2010年6月7日月曜日

神の働きの開始

キリスト者がときに偶然 他のキリスト者に出会うとき
そこに何か ある深い喜びと不思議な感動を覚えます。

何故なら 実はそれは決して偶然などではないのであり、
更にそれは「深い所」から湧(わ)き上がり「今ようやく
地上に達した何ものか」との出会いであるからです。

大きな川の源流地帯にいる私は、山を歩く時
無数に存在する その川の源の一つとよく出会います。
それは殆どの場合 ごく小さな泉、湧(わ)き水です。
それはあまりに目立たなく 木かげや 
くちた大木の下にひっそりと隠(かく)れています。
(小屋の地名は「岩井沢」ですが、ここは
非常においしい水が湧き出る源流の一つです)

しかしあなたがその小さな泉を口にするならば それは
清らかで甘くとてもおいしいのです。それは直ちに夏の炎天
(この世)の渇(かわ)きを癒(いや)してくれます。

それは 単純でささやかなキリスト者の出会いや交わりに 
確かに存在する あの純粋な性質や味わいと同じものです。
何故ならその味わいは「きわめて深い所」から湧き出て来た
ものだからです。そのささやかな交流を通して 深い所から 
「この世のものでない何か」が湧き出てきた瞬間こそが 
この地上における神の働きの開始である
と言ってもよいでしょう。

ですから私達は 日常の中
とても小さな 人との出会いをさえ とても大切にしなければ
ならないはずです。いつでも常に これは「目には見えない
深い源」から しみ出された泉かもしれないことに期待し、
神の御前で いつでもそのチャンスに応じる備えが必要です。
そうでなければ私は とても貴重な「神の働きの開始」を 
ミスしてしまうかも知れないからです。

真の「神の働きの開始」に
人の会議や企画、人寄せ、マンパワーの結集、人心を奮
(ふる)い立たせる演出、汗の努力、金銭の力などは全く
不要です。神の働きの開始は必ず ごく普通の人々の 
ありふれた生活の一端(いったん)から 静かに 人知れず
開始される何かである はずだからです。

2 件のコメント:

Willie Yanaka さんのコメント...

>真の「神の働きの開始」に人の会議や企画、人寄せ、マンパワーの結集、人心を奮(ふる)い立たせる演出、汗の努力、金銭の力などは全く不要です。

アーメンです。

そういえば、この前、横浜の山手駅前でもぷぷさんに会いましたよ。短いけれど、楽しい交わりがもてました。

Mr.Sugar さんのコメント...

ぶぶさんから 
William さんのことをうかがい、
もう交わっているような感じです。
エクレシアの不思議さ すばらしさです。