこわれそうな代物なので 私は夏でも
あまり触れたくもない物なのだ。それをこの厳寒の寒空のもと 
私が開ける事などあり得ないこと。

もう一つの可能性はどうか。
その形跡が全く無いのですよ。小屋は下山以前と完全に同じ空気を
漂わせていたのです。もしも誰かが物取り等の目的の為 
小屋に入ったとしても あの開けるのに苦労する窓を
開けなければならない理由は考えられないではありませんか。

結論:とにかく全く分かりませーん。
言えることは一つだけ、それは今なぜか私には 
なんだか「嬉しいような気持」ちがあると言うことです。
むしろこっちのほうが不思議現象か!

2008年1月29日火曜日

近況です

やっぱり 下にいて 文章を書くと言うのはとにかく面倒。
でももしかして この不精は年のせい?
それならヤバイと今ようやくブログの前に。

今日、実は山帰りの日だったのですが 明日に延期です。
これ何となくなんです。空もあまりパッとしないしネ。
こういう所が退職人間の贅沢の極み、働いている皆さんごめんなさい。

今日午後は ケンと家内で龍ヶ崎のファミレスにでも行こうかなと。
ただケンは今少しウツで苦しんでいます。
ファミレスはだからケン次第。
実はもうすぐ2月1日から、ケンは花栽培のファームで
いよいよアルバイト開始なのです。
その前に 試みにあるコンビニに応募した所、
何と「来てくれ」とのことだったのですが 
まだ自信がイマイチということで このファームにしたのでした。
先ずは一日 2時間、週4日です。

「その出鼻の1日にウツがあったらどうするの?」と聞いた所 
「とにかく行って見る、主がこのように導いたのだから」と言うことでした。
この態度はいいですね。
だから一歩一歩 主がケンを導いて下さる筈だよ絶対に、
これホンと「親の祈るような気持ち」なのです。

明日はきれいな空のもと一人 山へのロングドライブ、
山では先ずは 凍結した水道管との戦いですよ。勝算はあります。
まこれ 楽しい戦いにはなることでしょう。

2008年1月28日月曜日

2008年1月22日火曜日

病を得た友によせて

病を得た私達の大切な友・I さんへ今 あなたと共に心を寄せます。 
今こそ I さんが 神の光の中で自分の真の姿を知り そして
彼が今 この時間と空間の中でこそ「永遠の主の経験」の中に
入って行く と言う高き主の願いの故に 神は今「容赦なく」私達の友を
取り扱っておられるのではなかろうか とそんな感じがしております。
きっとその過程にあるのでしょう。

今 I さんにある意味で
「その覚悟」があるのはよいことだ と思っております。
当然のことながら キリスト者にはいわゆる「最悪の事態」においてこそ
その信仰を機能させるべし と言うものが 私達のあらゆる祈り
願い、思い、企ての根底にあるべきだと思います。
(そういうことは起こり得ない とせずに)
これが基本の基本にあればこそ 初めて
主もその上にいろんな「良きこと」を 築いて行けるのでしょう。
「人の世のその最悪の事態」を逆手に取り 主が、その永遠の大きな御心
の中で その人とその人の周辺に また「全世界の為」にさえ 
何をなさろうとされるのか その全貌と詳細を私達が見ることは
不可能ですしまた それは人の分ではありません。
しかしながら私達こそが
「そのような主を信じ信頼すること」が出来る筈です。

個人的に言えば、
この苦難の中、そして更なる困難の中、そして
総てが絶望と思わせられるような時間が彼に迫り来るその時でさえ
「主の歩まれたその歩みの全行程の一つ一つの原型に自分を置き 
主と共にそこを通ること、この‘宇宙最高の尊い経験’を
彼が真に経験する中で その肉体にも主が癒しと言う
奇跡をなさって下さること」を 実は私は心から願っているのです。

しかし 仮にたとえそうでなくとも 
主は彼に、そして私達に、そして全世界の為にさえ
最善をなさるであろうことは 疑う余地がありません。
今こそ 私達は 全幅の信頼と信仰をキリストに 寄せるべき
正にその時なのではなかろうかと 私はそのように信じているのです。 

2008年1月18日金曜日

今日から旅です

今回は 下へ下りてもパソコンに向かうかな。
先回は何故かどうもそんな気にならなかったのですが・・

今 小屋では水道の凍結で四苦八苦です。
この秋 まずは凍ることはないと言うふれこみの水道管に取り替えた
まではよかったのだったが ああ何とこれが 
いとも簡単に凍ってしまったのです!なんちゅうこったと
その水道管(カキオポリと言うもの)の集中する粗末な
地下部屋の壁のすき間をウエス(布切れ)で埋めたり、そこをストーブ
で暖めたり、カキオポリに布を巻いたりと悪戦苦闘の連日。それでも
従来の駄目なはずの水道が健在で(これ、笑ってしまいますよネ)
なんとか生活は大丈夫。やっぱり鼻から息をするもの(人間)の
言うことなど あてになりませんよ、皆さん。

今、早朝5時 外気はマイナス8度、カキオポリはやっぱり完全に
凍結しています。夜が明けたら旅に出る前 地下室を2台の灯油ストーブ
で温めないと。それでも出ないと言うことはあり得ないからね。

でもですね、こういうことも一人 厳冬の山で暮らす者の生きがいの
一つなのです(やせ我慢じゃないよ)。どこかにいつも何らかの緊張が
あると言うやつ。これも決して悪いことだけではないのです。

2週間後、やっぱり私は山に戻って来るでしょう。
まもなく来る明るい2月の空はことのほか美しいし、
山の生活は何と言っても しんから気持ちがよいからです。

2008年1月16日水曜日

K さんへ(2)

私に与えられた知識からお話する前に私は以下のことを
K さんにお伝えしないわけには行かないと思います。それは

*真の霊的知識はどこから来るのだろうか*

と言う問題です。
聖書から何か霊的なことを知りたいと思う時 私達には 
当然の如く「誰かから教えてもらおう」や「いい解説書を
読まないと」とごく自然に反応するものがあります。
現代の世に生きるキリスト者達にとってこれは相当に
根深い状況だと言ってよいでしょう。

ところが イエスは言われました、
「聖霊は、あなた方に総てのことを教え、また私があなた方に話した
総てのことを思い起こさせて下さいます」と。(ヨハネ14の26)
ここに「総てのこと」とあります。信じられるでしょうか、イエスは 
聖霊は大小様々の総ての事を教えることが出来ると言われたのです。
そしてまた「その方、即ち真理(リアリティ)の御霊が来ると
あなた方を総ての真理(リアリティ)に導き入れます。」
(ヨハネ16の13)と断言されたのです。
彼は続けます「私はあなた方に言います。求めなさい。
そうすれば与えられます。・・天の父が、求める人たちに、どうして
聖霊を下さらないことがありましょう」。(ルカ11の9、13)
だからパウロは祈りました「どうか・・父が 神を知る為の知恵と啓示
の御霊を、あなた方に与えて下さいますように。」(エペソ1の17)

キリスト者が何か霊的なことを知りたいと思うとき、先ず人に行く
べきではなく直接、神の所に行って懇願するべきです。これが基本です。
そうした後で或いは神はあなたを ある人の所に導かれるかもしれません。
それはそれでよいのです。しかし大前提は「第一にあなた自身で直接神へ」
なのです。この優先順序を間違えるならばそれは 長い時間の中では
決定的な損失となって現れてしまうことになるでしょう。

もしも神の真理を「人から教えてもらう」や「勉強する」が常に前提になる
ならば そこから得た何らかの「霊的な」知識は単なる
「キリスト教的知識」の収集に過ぎないことでしょう。それは
霊的な真の知識とはなりません。むしろそれは多くの場合 
その人を誇らせ、他人を見下げる材料になってしまうことが多いのです。

私にもかつてある人の教えを絶対視し、それらの教えを収集し記憶する
ことに励んだ長い時期がありました。そして当時 それはとても
素晴らしいことであると信じていました。なぜならその教えは非常に
「正しいもの」であったからです。しかし大切なのは「善悪を知る知識」
即ち正しいか否か、などではないのです。(先ず命と総てなるキリストを
求める。そうする時に「当然の結果の一つ」として正しさも付いて来るの
です。しかしその期に及んでさえ実は「正しさ」など
その人の眼中にはないのです。)

その後 不思議なことに主は何と 私をこの山中に一人入って 
直接主に求めるように導かれました。その時から私に驚くべき日々が
始まったのです。直接主のところに行き 結果与えられた知識は
何と言えばよいのだろうか、それは先ずは生きており、そのようにして
示された大小の知識は互いに結合しあい一つの生き物(人)のようになり
そしてそれが私に直接働きかけて来るようになったのです。
(枯れた骨骨でさえ生き出した!)その頃に至って初めて私は 確かに
「真理(実際)とはイエスキリスト御自身である」と知るに至ったのです。
それは単なる文字の知識ではなく私にとっては正にリアリティであった
のです。以前の「正しい」聖書的知識を得るために費やされた長い年月は
一体何だったのでしょうか。(多分命のない枯れた骨骨の収集に
過ぎなかったのでしょう。)

真に霊的なものは現在 絶対的に「キリストの復活の中」にしか存在せず、
そしてそれは全く天に属するものです。それと「この地上の魂的な知識」
の間には言わばどんな橋も掛けられ得ない大きな淵が横たわっていると
言えるのです。この淵を人が生来の頭脳の努力で渉ること等不可能です。
その両者には絶対的な性質上の天と地の相違があるからです。
「創造されることのない永遠に属する神聖な領域のもの」を被造物に
過ぎない人の小さな頭脳で真に理解することは元々出来ることでは
ありません。それは例えば猫にとって人の奥深いことを知ることは 仮に
相当の努力家の猫がいたとしても 元々無理であるのと同様でしょう。

天と地を結び私達に何かを伝達すること それが可能なのは神ご自身
以外にはあり得ないのです。それは一方的な 私に対する神の働きかけを
もってして初めて可能となるのです。従って私達がするべき第一のことは
先ずは神に向かい神の永遠の真理に関して我が目を開いて下さるようにと
「懇願する」ことである筈です。
これはごく当然のことではないでしょうか。

「なぜなら御霊のことは御霊によってわきまえるものだからなのです。」
(1コリント2の14)

2008年1月14日月曜日

K さんへ(1)

一人ぼっち セルフビルドの山小屋作り
始めて もうかれこれ 15年
キリストを ここに迎えて 今年で5年。
けれども 小屋はいまだに 未完成。
    
それでも そこかしこあの人と 共に住みあう調べ
アンダンテ コン モトが 流れ
そして“何か”がすばやく深く 飛翔する
ミズナラの森へ 遥かな宇宙へ。

とても静か、ただ 白く光る月 梢を渡る2月の風
山暮らしキリストの不思議 シンフォニー。
(07年2/28)


「キリストをここに迎えて」「あの人と共に住みあう調べ」
約一年前 このブログのタイトルをどうしようかと考えた時
ああ確かに私は 一人でここにいるのではない
キリストが私と一緒にここに住んでおられるのだ
と言う感覚には確かなものがありました。
(もちろん感覚が総てであるとは言いませんが)

それからもう一つ
白髪の66才になっても?例えば「山暮らし日記」等と言う
タイトルではなくもっとロマンチックで詩的なものに
して見たいという一寸気取った私らしい考えもあったことは
事実です。実の所「山暮らしのキリスト」は
そう言った気持ちから出てきたタイトルなのです。

ですから
私にはもちろん「イエス・キリスト」と書いた表札を小屋の入口に
ぶら下げて見たい等という気持ちはありませんでしたし
当然今もありません。私のようなどうしようもない罪人がどうして
「私はイエスキリストです」等と真面目に名乗ること等出来ましょう。
もしもそうであるならば、私は精神病の病人か、
何か陰謀をたくらむ小ペテン師に違いありません。

しかし、
K さんは 以上のような「低いレベル」で私に質問をされたのではない
ことは明らかです。そうです、パウロは「私は十字架に付けられた。
生きているのは私ではない。キリストが私の内に生きておられる
のである。」(ガラテヤ2の20)と断言しました。
なぜならこれはパウロにとっては明らかな事実であったからです。
それでは このことの真の意味は何なのでしょうか。
私達はそのことを真面目に考えなくてはなりません。
この時私達は これはパウロのような限られた偉人にしか言えない言葉
なのだ等とあまりにも簡単に片付けるべきではないのです。

ここには「キリストとキリスト者の結合」というとても大切な
新約の真理が暗示されています。生きているのはキリストであり、また
パウロでもあったのです。彼らは共に生きたと言えるでしょうし、
パウロの肉体を通してキリストが生きられた、とも言えるでしょう。
これは何と私達を魅了することでしょう。
何故なら、ここに「神と人との愛のかたち」の極致があるからです。

しかし、問題は更に高く深く大きくなります。
それは私達キリスト者を含む「今日の奥義的なキリスト」の存在です。
そのことと「キリストの復活は神にとっては新しい人の誕生である」
(ここにこそ神の大いなる喜びがあった。)
とする新約聖書の強い主張とはとても密接な関係があるのです。

以上の極めて奥深くも 同時に極めて実際的効果的であり、
従って今日の「総ての」キリスト者にとって決して
ただ目の前を素通りさせてはならない聖書の真理について、
これから順次 交わって行きたいと願っております。

2008年1月13日日曜日

「真実なコメント」への感謝

ぶしつけなんて、とんでもない。
本日 夕刻あなた様の真摯で正直なお気持ちに接し
何と言うか 大げさではなく本当に心が震える思いが致しました。
今私が感じている実感は「主に対する畏れ」のようなものです。
今「主の真実」が私にも迫って来ている、
そんな感じをさえ抱かせられているのです。

もちろん私は今 私の限界内で 
あなたの要求に応えて行かなければならない
と覚えております。
そしてそれはコメント内ではなく、
ブログ本文にてしっかりと取り扱うべきである
と思っております。ですから
多少それは時間がかかる内容になるかも知れません。

しかし、それは「正しい理論」を一生懸命に組み立て
多くの人々を説得する と言ったたぐいの
ものには決してならないでしょう。
言えることは 私達の「真実な交わり」からだけ 
あなたと私、そして神と人の為に 真に有益なものが 
現れ出るであろうということです。 
それのみが私達に要求されている総てに違いないと
今私は明確に信じております。 

2008年1月11日金曜日

十字架と復活に見る神の知恵と力

死とは命の対極です。
そして死の力を所有する者はサタンであり、
命の究極的な姿は神です。

それでは復活とは何でしょうか。それは
「人となった命」が敢えて死の中に入り込んで死を打ち破り
死を破壊し尽くして 人が永遠・神の領域に入ること またその状態です。
死の力とは既に述べたように「人を総てのものを一つ所に閉じ込め制限して
命である神から隔絶しようとする力」です。
この力は絶えず全人類に及んでいます。だから人には自由がないのです。

それでは
命からの隔絶、閉じ込め、不自由の究極はどこにあるのでしょう。
それは他でもない、あのイエス・最後のアダムの十字架
(一つ所・凝縮された一点)にこそです。十字架ほど不自由な場所は
ないのです。十字架は神の命から隔絶され閉じ込められる死の極点です。
ですからイエスを十字架に釘付けた事は「サタンの大勝利」でした。

そして更にそれ以前においても サタンは大成功者だったのです。
即ちサタンは最初のアダムに対し「彼の本質的な能力・ウソ」を用いて
「神から独立し自給自足する魂」を与えました。その意味する所は 
サタンはその虚偽を巧みに行使する事によって まんまと全人類を
神の命から切り離すことに成功した と言うことです。
これによって人類に死が発生したのです。

そして前述したように
更にサタンは全力を尽くし 最後のアダム・イエスをも神の命から
隔絶しようとし死の極致・十字架に閉じ込めることに成功したのです。
それはあたかも神の敵の完全な勝利でした。
これで死と言うものが全人類を完全に覆い尽くす と言う結果に
至ったのです。(あたかもノアの時の大洪水のように。)


しかし神を賛美します。
ここに神の計りがたい予知と知恵そして力があるのです。
当然 神は神ですからサタンの限界を十分にご存知でした。
それではサタンの限界とは何でしょうか。それは
「サタンはその死の力の行使を決して停止し得ない、彼はその路線を
ひたすら突き進むしかない と言うその本能」なのです。
悪には 悪と知りながらもどうしても 破滅に至るまで
突進せざるを得ない性質があります。彼には
悔い改めと言うことは絶対にあり得ないのです。
これによって 神から来られた人類を包含する最後のアダムが
サタンの本能に乗じてサタンの総ての力の真髄・死の中に
入り込むことに成功したのです!

この結果は言わずもがなでしょう。
イエスにおける究極的な「閉じ込められ、圧縮され」が 究極的な
「命の無限の爆発と放散」を誘引したのです。究極的な不自由と圧迫が
完全な自由、総てに対する無限、即ち人の復活を招致したのです。
「この方が死につながれていることなど、あり得ないからです。」
(使徒2の24)
どうして「非受造の無限の命」が 単に被造物に過ぎないサタンの力に
4日間も閉じ込められることなどあり得ましょう。
当然 イエスの霊の中にあった命は神の究極的な命、無限の命でした。
それが「永遠の命」と呼ばれているものです。サタン自身が「その
死の力が 永遠の命によって完全に破壊尽くされる、と言う絶好の機会」を
神に与えてしまったのです。
(そのようにして復活の永遠の命が私達に届いた!)

そこにこそ 人知では想像することすら出来ない
神の計りがたい知恵と力があったのです。
神は褒むべきかな!


・イエスは、ご自分の前に置かれた喜びの故に、辱めをものともせずに
十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(ヘブル12の2)
・女が子を産む時には、その時が来たので苦しみます。しかし、子を産んで
しまうと、一人の人が世に生まれた喜びの為に、最早その激しい苦痛を
忘れてしまいます。(ヨハネ16の21)

2008年1月10日木曜日

素通りする とてつもない言葉

・お前はいつも私と一緒にいる。私のものは、全部お前のものだ。
(ルカ15の31)
・総ては、あなた方のものです。パウロであれ、アポロであれ、
ケパであれ、また世界であれ、命であれ、死であれ、また現在のもの
であれ、未来のものであれ、総てあなた方のものです。
(1コリント3の21、22)
・キリストの内にこそ、神聖の全き充満が形態化して宿っており、
あなた方はキリスト(即ちあらゆる支配と権勢の頭)にあって満々と
満たされている。(コロサイ2の10)
・あなた方は既に死んでおり、あなた方の命は、キリストと共に、
神の内に隠されている。(コロサイ3の3)
・キリストイエスの中で、私達を共に復活させ、共に天上で座らせて
下さいました。(エペソ2の6)


キリスト者の所有や身分に関する以上の聖句は残念なことに 
普通私達にとって単に「聖書に書いてある」というだけの
一寸ありそうにもない「とてつもない言葉」に過ぎない。
従って多くの場合 せっかくのこれらの真理も私達の前をただ
素通りして行くばかりである。

しかしそれを言うならば例えば「キリストの内住」だって
「とんでもない、とてつもないこと」ではなかろうか。あなたはこの
「とてつもないこと」をどうして信じられるのであろうか、信じている
だけでなくなぜ当たり前のように楽しんでさえいるのだろうか。

それは、
あなたはある日「キリストの内住」と言う言葉を聞いた時なぜか それに
引き寄せられ、関心を持ち、思い巡らし、それを真に知りたいと言う
願いを抱き そのことに関し心を主に向けたからである、その様にして
ある時天から光が射し込み 遂にあなたの内に霊的な力・信仰が
発生したからである。これは一つの奇跡なのである。

その様にして キリストの内住と言う「永遠の領域にだけ存在する
神の真理」が初めて「私の時空に降り」私の経験となったのである。
信仰と言う奇跡が発生し、あなた自身がその真理と関わりを持たなければ
「神の永遠の真理」が あなたの時空に現れることはない。
神の目から見て事実はそこにあるとしても あなたの経験においては
相変わらずキリストはあなたからかけ離れた存在でしかないであろう。
信仰こそ キリストの復活の中に存在する天的な真理を
あなたの時空に至らせ「実現させ」経験させる通路なのである。

門は叩かれることなしに開けられることはあり得ない。
神の達成された真理を見ること それは殆どの場合 
あなたの心からの願いにかかっているのである。

2008年1月5日土曜日

雪の林

空は灰色、
見上げると ミズナラの梢から
小雪がパラパラと舞い落ちる。
今朝も歩いたよカリマンの森:

振り返っても
誰もいない 誰も来ない。
ただ真っ白に続く林の中のケモノミチ。 

すると、ケモノミチに争ったような人の足跡 そして何と 
黒ずんだ血痕がテンテンとどこまでも、明らかにそれは血。
コレ もしかして真冬の寒村 雪上の・・

イヤ、でもね多分こうでしょう、
ハンターが獣撃って それを手にぶら下げて歩いたあと。
おそらくね、そうでないと困るしネ。

こんな所 一人で散歩する人 私以外絶対にいないのだ。
お願い誰かさん、私を撃たないで。

ホラ また
小雪がチラチラ 落ちて来たよ。

2008年1月4日金曜日

「キリストの中の私」へ(6)

*真の自由はどこに*
私達はよく「人は自由だ」といいますが、実の所 人はあんまり
自由ではないのです。逆に人は相当に不自由な者であり 
多くの制限の中に閉じ込められているのです。

先ず人は生きる為に当然沢山の「ねばならない」や義務、種々雑多な営み
の中に閉じ込められています。しかしこれは本来 私達のあるべき姿
なのでしょうか。本来の人間と言うのは その日常生活の中でさえ
本当の自由と解放 そして完全ささえ
味わっているものなのではないでしょうか。
また私達は 弱さ、病、老い、怒り、悲しみ、苦痛、圧迫、人間関係、
憎しみ、争い、戦いの束縛の中にあってひどい不自由を強いられています。
これは今更 言うまでも無いことでしょう。

そして私達は自分の気質、好み、願望や愛情の中に、そしてまた長年
自分がつちかって来た大切な自分の人生観のようなものにさえ 
縛られてしまうことがあり得るのです。またあれを手にいれさえすれば
きっと自由になれるのでは という「希望のようなもの」にこそ
強力な「捕らえ」がしばしば潜んでいるのかも知れません。
即ち人は「自分」と言うものの中でさえ そんなに自由ではないのです。

更に話を進めさせて下さい。(こういうことは今まで あまりお聞きに
なったことがないかも知れないのですが・・)
仮に以上述べた項目の総てから全く自由な人がいるとしても
(そんなことは絶対に無いのですが)自分の「物質としての肉体」や
「時間や空間」の制限を受けない人はいないのです。これ当たり前?
でもね 人は何故か時々 大空を悠々と自由に舞う
鳥を見てつくづくと羨ましく思います。
いかがでしょう、人が時折つく奥深いため息はもしかして
実はまだ知らない、しかし本来人が持っているべき
「奥深い真の自由」を求めてのもの なのではないでしょうか。

ここに一つの法則のようなものがあります。それは 時空とそして
時空の中の一切のものには ある働きが作用しており それは絶えず 
人を束縛の中に閉じ込めようとしている と言うものです。
今日何もかもが嫌になったと 自らの物質的な肉体に終止符を打ち 
無意識の内に 時空(この世界)の外へ逃れようとする人が多くいます。
ある意味で彼らは拘束する煩雑な事柄と時空の束縛から逃れられた、
のかも知れません。
しかし彼の選択は彼に真の自由を与えたでしょうか。当然否です。
決して私達はその様には感じないのです。むしろそこに
とても自然に底知れない悲惨と悲しみとを覚えます。
なぜでしょう。それはそのようにして 彼は最大の束縛と制限の手の中に
落ちてしまったからです。その最大の束縛と制限とは何でしょうか。
それが「霊的な死」です。

死こそ人を極みにまで束縛するものです。死こそ人を最大限に
閉じ込めるのです。先に述べた様々な拘束するものの総てに 
死の印があります。それらの一切は常に死の足音を響かせています。
私達は敏感にその音を察知するべきです。
死の力は 時空や光をさえ飲み込んでしまうと言うブラックホールのように
人を恐ろしい究極的な制限の中に閉じ込めてしまうのです。

死の本質の一つは確かに制限、閉じ込めです。
それは 時空とその中の万物には
「強力な死の力を持つある存在」が働いているからです。


しかしながら ここに確かな希望があります。
それは人の思いの中では到底信じ難いことなのですが・・
それは 私達の神は 人が「いかなる」制限の中にも
閉じ込められることを絶対によしとされない と言う事実です。
神に感謝します。神は人に本当に「真の自由」を与えたいのです。
そうです、神は諸々の束縛、拘束、また何と物質や時間・空間から
そして総ての拘束の根源として働く死の束縛からさえ
完全に私達を自由にしたいのです。
そのためにこそ 神は御子を十字架に行かせたのです。

そして私達の為の「実際的究極的な自由」は
ただ十字架を経られた 御子の「復活」の中にあるのです。
復活こそ時空とその中の物質的な一切のもの、そしてそこをより所として
死の力の中で働く 暗黒の中にある一大勢力でさえ 遥かに超越する所の
「永遠と言う性質を持つ非受造の中の領域」なのです。そしてその領域とは
何と天地にある「一人の人」でもあるのです。

「私は復活であり命である。」(ヨハネ11の25)

2008年1月2日水曜日

「キリストの中の私」へ(5)

神の御子は 永遠から永遠に至るまで存在するお方です。
しかしある時点でキリストとしての彼は アダムの肉の様で
時空の中に入って来られました。そして彼は彼の中の
「旧創造を包含する最後のアダムの物質的肉の死」において
古い時空とその中の万物を神による死の審判のもとに服させたのです。

もとより旧創造はアダムの罪の故に「永遠の命なる神」から切り離され
死の状態にあったのですが、最後のアダムの死において更に 
法的に公的に正式に「神にとって全く不要なもの、棄却されるもの」と
される死の印が付けられたのです。ここに「古い時空とその中の
総てのものは終わった」とする神の大宣言があったのです。
これは神の御子が命を賭して達成されたことであり、
この事実に異議を唱え それを覆しうる者はありません。
万物は御子の中で創造された(コロサイ1の16)が故に
イエスの死の中で万物は終わったのです。象徴的に言うとこれは 
「水と言う死」による審判とある執行でした。ノアの洪水や
エジプトの軍勢を覆った海、水のバプテスマの意味等がここにあります。

しかしながら死(ある終結)とは消滅を意味するものではありません。
それは命からの隔絶なのです。しかし将来、更に終局的究極的
正に絶望的な隔絶が待っています。それこそが第二の死です。
即ちそれは焼却であり永遠の火の池です。(しかしそれとて
消滅ではないのです。)その時には第一の死でさえその機能が終わり 
黄泉と共に 永遠の火の中に投げ込まれるのです。
それがイエスが言われた火のバプテスマでもあります。
(遂には海も無くなります)

さて今「第一の死の印」を持つ時空は まだここにあります。
キリスト者とはこの時空の中に ある明確な目的をもって神によって
意図的に「留まらせられている」存在です。基本的にまた本質的に
私たちは キリストの復活にあずかり永遠の中にある天的な存在です。
キリスト者とは元より「地に住む者」ではないのです。
しかしながらそれと同時に私達はこの時空の中 旧創造の中に敢えて
暫くの間留め置かれなければならない極めて稀有な者達なのです。
このような存在はキリスト者を他にしてはどこにも見ることが
出来ないのです。この理由の故に 他の目に見えない極めて高度な
被造物達は正に驚異の眼差しで日夜私達を見つめていることでしょう。

さて私達がこの時空の中に今しばし留まらなければならない理由とは
「神の敵の苦しみの増大と恥辱の増大」の為なのであり、
そのことに含まれる 神に創造された者達への命の福音の宣べ伝え
のためです。これ以外に私たちがこの地上にいる意味はあり得ません。

それではその目的はどのようにして実現されるのでしょうか。
それは私たちが キリストによって達成されたあのB面の原型、
キリスト者が歩むべき行程の為にキリストによって既に完成されている
「復活のキリストと言うあの原型」に信仰によって自分を「はめ込み」
キリストの各面を この時空の中に再現することによって
初めて可能となるのです。