2010年6月29日火曜日

昨日の証しを読んで

*あるメールから*

僕の場合は、試練や困難があると
つい神から罰せられているとか、
懲(こ)らしめられていると思ってしまうのですが、
実は訓練なのですね。
改めてそう思いました。

以前の僕の信仰がそうでした。
外面的な、目に見える祝福があれば
とても喜び感謝し、試練や困難が来ると
必死に回復と祝福を祈る、というパターンでした。

しかし一番大切なことは 
「主の御心と主が備えられている道」に焦点をあて 
そのようにして、僕自身が主からの取り扱いを
むしろ「喜んで」受け入れることではないでしょうか。
今 父なる神が彼の愛の中で 私たちを
そのような道へと導いて下さっていることを信じます。

比較することではありませんが、
御子イエスも「十字架に向かう」という壮絶(そうぜつ)な
道を歩まれました。しかし父なる神はそれに対して
何もされず ただ黙されたのです。
これは何ということでしょう。
このことをどう表現したらいいか分かりません。しかし
それは 私たちに対する大いなる神の愛からのものです。
これは、よく私達クリスチャンがイメージする
「いわゆる愛」とは相当違うように思います。

そこで
私たちに対するこの「神の取り扱い」は 
そのような神の愛と決して切り離しては考えられない
のではないでしょうか。しかし確かにそれは神御自身から
に違いないのです。本当に神を賛美します。

全てが 
神の愛の御手のなかにあることを信じ
この兄弟の為に祈ります。

山に戻りました

要するに 
この世界は事実とウソとの戦いです。

同様に(しかしその本質はだいぶ違うのですが)
宇宙も極めて高度な真理とウソとの戦いです。
しかしその結末を言えば
真理とウソの性質上 
真理の絶対的な勝利は目に見えております。
だからウソにだまされず 常に断固ウソを排(はい)し 
真理の中にとどまりたいものです。


山に戻っております。
今日から 夕方だけでなく、
早朝の軽い山歩きも始めました。
これは健康にはとてもよいでしょう。
今日は「ダビデの道」と命名したその小道をふさぐ
たくさんの倒木を少し片付けました。
これにはもう数日かかるでしょう。
こうなるとこれから
上半身の運動も考えなくては・・と思わされました。

今日からまた
地下室のボードはり(今日から天井)をします。
9ミリの石膏ボードです。

2010年6月28日月曜日

先ほど あるメールから

今や、どこを見ても、
私は自力で この状況から逃れる道を
見出すことはできません。
自分ではどうにもならないのです。
精神的にも実際的にも 全く身動きが取れません。
まるで暗く狭い場所に閉じ込められているかのようです。
今の私には、
この苦痛から逃れることしか考えられない、
と言ってもいいでしょう。


しかし
不思議な平安と充実感があるのです。
今の期間は主の訓練であり、
平安な義の実を結ぶに至るものである、
という信仰があるのです。

自分にとって、主の訓練はいつも、
まったく絶体絶命、ギリギリのところまで
追いつめられるものばかりでした。
余裕を持つ暇(ひま)など、一切ありません。
この環境はとても厳しく 実のところ
弱音をはくこともあるのですが
父なる神に、私は子として取り扱われているのだ、
と信じることが出来るのです。

限界点に達した時はよく、
主からの光を得て感動させられ、
励まされ、力が与えられます。
主の照らしを受ける時、
癒(いや)しと慰めがハッキリと与えられます。
その時フト 苦痛が消え去ってしまうのです。
これはとても不思議です。

これまでは、
涼しいところ、暖かいところで、お茶を飲みながら、
ゆったりと主を語り合うことしか知らなかった自分です。
私の信仰は何と幼なかったことでしょう。

今は、毎日が荒野のようです。
しかし私にとって
その「荒野のただ中で私に出会って下さる主」
を知ったことは、
何にもまして素晴らしいことでした。



皆さん、この兄弟の為にお祈りください。
正直「私の実感」の中では主はなぜ いつまでも
この兄弟をこのままにしておかれるのだろう、
と言うものです。

キリストの賞賛

人間の存在(霊、魂、体)の中から 
よきものが出てくる可能性は一切ありません。

だから 
十字架によって 
人の総てを破壊(はかい)していただき
「キリストの信仰」によって
「総ての善きものの源なる神」と人が結合する
以外に人の取るべき道は全くない、
と思われます。

それが
福音書でキリストが人を賞賛(しょうさん)した際 
その対象が唯一「人の信仰」のみであった理由です。
しかしながらキリストはその時 実のところ
神を賞賛されたのではないだろうか
と私は考えているのです。


日本語の聖書ではあまりハッキリと
訳されていないようですが 
パウロが「人の信仰」に触れた際 
多くの場合 それは「キリストの信仰」である
と明言しております。
この内容は実に深く奥義的ですが 事実です。

2010年6月27日日曜日

KMさんへ

ヨハネ10:16を見ると、
教会とは一人の人である ことが明確ですね。


ハイその認識はとてもすばらしいと思います。
教会(エクレシア)とは一面 
時空を超えた存在であり、もとを正せば
「一人の人」に他ならないことは
新約聖書の大きな主張です。
簡単に言えば その一人の人とは 
「あのブドウの木」そのものであり
「今日の奥義的な天地におられるキリスト」です。

この「今日の奥義的な天地のキリスト」を
「霊的な目で見る」ことは その人の人生を
完全に変えてしまうほどスゴイことです。
(ハドソン テーラーのように)

「今日の奥義的な天地のキリスト」こそ
エクレシア(真の教会)なのですから
キリスト者が一人一人 総て 
キリストにある(IN CHRIST)キリストと一つ
であれば この時空の中でさえも 
教会には何の問題もなく教会は完全に一つの意志のもとに
存在していることでしょう。
何故ならエクレシアとは 一人の人であり
健全な一人の人の中には分裂などあり得ないからです。

ですからムリに 
組織や気合「魅力的な礼拝やメッセージ」などで
教会を一つにしようとするのは(汗が出るばかりで) 
完全なお門違い(おかどちがい)と言えるでしょう。
必要なのは一人一人が「キリストにある」という
真理を追い求め それを真に見ること知ることであり、
更にそれを実際生活の中で経験することであると
私は考えております。(汗とは人の血肉の奮闘と
「のろわれ」の象徴です。創世記3章)

しばらく実家の方に来ておりました。
でもそろそろ 山に戻ろうかなと
思っております。

2010年6月16日水曜日

血圧と山歩き

きのう街に出たとき、
血圧を計って見て驚きました。
110-62だったのです。

数年前 
血圧が高かった時、突然「ふしぎなナベ」が与えられ、
超減塩(ちょうげんえん)と青物大量摂取(せっしゅ)
の食事に切りかえたとたん、
劇的(げきてき)に血圧の値が正常になったのです。
しかし超減塩というのはどうも味気なく その後 
正常値ギリギリか「多少要注意」になっておりました。

今回の血圧の低下は間違いなく、最近の山歩きのおかげでしょう。
傾斜(けいしゃ)のきつい道なき道を とてもゆっくりと進む
私独特の山歩き(世に言う登山ではない)は 
突然自然から与えられるさまざまな感動が楽しめるほかに
足場の不安定さ、虫の襲来(しゅうらい)、その他に対する
あらゆる防御(ぼうぎょ)やバランス感覚等、多くの体の
機能、感覚を動員しなければなりません。

多分今回は そのようなことの成果なのでしょう。
体は正直なものです。



工事の方は
今地下室の「美化」にあたっています。
壁と天井にボードをはってボロを隠し、床には
超安価で買った中古のタタミをしく積りです。

以前 やむなくここに泊まっていただいたお客様方、
ホンとにヒドイ所にお泊めしましたね。でも次回は
多少 期待していただいてもよいかも知れませんよ。

更に出来れば 
地下室用のトイレも設置したいのです・・
最近あれもこれもと
いろんな欲が出て来ております。

この小屋の地下室は何と地上の地下室です。
でもこの説明は骨がおれるので・・

2010年6月15日火曜日

誰の恥辱(ちじょく)?

自分が今 本当はどこにいるのかを知り 
それを認めることは重要です。そうでないと
尊い命を落とすことになるかも知れません。

しかし
それは人間にとって とても難しいことです。
何故なら人には 極めて深い誇りとメンツがある
からです。自分は今まで間違ったコースを選んで
しまった、これまで積(つ)み重ねた人生において
或いは誤った歩み方をしてしまったのかも知れない、
と人々の前で率直に認めることは途方(とほう)も無く
困難です。それは 自分の恥じを白日のもとにさらし、
自分を全否定することさえ意味するからです。


しかし神は既に「あの最後の人」において 
人間の総ての恥辱(ちじょく)を
全人類の歴史(BCとAD)のど真ん中に高くすえ
総ての創られた生き物達の環視(かんし)の中
9時から3時までの真昼間、完全な白日(はくじつ)
のもと「これをよく見なさい」とばかりに 
完全暴露(ばくろ)することを意図されたのです。

ところが実際には、神の御前において 
あのイエスに彼自身の恥辱は全くありません。
彼には 罪と汚れ、恥辱の影は一スジたりとも存在しません。
彼の本質は神の子であり、完全に神の御こころの中だけを
歩まれたからです。

そうするとあの恥辱は一体 誰の恥、誰の恥辱でしょう?
それは他ならぬ 私の恥、私の恥辱です!だから
私の総ての恥は 既に全宇宙のど真ん中において 総ての目に
さらしものとされ、そして今は何と 私の全恥辱は
墓の中へと永遠に葬(ほうむ)り去られたのです!

今この時空において 時に私はその事実とその根拠に立ち、
全被造物の環視の中、もう一度自分の全部の恥辱を人々の前に
さらす必要があります。しかしながら その恥辱は既に
彼において 完全に葬り去られ、処理され済(ず)み
であることを深く神に感謝しつつ・・

だから
私達は人々の嘲笑(ちょうしょう)の中でさえ 
いつでも勇気をもって もとの場所に戻り その地点から、
ゼロから、否、マイナス地点からでさえ 心からの
喜びをもって 出直すことが出来る筈です。

2010年6月13日日曜日

危機一髪4

「未知の沢を下る?!
イヤイヤ、それだけはいかん。やはりもとに戻って
一から出直し、もう一度 登って来たあの傾斜面
(けいしゃめん)を捜すべきではないのか。

それを考えていたその時、
何故かフトあることに気がついたのです、
「そうだ、最初 天王山の頂上から馬の背(尾根)を下るさい、
私は多分下り過ぎたのだ。下り過ぎたので
全く別の沢の上に出てしまったのではなかろうか!」

事実が本当にそうなのか、そうでないのかは分からない。
いずれにせよ、その時はもう他の選択肢(せんたくし)は
無かった、それに賭(か)けるしかなかったのです。

いよいよ尾根をおり始める。
その唯一の選択肢の故、
先回と比べれば 馬の背をずいぶん早めに
右に旋回(せんかい)することになる。
そしてついに「運命の」あの谷に向かう。
もしこれでダメなら 本当にアウトだ。

脚(あし)の筋肉も これ以上の酷使(こくし)には
耐(た)えられないそうもない。少し痙攣(けいれん)が
出てきた、これは相当ヤバイ。
今晩は野宿かもしれない。それはやむを得ないとしても
朝は随分(ずいぶん)冷えるだろう。
空腹には耐(た)えられるだろうか。

どんどん下る、すると
ほどなく、見覚えのあるわが「奥の沢」の
一部が見えて来たのです!
登って来たピンポイントではないが
間違いなく あの沢の右上方には違いない。
よく知っている伐採(ばっさい)後の風景がその証拠だ。
・・助かった、本当に助かったのだ。


奥の沢におりると
天王山を仰ぐ空は既に
紫色の薄暮(はくぼ)。

小屋に向かう遠くの山で
ヨタカが啼(な)き始めました。

2010年6月12日土曜日

危機一髪3

人は高きにおればこそ、なんとか全体を見わたせる。
ところが、人がいったん低きに落ちてしまったら 
自分がどこにいるのか、ここがどこであるのかさえ 
分からなくなる。その時人は必ず パニックに陥り 
まずは心理面から参(まいっ)てしまうのだ。
だから 沢には絶対に下りてはならない。

ここで私はあることに思い至ったのです、
「そうだ、昔 登ったあの別コースの道を捜して見よう。
その道さえ見つかれば、確実に戻れるはず」と 
時間だけが無情にもドンドン過ぎ去る中、
何と私は再び 天王山の頂上を目指したのです。

ところがです、その道がどこであるのか、
かいもく 見当もつきません。
それもそのはず、私のように 
地図にも載っていないこの天王山に登山に来る人など 
5年に一人もいないに決まっているのです。
樹木が年々生長し、草が生い茂るこの季節
当時もうっかりすると見失っていまうあの小さな道が 
今やすやすと見つかるはずがない。

ここにも すぐ目の前に
別の沢が広がり落ち、まるで手招きでもするよう。
木々の葉の間からは 近くに見える
下の光景から判断すると あの方面の向こうには 
確実にわが小屋があるはず。
「日が暮れる、もう時間との勝負、
思い切ってこの沢を降りてしまおうか。」

「主よ、どうするべきですか!」 

2010年6月11日金曜日

危機一髪2

とうとう、
天王山の頂上(ちょうじょう)付近まで
来てしまったのだが もう日は大分傾(かたむ)いていた。
「さあ戻ろう、ナニわけは無い」と 
尾根を下り始めたのである。

次に馬の背を右に折れ、次にあの急斜面の沢を下らなければ
ならないのだが フト気がつくと どうも様子が変なのだ。
これからおりようとしている沢は 登って来たあの谷とは
似てこそいるが 明らかに違う、これはおかしい。
一体なにが起こったというのだ!

阿武隈もこのあたりは 
大小の山や丘、谷や沢が、こんな形と配置を誰が
考えたんだろうと思うくらい
複雑怪奇(かいき)な地形なのです。

こんな時 どうするべきか、どうするべきでないのか。
いずれにしろ、この時間、この軽装(けいそう)で
未知の沢や谷には絶対に下りてはならない。

2010年6月10日木曜日

危機一髪(ぱつ)1

たった一人で山に入り、
「あそこの向こうはどうなっているのだろう」と
向こう見ずに道なき道を 未知との出会いを
期待しながら歩くのが好きです。

きのうの午後、それも結構遅く、
水源の「奥の沢」から 右手の 
もの凄い急斜面(しゃめん)を登り始めた。
目的はただ 尾根(おね)の上とその向こうが
どうなってるかを知りたいだけ。

細い木々にしがみつきながら あえぎあえぎ
何とか尾根にたどりつく、うれしい。

尾根は意外に広く 
ことのほか、傾(かたむ)いた赤い
太陽を通す森の姿がとても美しい。
尾根とは たとえれば馬の背であり、
馬の腹は それへといたる谷からの斜面です。

尾根に着いて見ると今度は 馬の頭の方の
山の頂上を目指(めざ)したくなります。
「頂上までは今日は難しいな、ムリはしない方が
いい」と自分に言い聞かせつつも 登り始めたのである。
しばらく登るにつれて「あ、ヤッパリここは
天王山なのか」と納得(なっとく)する。

天王山と言うのはしばらく前 
別ルートから よく一人で登った山です。
ここまでは人の伐採(ばっさい)も入らず 
この近辺では極めて貴重な原生林があるのです。
「なつかしい原生林が見えて来た、嬉しい!」

しかし何と 嬉しいのはここまでだったのです。

2010年6月8日火曜日

感覚(愛)の生活から信仰の生活へ

キリスト者が真に主の愛を知り、主によって満足する時、
彼は自然に「感覚の生活」の中に入って行きます。
そのような生活は彼にとってとても貴重です。

普通そのような生活は
キリスト者が罪からの解放を経験した後、
「真に霊的な生活」を経験する前に経験します。

多くの場合、「より深い認識」に欠けるために、
キリスト者は この愛と感覚の生活を極めて高く
評価します。或いは彼は キリスト者にとってそれが
最高の生活であるとさえ誤解するかも知れません。
従ってキリスト者はそのような「愛の生活」を手放す
ことに非常な困難を覚えます。

しかしながら そのような生活は決して長続きしません。
何故なら神が敢(あ)えてそうされるからです!何と神が
あなたの感覚、興奮(こうふん)を取り去られるのです。
(この挫折?は「真にキリストを追及するキリスト者」
であるならば当然のごとく経験します)

何故神はそうされるのでしょうか。何故なら、
神はあなたをして 真に神のみを信じる
「信仰の生活」へと導きたいからです。 
神はあなたが「あなたの感覚」に振り回されることなく
どんな状況下に置かれようと
(あなたの感覚と環境、そして経験がどうであろうと)
単純にひたすら「ただ神ご自身そのものを」信じる
ことを願われるからです。(先人の言葉より)


罪の生活→感覚(愛)の生活→信仰の生活、です。
しかし、当然「信仰の生活」をしている者は
無感覚で愛が欠乏した木石ではありません。
むしろその逆でしょう。主イエスがそうであったように
彼は「神が本来意図された人、最も人間的な人、
真の人間」に違いありません。

また、
私達が信仰によって救われたことは明らかですが
「信仰の生活」には欠けるかも知れません。しかし、
信仰によって救われた私達(義人)は 救われた後も
全面的にただ信仰によって生きるべきです。
(ローマ1の17を見てください)

先人達の文章に接するとき
彼は今この文章のこの部分において
「何を最も強調したいのか」に注目したいものです。

2010年6月7日月曜日

神の働きの開始

キリスト者がときに偶然 他のキリスト者に出会うとき
そこに何か ある深い喜びと不思議な感動を覚えます。

何故なら 実はそれは決して偶然などではないのであり、
更にそれは「深い所」から湧(わ)き上がり「今ようやく
地上に達した何ものか」との出会いであるからです。

大きな川の源流地帯にいる私は、山を歩く時
無数に存在する その川の源の一つとよく出会います。
それは殆どの場合 ごく小さな泉、湧(わ)き水です。
それはあまりに目立たなく 木かげや 
くちた大木の下にひっそりと隠(かく)れています。
(小屋の地名は「岩井沢」ですが、ここは
非常においしい水が湧き出る源流の一つです)

しかしあなたがその小さな泉を口にするならば それは
清らかで甘くとてもおいしいのです。それは直ちに夏の炎天
(この世)の渇(かわ)きを癒(いや)してくれます。

それは 単純でささやかなキリスト者の出会いや交わりに 
確かに存在する あの純粋な性質や味わいと同じものです。
何故ならその味わいは「きわめて深い所」から湧き出て来た
ものだからです。そのささやかな交流を通して 深い所から 
「この世のものでない何か」が湧き出てきた瞬間こそが 
この地上における神の働きの開始である
と言ってもよいでしょう。

ですから私達は 日常の中
とても小さな 人との出会いをさえ とても大切にしなければ
ならないはずです。いつでも常に これは「目には見えない
深い源」から しみ出された泉かもしれないことに期待し、
神の御前で いつでもそのチャンスに応じる備えが必要です。
そうでなければ私は とても貴重な「神の働きの開始」を 
ミスしてしまうかも知れないからです。

真の「神の働きの開始」に
人の会議や企画、人寄せ、マンパワーの結集、人心を奮
(ふる)い立たせる演出、汗の努力、金銭の力などは全く
不要です。神の働きの開始は必ず ごく普通の人々の 
ありふれた生活の一端(いったん)から 静かに 人知れず
開始される何かである はずだからです。

2010年6月6日日曜日

神のみこころ(1)

イエスはただ「神のみこころ」に満足されました。
「神が彼を知っておられる」故に 彼はいかなる人の
反対にも悩まされることはありませんでした。彼は
神から与えられた制限を「喜んで」受けられたからです。

主は私達も ご自身のくびきを共に負い、主の制限を
受け入れ、肉の自由を求めないことを願われます。
そのようにして 私たちが ただみこころに従って
歩くように求められるのです。

そのようにする時
私達の感情ももはや 何ものによっても煩(わずら)わ
されたり、悩まされたりすることはないでしょう。

実はこれが十字架です。
もしもある人が「喜んで」主の十字架を受け入れ、主に完全に
服するなら、彼の感情は 何ものにも煩(わずら)わされることは
あり得ません。のみか、そこには必ず「満ち足りた」命と生活が
あります。神のみこころを得た故に、彼には他に何も求めるものが
全くないからです。

十字架とは 
神のみこころを喜んで受け入れることです。
(先人の言葉より)

2010年6月5日土曜日

病院はよいところ

きのうは午後2時ころです、 
外での作業中 急に胸が痛くなりました。胸の上部が
横の帯状に 肋間(ろっかん)神経痛のように痛むのです。
しかしそれは数分でおさまりました。

でも 痛みが胸だけに実にいやな気持ちです。しかし
こういう場合 私があれやこれや考えても殆ど意味がない、
スグに病院に行くべきではないかと、車で40分くらいの
あのきれいな町立三春病院に向かったのでした。

結果 医師いわく、
「心電図の状態は よい心臓の模範になるくらい良好です。 
心臓の重大な病気の恐れはマズないでしょう。
ま でも、もうしばらく様子を見てみましょうか」
ということで 薬も何ももらわずに とても爽やかな
気持ちで三春の町を後にしたのでした。

そこで、二つのことを考えました:
行って見ると病院も悪くはない、私も年も年、
これからは こういう場合、何はともあれ、すぐに病院に行こう。
病院を嫌がらずに、(レストランにでも行くように)病院と仲良く
しよう、というのが一つ。

それと
病院の待ち時間はとても長い、
しかしそれは絶好のチャンスです。
何故なら 三春病院の待合室は大きなガラス窓の向こうに 
美しい田園風景が広がり
それを眺めながら、神とジックリと交わる(礼拝する)
には これほどすばらしい場所はめったにないからです。

2010年6月3日木曜日

新約聖書の時間の流れとステパノ

新約聖書の時間の流れは
福音書をもって始まりますが、
一応 キリストの御業をもって完結します。

キリストの御業とは 
①彼が十字架に向かったこと ②十字架に付けられたこと 
③黄泉に一定時間 留まったこと ④復活したこと 
⑤昇天し 御座に着いたことです。
以上が第一部です。

第二部は彼が昇天し、御座に着かれた時点から
始まります。使徒行伝と黙示録はその時から 
平行的に進行して行きます。

使徒行伝は
唐突(とうとつ)に終わっているように見えます。
と言うことは 実はこの書の実際はまだ終わっていない、
ということが暗示されているのです。ですから
私達は今 黙示録中のある点にいるのであり、また 
使徒行伝・何千章かの時間の中にいることになります。

(この事実のため 今でさえ私達は 
使徒行伝の最後で 神の国を宣べ伝えているパウロの同労者
である必要があるのであり パウロと同じ神の働きの
系譜の中にいなければならない筈です。)

黙示録4章は天の光景の描写(びょうしゃ)で始まり、
5章に入ると 少し前にほふられたばかりの子羊を
見せています。(6節)
この天におられる人の子イエスを 使徒行伝のステパノは
地上から目撃(もくげき)し、パウロはその声を聞きました。
(使徒行伝9、22、26章)

何故なら 彼らに天が開かれたからです。
「地が私達を締(し)め出し」天が私達に対して
開かれる時こそ 私達が初めて 天におられる人の子を
見聞き出来る時です。ですから私達も 何を差し置いても
(即ちこの世から締め出されて)天の人の子を「見る」必要が
あります。そうです、天におられる人の子(今日のキリスト)を
見る啓示(REVELATION)こそが 私たちの必要の総てである
とさえ言えるでしょう。

それ故ステパノは、即ち「天の人の子」を見たが故に、彼は
その短い人生をさえ喜んで終えることが出来た筈です。
そして間もなく 彼の見た「人の子の啓示」は ステパノを殺した
パウロへと受け継がれ ステパノとパウロは 
天地におられる人の子の中で 完全に一つとされたのです。
(ステパノはパウロの中で生き続けた!)

ステパノの最後の言葉です:
「見なさい!
天が開けて、人の子が、神の右に立って
おられるのが見えます。」(使徒行伝7の56)

2010年6月2日水曜日

天が賛美にわき立った理由

「子羊は御座に座る方から、巻物を受け取った。」
(啓示録5の7)

なぜ ただ唯一 子羊だけが 
巻物を受け取り、それを開封できるのでしょうか?
それは 
「ユダ族から出たしし、ダビデの根が勝利を得たから」
(5の5)です。勝利こそが開封する資格の根拠です。
当事者であり勝利者なる彼だけが、 
その権利を有し、それに最もふさわしいのは
当然のことでしょう。

さて
子羊が巻物を神から受け取った(7節)後に 
直ちに天に展開された諸光景には
実に目を見張るものがあります。(8~14節)
(どうか今一度 再読して見て下さい)

その光景には・・
「さあいよいよ、これから巻物が開かれるぞ!」
と言う ものすごい期待感が溢(あふれ)ています。
それゆえ そこに出現したものは
圧倒的ですさまじいばかりの子羊への
感謝、賛美、歌、喜び、礼拝等です。これらの
感謝、賛美、喜び、礼拝に形式や式次第等は
全く不要です。それらの賛美、歌、感謝は むしろ
「衝動的」とさえ言えるものに違いありません!

その賛美の光景は、
今は隠されて巻物の中にしかない
「ゴルゴタにおける絶対的な子羊の勝利」の詳細が
これから、そして今こそ全宇宙に展覧されることへの
大いなる期待感が土台となっております。

啓示録は実に「大いなる喜びの書」なのです。

2010年6月1日火曜日

日はまだ高い

六月 
ビックリするような山の明るさに
緑が溢(あふ)れ輝いています。

今午後4時
これから近くの山に入ります。
嬉しいことに日はまだまだ高い!

今日 なぜか鳥はあまり啼きません。
ただ北の谷に ホトトギスの どこかさびしくも 
美しい叫び声が響(ひびき)きます。

その下の田んぼで
カエルの合唱が、
重奏低音(じゅうそうていおん)のように
湧(わ)き上がり
山の平和とのどかさを演出します。

それでは行って来ましょうか。

黙示録は啓示録です

黙示録の主要部分は
神の手にある巻物の七つの封印を解(と)き、開くこと
で成り立っています。(5章)
「神の右手にある巻物」(1節)は永遠性のものであり、
黙示録は 巻物の開封によって その永遠のものを 
時空の中へと開いて見せるのです。

二千年前パレスチナの片隅(かたすみ)において
イエスの身の上に起こった出来事とその後の真の意味は
神の中に隠されており 容易(ようい)に誰も
その実態を把握(はあく)ことは出来ません。

ところが神の子羊が
その巻物を開くなら その膨大(ぼうだい)な紙面は 
時空へと無限に展開され、それによって
いやおうなしに 総ての被造物と世の人の姿の
詳細(しょうさい)があらわにされます。

言い換(か)えれば 
黙示録における時空という舞台上で展開される
それらの膨大な数にのぼる被造物達の「ふるまい」の一切は
総て、既にあの極めて小さい一点・キリストの隠された
御業・巻物の中に包含(ほうがん)されていたのです。

これ故 一言で言えば、黙示録とは
キリストの御業の中に既に存在していたものや
そこで達成された事の 時空への展開・展覧、
啓示(REVELATION)に過ぎない、と言う事が出来ます。

従って
私達が先ずは「二千年前に起こった」
「キリストのあの御業そのもの」に
格別な注意をはらわなければならない
のは当然のことと言えるでしょう。



昨日 小屋に戻りました。今小屋は 
完全に「緑の海の中」です。