2008年9月2日火曜日

今日の山暮らしから

今日は結構よく働きましたよ。
前回入り口ドアの横に飾りだなをつけたら、何と今回ドアの閉まりが悪く
なっていたのです。ヤレヤレと今日飾りだなの全部を取り外して一から
やり直しです。これが昼過ぎまで。

午後は今度クローゼットを移動する和室奥のスペースに石膏ボードを
張り付ける作業でした。私は石膏ボード工事は初めてなのです、
何故なら これまで壁は全部合板を使用していましたので。
石膏ボード意外と楽でしたね。これが4時頃まで。
それで今日の大工は終わり。

先回、薪割りなど少し無理したせいか、或いは左肩のダンベル運動の
重量が重すぎたのか、左腕が時々ピリピリとしびれるのです。この間 
実家で近所の整形外科に見せたら、医師が「一ヶ月位様子を見て
それでも改善しないようなら、また考えましょう」というのん気な見立て。
ま、大丈夫のようですよ。少しずつですがしびれの度合いが
薄れて来ていますので。


以下は 礼拝についての余談です。
本日大工をしながら考えて見たのです・・。

もしも仮に 本当に「礼拝がセレモニーである」とするならば 週一それを
忠実に守ることによって間違いなく及第点がもらえるでしょう。
それで済むなら 事は簡単で楽です。

ところが、真に神を求めるキリスト者であるならば そのような
及第点に 心から満足し安心出来る筈はありません。

さて、しかしながらかような「更に前進したキリスト者達」もよく
礼拝と言う言葉を用いるのです。そこでそれはどんな意味なのだろう、
と 少し考えて見たのです。どうも彼らの用いる「礼拝」の意味は
次のようなもののようです。それは・・
「キリスト者が持つべき神に対する最も重要かつ基本的なありかた、
或いはその実行」と言ったようなものです。

しかし「キリスト者が持つべき神に対する最も重要かつ基本的な
ありかた、 或いはその実行」などと一々言うのは長ったらしくて面倒です。
そこで彼らは それを「礼拝」或いは「礼拝する」と言う簡単で便利かつ
つかみ所のない表現で済ませている のではないでしょうか。

それは
「真の礼拝は一体どこにあるのであろうか。」
「彼は早朝起床し、真剣に聖書を読み祈るのであった。それは彼に
とって 正に礼拝であったのです。」
「・・これこそ、真の礼拝であり奉仕です。」(これ私でした!8/17)
と言うようなときの 礼拝と言う言葉の用い方です。
皆さんはどうお思いですか。
(確かに、そこに「神を愛する」を入れても大差はないようですね。)

八時です、もう眠くなりました。

2 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

下界の私の住む町では稲刈りが始まりました。夜と朝は虫の鳴き声が鳴り響きます。秋の気配が日に日に増し加わります。さて、主の一粒の麦のたとえを思いながら、雑草が強固なアスファルトを突き破って出てくる様を考えていました。我々はこのような命の力強さには目を奪われ興味を抱きます。確かにこれは命の力のすごさの一つです。(科学者は応力緩和という一言で説明してしまいますが)。しかしこの雑草でさえ、種の殻が破られなければ、決して命は芽吹いてきません。こちらの方がアスファルトを突き破る力よりも奇跡を感じます。キリスト者の命は、このような雑草のような被創造の命ではなく、創造者そのものの命です。もう私たちは古い私たちではないのです。この創造者そのものの命を与る新創造者なのです。

Mr.Sugar さんのコメント...

「もう私たちは古い私たちではない。」

Amen.