2011年8月31日水曜日

空気は秋

ケサはずい分涼しく、今上に三枚着ています。
空気は完全に秋です。


創世記1章の26節から28節を見ると、人は

「ヘビを初めとする、総べての被造物を治めるように」
と、神によって創造されたことが分ります。(1の27と28)
だから本来・人の目的は「万物・特に神の敵を治めること」です。

所が事は全く逆となり、
人はヘビによって支配される、という結果になってしまいました。
だからヨハネは
今「全世界は悪いものの支配下にある」(第一の手紙5の19)
と言うのです。ここの原語の意味からすると、人は
「サタンのまな板」の上の魚状態であると言ってもよいでしょう。

更に聖書によると
ヘビはアダム以来「地のチリ」(人)を食べて生き続けており
(創世記3の14)遂には龍のように巨大になって、最終的には、
悪人の最後のあがきのように、人類をヒドク痛めつける
ことになるのです。これは何たる悪の姿でしょう。

以上の意味は今、全世界的なスケールで
人類はサタンの意のままに動かされているだけでなく、

総べての人間、一人一人の人生も、その細部にいたるまで
見えない神の敵(ヘビやサソリ)によって
侵略され、圧迫され、苦しめられているということです。

だから人類は、良かれという善意のもとに
大変な努力をして幸福を追い求めているにも関わらず、いつに
なっても、本当の意味での喜びや自由には到達しません。

また個人のレベルにおいても
痛みや苦しみや圧迫の全くない日はただの一日とてない、
というのが正直な所ではないでしょうか。
このことこそが人の根本的で深刻な問題です。

従って、私たちは一人一人が
今日・見えないヘビやサソリ達の悪意ある意志から自由にされ
自分が自分を治めると言う「真の自治」を獲得しなければ
ならない、のではないでしょうか。

確かにイエスは言われたのです:
「私はあなた方に、ヘビやサソリを踏みつける権威を
さずけたのです。」ルカ福音10の19




2011年8月27日土曜日

静かな奇跡

神は何故か私達の
普通の生活を、ことのほか重んじられます。

福音書を見てもイエスは、人による人らしい生活の
中にこそ、あえて入って来られたように見えます。※1
そして時に、とても当たり前のように不思議を
されました。

それは実に自然だったので、何千人もの人々に、
パンと魚を満腹するほど食べさせられた時でさえ、
騒ぎ出す人はいなかったのです。※2。
そのこと自体がまた大きな不思議ですが
しかし御国の王イエスにとってそれは正常です。

おびただしい群集は実に整然としており、とても
静かでした。記者もそれをさりげなく書いています。
このさり気なさが、このエクレシアの時代における
みこころです。この時代における神の方法、
イエスによる支配の様は、
神の法に従った地球の運行のように
美しくまた静かです。

※1
多くは自然な食事の場面、人の病や死という悲しみの
場面、婚礼、旅行、男達が仕事に疲れた場面等です。
「集中的に私を拝みなさい」と言ってイエスが
ウヤウヤしく現れた、などと言う場面はありません。
※2
事後、自分のためにイエスの力を利用しようとした
ある人々が騒ぎだしたことを聖書は告げています。
これはみこころではなく不法です。


ある証し2

言われたように、一見他人からみたら、取るに足りない
出来事であり「単なる思い込みなんじゃないの?」と
笑われてしまうなか、というような事でもあったので、
書くべきかどうか迷ったのですが、全てを益と
変えて下さる主を信じて、書いてしまいましたー。

「電光のように神の声が聞えた」とか「不思議な
感覚が全身をつらぬいた」というような「超自然的
感覚」があったわけでもなく「夕食の支度」という
ありふれた日常のワンシーンに、主はあまりにも
自然に、あまりにもナチュラルに働かれたので、
うっかり自分自身でも偶然として片付けて
しまいそうでした。

しかしあれは
「祈った→治った」と言う明確に目視できる
事実だったので、フトこれは神さまだ~! と
再びタマネギを刻んでいて分ったのです。

「きっと主は今までもずーっと生活の中で
たくさんの小さな奇跡をくださったんだろうなぁ、
気がつかなかっただけで」とあらためて感謝が
芽生えました。神様はジェントルマンですね♪

2011年8月26日金曜日

小さな奇跡

普通の生活の中で
「2千年前に、イエスキリストによって
既に達成済みの真理」を、
「私はもうそのイエスと一つにされている」と言う
事実とともに信じ、そして「この場面」の私に適用していると

また
神が私の為に用意された小さな十字架を否まないで
主の手から頂いていると、自然にムリなく

先ず
「どうにも不思議だ、これは主だ」と深い所で感じてしまう
ことが起こりますが、この頻度はむしろしばしばです。
このレベルの場合は それを他人に説明したとしても
「別にどうってことはない」とされるような事ですが、
私の中では明らかに不思議(主)なのです。だから同時に
「主と私だけの密かでミツな幸せ」を覚えます。そんな事なので
このレベルでは人に話さないことが多いのです。

しかしその不思議が、人に現れる現れ方や程度によって、
その不思議現象を 奇跡→更に「しるし」と言っていいケースも
これからは十分に起こり得ると思います。今回の場合も
「小さな奇跡」と呼んでもよい、のではないでしょうか。

いずれの場合でも、その特徴は・・
これは全面的に神御自身がなさったことであり
自分の功績や能力とは何のかかわりもない、とムリなく心から
思うことと、また神からのある「暖かさ」を感じることです。

キリスト者の普通の生活と「不思議、奇跡、しるし」を
完全に切り離すことはむしろ難しいようです。

ある証し

今夜の出来事です。
家事がなんだかいつもよりはかどらず、
あっという間に 夜になってしまい、家族が帰って来る
前にまだまだやって おきたい事はいろいろあるけど、
とりあえず、夕食の準備に取りかかろう!と
夕食を作りはじめていた時の事です。

「痛っっ!」親指を見ると、タマネギと一緒に切って
しまったのです;

血がにじんでいる親指を水で洗い流し、切った所を
ギュッと押さえながら『神様、イエス様、サタンが、この私の
からだという神の神殿を攻撃してます。
それは不法な事です。今すぐサタンをうち滅ぼして下さい
ますように!そして 神の神殿・神の「とりで」である
このからだに、イエスの復活の命を表してください!!』
と懇願しました。

『この指が今すぐ治ったら、家族に証しします。
そうしたらますます あなたの事を信頼し、信じるように
なりますから!』
『ご飯も早く作らなくっちゃ、お腹へらしてる夫がかわい
そうです。神様、なので、一秒でも早くお願いします~!!』
…とほんの数分の間、懇願しつづけ、そっと親指を
見てみると…
なんと、傷口がふさがっているではありませんか!
感動にひたる間もなく、夕食を無事に作り終え、食べ終わり、
再び傷口を見ると、どこを切ったのかもわからないくらい、
治っておりました。☆
もちろん、神様とのお約束ですから、夫に傷口を見せながら
話しましたよ♪

今日の私は、自分で自分の評価をつけるとしたら、決して
合格点ではなかった のですが、自己評価や、何を成し遂げたか
等に関わらず、イエスキリストにある ありのままの私を
受け入れて下さり、ご自分のものとして下さって
いるんだなぁ、と思い、神のあたたかい眼差しを
感じたように思いました。

これから先、親指を見つめる度に今日の日を思い、
神様の気配を感じるんだろう と思います。

2011年8月24日水曜日

シンク用電灯のスイッチを設置しました

昨日オソルオソル小さな電気工事をしてみました。
どうして普通の電気コードには必ず線が二本
入っているのかが70歳になってようやく分りました。

天(電源・遠い発電所)から流れて来る聖霊は、
私たち(エクレシア)の霊(発光器具)を経由してまた天に
帰って行き、そしてまた地にいる私たちに戻って来るという
瞬間的・永遠のサイクル・循環(即ち交わり=礼拝)のため
なんですね。

即ち、線が二本入ってないと、天地にまたがる
「巨大な一つの輪」(これがエクレシア)を形成することが
出来ないからです。それは往復用であり、
無限にくりかえす交流のためです。


★ある対話★
ルシファーは限度を越えて、自分を高くしようとするトンでもない
不法に陥り、自らを無限に落下させる原因をつくりました。
不法(的外れ)があれば、それが堕落であり、必ず墜落に
至ります。(この二つの漢字・堕落、墜落はよく似ています)

しかしイエスはただ、みこころ(神の喜び)のために、
自らを低くされた(ただ死のみでなく「十字架の死」に至る
までも)ので、神は彼(人の子)を無限に高くされました。
全聖書を通して、上記の二者をクリアに対比(コントラスト)させ、
それを全被造物に見せることに神の深い深い意図があるようです。

Aさん:今日はなぜか「敵へ放つ神の言葉」が止まりません。

アーメンです。時間の中では
私たち(やはり人の子)の口から発せられる神のことば
(真理と命と光)は一回一回「ウソと死と暗黒によって生きて
いるサタン」を少しずつ後退させ、遂には落下(裁きの執行)
に至らせるのだ、と思います。

このことは深い神のみこころと完全に合致するので
(神のアーメンがあるので)あなたの霊の中で、
「真理の宣言」は止まらない、と感じられるのでしょう。

私達はこの世で、神のアーメンがある「小事」を
日常生活の中で淡々と行って行けばよいのだと思います。


シンク(台所の流し)の上のライトが、スイッチ・オンで
パッと灯った瞬間は、嬉しかったですねー。

2011年8月23日火曜日

額を作っています

寒いですね、というあいさつが
ちょうどいいような阿武隈の朝が続きます。
それと雨のせいで、冬のためのマキの仕事は
さっぱり進みません。この分だと冬に間に合いませんね。

この数日、むき出しで長い間・壁に張っていた風景写真を
ホコリから保護するための額を作っております。ワクを作り
プラスチック板でおおうのですが、全部初体験なので
試行錯誤の連続はしかたがありません。
紙の写真のシワを取るにはどうしたらよいのでしょう。



神はただお一人なのですが
詩篇に「神の会議」や「神々」が出てきます。
またイエスも「神々」の存在を暗示されました。
多分その神々とは霊的な被造物、天使達でしょう。
天使の能力はすごいです。ただ一人の天使が一寸現れただけで、
それに遭遇した人間は死人のようになったといいます。

もしも非常に多くいる天使が神々とさえ呼ばれた
とするならば、彼等と比較しても
極めて卓越した力、権威、美を与えれたルシファー
(堕落以前のサタンの名)はどんなだったでしょうか。
また彼の心境は。

もしも神の存在が作り話でないとするならば、
確かにサタンも実在するでしょうし、今現在、
神に反対して、人の上に駆使(くし)している
サタンの権威、力、美はただならぬものに違いありません。
確かにそれは、彼がこの世の神と呼ばれるゆえんです。

2011年8月22日月曜日

古い布に穴を開ける虫

ギリシャ語原語によると、新改訳聖書で虫けら
と訳された言葉は、成虫ではなく、幼虫時の、はう虫
を指しているようです。

自分を虫と言ったのはダビデとイエスです。
有名な詩篇22に「私は虫けらです」と言っています。
ギリシャ語の注解には、この言葉は女性名詞で
「崩壊の原因になるもの」と説明しています。彼等は
一体何を崩壊させるのでしょうか。

またイザヤ41の14で神は、恐れるな「虫けらヤコブ」
と言っています。この英語訳は「O,worm.Jacob」です。
だから神の民とは、一つの意味ではそのような虫であり、
明らかにこの世ではバカにされる存在です。

ヨブ記13の28では
「虫に食われた衣服」が出てきます。(a garment that
is moth eaten )この虫は原語ではガですが
ガが衣服を食べるのはやはり幼虫の時です。

しかし青虫や毛虫のような真にみにくい生き物でも遂に
成虫になる時、全く新しい、第3次元の世界に飛び立って
行きます。

またイエスは「虫が食い、サビがつく」この世の宝の
ことを言っていますが(マタイ6ノ19)この虫も原語では
ガです。それも「布を食べるガ」だそうです。当然
ここで虫と呼ばれているものも、古い衣服に微小な穴を開ける、
めったに人の目には 触れることのない、とても小さな幼虫達
を指していることでしょう。

上記のヨブ記13章の「衣服」は、どうしても福音書の
イエスのことば「新しい布で古い衣服にツギはあてない」の
「古い衣服や新しい布」を連想させます(マルコ2ノ21等)。
しかし 生まれながらの人は、間もなく古びるこの衣服の
中で生きざるを得ません。

所がイエスはその古い世界に、新しい天からの布で ツギを
あてがうような一時しのぎの改善はしないと言っています。

しかし将来、私達は全き状態において
「もはや永遠に古びることのない新しい布」でおおわれて
生きることでしょう。しかしその事実は今すでにin
Christ(キリストの中にいる)という状態において
開始されていなければならないはずです。

この布はまた、ペテロの前に四隅をつるされて天から
降りてきた「汚れた生き物」即ち生まれながらの様々な
人間、を入れた布を思い出させます。
その時、神はペテロに「ほふって食べなさい」と
言われました。ほふるとは十字架を暗示しており、
その意味は、布の中の生き物(人)は必ず処理され
(十字架の死を通り)エクレシアの中の交わりに入るべきである、
ことを意味するのでしょう。

当時のペテロやユダヤ人達にとって、そのような様々な人々を
受け入れることは相当困難な「神のみこころ」であったのです。
しかし感謝です、ペテロは神からの啓示に従い、そのような
「汚れた異邦人達」をも受け入れたのです。

また
「虫にかまれて死んだヘロデ王」の虫は「虫達にかまれた」
という形容詞一語で表現されているのだそうです。
(使徒12の24)この用法は新約聖書中 ここだけで
用いられているとのことですが ギリシャ語にはそんな
形容詞があるのかと不思議です。

さて
実際にヘロデを打ったのは「主の使い」でした。これは
黙示録で 悪魔を天から地に投げ落とすミカエルを
連想させます。

そうなると「ミカエルと虫達(複数)は天と地で 一つとなって
働く」という事実を見て取れるのですが、虫たちの役目は、
地上をはいまわり、古い布ぎれに 微小な穴を開けて、
天の光を地上に導入する事ではないだろうか、
と考えると これは素敵な想像ではないでしょうか。

以上、虫と訳された語は、同じ一つの原語からでは
ありませんが、全部「はう青虫状の虫」(幼虫、幼い虫)
を指しているらしい、というのは 面白いことです。
その虫とは、地をはうように生きる、寄るべなき私たち
(赤ちゃん)のことかも知れません。

2011年8月20日土曜日

ケサはストーブですよ

福島の阿武隈は比較的に首都圏からも近く、標高も
そんなに高くないのに、どうしてこんなに「寒い」ので
しょうか。


さてある対話です。↓

イスラエル人達が
私たちをさばく王をください、と言ってサムエルに
強く迫った時、サムエルは気に入らなかったようですね・・


その通りだと思います。
それはまた神ご自身の御おもいでした。
私達は神の「初めからのみこころ」に従うべきであり、
私達の「かたくなさ」の為に「引き下げられた水準」を見て
「神が許された」と言って満足するべきではありません。

かたくなな「試みる者」がたくみにイエスに迫りました。
(マタイ19章)「妻を離別することをモーセ(神)は認めた
ではないか」と。

しかしイエスは言われました「初めは(In the beginning)
そうだったのではない。それは人のかたくなさの故である」と。

子供が「肉が食べたい、食べたい」とダダをこね、父の第一の
「初めからのみこころ」にいつまでも従わないと、神は
大量のウズラの肉を送られるかも知れません。
しかしそれは明らかに神を悲しませることです。
(究極的には人も満足することが出来ませんし
いずれ悲劇に至ります。)

「初めに神」(創世記1の1)の「みこころ」があるのであり、
「初めに人の」ではない、のではないでしょうか。

2011年8月19日金曜日

山小屋の飲料水はシロ

私が毎日・山小屋で飲んでいる水の放射能検査を
してもらいました。8月17日に、私が
2リットルの水を業者に渡しました。
(田村市がこの専門業者に検査を委託したのです。)

その結果が今日出たのですが
放射性物質は全く確認できなかった
ということでした。不検出です。

この水は近くの「マイマウンテン」である
天王山(標高900m)から湧き出る沢水です。

トミーさんとの対話

私は、信仰を持ちたての頃、自分の神に対する罪の故に、
イエス様に十字架にかかってもらうことは申し訳ないと
思いました。神に対する自分の罪の罰は自分で受けることが
ふさわしいと思ったからです。

主イエス様にそのことを祈ったところ、イエス様は言いました。
「あなたは地獄を分かっていない。私にまかせなさい。」と。

主らしい語りかけですね。とてもアーメンです。

あ今この瞬間、結構大きな地震が来ました!(14:37)
家具を押さえながら、いつものように
「サタンよ、あなたの国も間もなく神によって
激しく揺り動かされるよ」と言いました。

結果:
福島県沖で震度5弱、
家具がユサユサ揺れましたが、物が落下するなどは
全然ありませんでした。3・11があまりに巨大だったので
余震は数年続くだろうと言う説もあり、個人的には
全く心配しておりません。
今日はとても涼しく、長袖を着ています。

2011年8月18日木曜日

「小さな群れ」の貴重さ

キリストは
「小さな群れ」の重要性を強調されましたが
その継続は簡単なことではありません。

そのような集まり方・・
即ち、少数のキリスト者達が、全く対等な関係を
守りながら、しばしば集まること・・は
性質上、他の集まり方とは
根本的に完全に異なったものであるからです。

普通の一人のキリスト者が(単なる一兄弟として)
普通のなんでもない人間生活の中で、しかし人々には
知られることなく、
1.いかに御血にあずかったか
2.いかに神の敵に対して、証のことばを口にしたか
3.いかに自分の命を惜しまなかったか(黙示録12章)
によって、数名からなる
「普通のキリスト者の普通のあつまり」が 初めて継続可能な
ものとなる筈です。その一つでも欠けるともう難しいでしょう。

この二千年間、キリスト者達は容易に
先ほどの三点は「とても難しいものである」と結論づけるので
彼等はどうしても「他の方法」に流れて行かざるを得なかった
のです。(その流れが「キリスト教というもの」の歴史です。)

だからこの20の世紀の長い時間の中でさえ
初代のある時期を除き、そういう小さな集まりの継続は、
そんなに多くはなかったのではないでしょうか。
イヤ、とても少なかったはずです。

くりかえしになりますが、先ほどの「天来の三つの条件」が
本当に存在してこそ、人の目には簡単そうに見えるが、
内的には「天の性質を帯びた稀有(けう)な集まり方」が
初めて現実のものとなるのでしょう。

だからある意味で、それは
奇跡(天の法則が地上の法則を越えて現れること)です。
だから、もしもそんな奇跡がいたる所で起って来るならば
(当然隠された方法で)私達は 主の再来は極めて近い
と知るのではないかと考えております。

2011年8月16日火曜日

泊り客第一号

昨日から、一人・客人が来られている。
あの事故いらい初めての、記念すべき泊まり客である。
横浜の方だが、岩手でのボランティヤの帰りにわざわざ寄って
くれたのだ。何と交通手段は電車の「オール鈍行」。
彼は正直に「放射能は気にならないことはないですよ」
と言っておられたのだが、私としてはやはり嬉しい。

「自然は大好きです」と殆どの方は言われるが
その意味合いや程度は真に様々なので「油断はならない」。
しかしより若い頃、彼は台風になると嬉しくなって
外に飛び出したとか、何とあのチョウ危険な「沢登り」も
やったことがある、というのだから、その「自然大好き」の
程度は常人をはるかに超える。

だから昨日夕方「草深いこの小屋」に
車がいくら近づいても、彼には全く驚く風はなかった。
これも嬉しい。

彼はまだグッスリと眠っておられます。
「あれもう秋が来たのかな」というような
とてもとても涼しい山の朝、どうか、彼の都会生活の疲れが、
ここで少しでも癒されますように。


2011年8月15日月曜日

入道雲

小屋内外の雑物のカタヅケをしています。
ようやく「こざっぱり」として来ました。
そういう空間にくつろいで、森や空を眺めるのは
気持ちがいいものです。盛夏、特に空高くそびえる
モクモクとした壮大巨大な入道雲が好きです。


さて、法とはすごいものです。
「神は法そのものである」とも言えるかも
知れませんが、その法の制定者神でさえ、
法、法則、御自身のことばの制限を受けられるほどです。

旧約とは要するに「律法(法)と預言者」ですが、
預言者とは、法に基づいた
私のための日々毎分の「法の詳細」でしょう。

しかし、新約においては、総てが一気に単純化されます。
(これに気付かないと大変です)神は
イエスキリストを唯一「律法と預言者の具体化」と
定められたのです。
それは要するに、キリストを持てば、律法と預言者の
総てを持つ、ということです。それ故、神はモーセ(律法)
とエリヤ(預言者)を断固退けて、ただ一人キリストを
推薦(すいせん)して見せたのです。(マタイ17)

しかし、この啓示においては
私達は眠ってしまうか、トンチンカンなことを言って
しまいがちです。

だから後に新約聖書の手紙は改めて、いろんな角度から
「キリストイエスが私達の総てである」と言うのです。
聖書が総てというからには、キリストは本当に総てです。
(キリストは私たちの総ての必要の満たし、私たちが
必要とする総て力の源・・・)

所が、この表現(キリストは総て)はとても
美しいので、その真意が私たちに届かないことが多い
ようです。それ故「私たちが生きること=キリスト」である
とさらにパウロは言ったのではないでしょうか。

2011年8月12日金曜日

震度5弱だそうです

早朝の地震、震度5弱だそうです。
ほんの少しだけ、タナのものが落ちましたが、まあ
どおってことはありません。またか、
ということろでしょうか。

今小屋内外の整頓をしています。
地下の客間を一つ物置としてつぶしたら
1、2階のカタヅケがずい分ラクになりました。
これでようやく
この小屋の震災からの復旧が総て完了したことに
なります。自分に「おめでとう」と言いましょう。


朝、詩篇とルカを読んでいます。

詩篇18の3:
主は・・ほめたたえられる方、この主を呼び求めると、
私は敵から救われる。

ダビデの場合も
賛美と懇願が彼を敵から救いました。

このダビデの言う「彼(神の民)が敵から救われる」
というその分量だけ、敵が後退し、結果その分量の
神の国が地上に現れることになります。だからダビデの
祈りにおける賛美と戦いはとても「真剣」なものでした。
真剣とはまた神のことばのことであり、それを敵に対して
突きつける時、敵は「後づさり」せざるを得ません。

ルカ12の31、32、37:
何はともあれ、神の国を求めなさい。・・・
小さな群れよ。恐れることはありません。
あなた方の父であられる神は、
喜んであなた方に御国をお与えになります。・・
目を覚ましている所を見られる「しもべ達」は幸いです。

「御国が与えられる」というのは、ダビデ同様
今すでに私達においても始まっていなければなりません。
この前後のルカの記述を見るまでもなく
御国とは、キリスト者が死んだら突然与えられるもの、
である筈はありません。



2011年8月11日木曜日

立ち上がったダビデ

私たちにとって
「取り返しのつかない失敗」はあり得ます。
しかし、神にとって
私たちの取り返しのつかない失敗はあり得ません。
イエスの無限に尊い御血以上に重い
人の罪は断じてあり得ないからです。

早速
とても素晴らしいコメントをいただきました。
ありがとうございます。↓


昨日、ちょうど「霊の人」の2巻の”悔いる”という所を
読んでましたが、まさにダビデは詩篇の中で、賛美の前に
悔いる、砕かれた魂が見られます。(特に6篇など)
ダビデはその失敗を本当に悔いたことでしょう。
それは本当に敵を意識した神への懇願だったと思いました。

この悔いるということは、敵には絶対不可能ですが、
人にとってはとても貴重なことですね。賛美もそうです。

「悔いる者の霊は神の霊と共にあり、悔いることによって
目を覚まして歩むことが出来る」とありました。
まさにそうです。

しかしその明確な悔い改めの後、シッカリと立ち上がった
彼の姿は、神への大きな賛美と敵に対する大胆な糾弾へと
極めて大きな変化をとげたのです。

イザヤ57:15
いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖と
となえられる方が、こう仰せられる。
「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人
とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を
生かすためである。」

★sugar:
きのう突然、東京から6名の方たちが訪問してくださいました。
私は「勇気のある皆さんを歓迎します」と言いました。




ダビデのうたた寝

ケサも詩篇を読んでいましたが、
詩篇のテーマは正に賛美と戦い、そして十字架です。
この三つが一貫して流れています。

その中でも、敵に対する
「仕返し・報復を神に懇願する祈り」はとても大切です。

ダビデの祈りはその点、何と具体的で強烈、そして
数多いことでしょう。
(私たちの祈りもそのようであるべきです。)

ダビデの実際的な戦いために、彼の隠された
そのような懇願は、相当大きな役わりを演じた筈です。
その点彼は、ルカ18章の
神に対して「しつこい」ヤモメと全く同じです。

ですから、神の国のために、
常に戦いの渦中にあるべきダビデに「霊的なうたた寝」を
する時間などあろうはずがありませんでした。

しかしⅡサムエル11の1,2を見ると
春のある日、そのダビデも、怠惰な長いうたた寝の後、
取り返しのつかない大きな失敗をしてしまったようです。

霊的うたた寝とは、
悪霊が私の霊を閉じこめようとする力に反発するべく、
聖霊と共にある自分の霊(きわめて深い所にある自分自身)を
外面に強く押し出すことをおこたり、
「自分のベッド」にもぐりこみ「自分の世界」の中に
引きこもってしまうことではないでしょうか。

「だから目をさましたいなさい。」(マタイ24ノ42)

2011年8月9日火曜日

賛美は敵をはずかしめる

正にその通りだと思います。

賛美とは当たり前ですが「神だけへの」賛美です。
その意味は・・

私はこれまで、自分やこの世に頼り、人間をほめたたえる
ばかりでありました。即ちそれは、結果としてその背後にいる
「自分とこの世の深い力・サタン」に従い、彼を
賛美していたことになります。実際のところ、私はサタンに
よって大いに苦しめられて来たにもかかわらずです。
(ホンとにおかしな話です!)

しかし神は、御子の十字架の御業によって
私たちを苦しめ続けた神の敵をうち砕いて下さったので
今は「ただ神だけを」賛美するのです。そして
「神以外の総て」の背後にひそむ諸悪の根源・サタンを
引き続いて退けます。

と言う意味なのですから
賛美はサタンをヒドク辱(はずか)しめることになり
それは同時に、その手下ども・悪霊達を退散(たいさん)
させます。(その結果、賛美する者はたやすく
あるフシギな精神的解放を感じるのです。)

要するに神への賛美とは、結果的に
「サタン、あなたはあの十字架上で、既に神によって
打ち負かされているのだよ!」という真理を
サタンに対して私たちが力強く宣告することです。

だから「人の口による」心からの賛美によって、既に敗北
させられている悪霊達の真のありさまや正体の暴露(ばくろ)
することほど、彼等をおののかせるものはありません。

従って、乳飲み子、みどり児(私たちです)が
「詩歌」を心から歌う、気持ちをこめて歌うことは
悪霊達に対して
とても効果的であることは疑うよちがないのです。
(またそれは「人の霊を強くする」訓練としても
大いに役に立つことでしょう。)

詩篇8編、ミュージシャン・ダビデの詩は
「賛美による悪霊に対する勝利」という彼の
実体験から生まれたものに違いありません。

2011年8月5日金曜日

晴天はあさってから

きのう、
「ジメジメ天気はいつまで続くのだろう」と
つぶやいたら、今日の朝、ホンの一時的に、パーっと
全面とても美しい青空になりました。(神様、有難う。)
本格晴天、今日の予報は「あさってから」だそうです。


ほんとに敵は、とことんワルですね。
正解は『悪の根源は人ではなく、サタンにある』のです。
(イザヤ14-12~15)

コメント感謝です。
本当にサタンはワル「ウソと死のカタマリ」です。
彼のどこを切って見ても、その二つ以外のものは流れて
来ません。即ち、この二つはサタンの血です。
その意味は「彼にとって、彼の命・彼が生きることは
即ち、彼の死といつわりである、死といつわりが
彼の総てである。」 と言うことです。

イエスも
「サタンがいつわりを言う時、彼自身のものから語る」
と言われました。(ヨハネ8の44)
しかし、
「私達が生きるということ」はパウロのように、ただキリスト
であるべきです。To.me.to.live.is.Christ(ピリピ1の21)


「聖なる創造主・神」対
「無限とも言えそうな、被造物サタンの悪」
(神はこのテーマだけでも大変です)

これが聖書の「最も深いテーマで」あり、首尾一貫して
聖書を流れる背景です。これは背景ですから、
隠れているサタンが読者の目に入らないことも多いのです。
(目前の展開に気をとられますから)

さらに「主要なテーマ」は
その二者(神とサタン)の間に、あえて中立的な存在、
全く自由な意志を持つ人を置かれ、

しかし神はついには、 どうしようもないと見える
サタンの支配に引きずり込まれてしまった人をして、
(引き続き自由意志を与えたまま)信仰を賜(たまわ)り
神と共に「サタンを含む万物」に勝利させ、
万物を支配させるにいたる、と言うことかも知れません。
(これは神にとって、さらに大変なことです。)

しかし、神は神です。かれは以上の遠大なご計画を
必ず達成されます。イナ永遠においては既に
総てを達成されずみである、とも言えるのです。

結局私達は、
「ああ神よ、あなたは真に偉大です」と叫ぶ以外
何をすることも出来ないのです。


ですから聖書を読むとき、神の愛に加え、
「万物」「サタン」「だれが支配するのか」「信じること」
「戦い」「人の自由意志」などから目を離すわけには
行きません。

2011年8月4日木曜日

外仕事がしたい

夏だというのに、毎日ジメジメとした天気が
続いています。(今も外は霧)どうしたことでしょう、
いつになったら外仕事が出来るのかな、
予報をみると面白いことに(くやしいことに?)
晴れの日は毎日「しあさってから」なのです。


さて、私達キリスト者は、実は神によって
「24時間、常に法廷に置かれている」のです。
あなたの「普通の人間生活」が総て法廷であり、
今とは法廷の中ですごす時代なのです。

しかしサタンは、まんまと、ほとんどのキリスト者
に対して、この事実をかくすことに成功しております。
私達は、自分は法廷にいるという自覚がないので
日々気ままに、ただ自分のための生活を送るばかりです。

従って、法律の中に何が書かれているのか、今、法律の
中でポイントとなる法律は何かを知ることはないし、
ましてや「適切な法律を取り出し、どうやって法廷で
敵を追いつめるべきか」等の研究をすることもありません。
極端(きょくたん)になると、法廷や法律等の
存在を知らない人さえいるようです。

しかし中には
あの悪者にウスウス気付いている人もいるのですが、
この悪人の黒い影というハリコのトラのオドシにおびえ、
「さわらぬ神にたたりなし」と事実を見ても見ぬふりをする
ばかりです。(それとなく恐れさせる手法は古今東西、
「暴力と悪」が使用する、ありふれた手口なのに・・)

これでは汚染、腐敗は広がる一方です。悲しむべきは
「悪の根本」に迫ろうとする人、悪に対抗して、真剣に
立ち上がろうとする人、即ち「真の義人はとても少ない」
と言うことです。
(ロトでさえ少しは義人でしたよ!Ⅱペテロ2の8)

私達の状況がこうなのですから、本当の悪人、諸悪の根源は
今日「彼の本当の姿、彼のヒドイ悪事があばかれる」ことから
ゆうゆうと免(まぬが)れているのです。

これは神の敵の大きな成功です。
自分を物や事の背後に隠すこの黒幕(くろまく)は、実の所
正に野放し状態なのです。なぜなら彼は、彼の無数の手下、邪悪な
チンピラである霊どもを日々使って、ほとんど彼のしたい放題の
悪事を人々や神の民に対してさえ、ヤスヤス実行することが
出来るからです。

真に、悪の本質と手段とは、隠蔽(いんぺい)であり、真相を
かくすというウソ、すなわち虚偽(きょぎ)なのです。その中でも
最大級のものは「悪の根源は人間にある」という「彼の隠蔽」
即ち自分を隠して、悪事を総て他のせいにすることです。
聖書は言います「この悪魔に立ち向かいなさい。」
(Ⅱペテロ5の9)

2011年8月2日火曜日

ルカ18章のヤモメも参考にして下さい

ルカ18章のヤモメとは私達、
ヤモメをひどい目にあわせる相手とはサタン、
裁判官は神です。

ここでは、ヤモメが
裁判官に対して、相手のムゴさ、ヒドイいじめへの
「仕返し、報復」をして下さいと、日々「うるさいほどに」
しつこく訴える点に強調があります。

このことを私達に当てはめて見るとき、
日夜サタンと悪霊によって手ひどく苦しめられている
私達がこれを実行しない理由はどこにもないのです。
実はこれこそ、この最後の時代に、主イエスがキリスト者に
求めておられる要求です。(8節のイエスのことばに注意して
ください。これは彼の「ひめたる」大きな期待から
発せられたことばに違いありません!)

さて、ヤモメが裁判官に対して、要求・懇願(こんがん)した
時に用いた言葉は「裁判」「さばき」という上品な言い方
(新改訳)ではなく、リベンジや「あだうち」と言った
強烈(きょうれつ)な意味をふくむと言います。

結論として
私達が霊的戦いにおいてするべき2方面とは
①直接私達が、サタンに向かって発する糾弾(きゅうだん)と、
②私達が神に対して「カタキ・サタンを滅ぼして下さい」と訴え、
懇願(こんがん)・要求するという二つです。

いずれにおいても、極めて大切なことは
「神のことば」である真理(法)にかたく立ち、
それを実際に具体的に口にすることです。

私達がサタンを糾弾(きゅうだん)する場合
神のことばをも悪用するサタンの巧妙なダマシに対抗し、
神のことばを正しい方法で、私達の口からサタンに向かって、
真っすぐに突きつけることが大切です。悪霊に対して、
私達の口からもツルギがつき出るべきです。
それは荒野における主イエスの戦いと同じです。

エデンにおいて、
人はサタンのたくみな言葉に破れました。
しかし、荒野において
人の子はサタンに、やはりただ神のことばによって
勝利されたのです。(マタイ4章)

階段のかべを作っています

雨降りなので、中で階段横の壁を作っています。
これが終われば、二階を一階から遮断(しゃだん)
するために板で階段をおおうのですが、そのための
よい方法をきのうフト気づいたのです。それは実に簡単で
効果的なやり方なので、自分ながらちょっと驚ろきました。
(それまでは相当面倒な方法を考えていたのです。)
山で一人で大工をしていると、時にこう言うことが
起るので面白いです。


さて
私達がサタンを糾弾(きゅうだん)することは、
実に奥が深いです。 黙示録12章によれば・・

先ずは、①御血が、絶えず、絶対的に必要です。
それを忘れ、自分で出て行ったら(サタンに対抗したら)
戦う前にボロ負けが決まっています。

次は②「証しのことば」ですが「証し」とありますから、
それは、私達が 法律(神の言葉)をよく知った上で、
法廷に立つ姿を連想させます。法廷とは当然、ことばが
大いに飛びかう場所です。

その証人(私達)の前には、裁判官なる神と、
私達の横には、敵である巧みな「訴える者」がおります。
その訴える者(サタン)はきわめて勤勉で、実に口八丁
手八丁、とても高い能力を持ち、とうとうとして、私達を
(本当は日夜)訴え続けるのです。(何とずうずうしい!)

彼の本質は悪(ウソと人殺し)なのですが、法廷の
場面においては、必ずしも正義が勝つとは限りません。今とは
「あなたの現場で」常時開かれている「法廷の時代」なのです。

また背後には 無数の傍聴人(ぼうちょうにん)すなわち
有形、無形の被造物(天使達)がいて、一言も聞きのがす
まいと、カタズをのんで主役の対決を見つめているのです。
当然、傍聴人が発言することは許されません。

裁判官も、法廷においては、特に今、
(サタンの不正に対する彼の激怒(げきど)は明白なのですが)
その最終判断をかくし、あまりしゃべりません。

だから あの訴える者に対する私達の言葉や弁明等
(法律が正しく適用されているか等々)に加え、
私達の態度、目つき、顔つき、語調などが
総ての「なり行き」を決定するかのようです。

最後に
私達は③「自分の命」を惜しまないことです。
これは日々負うべき私達の前に置かれた十字架です。
実は「自分の魂の命を捨てた者」以上に、この世で
強い者はいないのです。

もしも以上をクリアすることが出来れば、あのたくみな
訴える者も、何回でも!イナヅマのように、天から地に投げ落と
されるでしょう。 今日でさえ、主イエスは(時空を越えて)
それをご覧になるのがとてもお好きです。(ルカ10章)