2007年8月30日木曜日

独り言

今日の昼下がり、暫くぶりの「祈り散歩」に出た。
その時の独り言:

どうも私は今 改めて
内住のキリストの事実を更に知る必要がありそうだ。
もしもキリストこそ真のリアリティ( I   AM )であり、
その他の復活し得ぬものは 総て既に
十字架において「片付けられている」ものであるならば、
或いは百歩譲って
それらが「片付けられる」のは将来の事であるとしても、
あの「私からの引き算」の答えは もう明白ではないか。
そこには復活のイエスしか残らない。

それは何と言語を絶する事実であろうか。
私がイエスキリストを持つと言うことの
比類なき意味とはそういうことなのだ。

だからお前はもっともっとこの事実を誇ったらいい、
もっともっと堂々と歩んだらいい。
お前は今現在復活の  I   AM  を持つ者なのだ。

ある交わりから 2

芦原さん:
最愛の息子さんを失い、涙も枯れ果てたような失意のどん底で
悲しみに打ちひしがれるだけの相当の期間の後、
遂にその時が訪れた:
突然 芦原さんの口から何故か賛美の鼻歌が流れて来た と言うのだ。
そしてとりまくあらゆる現実から遊離させられたような感覚の中
姉妹は 向こうにあるカーテンが静かに開かれて行く幻を見たのだ。
そしてその時 主ご自身が姉妹に語られた:
「私には計画がある」と。

その一言で彼女の悲しみは全く拭い去られ、
総てに納得が与えられたのだと言う。
何が正しいのか、などではない世界がここには確かにある。
主が直接姉妹に触れられ、主が姉妹に直接語られたのである。
これは主との真実単純なタッチが
一人のキリスト者の総てとなった と言う証なのです。


高藤さん:
ご主人のことで散々苦しんで来られた高藤姉妹。その果ては 
彼女「私は知らない、もうどうにでもなれ」と、 何と
自分と自分の状況を完全に放棄し捨て去ってしまったのである。
しかし遂にその時 主が乗り出して来られ主が語られたのだ:
「姉妹よ、私の息子(ご主人のこと)の為に 
出来れば私と一緒に祈ってもらえないのだろうか」と。
その主のことばは明瞭であった。それは決して
「あなたの夫の為にしっかり祈れ!」などではなく
「出来れば私と一緒に祈ってくれないか」であった。

復活のイエスの無限な言動を 人の観念の中にある
宗教的型枠の中に押し込める事など出来るものではない。
今、ご主人は教会の中で 芦原姉妹のもう一人の息子さんと
とてもよい交わりを持たれている と言う。

この証のもう一つのポイントは:「私は知らない」にある。
その際 姉妹は真に自分の力を捨て去ってしまい、
同時に彼女の信仰が無意識の内に機能したものと考えられる。

ある交わりから

メンバーは小石ご夫婦と林姉妹
(その日ご主人の林兄弟は仕事で来られず)
遠くから来られた橋姉妹、そして私。

待望の交わりは
まずレストランでのくつろいだ昼食から始まった。
この段階から交わりはもう相当 盛り上がっているのだ。
(とても感じのよいウエイトレスさんもいたりして)
その後の会場を移した交わりの時間もとても豊かなものであった。
クリスチャンてホントに不思議です、途切れもせず続く
ただ主イエスと教会の話、そして少しの祈り。
ああ、でも遂に終了の時間  4時が。

しかしその時 とっさに小石さんの口から
「林姉妹、皆でお宅までお送りしますよ」が出てくる。
そのようにして交わりは一台の車へと移動したのでした。
こういう「ハプニング」って何だかとてもいいものですネ。

後日私から小石兄弟へのメール:
「この間は 林家まで姉妹を皆で送って行こうと言われたアイデア、
そしてその後の車中の場面が とてもよかったと思います。あれ
帰宅していた林兄弟に主が一言挨拶しに行かれたのではないですか?
これこそ正に『教会』なのです。」

次回の交わりは 一寸遠い橋さんの街で行なわれると言う。
今度は私達が 橋さんのご主人に挨拶することになる。
どうもこの次回の集まりは
総て主イエスから来たアイデアのようなのです。
私達はただそこにゆったりと乗っかっているだけ、
あの時の小石さんの車のようにね。

2007年8月29日水曜日

この秋の工事

ようやくもって 
例のダマシ絵バスルームがとりあえず完成したのは
お目出度いことには違いないのでしょうが 
これで私はますます出不精になってしまうことでしょう。
ガソリン高騰のおり これから車を出すのは 
せいぜい食料の買出しくらいになるのではないでしょうか。
でも こういうのって一寸ヤバイことなのかな?
  
さてさて これからの工事についてですが 
この秋は台所中心になると思います。
今使っている2万円で買った古いシンクのステンレスを剥がし、
下の台を撤去して新たにシンク台を作り 
その上に剥がしたステンレスを乗せるわけです。そして
そのシンクの他、調理台、ガス台、食器戸棚、その他の物入れを
2バイ4と合板で作製して、中古の冷蔵庫をハードオフから
買って来て調理台の脇にはめ込むと言う算段なのです。

これらを総てLDKの北側に一列に納めて、今使っている粗末な食器戸棚、
物入れ等を撤去すれば、このごたごたしたLDKも結構広々とした感じに
なるのではないかと これら総て以前からのイメージなのです。
さらに調理台に一部化粧タイルでも貼れば 意外と 
「洋書スタイルのオシャレなキッチン」に
変貌してくれるのかも知れません!(ホントかいな)

そうそう その他に取り付け工事が2つ必要です。
一つはジョイフル本田でシンクの上に配置したら
結構カッコいいのではと買った中国製の格安のライト(1400円)
もう一つは 高山氏から譲ってもらった
黒いファンを 白くペイントして西側の壁に取り付けること。
こうやって見るとまあ 工事と言うのはいろいろとあるものです。

この台所工事と平行して 
ロフトのデッキのベンチ作り、
和室の東の「のき」に壁防水用の小屋根をつける工事、
そして北デッキと南西デッキの手すり工事が少しでも出来れば
まあ この秋は上出来ですね。

それらが首尾よく終わる頃、西北西の冷たく強い風が吹き出し 
もう山には小雪がチラチラ舞い始めることでしょう。
そうやって今年も またたく間に終わってしまうと言うわけです。
そんな風に考えると 
何故か一寸さびしい気がしないでもないですね。

2007年8月28日火曜日

突然の事件

楽しかった「下界」での一週間の暮らしを終え
26日の昼下がり セージとマルシアの待つ小屋に向かう。
街から再び山へ、その時 誰かが私を小屋で迎えてくれると言うのは
今回が初めて。
こう言うの 中々いいものですね。

翌27日、何と八王子の昔の同僚が息子さんと一緒に来訪された。
このお二人 昔この小屋の「壁おこし」の際 村の元気な中学生達と
一緒に力を貸して下さった仲のよい親子なのである。

27日、マルシア達は399を経由して街へ帰って行った。
セージ、今回は得意の電気工事を沢山やってくれて有難う。
でも真夜中のドライブ あんな凄い阿武隈の山道 大丈夫かいな。
八王子組は今日の午前、多分288で6号線に出られたのであろう。

実はこの間、
27日の夜から28日の午前にかけて 彼ら4人は全く知る由もない
しかし私にとっては相当に重い事件が 突然降りかかって来たのである。
何と言うことだ、生きているとしても
もうかなりの悲劇的未来は免れないのではなかろうか。
人生正にさまざま、さまざまな時が私の「運命」を織りなす。
(この件については後日触れることもあるかも知れない。)

今 小屋は深い霧につつまれ、開け放った東の窓から、
適度な湿気を含んだ清涼な空気がロフトに流れ込む。
不思議にも今は総てが解決され 私は心地よい安らぎの中 
再びこの小屋にたった一人でいることの 
静かな小さな幸せを楽しんでいるのです。

嬉しく幸いな時と困惑や悲しみの時間、
私がいかに快適な時を過ごそうとも そして
どんなひどい状況が私に襲いかかろうとも
主は ただご自身へと招かれる。
私は 取り巻く総ての死の事象を主の手に置くだけなのだ。
それこそが、人のなし得る最善の道
そして「主の心も」
それだけを私に期待しておられるのである と思う。

セージとマルシアが来る

今朝、しばらくぶりに散歩にでた。
方向は眺め山。
この山、僅か1,2年前にすっかり伐採されたばかりなのに、
この夏の十分過ぎる日照時間のせいか 
ヒコバエや他の草木が急速に成長し歩くのも大変である。
イバラがズボンの外から太ももをひっかく。
改めて若い雑木のものすごい成長力に驚き入る。
もう数年でこの小山も 幼い森へと変わってしまうことだろう。

これも日本の豊かで湿潤な気候の恩恵なのだ。
何故人々は、太古からこの気候に適合した
この土地に自然に無理なく育つ様々な落葉広葉樹の生命力を
もっと信じもっと活用しないのであろうか、と思う。

それにしても夏はこういうたぐいの散歩はあまり快適とは言えない。
道無き道を踏み破って進む私流の散歩は
それでも山がおとなしくなる晩秋の落葉後がいい。
あの明るく静かな秋の山が今からしたわしい。


さて26日に 
あのセージとマルシアが旅行の途中 小屋に1泊してくれると言う。
よかった。私の月一度の例の旅と重なってしまい、今回はいつもの彼らの
2泊3日は一旦完全に不可能となり3人ともガッカリしていた所だったのだが 
その後彼らは 私の山帰りに合わせてくれ、日程を延ばしさえして 
わざわざ寄ってくれると言うのだ。
何と嬉しいことではないか。

私が小屋に戻るのは 26日の午後3時以降なので 
彼らはずっと早目に小屋に着く。
そこで自由勝手に小屋を使ってもらうことにした。
マルシアは 栄養士なのできっと何か美味しいものでも
作ってくれるに違いない、私は実は内心大いに期待しているのだ。
(皆さんも一度マルシアの料理を食べに来ませんか!)

その夜 珍しいブラジル料理を3人で楽しんだ後 
ロフトのデッキで この若いカップルと眺めるであろう満天の星空、
私は今からそれが実に楽しみなのであります。

淡いグリーンの流れ星、また飛んでくれないかな、
セージとマルシアのために。

2007年8月18日土曜日

真の存在

8月15日に
「神の創造以前、神以外何も無かった。
その神は霊である。
だから実質、リアリティは霊、霊こそリアリティ。
だから、単なる物質は真のリアリティであるとは
とても言えない」と書いた。

神の名前はエホバ I  AM. である。(出エジプト3の14)
AM とは「存在する」の意である。
神はここで「私は存在する、私だけが存在する」と主張され、
言外に「私以外は存在ではない」と言っておられるのである!
従って神のみがこの宇宙において
唯一の真の「存在者」(七十人訳)と言うことになる。
真の と言うのは「永遠から永遠まで聖であり新鮮で不変な命である」
という意味である。

この存在と比較出来るものが他にあり得ようか。
この存在と比べるならばいかなる物も「存在」の名に値しない。
絶えず変化し、直ぐに腐敗腐食に向かい、たちどころに消え去って行く
ようなものを神は真の存在とは呼ばれないのである。
神は霊である。だから神の霊のみがリアリティ、存在なのだ。

イエスにおいて I  AM が人間性と一つとなられた。
例えば イエスがピラトの前に立たれたとき、
そこには宇宙で唯一の確固たる存在があったのである。
それと比べるならばピラトは何らの「存在」でさえなかった。
彼は言わば無に過ぎなかったのである。
しかし無でさえも有に対して口はきけるようである、
「リアリティ(真理)とは何か」と。
正にその時、ピラトは自分と言う「虚構」の中に眼前の真の存在を
信じ受け入れるべきであったのだ。
ほどなくピラトは失脚し自殺した。

そのようにして
十字架を経た真の存在者・無から有を生み出されるお方は 
復活を通しその「真の存在」を人々に分け与えられた。
実に今 ピラトと同様 むなしい風のような軽口を叩くだけの
無に等しい私達が「永遠の新鮮な存在、リアリティ、実質」を
「永遠不変な命」として「永遠の霊」の中で
確かに所有しているのである。

これは何と驚くべき事実ではないか。

2007年8月17日金曜日

今日のメールから

言われるように
1点キリストは 究極的な神ご自身の願いでもありますよネ。(エペソ1章)
確かに「神が最も大切にしておられ、必ずやある日それを実現される
というもの」をこの時代に発見し「先取りして」今こそそれを大事にする
と言うのは キリスト者が首尾一貫した価値ある人生を歩む為の
相当大きな秘訣と言えるでしょう。

ホント今なんですよ、この時間の中、この肉体の中にいる今。
まさしく明日は今日の結果なのです。

死んだだけで、その瞬間パッと私が素晴らしい状態に変えられる等と
ということは絶対にあり得ませんし、死者が生者の祈りや功徳によって
救われるということもありません。そこには一つだに合理性も正義も
無いではありませんか。あるのは甘えだけですね。
神が甘えを赦してあげるなどと言うのは聖書の中心思想ではありません。
一体聖書の中心であるあのイエスの十字架の どこに甘えがあるでしょう。

それは人の宗教観念から出てくる 単なる希望的想像に過ぎません。
今何も無ければ、明日も何も無いのです。「人の愛の感情」に
巧みにまといつく敵のウソに欺かれてはなりません。

以上のことは「総ての人」に該当する事実です。
未信者には未信者の福音があり、
キリスト者には「キリスト者の福音」があるからです。
死ねば天国に行けるから安心であると言うのは少なくも
聖書の思想ではありません。

それにしても 私が今日という日、いまだに
この時代をこの肉体の中で生きることが許されている、
ということは何と素晴らしくまた峻厳なことでしょう。


今山は雨になりました。さっきまで、濃い霧がたれ込めていたのに。
本当に暫くぶりの雨、
森の木々もきっと喜んでいることでしょう。

2007年8月16日木曜日

カナダから、カナダへ

☆カナダから
「ボストンバーは温度変化が大きいのです。
暑い時は40度近くまで上がりますが、昨日はかなり寒かったようです、
温暖化問題は無いようです。ローレンスとは電話で話ししています。
この土曜日にウチに来ます、彼に車庫を建ててもらうように計画しています。
彼は製材もしていますから、安心して彼から,木も買う予定です。
お風呂は灯油ですか?水は、井戸ですね?」

☆カナダへ
メール感謝です。そのメールから、
あなたの住むバンクーバー郊外コクイットラムの雰囲気、
そしてその北方グリズリーも出ると言う懐かしい
あのボストンバーの様子、
またあなたとボストンバーの兄弟達との交流が
そこはかとなく伝わって来て
いつも私を楽しくさせてくれるのです。

所であなたがボストンバーで
山荘を作られると言うのは構想的には 
何時ごろになるのですか。
これ楽しみですねー、私にも。

そうそう、私の方 遂に昨日 本当に
「歴史的入浴」とあいなりましたよ!
こつこつやっていると、いつの間にかこんな日も来るんだ、
とシミジミ一人で感動。
こんな山の中の粗末な小屋で、いつでもシャワーが使えて
ワンタッチで風呂が沸き、洗面所とシンクにもお湯が出るなんて。

燃料は灯油です。でも後日 外にもう一つ「薪で沸かす」露天風呂を
作りたいのです。燃料がそこらにいくらでも転がっているここでは
灯油がもったいないですからね。実はもう浴槽は買ってあるのです。
でも実現は いつになることやら。

水はマイマウンテン・天王山の中腹の湧き水を
直接引いてきたものです。
この水は結構美味しいのです、
これだけはカナダにも負けないかも知れませんよ。

ローレンスさん達にもくれぐれもよろしく。
私を川に連れて行ってくれた彼の元気な息子、どうしているだろう。 
もう無精ひげの堂々たるカナダの親父かな?

それでは今日はこの辺で。
カナダからの便り、日本の阿武隈の山で
いつでも待っています。

2007年8月15日水曜日

カリマンの森にて7

神の創造以前、神以外何も無かった。
その神は霊。
だから実質、リアリティは霊、霊こそリアリティ。

だから、単なる物質は真のリアリティであるとは
とても言えない。

復活とは「あの人」の霊の体の宇宙的拡散、放散、或いは爆発。

そのようにして、真のリアリティが人・私に確かに到達した。



昨晩、大きな流星を3つ見た。
内一つは全天の1/4くらいはあった、と思う。
それは瞬間、長―い尾を引く淡い緑の光。

物質は はかない、
でも極上の美しさです。

2007年8月14日火曜日

最後の水シャワー?

いやいや皆さん、わが山小屋にもいよいよ 
眺めるだけではない、
本当に「入浴できるお風呂」が実現するかも知れません!

ボイラーの専門家の木高さんとこの村のわがお友達
ヒゲの高山さんが今日小屋に来てくれたのです。
仕事はどんどんはかどり、多分明日一日あればとりあえず
お風呂工事は完、と言う運びになることでしょう。
明日の今頃、感動の歴史的入浴となっているかも知れません。

お盆の頃、村のせせらぎ荘は帰省客で大混雑、
だから 私のお風呂はと言えば、この時期
コナラの緑陰にしつらえた 山の湧き水のシャワーしかないのです。
真夏とはいえ、相当の冷たさ、下手すると体に悪いかも知れない。
それで先ずは体全体に石鹸を付けた上で 体の一部分のみに
水をかけ、そのようにして次の部分へと順次洗ってゆくわけです。

今私は真夏一日の労働の汗を流した爽やかさの中、
ロフトの窓から暮れなずむ南の森を見やりながら 
結構満ち足りた気持ちでパソコンに向かっているのです。
  
アブや蚊を追い払いながらの 天王山からの
冷たい冷たい湧き水のシャワー、
後日私はきっと今は昔 元気だった頃の夏山の自分を
とても懐かしく思い出すのではないでしょうか。

2007年8月13日月曜日

流星群は見えず

昨日の朝
すぐ向かいの別荘、川出さんのお婿さんと話しをした。
今晩流星群が見られると言う。

いい事を聞いたと日没後、暫く空を眺めていた。
しかし暗い空のあの美しいクッキリ感がなかなか来ない。
そうよ よいの口はよくないのだ。
相当時間 西の空にボンヤリと明るさが残るから。

それで、明け方3時前再度 寝室の隣
ロフトのデッキから夜空を見つめる。
4,5個のかなり明るい流れ星は見た。
でもこれ位ではとてもとても流星群などとは言えない。

しかしもうこれ以上私には無理だ、忍耐はもう限界。
ただ収穫は 2つばかり人工衛星とおぼしき 
とてもかすかな赤い光が それも相当な高度を相当なスピードで
中天を北から南へ。(飛行機の光ではないよあれは)

それにしても阿武隈の星空はやっぱり悪くない。
これだけでも客は呼べるネ。
今日は新月、ことのほか暗い空に 
ピッカピカの明るい星や、天の川、そして無数の暗い星屑、
更に 何と言えばよいのか 星を砕いて絵の具にして水でとき、
それを空に流した様なボオーッとした光が
部分的に所々空を確かに明るくしているのだ。
何だろう。これもミルキーウエイなの、
それとも単なる私の幻想?

しかし、問題は真夏の真夜中のこの「寒さ」
こんな時、布団をデッキに敷き、上にも布団を掛けて
時々コーヒーでもすすりながら美しい夜空を眺めたら
さぞかし気持ちがいい事だろう。
天井に大きな穴の開いたテントは無いのかい。
いや、それだとすぐ眠ってしまうか。

2007年8月12日日曜日

下の写真

下の写真は南デッキ。

柱に立てかけられた
ハードオフで何心無く80円で買った小さな絵は
かわいい3つの赤いリンゴ。
空色の明るいバケツは漆喰練りに使用したもの、
僅かに白く漆喰が残っている。
左の青い容器と抹茶茶碗は
もう捨てようかとそこに置いたもの。
一番右は暖炉の火ばし。

何ごころ無く作られた小さな山小屋の
さり気ない風景です。

2007年8月11日土曜日

メールから

そうでしたか。
ま、いろんなことがあるのでしょう。
人と言うのは 他人がどうこう出来るもの
ではないですよね、特に人の心は。

こんな時には
無理なく自然に 淡々とやって行くしかないでしょう。
しかし、そういう時に主が どこからともなく介入されて来る。
いや、もう介入されているかも知れない。
そして思いもよらない展開が。

私達の責任は イエスとの一つの中に留まること、
ただそれだけですね。
でも、このことの威力は大きいですよ、
凄いものがあるのです。

2007年8月10日金曜日

ひろこさんへ

いえいえ、お礼を言うのはこちらです。

ひろこさん、皆さん、そして私、
みんな今 キャンプの余韻に声も無く 
ただシンミリとひたっている所でしょう。

これから暫くの間、
あの時のあの言葉、この言葉
この時の あの場面、この場面がきっと 
更に深い光のもとに 更に高い意味を持って私達一人一人に
その真意を知らせ、気付かせ、迫り、
そして楽しませてくれることでしょう。

本当にキャンプは不思議です。

2007年8月9日木曜日

キャンプ、有難う

カリマンの森のいつもと変わらぬ昼下がり、
キャンプも終わり、またとても静かな
元の山小屋に戻りました。
ロフトの窓から外に目を移すと、
南の森に情け容赦なく降り注ぐ真夏の光と
カナカナの一寸さびしげな声ばかり。
今日私が発した人間の言葉はと言えば、隣りの出羽海さんへの
「スイカ、食べきれないから手伝ってくれる?」の一言のみ。
きのう迄とはエライ違いです。
 
しかし何ですよ、今私 このキャンプと言うものの意味深さに
改めて感じ入っているのです。これだったら例えば、
もっと色んなバリエーションがあっていいのではないか とか。
つまり、色んな形のノンビリお泊り会ですね。

目的を絞って、緊張して
1、2時間の勝負というのであれば、話は全然 別。
そうでなくて2,3日リラックスして、ボンヤリと
ただ人としてそこにいるだけでいい、いやむしろ
何かを始められては困る、ただ一事
「あの方のもとで この人々と共に」安心して身を委ねて、
と言うのであるならば、
そこにいる人達の正真正銘の姿 争えない本当の姿が
現れざるを得ない のではないでしょうか。
そうなると結果的に どうしても本物を持っている人々の 
その本物が何の苦も無くジワーッと現れてしまうと
言うことになるのです。
(そう言うことなので 遂に天使達までもがこの森へ
私達の本物を見に来た!)

だから、大切なのは その本物を持っているかどうか、
自分の総ての筋肉を本当に弛緩(ちかん)させることが
出来るかどうか、ということになりますかね。


「あ、やっぱりこの小屋、私のものなんかじゃないんだ。
そのこと 改めてホントによかった。」

これが今の私の しみじみとした安堵感、幸せ感なのです。
「全国の皆様」本当に有難うございました。

2007年8月5日日曜日

キャンプ情報(7)

いよいよ、明日ですね。

アブ、ハチ、マムシ情報等をキャンプ情報(6)に追加しましたので
ご覧下さい。

ロフトのデッキ情報
晴れた日の朝と夕方そして夜 時々ここに上がってみる事をお勧めします。
朝焼け、夕焼け、夜の星が相当大きなパノラマで見ることが出来ます。
とりわけ夕焼けは見事です。
暗くなって晴れていれば、北斗七星、カシオペヤ以外の無数の星星も
はっきり全天にその姿を現してくれます。
星が落ちて来そうな冬の 鮮明この上ない夜空とは比べられませんが、
夏でも あたりに人工の明りが無い星空の鮮やかさは
ある程度感じることが出来るでしょう。
遠くにとがって見えるのが鎌倉岳、正面のなだらかな斜面を見せる山
小型浅間山風なのが五十人山です、五十人山はほぼ真北方向。
そして西側、小屋の三角屋根の向こうにのぞくのが
「マイマウンテン」の天王山です。

散歩情報
2日目の朝、まだ涼しい内に、皆で近所の別荘地を一周して見るのも
悪くないかも知れません。超ゆっくり歩いて、40分くらいでしょうか。
団体でワイワイ話しながら歩けば 親子連れのクマさんに遭遇することも
ないでしょう。もちろんこれも自由ですから、
小屋で休んでおられても結構です。

☆ 
明日、午前10時半前後に到着する3名を 私が船引駅までお迎えに
上がることになると思います。
  
それでは道中のご無事を。

2007年8月4日土曜日

キャンプ情報(6)

「食事と熊さん」情報:
emi さんのブログを見てください。皆さんそれでも
山の散策に出かける勇気があるかな-!

8日の昼食情報:
emi さんのブログに書かなかった8日の昼食はどうしましょう。
帰途がてら マスターがソルトさんの時に来られた陶芸窯のある 
のんきなレストラン「陽だまり」にでも行きますか。(要予約)
それとも皆さんで作って小屋で「最後の昼餐」を楽しみましょうか、
そうすれば、小屋での交わりがタップリと取れます。
来る道すがら 皆さんで決められたらいかがでしょう。

寝具情報:
離れのルークさん
そこにある黒いソファは伸ばすと、ベッドになります。そこに用意している
パッドを敷き、更にその上にシーツを敷いて下さい。掛けは 毛布、
タオルケット等を離れに用意しておきます。

和室の4人様
敷布団が3個あります。
内一個はダブルサイズなので小柄な人だと2人でもOK かな?
それが、ダメなら誰かが一人 寝袋ということになります。
寝袋はいくつかあります。多分 寝袋用の山のキャンプで使用する
パッドを一個用意できるかも知れません。今日探してみます。
和室が混みあう場合 和室の押入れスペースに
一人だけ寝ることもできます。

ロフトの3人様
敷布団1個、マットレス2個です。マットレスの人は 離れと同様、
その上にパッドを敷いて下さい。

その他
枕と上掛け(布団、毛布、タオルケット)は沢山あります。
ロフトと和室にある押入れから 適宜 自分用のものを選んで
持って行って下さい。多分掛け布団は要らないでしょう。

シーツ、枕カバーは お忘れになった方がいても大丈夫です。
これも押入れにあります。

洗面情報:
申し訳ありませんが お湯が出ません。ツメターイ水の出る
流しが和室の外にあります。

ゴミ情報:
ゴミは生ゴミと燃えるゴミ(プラスチック、ポリ袋を含む)の
2種類に分けます。生ゴミは小さなポリ袋に入れて密封し、
後で南デッキのブリキ缶に入れて下さい。燃えるゴミは
ある程度たまったら、南デッキから投げ捨てます!この
テクニックは現場で教授します。(あとで、それを私が拾って
所定の場所に移動します)

蚊取り器情報:
各部屋に一個ずつ置きます。それでも不安だったら、蚊取り線香の
用意もあります。リクエストして下さい。

ガ、アブ、ハチ、マムシ情報:
夜、ガ、カナブン等が部屋の中に入って来るのは避けられない事
かも知れません。しかし暗くなって明りをつけたら窓を閉めれば
防ぐことが出来ます。しかし、それは少し暑い。

アブは昼間も出ます。私の場合は 刺されるとチクッとした痛みを
感じそのあとはかゆくなります。その程度です。しかし、個人差が
あるかもしれません。ハチと違い 生きているアブをつかんでも
刺されることはありません。

最も怖いのはスズメバチです。しかし彼らが巣を攻撃されたと
感じる時に初めて攻撃して来るのです。その他の場合は彼らの方から
向かってくることはありません。だから部屋に入って来ても、私達が
何もしなければ刺されることはありません。なるべく自然に部屋から
出てゆくように仕向けます。(私の場合は、出来るだけ殺します。
繁殖防止の為です)しかし、当然 私達が触ったら刺します。
殆どありませんが衣類などに隠れているケースにご注意下さい。

マムシも少しはいます。ブーツでない場合 あまり不用意に草むらに
分け入ることは避けた方がよいでしょう。

2007年8月3日金曜日

妹夫婦は今日長野路へ

今、妹夫婦は下の和室でまだ夢の中。
今日彼らは 新潟から長野路へと向かい、
黒澤明の映画「夢」に出て来る
わさび園の美しい小川などを見て、松本に一泊してから
ゆっくりと明日和歌山へ帰ると言う。

彼らの2泊3日は 全くイメージ通りの展開になった。
「お昼寝のおもてなし」は一度ならず実現し、
ヒグラシのせみ時雨の中、タップリと昼寝をしてもらえたのである。
村の評判のよいレストランホットハウスで 夕焼けを見ながらの食事、
くつろぎうちとけた3人での夜の語らい:秋田での幼かりし頃の追憶。
そして主は何と妹とのとてもよい祈りの時さえも与えて下さった。
3人の上に 常に確かに温かな主のまなざしがあった、と思う。

和歌山の地であなた方と、2人の娘達の上に主の祝福があるように。
そして まだこの小屋になかなか来られない、
羽曳野の末の妹家族の上にも。

2007年8月1日水曜日

キャンプ情報(5)

*持ち寄り食事会*

パウロの時代、彼らは家々で よくこの持ち寄り食事会していたようである。
結構よくない状況もあったようで、パウロやユダが嘆いている。

今日この集まり方を 時々私達もして見るのは多分有益であろうと思う。
所でそれはそれとして今 この持ち寄り食事会について
以下のように考えて見るのもよい事かも知れない。
(これは旧約時代の型としての事例とは異なるであろうが、
例えば「主の足洗い」からその霊的な意味を知ることが出来るように)

*
つまり食事とはキリストである。
信者は美味しいキリストと言う食べ物を作り 集まりに持って行き、
他の信者と そのキリストの天の風味を共に楽しむのである。
それがキリスト者の集まりと言うものではなかろうか。

それでは いつどうやってその料理を作るのか。
それは当然ながら 集まりに来る前の日常生活の真っ只中で である。
(集まりに来てから料理するのは あまりにあわただしい!)
食材と言うものは総て「命ある物」である。
その命を殺し、切り、焼いて、初めて美味しい料理となる。

それでは この食材とは何か。
今この時代においては その食材とは他ならぬ私なのだ。
日常生活の中で私に与えられている環境の中で 
キリストの死を我が身に頂き、海山で育った食材 生まれながらの私を
キリストの死に渡し、私が切られなければならないのである。
そして更に 私はキリストと共に火の上で
焼かれなければならないのだ!

*
永遠においては 
イエスキリストと言う神の料理は既に完了している。
当然キリストはそのために必要な行程の総てを経過された。
2千年前に完成されたキリストの御業の各過程がそれである。

もう既に事は成った。それはもう永遠に完了した。
だから今度は私が 信仰を用いてこの時空のなかで 
キリストの御業の一つ一つ・その完成に至る為の過程の一つ一つを
自分のものとしてわが身に頂き適用する番なのである。

「私がキリストイエスにあるのは神による」(Ⅰコリント1の30)
故にそのキリストの永遠の御業の中で 私自身もキリストと共に
その過程を経過させられたと言う事を信じ安息し、
敢えてその死の環境を主の手から頂くとき
私とキリストとの結合の事実が 
今のこの時点での、この事例そのものにおいて
私という生の食材を美味しい料理へと変化させられる、即ち
私がキリストと共に復活させられるのである。

手短に言えば 私が信仰によって 
動かし得ぬ永遠の真理を時空の中にもたらし 
永遠の真理の圧倒的絶対的 優位性を実証するために
それを言わば「時空の中の私」と言うスクリーン」に映し出し、
それをサタンに対し誇らしく見せつけるのである。

キリストの復活の中にある永遠の真理は
いと高き所にある崇高な真理ではあるが 
今のこの時空の時代においては 
それを信じ信頼する者のみに 実際的な効果を現すのである。
ここに霊的な力、信仰と言うものの驚くべき尊さがある。

*
さて、今まで述べた信仰によって私を「キリストの死に合わせる」こと
(既に2千年前にキリストと私の死が完成しているから、
今それを信じる、が合わせること)
そのことまでが私の役目である。
もしも唯私が信仰によってそうすることが出来るならば 
必ずやキリストは この時空の中でも 
神にとっての真に香ばしい香りとして私と共に復活されるのだ。
(この時空の中で 永遠の復活を証明されると言うこと)

従って私はこの私と共に調理された 
つまり復活したキリストと言う料理を 集まりに持って行き 
私と共に焼かれたキリストの芳香の中で
人々に楽しんで頂くことが出来るのである。

*
日常生活にある料理のチャンス 死のチャンスは あちこちに転がっている。
否 死のチャンスは(つまり 私用のまな板と包丁とオーブンは)むしろ
常時私に臨んでいる、私の直ぐ上にあると言える。
その適用は正に私の心次第なのだ。

所が もしも私の心が他のものによって奪われていたり
「まな板の上にわが身を置き、切られ、焼かれること」から逃げたりすると
美味しい料理が完成されることは無い。
むしろ 私は生のままの食材を集まりに運び その結果私は皆さんに、
生のままの 或いは半生の「料理」?を人々に提供することになる。
もしそうであるならば私があつまりに行っただけで
人はそれを感知して敬遠するか 私の「料理」を人々が 
心からは楽しむことが出来なくなってしまうのである。

*
生の食材(つまり生まれながらの私)は直ぐに腐って悪臭を放つ。
キリスト者の集まりの中では 
こういう「高度な生の日本料理」はやめたほうがいい。

そしてまた カインが提供した十字架の無い「地の作物」(野菜)も。