2011年8月15日月曜日

入道雲

小屋内外の雑物のカタヅケをしています。
ようやく「こざっぱり」として来ました。
そういう空間にくつろいで、森や空を眺めるのは
気持ちがいいものです。盛夏、特に空高くそびえる
モクモクとした壮大巨大な入道雲が好きです。


さて、法とはすごいものです。
「神は法そのものである」とも言えるかも
知れませんが、その法の制定者神でさえ、
法、法則、御自身のことばの制限を受けられるほどです。

旧約とは要するに「律法(法)と預言者」ですが、
預言者とは、法に基づいた
私のための日々毎分の「法の詳細」でしょう。

しかし、新約においては、総てが一気に単純化されます。
(これに気付かないと大変です)神は
イエスキリストを唯一「律法と預言者の具体化」と
定められたのです。
それは要するに、キリストを持てば、律法と預言者の
総てを持つ、ということです。それ故、神はモーセ(律法)
とエリヤ(預言者)を断固退けて、ただ一人キリストを
推薦(すいせん)して見せたのです。(マタイ17)

しかし、この啓示においては
私達は眠ってしまうか、トンチンカンなことを言って
しまいがちです。

だから後に新約聖書の手紙は改めて、いろんな角度から
「キリストイエスが私達の総てである」と言うのです。
聖書が総てというからには、キリストは本当に総てです。
(キリストは私たちの総ての必要の満たし、私たちが
必要とする総て力の源・・・)

所が、この表現(キリストは総て)はとても
美しいので、その真意が私たちに届かないことが多い
ようです。それ故「私たちが生きること=キリスト」である
とさらにパウロは言ったのではないでしょうか。

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