2011年10月30日日曜日

神のみこころとは神の意志です

「みこころ」という「美しい日本語」に訳された原語は
「意志」というむしろ固いことばです。
御心とは神の意志です。

くりかえしますが
「みこころ」という日本語は情緒(じょうちょ)的で
神の感情や気分かな、とも思ってしまいますが、
全くそうではなく、実は神の意志です。

思考・思いや感情が大いに働いたとしても
最終的には意志がその人を決定し代表します。
したがって人の中で意志こそが最も大切な機能であると
言えるでしょう。
ですから「その人」とは「その人の意志」であるとも
言えるかも知れません。(「その意味では」意志は
「人の霊」以上に重要であるはずです。)

ですから時に感情的、感覚的に、また思いの中で大いに
ゆれ動き、「神から離れているような気分」にさせられた
としても、「神のことばを取る私の意志」が動かない
のであれば、実は何の問題もないのです。
(サタンはおもに思いと感情、感覚に働きます。しかし
あなたの意志がその敵の働き・悪霊の声を拒絶する限りに
おいてはあたたは安全です。)

宇宙には三つの意志があり
神の意志、サタンの意志そして人の意志です。
それらは一つ一つが独立しており基本的には自由です。

私達人は与えられた自由意志を働かせ
サタンの意志を「拒絶し」、神の意志を
自分の意志として「選択する」べきです。
その拒絶と選択をさらに人が口を用いて
断固表明、宣言するときに初めて神が働かれます。
これこそが、人に与えられた自由意志が持つ極めて重要な
機能、役わりであるはずです。


英語ではWILL(意志)と言う分りやすい訳です。
パウロ達が用いた言葉は、θέλημαと言うギリシャ語で
(thelema、スレマと読むのかな?)
新約聖書に60回ほど出てくるそうで、これは間違いなく
聖書の超重要語の一つと言えるでしょう。

Mat(6回) Mar(1) Luk(4) Jhn(8) Act(3) Rom(4)
1Cr(3) 2Cr(2) Gal(1) Eph(7) Col(3) 1Th(2)
2Ti(2) Hbr(5) 1Pe(5) 2Pe(1) 1Jo(2) Rev(1)

2011年10月26日水曜日

10月21日のコメントから

>人には徹底的にやさしく悪霊に対しては徹底的に
残酷であるべきです。

本当にそうですね。このように理解すると、
ヨシュア記の”聖絶”の意味もわかる気がします。
でも、まさしく主の十字架で古い自分も含めて”聖絶”
されたんですね。
そのことを思うと、主を賛美するしかありません。

sugar:
確かに。
私の中に
イエスの十字架による「徹底的な聖絶」があって
初めて「神のわざ」に値するものが築かれ得るのでしょう。
神は少しの不純も許すことはあり得ず、
それらは完全に除去されなければなりません。

そう言えばあの時、
祭司長ユダヤ人達は、ピラトに向かって
イエスを「除け、除け!」と叫びましたね。
神は既に最後のアダムに含まれる一切の古きものを
イエスの肉体にあって取り除かれたのです。

この事実の根拠に立って初めて私たちも
旧創造の総てを取り除くことが可能となります。


共に70才前後
夫は糖尿病のために体の自由が相当奪われ
妻は目が不自由というキリスト者の御夫婦が札幌から
福島空港まで飛んで来られ、この山小屋に3泊されました。

今世界の中で最も呪われたかのような
フクシマの原発のスグそばで
一生忘れることがないであろう
主の暖かさにに満ちた交わりが持たれました。
心から神に感謝と賛美をささげざるを得ません。

以下は
ご主人から出発直前にいただいた手紙です:

「家内もかなり目が不自由となりました。
文字通り、手に手をとって参ります。
主が祝福してくださいますように。」

2011年10月21日金曜日

今日の詩篇の通読から

旧約の神はなぜあんなに残酷(ざんこく)なのかと
いう質問をよく聞きます。確かに、たとえば
ダビデは塩の谷でエドム人、1万2千人を殺しましたが
その意味では殆どの旧約の主要な登場人物達は「残酷」
であったと言わなければならないでしょう。

しかし、まず旧約聖書とは、
単なる絵や説明であることを知りましょう。
「神の関心」はひたすら「霊的な実際」にあります。
霊的な事実こそが本物であり、旧約の世界だけでなく
今私たちの体と魂が接しているいわゆる「現実」でさえ
単に霊的な世界の「写し」に過ぎません。例えば一万年後
私の薪小屋建築という「現実」はどこにあるのでしょう。
絵はその役わりが終われば「実体」に地位をゆずるべきです。

多分ある人々は(豊臣秀吉のように)遅くも臨終の時に、
この世の出来事は総て「実体のない単なるカゲ」に
過ぎなかったことを知るでしょう。しかしそれでもその
人たちは幸いです。何故ならそういう人には
「永遠への救い」が「近い」からです。

とは言え、霊的な世界は分りにくいことも確かです。
そのために神はこの世界の「物質的、魂的な出来事」
によって、分りやすく霊的な実際を説明されるのです。
「旧約に出てくる敵」とは実は「今現在の神の霊的な敵」
サタン、堕落天使達、悪霊達のことです。

神はこのような悪い霊に対しては極めて残酷(ざんこく)です。
だから私たちも人には徹底的にやさしく
悪霊に対しては徹底的に残酷であるべきです。しかし残念な
ことに今日の人々は、それとは全く逆で、人に対しては戦いを
いどみ、悪霊に対してはとても寛容(かんよう)です。
(これは悪霊達の大成功にほかなりません。)

当然のことながら、霊的な戦いのためには、まずは
「霊的な事実」を神のことばによって正しく知ることから
始まります。そうでなければ悪霊と戦うことなど
到底不可能であると言わねばなりません。

2011年10月20日木曜日

薪小屋が完成しました

おかげさまで、昨日ついに薪小屋が完成しました。
これで私も安心して北海道からの泊り客(御夫婦、3泊)
を接待できることでしょう。

★サタンの不法と落下★

けさ詩篇56を見ていたら、ダビデが祈って
「敵を不法のゆえに投げつけてください」と
宣告していました。このサタンの不法とサタンの落下の
間にはキリスト者の「懇願と宣告」が必ず必要です。

聖書で不法は大きなことばですが「投げつける」も
とても大きなことばです。調べてみると、このyarad
ということばは旧約聖書にはおびただしくと言える回数
出て来ます。

これは新約でも同様の重要さを持つでしょう。それは、
イエスの十字架上で「敵を投げ落とす」(ヨハネ12の31)
を始めとして、神がサタンを天から地に、アビスへ、火の池へ
「投げ落とす」等です。(英語で言うとcast.downであり
これは福音書等では「悪霊の後退」を意味しています)

不法、的外れがあれば、堕落があります。堕落とは落下です。
ダビデは「敵を不法のゆえに投げつけてください」と神に
真実に懇願しましたから、敵はその一つの祈りによってさえ
必ずある程度後退、後ずさりしたでしょう。

今日も神の敵は私たちの神への懇願とサタンへの直接的な
真理の宣言によって後退、後ずさりし、それは必ず敵の落下へと
つながります。キリスト者の確信に満ちた真理の宣告には本来
黄泉(よみ)をもふるわせる力があるのです*が、それには私の
今日の歩みに少しの不法もあってはならないことも確かです。
*マタイ16の16~18

2011年10月16日日曜日

古材を使い切る喜び

マキ小屋ですが、ようやく仕上げに近づきました。
昨日午前で屋根がほぼ終わり、その次は西壁工事
ですが、それもきのうの午後と今日で完成したのです。
この西壁というのは居間の西デッキから見下ろす部分なので
その部分は「チャンとした板」を用いました。(と言っても
ジョイフルホンダの最も安い板で、7尺ものが一束千円も
しません。)

と言うことは:
他の部分ではチャンとした材料は殆ど使わなかった、
と言うことです。トタン屋根の下地は最もヒドいものを使用
しました。それはフル材もフル材、結構腐れかけた合板もあり、
モザイクのように小さくカットして使ったのです。もしかして
大きな人が乗ったら底が抜けるかも知れません。こんなケチケチ
建築、プロは絶対にしないでしょうね。ましかし、しょせん
薪小屋、これでもいいわけです。

でもこの努力のお陰で、これまで長年ためておいた
古材はこのマキ小屋で全部使い切ることになります。実は
私にとってはこういうことが相当嬉しいことなのです。

明日は最後の北側の壁ですが、これもまたまた
フル材料を使用します。この部分の工事は楽です。
と言うのは、マキ小屋ですので風通しがよいように
カベを全面格子(こうし)窓状にするだけでいいからです。

スッカリ暗くなりました。
これから夕食、こんだてはシチューです。

2011年10月14日金曜日

猪突猛進されていたら・・

野生の動物を見るのは何だかワクワクする出来事
ですね。主が養っているのを見る機会でもあります。
うちもイノシシふえてますが、ある意味では
熊より危ないとも言われていますのでお互い
気を付けて森をあゆんでいきたいですね。

Sugar:
ありがとうございます。確かにそうです。
あの時、確実にすぐそばの茂みにいた親イノシシが
私を目がけて猪突猛進(ちょとつもうしん)して来ていたら、
命も危なかったかも知れません。こんな山では
小さな散歩でさえ、十分に危険です。
(4日のコメントから)


さて、聞いた話ですが、ある人が突然、
相当困ったことになってしまいました。
どう見ても、その解決にはかなりの作業量と
期間(半年?)とお金が必要です。その日
彼は何をしていてもそれが頭から離れないのです。

しかしその日の深夜、主は彼を起こし
今そのことに心を奪(うば)われるのはよくないと
示されました。そのころその人には、とても大切な
祈るべき課題(かだい)があったからです。

そのおかげで
彼はわれに帰ることが出来たのです。
彼はシッカリと自分の自由意志を用い
神の意志(みこころ)を選択し
他を排除(はいじょ)しました。
その心配事はひとまずかたわらに置き、
主が彼に祈るようにと示されていることを
声に出し集中して祈ることが出来たのだそうです。

その時彼は「みこころ」を妨害しようとした悪霊を
のろう事さえしたと言います。(神が憎み、のろっている
サタンや悪霊をキリスト者も憎むのは当然です。)

気がついて見ると
あの心配事は彼の足の下にあるかのようでした。彼は
霊の中で主と共に、その事態を、即ちその背後にいる
邪悪な者達を完全に支配することが出来たのです。

さて例の困ったことはどうなったでしょうか。
数日たって彼が現場に行き、そのことに着手した時、
神は彼にあるアイディアと既にある物を与えられており、
そのアイディアの通りにやって見ると、何とその困った
事態は、その日一日で完全に解決してしまったと言うのです。
このことで内心最も驚いたには彼自身であったようです。

2011年10月6日木曜日

マキ小屋作りの再開

実家に帰っていて中断していたマキ小屋作りを再開しました。
きのうは第一屋根を全部、波トタンでおおうことが
出来ました。下地がよければ、波トタン張りと言うのは
楽なものです。
次に第二屋根のネタ渡しにとりかかったのですが
昼ごろ雨が降ってきたので、昨日の工事はそこまででした。

マキ小屋は決して大きくなく、5、6坪ほどだと思いますが、
その屋根となると、二重の屋根の総面積はビックリするほど
大きくなってしまうのです。

波トタン屋根というのは美的にはどうも「いまいち」ですねー。
それを何とかよりカッコよく見せる、これはむずかしい課題です。
トタンの色はモスグリーン(この色はめったに無い)で、値段は
20数枚で一万五千円ほど(@ジョイフルホンダ千葉ニュータウン店)でした。


主は、私達の日常生活のどんな場面においても
突然彼を礼拝する機会を与えられます。

以前、直接イエスに触れられ、真理が少し見えるようになった
ころのことですが、私は宗教的礼拝の組織(会堂)から追い
出されてしまったのです。それから数日もたたないある日の
事です。(それは普通の日だったのですが)何とイエス様が
わざわざ私に会いに来てくださったのですよ!

そのイエスとの会話の中、私はさらに「このお方が誰であるか」
をハッキリと知ることが出来たのです。その時、私は
思わず「信じます」と言ってただ一人彼を礼拝するのを
どうしても止めることが出来なかったのです。

実はこれは、シュガー作
ヨハネ9章・例の生まれつき目が見えなかった兄弟の
「インタヴュー」です。ここの礼拝と言う言葉はギリシャ語の
プリスキネオで(38節)その語源の意味は
「犬が飼い主をなめまわすように敬愛する」
と言うことだそうです。この兄弟の顔つきはとても自然な
もので、しかしイエスへの愛の心があふれていたのは
当然のことでした。

2011年10月4日火曜日

イノシシを見たければ夕方です

しばらく実家におりました。
きのう夕方、散歩のとちゅう数頭のイノシシの子供を
見ました。もう相当大きくなっており、ころころと太って、
私の後ろの道を一頭づつ、大急ぎで横切って行く姿が
かわいかったです。親が近くのシゲミで、これまで私が
知らなかった不思議な声を発しました。
私を威嚇(いかく)したのでしょうか。


さて、
ダビデもイエスもパウロもみな神のみこころを
とても大切にしました。ただ一度の人生、
私たちが一生懸命、いろんなことを成しとげたとしても、
それらが「神のみこころ」の中心になかったとしたら、
私の人生にどんな意味や価値があるでしょう。
彼等は、何にもましてこの事実を深く考え、
常に自分の歩みを注意深く点検していたはずです。

今の時代、キリスト者が
「神のみこころとは一体なんであろうか」と
言う話をすることさえ少ないようですが、
みこころということばに注意していると、それは聖書の中に
相当頻繁(ひんぱんに)に出てくることが分ります。

寒くなりました。本腰を入れて冬じたくを
しなければなりません。