2008年1月14日月曜日

K さんへ(1)

一人ぼっち セルフビルドの山小屋作り
始めて もうかれこれ 15年
キリストを ここに迎えて 今年で5年。
けれども 小屋はいまだに 未完成。
    
それでも そこかしこあの人と 共に住みあう調べ
アンダンテ コン モトが 流れ
そして“何か”がすばやく深く 飛翔する
ミズナラの森へ 遥かな宇宙へ。

とても静か、ただ 白く光る月 梢を渡る2月の風
山暮らしキリストの不思議 シンフォニー。
(07年2/28)


「キリストをここに迎えて」「あの人と共に住みあう調べ」
約一年前 このブログのタイトルをどうしようかと考えた時
ああ確かに私は 一人でここにいるのではない
キリストが私と一緒にここに住んでおられるのだ
と言う感覚には確かなものがありました。
(もちろん感覚が総てであるとは言いませんが)

それからもう一つ
白髪の66才になっても?例えば「山暮らし日記」等と言う
タイトルではなくもっとロマンチックで詩的なものに
して見たいという一寸気取った私らしい考えもあったことは
事実です。実の所「山暮らしのキリスト」は
そう言った気持ちから出てきたタイトルなのです。

ですから
私にはもちろん「イエス・キリスト」と書いた表札を小屋の入口に
ぶら下げて見たい等という気持ちはありませんでしたし
当然今もありません。私のようなどうしようもない罪人がどうして
「私はイエスキリストです」等と真面目に名乗ること等出来ましょう。
もしもそうであるならば、私は精神病の病人か、
何か陰謀をたくらむ小ペテン師に違いありません。

しかし、
K さんは 以上のような「低いレベル」で私に質問をされたのではない
ことは明らかです。そうです、パウロは「私は十字架に付けられた。
生きているのは私ではない。キリストが私の内に生きておられる
のである。」(ガラテヤ2の20)と断言しました。
なぜならこれはパウロにとっては明らかな事実であったからです。
それでは このことの真の意味は何なのでしょうか。
私達はそのことを真面目に考えなくてはなりません。
この時私達は これはパウロのような限られた偉人にしか言えない言葉
なのだ等とあまりにも簡単に片付けるべきではないのです。

ここには「キリストとキリスト者の結合」というとても大切な
新約の真理が暗示されています。生きているのはキリストであり、また
パウロでもあったのです。彼らは共に生きたと言えるでしょうし、
パウロの肉体を通してキリストが生きられた、とも言えるでしょう。
これは何と私達を魅了することでしょう。
何故なら、ここに「神と人との愛のかたち」の極致があるからです。

しかし、問題は更に高く深く大きくなります。
それは私達キリスト者を含む「今日の奥義的なキリスト」の存在です。
そのことと「キリストの復活は神にとっては新しい人の誕生である」
(ここにこそ神の大いなる喜びがあった。)
とする新約聖書の強い主張とはとても密接な関係があるのです。

以上の極めて奥深くも 同時に極めて実際的効果的であり、
従って今日の「総ての」キリスト者にとって決して
ただ目の前を素通りさせてはならない聖書の真理について、
これから順次 交わって行きたいと願っております。

0 件のコメント: