2011年6月29日水曜日

悪霊達の「礼拝」

汚れた霊どもが、イエスを見ると、
みもとにひれ伏し「あなたこそ、神の子です。」
と叫ぶのであった。(マルコ3の11)

ここに
「今日のいわゆる礼拝」に勝る「礼拝」を見ます。
彼等のイエスを見る認識は今日の礼拝者を
はるかに越えていたことでしょう。(彼等は何も彼等の
親玉・サタンを拝んだのではありません。)

ところで「彼等の礼拝」において、「イエスを信じる」
(believe.into.Jesus)ということがあったでしょうか。
それはイナです。その時、彼等にはもはや、それをする機能は
失われていたのです。
彼等はただ「神はお一人だと信じて恐れていただけ」です。
(ヤコブ2の19)実にそれこそが、彼ら悪霊達の、
そして今日の宗教における「いわゆる礼拝」の本質です。

だから今日「父が求めておられる礼拝」とは
「このような礼拝以上」でなければならない
ことは明らかなのです。

イエスは彼等を救われたでしょうか。当然イナです。
彼等の「礼拝」を神は喜ばれ、評価されたでしょうか。
断じてイナです。救われるどころか、今彼等のために
準備されているものは「想像を絶する悲惨な滅亡」です。

問題はどこにあるのでしょう。
それは時です。彼等は過去のある日「彼等に準備された時」
をムイに過ぎ去らせてしまったのでしょう。

私達にとっても
神と神の言葉を真に「信じる」ことができる日は
そんなに長くはないことを知るべきです。

2011年6月27日月曜日

「立ち上がる」のはあなたです

① 「私が」願いを持ち
② そして
「私が」立ち上がって、
主により頼みつつ、一つ一つの事を行動に移す、
(日常の小事でさえも!)
という昔から言い古されたことが
とても大切な聖書の教えです。

確かに聖霊は働かれますが、それは
「私が自立的に願う、ようにと働く」という範囲です。
だからあくまで「私が願う」必要があるのです。
そこにはハッキリと人の意志があるべきです。
「人に明確な意志を持たせ
人をして、神により頼ませる」ように神は働く、
これが神のとても大きな原則です。

※ 意志や自己や「信仰」さえも捨て去り、
私は何もせず、自分を何かの上にフワフワと浮遊(ふゆう)
させるばかりの「怠惰」の中で、ただ神を待つのが
最も深い信仰である、・・・これは今日「進んだキリスト者」
の間に行き渡っている とても大きな誤解です。

神は
「あなたが立ち上がる」のを待っておられるのです。
あなたが、あの二本の木の間で、
ハッキリとあなたの意志を表明する時
神は「待ってました」と喜んで、
初めてその状況の中に介入することが出来るのです。
(ですからこの点においては「神にも限界がある」と言えます)

神はそれほどまでに(御自分を尊重されるほどまでに!)
あなたの人格を尊重されるのであり、絶対にあなたを
「神のロボット」にしたいのではありません。

だから、私達は次の有名な聖句を誤解しないように
気をつけるべきです:
「神の大いなる喜びの為に 願わせ、働かせるのは
あなた方の内で活動する神です。」
(ピリピ2の13)

何故なら、※のような時、神をよそおい
あなたの人格を無視してさえ介入してくるのは悪霊達
であるからです。(私の全面でないとしても、私のある
部分が、既に「敵の霊」の介入を受け、原因を知らずに苦しめ
られている可能性は十分にあり得ます。しかし
その事実に気がつくのはやさしいことではありません)

神はあなたに
「暗示し、すすめ、励まし、時には命令」さえされます。
しかし断じて強制されることはありません。
(この差は重要です)

再度言います。私は
神とサタンの二つの意志の間に立ち
立ち上がって「私の意志を用いて」
「悪い意志」(しばしばよさそうに見える)
を拒絶し、断固「神の意志を取る」
(神の意志を私の意志として取る)べきです。

パウロも言っています:
あなたは「悪魔の策略に対して立ちあがり・・なさい。」
(エペソ6の11)

2011年6月25日土曜日

主の手から受け取る

十字架とは
困難、制限、圧迫を感じ、「なんで私だけ」と思う時
それらを「主の手から」受け取ることです。
そうすれば、主ご自身が、あなたと共に
その重荷を背おって下さるでしょう。

しかし、
それらの圧迫を「何となく悩む」だけなら
あなたは「敵の手から」受け取ることになってしまい、
その制限や「つらさ」は、あなたを神から離します。
(当然そこには「十字架の不思議な効果」は現れません)

「何となく悩む」はよくありません。
それは総ての人々が日夜行っていることです。
しかし、あなたは心の中で立ち上がり
「この状況を主の手から受け取ります」という意志を
神に対してハッキリと表明する必要があります。

そうする時そこで、あなたの
「サタンに対する拒絶」と
「神に対する従順」が表明されるのです。その
「小さな宣告」こそが「人の取るべき最高の行為と選択」です。
決して「エバお母さん」のように
「何となく」に身を委ね何かに流されてはなりません。

心の中の、この二つの相違(そうい)は
微妙(びみょう)に見えますが、
それはその後、正に天地の差を生じさせるでしょう。

2011年6月24日金曜日

今日は下山日

梅雨(ツユ)に入ったばかりだと言うのに、
ケサは実に美しい梅雨の晴れ間、今日は楽しい移動日です。
大好きな、深い奥山に迷(まよい)こんだかのような
国道399を走ります・・・
というわけで話を手みじかにすると、

人々は
「地球に住むのがこんなにも大変で、人々の不幸は限りがない、
という原因」は人間にある、と思っております。

だから皆さんそれぞれ
自分の正しさを主張して戦い、それが高じて人を攻撃(こうげき)
するのです。そのようにして今地球上のいたる所に、その大小の
攻撃や争いが無数に渦巻(うずま)いているのではない
でしょうか。
(私も言いますよ:それにしても、ああどうして人類は
こんなにもヒサンなのでしょう!)

しかしながら
聖書の、神の、イエスの、パウロの考えは全く違います。
彼等の考えはとても明快(めいかい)で、それは
全世界の限りなく深い不幸の根本原因は人にあるのではなく、
「神の敵とその手下ども」にある、というものです。

創世記は、「最初の人」に悪が入りこんだ時、決して
その時が「悪が始まった時」ではなく、
もう既にそこに、悪者が存在していたことを断言(だんげん)
しております。

確かにエバは悪いです。
私達は彼女のせいで(東電どころではない)大へんな迷惑を
こうむってしまいました!
しかしながら、もしもエバをだました者がいるとすれば・・
その者が最も悪いことは明らかです。
だから私達はあまり「エバ姉妹」を攻めるべきではありません。
むしろその「諸悪の根源(こんげん)」こそが第一番に
糾弾(きゅうだん)されなければならないでしょう。
これはとても単純な理屈(りくつ)ではないでしょうか。

エバの悪い理由は、実は
彼女がその悪に「ついていった」からです。今日もそれは同様で、
人は「あの悪者」に追従(ついじゅう)するから、その理由で
悪いのです。だから再びサタンが最も悪いのです。

時間がないので、今日の話は以下のようにまとめます。
私はこれを声を大にして言いたいのですが:
今キリスト者がこの地球に置かれていると言うのは、
正に「その悪の根絶(こんぜつ)のため」であります!

今地球と人の心はこんなにもダメにされてしまいました。
しかしながら、それでも決して、そして断じて、人は捨てたもの
ではありません。実は、人と地球に、約束されすばらしい希望が
あるからです。そしていずれその希望は現実のものとなる
でしょう。なぜでしょうか、それは・・
今ここにチャンと「キリスト人」であるあなたが
存在しておられるからです!

それでは・・

2011年6月23日木曜日

キリストの勝利とサタン滅亡の展開3

キリストの勝利はすなわちサタンの敗北です。
時空の中においては、キリストが、信者を通して
勝利した分量だけ、敵は滅亡に向かって後退する
のです。サタンの後退の一歩一歩はすでに
彼の滅亡の一部であるとも言えるでしょう。
(彼は遂には火の池にまで後退するのですが、
火の池だけがサタンの滅亡ではありません。)

総てのキリストの勝利と敵の滅亡は、既に
「あの永遠の十字架」と言う一点の中にありました。
しかしそれは種のような小さな一点です。にもかかわらず
それは完ぺき完全な勝利であり、しかも膨大(ぼうだい)な
勝利の詳細(しょうさい)をふくむ驚くべき種です。
(地上の種も驚くべきものですが)

種とは永遠を説明する一つの絵です。もしも種に対して
何もしなければ、すなわちある意図(いと)を働かせなければ
種は時間を越えて、そのまま何千年でも存在します。確かに
そこに永遠の命はあるのですが、いくら種をながめても
キリストの勝利の展開は見えません。(あなたはあの「一点
十字架」から多くの勝利を引き出さなければならないのです!)

敵の敗北の種も、あなたの内におられるキリストの中にある
のですが、そのままだと、種はいつまでもそのままです。
これは大きな悲劇(ひげき)です。もしも鳥が来て「土への
落下を拒否するあなた」を食べると、あなたから何とサタンの
勝利が展開されてしまうからです。

解決はどこにあるのでしょう。
神は種(永遠)を持つあなたを、時空世界の中で、真っ暗な
地の中に深くうめるようにと意図(いと)されました。「私達
がまだこの世にとめおかれている」とはそういうことです。

キリストの勝利という「種を人の霊の中に持つあなたの魂」
は必ず地の中へと落下させられ、土の中の「水と熱」
(神が許される「軽い」さばきor艱難)によって破壊(はかい)
されなければなりません。

それこそが「愛なる神」のみこころであり、神の子・あなたに
課せられた日々の十字架です。それはすなわち、あなたをして
「イエスと全く同じ人生を歩んでもらいたい」と言う
切実な「神の願い」を表現しているのです。

もしもその時、神に対するあなたの従順(じゅうじゅん)が
あればあなたから3日後、キリストの勝利(サタンの敗北)が
少しだけこの地上に芽を出すことができるでしょう。

それがあなたにおける「キリストの勝利と敵の滅亡の展開」の
開始となり、さらに日夜寝起きしている間に、開花の日を迎え、
遂には結実に至るのです。

2011年6月22日水曜日

キリストの勝利とサタン滅亡の展開2

だから、
そこに彼を追いつめる者がいなければなりません。
上の3つの大きなサタンの後退(刑の三大執行)は
主ご自身や天使によりますが、今現在、サタンを追いつめ、
後退させるべき被造物は何と、キリストを内に持つ
キリスト者達です。

しかし、もしもキリスト者が常に目を覚まし、
強い霊によって彼等を追いつめていないならば、逆に
必ず追いつめられていることになります。それは人の霊が
悪霊達によって取り囲まれ、圧迫され、遂には眠らされ、
死に至ってしまう、という大変な状態です。霊的な戦いは
まるで人の霊対悪霊の「押し相撲」のようです。

「上の3つの目立つ後退、サタンの投げ落とされ」の原因に
なるのが、今の時代における、さきほど述べた悪霊達(無数の
サタンの子分達)の後退です。それは現実的に、今私達の日常
生活の中で起らねばなりません。

しかしこの時代においてそれは、必ず目立たない隠された
方法によるべきであり、キリスト者がよく見聞きする
「悪霊追い出し」とは似てもにつかないものです。

黙示録の予言によれば、もしも、悪霊達の後退が
この時代の中で、ある程度にまで至らないならば、上のサタンに
対する神の裁(さば)きの3回にわたる大執行(しっこう)は
ドンドン先のばしにされることでしょう。それは当然この
地球上の「真の平和」も先送りされることを意味しております。

永遠の十字架においてサタンは滅亡しました。しかし、この
エクレシアの時代、キリスト者が信仰によって「既に完成した
サタン滅亡」を根拠に、その事実を時空に引き出し、現すことを
神は心から願っておられるのです。「永遠の中の真理」は、
「時空の中の事実」に遥かに・ハルかに勝るからです。
(これこそ本当の「天地の差」です。)

最後にもう一つの理由を言えば
キリスト者とは(一寸信じがたいほどですが)将来何と、神の
栄光に共にあずかるべき存在でもあるからです。(ローマ8章)
それにしても私達の神は何と不思議でありがたい神でしょう!

キリストの勝利とサタン滅亡の展開

永遠において
十字架におけるキリストの勝利とサタンの滅亡は、一つの
点のように見えます。それは一粒の種のようです。
(キリストの勝利=サタンの敗北、滅亡です)

それは小さな一点ですから、そのくわしい内容は
外側からはあまりハッキリとは分かりません。
(特にあのゴルゴタの現場においてはそうでした)

従って、その一点にふくまれる膨大(ぼうだい)な内容が、
永遠の中から時間の中へと一つ一つ引き出され、展開され、
見届けられ、確認され、体験される必要があるのです。
(それは黙示録の中の「小さな巻物の封印」が一つずつ
開かれるようにです)

さて、時間の中でのサタン滅亡の程度や過程は、
サタン後退の程度や過程です。簡単に言えば、
サタンの滅亡とは彼の後退です。それは地上の戦争の
ようです。(余談ですが、サタンの後退は、実はかなり
昔から始まっているのです)

その中でも、とても目立つ後退は、将来サタンが
①天から地に投げ落とされ、
②地から、さらに深い穴にとじこめられ、
そこからついには
③火の池の中へと投げこまれると言う3つの事件です。
(黙示録に出てきます。この3つ以外にもありますが・・)
それは言わば、追いつめられた悪人が背後(はいご)の
ガケから何度でも転落させられるようなありさまです。
当然その悲惨(ひさん)さの程度はそのツド増加します。


今日はキレイな晴天ですが、スゴイ強風です。
棚工事ですが、どうやら今日の午後で殆ど完成にこぎつけられ
そうです。4つの収納場所に全部で5つの棚を作りました。
これでようやく、外にほったらかしの建材等が片付きます。
しかし、小屋全体の復旧はまだです。こう見ると私も小さな
(立派な?)被災者ですね。(今、昼の12時半)

2011年6月21日火曜日

完了した

*ある兄弟のことばから*

ヨハネ19:30で
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、
「完了した」と言われました。

この完了したとは、
永遠における贖いの完了と
サタンの究極的な滅亡を意味しているのでしょう。
だから最後に酸いぶどう酒を受けられたのです。

「永遠において完了された御わざ」の実際を
今度はこの地(世)に引き出し表すべし、という
クリスチャンの役目を感じるこのごろです。


アーメン、感謝です。
死刑の執行(しっこう)の苦しみの最後に
「完成した」などと誰が言えるでしょう。

そうです、
「悪魔の滅亡のための業が総て完了し」
「御父のみこころが、あますところなく達成された」
という、それは深い深い御子の満足を表現しているのです。
一億分の1でも、不安があったとするならば
絶対に彼はそうは言われなかったはずです。

完了したということは、さらに
その後、イエスが神によって復活させられ、
さらにみ座に座され、御父と共に
心から安息(あんそく)された事実を見ても分かります。

かりにそれが失敗であったならば、
彼は黄泉に留めおかれたはずです!
神の御業の最重要局面において、不完全さ、
あいまい、中途半ぱなどは絶対にありえません。

天における「御父と御子の今現在のお姿」は
彼の十字架が完ぺき完全な成功であった、
ことを証明しているのです。

彼は神の子、
あの十字架における最後の小さなことばは
真実のきわみであったことを
私達は信ずべきです。

「悪魔よ、
あなたはあの十字架上で完全に滅亡した!」

2011年6月20日月曜日

山に来ました

今日の午後、入山しました。

昨日は水海道(みつかいどう)のケンを訪問、
ずい分よくなった感じで感謝でした。
最後に二人で祈りました。

先回は妻とある姉妹が行ってくれたのです。
精神病院の中にも神の国が現れたら
すばらしいですね。

本日、山に来る途中(とちゅう)、
下の村々はケッコウ人々の生活が
戻(もど)って来ているようなふんいきでした。

今ここカリマンの緑はとても濃(こ)く、
小屋は正に「緑の海」の中です。

明るい曇り空から太陽が顔をのぞかせ、
鳥達の歌声がたいそうにぎやかです。
しかし人の気配(けはい)は
全くありません。

みなみ東北の梅雨(つゆ)はいつからでしょうか。
「お天気」を見ると
23日あたりからは「カサマーク」が続くようです。

今回は、
建材と山の道具を入れるタナ3つを仕上げることが目的。
短い滞在(たいざい)になります。

2011年6月15日水曜日

第一の祈り

それは、
「み国が来ますように」と言う祈りです。
いわゆる「主の祈り」
(本当は「主が強くすすめた祈り」)
の中心はみ国です。

またそのことの大切さは、イエスが
この祈りをすすめたあと再び
神の国と義とを先ず「第一に」求めなさい、と
言われたことでも分かります。2千年前、そして
当然今もイエスの心は正にその点に集中していると
言えるでしょう。

そもそも
それらが書かれているマタイによる福音書とは
「イエスが本当の国王である」ことと
そこの国民はどうであるべきかを
伝えている書です。

一例をいえば、福音書の中で伝えられた福音は
「神の国の福音」であって「恵の福音」では
ありません。(恵の福音は神の国の福音の一部に
過ぎません。)

また、天国は目に見える形においても
間もなく来るのだから、
「あなたの普通の生活が今どうであるべきか」が
パウロやペテロが命がけで伝えたことです。

要するに全聖書は、天国、すなわち
王イエスの支配(キリストの天的な支配)が
この地上にも実現されるためにある、
と言っても言い過ぎではありません。
「みこころが天で行われるように地でも
行われますように!」

従って、私達の総て(一回の呼吸、一度の食事でさえ)は
全部「神の国のため」であるべきです。
だから「み国がきますように」と、週一度
ブツブツ「となえる」だけではまことに不十分です。
私達は「となえる」のではなく、
神の国を心から求めなければなりません。

★16:37

今散歩から帰って来た所ですが
まだ日は高いです。
いつもの「ダビデの丘」方面でした。

大工仕事ですが
ヒンヤリとした気持ちのよい好天の中
三番目のタナ工事に入りました。
これが終わればもう二つです。

今ホトトギスがけたたましく啼いています。
近年少なくなったのかな、それでも
大好きなカッコー、ヨタカ、フクロウのこえも
時に楽しんでおります。
本当に主に感謝な日々です。

2011年6月14日火曜日

永遠のキリストの御業(みわざ)によって

★7:35

「永遠のキリストの勝利のみわざ」によって
私はもう既(すで)に救われているので、
今救って下さい、と祈り、信じ、
そして賛美をするのです。

「永遠のキリストの勝利のみ業」によって
悪魔の働きが既に打ち壊(こわ)されているから、
「今ここにある悪魔の働き」を打ち壊し下さい、と
祈り、信じ、そして賛美をするのです。
(Ⅰヨハネの手紙3の8)

永遠の中に無いものを、
時間の中に引き出すことは
できません。

しかし逆に言えば、
永遠の中で完成していて、そこにあるものは、
ただそれを信じるだけで、今時間のなかでさえ、
その勝利は私のものとなるのです。
何と不思議で、感謝なことでしょう。

★9:00

今朝、カリマン室内の線量は
0・54マイクロシーベルトとのことです。

★17:13
午後タナ工事、二つ目が完成しました。

またついさっき業者が来て
パソコンを光に変えました。
(何のことか、よく分かりませんが・・)
それで今、パソコンがスゴク早く動くので
ビックリしています。

それでは今から散歩に行って来ます。
とても美しい夕刻(ゆうこく)です。

2011年6月13日月曜日

時空世界と永遠の世界

★6:10

地上のキリスト者の霊と天にあるキリスト(の事実)は
一連(いちれん)のものです。
それらは
水源(すいげん)水道管、手もとのコック・スイッチのように
「一つながり」です。「手もとのスイッチ」は、最も深い私、
すなわち「私の霊」の中にあります。

天もキリストもキリストの勝利も
「時空世界をこえた世界」のものですので
時空内のもの(物・脳みそなど)をいくら働かせても
理解(りかい)することは不可能です。

それはまるで、寒暖計(かんだんけい)で
一生けんめい「重さ」をはかっているようなものです。
(ホーキング博士の高性能の寒暖計でもムリです)

その理由は
時空世界と永遠の世界との間には大きな淵(フチ)があって
こちらから向こうへとび越(こ)えることは
不可能であるからです。(向こうからこちらへは別です)

しかしキリスト者には、霊の中に、そのフチを
とび越(こ)える信仰という道具がプレゼントされております。
これは大した特権(とっけん)です。そしてこの信仰も実は
向こう側のものであり、霊に属(ぞく)するものです。

キリスト者とは
時空世界に体で触(ふ)れ、自分の霊を通して時空を
越えた世界にも触(ふ)れることができると言う
とてもめずらしく貴重(きちょう)な生き物です。
(しかし霊を用いないで、脳みそだけを使っているならば、
それは別の話です。)

聖書では、
永遠の世界をよく「天的、上の(上位の)、霊的、永遠の」
等と表現しています。聖書によく出てくる神、キリスト、命、
信仰、「ことば」等はことごとく天的、霊的で永遠性のものです。

だから聖書で言う永遠とは、「エンドレスなこの世界の時間」
ではありません。「永遠の命」がそんな命だとしたら、
5千年も生きたらタイクツになってしまうでしょう。私だったら
「そんな永遠の命」はいりません。

さて
聖書ではこの時空世界を「この世」とか「地」と呼んでいます。
二つあわせて天地です。しかし「地に属する天」もあるので
要注意です。たとえば聖書で大空を天と呼ぶことが
あります。しかし大空はまだ「物」であり、時空世界内です。
(聖書はそんなに単純でもありません。注意深さがどうしても
必要です。)

せっかく人間に生まれたと言うのに、
時空内の小さな世界しか知らなかったとしたら、
それはとてもとても惜(お)しいことです。
(ところで、チンパンジーに霊はありませんよ)

★6:49
最近の値:
今日の朝は1・07マイクロシーベルト
12日は1・43と1・45
11日は1・21と1・43
(近所のイモクボ氏の計測)

今日は地下の棚(たな)二つ目の工事にかかります。

★19:48
二つ目のタナ工事は今日
土台部分が終わり、明日はネタの部分を
やります。こちらは連日、梅雨とは関係のない
爽やかな初夏が続いております。

★20:33
水質検査(放射性ヨウ素):
ここカリマンは検査したことはありませんが
ここより原発に近い、都路町古道地区ではこれまでの所、
検出されていないようです。(田村市の発表)

2011年6月12日日曜日

ある対話(Oさんの祈り会での経験から)

Oさん:

今日のことです。私が祈り終えて、
次の人が祈っている最中、突然・胸部中央
(狭心症や 心筋梗塞で痛みを覚えるところ)が、
中から膨張するような感じがし、それが何と
ノドの方までやってきた。
今日、体調は良かったのに!

一瞬不安を覚えたが、なぜかすぐに
「これはサタンだ」と思った。
そのように思ったのは「御霊によって気づかせられた」
と言うことなのか。

いずれにせよ、私は直ちに心の中で
「主の御名によって命じる。
胸部不快を起こしているサタンよ退け!」と命じた。
胸部及びノドに及んでいた膨張・不快・圧迫感は、
直ちに消失した。

敵は、私の弱点の心臓を攻撃してきた。
しかし、主が勝利をとられた。

S:

私も今日、
私達には「既に完全な勝利が与えられている」
と言う真理を改めて見させられました。

主の側では、私達のために
もう「総ての備え」をなし終えられたのです。

私達は その事実を、
「信仰という管」の小さなコックを一寸ひねって
「私の現場に」スッと流していただくだけです、
天の水源にある「主の勝利と言うあふれる水」を。

サタンよ、あなたが見せているものは
虚像、虚構です。

2011年6月11日土曜日

パンと剣(つるぎ)をとりましょう

私達は進んで「神のことば」を取るべきです。

神のことばを取り、
①口に運(はこん)でよく噛(か)めば、それは
「命のパン」からの栄養(えいよう)となります。
②次に、口に運んだ神のことばを今度は手にとって
敵に向かって「つきつける」と
そのことばは、剣(つるぎ)となって敵(てき)を後退
(こうたい)させることでしょう。この①と②である
神のことばは、キリスト者の健康(けんこう)な
生活にとっては欠かせないものであるはずです。


イエスは「人は(この世の)パンだけで生きるのでは
なく、神の口から出る一つ一つのことばで生きる」
と言われました。(マタイ4の4)
だから彼は
「私は天から下って来た生けるパンです。」
(ヨハネ6の51)とも
「私があなた方に話したことばは、霊であり命である。」
(ヨハネ6の63)とも言われたのです。

だから、
キリスト者と言えども、日々ちゃんとした霊的な食もつを
取らなければ、そのうち必ず霊的に死人のような生活を
するでしょう。この死人と言う意味は
「この世に対してや、罪をおかすことでは」生き生きと
しますが、神に対しては死人となる、即ち「神の子」としての
働きを果(は)たせない、と言う意味です。それは正に
「生きた死人」です。これが神と聖書の見方のです。


また私達は
神のことばを手に取り、それを敵に「つきつける」
必要があります。その「つきつける」手段(しゅだん)は、
私達のような弱い「みどり児(ご)、乳のみ子」の口です。
「霊的な乳飲み子」が、何と、自分の命となった神のことばを
今度は敵をめがけて、口から「はき出す」のです!

その意味は、与えられた御ことばを自分にだけでなく、見えない
敵に「つきつける」、宣告する、提示(ていじ)する
と言うことです。このようにキリスト者が、口を開き、神の
御ことばを実際に声に発することはとてもとても大切です。
(詩篇8編を見てください)

それにしても、なぜ小さな「赤ちゃん」が巨大(きょだい)
な神の敵と戦う必要があるのでしょう。確かにこれは
ちょっと理屈(りくつ)にあわないように見えます。

その一つの理由を言えば(他の理由は後日に)
キリストの敵は
「真のキリスト者」を見るとき、同時に
「私達の霊の中のキリスト」を見るので、彼は
そのキリストに対して攻撃(こうげき)をしない
わけには行かないのです。なぜなら、創世記3章を見る
ならばキリストとサタンは正に敵どうしであるからです。

そしてその攻撃はキリストの体の「かかと」である私達に
必ず苦難(くなん)を与えます。ヒドイ苦しみを与える
相手がハッキリと分かっているのに、いつまでも私が黙って
いるとすれば、それはずい分おかしなことではないでしょうか。

しかし私達には、神の敵と戦う力などとてもありません。
どうして「この時間と空間(いわゆる自然)の中でしか
生きれない人間」が、時空を越えた力のある生き物と戦う
ことが出来ましょう!ところが不思議なことですが、
正にそれを神は私達に期待(きたい)されるのです。
(この理由も長い話となりますので、後日とします。)

しかし、感謝します。私達は力のない赤ん坊であっても
神のことばには、敵を退(しりぞ)かせる力が
十分にあるのです。(この点もまた後日に)

以上の理由で、私達は、毎日、毎時、毎分
①命としての神のことばと
②聖霊の与える剣である神のことばとを
受け取り使用する(エペソ6の18)必要があるわけです。
(明日は「敵の攻撃」について、と思っておりますが・・
本当に時間が足りません。)



水道工事は、しばらく後回しにして(というのは
水もれはそんなに多くないからです)今
地下の棚(たな)作りをしています。
大地震で、五つの棚のうち、三つが崩壊したのです。
きのうから・その内の一つの修復にかかっております。
建材等を入れる棚はどれも2坪はある大きなものです。

2011年6月9日木曜日

天国は来る(天国へ行く、でなく)

天国や神の国とは、イエスご自身であり、
王キリストの統治(とうち)や支配の及ぶ範囲
(はんい)のことです。

だから、
イエスの先駆者(せんくしゃ)ヨハネと、初期の頃の
イエスは「天国は近づいた」と言い、

後に、彼が人々に囲まれていた時
「神の国はあなた方の間(among)にある」と
言われました。(ルカ17の21、新共同訳、NLT訳)

そして復活後、無制限になられたキリストは
彼を受け入れた者の霊の中に(in)おられます。

だから天国は人々に対して
「近づき」⇒「間におり」⇒「中へと」来られた
ことになります。
したがって、聖書で言う天国とは、ある日突然「行く」
かも知れない、あるいは「行きたい」所などではなく、
むしろ今日とても具体的に「来る」のです。

しかし
私が「自分を自分の主や王とする」ことを
完全にあきらめ、ただキリストだけを
実際的に私の主や王としなければ
彼がその支配(神の国)の実際を
私において表現することは不可能です。

なぜなら彼は、人の意志を
とても尊重(そんちょう)されるからです。
だから私達は、ゼヒとも祈らねばなりません。
「御国が来ますように!」(「主の祈り」)
そして「天国が私から人々へと
流れ出て行きますように!」と。


止水栓開閉器の製作は完全に失敗でした。
クギがいとも簡単に折れ曲がってしまったのです。残念ですが、
今日はその道具を船引まで買いに行かねばなりません。

2011年6月8日水曜日

サタンは幸福です

サタンは安らかで幸福です(ルカ11の21)
もしも事実(真理)を声高(こわだか)に
告(つ)げる人がいなければ。

この世の総てのモノと事の後ろで
「ある霊達」が日夜働いており、セッセとあなたの前に
「山」を築(きず)き上げています。(マタイ17の20)

「だからサタンよ、これからあなたに
本当のことを言ってあげましょう。」

*山とは
「普通では動かないもの(状況)」のことです。

2011年6月7日火曜日

止水栓開閉器を手作りする

昨日から水道工事にかかっています。

奥の沢から長距離流れて来る山の水は、先ずは
中村さんの家の敷地(しきち)にある水槽(すいそう)
にたまり、 それが落下してこの山小屋に
至(いた)るのです。

ところが、その水槽手前の道路下の水道管の一か所に
小さなモレが出来たと見えて、水がその道路に
流れ出ているのです。
これはどうしても止めなければなりません。

先ずは、水道管がハルバル奥の沢に向かう
遠くの山道にある大きな止水栓(しすいせん)をしめて、
その漏水(ろうすい)か所に水が来ないように
しなければ なりません。そうでないと工事が
やっかいです。

ところが止水栓は、どうも器械で開けたらしく、
しめようとしても、私の握力(あくりょく)ではビクとも
しないのです。 (止水栓は直けい10数センチの塩ビ管の
下の方にあるので、器械がなければ、とても「きゅうくつな」
カッコウで、かた手をのばし開閉しなければなりません。)

それで今日は、どうしてもその「止水栓開閉器」を
木と釘で手作りしなければなりませんでした。試行錯誤
(シコウサクゴ)のすえ、午前中で何とか完成したのですが、
しかし果たしてこれで、あの大きな止水栓がしめられる
ものでしょうか。 しかしその実行は明日にしましょう。
(ただ一人の作業、根をつめての労働はかたくキンモツです)

このように、山で暮らしていると、時々思いもよらない事を、
どうしてもしなければならなくなるのです。

午後は、地下の
大地震で崩壊(ほうかい)したタナの修復にとりかかりたい
のですが・・(基礎と土台はすでに全部完成しております。)

主の口から出る二つのものは一つです

私達は
主の口から出る息
すなわち「聖霊である言葉」を
先ずは
①私の命、生活、人生(life)の源として吸い込み、
次に、それを
②剣(つるぎ)として手に取り、
悪霊達にするどく突(つ)きつけるべきです。

主の口から出るものは、
「彼の語りかけ」として
私たちに対しては、
命の息(命・聖霊を含む言葉)となりますが、

不思議なことに敵に対しては
剣となって殺すか、敵を退(しりぞ)かせます。
私達は「かたく立って」(すなわち意志を用いて)
それを手に受け取り、悪霊の前に立ちふさがり、
その剣をするどくつきつけ、彼等を退かせるべきです。
(今の時代においては悪霊が退いたその分だけ、
神の国が来るからです。マタイ12の28)

聖書:

・「私(主イエス)があなた方に話したことばは
霊であり、また命です。」ヨハネ6の63
・「聖霊の剣である神の言葉(真理)を受け取りなさい。」
エペソ6の17
・「イエスは彼等に息をふきかけて言われた。聖霊を受けよ。」
ヨハネ20の22
・「(主の)口からは、するどい・もろ刃(ハ)の剣が
出ている。」黙示録1の16
・「主はみ口の息をもって彼(反キリスト)を殺す。」
Ⅱテサロニケ2の8
・「私達の格闘(かくとう)は血肉(人)に対するものでは
ない。・・もろもろの悪霊に対するものです。」エペソ6の12

頭のよい悪霊は、人を人と、キリスト者をキリスト者に
対して日夜戦わせ、すなわち「どうし打ち」をさせ、
ついには人生の総てを消耗(しょうもう)させることに成功し、
(今日、地球上に見られる光景の総てはこれです)
自分は「かくれみの」を着て笑っています。

・「では、しっかりと立ちなさい。」エペソ6の14
なぜなら私達の前には
主の軍の大将であられる一人の人が、ぬき身の剣を手に持って
立っておられるゆえに、勝利は確実であるからです。
(ヨシュア記5章)


以上述べたことは
「いわゆる悪霊追い出し」とは全く別のものです。

2011年6月5日日曜日

小さな言葉をくり返し「となえる」祈り2

従ってその「自治を守ること」はあなたがしなければ
なりませんし、それは完全にあなたの責任です。その限りに
おいては神は、あなたを助けることをしません!そこには常に
「あなたの意志」が存在していなければならないのです。

何故なら真の神は人の自由意志をとても重んじられるからです。
宇宙の歴史の中で「一度神はその原則、神の法を定められた」
のであり、従って神ご自身でさえそれを安易に破ることは
出来ません。法とはそのようなものではないでしょうか。

この事実を明示する絵は、創世記3章に大きくかかげられて
おります。そこにあるのは、神とヘビと人間の「独立した
3つの意志」です。(それゆえ神は、エバとヘビの間に
割って入ることは出来ませんでした。)


しかしながら、悪霊のやりかたは全く異なります。
ある集会の中などでヘビは「そのあなたの自由意志」をさえも
放棄させ、全くの受身状態にならせ、あなたを完全に無防備
(むぼうび)にし「あるものの上に自分をフワフワとただよわ
せる」ことが深い信仰であるかのように思わせたいのです。
そのようにして悪魔はむしろ「道を求める真剣なキリスト者」を
誘惑するでしょう。悪魔とは誘惑者という意味であり、
その際の有力なエサは、ある種の美や「心地よさ」です。

くりかえしますが、悪霊は、常に何とかして人に意志を
放棄(ほうき)させ、人の中に入り込みたいのです。
そのようにして最後には邪霊の意志のまま、機械かあやつり
人形のようにキリスト者を動かし、次に今度はキリスト者を
大いに苦しめ、そのあげく、出来れば自分の「ともづれ」に
することを切望しているのです。(彼は、破滅というさけ
得ない自分の運命を感じているからです。)

かように、人が自分の頭・思いをふりはらい、二、三の単語を
早口にくりかえすことによって受身状態になり、何かを呼び込む
ように「となえ続ける」時に、そこにある現象(げんしょう)が
発生せざるを得ません。
(何故ならその時人は結果的に、それとは知らず、悪霊が
取り付く条件を満たしてしまうからです。)

以上の事実を見るとき
①の原則から「聖霊が来る」などということは
絶対にあり得ません。
しかし、②の原則のゆえに、その人に、待ってましたとばかりに
飛来し・とどまり、時に「すばらしい恍惚(こうこつ)経験」を
人に与えるのは悪霊達以外にはありません。

対キリスト者であればこそ、
悪鬼、邪霊達はしばしば、美しい「光の天使」をよそおい、
聖霊のマネをし、キリスト者に一時(とき)大きな幸福感や奇跡
をさえ与えるのが、とても上手であることを私達は知るべきです。

付け加えますが
「私は聖霊体験をした、私は不思議を行う能力がある」などと
言って誇る人たちの私生活をよく見るならば、その霊がどういう
種類の霊であるかは容易にサッシがつくでしょう。

2011年6月4日土曜日

私は年間2・4ミリシーベルトか

私の計算では
今実行している「実家と山の二重生活」では
年間大体2・4ミリシーベルトくらいを浴びる
ことになりそうです。

これは「理想の」1と比べると2・4倍に
なりますが
「年間100ミリシーベルト」と比べたら相当少ない
ことになります。
この100ミリシーベルトとは
「ガンになるリスクが起り始める」という値です。


実家での屋外と屋内の生活は、
大まかですが「0・1マイクロシーベルト毎時」とします。
計算:
0・1×24時間×185日として=
年間444マイクロシーベルト、
即ち年間0・444ミリシーベルトです・・・・・・①

また山小屋内での値は、
イモクボ氏の助言から、平均して0・3位のようです。
山小屋はオール二重窓であり、2バイ4建築ですので
気密性は結構高いはずです。
計算:
0・3マイクロ×屋内にいる21時間×年180日として=
1134マイクロ、即ち1・134ミリシーベルトです。・・②

前に書いたように山における
屋外活動時間(一日3時間として)は
年合計:0・81ミリ・・・・③

①②③の合計は2.388ミリシーベルト、
約2・4ミリシーベルトということです。


ケサの値:1・45マイクロシーベルト

2011年6月3日金曜日

小さな言葉をくり返し「となえる」祈り


それは「ハレルヤ」「イエス」などの単語を何度も
何度も早口でくり返しとなえ、自分から自分を追い出し、
忘我の境(ぼうがのきょう)に入るというものです。
それをするネライは、理性や意志を追い出し、遂には
自分を完全無防備、無抵抗にすることです。この
「忘我」(失我かな?)は、キリストの十字架をわが身に
適用する所の、パウロの言う「生きるはワレにあらず」とは
全く似ても似つかぬものです。

今日、そのようなやり方が、簡単に「聖霊に満たされる」
便利な方法としてもてはやされてようですが、それは
聖霊に満たされるどころか、極めて危険な火遊びである
と言わなければなりません。

実はそのような方法はキリスト教に限らず、古今東西、
邪霊を呼び込む超能力者達、民間信仰、また殆どの宗教
において、奥義的で不思議な経験に入る方法として
受け入れられているものです。

当然そこには、
キリスト者が「みこころ」に向かう時、キリストと共に
「神から与えられる制限を深く喜んで受け入れる」という
本来の十字架は全く不要です。

実際これ以上に、人々の宗教心にとって
魅惑的(みわくてき)なものは他にはないでしょう。
なぜならそこには時に「霊的」と見られる超自然現象さえ
現れるからです。

悪霊とは実は、宗教的な魅力をちらつかせ、人をして
「キリストの十字架」から遠ざけることを目的として、人を
巧みに誘惑する頭のよい「だまし」の本家本元なのです。

そのワナにかかる人々は、初めきっと「私はスゴイ」と内心
思うことでしょう。しかし「宗教的に私はスゴイや、スゴク
なって人々に尊敬されたい」の源は深い深い暗やみの世界です。
マタイ4章前半をお読み下さい。悪魔は「奇跡を行う」ようにと
イエスをさえ誘惑したのです。

聖書で見る奇跡とは決して「行う」もの、パフォーマンスとして
あなたが「実行する」ものではありません。故にあなたが「奇跡を
行って人の注目を受けたい」という願望をいだくとするならば、
その願望の源にすばやく気付き、その申し出を断固否(いな)ま
なければなりません。

キリスト者は日々多くの事物を「否む」意志を必要とします。
「真の自由と喜び」はその拒否の後ろからついて来るのです。
実の所エバはその拒絶に失敗したのです。あの時の彼女の
「小さな心の向き」は何ととてつもない結果(人類の苦痛と
悲しみ)を生んでしまったことでしょう!それは私たちの個人の
歴史においても全く同じことです。


以上のことから「真の神」は
私たちがそのような方法で祈ることを絶対に望まれません。
何故なら彼は、私たちが「神が人に与えた自由意志」を用い、
神の敵に対抗して立ち上がり、シッカリと神のみこころを
「自分で」選び取ることを「強く望まれる」からです。

この時代、神は愛の中で人にすすめ、うながし、命ずることは
あっても決して「強制」することはありません。この微妙
(びみょう)と見える違いは実は大きいものであり、
それゆえ、とても重要です。

2011年6月2日木曜日

カリマンの線量です

6:00と20:00の二回測量
(マイクロシーベルト毎時)

5月
27日:1・45、1・41
28日:1・46、1・34
29日:1・35、1・15
30日:1・27、1・38
31日:1・41、1・43

6月
1日:1・31、1・40
2日:1・38、1・41

田村市は原発から近いのに、
その割には線量は低いのです。
しかしここカリマンは山の上にあるせいでしょうか
高い値(郡山市なみ)です。

おおよその田村市がとても低い(0・2位)のは、
まことにちょうどよく、原発からの風が山にさえぎられる
と言うほぼ真西方向にあるから、かも知れません。

懸念していた
初夏の原発方向から吹く風「やませ」の影響は
今の所なさそうですね。

改めて
「カリマン測候所」の毎日のレポートには感謝です。
http://white.ap.teacup.com/imokubo/

ps:

現実問題として
(即ち、これからの時代、どこにいようとも
もはや無菌状態の中で生きることなど望み得ないと言う
逃げ場のない現実の中)シッカリと腹をくくり
「どう放射能とおりあいをつけて、より楽しく生きる
べきか」は重要です。
(危ないのは放射能だけではないようですが)

その中でも
「幼い人達、またこれから子供を生もうとする人たち」と
私のような「高齢者」とでは全然話が異なると思います。

私達老人は要するに、これから悪条件の中で
生きざるを得ないと言うありのままを冷静に受け入れ
そんなに長くはない残された年月をどうすれば
「より値打ちのある生き方が出来るだろうか」
という視点から測り、考え、実行すればよいと
考えております。

しょせん、この世は天国ではなく、
この世を改善することなど基本的には不可能です。
むしろこの世界は、これから一定数の浮沈をくり返しつつ
徐々に、しかしながら確実に悪化の道をたどるであろう
という「人類の運命」を回避(かいひ)することは不可能です。

だからと言って
過剰(かじょう)に恐れる必要は全くありません。

2011年6月1日水曜日

グズとは「愚かな図」?

今「朝の儀式(ぎしき)」がほぼ終えて、
これから午前の仕事です。
ケサその仕事は先ずは「シュガー式まとめ料理」です。

朝の儀式とは「霊的なものからピアノまで」いろいろある
のですが、 私は相当グズ人間なので、これまでは
ダラダラとずい分時間が かかっていたのです。
でも今日はとても早く終わりました。

グズとは愚図であり「愚(おろ)かな図」なんですね。
とは言え、何も ものすごい効率(こうりつ)のよさをねらって
「魂をフル動員(どういん)」するのでは決してありません。
逆にそれは神を妨害(ぼうがい)することになるでしょう。
要(よう)は「安らかに淡々(たんたん)と」今やるべきこと
「私の分」を行って行けばよいのですが、
愚図はやはりだめですね。

祈りとは「霊を動かすこと」「霊の機能(きのう)を働かせる
こと」なのでしょうが、さらに具体的に言うと
「意志を用い、自分の霊を外に向けて押し出すこと」かな
と思います。
敵は外から、私たちの霊をおさえこみ、閉じこめよう、
霊が働かないようにしようと 46時中フルに働いている
のですから、もしもキリスト者が祈らなかったら それは
それは大変なことになります。
したがって祈りにおいて「神の敵を意識(いしき)しない」
と言うことは 決してあり得ないことでしょう。

その意味において
「たえず祈る」ことによって「総ての霊的なまどろみ」を
取りのぞくことができたらいいな、とけさ思ったことでした。

聖書にある「目を覚まして祈る」と言うのは実は
そういうことなのかも知れませんよ。