2007年9月21日金曜日

今度の旅は・・

あす22日から多分10月1、2日あたりまで、
また山をおります。
ケンを病院まで送ったら、そのあとで千円の床屋にでも
行きますかね。いつも山を下りると必ず龍ヶ崎のその
ヘアーカッターに行くのです。
時間とお金がかからず何よりです。


やはりケンは相当良くなっていると言えそうです。
今日「何だか生まれ変わったような気がする」などと
言っておりました。でもどんな意味なのでしょうか。
ただ、今回の小屋滞在の期間 内面的に何らかの変化を
感じるようになったことは確かなようです。
例えば、彼には今までさまざまな罪の問題が
大きくのしかかっていたのですが、今日だったか
「もう大きな罪の問題はなくなったようだ」とか、
「これからは現実を受け入れて行くようにしたい」とか
言っておりました。

彼は聖書はとてもよく読む人なのです(特に旧約聖書)。しかし、
メッセージの類の本はこれまで殆ど読むことが無かったのです。
ところがおととい、ウオッチマン・ニーの「勝利の命」
と言う本をあげた所 何と結構興味を感じてくれたらしいのです。
これは私にとって今回の嬉しい出来事となりました。

こうなるとそろそろ退院のことと、そして将来の為に
たとえ親がいなくなっても 何とか自立して生きて行く方向を
模索させなければなりません。
栃木の喜連川にケンの様な障害者を面倒見てくれつつ、単純な
ホテルの仕事をやらせてくれる施設があるようです。
今度親子3人で見学に行くことになるでしょう。
しかし、その前にグループホームのような所で 日常生活の為の
一定の訓練を受けた方がいいのかなーとも思います。
これが私たちのこれからの課題になると思います。

今回ブログにケンのことを載せたところ 私たちのことを
心配して下さって遠くからもとても嬉しい反応を
頂くことが出来ました。大きな励ましが与えられました。
心から感謝を申し上げます。
ここにもキリストの命の繋がりを見ることができました。
どうかどうか続けて私どものことを主の前で
覚えて頂くように心からお願い申し上げます。
兄弟姉妹の祈りが無ければ 私たちこれから進んで行くことは
かなり難しいのではないかと思っているのです。


今日は日中ここでさえ相当暑かった。
さぞや下界ではかなりのものだったことでしょう。
今日のような晴れた日 これから夕方の一番美しい時間にかかります。
ロフトのデッキで、それではじっくりと夕日でも眺めましょうか。

下の写真は

和室と浴室の北側に接する黄色いデッキです。
ここに外からの階段を作り そこからも
直接浴室へ行けるようにと考えていたのです。
しかし、その階段の必要はなくなり、今では
入浴後そのまま涼を取るための秘密のコーナーと
なっております。

ある方の談話です3

神様は昨日 私にとても愉快で楽しく恵まれた一日を
プレゼントして下さいました。
三春に帰られている向山さんと呼石でデート、
昼食をして「お茶をして」それだけではとても勿体無いので
日が暮れるまで、松ヶ崎の暮れなずむ海の観える高台で、
夕風に吹かれながら話し込み、何と結局は夕食もご一緒して
車の中でも祈りあい、ようやくお別れと言う事にあいなりました!

打ち合わせなど何も無くとも話題の中心はキリスト 
何をとりあげてもキリスト 
これが何と言っても私達にとって満たされるコツです。

Sugar: 
その日 お二人の口から出て来た話を人が
もし立ち聞きでもするならば 
それは単なるキリストに関するあれこれの賑やかな
おしゃべりに過ぎなかったことでしょう。

しかし実は
そのあれこれの中にしっかりと存在していた
ある実質があったのです。
それは目にこそ見えないけれども 
明瞭この上ない真の実体なのであり、これこそは 
天におられる生けるキリスト そのお方なのです!

神と子羊の御座である1点の源から発した川は 
お二人と言う2点の中の 地上のキリストに達し、
そして水晶の様に輝く「1つの川」として今度は
その3点3者の間をその日
サラサラと行き来し流れていたのです。

それだけではない、
同時にその時、その天地の1本の川は実は他の総ての
キリスト者の中のキリストとも交流していた筈です。
だからお二人のデートは実はお二人だけの「満たされるコツ」
などに留まらず、何とキリストの全からだに
(いや諸国民にさえ)
目には見えない天的光、天的力、キリストへの天的吸引力、
天的栄養分、また天的健康、従ってその結果天的癒しをも
供給していたと言えるのです!

この天的な交流の実質、天的な電気の本体(ビリビリ)
だけが「今日の天地にあるただ一人の人 
奥義的イエスキリスト」であり、
また「教会」の本質なのです。

それは、茶碗でなくあの「お茶」そのものですね。
その日 お二人はとても素敵な
「真の」お茶会を楽しまれたと言えるでしょう。
だからそのようなお茶会をおひらきにするのはとても難しい。
それ よく分かります。

2007年9月20日木曜日

興奮のメール

何十年も前のこと、
私が「離脱した教会」の親しかった友(山川兄弟)から
昨日 何と突然電話が来た。これは驚きである!
彼はゼヒ メールをくれと言う。
それに応じたわたしのメールに彼は返事をくれた。
以下はそれに対する私の応答のメールである:


あーやっぱり来た来た。
今しがた「あれ、山川兄弟、メールの返事くれないのかな、
変だな」 と思っていた矢先でしたので、嬉しさ倍増です。

奥さんも来られる!楽しいではありませんか。
ホンと 何日でも泊まっていって下さい。
何だったら 子供達も全員 連れて来たら?
冬でなかったら 5、6人なら大丈夫ですよ。

山川兄弟と言えば本庄、本庄と言えば あそこの兄弟姉妹。
愛していますよ、もちろん今でも。
(私は本庄に一年間いたことがあるのです)
ばんちゃん お元気ですかね、それとも・・・
でもこれ あなたの言われる積もる話ですよね。
それではこの話は あなたが
私の小屋に来られるまで楽しみにとっておきましょう。
それでは、今日はこの辺で。

そうそう 今、あのカナダの今東家とメールしていますよ。
彼らも元気です。
あ これも積もる話かな。


さてさてこの話、これからどう展開して行くのでしょう?

2007年9月19日水曜日

ある方の談話です2

私には腰痛がありました。そこで私は ある治療所に行き、
そこの治療をしてもらった所 その特殊な治療が
私に合っていたのか とりあえずはよくなったのです。

ところがある時から、その腰痛がぶり返してしまったのです。
だからまたあの治療所へ行きました。
しかし今回はいくら治療をほどこしても 少しも良くならないのです。
なぜなのでしょう。 私は ほとほと困り果ててしまいました。

こんなに一生懸命 治療に励んでいるのに、
もう私には 元の元気な体は戻らないのだろうか。こんなことでは 
これからはクリスチャンの集まりに行くのさえ
事欠くようなことになってしまう。困った、私はもっともっと深く主を
知りたいのに。私のこれからの主を求める 生活は一体
どうなってしまうのだろう。
私にはそんなに沢山の 時間が残されているのではないと言うのに。

このような とことんせっぱ詰まった心境の中、
私は次の御言葉を思い出したのです。それはローマ8の11でした:
「もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、
あなた方の内に住んでおられるなら、
キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は 
あなたがたの内に住んでおられる御霊によって、
あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。」

そして 何とその時 私の口から次のような言葉が
主に向かって飛び出してしまったのです。
「主よ、あなたはローマ8の11で あのように断言しておられる
ではないですか。ところがこの私の体はどうですか。
この状態はあなたの御言葉と矛盾するのではないでしょうか。
これは変です!もしもあなたの言葉が真実な言葉であると
言われるのであるならば 私のこの腰痛はとても変です。
あなたは 私の状況と願いと必要を
十分御存知であることを私は知っているのですよ!」と。

それはまるで 私が主の胸ぐらを掴み、主に直談判をし、
主の約束を 主に対して ぐいと突きつけたかのようでした。

次の瞬間です、私の腰が確かに コキッと耳に聞こえる音を発し、
その時 私の腰痛はすっかり良くなっていたのです。
私のような者に対してさえ 
主は何とこまやかで 真実なお方なのでしょう。
私は ただ自分が死人に過ぎないことを知っているだけなのに。


Sugar
「9月18日の午前 この証をしている間、
この聖徒はずうっと笑い通しでした。」
一部訂正:癒された際の音はコキッと言うようなかわいい音
ではなく、ゴギゴギッと言うような物すごい音だったそうです。

2007年9月18日火曜日

ケンが来た

古いシンクのステンレスを剥がし、それを乗せる為の
新しいシンク台のやぐらが 昨日の夕方と今日の午前で完成した。
こうやって台のやぐら、つまりシンクの骨組みさえ作っておけば、
後日 シンク台の中に収納するものに合わせて 
中に必要な棚等を少しずつ作って行けばよいのである。
とても単純簡単である。


さていよいよケンとの暮らしが始まった。
ケンはクリスチャンではあるが、なればこそ彼の独特の世界を
理解し、 私が彼の癒しのための真の一助となると言うのは 
シンク台を作るようには行かない。

ケンは 彼独特の経験から来る 彼独特の感覚を 
彼独特の用語で表現する。 それを唯 聞いてやるだけでよいとすれば、
事は割と容易であるかも知れない。
しかし その様なケンに私が有効に介入して行くと言うのは
当然簡単なことではない。
私は一体この状況に どう立ち向かえばよいのであろうか。
道は遠く 果てしないようにも思われる。

結局私は こっちからにしろ あっちからにしろ 
彼へのアプローチや手段は 本来 私の中には全く皆無なのである、 
と言う事実に、総ての事の始めに 
先ずは 明確に気づかなければならない様である。

私に出来ることは一つだけ:
それは、この仕事は私の ではなく キリストの仕事であることを
知り受け入れること、 次に私は決してジタバタすることなく、むしろ
「 観念し、責任を放棄し 」 主ご自身が自由に ケンの状況総てに
入り込むことが お出来になる為の
幾つかの条件を整えることだけである、ということである。


それではどうやって キリストに入り込んで頂くことが出来るのか?
それは 「私がイエスと一つになる」と言う手段による。
何故なら 道とは唯 主イエスお一人であるのだから、
この人以外に「方法、手段」というものはないのだから。

さて問題は次に その主と一つになる道とは何なのか、
どうすれば 私はキリストと一つになり得るのか、 と言う事になる。
当然 その道が私の中になどあろう筈がないし
また、その道に至る力、手段などなお更 私が所有する筈もない 。
これは当たり前のことなのだ。
だからこそ私には「総てであるキリスト」が必要なのである。
誤解してはいけない、誰がキリストであるかを。
忘れてはいけない、私は もらうことしか出来ない者であることを。

私になし得ること、それは 「この宇宙で一人 キリストなるイエス」が
もう既に 私と一つになって下さった、 と言う彼の「達成」を信じる事、 
「それはもう完成されたのだよ!」と命を捨ててまで
切実に主張 断言された キリストの言葉を 素直に信じ いただき
その御言葉の上に安心して休息する事だけなのだ。

だからこそ これは福音と呼ばれている。 (ローマ1章)
それにしても この福音は 何と完全な福音であろうか。
もし私に何かを仕上げる責務等が少しでもあるとするならば、
それは福音ではない、お恵みではない。
それはきっと 単なる働きに対する当然の報酬に過ぎないであろう。


どうやら 私は今日を入れてもう5日間、或いは更に長い期間 
私がよりキリストを知って行くための ケンというとても良い環境を
主から頂いたようである。
ケンが小屋に来た、そして私の人生にも来た。
もうこれは逃げられない。

2007年9月17日月曜日

ケンが来る

昨晩 マルシアとセージが街へ戻り、今度は 今日の午後、
わが息子長男のケンが街からこの小屋へとやって来ます。

ケンは今 千葉のある精神病院に入院中の精神障害者です。
(病名は統合失調症、年齢は35才)
これはきわめて不思議なことなのですが 
この一年来の彼の病状は 私達の予測以上にかなり良い方向に
向かっているようなのです。
そういうことなので 今回本人の強い希望もあり、
治療の一環としても 有効であろう との私の判断から約1週間 
山で暮らさせることにしたのです。

今回彼は「山では酒は飲まない、
父さんとの車の中ではタバコは控える、部屋の中でも吸わない、
吸うときはデッキに出て吸う」 と約束しました。
(病気の影響もあるのか 困ったことに彼は
物すごいヘビースモーカーなのですヨ)
そのことは 私にとっては相当 嬉しいことでした。と言うのは 
そのような約束がしっかり出来るほどに
病状がある程度改善しているわけであり、
何よりも 今回の彼の約束の中に 小さな「気概」のようなものをさえ
感じることが出来たからです。

それからもう一つ 今日彼は 病院からバスと電車を何度も乗り継いで
一日がかりの 全くの一人旅で はるばる船引駅まで来るのです。
昨日電話をした際 自分で各電車の時間を調べて 
計画的な行動を取ろうとしている様子も多少見うけられました。
そういう訳で 今回のケンは なかなかいいぞと 
私も まずは希望的状況を思い描くことが出来たわけなのです。

本とのところ かつてのケンと私の小屋暮らしでは
結構「危険な」場面も一回ならずあったのですヨ。
今思えば それは かなりの ハラハラものだったと
言わなければなりません。
もしもそれを今 有りのままに私がここに書くとするならば
皆さんはびっくり仰天 たまげてしまうことでしょう。

さてさてしかし 
今からいよいよ 彼との6日間の山小屋生活が始まろうとしているのです:
今回はその暮らしのいろいろな場面で ケンと私に触れてくださるであろう
復活の主イエスの御手をきっと見ることが出来るのではないだろうかと
内心私は大いに期待しているのであります。


下の写真は南デッキに続く
西側にせり出した 森を見下ろすデッキです。
ここに今回、緑の人工芝を敷いたわけです。
デッキチェアに仰向けになり、木々の梢のまたその上の
高い空を眺めるのは この秋の楽しみ。

2007年9月16日日曜日

ダッチオーブンパーティ

9月15日の夜も明けて ロフトの南の窓から見下ろすと 
やっぱりセージ達の車が来ている。
これはつまり、昨夜 私が熟睡している只中
二人は私を起こさないようにと  猫足さしあし和室に侵入、
そして彼らもそーっと眠りについたということなのである。
めでたい、これで小屋は彼らの定宿(じょうやど)となった。

昨夜のその話で盛り上がった後
午前は3人で船引まで買い物に行く:
マルシアは食材を セージは電気工事の材料を調達、
私は一畳分だけ 人工芝の買い足しをした。
そしてランチは
マルシアのおいしいソーメンとあんこ白玉であった。

午後は3人3様の作業に励む:
私は今日になってしまった デッキの人工芝の 仕上げを急ぎ、
セージは各所の電気のコンセント 取り付けをやってくれた。
彼はその方の資格を持っているのです。これ本当に有難い。
マルシアはと言えば  今日のメイン芋久保氏を迎えての
ダッチオーブン料理の準備に取り掛かる。

夕方になり、いよいよ南デッキで炭火を起こし 
テーブル椅子等の設営をする。
この炭火をおこすタイミングがちょっと難しいのだ。
セージがクサリでダッチオーブンを炭火の上にぶら下げると
ちょうどよいタイミングで マルシアが食材をオーブンに運ぶ。
中身は鶏肉、ジャガイモ、ピーマン、人参と、少量のワイン、醤油、
それに各種の香辛料を加える。
下からの炭火と重い重いオーブンのふた の上にも置いた 炭火の
上下からの強烈な熱によって食材は 蒸し焼き状態になるのだ。
後はじっくり時間をかけて各種の風 味を 食材にしみ込ませれば
よいだけなのである。

(こうやって見ると調理音痴の私でも そのうちトライしてみようかな
などと つい思ってしまうジャガイモの柔らかさと
ダッチオーブン料理の簡便さなのであった。
でも マルシアはこの点どう思うのかな?)

さてすっかり夜ともなり
森の暗闇の中から いよいよ芋久保氏が軽トラで登場する。:
ビールで乾杯の後  突然のスズメバチ襲来の 生々しい仕事上の
恐怖体験 「体に徐々にしびれが来る!一定時間内に
診療所に駆けつけ 点滴をしないと本当にヤバイのです」と。 
森林組合で働く人々の これは職業病ならぬ 職業災害ですね。
これは実に大変なことではないか。


様々な話は尽きることはないが 時間は尽きる。

それにしても虫はいず、そしてちょうどよい気候、涼しい秋風、 
9月の半戸外  南デッキでの静かな
夜のダッチオーブンパーティは本当に悪くないのです。

2007年9月14日金曜日

ガラテヤ2章20節

「私ではなくキリストが私の中で生きている」        
                     ・・これはキリストが生きること。
「今私が肉体の中で生きる その命を 
キリストの信仰において生きる。 ・・これは私が生きること。                      
最近この箇所に少しはまっております。とても甘い御言葉です。
さて この20節全体は「この私の肉体の中で キリストと私が
全く一つの同じ命を 共有して生きている」 と
言っているのではないでしょうか。

更に「私が生きる」のは信仰の中で、でなければなりません。
それが唯一の私達に対する要件です。
しかしそれは何と キリストの信仰の中で なのです。
だからここに 信じることさえキリストである、
と言うパウロの信仰が存在します。
これは何という信頼 なんという安息でしょう。
これこそ或いは信仰というものの最高の姿なのかも知れません。

要するこの箇所で示唆されているのは 
この2人(キリストとパウロ)は一つである ということなのです。
私はあなたであり あなたは私です、と言うことですね。

パソコンが故障した

9月10日の午前  操作中に突然 
パソコンの画面がプチンとばかりに消えてしまったのです!
えっこれ何、メールもブログも出来ないではないか、
とにかく早く何とかしないと と早速 車で町に向かう。
船引の大きな電気屋の店長さんは、
それは10中 8、9モニターの故障ですと断言。
しかし私は彼の期待を裏切り ピカピカの液晶ディスプレーなどには
目もくれず(イヤ実は少しは眺めて) 私得意のハードオフで
格安のモニターを購入するべく 郡山へと車を走らせた・・
ようやく夕闇迫る山の小屋に戻り 
嬉しや これで多分解決とパソコンのスイッチをオン、
ああ しかし何と PC はウンともスンとも言わないのです。

その10日から
はるばる郡山の修理ショップ等へ通うこと3日間、
時には待つこと夜8時まで、そして
私のPC の師匠芋久保さんに小屋に来て頂くこと都合2回を経て、
ようやくもってめでたく今朝のPC再開の運びとなったのです。

店長さん、ショップの今井さん、それにアドバイスをくれたルークさん、
そして誰よりも 芋久保さん本当に有難うございました。


今晩 東京での勤務を終えたマルシアとセージが
松戸からこの小屋へと向かう超ロングドライブなのです。
だからその前に、今日 リビングの西デッキと
南デッキに続く南西デッキの 緑の人工芝を仕上げるのだ。

あした
彼らはその芝生の上で仰向けになり 、僅かに夏のなごりを留める
秋色の山の空をゆったりと見上げることになるでしょう。

今回は 芋久保さんにも来て貰おうかな。
ウン それ いいかも知れない、
彼のところ 今日で断水一週間だし。

2007年9月10日月曜日

ある方の談話です

「今朝、ある問題を強く意識しました:
困った、さあどうしよう。でも何とかしないと。
これは どこからどう手をつけて行くべきなのか。

しかし次の瞬間 
すてきな時が訪れたのです。

『ああなんだ そうなのか、私はもう死んでるんだ、
何もしなくていいんだ。
いや、私に出来ることなど全く無いではないか、
それを解決するのは私ではないんだ。』
がフッとやって来たのです。

嬉しい これは何たる解放でしょう。
死こそ、真のスタートです。
全国の皆様、私は死人です!」

カナダから(2)

残暑お見舞い申し上げます。

ここ、ウエストコースとは気温、湿度も低く、もう、秋が来たよな気配の
今日この頃です。皆様方は如何お過ごしでしょうか。

さて、来る11月8日と9日に東京、青山にある、カナダ大使館に於きまして、ファンタジーハウスと言う彫刻の発表会と展示会が行われます。詳しくはインターネットの方で見て頂けますとわかると思います。 アドレスは後に記しておきます。

この彫刻はここウエスト コーストにのみ、生育していると言われる
ブラックコットンウッド(blackcottonwood)の枯れ木の樹皮(bark)を利用して、幻想の家を 皮の形 を利用して、彫りぬいて行く、とても簡単に彫れて、誰にでも扱いやすい、それでいて、創造力を養っていくとも考えられます。ここで学んだこの彫刻をカナダ人2人と家内(佳子)と私(もと)がボランティアで行く事になりました。
若し、興味が有りましたら、この当日の彫刻講座に参加されますように御案内申し上げます。

http://www.nhk-cul.co.jp/programs/program_453396.html 詳しくは、ここを見て下さい、それと最近の作品を添付してみます。




見るだけでもOKだそうです。(Sugar)

2007年9月7日金曜日

嵐の日は小屋の中で

今正に台風9号の通過の真下でこれを書いています。
突風と激しい雨が小屋を叩きます。

こういう日は気持ちをのんびりさせて 
一日中小屋の中にいた方がいいですね。
そういうことなので 昨日暫くぶりで車を動かし
食材などの買出しに船引まで行ったのでした。

この小屋は 丘の傾斜地に建っているので 身内などは 
がけ崩れを懸念するのですが ま、それは大丈夫でしょう。
と言うのはこの丘の無数の広葉落葉樹の根が十分雨水を
吸収してくれるからです。これがもし針葉樹の人工林だったら
結構私も心配したかも知れません。
広葉落葉樹林の保水力は相当なものなのです。



さっき和室の東の壁の上部に僅かながら雨水のリークを発見しました。
これは一寸 やれやれですね。
そもそもこの和室部分を作る時、私にある思い違いがあり、
いつかこのような雨のリークはあり得るだろうとは予測していたのです。
それにしても あの勘違いは大失敗でしたね。
ま屋根からの雨漏りではないので 対策は十分取れるのですが、
それでも家の中に雨が侵入しているというのは結構 
人にストレスを与えるものです。

思えばこの小屋の建築はずうっと雨との戦いの連続でした。
素人が一人で家を建てようとする際 正にこれが2バイ4の泣き所。
実はこれを書き出すと際限がなくなるほどなのです。

と言うわけで
台風が行ったら 第一番にあの鉄パイプの「足場組み」
と言うことになるでしょう。 
その上で 東の壁の上部に小屋根を作る工事にかかるわけです。
しょうがない、それでは近いうち、足場をお借りしに
高山さんちへ行って来ましょうかね。
そんなこんなで キッチン工事開始はまたまた延期となってしまいます。

あ もう11時過ぎた、お昼にしましょう。
ちょっと外 明るくなって来たかな?


下の写真は南デッキ兼 入り口へのアプローチ。
今日はここ 台風の吹き込みでびしょびしょに。

2007年9月5日水曜日

茶碗でなく お茶をどうぞ

これは ドクタールーク氏のブログ「IDLE UTTERANCE」の
今日の記事「キリストの体とローカルチャーチ」に寄せた
私のコメントの転載です。


当然のことながら 大切なのはイエスがしばしば強調された
「うわべでなく実質、中身」なのです。
中身とは電気に例えるならば 電気のあのビリビリそのもの、
またその表れである光やエネルギーです。
それは 天の源から発し今では すぐそこに存在され
正に電気の様に私達人の生活の只中、家々の中にさえ入ってこられ
私達の総てとなられる聖霊なるキリストご自身なのです。

しかしそれに反し 今現在多くのキリスト者はその中身からそらされ、
単に死んだ文字に過ぎない看板、信条、教義、名称 又指導者等 
自らが「正しい」と判断するそれらの「容器や茶碗」に魂が奪われている 
と言うのが実情ではないでしょうか。
当然今生きておられる復活の中のキリストはそれらの容器とは
本質的に全く別のものです。

重要なことは 中身である美味しいお茶、即ちその復活のキリストを
実際的に飲んでた楽しむことであるのに
皆さんは不思議なことに お茶はそっちのけで一様に茶碗に着目し
「われらの茶碗こそ正しい、この茶碗以外は神が許すはずがない」と
茶碗の比較検討にエネルギーを注ぎ、遂には自分が選んだ茶碗以外の
ものでお茶を飲む人々を 交わりから締め出すことさえするのです。
そしてその果ては そうすることが 神への忠誠を保つことであり、
自分達の純粋さや合一を守る道であると固く思い込んでしまうのです。
しかしその姿こそが実質的な分裂分派ではないのでしょうか。

これは何と愚かな事でありまた残念なことでしょう。
実は「正しい茶碗」などというものは無いのですよ。
神は「真の存在」である復活のキリスト以外の総てを
十字架に釘付けてしまったではありませんか。
茶碗のことなど どうでもよいです。
神は総ての茶碗を既に廃棄してしまったのです。
(それはキリストを総ての総てとならせるためなのです)

当然 自分達だけが正しいとする誇り高き人々はことさら
この「茶碗比較 特定の茶碗絶対視傾向」が強いようです。
この笑えない茶碗の正、不正をめぐる抗争が この2千年来の
キリスト教史なのかも知れません。これは真にご苦労千万な話であると
言わなければなりません。

正にこれこそ「何が善悪なのかを知るべし」と言う神の敵が巧妙に
仕組んだ迷宮なのです。一旦そこに入り込んだら
抜け出すのは容易なことではありません。
「正しさ」が生けるキリストに取って代わり そして
「純粋さと合一を守る」の熱心さの程度が
そのまま分裂の程度となってしまうとは!
忠誠や熱心さの恐ろしさがここにあるのです。
「善悪を知る」を取るか、或いは「命、神への依存・信仰」を選ぶかは
今に至るも人にとって 最重要分岐点となっているのです。

それでは真に必要な その命へ至る道とは一体何なのでしょう。
それはとても単純で本当に楽しいことなのです。
ただ直接あなたが あの命の木・神ご自身のもとに行き、
実際的に その木の実(キリスト)をもいで食べることです。
こんなに楽で愉快なことは無いではありませんか。
あなたがその様にする時 実にあなたのいるその場所が 
本来神がもくろまれた楽園とさえなるのです。

しかし惜しいことに現在
人々はその木の実の素晴らしい味を知らないし、
その食後に どんな素晴らしいことが起こるかも殆ど経験がないのです。
「その素晴らしいこと」それは 人に対する神の御目的の達成:
この地における神の敵(地を這う総てもの)に対する
人にある神の支配、キングドム・王国の現れなのです。


イギリスの兄弟達が(そして遂には全世界の兄弟姉妹も) 
更に命の木の実を食し楽しむことによって
益々 命の健康(正しさではなく)の中を前進され、そして
キリストの再臨・王国の全き現れを
真に促す人々となられんことを心から願ってやみません。

神は全能であろうか

*「死」の第二の意味*

神は全能ではない、と先ず言おう。
少なくも、神は私を改良することが出来ない。
それを行なう能力は神には無い、と言う点では 
「ある意味で」神は全能ではないと言えるのである。
人の思いに反し、実は神と言えども
私を 愛のある人間に仕立て改善することは不可能なのだ。
私を 神の為に役に立つ者に変化させることなど
更に出来ないことだと神は言われるのである。

この点で神は私に絶望されたのだ「全く望みが無い」と。
神が何かに絶望される事があるのだろうか、確かにある。
少なくも私を見る神の目には「絶望!」以外に何もないのである。
これこそが人と言う者に対する厳然たる神の評価、判断である。

たとえ懲役50年であったとしても 懲役刑の背後には少なくとも
或いは良くなるかもしれない と言う望みがある。
しかし、死刑というものの背後には 一るの希望や望みさえも無い。
もしも良くなる可能性が少しでもある者を死刑に処するとするならば
そこには正義も道理もないことになる。

しかし 私に下された神の厳正なる判決は 正にその「死刑」!
しかも更に「のろい」を付加され 木に釘付けられる絶望!
それは実に 究極的絶望であったのだ。

評価 0、無益、絶望の果てにある結果は唯一つ、廃棄、焼却である。
神はある時そのようにして人類を捨て、廃棄することを決断され、
そして2千年前遂に 神はそれを敢然として実行に移されたのである。

あの夜ペテロはイエスを一時的に捨てた。
しかし翌朝、神は「あのアダム」を永遠に「廃棄」した。
そこにイエスのあの悲痛な叫びがあった、
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ!」

全人類は最初のアダムから出てきた。だから私達は総てアダム。
そして全人類は総て最後のアダムに帰結終結される。
しかし完全無垢なるイエスが 死刑になるはずがあるだろうか!
もしもそれがあるならば それこそ宇宙の一大不条理である。
だから、あの木に釘づけられた人は 他ならぬ私なのだ。

それこそが神の明確なる意図であった。
もしもこのイエスへの死刑、私と言う存在への絶望が無ければ
そして、今この時空の中でこの死に対して私達の目が
真に開かれるのでなければ その後に何もあり得ない。
(私の個人的なクリスチャン生活においてさえも何も無い。
キリスト者の生活の開始たるバプテスマの真の意味がこの死にはある。)
この死の明確堅固なる土台の上に 初めて永遠に価値のある
何ものかが生み出され 開始され得るのである。

「一人の人が総ての人の為に死んだ以上、
総ての人が死んだのである。」(Ⅱコリント5の14)
「私はキリストと共に十字架につけられた。」(ガラテヤ2の20)

下の写真は

下の写真は表札兼 この小屋への道しるべ。
サインペンで書いた字が
長年の風雨でかすれてしまったのです。
その向こうに見えるのが南デッキ。

2007年9月4日火曜日

死人は死人らしく

どうしたら勝利の生活が送れるのだろうか、
もう少し愛のあるキリスト者になれないものか、
どうしたら、もっと張りのある生活が送れるのか、
ハッキリ分かっていることは唯一つ それは
今のままの自分ではとにかくダメだと言うこと、
とにかく何とかしないと!

仮に以上のように言う人が、
しかし既にもう20年前に死亡し、
その墓もチャンとある人であったとしたら
どうであろうか?

その答えは唯一つ:
一体何を言い出すの、あんた変じゃない、
愛のある生活もヘチマもないでしょ!
今更 どうしようも無いじゃない。とにかくもう遅いんだよ。
あんた自分を何だと思っているの?死人でしょ?
とにかく死人は死人らしくしなきゃ。

総ての人が死んだのである。(Ⅱコリント5の14)

2007年9月3日月曜日

最近の寝言です

私の落胆、不機嫌、不調によって
「太陽が東から昇る事実」に変化が生ずるだろうか?
ましてや「神の達成」に。

私の内にある復活のキリスト、
その存在の大きさとその実質に比較するならば
私などと言う存在は・・・
そうか、だから十字架で始末されたんだ。

キリストがご自身を大きくせられ遂に私にまで到達された、
或いは 私を飲み込まれた!

私の人生、私の生活、私、私、私の、私の・・
それは一体何?そんなものは無いのではないのか。
あるのはただ キリストの人生、その死、復活、昇天と御座、
ただその中に溶解させられた「私の」人生。
私の運命とはキリストの運命なのだ!

イエスと父の一つの度合い と 私とイエスの一つの度合い、
そこに果たして差がありや?

キリスト者にとって たやすいことなど一つとして無い。
例えば、ただ外を黙って歩くことさえ相当難しい。
私はまだエリシャのようには歩けない。

人の生活は実に煩雑で下らないことの連続、
しかしその実に下らないことの一つ一つを
イエスの死と復活の中で通るなら 
それはたちまち宇宙最高の価値となる。

2007年9月1日土曜日

「ある交わり」からのメール

昨日が
あのメンバーでの初めの交わりでした。
まだ顔あわせという感じでしょうか。

お互いが
経験しているイエスさをそれぞれ語り
聖書を輪読して
またそこでイエスさまの愛にふれられ
涙を流したり
笑ったり
それぞれのことを祈りあい
おうちを後にいたしました。

クリスチャン歴が
かなり長い方もおられ
脱宗教への
良い交わり会になればいいですね。

交わりにとても良いおうちで楽しかったです。
皆さんのお話も出て、主が水面下でなされていることを
感謝致しました。
主の御名をほめたたえます。

*北海道の姉妹からのものです。
 文面を少しだけ変えて2つのメールを一つにまとめました。

「ある交わり」があちこちで・・・

「ある交わり」(集まりと呼んでもいい)がこの所
あちこちで生まれつつあるようである。
その交わりの特徴は
「復活のキリストの伸縮自在性」にある。

開始
そもそも これらの交わりは
誰かの音頭取りで始まったものではない。 
だからこれからも いつどんな風に発生するか おそらく 
誰にも分からないであろう。つまりその開始は
ある意味で自然発生的とも言えるのである。
   
意図
聖徒達の交わる意図は単純であり それは唯「キリスト経験」を
求めてのようである。
だから彼らにとって 交わりそのものが魅力なのであり
他の意図や欲求は殆ど無い と言える。
   
独立性
一つ一つの交わりにはしっかりとした独立性があり
無理に他の集まりと繋がろうとはしないようである。
つまり そこには不自然にそれらの複数の集まりを
一つに束ねようとするものが無いと言う事である。

規制
しかし、それぞれの集まりが「天地の一人の人・キリスト」に
繋がっていると言う事実は何と感謝なことであろう。
その意味では 私達はどこにいようと既に
完全な一つ(キリストのからだ)の中にいるのである。
このことは個人についても同じであり 

規制があるとすれば それは唯一
「天地の一人の人の『かしら』から来る生ける規制」のみである。
だから会員制度みたいなものは全く無用なものであり 
誰もその集まりに「しばられる」必要など無いのである。
そして 総ての交わりがいつでも総ての人に開かれている。

拡大
その交わりを大きく組織的にして行こうとする意図等全くない。   
しかし その交わりが自然に別の同質の交わりを
生む可能性は大いにある。それは単に聖徒達からの
「命の流れ出」なのである。
     
集まり方
その集まりのやり方は自由であり 無理が無く自然である。
なぜなら その集まりは人間の日常生活に根ざしているからである。
日常生活ほどリラックス出来るものは無い。
だから交わりには誰でも 普段の自分を持って行けばよいのであって
非日常的で何か身構えた姿勢、或いは「天使的な」顔などを
持って行くべきではないのだ。

だから人の生活にある総てがそこにはあり得る。例えば 
話す、教える、薦める、読む、聞く、笑う、泣く、喜ぶ、悲しむ、怒る、
歌う、奏する、踊る、食べる、飲む、与える、受ける、
疲れているなら眠るも!そして父、母、兄、妹、etc.である。

そこでの交わりのやり方はどんな型にもはめられるものではない。
だから毎回の集まりの中に いつ何がどう現れてくるか誰も分からない。
そこにあり得るもの、それは多分
一人一人によって生活の隠れた所で経験された
「死を経た復活のキリスト」が
今度は 彼らの自然な交わりの中に 伸縮自在に現れるのであろう。

集まる場所
それはどこでも構わない。しかし可能であれば
なるべく他に妨げられず 気持ちが落ち着いて
くつろげる場所が望ましいことは言うまでもない。