2009年5月31日日曜日

兄弟は主に自分の体を献げた

*柄沢登兄弟の家で(4)*

キリスト者の「人生」は
素晴らしいものであり、その長さは永遠です。その中でも、
今のこの時代、私達が堕落の痕跡が深いこの肉体の中に留まら
なければならない憂鬱な?短い時間帯は極めて大きな価値を持ち
得ます。それは私達が「時間」の中で過ごす時代の尊い前半です。

さて、
残された時間は更に短いであろうと思われた登兄弟と、そしてそれを
見つめる姉妹達に迫った聖霊の働きは正にその一点「時間と朽ち行く
肉体の意識」にあったのではないかと思われます。その結果、何が
この家に起こったのでしょう。それは先ず:

Ⅰ.兄弟が主に自分の体を献げたことでした。
私達の神は不思議な神です。何故なら彼は全能者であられるのに、
私達の自由意志をとても尊重されるからです。ある意味、神は私達に
自分の人生をどう生きるのか、その裁量を殆ど任せられるのです。

しかし、ここに一つの例外があります。
それはキリスト者が敢えて、自分の人生の総ての時間、体、そして
それらに付随する状況一切を神に献げますと、申し出た場合です。
その場合に限り、神は大いに私の人生に「干渉の手を伸ばされる」
と言ってもよいでしょう。またもしそうでなければ、
神は不実であることになってしまうのではないでしょうか。

献身とは「神の愛に促され、神の権利を人が真に認める時、
神に仕えるために神に一切を委ねること」です。
その場合の神の権利とは、御子の尊い御血という代金をもって、
神は私を既に買い取っておられる、と言う神の絶対的な権利です。

当然それは正しく、そこにのみ義が存在します。従って
その様な神に対して、キリスト者が自分の総てを献げない
と言うのであれば、それは明らかに正しくありません。

所が「今の時代においては」神は御自分のその権利を
人にごり押しされることはありません。それは他でもない、
神が人に与えた「自由意志」の故です。

しかしながら、
人がその神の愛と正しさに自ら気づき、  
「私は御子の尊い御血をもって買われたのだから、
私の総ては神の手に委ねるのは当然です」と
主イエスの愛に迫られつつ、
喜んで、自分の総てを神に献げるのであるならば、
神はあなたを、真に御自分の者として取り扱い始められるのです。

この際、とても素晴らしいのは、
彼は自分に与えられた自由意志を正しく用い、
冷静に自分の意志で神の意志を選び取ったことです。
何故ならそれこそが、神とサタンの前において人がなすべき
最重要なことである、とさえ言い得るからです。
(それこそが信仰です。)

何とあの病の苦しみの中、ある日ある時、
登兄弟は正にそれをされたと言うのです!即ち
彼はその環境やひどい感覚をひとまずかたわらに置き、
その神の真理を見つめ、次に
「私の体を主に献げます」と彼の口の言葉を用いる
ことによって、即ち信仰によって、
その真理そのもの(それは主御自身)を
彼自身へと結合させたのです。
(信仰の最も深い意味は「結合」です。)

真にそれは不思議な聖霊の働きでありました。
(その詳細には非常に興味深いものがあります。)
それ以後の、柄沢家における兄弟と、そして姉妹達に対する神の
取り扱いは、その神の真実に基づくものであった、と言えるでしょう。

2009年5月30日土曜日

最後の日々

*柄沢登兄弟の家で(3)*

医師が到着されました。
ある条件のため、モルヒネに代わる一つの強力な鎮静剤が、
兄弟姉妹が静かに見守る中、遂に彼の体内に投与されました。
これ以後、兄弟の方から、人の言葉による皆さんへの
意思の伝達は一切不可能となったのです。

思えばつい先ほど、あの「真夜中の礼拝」の中、
兄弟が、その衰えた肉体の中で真実に歌った、
イエスを褒め称える最後の賛美と、主に捧げられた小さな祈りは
極めて価値あるものであった、と言えるのです。

投与後10分、彼の寝息は深く穏やかになり、誰の眼にも、あの
激しかった嘔吐等の苦しみは、その肉体から完全に離れ去った
ことが感じられました。
それは確かに、イエスから直接与えられた「彼に対するあの約束」が、
既にその生前、その言葉通りに実現されたかのようでした。


そのような兄弟のベッドのかたわらにおいて、
姉妹達の「礼拝」は毎朝続けられました。

その間、信仰の言葉によって、
姉妹達が彼の手を握ると、兄弟は握り返したこと、
声による呼びかけには、かすかにうなずいたこと、また
手を動かして反応することなどが確かに認められました。
それらの彼の動作は即ち、あの15日の深夜、皆さんと交わした
「あの約束」を兄弟はシッカリと実行されたと言うことです。

本当に主に感謝します。
これも確かにキリストイエスにある尊いコイノニヤ(交わり)
であったのであり、更に言うならば、姉妹達はその数日、主に愛され、
主の御使いの手によってアブラハムの懐の「完全な安息」に今にも
もたらされようとしていた一聖徒との、極めて貴重なコイノニヤを
楽しんでいたのではないでしょうか。

そんな中、
彼は自ら、両手を胸の上に組む姿勢をよく取っていたのですが、
それはあたかも、彼がずうっと主との交わりの中にいたかの
様であった、と姉妹は言われるのです。

5月19日、午後
外部からの入浴サービスが行われ、全身ツルツルになって、
気持ちよさそうな登さんの様子を見て、不思議にもそこにいる
全員が、とても明るく幸せな気分にされたと言います。

そして、20日の朝8時、
少し呼吸が浅くなったのかな、と思われる中、
一人の姉妹が彼の手を取り祈っていた、正にその中で、遂に彼は、
この地上における最後のひと息を呼吸されたのです。

人は神の御心を知ることが出来ます

普通人の観念の中には、
「あの偉大な神の心が、人などに分かりっこないではないか」
と言うものがあります。私にもその「気分」は大いに分かります。
しかし、それはどうやら間違いのようです。

人は神の御心を知ることが出来ます!
その大きなスケールにおける神の御心から、何とあなた個人に
とっての大切な事柄、に関する神の御心までも。

さて、一般的に言って、
私達は相手の心や意志をどのようにして知るのでしょうか。
条件は二つです。先ず一つは、あなたが相手の心を知りたいと「真剣に」
願うことです。この点で、それが少しでもいいかげんなもので
あったり、単なる興味本位のものに過ぎないとするならば、相手は、
大切な自分の心の底を、あなたに明かすことなどあり得るでしょうか。
そんなことは不可能です。あなたが「心底知りたい」と思うこと、
これが条件Aです。

もう一つの条件はその相手が、彼の心をあなたに明かしたい、
と本当に思っていることです。
もしそれが無ければやはり、あなたが彼の心を知るのはまず
不可能でしょう。これも当然のことです。
これを条件Bとしましょう。

結論から言って、
この二つの条件の内で、問題になるのはAです。
実は、Bの方には問題が無いのです。即ち神は真剣に、あなたに
彼の御心を明かしたいと思っておられるのです。よく神を知って
いる人が言いました。条件Aが満たされたのであれば、神には 
その心をその人に知らせる責務がある、と。即ちそれは
「神の責任」であると言うのです!どうやらこれは本当のようです。

聖書でも次のように言っております。
「神が・・御心にかなうことを私達の内に行い、あなた方が
御心を行うことが出来るために・・・」(ヘブル13の21)

ここには、キリスト者に対して「ゼヒ私の心を実行して欲しい」
という「神の篤い心」が示されています。もしもそうであるならば、
神は「それでは彼に、ゼヒとも私の心を知らせなければ」と切に
思っておられるに違いないのです。

あなたが真剣に神の御心を知りたいと願い、あなたの心を
真っ直ぐ神に向けることが出来るならば、即ち
あの条件Aをあなたが心から満たしさえすれば、
あなたは必ず神の心を知ることが出来るのです。

2009年5月29日金曜日

真夜中の礼拝

*柄沢登兄弟の家で(2)*

それは、
5月14日から15日にかけての夜のことでした。
佐倉の柄沢良子さんから、となり町・酒々井(シスイ)在住の
お姉さん、渡辺姉妹に突然電話があり、渡辺ご夫妻はあたふたと、
真夜中1時45分、柄沢家に駆けつけたのです。

着くとベッドの上に上半身を起こした登兄弟は、
シッカリとした表情で次のように言われたといいます。
「実を言うと、イエス様が私に語られたのですよ。
:これまであなたはとても苦しんだ、
しかし、忍耐はもうそれで充分です」と!
「ですから、私はこれで安心です。もう痛め止めの座薬は
使いません。たとえ私は意識を失うとしても、これから医師に
来てもらい、注射(モルヒネ)を打ってもらいたい、
と思っているのです。」

続けて、兄弟、
「皆さん、本当に有難うございました。これは先ず、
私の妻に心から言うことです。そして和博さん達、
これまで大変お世話になりました。」

驚いた皆さんは、そう言う登さんを「励まし」
「まあまあ、大丈夫だから」と言ったのですが、
兄弟の決意は随分しっかりしたものであったそうです。

ですから更に、
次のようなことに話は移って行ったのだと言います。
「登さん、その注射をすると、たとえ登さんに意識があった
としても、話はもう出来なくなるそうですよ。ですから、
その時のために、登さんの方からの合図を、今決めておきましょうか。
そんな時、こちらかはドンドン語りかけるからね。」
その話が終わったとき、登さんの顔に安心の表情が浮かび、
その部屋の中に一段落ついた、と言う空気が漂よったのです。


賛美を歌うことになりました。
そして、登兄弟がそれまでの短い信仰生活で覚えた三曲を、
少し近所に気兼ねしながら、皆で歌ったのです。
♪賛美、賛美、ハレルーヤ・・
♪栄光、イエスにあれ!・・

登さんは苦しげな中、吐き気を覚えつつも、
声を出してシッカリと歌ったと言います。
更にその後、彼はハッキリと言いました、
「イエス様、有難う、感謝です!」

15日深夜から、夏の早い夜明けに至るその時間、
四人は、医師の到着を待ちました。
それは真に「真夜中の礼拝」であったと言えるでしょう。

回り道

*神の御心のままに(3)*

私達が真にキリスト者になったのなら、ぜひとも
①神の御心を受け入れることと、
②神の御心に「総てを支配させること」
を学ばなければなりません。
もしも、あなたが神の御心のもとに従順に服することが
出来るのなら、回り道をすることが少なくすむのです。

多くのキリスト者が失敗し、また命の成長が遅いのは、
自分の意志のままに行うからです。
自分の意志のままに行う結果は、
(霊的な)混乱の中の苦しみと貧しさです。

しかも、不思議なことに、最終的には、
あなたは神の御心に従わなければならなくなるのです。
何故なら、神はあなたの為に、絶えず総ての物事を通し、
またいろいろな環境や状況を創り出して、
あなたを御自身に服させようとされるからです。
あなたは神に対し、その神の意志を変更してもらう
ことは全く不可能です。

もしもあなたが「神の選び」に
あずかっていないのなら、
神はあなたに、あなたの好きなように
させることでしょう。
それは「最大の不幸」です。

しかし幸い、
あなたが神に選ばれているのならば、遂には神は
御自分の全能の方法で、あなたを御自分の前に連れてきて、
いずれ必ず、服従の道を歩ませることになります。

ですから、総ての不従順というものは、単にあなたに
多くの回り道をさせるだけです。しかし、結果的には、
あなたは、神に服するようになるのです。
(先人の言葉より)

2009年5月28日木曜日

柄沢登兄弟の家で

この過去数ヶ月間、
これから私が語りたいと思う柄沢兄弟の家で起こった様々なことは、
私達の記憶にも留めておくべきことではないだろうか、と感じております。

新約聖書によると、二千年前キリスト者達は決して教会堂に集まったのでは
なく、日常生活の中、家々で集まりました。ですから「家」と言うものには、
主からの大切な深い意味あいが隠されている、と思われます。

おなじみの使徒行伝16の31「主イエスを信じなさい。そうすれば、
あなたもあなたの家族も救われます」において「家族」と新改訳聖書で
訳された原語は何と、ただ「家」(house)です。だからこれを直訳すれば
「主イエスを信じなさい、そうすれば、あなたもあなたの家も救われます。」
となるのです。ですから、ここでの意味あいは、今日私達日本人が想起する
「家族」に留まらず、言わば「その家に付随している人々」をも
意味していたことは明らかでしょう。現に、同意語として
32節では「家にいた者」となっております。

(ですからここに、二千年前のエクレシアにおけるキリスト者達の
日ごろの姿、あり方が暗示されてはいないでしょうか。
確かに、彼らは家々に集まっていたのです。)

聖書の記述によれば、その家の一人の人(主人)が経験した
驚くべき救いは、たちまちの内に、その家に付随する
総ての人々に極めて大きな影響を与えました。

この僅か4か月の間、柄沢登兄弟の家に、奥様・良子さんの
お姉さん達は当然のこと、他の人々も出入りをしたのです。
確かに、登兄弟が主を真実に受け入れた日からと言うもの、
「目を見張るような」と言ってもよいほどの、キリストの
素晴らしい救いと、神の深い祝福が一人登兄弟に留まらず、
「この家全体にも」訪れていたことは実に明らかです。

私は少し大げさなのでしょうか、
この数ヶ月の間、登兄弟の家で起こった一つ一つの出来事は、
「主がいかにエクレシアを愛しておられるか」と言う「これから始まる
壮大な物語」の序曲のようにさえ、思われるのです。

ある誤解

*神の御心のままに(2)*

私達の得た命は基本的に「神の御心に従って歩むように」と
私達に要求する命です。

私達が神の御心通りに歩めば歩むほど、内側に益々喜びと自由がある
ようになります。また、そのようにすれば神の御前に歩む道が更に
スッキリと真っ直ぐになって行きます。

もし、逆にかつてのように、自分の意志に従って行動するなら、
不思議なことに、楽しくないだけでなく、道はややこしくなり、
かえって人は苦しむことになります。何と自分の意志のままを行えば
行うほど苦しくなり、喜びが失われてしまうのです。

しかし、新しい命に従って行動すればするほど、神の御心通りに
行えば行うほど、それは決して「きゅうくつ」ではなく、逆に
更に平安になり、確かな喜びが到来するのです。
これは実に不思議な事実であると言わなければなりません。

よくあるように、
あなたは決して「自分の意のままを行えば、幸福になり、きっと
自由で楽しい人生を送れるに違いない」等と誤解してはなりません。
それは極めて大きな誤解です。

その反対に、主を信じた後、自分の意志に従うのではなく、神の御心に
従うこと、神の御心通りを行うことを「真剣に学ぶ」ならば、その道は
平安と喜びの道であることがよく分かるでしょう。キリスト者の真の
喜びは、①神の御心通りに行うこと、②自分の意志に従って行わないこと、
この二つ(一つ?)にあるのです。これはとてもハッキリした事実です。

2009年5月27日水曜日

自己複製現象

自己複製現象は細胞や生命体の基本的な性質だと言います。
その余りに神秘的な細胞の生命現象を基として、キリスト者の
「素朴で小さな交わり」が、バベルの塔のように上方にではなく、
四方八方の横に水平にそのツルを延ばし、地上にある「敵の王国」
を常にまじかに見下ろしつつ、地の果てに至るまで成長して行く。
それはあたかも「あのブドウの樹」のようではないですか。

それこそ、キリストの体における成長の正常な姿に相違ありません。
使徒行伝に見る「こうして神のことばは、ますます成長し、弟子の数は
非常に増えて行った」と言う事実は、きっとそのような天的生命現象の
地上への現れであったのでしょう。その時、主役は多くの「名も無き
普通の兄弟姉妹」であり、舞台は日常の人の暮らしです。

一方、極めて不健康な増殖現象もあります。
それはある細胞を元とし、他を顧みずに、どこまでも侵食肥大し、
あるカタマリを形成して行く現象です。あたかもそれは細胞が「ある
見えないエゴ」によって、ある方向へと強力に「つき動かされて」いる
かのようです。それはいずれ、体全体に死をもたらすことになります。

しかし、
主が再び来られる前、いわゆるキリスト教の世界の中で、
「単純にキリストのみを信じるという信仰」が殆ど失われる時、必ずや、
人の目には隠された方法で、再びあの天的ブドウの樹の生命現象が、
地上のいたる所に再現されるであろうことを、私は信じているのです。

・「私は真のブドウの樹、あなた方は枝です。」(ヨハネ15の5)
主はブドウの「幹」ではなく、ブドウの樹の全体です。
だから主は枝でもあられるのです!
・「人の子が来た時、果たして地上に信仰が見られるであろうか。」
(ルカ18の8)

神の御心のままに(1)

*先人の言葉より*

救われる前、
私達は総て自分の心のままに行っていました。その頃、私達は
自分自身に仕え、自分自身を喜ばせていました。自分の喜ぶ
ことであれば、何でもそれをやっていました。

しかし今日、
私達は主を信じる者となりました。キリストイエスを救い主
として受け入れました。また今彼は 私達が仕えるべき主であり、
私達は主に買い戻された者、主に属する者、主に帰された者、
であることを認めました。

ですから、
救われた後、私達には根本的な変化がなければなりません。それは
私達の行動や人となりが、もはや自分の好みによるのではなく、
神の御心通りでなければならない、と言うことです。主を信じた後、
私達の生活の中心は変わってしまいました。この中心は、もはや
自分自身ではなく、私達の主御自身となりました。

いったん救われたなら、
先ず第一に、私達は「主よ、私は何をなすべきでしょうか?」と
主に問うべきです。パウロはその様に問いましたが(使徒22の10)
私達もそのように問うべきです。また何かの出来事に遭遇した時「主よ、
私の意志のままではなく、あなたの御心のままになさって下さい」と
主に言うべきです。そして自分の前途を決定する時、いつでも主に
申し上げるべきです。「主よ、私の意志のままではなく、
ただあなたの御心のままになさって下さい」と。

2009年5月26日火曜日

みどり山

今日は実にカラッと爽やか、殆ど湿度を感じない
最上の五月晴れです。

午後から「みどり山」に登って見ようかな、と思っております。
目的は、山頂付近にあるはずの、あの「コージーな秘密の場所」が
今どうなっているかを見きわめること、ただそれだけです。
数年前一、二度行ったきりで、その後全く行くことが
なかったのです。本と、今どうなっているのかなー!

この辺のこういう、いわゆる登山をする山ではない低山に
人が入ることは まずありません。
そういう、人が「絶対に」立ち入らない場所で、偶然
湧き出ている泉を発見したり、誰に見られるのでもないのに、
野の花々がひっそりとたたずむのを眺めたりするのは、
何だか凄く贅沢な気分のものです。

最近は、熊が出たから注意の「たて看板」は見なくなりました。
でも、今日イノシシくらいは出てくれてもいいですね。
みどり山に行くんだったら、この間ジョイフル・本田、
千葉ニュウタウン店で見かけた、
腰に付ける「熊よけベル」は買って来るべきでした。
惜しいことをしました。

☆結果報告:
今、午後六時五分。やはり少々疲れました。
残念ながら、あのポッカリと気持ちのよい「秘密の場所」は
とうとう見つかりませんでした。でも、なんででしょうねー。
とんでもない勘違いでもしたのかな。
低山とは言え、山は山、あんなとき、あまり深入りすると危険です。
そういうわけで、ほどほどにして帰って来たと言うことです。
今日は、イノシシも熊も出ませんでした。

2009年5月25日月曜日

御心と神が与える喜び

*先人の言葉(2)*

神の御心と「神が与える喜び」の間には大きな相違があります。
神の御心は、いつでもどこにでもあります。何故なら、私達は
それを、私に対する神の按配・配剤の総てに見るからです。

しかし
「神が与える喜び」はいつもあるわけではありません。
それはある状況の中で、時々経験され得るものでしょう。
もしも信者が神の喜びのみを追い求めるのであるならば、彼は
独自に、自分自身を楽しませてくれると言う「神の御心の一部」
だけを願うことになります。
彼は「神の御心の全体」を望みません。神が彼を幸いにする時だけ、
彼は神の御心を喜び従います。しかし神がいったん彼に苦しみを与える
ならば、彼は神の御心に反抗します(従いません。)

しかし、
もしも信者が「神の御心を命とする」なら、神が彼にどのように感じ
させようとも御心に従います。何故なら、彼は幸いにも悲しみにも、
彼に対する「完全な神の按配・配剤」を認めるからです。

2009年5月23日土曜日

神を信じると言うこと

*新・メール感謝です*
「それ」は自分にとって
決して決して嬉しいことではありませんでした。
ところが、
主は私に迫るように語られたのです。
「あなたにそのことが与えれたこと、
それにあなたは同意してくれますか?」と。
そこには主の深い深い愛がありました。


メール感謝です。
その時の「深い深い愛」とは「あなたの感覚」をさえ超えた、
「その向こうにある」不動の主の愛なのでしょう。そうです、
ただ一言 主は私達に言いたいのです、
「たとえそうであっても、私を信じなさい」と。

一体、信じるとは「本来そういうもの」なのではないでしょうか。
嬉しいとき、悲しいとき、苦しい時、その他どんな時にでも、
それらの感覚はひとまず「かたわら」に置いて、或いは「無視して」
神を信じ主に従うこと、それだけを主は願っておられるのでしょうね。
(何故なら主は御自身にとても大きな自信があるからです!)

更に言うならば、
とても信じることが出来ないような状況や、私の「ひどい感覚」の中でこそ
「信じるという価値」が浮かび上がるのです。なぜそんな事が言えるの
でしょう。なぜなら、私達の信じる対象が「神」であるからです。
「あの偉大で素晴らしい神」であるからです。「その神」であるからこそ、
私の感覚が干からびて無味乾燥、豊かな感覚が何も無いとしても、
また仮に、神にさえ捨てられたのではないかと「感じさせられる」
ような時でさえも、信じることが出来る、のではないでしょうか。

さて本来信じるとは「自分がどう感じるているか」とは
何の関係もない筈です。人は自分の感情や感覚にどうして
それほどまでに左右されるのでしょうか。むしろその方が極めて
不思議なことである、と言わなければなりません。(多分実はこの点に
大きな深い敵の秘密・ウソが隠されている、と私は考えております。)

信じるということの「本質」は、興奮することとは全く無縁な、
①信じる対象が一体誰であるのか、またどうであるのか、
と言う「私の評価」が先ずあり、次に
②私に与えられている自由意志を行使し「そのお方or その言葉」を
選び取ると言う、ある意味で一つの「冷静な作業」である、と言える
のではないでしょうか。(当然その後に、信仰の結果として賛美や
感謝など、感覚的、感情的な世界が展開することは充分あり得る
でしょうが、それらは「信じることそのもの」ではありません。)

だからこそ、これまで、
神によって、私達に、時に与えれる感覚的でウットリとするような
「天的な日々と時間」は決して長くは続かなかった、のでは
ないでしょうか。それは、主が敢えてわざとそうなさった結果
なのでしょう。いかなる場合でも、どんな物や事によっても、
揺さぶられることなく(或いは最小限に止どめて)「ただ
神の言葉を信じ、主の御心に従うように」という神の明確な
強い意図がそこに存在していたから、に違いありません。


神はあなた方を「子として」取り扱っておられるのです。
(ヘブル12の7)

十字架の更に深い働き

*先人の言葉から*

「健康の喜びなどの外側の身体上の幸い」や
「この世の楽しみ」に対して私達が死ぬ時、私において既に
十字架の最も完全な働きはなし遂げられた、と私達は思うかも
知れません。

しかし、
私達の旧創造を取り除く神の働きの中には、まだ
十字架のより深い働きがあることを、私達はあまり知りません。

神は私達が「神が与えて下さる喜び」にさえ死に、ただひたすら
「神の御心」に対して生きることを願っておられるのです。

肉的な事や世的な事よりも、神と神を近く「感じるならば」
私達は幸いを覚えるかも知れません。しかし、神の目的は
神が下さる喜びを私達が享受することでさえなく、
ただ彼の御心に従うことです。

「神が喜びを与えて下さること」だけを願い、苦難を嫌うのであれば、
私達はまだ、十字架のより深い働きを経過しているとは言えません。

「私達は・・信仰によって生きている。」
(ガラテヤ2の20、ローマ1の17、Ⅱコリント5の7)


この文においては、
十字架の第一と第二の働きについては全く述べられておりません。
僭越ながら、ここに十字架の働きについて、その一部を
敢えてまとめようとすれば、以下のようになると思われます。

第一はキリストの御血による複数形の罪の洗いです。
第二は「罪、肉」に対する私の死です。
第三は「健康の喜びなどの外側の身体上の幸い」や
「この世の楽しみ」に対する死です。そして、
第四は「神が与えて下さる喜び、例えば燃えるような愛や
主の臨在の実感、昇天の超越した感覚等」に対してさえ、死ぬことです。

第三で述べられていることの多くは決して「悪」ではありません。
しかし、確かに旧創造には属するでしょう。
第四は、普通キリスト者の到達するべき最高の高嶺、
とされているものです。
第三は十字架の深い働きであり、第四は十字架の更に深い働き、
であると言えるでしょう。
これらは禁欲による達成などとは全く無縁です。

先ず私に対してそれらの達成に関して強い願いが与えられ、そして
その真理について天からの①啓示、そして②信仰を通して、
「永遠の領域におけるキリストの十字架」の効力が、真に時空の中に
伝達される時、初めて私においてさえ③経験 となるはずです。

2009年5月22日金曜日

息子の葬事(4)

今回、
私の「直覚」の中に「息子の葬儀は家族だけでよい」と言うものが基本的に
あったように思われます。ですから、その基本にそって他の総てが無理なく
付随的に決定されて行ったのです。
かように、どんなことをする場合でも、先ずキリスト者の「直覚の中に
何があるのか」はとても大切なことではないでしょうか。

「葬儀」はいつ行われるべきか:
それは、やはり、ひつぎ(棺)を保管場所から火葬場へと搬送する直前の
ひと時がいろいろと都合がよいと思われます。
(むろん火葬後に、日を改めて行うことも可能でしょう)

次に考えるべき極めて大切なことは、
「いわゆる葬儀という集まり」に何が必要なのか、と言うことです。
私はそれを、イエスキリストとキリスト者達 と考えました。
即ち、それはそのような場合、どうしてもそこに必要なものは、唯二つの
もの「主イエスとキリスト者達だけ」であると言う意味です。

これ以外に一体何が必要なのでしょう。
もしもこの二つ以外に何かが必要であるとすれば、それは、
その場の雰囲気を盛り上げる為の何かでしょう。

しかし、生けるキリストとキリスト者にとって、その場のムードを掻き立てる
ための専門家とか、大道具、小道具など本当に必要なのでしょうか。
それとも、そのようなものがどうしても必要とされなければならない程、
キリスト者の中に生きるキリストイエスの存在は小さいものなのでしょうか。
そして、肝心かなめである私達の主キリスト御自身は、
そのような「者や物」を本当に必要と思われるのでしょうか。

そうです、
本当に必要なものは、生けるキリストの真の存在であり、
キリスト者達が「故人をしのぶ心」を背景とした、神への感謝と賛美だけ
でしょう。もしもそれさえあるならば、そこにはもう既に「葬儀に必要な総て」
が準備されているのです。しかし、
もしそれらが本当にないのであれば「真実なる何物」もそこには
存在していない、と言うことになるのではないでしょうか。

(余談ですが、このように考えると、葬事の集まりも「普段のキリスト者の
集まり」と、その本質的な意味では何も変わらないように思われます。)


と言うわけで、当日その時、そこにあったのは、
一切の装飾のない和室、息子の簡素なひつぎ、そして私達遺族4人
だけであったのです。式次第も事前の準備も何もありません。
キリスト者が顔を合わせる時、何がどう進んで行くべきかは、
その時になれば、「無理なく自然に」分ってしまうのです。
そうであってこそ「人の意志を尊重される聖霊」も、その場への介入が
可能となるのです。そうでなければ、人は本当に聖霊なる主を戸の外に
締め出してしまう、ことになりかねません。

そのようにして、あの時 そこには
祈りと賛美、ジュンをしのぶ交わりと少しの涙、そして上からの
「暖かいとさえ言えるほどの慰め」だけがあった、と言えましょう。
不思議に、誰の目にとっても、そこに存在したはずの
「唯一つの小道具」、「ひつぎの上の美しい花束」も
僅かの印象さえ残すことがなったのです。

今確かに言えること、それは
あのささやか極まりない「葬儀」におけるシーンの一こま一こま、
それを私は、一生決して忘れることはないであろう、と言うことです。


☆          ☆
注「私の直覚」:
この場合、それはいわゆる聖書の真理における「聖霊からの直覚」
と言う意味ではなく「人がその最も深い存在において、無理なく真実に
感じているもの」と言う限定された意味で使用しました。


多くの場合、当然、
キリスト者達が、やむなく関わらなければならない葬儀には
その出席者達の多様性に伴い、多くの難しい人間関係が付きまといます。
ですから、私の裁量に総てが任せられた今回の、
「とても小さな葬儀」と言うケースは一つの参考に過ぎないでしょう。

とにかく「一切が無理なく自然に行われる」のであるならば、それが
どんな葬儀であったとしても、よしとされるべきです。
何故なら葬儀がどう行われようと、キリスト者である故人の霊は神によって、
完全な守りの元にシッカリと護衛されているのですから。

2009年5月21日木曜日

息子の葬事(3)

今回の私の息子の場合、
彼の葬事の為の備えは、既にその死の数日前には、
神によって用意されていたように私には思われるのです。

先ずは
上からの促しによって、息子のために祈って下さるようにと言う
父親の求めに応じ、エクレシアの中に、広く、緊急で切実な
祈りが突然として起こされたのです。

ですから、彼の葬事は、そのエクレシアにおける祈りから
既に始まっていたのではないでしょうか。
間もなく(二日後or三日目)彼は、人の全く予期し得ない方法で、
アブラハムの懐に迎えられ、
そして次に、葬事は、それを聞いた「エクレシアの驚き」と、
次第に明らかになった様々な事実の証しを通し、大きな深い
神への感謝と賛美となって、進行して行ったのです。
今まだ続いている「余韻のような やさしい慰めの調べ」は
いつその終わりを迎えるのでしょうか。

以上のことこそ、
「息子のための葬事の実質と価値」であったのであり、
「家族4人だけによる、祈り、語り合い」と言う「いわゆる葬儀」は、
そのささやかな「一部分」に過ぎなかったのです。


「本当に大切で価値あること」は、
人間生活の中の、喜びと悲しみが織り成す普通の出来事の中でこそ、
粛々として行われ、現わされなければならないはずです。

いにしえの日、
その人間生活の、むしろ苦しみと悲しみのただ中に敢えて介入され、
その中でこそ、御自身の真の姿を現わそうとされたのが
「あの福音書のイエス」だったのではないでしょうか。
今日、見えざるそのイエスの出現そのものこそ、
「葬事」における「真の価値」に違いない、
と私は考えております。

三つのブログから

この教会はキリストの体、すべてのものをすべてものの中に
満たす方の充満である。(エペソ1章3節、22節、23節)

「充満」とは:
時間的要素は全く無く、諸々の存在がキリストを中心に
1つ1つ有機的に結合されて内容的に豊かな大宇宙を
形成していく様の表現。(岩波訳の注解より)


人間の指揮によってではなく、頭なるキリストの指揮によって
「群れる」のであるならば、それを神の言葉は
「すべてのものを、すべてのもののなかに満たす方の豊満」
であると言う。

頭としてのキリストが、
アリアリと(有り有りと)、エクレシアとしての体、即ち
「信仰に堅く立つ天的な群れ」を通して、ご自身を顕現なさり、
更に、ご自身を1人1人の召された者たちの中に
拡大し続けて行くのである。

目に見える事柄が解決されれば、確かにそれは良き事には
違いないが、地上的な事柄を越えて「天的な復活の領域の何ものか」
によって祝福され、人は初めてキリストを慕い続けることができる
のだと思う。

・・その事のために人の作る柵はいらない。
箱庭のような「教会」はいらない。必要なのは「地に散らばっている
霊の子どもたち、を治めているのは、頭なるキリスト御自身である」
という信仰だ。
もしそれがあるなら、聖霊は私たちを、いつも「豊かな牧草地」に
導いてくださるに違いないのだから。

☆              
やはり鍵は、「それら」とは一切関係ない
素朴な兄弟姉妹たちの交わりですね。
今「まことの頭」に直結する兄弟姉妹たちが起こされつつあることは
大いなる励ましです。単純・素朴・ただキリストのみ・・・。

☆              
キリストの「からだ」が受ける苦しみ、病、深刻な問題、逆境 
これら一つ一つは、神の民の中で、
「キリストが大きくされる」ためにこそ、備えられたものでしょう、
わたしたちは、恵みへと至る確かな道を獲得しているのですから。 

2009年5月20日水曜日

柄沢兄弟のこと

私達の愛する柄沢兄弟が今朝、8時20分、
人生の総ての労苦と大変な肉体の苦痛から解かれ
「主の更に濃い臨在」の中へと、
「完全な神の安息」の中へと、帰られました。


おととい、
いつもの午前の交わりのさい、
姉妹が「これから礼拝するからね」と言ったら、
兄弟は「アーメン、アーメン」と声を出されました。

昨日の朝は、兄弟、大きく両手を上げ、
その呼びかけに応えられたと言います。

そして昨晩。

以下は
姉妹からのメールです:

「お風呂に入るよー」と言ったら、
彼、「うん」と返事をしましたよ。そして、
大好きなお風呂を終え、ピカピカになり、
今寝息を立て、
とても安らかな顔をして眠っておられます。

冠婚葬祭について

当然ですが、
冠婚葬祭をどう扱うか、については、それが私とどの程度関係が
あるのか、どれ程、私の裁量に任せられているのか、が大きな
前提です。その状況がもしも私に100%委ねられているのであれば、
私は、神とそして人々の双方が出来るだけ満足出来るやり方で行いたい、
と思うでしょう。即ち、このようにすれば、人々に神の祝福が
伴うであろう、と言う理想的なやり方のイメージは確かにあるのです。

しかし実は一方で私は、冠婚葬祭などどうでもよい、と考えております。
何故なら一つに、現実問題においては、複雑雑多な多くの要素がそこに
からんで来るからです。慶弔の問題は実に生きている人間の問題です。
そして人々は、他と妥協できそうもない様々な
考え方をしっかりと持っているからです。

しかし、人生にどうしても妥協できない問題など、そんなに沢山は
ありません。「なくてならぬものは多くはない、いや、実はそれは
唯一つです。」ですから 取りあえず、それがその状況の中で
「無理なく自然に」行われるのであれば、それでよし、とするべきです。
慶弔のことは絶対こうでなければならない、等といくら息巻いて見た所で、
それは、現場に要らざる混乱を来たらすのみで、
大した意味も価値もない、と私は思っております。

仮に、今回ある事情の為、
我が息子の葬事が私の手から100%離れて「その道の専門家や宗教家」
に任せざるを得なかったとしましょう。その場合、私はどう思うの
でしょうか。多分、随分お金がかかっているらしい、そのケバケバした
葬儀をかたわらで見て私は、確かにある不快感は持つでしょう。しかし
「私の霊」は少しも動揺することはない筈です。なぜなら、その葬儀に
よって、肝心の息子のパラダイスにおける現実が1%の影響さえ
受けることは絶対にあり得ない、ことを私は確かに知っているからです。

肉体を離れた故人は完全に神の裁量の領域へと移されます。そこに
人間が僅かでも介入する余地は全くありません。この世とあの世の間
には大きな淵が横たわっているのであり、そこには神の主権のみが
存在するのです。神は少しも揺らぐことはあり得ないし、故人にも
何らの変化もありません。それらは全く不動です。(*1)

しかしその儀式によって、今生きている人々は影響を受けるでしょう。
そうです、葬儀とは「死人の為」を装った「今生きている人のためのもの」
です。繰り返しますが、儀式によって、既に神の中に移された故人が
影響を受けること等決してありえません。

また結婚の場合であれば、大切なのは、そのお二人がどうであるかです。
従って儀式などはどうでもよい事であり、自分達で自由に 
「祝福の集まり」でも行えばよいのではないでしょうか。

(*1)
もしも仮に故人が、生きている人の
①生活状態の立派さや、また
②故人のために出費するお金の額、
③専門家や俗人の念力や祈りのパワー等によって
少しでも影響されるのであれば、それこそ大変です。

生きている人はいろいろですし、出す金額も変われば、
祈りのテーマも様々な上に、その念力パワーの出力も
必ず変化するでしょう。

もしそうなれば「黄泉の国」は実に困ったことになります。
そこの住人達は常に右往左往、上がったり下がったりで、
毎日が「大いそがし」に違いないからです。

2009年5月19日火曜日

今日 山に向かいます!

いよいよ今日、山に向かいます。
ちょうど一月半ぶりです。今回の旅はひとしお
感慨深いものとなることでしょう。

しかし、途中 青い大海原や美しい阿武隈の山々を遠望し、
私は、ついうっかり息子の名を呼んではなりません。
どこから飛来するとも分からない、
何者かによる甘い不思議な誘惑には要注意です。要するに
私は息子と「直接」交流しようとしてはならないのです。
(そこにはある、危険な「メカニズム」が確実に存在します。
それについては、いずれ述べる機会もあるでしょう。)

しかし、間接的には可能です!
それは、「私はキリストとの交流を通して息子を持つ」
と言うことです。それは必ず「今日のキリスト」との交流
を介在させること によらなければならないのです。

「パウロであれ、ケパであれ、また世界であれ、命であれ、死であれ、
また、現在のものであれ、未来のものであれ、総てあなた方のもの
です。あなた方はキリストのものであり、キリストは神のものです。」
(コリント3の22、23)
ですから、とても確実な意味と実質において、
今息子は真に私のものです。

このように見るとき、当然
今生きている兄弟姉妹とは直接的な交流も可能なのですが、本当は
それとて、キリストとの交流を介入させるべきなのでしょう。
とにかく、キリストの介在しない交流は総て危険要素を含むのです。
それはいずれ必ず腐敗→死、を生み出します。それは「この世の霊」
(Ⅰコリント2の12、エペソ2の2)の働きによるのです。

今日は快晴。私の旅も
きっと健康で爽やかなものとなることでしょう。

下山は6/5あたりになると思います。

2009年5月18日月曜日

息子の葬事(2)

実際的、具体的にお話して見ましょう。

(1)病院から遺体が家族に渡されるまで、
「その現場」から、病院に運ばれた息子・・
それまでも懸命に行われた心臓マッサージは、その後も
そうとう時間 続くことになりました。これはおおむね遺族の心情を配慮
してのことなのでしょう。(救急救命士の皆さん、長時間本当に有難う
ございました。)そして遂に、正式の死亡時間が確認されると、

医師やその他の方々がその部屋から全員退出され、病院は
息子のなきがらと私達だけをその部屋に残してくれる、
という心配りを示してくれました。

そして、私達の気のすむ迄と言う時間の後、
看護士さん達は、遺体を別室に運び、その処置をして下さいます。
その処置の後、白い浴衣をキレイに着せてもらった息子の遺体は
病院の安置室に運ばれます。
この段階は即ち、病院から私達が「遺体をこの安置室で受け取った」
と言うことを意味しているのです。これで
病院としての責務は総て完了したのです。

(2)葬儀屋さんへの依頼
従ってこの時点から、葬儀屋さんに私が依頼したことを、彼らが
実行してくれる、と言う段階に入るのです。
それでは、私は葬儀屋さんに何を依頼したか、それは・・

①病院から葬儀屋への遺体の搬送、
②公共の火葬場で火葬が可能となるまでの、多分一両日の間、
保管場所(葬儀社の一室)での遺体の適切な(防腐等)保護、保管。
③その日になり、火葬場への遺体の搬送です。

要するに私は、葬儀屋さんに対して
保管と搬送と言う、この二点のみを依頼したことになります。

(3)ダビに付す
その日になり、火葬場に着くと、遺体は葬儀屋さんの手から離れ、
公営の火葬場で働く「お役人」の手に渡されます。
最後に彼らから、遺骨が私の手に渡され、一切が終了するのです。


日本においては埋葬の前にダビに付すのが通常です。
ですから以上の行程が、遺体をどうすればよいかと言う、その
「ハード面」の総てである、と言ってもよいでしょう。
一つハッキリ分かった事として「ハード面」だけを見る限り、
葬事と言えども、それはそんなに難しくも複雑なものでもない、
ということが言えるのではないでしょうか。


実際的には、少なくも
(2)の①までは、特に私が彼らに どうこう言わなくとも
(病院と葬儀屋の手によって)事は機械的に運んで行きます。

今回の場合、遺体が葬儀社に運ばれ安置された段階で
業者との最初の交渉が行われたのです。

2009年5月17日日曜日

「生」から「卓越した生」へ

葬事とは埋葬することです。ですから、
人の体が死を迎えたら、なるべく早くそれを地下に
埋葬するべきです。それが葬事の本質です。

さて、実は
人が死ぬことは神の御心の中心です。人にとって死は欠くことの
出来ない重要事項である、人は必ず死なねばならない、
それが神の御心です。

しかし神の御心は、それに留まりません。神は人をして
更にその「死の深い認識」に至って欲しいのです。

従って、ある人の死の事を聞いて知るだけでなく、通常人々は
その人の埋葬に立会います。それによって、言わば「死の上塗り」
を目撃しなければならないのです。今あの人は死んだ、彼はもう
この世に戻ることはあり得ない、墓にさえ入ってしまったのだから、
と深く印象づけられるのです。それこそ葬事・埋葬の意義です。


実はキリスト者のバプテスマとはその埋葬を意味します。
信じることによって、神の命を受けたキリスト者は、
自分が既にキリストと共に死んでしまった、と言う認識の後、
更に死の水の中へと自分を埋葬させることをもって初めて、
クリスチャン生活のスタート地点に至るのです。
それがなければ、キリスト者の生活(命ではなく)は
根本的に存在し得ない、と言ってもよいでしょう。

何故なら人は、徹底的な死に至って初めて、
次なる復活があり得るからです。埋葬されること、
即ち絶対に生き返る余地を残さない墓に入ってこそ、
人は初めて復活と復活の生活に至ることが出来るのです。

人は、
アダムから受け継いだ「通常の生、天然の生」を伴ったまま
必ず死の中へと入って行かねばなりません。それによって、
その古き天然の生を完全に終結させ、その上に
埋葬によってその事実を確認した後、
初めて「卓越した生による生活」の中へと入るのです。

その「極めて卓越した、完全に新しい生」、
それこそが、キリストの復活から生ずる
あの永遠の命に他なりません。

父の死

*メール、有難う*

2年前に父が亡くなった時、私が大声で泣いたのは、
その体が、家から火葬場へ運ばれる瞬間だけでした。
しかしその後家中に、深い安息が満ち、
穏やかな雰囲気と変わって行ったことを今思い出します。

生前父が戦っていた長く大変な病の終結と、そして何と、
父のキリストへの不信が死の直前に至り、初めて逆転されたことが、
これほど大きな安息に繋がるとは思いもしませんでした。

死の間際に、やっとキリストを受け入れたのですから、父は
(上からの、力の)聖霊も受けておらず、復活の味わいも
知らないままでこの世を去りましたが、父親っ子だった私が、
人として薄情なのではないかと思われるほど
「悲しみ」に浸ることがなかったのです。
むしろ、父を思い出すとき今も、キリストによって
「隔ての壁」を取除かれた安息が心を満たすのです。

我が子の死は、親の死とは比べることもできないほどに
深い痛みに違いありません。それでも愛する者の死さえ、
キリストの中では安息である、とは何という事実でしょう。

「死は勝利に飲み込まれた」・・・
ほんとうにそうなのですね。

2009年5月16日土曜日

息子の葬事(1)

遺族は肉親の死をただ悲しんでいればよい、と言うわけには行きません。
その死に関わる様々な状況に私達は迅速に、そして極めて具体的に応じて
行く必要があるのです。それはとても過酷ですが、私達は自分の明確な
意志に基づき、シッカリとそこを通過して行かなければなりません。

具体的に言うと、
①誰に知らせ、誰に来てもらうのか、
②遺体に関して葬儀屋さんに何をどう頼むのか、
③葬事をどうするのか、等です。
こう言うと簡単そうに聞こえますが、実際は以上の三点は非常に複雑で、
かなり厄介な問題を含んでいるのです。


ここで最も大切なのはあなたの意志です。これら全般をどういうふうに
行って行くべきか、についての私の意志です。
それでは「私のその意志」は一体どこにあるのでしょう。

それは、私の心の中にあります。それは、
「今この事態の中で、今の我が家にふさわしい、穏当で、無理の無い、
自然な形はどうであるべきか」について、私の最も深いところに存在する
「本当の私」がどう感じているのか、と言う「私の真の態度」です。

それは、私やあなたの最も深い「直覚」(今は「聖霊からの直覚」と
限定しません)と言ってもよいものでしょう。即ち、直覚と言うからには、
あなたはどうすればよいのか、についてあなたはもう既に知っている、
と言うことです。即ち、考えるまでもなく、どうするならば真の私は
平安を感じるのか、それをあなたは、少なくも
「あるイメージとしては」深い心の中に既に持っているのです。
それこそ、あなた自身の真実な声です。

次に、あなたは上の3点について「その真にあなたがよしとすること」
に基づいて一点一点、アーメンを言いながら、その詳細を紙にでも
書いて見るとよいでしょう。それらが上の三点に関する、あなたの意志
ということになります。ですから、あとは、あなたはそれに基づいて
シッカリ実行して行けばよいのです。


しかし実際問題、事はそんなにヤスヤスとは行きません。
何故なら、人の死にまつわるこのような事態に関しては世の中の、
特に葬儀屋さん等の主張する常識、やりかた、通念等が、
その背後に存在する強力な力を伴って、
「あなたの直覚」にジワリと対抗して来るからです。

しかし、もし私が、私の真の声をどこかに押しやり「いわゆる常識」に
何となく屈するとするならば、それはあとあとまでも残る不快感として、
私を苦しめることになりかねないのです。

これは我が息子に関わる、私の人生の大事な一こまです。
それなのに私は人の言いなりになって、自分を放棄することなど、
決してあってはならないはずです。

2009年5月15日金曜日

妻のある文書から

・・当然のことながら
その日、私達 家族の受けたショックと動揺は極めて大きなものでした。
一晩中、泣き明かすばかりであった、ジュンと同じ病を抱える
長男ケンの体調が大いに気遣われたのです。・・・

さて
葬儀の日、葬儀所の和室に遺体を安置してもらい、遺された私達四人は、
神に祈った後(私達は実はクリスチャンなのです)それぞれが、
ジュンについて思うことを率直に語り合うことが出来ました。

実は一年前、私の母が他界した際、牧師さんが聖書から、
「今から後、主にあって死ぬ死者は幸いである。・・・しかり、彼らはその
労苦から解き放されて休むことが出来る。」と言う言葉を読まれたのですが、
その時の母の顔を見て私は正にその聖書で言う安息を感じたのです。
そして、今回ジュンの時も本当に
「ああ、ジュンは今ようやく苦しみから解きはなされたのだ」と言う実感が
あり、私は大きな安らぎと慰めを得たのです。

その和室での時間は短いものでしたが、それは正直で、飾り気のない、
何か慰めに満ちた、とてもよい時間となりました。
それでそのあと、私達は元気を取り戻し、火葬場へと向かったのでした。

さてその日一切を終えたあと、私の心が「あるところ」に収まって行くのを
感じました。そしてそれを境に、日一日と私の心が軽くなって行くのを
覚えたのです。そしてそれまでは決して見えなかったものが、
次第に見えて来るようになって来たのです。

とても不思議なのは、ジュンのことを思い出だすとき、心に浮かんで来る
のは決まって、とても爽やかで安心し切っているジュンです。何と
それは家族全員が共通に感じているジュンについての
思いでもあったのです。

彼の生前の苦しみは、それはそれは大変なものでした。
ですから今私が正直感じるのは、よくもあの体(様々な弱さを持っていた)
そしてあの病を抱え、35年も生きてくれた、と言う思いなのです。
また、私達家族も彼と一緒に、決して晴れることの無い大変な
苦しみの中に日々いたのだ、とも思わされました。


聖書に「主が与え、主が取られるのだ、主の御名は褒むべきかな」
と言う言葉があります。人生には、私達には理解出来ないことが
山ほどありますが、神にとっては、総て一切がつじつまが合うように
なって行くのだなあ、と今つくずく思わざるを得ないのです。

生前、皆様から与えられたジュンへの沢山の愛と慈しみ、そして
ジュンがこれまで頂いてきた暖かい交流を思うとき、
私はただただ感謝するばかりであります。

皆様の上に、神の祝福が豊かにありますようにと
心からお祈り致します。
本当に有難うございました。

生者は死者の為に何が出来るか

タイトルへの解答はとても単純です。
それは「一切何も出来ない」です。

しかし、
もとよりキリスト者は自分の為、のみならず、他の総ての人の
「永遠の福祉」の為に生きるべきです。

所がそれが可能であるのはこの時空内に限られます。
具体的に言うと、私が「ジュンの永遠の福祉」の為に尽力できるのは
ジュンがその肉体に留まっている時間帯のみであったのです。

彼の霊魂が彼の体を去った瞬間、私がジュンの福祉の為にする
一切は完全に終結しなければなりません。これは厳粛な一つの
ルールです。即ち、その死の瞬間、ジュンの存在と彼のための福祉は、
完全に神の手の中に移された、のであり、最早そこには、
私が決して犯してはならない神の主権が存在するのです。

ですから 今時空に留まっている私が、あの世のジュンの
幸福の為に何かをしようとするのは、その神の主権を犯すことになり、
それははなはだ危険な思いと行為になります。

ご存知のように、カトリックや多くの宗教には、生きている人が死者に
影響を与えようとする様々な企てがあります。その思想の源は人の
生まれながら持っている底知れない宗教的な血の中に存在するものです。
それはまた生者が持つ、死者に対する深い自責の念等から、容易に生じて
来るものに違いありません。しかしそれは正に「人の事を思う思い」であり、
決して「神の事を思う思い」ではありません。(マタイ16の23)

のみならずここで、そのような思想は、聖書の真理とは真っ向対立する
何ものかである、とさえ言わなければなりません。人がもしも真剣に
そのような行為に手を染めようとするならば、必ず「聖霊ならぬ他の霊」の
深い影響をこうむることは避けられないでしょう。

聖書によれば、
ジュンは「死んで御使い達によってアブラハムの懐に
連れて行かれた」(ルカ16の22)
のであり、そこで彼の為に、神によって準備され、行われている
福祉は、肉体に留まるよりも「遥かにまさっているのです。」
(ピリピ1の23)
これはイエスとパウロの口から発せられた神の聖なる言葉です。もしも
「イエスやパウロが人を慰めるために、いい加減なことを言ったのでない」
とするならば、ジュンは今、地上に留まっている私などよりも、
遥かに心地よい環境におかれているのです。
それこそ、神からの確かな情報であり、真理です。

しかしながら、一体どこから私の思いへと飛来して来るのでしょう、
「今ジュンはとても気の毒な状況にあるに違いない」等とする、
何の根拠もない感覚に私は決して振り回されてはならないはずです。
ですから、私は今日も、力ある神の真理をして、
人の妄想にしっかりと対抗して頂かなければならないのです。

2009年5月14日木曜日

お祈り下さい

*ある方へのメールより*
今、柄沢家、渡辺家に電話しました。
今目に見える状況には 
とてもきびしいものがあります。
衰弱も進んでいるようです。

私の今の感じはこうです:
それは、ジュンの時と全く同じで、
登兄弟は今確かに
神の手とエクレシアの祈りの手の中に保護されている、
と言うものです。
そんな安心出来る場所が他にあり得るでしょうか。

神の御業が現されますように。
ただ主にのみ栄光があるように。

2009年5月13日水曜日

あるメールから

ジュンさんに起きたことは、私達二人は
「間違いなく主がされたこと」と感じています。
そのことを通し、主は本当に私たちの思いを超えたお方である、
と聖書のみことばを確認した思いです。 

これからも、神からのレーマの言葉を、畏れつつ受け取っていきたい、
と思っています。受けた言葉は、絶えず主からのものか、自分の
思いなのかを吟味しながら。

今私たちは、カナンを目指す為に集められているのである、
と感じています。
「立ち止まらずに進め」というような言葉を何度か受けています。
カナンへの道は決して楽なものではないでしょう。
でも、主が先頭に立たれていて、私たちを導き守って下さる!と信じ、
そして確信を持って前進して行きたいと思います。
でも決して頑張らず、いつもの通りに、ですよね。

主は、「私たちが喜んでいること」を喜んで下さると思います。
私たちが喜んでいるとき、主を知らない人達へさえ、
主が伝わって行くのだ、と思います、単に言葉だけによらずに。

これからも、主からたくさんの愛をいただいて、
ご近所の方や、友達ともつき合って行きたい、と思っています。


柄沢登兄弟のこと、本当に主が支えておられると思います。
トイレに一人で行ったとありましたが、きっと、一人でトイレに
行きたい、と思う登兄弟の願いを主が聞いてくださり、
主が支えて下さったのだ、と感じました。 
主のされることは私たちの理解を超えたものであり、
主は制限のないお方であると、登兄弟のことを見ても分かりました。

ですから、これからも登兄弟のために祈り続けます。
登兄弟はまだこの地上で、これからするべきことがあるのでは、
と感じています。主が私たちの祈りに答えてくださると信じます。
ですから、「制限をしない祈り」を主にしていきたいと思います。
これから、たくさんの祈りが立ち上り、主が動かれることを期待します。

2009年5月11日月曜日

今、登兄弟に何が起こっているのでしょう

このゴールデンウイークの期間中、
兄弟は極めて苦しい中を通られました。
それは黄疸の悪化による、繰り返すひどい吐き気と背中の激痛でした。
余りの苦しさに、兄弟は嘔吐の中、次のように祈られたと言うのです。
「主よ、苦しいです、限界です、もう耐えられません」と。
それを目の前にする姉妹達も、彼の為に最早どう祈ったらよいか、
ただ立ち尽くすばかりであったのです。

ところが、
この9日(土曜日)の朝、ある変化が起こりました。
朝、部屋に入って行った姉妹は、兄弟を見てあることに気付きました。
それは「あ、今日の登さんは話が出来そう」と言うことでした。
しかし、
それまで、言うべきかかどうかと思いあぐねていた姉妹は、
とうとうあることを彼に切り出したのです。
「登さん、今はもう無理をしないで。もし、登さんが
行きたいと言うなら、病院へ行ってもいいんだよ」と。これは、
状況はそれ程であった、と言うことなのでしょう。

しかしその時です。何と登さんは、目をしっかりと見開き、
姉妹を真っ直ぐに見て言ったと言うのです。
「大丈夫、大丈夫です!」と。

そして昨日、日曜日、
相変わらず、吐き気は止まりません。
良子さんが背中をさすりながら登さんに言いました
「もうこうなったら、賛美しかないね」と。
そして、良子さんは一人で賛美を歌い始めたのです。
そのあと、しかし良子さんがビックリすることが起こりました。
何と登さんも吐きながら、良子さんに合わせて、
賛美の唱和を始めたのです。

そして次にある不思議なことが。
水分を吐いた際、登さんは突然言ったのです。
「あ、今吐いたの、オレじゃなかった。つるっと出たんだ、
苦しくも何ともない、ツルッと出たんだ」と。

もう一つ。
それまで、登さんをトイレに連れて行くのは
大変な作業であったのです。
普通なら一動作、布団の上に起き上がるのでさえ大苦労です。
一回トイレに行くのにその他、沢山の大変な作業の手順が要るのです。

所が、
そのあと、姉妹達を驚かせる事態が発生しました。
いつの間にか、
何と登さんが一人でトイレを済ませていたのです。
一体今、登さんに何が起こっているのでしょう。

そして今日、
彼はとても穏やかであり、体調も改善され、祈り、賛美し、
主にアーメンを唱えておられると言うのです。

真理はあなたを自由にする

*ある質問に答えて*

私の場合であれば、
①息子の死に関して、邪悪な者から射こまれる諸感覚(虚構) 
対  
それに対抗する神の真理、
と言う構図を先ず知ること。

②霊を用いて「祈ること」と「宣告すること」(注1)
と言う二つの手段によって、
真理をして、その虚構に対抗してもらうようにするのです。
即ち、働くのは私でなく真理です。
力はあくまで、私からではなく「真理、即ち神のことば」から
来なければなりません。

・祈りの場合:自分の霊を、まっすぐ神にのみ向けて、
神に対し、敵への「仕返し」を求め、要求する。(注2)

・宣告(証しのことば)の場合:「私の霊」を強く用いて
「その虚構(敵が築く、虚偽と言う山)やウソの諸感覚の実体者」
に鋭く真理を「射こむのです」。この場合これは
「私からの、邪霊に対する直接的な攻撃」(悪魔に対する抵抗)に
なりますので、必ずキリスト血の覆いが必要です。
この戦いは実に大変です。

さて、私達の意志力はどうしても必要ですが、
しかし、その意味は
私の意志の力を敵にぶつけると言う意味ではありません。
私達の意志の力で敵と戦うのではありません。
そうではなく、
私が自分の意志を用いて、先ずは①「真理と異なる総ての諸感覚」を退け、
②明確に神の真理を取り、真理の側に立ち、 
神の真理が虚構に対して力を発揮出来るようにする、
ということに過ぎません。
私が自分の力を用いるのであるならば、私は必ず敗れるでしょう。


あなたの場合は、このたび、
レーマのことば(あなたの霊への聖霊の直接的な語りかけ)
「自分をおさめなさい」があった、と言うことです。
もしそうであるならば、あなたが受けたそのことばは、
聖書のことばと全く等しい権威と力がある筈です!
あなたは先ず、それを信じなければなりません。
それはサタンにさえ効力があるのです。何故ならそれも
「神の真理」であるからです!

(真理とは単なる事実以上のものです。
真理というとき、それは先ずサタンのウソを意識しています。
そして真理は虚偽に対抗し、虚偽を打ち負かすと言う必然的な
機能と力を含んでいます。
真理はそのためにも私達に与えられているのです。)

次に、ですから、
聖書のことばと同様に、その与えられたことばの持つ力と権威を
敵や「あなたの戦いの現場」に対して使用しなければなりません。
「敵よ、これは神のことばである」と。


もし、あなたがそうするならば、
確かに「真理はあなたを自由にします」。
即ち、神の真理の言葉には本来充分な力があるのであり、
あなたを「諸霊の縛り、ウソによる拘束」から
容易に自由にする事が出来ます。

もしも、自由と言うものを実際的、具体的に定義するならば、
自由とは、
「諸霊の縛りから解放され、聖霊の保護の元にあること」
に他なりません。そこにこそ「実際的な」自由があるのです。

☆   ☆
(注1)
これが「証のことば」です。(黙12の11)

(注2)
ルカ18章、力のない「寄るべなきやもめ」(私達)の話:
「私の相手を裁いて、私を守って下さい」の別訳は
「私を訴える者に仕返しして下さい」です。

「私を訴える者」とは、キリスト者に攻撃を加え、
「あなたの方に非がある、あなたこそが悪い、そして更に
あなたの状況は暗く、もう救いようがない、と
執拗につきまとう「あのウソつき」のことです。

これは正に法的な戦いです。
その際先ず、あなたに「私は私の為の裁判官や弁護士」の
側に明確に立つのだ!と言う意志がなければなりません。
そうでなく、あなたが何とはなしに受身的な態度であるならば、
ウソの方が必ず勝ちます。
それは、この世の法廷においては時に、ウソや金が
勝利するのと全く同様です。あなたには先ず、ぜひとも
「私はこれから法廷闘争をするのだ」と言う
明確な覚悟や意志が必要なのです。

私達の真の裁判官は
ルカ18章とは違い、愛のある全能の神ですから、
あなたは「見えないやくざ」の空しいオドシの「実感」に恐れることなく、
先ずは「あの裁判官・神」に日夜しつこくつきまとい、
あの嘘つきのことを日々刻々訴えるべきです。
「神よ、彼に仕返しして下さい!」と。
それが、私達の祈りに他なりません。そうするならば、神は
あなたの状況に現れ、力を出される事でしょう。

2009年5月9日土曜日

自責の念 対 キリストの血(1)

*真理は悲しみに打ち勝つ5*

ここに神のことば・即ち「真理」があります。
「もし、私達が自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、
その罪を赦し、総ての悪から私達をきよめて下さいます。」
(Ⅰヨハネ1の9)

さて、ここに述べられている罪のきよめの為の条件は何でしょうか。
それは唯一「自分の罪を言い表すならば」です。
誰に対して、でしょうか。それは明確に神に対してです。
これが真理です。

しかしもしも、子供がまだ死んでおらず、あなたの目の前にいるのであれば、
直接一言「ごめんね」と言えばよいでしょう。何も長々と、小説の描写
のように述べ立てる必要はありません。彼もそれが何であるのか、すぐに
分かるでしょう。だから、一言「あの事、ごめんなさい」と
言えばそれでよいのです。


しかし彼がこの世にいない場合はどうでしょう。
その場合あなたは、あの世にいる彼に向かって決して謝ってはなりません。
その理由については後で述べることになるでしょう。

もしもあなたがそうするならば、霊的にあなたは大きな失敗を
することになります。あなたがパラダイスにいる息子に涙の中で罪の
告白をする時、あなたはある種の心地よさと甘さを感じるかも知れません。
しかしながら、あなたはそれを決して行ってはなりません。

もしもそれをするならば、真理はあなたの味方になることはないでしょう。
従ってそれ以後、真理が、あなたに降りかかる敵からの多くの邪悪な
諸感覚を退けることが困難になるかも知れません。
それはとても重大な問題です。

「何が真理であり、何が真理でないのか」そのしゅん別は極めて大切です。
あなたは明確に真理の側にシッカリと立つ必要があるのです。
あなたは「唯、神に向かって」あなたの罪を言い表すべきです。
それが真理です。


あなたが、そうするならば、その結果はどうでしょう。それは
「神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、総ての悪から
あなたをきよめて下さるのです。」

その神の赦しの根拠は、神の太っ腹ではなく、唯一キリストの血です。
あなたの多くのとても重い罪のための弁償代金・キリストの血は、
もう既に充分な額として支払われました。その支払いの相手は
「神の義の要求」です。あなたの罪がいくら重く、高いとしても、
神の子、キリストの血の値は無限です。ですから、あなたの罪の為の
弁償代金としては、それは際限が無いほどの「有り余る金額」なのです。
それは必要額を遥かに超えるのです。従って神の義の要求は既に
完全過ぎるほどに満たされているのです。

キリストの血の代価によって満足されたのは先ず神です。ですから、
神には全く問題はありません。ですから、あなたはただその「神の御血に
対する評価」を受け入れればよいのです。即ち、神のことばを信じ
受け入れること、これがただ一つの条件です。

2009年5月8日金曜日

真理は悲しみに打ち勝つ4

自死によって
我が子を失った親の悲しみには極めて深いものがあります。
多くの親が、自分も死んで我が子に会いたいと思う心理には
相当 共鳴出来るものがあるのです。
私の経験から、その親の心理は三つの範疇に分けられると思います。

①自責の念、即ち自分に罪があると言う心理です。
②「子供が余りにかわいそうだ」と深く思う思いです。
親はこの二つの思いに日夜さいなまれる、と言っても
決して過言ではないでしょう。
そして、最も難しいのは
③深い喪失感から来る
・子供と「一目会って謝りたい、そして交流したい」です。
その切実さの故に、それらは時に
・子供の名を呼ぶ、子供に願い事をする、そして死者を礼拝をする、
に容易に変容する可能性があると思われます。

ここで触れておきたいのは、
これら三つの辛く苦しい思いには、ある奇妙な心理が伴う事です。
それは、その深く暗い穴の中に引き込まれて行く時、そこにはある種の
かすかな薄明かりの中の「快感や甘さ」の様なものが存在することです。
それは確かに「むしろこのまま私は、死んだ子供の所に、どこまでも
どこまでも引き寄せられて行きたい」と言う心理に通じるものがあるのです。
それは親をして、その穴の中にいつまででも留まらせておくのに、
充分な効果があると思われます。

それでは、その正体は一体何なのでしょうか。
それは、明らかに「ある種の奥深い暗い誘惑」に違いありません。
従ってそのような親を真に慰め、そこから引き離すのはとても
難しい事と言わなければなりません。
そうです、それはとても難しい事なのです。
従って私には、この種の問題の解決にはどうしても「霊的な分野」の中へ
一歩踏み込まざるを得ない、と思われるのです。


それでは以上のような「この世の最大の苦しみ」に
解決は無いのでしょうか。あります!
何故なら、
私達の主イエスキリストは「その死の苦しみ」の真っ只中に
敢えて入って行かれ、その死の根本的な力を内側から
完全に爆破し粉砕し尽くしたお方であるからです。

そして今私達の手の中には、そのイエスキリストのことば、
死をも打ち砕く力を内に秘めた「神の真理」があるからです。
そうです、私達には神の真理があるのです。
確かに、真理は悲しみに打ち勝つのです。

二つの意志の対峙と人の意志

*真理は悲しみに打ち勝つ3*

世界(時空、特に地上)には明確に二つの意志が働いています。
一つは神の意志であり、他は神の敵の意志です。

神の意志はただ聖霊によって人に伝達されます。更に言えば
聖霊の意志は、聖書の真理と人の環境を介して、先ずはただ
人の霊にだけ伝達されるのです。方や、神の敵の意志は人の
環境を介して、人の霊以外の総ての器官(魂と体の)に伝達される、
と言ってもよいでしょう。

従って神の敵が人を偽る領域は、神が人に真理を伝達する領域に比べる
ならば、相当広いと言えるのです。その状況の故、私達はひたすら、
「聖霊と人の霊」に注意を集中しなければならないのです。

神が人の思いや感情、ましてや体に、直接御心を伝えることは決してあり得
ません。もしも思いや感情そして体に、ある「霊的、超自然的な」興奮を
覚えるとするならば、それらの興奮の起源は聖霊ではない別の霊から
であると知るべきです。キリスト教社会においてこの類の誤解と実行は
今日広く行き渡っており、その度合いは今後必ず増大し続けること
でしょう。この点については今後多くの言及が必要であると思われます。

次に、神の意志は真理で構成されている、に対して、
今日年を経たヘビ(偽る者の意)の意志は、極みに至るまでに巧みな
虚偽で構成されています。実に彼が本音を語るとき、それはそのまま
ウソとなるのです。イエスも言われました。「悪魔(誘惑する者の意)は
初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼の内には真理は無い
からです。彼が偽りを言う時には、自分の持っているものから語るのです。」
(原文、ヨハネ8の44)彼にはただの一個の真理さえありません。

どうか覚えて下さい、神の真理と矛盾するサタンの構築したもの、
の一切、私達の眼前に展開されている、実にリアル感覚に溢れた情景は
総て完全に100%虚偽のみで構成されているのです!


さて、以上の二つの意志の中間に人の意志があります。ここで仮に
神の意志は既に発動したとします。そうする時、直ちに、
第三の独立した意志、即ち私達人の意志は立ち上がり、
神の意志を断固選択しなければなりません。

さて、ここで強調されねばならないことは、人の意志の発動に際して、
「神は手出しが出来ない」という事です。何故なら、神は人に自由意志を
既に与えてしまったからです。これは実に大きなポイントです。
神は、エバがあの二本の木の間で迷い、そして遂に「自分の意志で」・・

( と言うよりは、エバはその時、怠惰な優柔不断の中で、
ある感覚の誘導に応じて、言わばウス笑いを浮かべながら、いい加減に
彼女の身をその場の雰囲気に委ねた、と言うのが実情だったでしょう。
にもかかわらず、それでも彼女はその時「極めて重大な運命」を選び取る
と言う決定的な誤りを犯してしまった、と言わざるを得ないのです。
余談ですが、総ての発端は、エバが誘惑者の問いかけに応じて、つい
うっかり、ある反応を示してしまったことでした。そこに、神のことば
即ち真理に対する彼女の認識の軽さが現れ出た、と言えましょう。)

・・エバが「自分の意志で」
知識の木の実を取ろうとして行動を起こした時でさえ、神はエバの
為に天使を送って、彼女を阻止しようとはなさらなかったのです。
何故なら既に神は、真理の伝達によって御自身の意志を人に明確に
語り済みであったからです。実に人は神の意志を退ける主権をさえ、
神によって与えられている、と言えるのです。神がその時点で
人を助けることはあり得ません。従って正に人の意志こそ、
その人の総てを握っている、と言えるのです。

所が、創世記でエバの前で働く悪魔であるヘビの姿を見る時、彼は充分な
手出しが出来るように見えます。何故なら敵は、エバの持つ広範囲な
感覚器官の総てに対して、時間をかけ「ねんごろに」誘惑の手を伸ばす
ことが出来たからです。(彼女の思い、感情、美的感覚、食欲等に、
即ち人の体と魂の知覚総てに。)


次にその二つの意志の意図とは何でしょうか。それは、
先ず神の意図は、人の中に永遠の命と真理を入れ込むことによって、
神と人との一つを実現すること(一の原則)であり、敵の意図は、
神の命から人を隔絶し(それが死の機能です)ウソと言う毒を人に
注入することによって、世界に「二の原則」即ち「対立の原則」を
創設することだったのです。それ故、今日この世界に
一の現象はとても少なく、一方、対立の現象は、
この地上の至る所に満ち満ちているのです。

2009年5月7日木曜日

真理は悲しみに打ち勝つ2

*Ⅲ、Ⅳのアウトライン*

Ⅲ神の真理と矛盾する諸感覚
1.愛する者の死による絶望的喪失感。
2.彼の死の責任の一端は明らかに私にある、とする自責の念。
 あの時どうしてこうしてやらなかったのだろうとする後悔と責め苦。
3.故人は今 非常にかわいそうな境遇にあるに違いない、だから
 何とかしてあげないと、と言う思い。
4.故人に一目会いたいとする切なる心、せめて故人との交信を願い、
 故人に思いを集中し、故人の名を呼ぶ、故人に罪の赦しを請う、
 遂には故人を礼拝をする願いを持つ。

Ⅳ神の真理によって諸感覚に対抗する。
1.神の真理と矛盾する総ての感覚は一切敵からである、ことを知る。
2.神の真理の特質
3.諸感覚の特質  
4.受身的な態度を一切排除し、神から人に与えられた意志を行使し、
  神の真理を自分の意志として立ち上がる。        
5.神の真理をして、実際的に虚偽の感覚に対抗させ、聖霊の力によって
  諸感覚を徐々に死に追いやる。

2009年5月6日水曜日

真理は悲しみに打ち勝つ1

Ⅰ.今「愛する者」が救いに入れられていると言う真理の確認
1.
ロゴス(恒常的神のことば)による確認。
彼は、主の名を呼び、バプテスマをした。
「主の名を呼ぶものは皆 救われる」(使徒2の21)
「信じてバプテスマを受ける者は救われます」(マルコ16の16)

2.
レーマ(即時的神のことば)による確認、言わば「状況証拠」。
これは御言葉や様々な状況の中で「彼は大丈夫だよ」と言う
「私の霊」に対する聖霊の静かで一貫した語りかけです。
この語りかけは数多くあり、しかも日を追ってそれは深くなり、
その静けさも増し加わっているようです。以下はその中の数例です。

①その死は人の力によってはどうしても避け得なかったこと、即ち、
彼を地上から取り去ったのは神であった、と知らされたことです。
神が「永遠に救われているキリスト者」を敢えて肉体の死に
至らせる場合はあり得ます。(Ⅰコリント4の9、Ⅰコリント11の
27~30)しかし、このたびのケースはそれらⅠコリントの例とは
更に別の意味を持つと思われます。

②死の直後の遺体の状態。
③彼の死後、間もなく家庭を訪れた平和と安らぎ。(人と神、人と人との)

④エクレシアにおける、キリスト者間の繋がりの中の呼応、共鳴において。
・その死の2、3日前、息子の為に聖徒達が祈った後に彼らを
訪れた予知的感覚において。
・兄弟姉妹の納得と賛美において。
・「この死は永遠において知られ、神によって注意深く準備された
ものであった」と言う私の文章を読んだ一姉妹の内側から、
直ちに湧き出た復活の認識と大きな賛美において。

⑤ルカ16章の貧乏人ラザロは我が息子であったことを
知らされたことにおいて。

Ⅱ.今現在、彼はどうしているか、に関する真理。
1.
その霊魂は完全な安息(眠り)の中にある。
・アブラハムの懐にいる(ルカ16の20~23)即ち
・キリストと共にパラダイスにいる。(ルカ23の43)

2.
再び体が与えられる次の時代においては、先ずはキリストの
ジャッジを受け、ある任務や「学習」に入って行くために、今は
待機の状態にあります。キリスト者が体を持たない期間は、ただ
この時期に限定されるのであり、それは例外的な時期です。
霊魂のほか、体を有して初めて人は「完全に人」であり、その時
キリスト者もその任務の遂行や学習が可能となります。

(ただパラダイスにおいて体のない霊魂が活動している例が僅かに
見られます。黙示録6の9~11。これはしかし、大艱難直前だけ
のことであり、それも「一部の勝利を得た聖徒の霊魂に限る」と
私的には考えております。これ以外にもう一つ、サムエルの例があると
言えるかも知れません。)

従って原則的に言って、パラダイスにいるキリスト者の「仕事」はただ
安息です。故に、そこは安息と待機の為の場所なのですから、神はそこを
その目的の為に明確に確保、守護している筈です。安息場や保養の
場所とはそういう所であるはずです。従ってそこにいる人の霊魂が神や
聖霊のようになって、地上に舞い戻ったり地上の人間と交信することなど、
絶対にあり得ません。これは、時にキリスト者の間でさえあり得そうな
発想ではありますが、断じて「真理」ではありません。

(しかし、人の血から湧き出てくる宗教にはことごとく
その思想があります。これにはよくよく注意しなければなりません。
尚このことには後ほど更に触れたいと思います。)

彼はある意味でそこで「眠り」についているのです。眠っている人に
対してはやはり一定の私達の態度と言うものがあるでしょう。
それはこの上ない平安と安息の場所に違いないのであり、私達が
憶測でいろいろと彼のことを心配するなど正に余計なことです。


聖書によると、
この場合のパラダイスは天ではなく「地下」にあるでしょう。
なぜなら「ダビデは天に上ったわけではありません」(使徒2の34)等、
それを擁護する少なくない聖句があるからです。

地下は必ずしも不快な場所ではありません。否、むしろそこは、
聖徒達の為に神によって用意されたのですから、
アブラハムの懐にふさわしい、温まりのある霊的に実に清潔で
非常に心地よい場所であるはずです。

ただ、体を有したまま地上から取り去られたエノク、エリヤは別です。
彼らは体を持っているのですから、パラダイスにはいません。
この二人は(一人はエノクでなく、モーセであると言う人もいます)
黙示録11章における、特別な彼らの任務遂行の為に、例外的な神の
取り扱いを受け、今彼らはパラダイスとは別の場所(天のどこか)で
神によって待機させられ、その活躍の時を待っているのでしょう。

2009年5月3日日曜日

教会を敢えてエクレシアと呼ぶ理由

聖書には教会が出てきます。そして聖書は
「聖書が指し示す教会」を私達に提示しております。
ですから私は教会を否定することが出来ません。
私が否定出来ないのはその「聖書が指し示す教会」です。

所が「今日のいわゆる教会」の殆どは「聖書が指し示す教会」
と比べる時、余りにも変質してしまっており、それらを教会と呼ぶ
ことは到底不可能です。ですから、私はどうしても「今日の
いわゆる教会」を「カッコ」でくくらなければならないのです。 

所がいくらカッコでくくって見ても、人々がその言葉・教会に接する時、
聖書が指し示していない、余りにも多くの不必要なイメージを抱いて
しまうのです。例えば人々は「屋根に十字架のついた建物、一人の牧師、
そして日曜礼拝と言う三点をワンセットとしたコミュニティ」を容易に
連想するでしょう。しかし、その三点セットは断じて聖書で指し示す
教会ではあり得ません。
(教会はそれら三点ではなく、ただ「一点キリスト」です。)

当然それらの中にも「本来の教会」が持っている性質、即ち「真正の
キリスト者の中の復活の命」が含まれていることは充分あり得ることです。
(故に厳密に言って、その部分だけは教会と呼べるでしょう。)
しかし、そのコミュニティそのものは、「聖書が指し示す教会」
でないことは余りにも明らかです。
ですから最近私は敢えて、教会と言う言葉の使用を避け、
その言葉の原語・エクレシアを用いているのです。


さて、神から生まれた、
「真正な古今東西のキリスト者の中に存在するキリストの復活の命の総計」
がエクレシアであることは明らかです。それは時空を超えたエクレシアです。
しかし、問題なのはそのエクレシアが時空の中にどう現れるか、です。
どうすれば、時空に現れるエクレシアであっても、その変質から逃れ、
聖書が指し示す本来のエクレシアの性質をキープ出来るのだろうか、
これが問題なのです。

御霊は直接教えてくれますよ

*あるメールから*
私は今、内村鑑三の「キリスト教問答」という本を読んでいます。
私はこの本を読んだから「教会」を離れた、というのではなく、
「教会」を離れたから、彼の本に出会うことが出来たのだ、
と言うことが今、私を楽しくさせているのです。

この本の「教会問題」の部分には、体験してきた15年間の
教会生活の中で私が感じて来たことが書かれていて、既にあんな昔に、
もうそのことを感じていた人がいたのだ、と驚きました。
Sugar 兄弟もそんな人なのでは?

私は「無教会」という言葉すら知らず、そういう人がいるなんて
全く知らなかったのです。今「教会」に属している人で、この人の
主張を知らない人がたくさんいるのでは、と思います。
今まで知らずにいたことが、今になって私に少しずつ明らかに
されて来ていると言う今日このごろ、これが私にはとても楽しいのです。

「個人的啓示の道」を読みました。
私も、御霊が直接教えてくれる、ということを体験しています。
「教会」を離れた途端、主はまるで「待っていたよ」と言わんばかりに、
今いろいろな真理を私に分からせて下さっているのです。以前はなぜ
この聖書の箇所を、あんなふうに理解していたのだろうか、
などと今思うのです。
 
所で私の15年間の「教会」生活は決して無駄ではなかったと思うし、
必要だったのだと思います。そして、今「私をそこから出させたのは
主御自身だったのだ」と感じます。当時私にも、狭い部分しか見えて
いなかった事が今分かるのです。

主に感謝する日々が続いています。
主が私の牧者なのですから、今からも主御自身によって、いろいろ
教えてもらえるのだ、と期待充分です。
何故なら主の教えは真理なのですから。
ではまた。今の私の思いでした。

2009年5月2日土曜日

個人的啓示の道

*「鷲のように翼を張って」さんへ*

「その不思議な御言葉の真実を捜し求める者に、神は惜しみなく
その意味するところを教えてくださいます。・・・
主の導きを慕うようになります。」

とてもアーメンです。
言われるように人が真実に「真理」を求めるならば、聖霊は必ず
その人に「個人的に」教えて下さいます。これは確実です。
「この道」は決して「集団教えられ体制」などではなく
徹底した、神御自身からの「直接的、個人的啓示の道」です。
もしもその点で「少しの後退」があるとすれば、正にその程度の
堕落が始まっているのです。

従って新約聖書には・・
「真理の御霊が来ると、あなた方を総ての真理に導き入れます。」
(ヨハネ16の13)と言うイエスのことば、また
一寸それは少し極端ではないですか、と言いたくなるような、
「キリストから受けた注ぎの油があなた方に留まっています。
それで誰からも教えを受ける必要がありません。
彼の油が総てのことについてあなた方を教える・・」(Ⅰヨハネ2の27)
などと言うことばをさえ記録しているのです。

しかし普通、人はこの事実を信じようとしません。ですから、聖霊ではなく、
人に聞こうとするのです。このような人の傾向に乗じて、例えば一人の人が
教える実権を握り「全員いっせいに」、その上「競って」その一人の人の
教えに聞き従おうとするような、とんでもない状況が生じて来るのです。
その結果、そこには自ずと、さまざまな弊害が生み出されるのです。
(例えば「知っていることを装う」或いは「人に合わせる」等の偽善)

聖霊が人を真理に導き入れる方法とテンポは千差万別です。
しかしある人が「神によって定められている真理の道程」を
どこまで進んで行けるのか、それは、その人が日ごろ
「どんなふうに真理の門を叩いているか」にかかっているでしょう。

「それはそれとして、私達は既に達しているところを基準として、
進むべきです。」(ピリピ3の16)

2009年5月1日金曜日

もしもそれが

神の敵をサタンと呼ぶとき、
そのサタンという語の意味は「憎しみや敵意」
であると言います。創世記3章を見ると、
神は「キリストとサタンの間に敵意を置く」とあります。
サタンは必ずキリストを憎みます。
これは避けられない必然です。

しかし、
何故サタンは、取るに足らないキリスト者をも憎むのでしょうか。
そのわけは、キリスト者がキリストと一つであるからです。
他の理由はありません。
キリスト者はキリストとの結合の故に、
どうしてもサタンによって憎まれるのです。
これは、第二の必然と言ってもよいでしょう。

キリスト者に降りかかる困難が、
たとえサタンの憎しみからであったとしても、
「もしもそれが」
私達がキリストと一つであると言う理由からであるならば、
それは何と素晴らしいことでしょう。

第三の意志

*キリスト者は死後、どこで何をしているか3*
この地球とそれに属する天空は戦いの現場そのものです。
その戦いそれは、決してぶれることなどあり得ない二つの意志、
神の意志とサタンの意志の戦いです。
その戦いにおいて、神の手段は真理と命であり、
サタンの手段は虚偽と死です。
この場合、真理は虚偽に対応し、命は死に対応します。
神は人に真理を介して命を与えようとし、サタンは人に虚偽を
提供して(神の命から引き離す)死に至らせようとするのです。

それでは人の役割は何でしょうか。それは:
神から与えられた意志を十分に機能させ、神の意志を選択し、
サタンの意志を断固退けることです。
ここに、その二つの大きな意志の中間に、人の意志と言うものが
存在すると言う図式が浮かび上がるのです。このように世界の中で、
大きな二つの意志が戦っているのですが、人に与えられた
第三の意志は、そのはざ間において
極めて重大な役割を担っていることが分かります。

それでは、神はどのようにして、人に真理を提供するのでしょうか。
それは神のことばの人への語りかけによります。それに対して、
サタンは「ウソの語りかけ」(その中に死を含む)によって、
神からの真理が人に到達することを全力で阻止しようとします。
何故なら、その真理の語りかけによって、人に永遠の命が
入り込んでしまうからです。

しかし、いくらサタンの虚偽が巧妙であるからと言って、もしも
「人の神への信頼」が堅固であるならば、人は単純に神のことばを
選択するでしょう。何故なら彼は、神は神であり、神はとても誠実
なので、決てウソなどつくはずはないことを知っているからです。
だから人がもし、決してぶれることなく、その態度をしっかりと
とり続ける限り、何の問題も起こり得ないはずです。