2007年7月31日火曜日

キャンプ情報(4)

*お泊り会キャンプ*

このキャンプは 家族のキャンプ、
そうでなければ お泊り会、
そう イエスと一緒のお泊り会キャンプ。

お泊り会キャンプ 総て全部はイエス様。
もちろん彼が 神、父、主、王、リーダー、
このキャンプの為の全能の幹事、添乗員、
そして何と完璧に総てのことに気がつき配慮される
私達一人一人の完全無欠なるホスト。

お泊り会だから 
分刻みのスケジュールなどあり得無い。
「いざ出陣」などと緊張すること全くなし。
ホントのあなた、正直なあなた、
素のあなたそのままでいい。

家族のキャンプだから 
出発の時からもう楽しい。
だから楽しくしようと頑張ることも無い。
無事 皆が参加できて、
あなたがそこにいるだけで嬉しいのだ。

お泊り会だから 
誰かが皆を統率すること必要なし。
主イエスさえ 全部まとめて大声で
仕切ることなどなさらない、
主イエスは 静けさの中 時に応じた絶妙な
「導きと配慮と力」を一人一人に示される。
皆ただ主に従うだけでよい。
イエス様 皆の中にいるから大丈夫、そして
交わりの中におられるから大丈夫、
そう イエス様こそ大丈夫(大きくて強い男)。

家族キャンプだから 
一緒に食べて、ノンビリと風呂に入って、お話しし、
そして一緒に泊まるだけ。
その全部の時間がとても大切、
何でもない普通の時のあの時、この時 
全部貴重な宝の時間。

お泊り会だから、
特に皆を盛り上げることも無い。
でも自然に 盛り上がることきっとある。
それはそれでとてもいい、
多分その正体はイエス様。

家族キャンプだから
ハプニングもあるだろう。
その出所もイエス様。
「イエス様、どこに行かれるのでしょうか?」

お泊り会だから、
食べるのは楽しいけれど、語り合いこそ 大ご馳走。
家族皆のご馳走タイム うるさい作法は何も無い、
ただこのキャンプの総てなる
主イエスの語りかけが欲しいだけ、
家族皆の「顔と口と姿」を通して語られる
さり気ないイエスキリストの
天的語りかけだけ慕わしい。

2007年7月30日月曜日

ここもずいぶん雨が降りました


和歌山の妹夫婦から午前中 新たな台風の為、
予定が変わるかもしれないと電話。
台風なのに 一生懸命、来てくれようとしている、嬉しい。

今日の工事は4分の3坪の狭い浴室を少しでも広く見せるための
タイル貼りの続き:
何だ、タイル 下地の合板に安い接着剤でも十分着くではないか、
と言う これ大きな発見。
皆さんこの方法だと 金かけなくとも意外に簡単に
タイル工事が出来ますよ。
タイルは使い方によっては結構おしゃれが演出できるもの。お勧めです。
今日の予定は何とか終えた。あすは 目地材を入れて、ペンキでぼろ隠しを
すればキャンプ前の工事は終了となる。
それにしても、ダマシ絵効果のほど キャンプに来られる皆さんの
評価はいかに!

さあ、下に下りて、夕食としよう。
今日は キャベツと豚肉のごった煮とハンバーグ。
これでも私にとっては結構なご馳走なのです。
お腹がすいた!

☆夕食後

今外の気温15度以下。今日は涼しいをハルかに通り越して寒い。
寒がりの私はストーブをつけたいほど。阿武隈は 夏と言っても
こういう日があるんですよね。
横浜の皆さん これ読んでますか?

神の目的は 子たちを神の栄光にあずからせる事だと言う。
エッそうなの!と今日、改めてこの事実に驚く。
これ暫く、小さなテーマになりそう。

あれやこれや とりとめもなくこうしてブログに書いていると
結構 誰かとおしゃべりをしているような気分になるものです。
これ確かに 一つのブログ効果ですね。

今日ここもずいぶん雨がふりました。
何だか梅雨の延長見たいです。

南デッキの透明屋根、2箇所雨漏りがある。
でも、エフアールピーがあるから補修は簡単。
皆さん、雨漏りの相談ならどうぞ。

今、沖縄から2人新たにキャンプに参加されると言うメールが。
先日 龍ヶ崎で寝袋を2つ買っておいてよかった。
こんなふうだと 今度地下にもトイレを作らないとダメかな?






 

キャンプ情報(3)

*自由について*
今回はどんな「お泊り会」になるのだろうか? 
私にもカイモク見当がつきません。しかし それでいいのです。
規定しない、固定しない、枠を作らない、数えない、
また「今回は是非こんな方向に皆を持って行こう」とか、
そんな思いは誰も持たない方がよいのです。

なぜなら、それは「無限の」復活の能力を秘めた
キリストのみの権限に属するキリストのみの役目であるからです。
私達の役目はただそのキリストを妨害しないことだけです!

実はこの時代 キリストは私達の中でまだ 
その全能のパワーを全開されることはありません。
彼は今 私達の妨害をたやすく受けられるのです。
なぜなら今は「人の自由の時代」であるからです。

しかしこの自由な時代 神が私達の為に配剤される環境の中
私達が自らに十字架を適用し 敢えて不自由の中に自分をおく時 
初めて彼は私達の中で 実に繊細に行動を開始されるのです。
この繊細なお方に対して必要なのは やはり
私の繊細な協力です。そしてその私の繊細な協力は 
キリストの死をわが身に頂くことから初めて生ずるのです。

とは言え 
私達はやはり 別の意味で「自由」であるべきです。
不自然な、あるフリなど決してしてはなりません。
あなたはあなたらしく無邪気でなければならないのです。
私達は自由に笑い、泣き、闊達に喜ぶべきです。
なぜなら 霊的なフリをする時 私はたちまち「人間でなくなる」
からです!そのような時「ありのままの人間に過ぎない私を通して
神・人であるイエスが現れ出られる」可能性は全く無くなります。
宗教に人が真の魅力を感じないのはそのためです。
もとより「人間性を通して神性を表現する」
そのことこそ 究極的とも言える神の願いであるのです。

よくあることですが、「愛は実行で現わされなばならない」などと言う
教えと号令の中 歯を食いしばって何とか作り出した 
ニュウワとホホエミなど  神が評価されることは決してありませんし、
実は人でさえ そこにある 引きつったウソっぽさを
たちまち感知してしまうのです。
実はこのことが 世の人に対するキリスト者の証の為に
今日最大級の妨害となっていることは明らかです。

私が人間であること、自由であること、決して演技などしないこと
これらは「イエスの真に魅力ある人間性」が
私の人間性を通して表現される為に 絶対に不可欠なことなのです。

私たちは十字架の適用の中で 
全く自然で自由な人間でなければならないのです。

 ★
 (下は四角池orハルさん池:鯉が沢山泳いでいる。
   ハルさん「好きなだけ取って食べろ」と・・)

2007年7月29日日曜日

ある原則

『神が人に要求し、キリストがその要求を果たす』
という矛盾とも見える一大原則が聖書にはあるようだ。

しかしこの原則はたちまち誤解されてしまう。
神は人に過酷な要求をする、と人は思うのである。ところが
1.何と人はそれをどうにかして実行しようとする。そしてある人々は
私は実行できた、或いはもしかして将来実行出来るかもしれない
と思い込み人に教える。これが宗教でありキリスト教である。 
2.他の人は はなからその要求を「ヒドイ要求」として背を向け退却する。

しかし正解は1,2のいずれでもなさそうである。
なぜなら実行するのはキリストなのだから。
事実 神は要求し「人イエス」キリストはその永遠の御業において
その要求を既に完成されたのだ。(だからあの一大原則に矛盾は無い)

ここにただ一つのこと、
キリストの「霊的永遠の完成を時空にもたらす」霊的機能が必要とされる。
これのみが人の分なのだ。そしてその機能とは信仰である、
「人イエスキリストと私との結合」への単純な信仰である。

宝はどこに

今日 真の霊的な力、霊的な宝はどこにあるのだろう。

それはこれ見よがしのパフォーマンスや
パワフルなメッセージ等にあるのだろうか。
否、それはむしろ意外にも 
人の日常生活の中の ある種の静けさやさり気なさ
の中に存在するようである。

前者はなるほど人々を引きつけるある種のパワーを
持つかもしれないが、一過性と言う明確な短所も併せ持つ。
それは人に一時的な感動や興奮を与えることが
出来るかも知れないが、そこからあの深く天的な霊的力が
静かな生命現象を生み出して行く
と言うことは原則的には難しいようである。
この役目はあくまで補足的なのだ。

所が後者には 賑やかで人目を惹く何物も存在しないが
今述べた 不思議な生命現象を水の波紋のように生じさせる
可能性を秘めているように思われる。

神は不思議にも、この宝を宝物箱の中ではなく、
土の器の中に置かれたのである。
もろい人間の命の中に、その普通の生活の中に、
キリスト者達のさり気のない触れ合い語り合いの中に
置かれたのだ。

これがキリスト者が今日
「人間性、日常性、さり気なさ、自然さ、安息性等を互いに共有する交流」
を極めて重要視ししなければならない理由である。

2007年7月28日土曜日

お昼寝のおもてなし

8月1日に 和歌山の妹夫婦が 泊まりに来る。
一人遠い阿武隈山中に住む兄を わざわざ見に来てくれるわけで、
正に「有り難い」ことである。

去年もこの時期、南のデッキに明々と灯をともし
3人で焼肉をほおばった。夜の森の暗闇がことのほか
涼しい風を送ってくれた。なんで今3人 ここにこうしているのかなと
どこか不思議で しかしとても満ち足りた夜であった。

彼ら 「何もしなくていい、ただ兄さんの建てた小屋で
リラックスしたいだけ」と言ってくれる。
はるばる和歌山からホンのつかの間 唯ノンビリするためにくる。
これは一体何だろう?

誰かのもとで、或いは誰かと共に 安らぐ、くつろぐ、安心する、
多分これこそ総てのことの原点なのではないか。
人にとって 最も大切なものなのではないか。

そうだ、だから今回は お昼寝のおもてなしと言うことにしよう。
昼下がり、涼風そよぐ緑陰の和室でゆっくり眠ってもらおう。
それがいい。

キャンプ情報(2)

あとは、暑さ涼しさのことですが、皆さん夏の軽井沢のような快適さを
期待したら 裏切られるかも知れません。あんなには涼しくないのです。
ここの標高は大したことは無く、東京の高尾山程度で650メートル位
でしょうか。(軽井沢は1000をはるかに超える)
カンカン照りの午後で風が無ければ結構暑い日もあるのです。

ただ、この村でクーラーのある家は無く、夜になると窓を閉めても何とか
過ごせます。窓を閉めるのは 沢山の虫が明かりに飛び込んでくるからで、
もし暑かったら電気を消して窓を少し開ければいいのです。その場合
蚊が入ってくるかも知れませんが 蚊取りをつけておけば大丈夫です。
蚊取り器は用意しておきます。それで多分ぐっすり眠れることでしょう。
(ヨタカとトラツグミの声を聞きながらね)

散歩は夏だと早朝が良いでしょう。(どうでしょう、行って見ますか?)

思い出したけど 去年の冬かな、近所の岡に皆で日の出を
見に行った時 ソルト氏がそこで黙って不思議な笛を吹き出した。
そんな さり気無い互いの様子や存在が もうそれだけで楽しい、
皆で 居間のイスに身を沈めての交歓の時、ただゆっくり流れる
しばしの沈黙の時間でさえ何故か 心ちよく嬉しい・・・ 
この夏も そんなキャンプになるといいな と思っております。

2007年7月27日金曜日

キャンプ情報

嬉しいことに
もうすぐ8月6から8日に、今年もまた横浜の人たちが泊まりに来て下さる。
(彼らはこれをキャンプと呼んでいる)

泊まっていただく部屋は
〇和室と呼ぶ、板の間にゴザを敷いただけの9畳くらいの部屋で
いつもは女性が使用している。
〇ロフトと呼ぶ、8畳くらいの屋根裏部屋、屋根裏なので狭く感じる。
〇あとは多人数の場合 離れと呼ぶ地下部屋を使用することもある。
この地下部屋  実は地上にあるのです!それなら何故地下部屋と
呼ぶのか?このナゾは来られてのお楽しみと 言っておきましょう。
この地下部屋 床の穴から、所どころ 地面が見えると言う 
この未完成の 粗末な山小屋の中でも 最も「野趣あふれる」部屋となって
います。この部屋はやはり男子むきですね。

一応、寝具、寝袋はそろっていますが 気になる方は枕カバー等を
持ってこられてもよいと思います。
ま、夏ですから気楽ですよネ。

お風呂はまだ使用できません。
ホント今回は眺めるだけの浴室となりました。

きのうのタイル貼りは大失敗!やっぱりモルタルに貼るのは
素人では無理、 見事に「波打つタイル」となってしまいました。
でもそんな所が、皆さんにはかえって 面白いかも知れません。
私の工事は あともう一箇所のタイル工事をやり、
脱衣ボックスをペンキでお化粧したらキャンプ前はおしまいです。
お風呂がいまだに使用出来ないのは 設備屋さんがボイラー等.を
入れてくれるのが  お盆休みの時になってしまったからです。

従って、洗面所や給湯もまだです。
ただし外に水のでる流しがあるので これが洗面所になるかな?

入浴は村の「せせらぎ荘」か 草野心平の「かわうちの湯」です。
石鹸、シャンプー付きで 500円です。
夏休みには都会からの帰省の人で混むかも知れませんよ。

今回はオールドアウルスでランチが可能かも。これ私も楽しみです。

自慢できることと言えば、水ですかね。これは完璧天然水、
マイマウンテンの天王山の湧き井戸から直接引いているものです。

ま、とにかく ノンビリ気ままに ゆったりと行きましょう。

2007年7月26日木曜日

2007年7月25日水曜日

スズ風の季節

昼下がりのロフト
ようやく、脱衣ボックスの漆喰塗りが終わり、
ホッとくつろいでいる所です。
やっぱり鼻がつかえるあの大きなボックスは曲者、
スッキリ感の最大の妨げになるだろう。

明日からはタイル工事です。同じひと繋がりの床がどれだけ、
その妨げ感を解消してくれるだろうか。
言ったように この期待にハラハラ感があり、 結構楽しいもの。
所が タイル接着剤がやたらに高価なのです。
だからモルタルで何とかごまかしてしまおう と言う作戦。
セメントは安い砂も安い、水はただ。
だからモルタルはセルフビルダーにとって大いなる味方なのです。

今はまだ午後の3時 外は正にカンカン照りの盛夏なのに 
ヒグラシの声に乗って 森のヒンヤリとした風が
極上の心地よさを運ぶ。

ようやくホントの夏が来た、
カリマンの涼風の季節です。

それはあり得ない

ある人々がイエスに言った、
ヘロデがあなたを殺そうとしている、逃げなさいと。
しかし、イエスは答えた
「それはあり得ない」
「私がエルサレム以外のところで死ぬことは
あり得ない。」(ルカ13の31、33)

危ないよ、シュガーさん

今中心から 微妙に引き出されようとしている。
ある2つのことが気になり出し、一寸自分を失いそう。

でもそれはそれ、
それらは それらがあるべき場所に置けばよい。
あなたは「あなたに課せられた道」を行くしかないではないか。
それらも確かに大切なことには違いないが 
今更焦ってどうなる訳でもない。人は笑うだろうが、
そんなことを気にしていたら あの肝心な一つの事を失うことになる。
危ないよ、シュガーさん、見栄を張ってどうする。
笑われなさい、恥をかきなさい、ジタバタしなさんな。
原則はここにある、それは あなたに本当に必要なものは
主が必要なときに一番良い方法で与えてくださる、と言うこと。
あなたは、心の中の「あの不動なもの」の後を黙って歩んで行けばよい。
「今生きている主」の後を。

2007年7月24日火曜日

夏の夜の夢

その時 私は「神の冤罪」について いろいろと説明するのであった。

皆さん 何と私 石原都知事の息子、あの気象予報士さんに 
一生懸命 福音を伝えたのですよ!石原さん ニコニコして
「こんな話初めてです」と なかなか良い反応でした。
他にも2,3人確かにその場にいあわせたのですが、
彼らが誰であるかは分からない。 ただ何故かボンヤリと思い出せるのは 
彼らの白い歯だけ、 というのも妙な話である。
私の話が今一うまく行かなくて、 もう一度 頭からやり直したりして・・・
というわけで
ハイこれ全部 先ほどまで見ていた夏の夜の夢。

こんな変な夢、私にとって今朝小さなハッピイの原因になったのです。
それは これまでの私 夢の中で祈ったり、主のことを
思ったりしたことが殆どなかったから。

夢から覚め 気がつくと、ロフトのベッドの東の窓に
オリオンがまたたいている。
暫くぶりですね、こんなクリアな夏の星座。
梅雨もこれで晴れてくれたらいいのに。

あのルーク氏が ちょっと私の事を書くと その日ドっとばかりに
カウンターが膨れ上がる。それには何の不思議もないのだが、
昨日の 突然の100越え現象は別の原因の筈。
もしかして「ダマシ絵バスルーム」の反響?まさかね。
とにかくいまだに原因は分からない。(ただの偶然ですよ、と誰か)
それにしても ひろこさんのコメントは傑作でした。
ユーモア大賞ものですよこれ。  ひろこさん、有難う。

きのう脱衣コーナーの大工作業が終わったのはいいが 脱衣コーナーの
だだっ広い壁が  鼻につかえるようで これが狭さ感を助長する。
これはまずい、何とかならないかと、 またまた 
あーでもないこーでもないと思案上げ首の結果:
何だ ここにも鏡を置けばいいではないか と思いつく。
ただこの鏡、数年前 水戸の大男の店から千円で買った全くの「裸の」鏡、
だから今日はこの鏡のわく作りです。千円の鏡が 1万円のカッコイイ
ミラーに変身してくれないかなー。

夏 カリマンの短い夜が明け 南の窓でクロツグミが歌い出す。
ミズナラの緑の樹々の向こうに金色の空が輝き出した。

今日も主の恵みをいただこう。

2007年7月23日月曜日

ダマシ絵バスルーム

きのう いよいよ試みに 一人ああでもないこうでもないと 
バスタブと大きなミラーを 浴室に入れて見た。
それらとその他の要素 壁の漆喰の白色や
床のモザイクタイルとの取り合わせは (私の言うプロポーションは)
ほぼイメージ通りで一安心、まこれならいいだろう。

浴室の床に 一番安価なモザイクタイルを使用することは今では
殆ど見られないようである。
しかし それはワンパターンと言うもの
実際に使用して見て よければよいのである。
あそこに大きなタイルなんか使ったら
微妙な全体的バランスが壊れてしまう。

一寸気恥ずかしいが言ってしまうと これ、入浴するお風呂場
と言うよりは、 実のところ 眺める浴室なのです。(何と言うことを!)
だから、外のデッキからミラーがチラッと見えるだろうかや 浴室の隣の
小廊下まで歩いて来る過程で バランス感がどう変化するのだろうか等が
大いに問題となるわけです。だから、小廊下の床は浴室と同じタイルに
するべきである。

更に 皆さん 何を隠そう 次のような事もあるのです。
とは言え これもやや恥ずかしい:
浴室に隣接する2つの小廊下と そのまた隣室の一部の床のタイル までも
全部 浴室と同じタイルにしてワンユニットの繋がり感を持たせ 
見る人に 「えっこれ意外とスッキリしているじゃない」と言う
錯覚を起こしてもらい、 その時私は   驚くあなたの横顔を
こっそりと 観察すると言う  結構私の「いたずら心」を
満足させてくれるかも知れない企てとなっているのです。
このようにして 早く全部のタイルを貼りたいなー と言う私の次の
作業意欲にも繋がって行くと言うわけです。
実はこう言う所にも セルフビルダーの
ささやかな喜びがひそんでいるのでしょうネ。

それにしても 浴室完成のアカツキ、デッキから浴室に向かって
歩を進められるとき  皆さん このだまし絵バスルームに
本当にだまされてくれるのでしょうか!
(所であなたも一つ だまされに来て見ませんか?)

次に、脱衣コーナー作製に入る。 作業を進める内
これ結構、手のかかる相当面倒な仕事になるのかなと
だんだん 気が重くなって来たのであったが
これも あーでもないこーでもないと散々色々やったあげく
何心なく6フィートの2バイ4を現場に持ち込んで並べて見たその時 
パッとアイデアがひらめいた。
あとは超簡単 びっくりするくらい、スイスイと事が運ぶ。
これなんですね。 人間セッパつまると、なんとかなる。
この15年間、こんなことが何度あったことだろう。

マイパソコンの先生 芋久保氏 「今日 ログの小屋作り(いよいよですね)
で アッと言う間に夕方になってしまった」 とコメントに。
その感じよく分かります。 だから、デジカメを教わるのは後日。

写真で「眺める浴室」の中間報告、間もなくできるかな? 

2007年7月21日土曜日

今朝、カリマンの森にて


私の中のキリストは本当に本物のキリストなのだろうか?

私の中のキリストが 単にキリスト教的影響力、幻想のキリスト
私の良心の変形、割り引かれたキリスト、1パーセントだけのキリスト
薄められたキリストなどではなく 
本当に正真正銘のあのお方 キリストご自身であるならば、
もしも真実にそうならば 
それは大変なことではないか!そして私自身 何と言う存在であろうか!

私は正真正銘のキリストを持っている、
だとすれば 他に何の不足があろうか。

私が何を語るか、何をどうするべきかにあらず、
私が真に光であるか、真に光を発しているか、である。



今日はタイル目地塗り工事の仕上げです。それが終わったら
脱衣コーナーを作ります。脱衣コーナーから
浴室をヒーターで温められるように と考えています。
本当はこれ邪道なんですけどね。
右手首の腱鞘炎は 大分いいです。完治はもうないでしょうけれど。


ジトジトの梅雨は続く、カラッとしたカリマンの夏 早く来ないかなー。



さて今 カリマンの昼下がり

午前の工事:仮にバスタブを入れて見たら、バスタブで隠れる筈の 
漆喰の塗り残し部分が判明!これが工事の現場というものです。
そういうわけで もう終わったと思った漆喰塗り、道具を地下室から
引っ張り出して・・それで 午前は終わり。でもこの天気でしょう、
漆喰は乾かない!工事はまたまた延びますね。

でも脱衣所の着工は これから出来そう。
少し眠いが頑張りますかね。

梅雨の重たい森の静けさ
遠くで今 ウグイスも 眠そうに鳴いています。

2007年7月20日金曜日

ある実験

今私 一つの実験に入ろうとしております。
一寸分かりにくいかなと思いますが 聞いて下さいますか?
それはこうです:
最近私はあるお方に ある要求を出した。すると先方は
だったらこうして欲しいと言われた。仕方がないので私は今
その要求を飲もうとしているのです。(多少辛いんですでどね)
これは 私がもしその要求に応えた場合、今度は
私のそもそもの要求が本当に先方に実現してもらえるのだろうか、
と言う実験なのです。
ハイ、先方、ある方とはキリストです。

その先方の要求とは何か、それは一寸ここでは書けません。
もし書けば 皆さんは私の認識にあきれ果て
「気の毒にミスターシュガーもいよいよおかしくなってしまったのか」と
大いに嘆かれるかも知れないから。
その私への要求を具体的に言うならば 一見あまりにも非常識に見え 
殆ど不合理にさえ見える そのようなたぐいのものだから。

しかし皆さん この新約の時代に 総てのキリスト者に
いつでも当てはまる 画一的な行動規範の様なものは無いのですよ。
だから私だけに その様な要求があっても一向に構わないのです。
「神は聖書から 道徳律や徳目を人に与えることによって、
人々に均一な善を要求している」と人々はトンでもない誤解をしている。
それは全くの見当違いなのだ。神は生ける者の神なのだから。

考えても見てください。
あの最初の人アダムは善悪を知らなかったのですよ。
このことは実に驚くべきことではないでしょうか。
彼には 私達が今一時も離れられない観念:
私は今どうするべきか、どうするのが正しいのか、
そしてどのようにするべきではないのか、と言う様な
自分独自の世界さえ無かったのです。
少なくも その様な観念が彼の命となり
彼の主要な生きる力になることは決してなかったのです。
信じられますか?
私達にとっては その様な彼の存在自体が既に相当な難問なのです。
私達現代人に 善悪の判断を知らない、いや善悪とは何のことかさえ
感じられない、しかも同時に健全で無垢なる大の男を想像するのは
極めて難しい事なのです。

しかしながら 事実としてアダムはそういう人間だった。
ただ彼は善悪の外にいて、ただ神に完全依存して生きていたのです。
彼は 生きることの総てを神への依存によっていた。
彼に必要なのは神ご自身であり、善ではなかった。
彼は本当に善悪を知らなかったのです。

無論 今私達にアダムの様に生きなさいと言われたとしても
それは とても困難であると言わざるを得ないでしょう。多少ならまだしも
生きることの「総て」を神に依存するなんてまさか と私達は思うし 
たとえその生き方に賛同する人がいるとしても 
その人が 本当に神に依存して生きるのはやはり相当難しいのです。

何故? それは 私達は
アダムが「善悪の判断を自力でするようになってから」の
子孫だからです。だから私達は今 いやおうなしに 遺伝的に 
神へ依存することよりも 善悪を自分で判断し、
本能的に何の疑うことも無く自然に
自己の力を日夜振り絞って生きているのです。

しかし、この生き方にはご承知の如く汗と涙が 常時付きまとい
人はそれぞれ 自己製や自家製 或いは自国製の善や宗教を掲げて
他と戦わざるを得ない、いや自分とも戦うことになるのです。
それが今日のキリスト教を含む宗教、道徳、政治、教育
そして世の中全般の姿なのです。
その行程総てに伴うのは常に死の臭いであり、
究極的には絶対的死が待っている。
これは本当に悲劇だ。


さて
実はあの「先方の要求」の背後には 正しさや善への要求は全くなく
本当の所 私に対する「神への全面的依存」の要求が隠れている。
ここで先方は この要求の向こうにあるものは 更に高きところ: 
ある安らぎと能力であると教えようとしておられる。
そう 有難いことに彼は その要求に対する従順の結果与えられるものは 
「人の血と肉の力を全く不要とする静かな深いパワー」であると
苦労して私に教えようとしておられるのだ。
私はこれからの日々 この関門を真に通過して行けるのであろうか!

キリスト者とは本来
自己の努力と汗を全く放棄した所に確かに存在するところの 
私のものでない高貴な能力を ふんだんに用いる事が出来る人々である。
自分からではない ある超越した能力を使用させて頂く人々なのである。
それはアダムも知らなかった「あの命の木の実」を
先ずは実際に食する事から 生ずる能力であることは確かではあるが、
問題は更に深いようである。いずれにしろ
そんな能力がもし現に存在するのであるならば
それを知らずにおられようか!と あなたは思いませんか。
(一寸わき道に逸れかけましたね)

基本に戻ろう。
人の目には 総てのことの最高峰とさえ見える「善悪を知ること」ではない、
必要なのは命、神の命である。
命は美しい、命にこそ力があり そして命こそ永遠である。
そして真の命の木とは 神ご自身であり、そしてその命の木の実とは
人が食し得る神のかたち イエスキリストに他ならないのである。

これが今私に課せられている実験なのです。
さてさて、これから私はどんなことになるのやら。

本日は長らくご静聴 有難うございました。

2007年7月19日木曜日

ただいま

きのう夕方帰って来ました。

朝8時半 台風で水かさの増した利根川の家を出発、
例の如くあちらこちらブラブラと・・・ 先ずは
ひたちなかのジョイフル本田で
将来小屋のアクセサリーになりそうな小物を2点購入。
そのあと いわきの本屋で「ハウス本」をいつもの様に眺めて見たが 
もう本はいいですね、もう私の頭の中のイメージだけで十分、
それに向かって作業を進めて行けばきっと
気に入る小屋が出来るに違いないと、
何だかそんな気がしたのです。もうこれで本屋に行くこともないかな。

今回の下界暮らしは2週間以上。
どうしてでしょう、随分と長くいた感じがします。
そうやって時はどんどん流れてゆく。
そんな中でも確かに 
とても素晴らしい時間を皆さんと共有できたわけですが
それでも「なくてならないものは多くはない、いや唯一つだけである」 
とのイエスの言葉が残ります、と言うか
それが実は今 私に迫って来ているのです。

「ああすればこうなって、こうすればああなって」
と言う人の頭の中の因果関係などではなく 
言わば時空を超えたとでも言おうか
永遠と復活の中の時間の過ごし方がきっとあると思うのです。
これ一寸妄想?
でもですね、事実として今イエスは確かに その中におられるのです、
永遠と復活の中に。

今日からしばらく そのような 
なくてはならぬ時間の過ごし方がテーマになりそう。
バスルームのプロポーション、
ああでもないこうでもないと一喜一憂しながら。

2007年7月4日水曜日

プロポーション

おとといかな 風呂場は 床のタイルの目地材を塗った。
目地材に対する水の量が難しく、何とも中途半端な結末に。
何と目地材が足らなくなってしまったのです。
でもこれで2週間後 山に帰って、タイルをきれいに仕上げる
楽しみを残すことになる。それもまたいいか。

タイルが終われば いよいよ浴室にバスタブを入れて見ることになる。
それが 実にときめきの瞬間なのだ。
なぜなら、その時 それまで長年 頭の中で温めてきた私の中の 
「美しい」浴室のイメージが 目の前の現実となるからである。

美しさは 物の個々の値段の高さや材質にではなく 
全体として 他のものとのプロポーションにある、
だからあまり 物の材質になど金をかけることはない 
と私は思っているのです。(実際お金もありませんけどね)

これは 全く後悔ものなのだが 浴室が狭いのだ。
この点は美しいプロポーションの為には 決定的に難しい条件となる。
やむを得ない、だからドアは全部ガラスにして 
実際的な狭苦しさは 見た目に「ごまかそう」とする作戦なのである。
そこに大きな鏡を入れれば なお良いだろう。

2週間後山に戻り 実際に バスタブと鏡を浴室に入れてみる瞬間 
この浴室の 全体的プロポーションは私の目にどう写るのであろうか。

2007年7月3日火曜日

信じてますか?

・イエスは「私にそんなことが出来ると信じるのか」と言われた。
 (マタイ9の28)

・父親は言った。「もし お出来になるものなら」
 するとイエスは言われた。「できるものなら?」(マルコ9の23)
 
 これは原文的には「何っ 出来るものならだと!?」
 と言う意味だそうである。
 何とここで イエスは多少 ケシキばまれたのだ!

・「神の業を行う為に、何をするべきでしょうか。」イエスは答えて言われた。
 「・・信じること、それが神の業です。」(ヨハネ6の28、29)

これらは 私達の「信じること」に対する「イエスの執着」
を示す言葉である。
全聖書とイエスの主張、それはつまる所「信じなさい」である。
私達は信者と呼ばれている。信者とは要するに信じる人である。
打者は打てばいい、走者は走ればいい、
だから信者は ただ信じればよいのだ。


ところが私達は実際の所 あまり信じていないのではなかろうか。
何となく信じている ではなく イエスの真理の何をどう信じているのか
が大切なのだ。イエスの言葉は皆具体的である。
だから「何となくイエスを信じている」は本当に
信じていることになるのだろうか。
実際は殆ど信じておらず 単に「何をするべきか」と考えているだけではなかろうか。

私達は「具体的に何かを本当に」信じてみて、そこに何が起こるかを 見てみたらよいのである!

明日から2週間 そんな気持ちで「下界暮らし」をします。
実は今回 神の真理の何をどう信じるか のテーマはもう決定済み、
結構わくわくしているのです。

浴室作りも 少しは未練がありますけどね。