2010年5月26日水曜日

全ては神からのもらいもの

*あるメールから*
T 兄弟
神から私たちに与えられる試練というものは 
どうも 私たちの学びと関係があるようですね。その学び
と言うのは「啓示と経験にいたる学び」のことです。

その前に、だから、神に対して「ゼヒ啓示を得たい、
この真理の真の意味を知りたい」という具体的で明確な、
そして強い願いが必要です。(願いは極めて重要です。
それが無ければ何も始まらないでしょう。)

当然その場合、そこには 神への従順と信頼が
要求されることになります。
ですから、人にとって一番大切なのは 神への
従順と信頼でしょう。まとめると
神への服従の心→真理を知ることへの強い願い→啓示が
与えられる→その真理を経験する、という順序になります。


従順と神への謙遜(けんそん)、
自分が被造物であることを忘れたかのように
ある日「私、私、私 と言う思い」(イザヤ14章原文)
を持ってしまったルシファーとキリスト者とを分ける
それらは とても大きな分岐点(ぶんきてん)となるでしょう。

しかし、私たちが条件を満たしたとしても
神からそれら(啓示等)が与えられるまでの時間の長さは
神の中にあり、人はなかなか それをうかがい知ることは
困難です。多くの場合 それらはある時に突然来るようです。
またメールして下さい。

PS:
ある日 ルシファーは愚かになりました。
それは 彼の能力と美のせいでした。人と比べれば
途方もなく絶大な彼の能力や美も しょせん 
神からのもらい物に過ぎないことを
彼は忘れてしまったかのようです。

しかしながら、私達人も自分の 
血肉の中に サタンと全く同じ性質を「注入されずみ」
であることを決して忘れてはなりません。
それはおもに「自分を神と等しくしたい」と言う 
自らを高めるひそかな思いです。

パウロは言いました:
「あなたには、何か、もらったものでないものが 
あるのですか?」(Ⅰコリント4の8)
彼は神であり、私達はしょせん「つくられたもの」に
過ぎません。ただ創造主 神を賛美します。

2010年5月25日火曜日

もしも

人間アダムの罪の処罰は 当然
人間アダムの上になされなければならない。

もしも仮に
イエスに罪があったとするならば、
彼は一人 自分の罪の贖いをするのみであり
誰一人救われることはない。

そしてもしも
イエスが単なる「純白な人」であっただけならば
彼は 他のもう一人の人の罪の贖いには
なれたのかも知れない。(しかしそこに復活はあり得なく、
いまだに救いは存在しない)


しかしイエスが
真に神の子であったとするならば
彼の無限の尊さと無限の価値の故に
全人類の総ての罪を贖っても 更にありあまる
無限のおつりが来る。
要点は彼の無限性にあり 無限性は神のみに存在する。

人の子となられた無限な神の子は 
あの日あの木の上で 彼の上に 
罪深いアダムという有限な全人類と 
アダムに付随(ふずい)する有限な総ての物質世界を
着られたのである。

彼の贖いが 父なる神の心にさえ全き満足を与え得る
完全の完全であったことは 言うまでもない。

2010年5月23日日曜日

ありふれた一本の草木


神の荒野の中の、
ありふれた一本の燃える草木!
祝福されたる主よ、私はそのようでありたいのです、
ただ なが名の栄光のために。

その中に神が住まい
それを通し神が語り、
それを通し神が告げることが出来る
ありふれた一本の草木。

人に対する神の願望の総て、
彼の愛の目的の総ては
人が 地上の光によらずに燃えること、
上からの栄光のみによって。
4
その一本の草木の内にある神ご自身は 
炎以外の何物でもありません。
だから
私はそのような草木でありたいのです、
ああ神よ、
ただあなたの名の栄光のために。



この詩の作者は
20世紀初頭、英国から宣教師として中国に渡った
一人の姉妹です。

しかしその後 彼女は神の導きにより何と 総ての団体と
経済的援助から離れ、当時の中国において、一切を
神により頼む生活へと入られました。

そのような神への生涯の奉仕の中 彼女がなした総ては
ある寒村に留まり、ひたすらごく少数の 中国人青年達の
霊的成長のために仕えることでした。

姉妹の薫陶(くんとう)を受けた兄弟の一人
W.ニーが後に ただ神のためだけであった彼女の尊い
生涯を伝記にまとめようとしたのですが、何故か
神はそれさえもお許しにならなかったのです。

真に彼女は
ただ神のために燃える ありふれた
一本の草木であった、と言えるでしょう。



In the wilderness for God!
Just a common bush aflame!
Thus may I be ,blessed Lord,
For the glory of Thy Name.
2
Just a common bush to be,
Something in which God can dwell,
Something thru which God can speak,
Something thru which God can tell,
3
All His yearning over men,
All His porposes of love,
Flaming with no light of earth,
But with glory from above:
4
God Himself within the bush,
Nothing seen but just the flame;
Make me that,just that,O God,
For the glory of Thy Name.
(Margaret E. Barber)

「神は(燃える)柴の中から彼(モーセ)を呼び・・」
(出エジプト3の4)


この詩はごく最近 在米のあるキリスト者が
紹介して下さったものです。

2010年5月19日水曜日

礼拝とは

「人の霊の中での 神との交わり」です。

それは決して
特定の場所と時間を定め
立ったり座ったりすること ではありません。
礼拝と「格式・形式」との結び付きは
総ての宗教に共通する明らかな特徴です。


イエスは言われた:
イザヤはこう書いているが正にその通りである。

この民は、口先では私(神)を敬(うやま)うが、
その心は、私から遠く離れている。
彼らが私を「拝んでも」むだなことである。

あなた方は、神の戒めを捨てて、
「人間の言い伝え」をかたく守っている。
(マルコ7の6から8)


「人間の言い伝え」とは
神のことば・聖書にないことです。

2010年5月18日火曜日

ある祈り(5)

・・
病状は「加速度的に」悪化して行ったようです。
遂に医師は この患者(かんじゃ)に 
いつでも直ちに対応できるようにと 
特別に 看護士達の目が常時(じようじ)届く所
(EU室?)に移しました。
これがこの1月28日のことです。

本人の意識はもはやなく、医師は家族に対し 
今日が「その日」かも知れない、よくてもあと三日
だろうと告げたのです。
家族は親戚(しんせき)を病院に呼ぶ手配をし、葬儀
(そうぎ)の段取(だんどり)まで考え始めたと言います。


この三月 当ブログに以上のように書いた「末期ガン患者」
B姉妹に関する最新、昨日の情報です。

医師はこの患者に何と今回 次のように語ったそうです:
「数日後 多分最後の入院をしていただきますが 今回は 
ある処置のためです。それ以後、あなたは
随分(ずいぶん)楽になられることでしょう。」

これをA姉妹に告げるB姉妹は しばしば食べる喜びに
ついて語られ そういう時に
A姉妹が「目をみはり、そして胸にしみた感動」は B姉妹の
首尾一貫(しゅびいっかん)した屈託(くったく)のなさ、
軽快(けいかい)さ、明るさなのです。
B姉妹は この入院の後 ご主人と箱根の温泉にでも
行こうかと話をされているとのことです。

一体この姉妹に何が起こっているのでしょう。

2010年5月16日日曜日

サタンよ

あなたは黄泉の人ですが、
私は天の人です。

なぜなら
「あの最後の人」の中で 
あなたは黄泉に留め置かれ
私は更に その人の中で死から復活し、
遂には 天に達したからです。

ジュンのかわいい声

何と 30年前の 
「わが家のある日」の録音テープが出てきた。
母、秋田のおばさん、そしてジュンのかわいい声が!
テープの中で三人は確かに生きてここにいる。
30年前のリアリティが今、正にここにあるではないか。

しかし、
「現実には」この三人は既に故人である。 

そうすると真にリアルなものは 
今のこの瞬間のものだけなのであろうか。
しかし次に それではこの瞬間のものであれば 
本当にリアルなのであろうか、
と言う疑問が出てくる。

総ての物質と人の一切の営(いとな)みは間もなく 
変化・変質・腐食(ふしょく)の中で暗黒の死の中へと
吸い込まれてゆく。これほど確実な現実はない。それにしても
真のリアリティとは「その程度のもの」なのであろうか!

確かに言えることは この時間の中にあるものは 
どんなものであろうと 私の手の中に確実に永遠に
握(にぎ)れるものなど何一つない ということである。


「最後のアダムの血肉」という物質において、
総ての物質の入れ物である時空さえも 
神は「あらかじめ」それらの総てを一切黄泉(よみ)に送り、
しかし三日後 何と
時空と死と一切の制限を超越(ちょうえつ)した 
「永遠という世界」を
復活した命というイエスの霊の中で
総ての人に 無代価で付与されるという
大いなる神に ただ感謝をささげたい。


「テープの中に」
母、おばさん、ジュンのリアリティはない。
しかし、
「そのイエスの中に」
三人のリアリティは確実に存在している。

2010年5月15日土曜日

個人的啓示の道

この時代においては 神は
人の霊の中の聖霊によって極めて明確に
一人一人を個別に導かれます。
聖霊の能力は偉大です、
それを全体として見るとき エクレシアは
おのずと美しい一幅(ぷく)の絵となるのです。
従って人間による一つの号令は全く
必要ありません。この道はあくまで
一人の神ご自身による
個人的な啓示の道であるからです。


私たちが 過去のある聖徒(先人達)を見る場合、
価値があるのは 彼らが
神からの真の啓示を受け、聖霊の中で
歩んでいる時期に限ります。その奉仕の生涯において
文句なくその人生全体を評価できる人は極めて
まれでしょう。(パウロにさえ失敗がなかった
わけではありません)

キリスト者が 
たった一人の時間を 主とともに過ごす
「主のみに仕える時間」(真の礼拝)は
何と重要なことでしょう。
それは、神の
悪しき霊達に対する対応にさえ
少なからぬ影響を与えるに違いありません。

2010年5月13日木曜日

善いこと 悪いこと(2)

十字架とは神の最大の意図であり、
それは大洪水と「燃える火の炉」の原点です。
神は堕落(だらく)しなかった天使をのぞく 天地にある
一切のものをこの原点の中に投げ込まれたのです。
(そうです、御子さえも!)
そこにおいて総ては もはや燃える要素が
全くない灰(完全な死)となるためです。

しかし、私は
今この時空の中で その神の意図に同意し 
神と結びついた私の祈り(信仰)において
厳しい冬も、爛漫(らんまん)の春も、息子達の病気も
結婚も、即ち悪いことと一切の善いことでさえ
(かつて私は自分の意志を用い パプテスマにおいて、
自分の総てを大水の下にもたらしたのですが)
今一度、そして毎時「私の総て」を 
その炉に投げ込む必要があります。その時 
それら総ては 私から隔絶(かくぜつ)され 
神の炉の中で灰化するでしょう。

しかし、そうする時 私達は必ず三日後 
それらの一切を含み 灰の中から天に向かって
飛び立つ一羽の不死鳥を見るでしょう。

神にとって価値ある唯一つのものとは 
その完全な灰の中から 悠然(ゆうぜん)と
飛び立つことが出来る復活のキリストです。

今のこの時間の中で(次の時代を待つことなく)
日々十字架の焼却(しょうきゃく)する効果を 
自分の身の一切に適用する人は幸いです。

2010年5月12日水曜日

寒い5月

日々濃(こ)さを増す林の緑は 表現しようもない
美しさですが、外は冷たい雨と風、何と
明日の気温は最高が10℃にも届かないとか。
雪でも降らなきゃいいのですが・・。

作業は相変わらず
外と地下部分の物置の片付けです。今日
地下室の外壁を新設して そこに棚(たな)を作り
その上に整理したものを 箱づめにして
保管しなければなりません。

こういう面白くも何ともなさそうなことを 連日ただ一人 
地下に電灯を引っ張って黙々(もくもく)やっているのです。
しかし これも山暮らしの一面であることは確かです。

花粉症異変:
杉花粉症が相当軽減(けいげん)したように見える
ことは書きましたが、今頃になってわが鼻と気管支は 
ヒノキ あるいはブタクサに反応しているのかも知れません。
その他「新緑時花粉症」というのでもあれば
それがピッタリなのですが・・。

しかしこの判定は微妙(びみょう)、
なぜならこの鼻のグズグズはもう一つの原因、
数日前にひいた風邪のせいかも知れないからです。
(風呂上りうっかり寒くしてしまった)
花粉症と風邪 これは見分けが難しいし 両方の合併
(がっぺい)かも知れない。なるほど人生とは
鼻と気管支の不調を一つ取って見ても 複雑なものではある。

2010年5月10日月曜日

安らかな息づかい

不思議なことですが
信仰とは「休むこと」です。

神にとっては 先ず働きがあり。
最後に七日目の安息が存在しました。

しかし感謝なことに人の総ては
その神の安息から、徹底的な休息から
始まります。

私達はこの聖書の極めて基本的な真理を
ただ理解するだけでなく
①主ご自身と 
②「彼によって既に達成された事実」を見、
そしてその中に完全に「いこい」
その結果
平静な心臓の鼓動(こどう)を得
私の息づかいが本当に
安らかになる必要があります。

2010年5月8日土曜日

夢の露天風呂

正確には何という名前なのでしょうか、
今 朝の5時、ロフトの窓から 
我が家の地味(じみ)な山桜がパラパラと満開です。
(花の数が少ない、ということ)

今回 入山した3日 森の木々は
まだ全く冬の装(よそお)いだったのに、きのう今日、
ようやく黄緑の世界に変わりつつあります、ようやくですよ。
もう数日で コシアブラの葉っぱも食べられるかな。
でもテンプラはめんどうくさそう。

きのうはゴミ焼きでした。
不要物は いずれ必ず焼く必要があるのですね。
私の中の不要物はどうでしょうか。

取り付ける前にと思って 
黒のレンジフードにペンキを塗(ぬ)りました。
このレンジフード、大きすぎて他とのバランスを壊(こわ)
します。それでオフホワイトにしました。
ペンキ塗り 意外と楽なものですね。これだと
雨漏(も)りで見苦しく変色した南デッキも
簡単に塗れるのかも知れません。

今日も小屋の北側、ガラクタの片づけです。
ここに露天風呂を作るのはいつになるのでしょう。

ムーンライトですか、ハイやってますよ。きのうは頭から
4、5小節あたりでした。
脳の老化(ろうか)防止には効きそう。

2010年5月6日木曜日

陽子姉妹のご主人

陽子さんのご主人の脳内に生じた
生命もあやぶまれる危機が 奇跡的に回避された
ことについては 2/25に当ブログにも
書かせていただきました。

それでも、ご主人は
いまだに大変な制限を持っておられます。
しかし、
陽子さんや他のキリスト者達と そのようなご主人の交流は 
正に「霊の中」でなければ 絶対にあり得ないことです。
以下に陽子姉妹の証しをまとめて見ました: 

5月○日
主人は過去5回も 脳梗塞におそわれました。
そのひどい後遺症による認知症から彼は 口に出しては
祈ることは出来ません。しかし私が みことばを読んで
聞かせると彼は涙を流します。それを見ると
「イエス様を信じる心」というものは 
とても強いものだと思わざるを得ません。

あすの面会の時、彼が私達の言うことを 
聞き取れる様にと 主に今からお祈りをしております。
出来れば いろいろなことを交わりたいからです。

また主人の心がさびしくならないように
今から主が彼の心を満たして下さるようにと祈ります。
今の私に出来ることは ただ祈ることだけですから。

5月○日
今主人は ある特養ホームのお世話になっております。
姉と面会に行くとき私達は まずは大切な聖書を取り出します。
それは私たちが みことばを大きな声に出して読み、
それを主人に聞かせるためです。

賛美をし、お祈りしているとき、またそのあと、私達は 
主人の口から出る声を一言も聞き逃すまいと一生懸命
主人の口を見つめます。
言語障害が有るので 聞き取るのは大変です。それでも彼が発する
言葉の意味が分かる時、私と姉の喜びは本当に大きいのです。
そのあと「主の祈り」をしてアーメンを言うと いつも
ああ今日はこれでよかった と思います。

5月○日
昨日 主人に会いに行きました。
面会は 少し間をおいて行きます。
それは主人の変化を見るためです。

私達が賛美を歌うとき 主人は何と体を揺らして私たちと一緒に
賛美をしているようです。そういう主人を見ると私達は
とても幸せな気分に満たされます。

今主人は 昔大好きだったゴルフや車の事などはスッカリ
忘れたようです。しかし感謝なことに 私たちの事を分かって
くれているのは とても確かなことです。これは主が 主人の
心の中をシッカリと見ていて下さるからなのだと思っております。
本当に神を賛美します。

2010年5月1日土曜日

ある姉妹から

Sugar:
去年 ジュンの死の直前 姉妹が見られた
彼に関連した不思議な「幻」のこと、
私は生涯忘れることはないでしょう。
再び姉妹からいただいた このたびのメール、
必ずや多くの人々の励ましとなる筈です。
どうぞ転載させて下さい↓


こんにちは。
ケンさんの記事を読み
ある姉妹のことを 書きたくなりました。

この姉妹は 
10年以上前からアルツハイマーにかかり、さらに
2年前に交通事故にあって頭を強打
アルツハイマーの症状が更に重くなりました。
ご主人がつきっきりで側にいなくてはならないほど
良い状態ではありません。

この3月の末
その姉妹が 引越しされることを突然聞かされ
私はとめどなく流れる涙とともに
お別れの挨拶をしました。

そのとき私は
私の「内なるお方」が 姉妹の「内なるお方」と
強く触れ合う経験をしたのです:
姉妹はただ一言
「楽しかったね」としみじみと言われました。
その時、そのことばに命が流れ 私は力づけられたのです。

主がなさったことに私は驚き
主の前に平れ伏さざるを得ませんでした。
すべてにおいて弱くされた姉妹を通し
主は私を力づけてくださったのです。

どんな状態にあっても いのちといのちを 
つないで下る主をほめたたえます。
ケンさんのこと 覚えさせていただきます。


キリスト者に起こった同様の出来事に関連して
ドッグウッドさんも 極めて貴重な体験を
分け与えておられます:
http://angel.ap.teacup.com/miluku/

О 兄弟から

主を崇(あが)めます。
・・・
このたび、ケン兄弟の記事を読みました。
辛(つら)さと嬉しさが交錯(こうさく)します。まさに
錯雑(さくざつ)状態です。主と結ばれていることを確認できて
本当に良かったですね。

「彼の精神の底が今 更なる崩壊(ほうかい)へと向かっている
のかもしれません。」
私の考え(私見)ですが、救いに預(あず)かっている人の精神
活動の表れは、ご存じのように霊、魂、体(大脳を含む)の
有機的な働きによるのだろうと思います。

体(大脳を含む)の一部の大脳の器質(きしつ)的 或いは、
機能的障害(しょうがい)によって、他者との
コミュニケーションが うまくいかなくなっても ご本人と
神様とのコミュニケーションは成り立つのであろうと思います。

また、ご両親を識別(しきべつ)できれば ご両親がお祈りした
時に、上手に表現できなくても 心の中でアーメンと唱和
(しょうわ)することができるのではないかと想像します。

キリスト者の認知症(にんちしょう)の方で そのように
思われる事例があるのです。認知症で本人が祈れなくても 
「アーメン」だけ唱和してくださる方がいます。・・・


「0兄弟、有難うございます。」
0兄弟は漢方の医師、薬剤師です。