2010年4月28日水曜日

祈るケン

精神病院の小さな面会室、彼と向き合った私は
「ケン お祈りしようか」と言った、
ケンは声に出し一生懸命 祈った。

この病に取り付かれて10余年、
ケンには何故か 小さな奇跡さえ起こりません。
のみか
何度も入退院をくりかえす中 あるいは 
彼の精神の底が今 更なる崩壊(ほうかい)へと
向かっているのかも知れません。

それでも今日 私は幸せでした。
たとえこれから 
彼の総てが失われるようなことが 
あり得るとしても、
あの祈るケンの中に
彼と結ばれている永遠が 確かに
存在することを私は もう一度
確認することが出来たからです。

善いこと 悪いこと(1)

きのう、ミツカイドウの精神病院に 
長期入院しているケンに会いに行きました。
入院治療を受けているというのに、正直に言うと 残念ながら 
彼の症状は改善される所か、徐々に低下しているようにさえ見え
ます。(この十年余 ケンの病気に奇跡は一度も起こりません。)
私の家庭にとって当然 これは相当深刻(しんこく)な事態です。

三男のワタルが結婚します。
去年 次男が取り去られた私にとって 彼女の出現は 
突如(とつじょ)天から娘がさずかったように嬉しい出来事です。
しかも彼女はピアノが上手な上に クリスチャンだと言います。
これはとてもよいことです。

また今年 私の花粉症にある劇的な異変が生じました。
山小屋での3月21日、あの「うせ物 コア」が突然 床に現れた
夜 何と花粉症がひどく悪化したのです。ヤッパリ今年も
来たのかとガッカリする中、私は「主よ これ以上の悪化は大変
困ります」と祈りました。その祈りのせいかどうか その1、2日
後かな、アレッと気がついた、花粉症の症状が極めて軽くなって
いるのです。そしてそのゴク軽い症状は今も全く変りません。

しかし、これは かつての私の重いゼンソクが消滅(しょうめつ)
したのとは違い、神からの特別ないやしかどうか まだ断定は
出来ないと思っております。それには更に 来シーズンの観察が
必要でしょう。(来年は症状がぶり返すのかも知れませんしね)
今回は単に ある自然な条件が重なって 突じょの軽減
(けいげん)につながったのかも知れません。しかし
いずれにしろ、これは相当 あり難いことです。

今日、目黒のある家庭で キリスト者の小さな交わりが
もたれます。これはすばらしいことです。しかし、ちょうど私が
駅に向かうころ予報によると天候はひどい嵐になると言います。
これは悪いことです。
 

2010年4月26日月曜日

オチョアが山に来るならば(3)

その戦いを通して 彼が神の備えを見出し 聖霊を真に主とし、
命とする秘訣(ひけつ)を体得するならば、彼の霊をして自分の
体と魂の機能(きのう)を総て支配下に置く「霊の人」
(Ⅰコリント2の15)の実際が彼から現れて来ることでしょう。

その時点から 彼は初めて実感として 霊的な世界の実在(じつざい)を
知ることが出来ます。その時、彼は必ず その霊的な世界の中に身を投じて
行かねばなりません。彼は「霊対霊の」戦いの生活、即ち「彼の霊」対
「神の敵である諸々の霊」との戦いの生活に入って行くべきです。なぜなら、
それこそが神とエクレシアのための真の戦いに他ならないからです。

この「霊の人」の生活こそが 神と人のために その生涯を通し
人として最も過酷(かこく)な戦いの日々となることは明白です。
「私たちの戦いは・・もろもろの悪霊に対するものです。」
(エペソ6の12)

まとめると、人生から
絶対に取り除くことが出来ない戦いというのは
1肉の人による 自分の肉体の中にある「罪との戦い」↓
2魂の人による 自分の魂の中にある「自分との戦い」↓
3霊の人による 霊としての自分 対 悪霊との戦い
と言う三種類の戦いです。

結局 人と生まれたからには 私たちの人生に 戦いを回避(かいひ)
することは終生(しゅうせい)不可能であると言えそうです。
(避けられない戦いから中途ハンパに身を引くことは
最大の悲劇を意味することは明らかです。)


今日はナンだか いやに「すさまじい話」になってしまいました。
でもオチョアさん、決してガッカリしないで下さい。
今晩はほとんど触れませんでしたが、
神は私たちのために、イエスキリストの中で 以上三つの
戦いへの圧倒的勝利の道を既(すで)に備えて下さっているのですよ。

ですから、
もしも人生に戦いがどうしても避(さ)けられないものであるならば
私達は「より高いレベルの戦い」を望むべきであることは明白では
ないでしょうか。でもその話はまた次回と言うことにしましょう。
それでは今晩は 上のロフトでゆっくりとお休みください。

2010年4月25日日曜日

オチョアが山に来るならば(2)

しかし、彼が「肉の罪から解放する神の完全な備え」を見出すならば
彼は罪深い生活から免(まぬかれ)ることは十分可能です。
その時点に至り 彼の生活は 魂が肉体を支配する生活に達した
と言えるのです。なぜなら彼の魂は彼の肉から切り離されたからです。

(注:しかし このすばらしい神の恵みによる霊的な勝利が 彼を
高ぶらせ、それが彼をして次の更に高い段階へと進むのを妨げることが
ないわけではありません。人は本当に難しいものです。)

所がここに問題があります。それは 彼の魂は 依然として「最も権威
(けんい)を持つべき人の霊」を押さえつけ、魂が霊にからみつき、 
聖霊でさえ 魂の抑圧のもとに服させられていると言う事実です。従って
彼はどうしても「魂の命」によって生きる自己本位な生活をしてしまう
ことは免(まぬが)れません。

彼は実際には 自分の霊がどこにあるかさえ分からないでしょう。
何故なら、彼の霊はまだ魂から切り離されていないからです。
(霊が魂から切り離されるのはただ 十字架と神のことばによる以外 
他に方法はないようです。)
にもかかわらず その生活は人の目には十分立派な生活に映(うつ)る
でしょう。また ことによっては一定期間 人前で「霊的な人」を
演(えん)ずることさえ可能かも知れません。

しかし彼は事実として完全に「魂的な人」です。(Ⅰコリント2の14
原語)その生活は本当の所 自分にさえ真の満足を与えることが
出来ません。更に何と 彼のすること なすことの殆(ほとん)どが 
神の敵の地位に立つことは避(さ)けられません。なぜなら、
彼の自己、魂は聖霊をも抑圧(よくあつ)し本来「神が座るべき座」に
自分をすえているからです。

しかし もしも幸いに この大変な事態(じたい)に彼が気付くならば、
すなわち 自己、魂の命こそが諸悪(しょあく)の根源(こんげん)である
ことに気が付くならば、彼は「自分の命から解放される生活」にあこがれ、
自分の命を無にすることを願い、そのようにして「自分との戦い」の生活に
入ることでしょう。「自分自身の魂の命までも憎むのでなければ、
私の弟子であることは出来ない。」(ルカ14の26~27原文)

なぜ彼は自分の魂を憎むのでしょう。それは「彼そのもの」「彼の魂の命」
が聖霊(最も身近な神)をさえ圧迫 抑圧(よくあつ)しているという
深刻(しんこく)な現状を彼は 神からの光の中でその時 初めて
見出すことが出来るからです。

オチョアが山に来るならば

*三つの戦いの生活*
もし引退を決めたあの有名なオチョアさんが
山小屋に来てくれることがあるならば 私には 
彼女に話したいことがあるのです:

オチョアさん、
人の日常生活にこそ 本当の価値が隠(かく)されている事を発見した
あなたは 人にとって実に大きな真理を手にしたことになります。
これは本当に見上げたことです。それにしても世界のテニス界における
あなたのミゴトな戦いには心から敬意(けいい)を表します。
本当にご苦労様でした。

さて話し変わってオチョアさん いきなりで申し訳ありませんが、
日常生活を楽しむということは 決して簡単なことではありません。
ですからあなたは今ここで これからの日常生活の中で 人の心の中に
厳然(げんぜん)として存在する三つの「本当の戦い」を戦う覚悟を
決める必要があると私は考えているのです。

あなたがもしそうしないのであればきっといずれ、あなたは何かに
裏切られることになるでしょう。そして触れたくもない現実を一時
忘れるために 一つのことに没頭(ぼっとう)せざるを得ない生活
へと舞い戻ってしまうことになりかねない と私は感じているのです。

さてこれからの話の予備知識(よびちしき)として
人は 神に創造された諸々の生き物の中でも
体、魂、霊の三つの部分からなる極めてユニークかつ貴重(きちょう)な
被造物(ひぞうぶつ)であることを覚えてください。

しかし、
もし人が 自分の「体の欲求に従った生活」をするならば 人の魂
(知性、感情、意志)と人の霊は 体の欲望に服従し どうしても罪を犯す
生活を送ることになります。その時、人は自分の理性(魂の一部)と
体の欲求の間で苦しみ、体の欲望と戦おうとするのですが結局 欲望は
理性に勝利し、その人は自分の欲望に振り回される「肉的な生活」を送る
ことになります。(現実には 特定の一つ、二つの罪がくり返し彼を
悩ますことが多いようです)

これは当然 人と神にとって実に不幸です。なぜならキリスト者は総ての
ものから自由である筈なのに その人は明らかにある罪の奴隷(どれい)
状態であるからです。

もしも
彼がクリスチャンであったとしても彼は「肉的なクリスチャン」であることは
避(さ)けられません。パウロはそのような人を強烈(きょうれつ)にズバリ
「肉の人、キリストにある幼子」と呼んでいます。(コリント3の1原文)

2010年4月24日土曜日

オチョアの引退

私達日本人は よく、
一つの事の頂点(ちょうてん)に立ち一事を極(きわ)める
ならば それは最高の人生である と言います。
ある場合などは それが何でもいい、他の総てを犠牲にしたと
しても、とにかく一事に没頭(ぼっとう)出来るだけで その人は
最高の人生を送ることになる、一事に夢中になれる人は(たとえ
NO1になれなくとも)人生の真理を獲得(かくとく)するのだ、 
とさえ言いたげです。

世界のNO1ゴルフプレーヤー オチョアがNO1のままで引退を
発表しました。理由は日常生活を楽しむためだと言います。
彼女が言いたいことは:

NO1であるためには 日常生活は犠牲(ぎせい)にせざるを
得ない。私にとって 最も価値あるものは 人間としての普通の
生活である。たった一度きりの人生 しかも限られた時間しか残されて
いない事実を思えば 日常生活のすばらしい価値のために 私は 
「NO1をキープするための生活」は あきらめなければならないのです、
と言うことでしょう。

オチョアさんは 
人間のなんでもない普通の生活 すなわち「どう」食べるか、
「どんなふうに」住むか(何を食べるか、どんな家を持っているか、
ではなく)などを含(ふく)め 例えば朝の時間をどう過ごすかなど
人としての基本的な生き方に 最高の値うちが隠(かく)されている
と言う 不変そして普遍(ふへん)の真理に 改めて私たちを
気付かせてくれたと言えるようです。大切なことは やはり
WHAT(何を)よりも むしろ HOW(どんなふうに)なのでしょう。

2010年4月22日木曜日

急きょ下山しました

いよいよ明日は下山か、
今日は ゾーキンがけとトイレそうじだけすればいいかなと 
けさも ぼんやりと気持ちのよい目覚めでした。

しかし、平和な時間はそれまで。
6時過ぎだったでしょうか、降り出した雨が 
直後にミゾレに変わり、そしてほどなく何と雪に、しかも
雪は大粒(つぶ)で激しく密度濃(みつどこ)く 
ドンドンとばかりに落ちて来るではありませんか!

パソコンの天気予報は、昨日と全く同じで 今日は
終日(しゅうじつ)雨、それが明日朝まで続くとはなっているが、
雪とは一つも出ていない。しかし現実はこんなにも凄いドカ雪。
今朝「予報士よ どうしてくれる」と思った阿武隈の人間は
きっと多かったはずです。ここの今の暮らしの中で 
雨と雪では話が全く違うのだ。(予報士さん、すみません)

気温の変化は と見ると、これが一日中 大して変わらない。
正にこれが問題なのです。
日中になって上がるのであれば 全くあわてることはない、
雪は必ず雨に変わり、雨になれば雪はスグとけるのだ。 

これはもう 選択肢(せんたくし)は唯一つ、
「ソク山を脱出(だっしゅつ)」しかありません。
しかも情勢は正に一分を争う。ぐずぐずしてたら わが車の 
夏タイヤでは、とてもすぐそこの林道までも行き着けまい。
(とは言っても250メートルはあるかな) 

顔も洗わないで いつもなら1、2時間かけて
ノンビリやっている下山のシタクを「下山チェック」を
見ながら 大急ぎで終え 何とか(一回はスリップしたか)
国道288(ニーパッパ)に たどり着くことが出来たのです。
おそらくギリギリ セーフだったのでしょう。

いつもの最短の山道(夏井川コース)だと極めて危険、 
距離は長いが 躊躇(ちゅうちょ)なく 真っすぐ
浜(平地)におりることにした。

それでも雪の降りしきる288、慎重(しんちょう)な運転で 
原生林の谷間の道を 下りに下って浜まで出て見ると 
全く何のことはない、そこは雪のユの字もなく 
春の花が美しく咲く のどかこの上ない別世界なのでした。
山はこれだから恐ろしい。

2010年4月21日水曜日

夢を見ました

3時ころ実にハッキリとした夢を見ました。以下の描写
(びょうしゃ)は ほぼその通りだったと思います:
とある和室のようなところに 私と一組の夫婦がいるのです。
その奥さんが私に ものすごく真剣な表情で「命とはなんですか、
死とは何ですか教えて下さい!」と詰問(きつもん)するのです。

ところがです、彼らは私にその質問をしておきながら いきなり 
私に背を向け タタミの上にしつらえてあるキツネの偶像の小さな
お宮の前に進み出て 泣きながら「私たちを救って下さい」と
すがるようにしてキツネに祈り始めるではありませんか。

私があきれはてていると 今度は突然 私にまっすぐ向きを変え、
さらに私に取りすがってはオイオイと号泣(ごうきゅう)するのです。
私はしかたなく彼ら二人の体重を「重いな」と受け止めつつ ようやく
福音の真理を語り出すのです。私は紙に一生懸命 黒い太い字で 
たどたどしく文字を書きながら 救いを説明するのでした。
(二人の体を受け止めながら どうやって書いたんだろう?)

私の説明です↓
「死とは 命からの切り離しです。だから必要なのは命です。
そして実は「命の究極の名は神」です。(結構深いことを言って
います。)あなた方は今は その命から切り離されているので 
生きていても実は死んでおり、神から切り離されているのです。
これは大変深刻(しんこく)なことですよ。

しかし幸いなことに その真の命はイエスキリストの中にあります。
だから あなた方はそのイエスキリストを受け入れさえすれば
それでいいのです。何と幸いなことでしょう。」

この説明は必ずしも 100パーセント明快(めいかい)に
行かなかい所もあり 多少あせりもありましたが それでも
フンイキはスゴク もり上がりました。私は内心これは 
これからどうなることだろうかと 不安になるくらいの 
期待感を覚(おぼ)えたのです。そこで、目が覚めました。
(それにしてもあの夫婦の真剣さはすごかった。)

2010年4月20日火曜日

朝のヤキイモはもう終わりかな

もう朝の焼き芋は食べましたよ。自室の小さなストーブで
時間をかけてむし焼きにするのですが、暖かくなるとストーブが
いらないので、それが出来なくなります。ですから、焼き芋の
朝食は これからは寒い日だけとなるかも知れません。

次回の入山は5月3日で その時は 客人のカップルと
一緒(いっしょ)でしょうから、22日の下山まで、その準備を
終えておかなければなりません。今日を入れてあと3日、
先ずは大きな家具等を地下に運ぶことから始めて・・要するに
小屋全体の整理整頓(せいりせいとん)ですね。
そのあと明日は掃除(そうじ)ということになりますか。

今日は曇りの予報なのに 今のところとてもよい天気です。
風もなく まことに穏(おだ)やかな阿武隈の春の朝
といった所でしょうか。こんな日は午後 時間をたっぷり
取ってノンビリ山歩きでもでかけたいところです。
まずは人の入ることのない ミドリ山の向こう側を
探検(たんけん)して見るのもいいかも知れません。

実はこのところ、
朝の目覚(めざ)めの 心の安らかさと 信じられないような
「透明(とうめい)感」に驚いています。
本当に主に感謝します。
小さな告白になるのかも知れませんが
長年の間 私は朝の寝起きのさいの精神的不快感に
多かれ少なかれ悩まされて来たと言えるでしょう。
それらの原因の詳細(しょうさい)については後日、
語らされることもあるのかも知れません。


今午後4時、
ようやく大きな片づけを終わり ホッとしている所です。
明日は細部(さいぶ)の片づけと そうじですね。
これから山歩きです。この時間では とてもミドリ山の
てっぺんまではムリ、いつものコースを少し延(の)ばした
くらいになるでしょう。
今日は15度くらいはあるのかな、部屋の中では一枚でも
大丈夫、暖かく気持ちのいい午後です。
それでは。

2010年4月19日月曜日

午後は足場のかたづけ

午前は この小屋の不思議なエントランス、
(玄関というフンイキではまるでないのです、
どう説明してよいのやら)の
飾(かざ)りつけをしました。どうか飾りつけが
つい過剰(かじょう)になりませんように。

そのあとは東の外壁(そとかべ)に 
例の KITCHEN をはりました。意外とよかったです。
それから 
その東壁の足場の撤去(てっきょ)をしました。
この足場は だいぶ前から ほったらかし状態であったもので
ようやく今日実行できたのです。ホンとに私はズボラです。

そうそう、はずかしながらピアノ ついに触(さわ)って
みましたよ。ハイ 「ムーンライト」。それにしてもこれは
一体どうなることでしょう!

午後はこれから、その足場の残骸(ざんがい)のかたづけです。
今日は雲っていますが、そんなに寒くないので楽です。

さて突然ですが
人の内面はものすごく奥深く不思議です。
(人の体でさえ小宇宙のようなものであるとすれば、
人の見えない部分の奥底はどんなでしょうか)
そこから出てくるものが 全部「私起源(きげん)」である
とするのは どう考えてみてもやはり問題でしょう。少なくとも冷静
(れいせい)な見極(きわ)めはどうしても必要であると思われます。

さあ、足場です、
日がさして来ましたよ。

今、4時30分、
これからいつもの山歩きに出かけます。
残念ながら昨日、おとといと行かれなかったのです。
天気もいいし、きっとすばらしい時間となるでしょう。

2010年4月18日日曜日

今日の暮らしです

今日 ようやく
あのガラス張りのピアノコーナーが一応完成しました。
電子ピアノを入れて照明も下げました。
五月の連休にピアノを弾く人が来るというので、
今回は ま その人のためにがんばったようなもの
だったのですが、どうやら間に合いましたね、よかった。

小屋のあちこちに
「飾りのボード」を貼(は)り付けるのがスキです。しかし
飾りは多すぎると 何となくうるさいので要注意。

その飾りの字の文句はどうでもいいわけで、
外東壁に あした一つのボードを貼るのですが
そのボードの文句が何と KITCHEN 。
外の壁の高ーいところに台所とはこれいかにで 
見る人はさぞかし?!でしょう。そのあと彼が少し
笑ってくれれば 私の目的は一応達成です。

夕食に都路トーフを買ってきて
湯ドーフにして食べました。湯豆腐は簡単でいいです。
食事はとにかく楽で、一応栄養があって塩分が少ないこと、
その三つがそろえば、味はどうでもいいかな。

もう眠くなった来ました。

クリスチャンの自由な生活(2)

次に私達は
粘り強い戦いを覚悟し、悪霊達の不法占有を「神の法」に
基(もと)づき、宇宙の司法や警察の権威を背景に まずは私が
断固 立ち上がって 彼らに退去命令を発し、悪霊の使用を取り戻
(もど)すべく 彼らの不正使用を一つ一つくつがえして
行かなければなりません。

そうであって初めて、自分の思いは 私が自由に使用できるという
本来の姿に回復するのです。すなわちそのようにして 
私の意志が 自分の思いを 意のままに用いると言うキリスト者
本来の自由な姿に復帰(ふっき)するのです。

そのようになる前 私の思いの現実とは・・たとえて言えば
どこから見ても 私のものであるはずの山小屋に いつの間にか
暴力団員が住みこみ 不法占拠しているというヒドイ有様(ありさま)
である と言えるでしょう。すなわち私の思いが「他の何者か」
によって勝手に使用されているのです。

実はこれは 私たちの偽(いつわ)らざる現実の姿ではないでしょうか。
私達は日夜 何者かのゆえに 自分が思いたくもないことを思わせられて
苦しみ悲しんでいるのです。これは何という不法、何という悲劇でしょう。

しかしこの「思いのばん回」は実際問題 容易(ようい)な事ではない
でしょう。それには 私自身が先ずは 法(神の定め)や暴力団について
霊的な知識を得、宇宙の法、神の真理を彼らの鼻先につきつけ 現実に
彼ら一人一人に出て行ってもらう という闘争(とうそう)への
私の強い やる気、覚悟とねばり強さがどうしても必要であるようです。

エデンの園でのエバの軟弱(なんじゃく)は「他山の石」です。
なるほど自由はタダでは得られませんね。ペテロも言いました:
「悪魔に立ち向かいなさい」


この問題は奥深くきわめて実際的です。以上の記事は このような
問題がキリスト者にはあり得る と言う小さな紹介に過ぎません。

クリスチャンの自由な生活

それは
「神のみこころと調和した自分の意志」が 他の何者にも束縛
(そくばく)されず、「総て」を支配下におさめている生活です。
その「総て」とは 第一に自分の魂です。

感情:
それは 欲望・愛情・感覚に 私の中で勝手に主導させない生活です。
私の欲望、愛情、感覚に私が引きずられ ふり回されることなく 
私の欲望、何かに粘着(ねんちゃく)しないではおれない愛情、
どこからともなく飛来(ひらい)し、私をふり回してしまう雑多な
感覚等々を ぎゃくに私の意志が支配すると言うことです。

これはあたかも
神の御心と調和した私の意志という上品な女主人が 
欲望、愛情、感覚という荒っぽく騒(さわ)がしい女中達の上に
静かに美しく君臨(くんりん)しているような姿ではないでしょうか。

思い:
キリストを信じた後でさえ サタンの要塞(ようさい)となっている思い・・
それにしても パウロによると 救われたはずのキリスト者の思いが
すでに神の敵によって占拠(せんきょ)されずみであるとは!思いは
人の心の主要部分であるというのに、これはヒドイ話ではありませんか。

(これでは私達は「将来の永遠の地獄」からは救われているとしても 
今現在 この時空の中の実際生活で 私達はサタンの手から本当に
救われていると言えるのでしょうか!キリスト者に用意されている
神の救いとは その程度のものなのでしょうか!)

さて話を元に戻しましょう。私達は
その思いの所有権は元来は私のものであるのに、いつの間にか
悪霊達が私の思いを わが物顔に占有(せんゆう)し 翻弄(ほんろう)
していると言うトンでもない現実に先ずは気付かなければならない
でしょう。現実を知り、強い危機感を感じて初めて 
その問題が解決される可能性が出てくるからです。

2010年4月17日土曜日

ある証し

誰でも信じるならば、肉の罪から解放されます。
ぼくは これを経験しました。

止めたくても止められなかった罪。
自分でルールを作っても、絶対に守れなかった。
どんなに頑張っても
罪はまた ぼくを虜(とりこ)にして来ました。

しかし
十字架に釘づけられた「キリストの内に自分を見た」時、
「私は、罪に対して死んだ」ことを悟(さと)りました。
すると、どうでしょう!
もう罪に傾(かたむ)くことがありません。
信じられない!(いや、信じます)

十字架には
信者をして、罪から解放する本当の力があります。
自分は何もしていないのに 罪が力を失い、
たとえ私は誘惑されても、もはや罪に陥(おちい)りません。
これは十字架の力の一端(いったん)に過ぎないでしょう。

ぼくは その一端を体験しました。
だから、宗教ではなく 命の力として、
キリスト・イエスを信じます。

今、そのような十字架の力を知ったからには
どうして、主を愛さずにいられるでしょうか。

先人の言葉より

・・
ここにいたり信者の欲望、願いは全く新しくされます。
彼の願い(欲望)は神の願い(欲望)と一つにされます。

この時、信者は消極的な意味で「神に抵抗しなくなる」と言う
だけではなく、積極的に主の喜ばれることを喜びます。彼は決して
自分の欲望を抑(おさ)えてムリをするわけではありません。
むしろ彼は神が求められるものを喜ぶのです。
彼は神の喜びを喜びとします。

神が もしも彼に苦難(くなん)を望まれるのであれば、彼は神に
苦しむことを求めます。そして彼はこのような苦難をも甘いと
感じるのです。

彼が傷(きず)を受けることを もしも神が喜ばれるのであれば 
彼は喜んで彼の手を差し出し、傷を受けます。彼は癒(いや)される
ことよりも苦難を喜ぶのです。もし神が彼が低くあることを求められる
なら、彼は喜んで神と協力して 自らを低くします。

彼は神の好まれるものを好みます。
彼は神以外のものを求めません。
・・
十字架は実を結びます。
総ての十字架は神の命の実を得させます。

注:
この場合においても 
彼には明確に「墓を経過した自分」があります。
「十字架を通ることのない魂」の浮遊(ふゆう)の中で 
②「自分を失い」、気持ちのよい「聖なる」ムード等に
押し流されて 不用意に何かを受け入れるのとは 
根本的な相違があります。

彼は自分の霊と鋭敏(えいびん)な思いを働かせて 神のみこころ、
願いを知り それを自分の意志によって明確に選び取って
いるのです。彼は自分の内面の諸部分と体を「自分への服従」の中で
機能(きのう)させ、「神との一つの中で」「彼の」人生を歩んで
いるのです。このような人には 自分の思いや感情のみならず
「地のはうもの」でさえ服従するでしょう。

2010年4月16日金曜日

キリストによって自己を確立する

キリスト者が常に目の前に
神とサタンの二者を置くことはよいことです。
そして
神には「しかり」(YES)と言い、
サタンには ハッキリ「否」(イナ、NO)と言うのです。
この後者への「イナ!」はきわめて重要です。

ところが
キリスト者は信仰や従順という美しいフレーズのもとで
つい「フニャフニャ」になり、自分の意志や思いさえも
放棄し、総てを受け入れると いつの間にか
悪霊や人間の支配に陥(おちい)ります。
これが多くの今日のキリスト者達の光景です。
今「あなたはどこにあるのですか?」(創世記3の9)

しかし、私たちはそうであってはなりません。
キリスト者はキリストによって
断固 自己を確立するべきです。

キリスト者の意志は
神の御心(意志)との調和の中で
まずは自分の思いと感情そして体を支配し、更には
万物(地をはうものさえも)支配しなければなりません。
それこそが正に 神が当初から意図された人間像です。

御ことばにもあります:
神は人を彼のイメージに創造された。・・
「地を這(は)う総てのものを支配させよう。」
(創世記1章)

注:
私たちが 自己をキリストの死に渡(わた)して
①「自己を失う」目的は 墓の向こう側において、
すなわち 復活の領域(りょういき)において
真に自己を確立するためです。

ウソと言う毒を受け入れ②「自己を失い」ヘビの死(神から切り離す)に
浸透(しんとう)されてしまったアダム(私達)は どうしても
最後のアダム(イエス)の中で「絶対的な死」を通過する必要があります。
①と②の「自己を失う」には 正に天と地の相違があるのです。

2010年4月14日水曜日

強風に小雪が舞っています

南のロフトの窓から外をのぞくと
強風に小雪が舞っています。
ゴーゴーと激しくゆれる林、
この大風では 午後の山歩きはとてもムリでしょう。
これも阿武隈の四月ですね。

さきほど朝食の焼き芋を食べました。ジャガイモは
皮が焦(こ)げすぎくらいが パリパリしておいしいです。
サツマイモは 中が少し腐っていました。どうりでやすかった。

きのう
ピアノコーナーと玄関の仕切りの壁に穴を開け、
フィックスの二重窓が完成しました。その二枚のプラスチックの
間に「A & Z」という自作の飾り(オブジェ?)を入れて見ました。
「アルファでありオメガである」イエスキリストのことですね。
ところが ウッカリこれをシッカリと固定しなかったので、地震でも
あれば移動するかも知れません。その場合どうやって
元の位置に戻すかが問題、もうどこからも手が入らないからです。

大川兄弟へ

愛する大川兄弟
昨日の
「どうにも説明が不可能、天的で不思議な交わり」が
与えられたというお電話 本当に有難う。
とても嬉しかったです。
羽があったら、すぐにでも飛んで行って
その兄弟と交わりをさせていただきたいくらいでした。

そのような交わりが本当に今 御地に現れたことは
神にとってさえ 決して小さなことではありません。
それが 神の国が地上(今は敵が不法占拠している)に
その領土を拡大することです。
それこそが「みこころが天になるごとく 地にもなること」に
他なりません。(今は「みこころ」は天にあるだけ!)

更に主が大川さんを通して あちこちに「それと同じ性質の
不思議な天的な交わり」を与えられますように。
また その兄弟との交わりから 外に命が溢(あふ)れ流れ 
それと全く同じ性質の小さな交わりがいくつも 無理なく自然に
生み出されて行きますようにと 祈ってやみません。

2010年4月13日火曜日

ある御夫妻へ(3)

その「無と死から発芽したような」小さな交わりを大切にされ 
そのささやかな交わりを愛し その交わりこそ、エクレシアの
本質であると信じ(事実その通りです。)そこで主に出会い 
その交わりを通し、この時空にキリストを表現するのです。

しかし、その前に 
私達は 更に「一人でいる時間」を大切にしなければなりません。
人に隠されたところで 日常生活の細部において 私において現に
主の死にあずかる経験が もしないとすれば、いくら二、三人で
集まったとしても 復活の主が現れて来ることは決して
あり得ないでしょう。

そこに現れるのはただ「この世」だけです。たとえ罪のようなものが
ないとしても そこにあるのはキリストの死を経ない「素のままの天然」
に他なりません。それが正に この世なのであり 神からの独立です。
その理由のために 私達が日々そして刻々キリストの十字架の死を
経過する必要は何と大きいことでしょう!

更に私達が日常一人でいる時 
主が達成された「主と私の一つ」に感謝し、そこに留まり続け、そして
サタンに対しては 彼を真理によって攻撃する という実際がもしなければ、
「二、三人」の中から「永遠のもの」が生み出て来る可能性はあり得ません。

ですから先ずは「一人対神」があるのであり、そこから初めて「二、三人」
が生み出されるのです。その時こそ その「二、三人」が現実的に神の命が
交流する原点となり また「敵との戦い」の前線となり得るのです。
(少なくも その二、三人の中の一人は「その一人の条件」を満たしている
必要があります。)
・・・
それでは 今日はここまでにします。
またお便りします。

ある御夫妻へ(2)

私は新約聖書にたくさん出てくる 「二 三人の単純な交わり」こそ、
神の働きの原点であり、敵との戦いの前線であると信じています。
(実は全聖書をみてもそうです。)

キリスト者はつい 大きくてハナバナしい集会を慕(したい)ます。
しかしそれは キリスト者というよりも実は「人間の本能」から出てくる
願望です。人は群がる時、何か防衛されているという錯覚を抱(いだ)く
のです。さらにそこには 自分達の権勢を誇るという人の肉が
顔をのぞかせているのかも知れません。今日「教勢」(教会の勢力)
という言葉さえあるそうですが、本当でしょうか?

しかし私達はそうであってはなりません。
先ずは私達の霊の原点において 小さな交わりを大切にしなければ
なりません。主が言われたように、実はそこにこそ主がおられ、
また主の総てがあるのです。

全くゼロからでよいのです。
そうです、ゼロからです。そこには確かに「尊いものの総て」が
凝縮(ぎょうしゅく)されて存在しております。
神の原則はいつでもゼロからであり、更に言えば、真に神からのものは
「呪(のろ)いによってもたらされた死」の中から初めて
発芽(はつが)してくるのです。(この度 お二人は
その呪いと死を既に経過されたのでしょうか。)

ある御夫妻へ

実にひどい所を通られましたね。・・
でも今日は愛するお二人に 私の心の奥にあることを そのまま
率直に言わせてもらうべきではないかと考えております。
それはこういうことです:

今回の大変な出来事は お二人の上に 主が敢えて
許されたことではなかろうか、ということです。
当然それは神の敵の仕業でした。しかし、総ては神の手の中で
許されたことでもある筈です。

以前も あの「この上なく大変な出来事」があり、そして 
またまた今回と 二度にも渡(わた)って、主はあなたたちから 
言わば「総てが取り去られること」を許されたのです!お二人が
精魂(せいこん)傾(かたむ)けて はぐくんで来られたものを。

ごめんなさい、とてもむごいように聞こえるかも知れません。
しかし、私が見る所、これは実は主にとっては ある重要な意図を
含んだ どうしても避け得ない出来事であったのではないか、
と思わざるを得ないのです。


今回いただいたお手紙の中で 姉妹は二つのことを
書かれておられます。私はそこに何か主の 深い御心を
見る思いがするのです。一つは 今もなお姉妹の心に残る
「彼らは何をしているのか分からないのです」と言う 
彼らに対する愛です。それは間違いなく主からに違いありません。
そして 今感じておられる 涙の中の深い不思議な平安です。
これも間違いなく天からです。

この二つの事実は 
すばらしい何かの前兆(ぜんちょう)ではないでしょうか。
主と天から 兄弟姉妹に これから「これまでに経験できなかった
何か、全く新しい何か」が 届けられようとしているのではないのかと
私は実は今 大いに期待をしているのです。

2010年4月11日日曜日

今日の祈り

キリストの完全な御業
すなわち あがない、復活、そして御座により 
私は今日キリストと一つにされていることを感謝します。     

今日 あなたが許される「小さな死のチャンス」を見逃す
ことがありませんように。その時、私と「その死の状況」に対して
「キリストの死」を適用し、この世に対し 私が
霊的に完全に死ぬことが出来ますように。                                  
今日 敵の攻撃に対し 常に目を覚ましていることが
出来ますように。敵から来るホンのわずかの「わが思いへの進入」も
決して許すことがありませんように。

そのために今日 あなたの敵を 真理によって追いつめる
ことを絶えず実行させてください。

神よ この時代における
あなたの御計画そして御心が 今日こそ前進しますように。


「その死の状況」とは敵から来るもので、
私を「神と命」から切り離すように働きます。方や
「小さな死のチャンス」や「キリストの死」における「神からの死」は一見
敵から来ると見えて実は 敵と死の状況から、私を切り離すように働きます。
或いは、それが敵からの死であったとしても その死の状況を神の手から
受け入れる時、それは神からの死となり、必ず復活へと至る と言えます。

あのキリストの十字架において 
そこに存在したのは 神とサタンによる激しい「死の攻防」でした。
しかしその戦闘の周辺においては無論のこと その戦いの本質を知る者は
当分の間 皆無(かいむ)であったのではないでしょうか。

2010年4月10日土曜日

3つの敵、3つの戦い

私が 私の「肉体によって」生きているならば、
間違いなく私の生活は罪によって悩まされるでしょう。
私がおもに「私の魂」によって生活をしているならば いずれ 
「私そのもの」こそ 神に対して、極めてやっかいな敵である
と知るでしょう。

しかしもしも現実に「罪と自分」がキリストの十字架の
偉大な力によって私の足の下にされ、私が霊によって生きるならば、
その時こそ 見えない悪魔や悪霊達こそが 神と私の最終的な敵
であることを目撃(もくげき)することになります。
それは正に霊対霊の激しい戦いとなるでしょう。(先人の言葉より)


きのう 例のピアノコーナー(ピアノ室と言うにはあまりにてぜま)
のガラス戸サッシが数時間の悪戦苦闘(あくせんくとう)のすえ 
見事ピタッと収(おさ)まったのです。
これも素人(しろうと)大工のささやかな喜びです。

今日はそのコーナーの壁に穴を開け、ガラスを用いず
プラスチック板で フィックスの窓を作って見ようと考えております。
その目的は 玄関ドアの小さなステンドグラスに当てる
光を呼び込むためです。
フィックスとは、いわゆる固定の「はめ殺し」窓のことです。
このやり方ですと、ものすごく安価に窓を作ることが出来ます。

今日こそ 山もようやく気温が上がるとか、嬉しいです。

 

2010年4月9日金曜日

昨日から今日と

夜になったら和歌山に電話しようと思いつつも、すっかり
忘れていたら何と夜 先方から 無事退職しました との
電話があったのです。よかった。
「山娘、スキー娘」のヨーコちゃんが南アルプスの見える
駒ヶ根市の病院に勤務したそうです。
ケースワーカーとか言ったかな、これもよかった。

マルシアとのメール↓
マルシア:(8 Apr 21:01)「なんか感じましたか?
実はわが家は全員 風邪をひいてしまいました。
セージは熱を出し今日仕事を休みました。
アイリは高熱を(39.8℃)出したけど、おカユを食べ、
遊んでいました。私はセキはひどいけど、熱はない。
アイリと一緒に受診して、薬をもらいました。
今日は午前中にお母さんにアイリを見てもらい、
一時間だけ出勤して帰ってきました。
その後はお母さんも熱を出して寝込みました。

セージは役所で二人分の仕事をしていて、毎日残業しています。
15日から新人が入り、新人の教育係と仕事を
こなさなければいけないのです。

私は前より少し遠いところに異動しました。
やっと少し慣れた感じがしてきました。明日はアイリの熱が
下がらなければ、お仕事 休まなくていけませんね。」

私:(9 Apr 05:25)
「ハイ、少し心配していました。今朝、4時半ころ 
カゼが治るようにイエス様にお祈りしましたよ。
山は人もバイキンもいないので 私は風邪もひきません」

さ、それでは朝食のサツマイモの焼き芋でも
いただくとしますか。今日もとてもよい天気です。

2010年4月8日木曜日

今日この頃

やっぱり出て来ましたよ、花粉症。ことによると
今年は出ないのか、などと思っていたのですが・・ 
ま、これ以上悪くならないように願いたいものですね。

今日は絶好の山歩き日和(びより)になりそう、
寒いけど風もなくきれいな青空が輝く雲の間からのぞいています。
午後には出かけられるかな。

和歌山の妹夫婦、今どうしているでしょうか。
義弟のヒロキさん、えらく大変な県立高校の体育教師を大過なく
勤め上げ 今どんな心境かな、今晩電話でもして見ましょう。

ピアノコーナー二重窓用の大きな新しいガラス窓、
その窓の木枠(わく)が微妙に狂っているのか、窓がどうしても
ピタッとおさまらず この二日ばかり相当苦労しました。ところが
ついさきほど 村の建具屋の渡辺さんに ホンのちょっと見てもらった
所、たちどころに原因が判明したのです。必要なのは「的確にモノを
見る目」ですね。それではこれから その目に従って作業を
することにしましょう。もう九時四十分です。

救いを「経験する」ということ

「私の中にある敵の要塞(ようさい)」
が今の私の一つのテーマです。その意味は・・
いまだに私の中には かねてから(未信者時代からさえ)
敵が占拠(せんきょ)し「そこを神に奪われないように」と
神の敵が死守している「古い場所」がある、と言うことです。
その場所、敵の要塞こそ私の「思い」です。

真のキリスト者であるならば、その人は当然 永遠にそして
完全に救われています。しかし、経験的に言って この時空の中に
おいては「私の思い」はまだ完全に救われているとは言えません。

なぜならば今日 私の思いは 聖霊への完全な服従の中で機能(きのう)
しているのではなく、勝手に良からぬことを思い、想像し、推論している
からです。それは私の中の大きな不法と混乱であり、無秩序です。

そこでは確かに敵が私を占有しているのです。ですから思いに関する限り
神の国(神の支配の領域)は私の中にまだ十分には到達していない、
と言わなければなりません。ですから真の問題は「よからぬ思いが出てくる」
などに留まらず 問題は 私の中の混沌(こんとん)と無秩序であり 敢えて
言えば「神への反逆」です。これは今現在の宇宙の縮図と言えるでしょう。

私の思いが 私の意志と聖霊に完全に服従し 思いが正常に機能する
ためには 思いが古い占有から全く新たに自由にされる必要がある と
エペソ書は言います(4の23)。聖められた私の意志に完全に服する
私の魂と体が存在して初めて 私はこの時空の中においても
完全な神からの救いを「経験している」と言えるのです。

今日 経験的に私達はコリント書にある「私達の戦いの武器」の
使用法の詳細を日常生活のレベルで知り 敵の要塞を
実際的に打ち破らなければなりません。(Ⅱコリント10の3~6)

私達は「このすばらしい永遠の救い」が「与えられた」or「持っている」
に留(とど)まらず、その救いを この時空とこの私の体の中で
十分に経験する必要があるのです。それこそ、今私達が敢えて
「この時間と肉体の中に」置かれている理由です。
「今の時(今という時間の時代)を生かして用いなさい。」
エペソ5の16(口語訳)





 

2010年4月6日火曜日

多様性の中の統一性、統一性の中の多様性

人は神を信じ、全き服従にその身を置くとき、
もっとも主体的で個性的であると思うのです。
信仰の創始者であり完成者であるイエスがそうであったように・・

アーメン、私も「完全な信仰と服従」があって初めて
「完全な自由と主体性」が現れ出ると信じております。
このことは一見矛盾するように見えるかも知れませんが
とても不思議な大いなる事実です。ある人がこのことを真に知り
経験しないとすればそれこそ 正に大損(おおぞん)ですよ!

さて 神の意志を自分の意志として選び取った人は
基本的に必ず自由で個性的です。
なぜなら神はこの上もなく、人の自由を尊重されるほか、
多様性の中の統一性、統一性の中の多様性を「神の豊かさ」として
表現されたいからです。

当然 その統一性とは思想の統一性等ではなく、命から現れ出る
統一性です。だからそこには必ず「命の美しさ」が現れ出るのです。

そのことは 神の創造である自然界を少し観察するだけで
容易(ようい)に発見できることです。自然界は多種多様
(たしゅたよう)きわまりないのに そこには美しい統一性が
何と見事に存在していることでしょう。それは正に神業です。

しかしその自然界は神の豊かさを真に表現するための「一幅(いっぷく)
の絵」に過ぎません。神の本当のネライは別のところにあるのです。
実の所、神はまず人類において 真の多様性の中の統一性によって
神の限りない豊かさを表現されたいのです。

この場合 個性と多様性は 人が神によって本来与えられている 
人の魂の個性と多様性から出現します。
そして統一性、
これは聖書では「一つ」と言う言葉で表されていますが、
それは 復活されたイエスキリストにある永遠の命
によって初めて人類にもたらされるのです。
(本当から言って、それは単なる統一性を超えた
本質的とさえ言える「一つ」を意味しております。)

そして遂にはそれが
「万物一切が、キリストの中で一つに帰せしめられること」
(エペソ1の10)に繋(つな)がるのです。
そこには画一的な醜悪(しゅうあく)さなど
一カケラも存在しないことでしょう。

2010年4月5日月曜日

下山の延期

18日東京で ある小さなキリスト者の集まりがもたれます。
私はそれにゼヒ参加したいものと、かねてからとても楽しみにして
おりました。またそれに参加出来ることは、どこから見ても 
とても素晴らしいことであるはずです。ところが 突然このたび
「私関連(かんれん)の あまり起こりえないであろう出来事」が
発生し、来週の下山は延期(えんき)するべきであると、
今感じさせられているのです。

このことは私本人にとっても ちょっと奇妙(きみょう)なことでした。
と言うのは・・
その集まりに私が出られないことは 私にとっては残念なことであり、
また或いは その集まりの人々には 少しばかり
失礼にあたることに なるのかも知れないからです。

そして逆に「私関連のある出来事」の方は もしも私が少し自分の主張を
すれば 十分突き破られる性質のものです。即ちホンの少しムリをする
だけで、私はその集まりに出かけられるのです。そうすれば
「万事がめでたし」と言う結果になることは明らかです。ですから私が今回
予定通り下山しないことは はなはだ合理性に欠けるとも言えるでしょう。

ところが、結論として
私は 例の「私関連の出来事」を鑑(かんが)みる時 やはり下山は
このたび延期するべきである、という感じはぬぐえないのです。これは
永遠の中でさえ、どのような合理性があるのか 今の私には分かりません。

ただ 私が「神の御心」に向かおうとするとき、神はしばしば 私を
敢(あ)えて「完全な静止状態」に置かれる」と言う「不合理な」
手段(しゅだん)を取られるお方であることは 認めざるを得ないのです。
と言うわけで、次の下山は多分23日となるでしょう。

2010年4月4日日曜日

独立した三つの意志

「神は人を通して働かれるという事実」は明らかです。
ですから、人は神の御心を求め、知り、そして立ち上がって 
神の御心、神の意志を自分の意志として選択するべきです。

ところがここに、今日
これとは微妙(びみょう)に異なったキリスト者の観念が
広く観察(かんさつ)されるようです。それは:
「人が自分の意志までも捨て去り 神に総てをゆだね、聖霊が来るのを 
心を空っぽにして待っていると いつの間にか聖霊が、私の変わりに
選択してくれる。これこそ理想的なキリスト者の従順である」と
いうものです。結論から言って これは美しくは聞こえますが
極めて危険です。なぜなら これは「最も基本的、かつ重要な
神の原則」に真っ向から違反するからです。

当然 私達は聖霊の働きに信頼するべきです。神は私達が聖霊に
服従することを願われます。しかし決して聖霊は 私に代わって
神の御心・神の意志を選択することはなさいません。聖霊は 人が神の
意志を取るように人を促(うなが)すことは明らかです。しかし、最後の
決定は人がしなければなりません。この差異(さい)はとても重要です。

神は絶対に 人が神のあやつり人形になることを願われません。人は
人であり、木石ではありません。(それにしても神はそれほどまでに人の
自由意志を尊重されるとは何たる事実でしょうか!)

以上のことは 既にエデンの園で見られる 神、サタン、そして人の意志
と言う「三つの独立した自由意志」の間にある一大原則であり、
神ご自身がこの原則を固く守られます。なぜならそれは神によって
定められたからです。ですから、その巧妙な悪だくみの中、ヘビの意志を
エバの「受身的薄弱(はくじゃく)な意志」が選択しようとした時でさえ、
神は沈黙(ちんもく)を守らなければならなかったのです。

当然、その時エバは 神の言葉、すなわち「人への愛を源とした神の明確で
真実な意志」を信じ、それを自分の意志として選択し、ヘビの「虚偽と死に
満ちた意志」を敢然(かんぜん)として退(しりぞ)けるべきでした。

宇宙にある二つの巨大な意志、神とサタンの意志の間(はざま)にあり、
あなたの意志決定は今日でさえ 極めて重要な人の行く末(すえ)を
左右しようとしているのです。
私達は薄弱な意志を捨て、断固「神の御心を行おうと決心する者」
(ヨハネ7の17)でなければなならない事は明らかです。

2010年4月3日土曜日

本当の神学校

Sugar:
今日それでも通常の出勤なんですか!
世間はきびしい。ホンとにホンとにご苦労様です。
そんな中でも昨晩 相模原さんと交わりを持たれたとか。
(実は夕べ 私も彼のために祈っていたのです。)
でもあなた方には キリストの命と愛の吸引があるのだから、
そうせざるを得なかったはずですよ。
それこそ「エクレシアの生活」ではないでしょうか。

大越さん:
F市に小さな集まりが出現したことを聞きました。
すばらしいですね。
そのような命の現れ出ることを 祈りたいと思います。

Sugar:
すばらしい、
言われるように 結果としてこういう現象が「現れ出た」のですね。
どうすれば そうなるのか、問題はそこです。それは絶対にいわゆる
奉仕や伝道活動などの「この世の物理法則」からではなかったのです。
一言で言えば、「主の十字架と彼らの信仰」から自然に流れ出た、
ということですが、この二つの中身はあまりに深くて重い。

大越さん:
相模原さんは今、仕事を通しても、
主の対処を受けているようです。これまでになく厳しい環境におかれ、
自分の無力を痛感していると話してくれました。

Sugar:
そういうこと(十字架と信仰)を今 皆さんは一面、この時空内の
どこにでも建っている「本当の神学校」で日々 あまくない実地訓練を
通して学んでいるわけです。その上、その神学校が建っている 
この世の大親分は強大な神の敵ですから大変です。
さて、今日の授業はどんなものでしょうか。

2010年4月2日金曜日

今日は・・

山は暖かな春の雨、
(でも我孫子の方 今日は嵐だとか・・)
これでは午後の いつもの山歩きも出来ないのかな、
これはチトさびしい。

工事は、と言うと 今のところ・・
・風呂のカーテンを4センチ長くすること
・村の木工さんに頼んで ピアノコーナーの「簡単モールディング」
用の細い棒をたくさん切ってもらうこと、
・南デッキの透明(とうめい)屋根の修理
・防腐のため 外南面に白いトタンを張ること
・東そと に作った足場の撤去(てっきょ)等
が待っているのですが
以上は全部マイナーな作業であって
この他に 本来の工事があるわけです。

しかし、
「言うはやすく 行なうは難(かた)し」で、
やはりこの小屋、いつになっても完成と言うことは
あり得ないのでしょう。でもまたそれもいい、と。

2010年4月1日木曜日

昼下がりのフクロウ

きのう、午後三時前か 毎日の小さな山歩きの道すがら
中村さんの雑木林で 遠くフクロウを聞きました。
しばらくぶりでしたね、フクロウの声、嬉しかった。
(私はこの鳥が好きなのです)

それにしても、
雲の向こうに 月のようなぼんやりした太陽がのぞく昼下がり 
あの夜の鳥、フクロウが鳴くとはネ。

それから 
きのうはウグイスの「初なき」もありました。
この辺は春になると ウグイスがやたらに多いのです。
三月すえ、今時が彼らの初なきなんですね。
ところが まだまだホーホケキョにはならない、その半分くらいかな、
でもこの時期としては結構じょうずな歌いっぷりでした。

お便り感謝

お元気そうで、うれしいです。
私も元気です。

今特に
「悪霊との戦い」について目が開かれそうなので 
とてもワクワクしています。私達は
日常生活のささいな場面の中で、
悪霊の仕業(しわざ)を見抜き、彼らに
屈服(くっぷく)しない「私の霊・態度」がとても重要です。
それは正に、霊対霊の戦い、
私の霊と彼らの霊とのバトル、格闘(かくとう)となるでしょう。

キリスト者は
自分の意志までも放棄(ほうき)し「神に総てをあけわたす」
という美しい表現によって、知らず知らずの内に
悪霊にまで自分の内面を開放してしまうことが多いようです。
それは無数の「超自然的な生き物達」に対して自分を
全く無防備(むぼうび)にしてしまうことです。

私達は 神によって自分に与えられた人の意志を
十分に用いる必要があります。自分の意志を機能(きのう)させ、
環境と感覚の中の「悪霊からのいつわり」をはねつけ
断固(だんこ)神の御心のみを選び取らねばなりません。
「神に従いなさい、そして悪魔に立ち向かいなさい」(ヤコブ4の7)
「神より生まれたる者は おのれ自らを守る」(Ⅰヨハネ5の18、永井訳)

この点に関しては 20世紀初頭(しょとう)の
ペンルイス姉妹のメッセージが参考になります。