2008年9月26日金曜日

集成材のお勧め

今山に来ております。
山、寒いですよ。きのうは小さなストーブを焚いたほどです。

さてこれまで何度も紹介した台湾の楊さんですが、今、
10月初旬に本当に来られる気配になっているのです。と言うわけで、
現在 工事に一段と気合が入っていると言う次第です。

納戸ですか、ハイ出来ましたよ、ほぼ予期した通りでした。納戸という
ものはこうでなければなりません、と言えるくらい沢山ものが入るのです。
その分、家の他の部分がスッキリして、こういうのは実に気分がいい
ものです。やはり家は「人の為」ですよね、当たり前ですが。

所が所が、この小屋、88歳の楊さんに泊まっていただく和室っぽい
部屋を通らないとあの納戸には行けない全体構造になっているのです。
「これは困った」と考えたあげく、和室入り口から、納戸に向かう場所
に目隠しのカーテンをつるすことに したのです。というわけで、今回
下山する前にそのカーテンを下げる四角い木枠を通路の上に作った所、
何とその上も相当広い物置スペースになってしまったのです。と言うわけで
この小屋 このところ、にわかに収納が増えてしまったのです。

今日はいよいよそのカーテンを木枠に取り付ける工事になります。材料は
全部 購入済み。これらの材料、実に「リーズナブル」な値段でして、
カーテン3枚、カーテンレール2本、その他の小物全部が、
「本来の用途以外の材料」で事足りたのでした。こう言うやりかたは
第一、大幅な経費削減に繋がりますし、また考えてみると、物と言うのは
要するに 目的にかなっており、そして美しく仕上がっていればそれで
よい筈です。とにかく 「カーテンと言うものはこうでなければ駄目です」等と
言うしたり顔の世間の常識や、お仕着せには要注意です。物事と言う
ものはなんでも、「自分の頭で原点に戻って単純に考える」のが一番、
と私は思っているのです。

カーテンが出来たら、あしたあたりから食卓作りです。今回山に戻るとき、
ひたちなか市のジョイフル本田で、2.1m×60cmの長ーい板を買って
来たのです。60cmだと幅をとらないので、どうしても脇が通路にならざるを
得ない新ダイニングコーナーに置いても手狭にはならないでしょう。そして
長さが2m以上もあれば相当数の人が食卓を囲むことが出来ます。
これで今まで食卓を置いていたキッチン部分には物が少なくなり、LDK
全体が 随分スッキリとした感じになるのではないでしょうか。

このようなテーブルでも何でも、実に簡単に作れるある種の大きな板を
集成材というのですが、 これがまた随分と安くて たったの4000円です。
これと2バイ4材を使えば、どんな形の机だろうが 食卓だろうが
自由自在、実に楽に製作出来るのです。下手なところは綺麗な
テーブルクロスで隠せばいい。食卓一個作るのに 多分一日あれば
十分でしょうね。集成材、これは皆さん確かにお勧めです。

2008年9月23日火曜日

月に寄せて

キリスト者は世の光、しかし
光は 彼らのものではありません。
天の光はただ、
キリストから来るのです。

月の使命は「太陽にまっすぐ向かうこと」。
月が太陽に向かいさえすれば、
暗黒の夜 太陽の光そのものを
地上に届けるのです。

月は働くことなどなく、心配もしない。
その運行の総てを天の力に委ね、
ひたすら太陽の顔を見つめつつ
太陽と共に天に留まるのです。

それはホンのひと夜の時間だけ。
輝く太陽が東から昇り
地上を強く隈なく照らすまで。


明日、山に戻ります。

2008年9月21日日曜日

一幅の巨大な図式

時空とは、ある明確な目的のもとに神によって創造されたところの
時間と空間の一定範囲です。その構成要素は基本的には物質です。
(しかし創世記1の1の簡単な記述及びその他から察するに、
神はそれらの時空の中の万物をすべ治めるべき「物質を超えた霊的で
極めて高度な生物」をも創造されたことでしょう。)
さて、時空の中に創造された万物の目的とは
「永遠である真のリアリティ」を絵として描くことでした。

例えばここに一つのリアリティとして命と言うものを取り出して見ましょう。
先ず真の命、真のリアリティとしての命ですが、これは聖書では「永遠の命」
とも呼ばれております。それは完全な命であり、真の真、真の新、真の美、
真の善を併せ持つものであり、その命には始めも終わりもありません。
命と言うものは元々そうであってこそ命です。完全な命というものがあると
するならば、それは永遠の命でなければならないのであり、
死、衰退、腐敗、汚染、虚偽などとは全く無縁なものに違いありません。
それが「命」と言う素晴らしい名前で呼ばれる以上、
命とは本来そういうものでなければならない筈です。

次に時空の中に存在する命を見てみましょう。その役割はこうです:
即ち時空の中に存在する無数の多種多様な命は総て、
「あの豊かさに満ちた永遠の命」の各面を描き出す為の絵なのです。
換言すれば地上の総ての生物の体系は、完全な命を推奨するべき
ある「一幅の巨大な図式」であるに過ぎません。それは将来ある時、
その完全な命が到来することを暗示し、期待させると言う使命を持つ
「おびただしい数の命の写真からなる一つの体系」なのです。
その意味において、地球全体は真の命を描く為の
「神の一大キャンバス」であったと言えましょう。

さて今、この巨大な図式の中の一隅に描かれている、とても小さな
被造物に注目して見ましょう。例えば山路にひっそりと咲くスミレという
可憐な命 、このはかない命でさえ私達をして その背後に確かに存在する
偉大で完全な、しかし決して「これ見よがし」でない謙虚で純粋な真の命
(即ちあのイエスキリスト)を想起させ、それを慕い求めさせるのです。
このことこそ極めて重要な神の創造における目的の一つです。

山路来て なにやらゆかし すみれ草 
(芭蕉)

2008年9月19日金曜日

敢えてまとめて見ると

危険を冒して敢えてまとめてみます。 
物質である時空とその中の万物はキリストと言う範囲の中で
創造されました。従って 時空の中に入られたキリストとしてのイエスが
神による死刑と言う審判のもとに服された時、何と サタンによる深い
影響下にある時空と万物も、「最後のアダムの肉」において、
即ち物質とさえなられたキリストの中に総て包含され、閉じ込められ、
いやおう無しに神による死刑判決に服したことになります。
キリストの十字架は極めて偉大です。ここに時空内の否定的消極的な
「総ては終わった」のです。 (ヨハネ19の30)

複数形の罪・・もうキリストの御血によって始末されています。
単数形の罪、肉、古き人・・最後のアダムとしてのイエスの死の中に
含まれた「私そのもの」がもう墓の向こうにもたらされたので最早 
それらの要素は 私に影響を及ぼすことは不可能です。
この世・・この世も私も十字架に付けられたので、互いに影響力を及ぼす
ことは出来ません。
サタン・・サタンの働く領域は時空内の地上と人の肉ですが、その
両者とも死の判決のもとにあるので、サタンは今職場を失っております。

ここで重要なこと:
①以上は総てキリストの死を根拠とした、神の大審判
に基づく結果 である ということです。
ここで注目するべきはサタンそのものです。サタンに対する審判は
確かに終わりました。しかしその判決による サタンそのものに対する
死刑の執行は これから順次行われて行くのです。今後、様々な形の
死刑の執行が行われた後の究極的な執行があの火の池です。

②ところが、執行はまだであるとは言え、私達は神の偉大な審判そのもの
でさえ神の敵に対しては極めて大きな(執行とほぼ同じ)影響力を
及ぼすことを知るべきです。(この世の法治国家における死刑の最終判決
にさえそれは暗示されます。死刑囚に残されたゼロにも等しいチャンスが
あるとするならば、それは改法か脱獄くらいでしょう。しかし
神に失敗などあり得ません。イエス御自身は神による「死の宣告を
受けた」に留まらず、事実として「死刑の執行」をさえ受けられたのです。
敵がその運命から逃れ得るチャンスは絶対にありません。)

③さらに知るべきは、時空内においては執行はまだなのですが、
神の真理は永遠なので、この審判に基づく執行にも永遠性がある
ということです。これは敵を震え上がらせるに十分です。私たちはこの事実
を常に記憶するべきですし、これを敵に対して頻繁に使用するべきです。
黙示録20の10において神の言葉は「悪魔は火と硫黄との池に投げ
込まれた」と過去形で記しております。ここにもこの事実の永遠性を
読み取ることが出来ます。従ってあなたがキリストの復活と言う
永遠の中にいさえすれば、敵は既に火の池に「投げ込まれた」のです。 

④しかしここにもう一点大切なことがあります。それは以上のキリストの
十字架に含まれる諸事実は唯神の永遠の領域、キリストの復活の領域
内における真理であるということです。その有効範囲はただ「キリストの復活
と言う永遠」内に「限定」されます。なぜなら神は総てのことをキリストと言う
範囲の中において成就されたからです。それがパウロの書簡に頻繁に
出てくる IN CHRIST(キリストにあって、キリストの中で)と言う意味に
他なりません。「今日の天地のキリスト」そのものこそ 新しい神の創造
です。良きものは「キリストの中」以外には存在しないのです。
復活できないものはどんなものであろうと
神の合格ラインに達することはないからです。

それ故に永遠と時空の間には何者も渡りえない大きな淵が横たわって
います。従ってあなたがもし「今日のキリストと言う範囲」に留まらず、
キリストとの一つの中にいないのであれば、即ちあなたが真に永遠を
所有せず、永遠の領域(即ち今日のキリスト)内にいないのであれば、
「今まだ時空の中に存在するあなた」の身の上にそれらの効力が
出現することはあり得ません。

(今日多くの人々がキリストを知らず、それらの真理と全く無関係な
別の領域で平気で生きている状況、否その中で日々死につつある
状況は、今日 私たちが目にするありふれた、そして実に悲しむべき
光景である と言わなければなりません。)

⑤ここで私達は「神は既にあなたを復活のキリストの中へと置いて下さった、
即ちキリストと一つとして下さったという事実」の尊さと、そして
「あなたの時空の中へ永遠のリアリティを引き降ろす」ことさえ可能な
天よりの驚くべき霊的な力、「信じること」の偉大な機能に
ただ目を見張るのです。

「私(キリスト)に留まりなさい。・・多くの実を結びます。・・私の内に
留まっていなければ、枝のように投げ捨てられて枯れます。」
(ヨハネ15の4、5、6)

2008年9月13日土曜日

レポート:一寸意外な展開でしたよ

いよいよ見知らぬ青年を迎えるきのうの朝、
曇りどころかどうにもならないザーザー降りのひどい雨、
と嘆いていたら、みるみる天気は実に爽やかな青空へ。

ところが船引駅からの車の中で彼(以下ウッズさんと呼ぶ)が
言うことには、「実は夕日の撮影等はどうでもよいこと、
山小屋での交流の為にはるばる来たのです」と。

こういう「おもてなし」、私にとって一番やっかいなのは
どんな食事を提供すればよいのか、と言うこと、と言うか、要するに
私は何も作れないのです。所がウッズさん、ご飯と、納豆と 簡単な
味噌汁があれば何もいらない、グルメなど全く関心がない、
と言ってくれたのです、これはラッキー。

結局彼が喜んで食べてくれたのは:
昼作った、残り物の豚肉とキャベツの煮物、納豆、山椒の葉っぱを
添えただけの冷たい都路豆腐、焼いたシャケの切り身、
後はデザートの新鮮なキョホウ。

彼の5年以上にわたるカナダ、アメリカでの暮らしのこと、
出来ればアメリカ人になりたかった、でも「ああヤッパリ私は
日本人」と分かって帰国。
アメリカ人は「俺達こそはUSAだー」 と思っているが 
カナダ人は、自分達はカナダ人とは思っていないそう。
蛍光灯の光はヤボ、白熱灯は美しい・・

などと言う話で明日まで終始するのかな、
と思っていたら、意外、彼の口からある真面目なテーマが飛び出し、
ひたすらあとはズウーッと キリストと神の愛の話。

白熱灯の温かい光の中 不思議な盛り上がりが
急ごしらえの「ダイニングコーナー」を満たしたのでした。

今朝も予報に反し、外は美しい初秋の青空です。

2008年9月11日木曜日

こんな出会いも・・

こんな出会いもあるのでしょうか。
ブログでささやかな会話を交わしただけなのに、
「昼寝の礼拝?いいですね、じゃ行きます」と、
全く見ず知らずの青年が
ホンとにあした、多分東京から はるばる阿武隈の
この山小屋まで来てくれるのです。

彼の願いはきれいな夕日を撮ること。
でも 天気がよいのは本日限り、
あした夕方 曇天の空に、一寸だけでも 
夕焼の空が顔をのぞかせてくれないだろうか。

青年:
13:44 船引到着予定で出発します。
途中遅れたなどの理由で何か
sugar さんと連絡をとる方法はありますか?
いちおう私だとわかるように写真を貼付しておきます。

中学高校時代、
山岳部に所属していましたので、関東地方の山には
ずいぶん足を運びました。
東北は飯豊を縦走したことがあります。
山はどんな天候でもまたそれぞれに
いろいろな表情を見せてくれますよね。

私:
はい分かりました。
小屋の電話は 0247 75・・です。
山岳部とはスゴイですね。
12日、金曜日13:44、船引駅でお会いします。
(ピアノの前に座った爽やかな写真、
この人、まぎれも無く青年ですよ。)

2008年9月8日月曜日

時空も神の創造物です


キリスト者はよく「御在天の父なる神様」と祈りを始めますが、
実のところ この意味は相当深いようです。まず、それは私たちの
お父さん としての父なる神と言う意味です。私たちが神を「お父さん」と
呼べるとは何たる幸いでしょう。これは父親と言う意味での父です。
しかしそれにはもう一つ、
「総てのものの源なるお方」と言う意味があります。

さて聖書に「万物」或いは「あらゆるもの」と言う表現は数多く出て来ますが
私たちはこの言葉を神の言葉としてそのまま受け入れるべきです。
即ち、当然のことながら神が万物と言うからには、それは文字通り
万物であって「総てのもの」を意味するのです。


ところが何故か多くの人は、万物を「この時間と空間の中に存在する
総てのもの」と捉え、時間と空間そのものは、「総てのもの」から
除外しているように思われます。時空だけは「もの」としてカウントしない
のです。宇宙だけは完全別格あつかいです。なぜでしょう、
これは実に不思議なことです。

しかしながら、時間と空間も、物理学で取り扱うことの出来る
「もの」であることは明らかです。「総てのもの」から、例外として
時空だけを除外することは理屈に合いません。時空 即ち宇宙でさえ、
それは「もの」なのであり「万物」に含まれなければならない筈です。
宇宙は決して別格ではありません。宇宙・時空も物質であり、明らかに
神の創造物です。このことは、後述することもあるかも知れませんが、
極めて大きな意味を持つことになるのです。

当然 時空は相当大きいものです。(「物理的には」それらは
永遠であり無限にさえ見えます。しかし最近の科学者は別のことを
言っているようですね。)だから時空はあらゆる他の物質の
「入れ物」であると言えるでしょう。即ち私達は、時空と言う「もの」の中に
他の総てのものが存在している、と考えるべきではないでしょうか。

キリスト者でさえ時に、「この無限永遠の宇宙の中に、神は存在して
おられま」す、と言うような言い方をします。しかし、仮にもしもそうで
あるならば 少なく見ても宇宙は神と同等か 時間的 或いは空間的には、
宇宙が神よりもより偉大であることになってしまいます。 もしも仮に
そうであるならば、「総てのものの根源である父なる神」は成り立たなく
なってしまうのです。

この考え方の中から、一つの思想、「宇宙・物質は時空的永遠の昔
から存在し、そしてその中心は地球であり、そのまた中心は人である
から、この物質宇宙を認知できる人類が万物の霊長であり、神でさえ
あるのだろう」が生まれて来たのかも知れません。そこには宇宙と人間を
何か特別なものとする思想があるように思われます。そして
その背後には、出来るならば 「真の永遠」である神(或いは、
「彼らの宇宙」の中に存在する神)を退け、人と物質を神としたいものだ、
と言う強い願望が横たわっているように私には思われるのです。かように
「宇宙は無限であり、永遠である」の根は相当に深いのです。


しかし当然これは間違っています。 人は人、物は物、宇宙は宇宙に
過ぎないのです。私たちは単純に「神は神です、私は神のみを神とします、
神は総てのものの父であり、根源です。」 と 言わなければなりません。

神のみが唯一全能であり無限、そして永遠なるお方であり、彼こそが
「総てのもの」の源です。私たちはそもそも、そう言う存在に対してのみ
神と言う名前を与えたのではなかったのでしょうか。だとすれば単なる
被造物である時空は 無限でも永遠でもないことになります。その意味に
おいては この物質の宇宙・時間と空間にさえ、定められた限界、
そして その始まりと終りが確実に存在するに違いありません。

この事実を 神の言葉は実に簡明に記しております、「万物は御子の
中において創られた」(コロサイ1の16)と。 「宇宙の中に御子がいる」
のではありません。万物は「御子の中で」創られたのであり、
神の子・御子(「人の子」でなく)は万物・宇宙を超越しているのです。
神と御子だけが永遠であり、無限なのです。
「初め(永遠の過去)にことば(御子)が在った。・・ことばは神であった。
・・総てのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方に
よらずに出来たものは一つもなかった。」(ヨハネ1の1、3)


多くの人は当然の如く この時空・宇宙こそが 総ての総てである
と「信じて」います。何故でしょう、何故なら その考え方には初めから
「真のリアリティである永遠」が除外されているからです。しかし実の所
それは、もし出来得るならば 自分の頭から「宇宙・時空をさえ
創造された存在、絶対的に義しいお方なる者」を除外したい、と言う
願望に過ぎないのです。その願望の理由は簡単です。もしも
そういう存在が本当にあるとするならば それは 自分の
「自由な」生き方にとって どうにもこうにも都合が悪いからです。
人にとって神は大いにケムタイのです。

不思議なことなのですが あのゴルゴタの十字架の周りにいた人々も
「除け、除け!」と絶叫しました。彼らも何とか、あの「私は在る」であられる
お方を彼らの目から、彼らの思いから そして出来ることなら、この時空
からさえ除き去りたかったのです。「人類の究極的な願望」が あの一つの
叫びの中に凝縮されていた とさえ言えるでしょう。そして
ある意味において、彼らの企ては 完全に成功したのです。即ち 人類は
その願いの通りに彼を 「時空から追い出してしまった」のです。


しかしながら当然、被造物に過ぎない人間が単にその頭脳と目から、
そして この時空から彼を除外することに成功したとしても、「正に存在
そのもの」であられるお方を真の意味で除外し消し去ることなど
出来る筈がなかったのです。何故でしょう、人の子イエスは
「更に大いなる真の存在・ キリストの復活」の中へと入られたからです。

私たちはあの十字架の場面において、計り知れない
神の偉大な知恵を見ることになります。
即ちあの時、I AM (私こそ真の存在)であられ、また全き「人」
であられたイエスは その「除け、除け」の怒号を巧みに捕らえられ、
それを「人の子としての御自身」をして、時空から永遠へと飛翔させる
機会とされたからです。人類はあたかも人の子を時空から
取り除くことに成功したかに見えたのですが、彼はそれを 人の子が
時空を遥かに凌駕するチャンスとされたのです。

更に彼は その「除け、除け」を、私達彼を信じ「彼と一つとされた
人の子達」 さえをも、この時空世界から「彼の永遠」(復活:不死、
無制限時空への超越、更に彼御自身)の中へと
もたらす千載一遇の機会とされたのです。


・「私が(十字架に付いて)地上から上げられるなら、私は総ての人を
私自身に(原文)引き寄せます。」(ヨハネ12の32)
・「私が行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたを
私自身へと迎えます。」(ヨハネ14の3)
・「ああ、神の知恵と知識との富は何と底知れず深いことでしょう。」
(ローマ11の33)


昨日書いたものと比べ、言いたいことは全く変わっていない
のですが、表現の上で相当変えたところがあります。
再読してくださったらとても嬉しいです。 

2008年9月7日日曜日

張り切り過ぎには要注意

納戸、きのうで大きな工事は結構進みましたよ。
でもカイコだな、もう3段は要りますね。

それ以外、あと五日でやることは・・・
・ダイニングコーナーの壁の一面に石膏ボードを張ること、
この壁 あまりにみっともないからです。
・不要になってしまった大きなガラス戸2セットを南デッキ
(下の写真が南デッキ)の上部に格納すること。
・大きな本棚を地下に移動する(これはお客さんに手伝ってもらうつもり)
為の準備をしておくこと、ですね。
納戸の踏み台まではまだまだです。

それにしても67歳、
張り切り過ぎには要注意。

あるメールから(3)

『自分の十字架を負う』『自分を否む』『十字架の閉じ込め』
『私ではなくキリスト』というテーマをつらつらと思い巡らしておりました。
このテーマは今ままでも何度も思い巡らしたテーマです。

今までの私の感覚は、キリストに頼って生きる、しかも100%頼ること、
というものでした。しかしこれではどうもしっくり来ない、という思いが
どこかにあったのです。そして今日気付いたのです。

それは、私にとっては100%キリストに頼って生きるということも、
実は間違っていたということです。100%キリストに頼って生きるという
言葉はきれいで響きがよく、多くの人がうなずくとは思うのですが、
頼るという感覚がどこかに少しでもあるのなら、それは自分がゼロに
なっていない、つまり100%頼る生き方は実際的には(原理的には)
あり得ないと思ったのです。どうしても1%、0.1%は古い自分が
生きているはずです。

「私ではなくキリスト」というのは、「自分はもう死んだ、だからキリストしか
生きようがない」という理解の方が、ピンと来るようになったのです。
だから古い私が死ぬ、というのはとても重要だということになります。

しかしこのような状態が一日の中でどれくらいあるだろうか、と思うのです。
自分の前に何か大きな問題が立ちふさがり、にっちもさっちも行かない
時や聖書の言葉や霊的な人達の言葉に触れた時などであれば、
この状態に戻ろうという思いが湧いてくるのですが、何も問題もなく、
あるいは肉的状態に熱中している時は、
こんなことを思うことはないと思います。

しかし最近、日常生活の中でも、キリストでなく「自分が生きている」ことに
ふと気付くようになったのです。このようなときは、『古い私はもう死んだ、
私は今、キリストと一つになった存在として生きている』という真理を
思い出すようになり始めました。

とは言っても、古い自分で生きている感覚と古い自分は死んで、
キリストだけで生きている感覚の違いが自覚できるわけではありません。
いずれにせよ、一日の終わりに、今日は古い私が死んでキリストに生きて
もらった時間は どのくらいあったのだろうかと思い巡らすことはいいことだ
と思うようになりました。

私ではなくキリストとは、キリストに頼って生きることではありませんね。
ちょっと秘訣が分かったようで嬉しいです。 それではまた。


「私はキリストに頼って生きるぞ!」と言う幾多の試みの果てに
「キリストが私の内に生きておられる」(ガラテヤ2の20)、即ち
「キリストが私において、キリストが私との一つにおいて生きておられる」
が来なければならないのでしょう。主語はキリストです。確かにパウロの
意味は「私が(キリストに頼って)生きる」と言うのではない筈です。
それではやはり 疲れが残ります。

2008年9月6日土曜日

良い納戸、踏み台の作り方

来週末、お客が来られます、
となって初めて私は工事をする気になるのです。そういうことでもないと、
工事なんかする気になりますかね。小屋は汚いけれど、一応自分一人の
生活は出来るのですから。

で、それまでの6日間、何をするかです。
先ずはよい納戸(カッコよく言えばウオークインクローゼット)を
作ることです。その必要はとても大きい。

何故なら、本来であれば人間様がノビノビ楽しむべき相当多くの貴重な
スペースを、何と言うことだ、 たくさんの「物ドモ」が、
中には全くお呼びでない無用のイソウロウ達までもが正に我がもの顔で
雑然と汚らしくそこらに鎮座しているからです。「これはけしからん、
許すわけには行かない、家と言うものは人には人の、物には物の
おるべき場所があるのだ、そこに控えおれ!」

と言うわけで今度は冷静になり、よいクローゼットの条件とは
と考えて見ると、それは:
①ある一点に立てば、収納された物が総て見えることです。物の陰
(つまり物の奥と物の下)に物が隠れてしまう状態はよい収納
とは言えないのです。それから
②出来るだけワンモーションで総ての物が取り出せること、
だと思います。

問題はスペースですね。
狭いスペースで①②の条件を満たすとなれば、物を種類ごとに透明な
ケースに入れ、ケースにその物の種類を明示し それを何段もの
「カイコだな」(分かりますか?)を作って、それらのケースを横に一列に
並べる しかないと私は思います。

一段のカイコだなに物を二重に置くことは②の条件を満たしませんから
カイコだなはどうしても高さの寸法が違う数種類を作る必要があります。
結局 「良いクローゼットとは良いカイコだなのあるクローゼット」
と言うことになりそうですね。

問題はもう一つあります。
狭いクローゼットのことですから どうしてもカイコ棚は4、5段にもなって
背が随分高くなります。ですから一個だけ、とてもよい踏み台が必要となる
のです。その条件はこうです、

人が納戸に入り、その踏み台を目にした時、「面倒そう」とか
「危なっかしい」と思わせないで、納戸内のどこにある物でも
簡単に取り出す意欲を感じさせるようなものでなければなりません。
こう考えると、たかが踏み台でも結構 難しいものですね。
さあ、うまく行くでしょうか。それではいよいよ作業に入ります。

2008年9月5日金曜日

十和田湖の風

今ある方からメールが入りました。
あの なつかしいふるさとの
初秋の風を感じさせられます。


一人、

湖畔でキャンプをしています。

今自分の十字架で最も大切なのは、

人を赦すこと。

「自分も主に赦され、解放されているよ、

とにかく、平安の主の命に与かることだなぁ~」と思って。

今朝、

それが出来たのです、主にすがって。

北国の湖と このブナの木の下、

ただ深い水の広がりと、緑を楽しんでいます。

命の話は簡単には行きません

前回見たごく基礎的な命に関する知識から発展して、今回は
「この命に関する話は遂には相当 壮大かつ複雑な風景を眺める
ことになる」と言いたいと思います。

なぜ命を描く絵は複雑なのか、それは
①神の敵がこの命の問題全般に関わっており 問題を極めて
ややこしく複雑にしてしまったからです。 更に
②通常私たちが取り扱い関係している「時空内生命」のほかに
「時空を超えた命」と言うものが存在することを聖書は当たり前のように
示しているからです。この「時空を超えた」というテーマ自体既に
「途方も無い」話となってしまいます。

しかしそれは 聖書を総ての拠り所とする私達にとっては避けて通れない
テーマです。何故なら聖書から永遠を差し引いたら 間違いなく聖書は
聖書でなくなってしまうからです。既に「神自体」が時空を超え、
永遠のものではありませんか。

従って私達はこの「時空を超えた」と言う話を「わかる筈がないでは
ないか」等とバカにしたり敬遠したりせず真面目に正面から取り扱う
必要があります。私たちが真剣に求めさえしたら 神は確かに永遠を
真に知る「知恵と啓示の霊」を送って下さるでしょう。

(元来人には既に永遠を知る能力が与えられているのです。人は元々
神によって永遠性の存在として創造されているからです。私たちは単に
「永遠を思う」に留まらず「永遠を獲得する、永遠と一つになる」
ところにさえ進み行く必要があるのです。)

聖書は明確に「時空を超えた世界がある」ことを告げます。と言うよりも
聖書はこの永遠の世界こそ、リアリティ(実際)であると断言するのです。
即ち聖書は「時空を超えた世界こそが真の世界」であり、方や
「時空の中の世界」は単に「永遠の世界」を描く絵に過ぎない、と
当然の如くに主張するのです。

もしもそれが本当なら 私たちが日々接しているこの世界は総て 
絵、或いは影、模型に過ぎないことになります。言わば現実であると
私たちが信じて疑わないこのリアル感溢れる世界は実は「真の現実」
ではなく、「真の現実」を映している単なるスクリーンに過ぎない、
と言うのです。これは確かに途方も無い聖書の主張です。

この時空内世界、物質世界には多種多様な無数の命があり、その
最高峰に人の命があります。しかしこれら総てに敵の
ウソと死と汚染が深く浸透しているのです。
方や、永遠の世界にも多種類、無数の命があり、その最高峰に
神の命があります。

この二つの領域内の総ての命が①自己保存の欲求②結合・一つに
なることへの欲求③増殖、豊かさ、繁栄への欲求に深く関わって
いるのです。その関わりの中で決定的で最重要のものが間違いなく
キリストの受肉、十字架と復活、昇天です。 かように、
命の話がどうしても極めて深く広大、複雑な様相を呈するのは
どうしても避けられないようです。



私はこの「絵の世界」が価値のない世界であると言いたいのでは
ありません。そこにも極めて明確かつ重要な意味と使命があります。従って
私たちは「時空世界の位置するべき場所」を知る必要があるのです。

聖書は この時空を超えた世界を「永遠の」「神の」「天的」「見えない」
「実際の」「真理の」などと言う言葉で記述しております。

多分後述するでしょうが「永遠の」はエバーラースティングでなく、
エターナルです。即ち永遠は このエンドレスな「時空内時間」ではなく、
全く異質、極めて高度な「実体」です。そして更に時間的要素は
永遠の中のホンの一部に過ぎないことを知らなければなりません。

2008年9月4日木曜日

新・礼拝は24時間(4)

*命について*
命とは何でしょうか。最も簡単に言えばそれは「生きる力」です。
さて 「この時空の中に存在する生き物」には基本的に
3つの欲求があると言えます。それは
①自己保存の欲求、
②結合・一つへの欲求、そして
③自己複製への欲求です。

自己保存は
結合の為、結合は複製(増殖)の為です。即ち自己保存が満たされると、
結合の欲求が生まれ、それが満たされるとその結果 その命の
自己複製 ・増殖への欲求が現れるのです。(子育て等)
簡単に言うと総て命と言うものは「一つ」を欲求し、その一つとされた命は
更にその豊かさを増し加えることを望むのです。

ある程度命が高度になると、
命には「欲求」に加え「愛」が現れます。その事を「命の欲求は 愛と言う
形に昇華される」と言ってもいいかも知れません。従って 命の中に
存在する愛は他の同種の命と一つになることを願います。そして
そこに実現された一つは命を流し出し、更なる豊かさへと向かうのです。

これら総ての中に働くエネルギーは
「欲求」或いは「愛」の中にあります。故に 愛は命の中にあり 命は
その存在そのものである、とも言えるでしょう。従ってやはり
「命と愛は確かに24時間である」のです 。

☆別件ですが、
台湾の姉妹、9月29日以降になりました。

2008年9月3日水曜日

青年が来る

ある青年(私から見れば)が近日中 
小屋に一泊することになりました。

その青年からのメールです:
Sugarさんこんにちは、今私は写真の学校に通っているのですが、
このたび学校が写真の教科書を作るということで、その教科書に載せる
写真を募集しております。風景写真です。Sugarさんの小屋も含めて撮影、
掲載させていただいていいでしょうか。もちろん多数の応募が予想される
ので確実に応募すれば載るというわけではないのですが。
小屋の周りはどんな様子ですか?夕日や朝日、ほかの山々が見える
ようなスポットはありますか。

私:
メール嬉しく拝見。言われることすべてその通りで結構ですよ。
小屋に来られたらお気持ちのまま、あなたの自由に過ごして下さい。
この土地はあなたの「領土」、これはあなたの小屋だとでも思って下さって
いいと思いますよ、何しろあたりに人間はあまりいないのですから。

見ればここは全く山また山、小屋は緑の海の中です。太陽さえ出て
くれれば 朝と夕方は正に森を写す光の時間です。夕日はロフトの
デッキからもよく見えますよ。撮影にはここが一番いいポイントかな。
もしもこの小屋やあたりの景色が教科書に載るんだったら
それは嬉しいですよ。期待しております。
で あなたのメール、私のブログに載せてもいいですか、
ある青年から と言うことで。

青年:
どうぞ。まあ38ですから青年とまではいかないでしょうが・・
これから電車の時間など調べてまたメールします。
「山暮らしのキリスト」 いつも励まされております。
私自身このブログに主の導きを感じているので毎日見ているのです。
また私の周りにいる人たちにも紹介して見ると みんな喜んでいます。
「教会とは何だろう」と長い間模索してきた結果「ああやっぱり
そうだったのか」というのが彼らの印象のようです。

☆ニュースです
何度もこのブログに書いた例の88歳の台湾の姉妹ですが、
つい先ほど元気な声で電話があり「この2、3日中に、いつ小屋を
訪問するかを決めます」とのことでした。後で私の方から、
9月中旬以降にして下さい、とお願いするつもりです。
本当に主のなさることは不思議です。

2008年9月2日火曜日

今日の山暮らしから

今日は結構よく働きましたよ。
前回入り口ドアの横に飾りだなをつけたら、何と今回ドアの閉まりが悪く
なっていたのです。ヤレヤレと今日飾りだなの全部を取り外して一から
やり直しです。これが昼過ぎまで。

午後は今度クローゼットを移動する和室奥のスペースに石膏ボードを
張り付ける作業でした。私は石膏ボード工事は初めてなのです、
何故なら これまで壁は全部合板を使用していましたので。
石膏ボード意外と楽でしたね。これが4時頃まで。
それで今日の大工は終わり。

先回、薪割りなど少し無理したせいか、或いは左肩のダンベル運動の
重量が重すぎたのか、左腕が時々ピリピリとしびれるのです。この間 
実家で近所の整形外科に見せたら、医師が「一ヶ月位様子を見て
それでも改善しないようなら、また考えましょう」というのん気な見立て。
ま、大丈夫のようですよ。少しずつですがしびれの度合いが
薄れて来ていますので。


以下は 礼拝についての余談です。
本日大工をしながら考えて見たのです・・。

もしも仮に 本当に「礼拝がセレモニーである」とするならば 週一それを
忠実に守ることによって間違いなく及第点がもらえるでしょう。
それで済むなら 事は簡単で楽です。

ところが、真に神を求めるキリスト者であるならば そのような
及第点に 心から満足し安心出来る筈はありません。

さて、しかしながらかような「更に前進したキリスト者達」もよく
礼拝と言う言葉を用いるのです。そこでそれはどんな意味なのだろう、
と 少し考えて見たのです。どうも彼らの用いる「礼拝」の意味は
次のようなもののようです。それは・・
「キリスト者が持つべき神に対する最も重要かつ基本的なありかた、
或いはその実行」と言ったようなものです。

しかし「キリスト者が持つべき神に対する最も重要かつ基本的な
ありかた、 或いはその実行」などと一々言うのは長ったらしくて面倒です。
そこで彼らは それを「礼拝」或いは「礼拝する」と言う簡単で便利かつ
つかみ所のない表現で済ませている のではないでしょうか。

それは
「真の礼拝は一体どこにあるのであろうか。」
「彼は早朝起床し、真剣に聖書を読み祈るのであった。それは彼に
とって 正に礼拝であったのです。」
「・・これこそ、真の礼拝であり奉仕です。」(これ私でした!8/17)
と言うようなときの 礼拝と言う言葉の用い方です。
皆さんはどうお思いですか。
(確かに、そこに「神を愛する」を入れても大差はないようですね。)

八時です、もう眠くなりました。

2008年9月1日月曜日

新・礼拝は24時間(3)

ここまで見てくると 
礼拝は「時間と場所を限定した所で行われるセレモニー」
などではないことはあまりにも明らかであり、それを最早
ことさら強調するまでもないように思われます。
礼拝は愛がその源であり、愛は24時間であるからです。

例えば、子供は
お母さんを愛しています。その愛は24時間ではないでしょうか。とは言え
幼稚園に行っている間、子供はずうっとお母さんを意識し、常にお母さん
への愛を実感し続けることは出来ません。それは不可能です。
だとすればそんな時には子供はお母さんを愛していないことになる
のでしょうか。いいえ、そんなことはありません。

子供のお母さんへの愛は 
お母さんを愛するという意識と感覚よりも更に深い所にあるからです。
その愛は子供の存在とお母さんの存在の深い結びつきそのもの
の中にあるのです、愛はこの両者の「一つ」の中にあるからです。
ですからその意味で本来、子供のお母さんへの愛は
不動であり24時間です。

お父さんの子供への愛も
同様です。子供を意識することがない彼の会社勤務の間でさえ、
彼は子供を愛しています。やはりその愛は彼の、子供との結びつきの中に、
父と子の深い命の結合の中にあるのです。愛は命の中にあるからです。

会社における彼の辛い勤務、それは
彼の子供への愛の表れです。その勤務は彼の子供に対する愛の結果
生まれてきた所の子供の為の言わば 陰の「奉仕」であるとも言えましょう。
お父さんの生活における総ての行動、姿、在り方でさえ、お父さんが
眠っている時間も含め、総て子供への愛の表現です。

人間の家族間に存在する本来の愛、
それは 言わば「24時間性」のものです。なぜなら愛は命の中にある
からであり、命ある限り 愛はそこに自ずと存在するからです。
何と命は時間や場所の拘束を受けることがないのです。

罪に落ち込んでしまった私達人間の
親子の愛にさえ 以上の様なことを言うことが出来るとするならば、
ましてや、神の人に対する深い永遠の命を源とする私たちの神への愛が
時間の制限を受けず24時間であることは
当然過ぎるほど当然のことである、と言わなければなりません。
確かに私たちの神への礼拝は24時間なのです。