2007年3月31日土曜日

    *3つのこと*
* 今 或いは次の時代において
 圧迫され、焼かれ、無に帰されることは避けられない。
  新エルサレムに『私のそれら』は無いのだから。

* Mr. Sugar - 私 = 復活のキリスト

* キリストは一度 木に固定され死なれた。それで十分である。
 今 復活のキリストの業を固定化することは キリストを固定すること 
 即ち あなたが 彼を再び十字架に釘で固定し 
 恥辱を加えようとすることである。

2007年3月30日金曜日


       *神の知恵*
 
 復活とは 人の超越。
 
 サタンのフォーカスは 人に死をもたらすこと;
これはサタンの本能、そして限界、
だから彼はひたすらその目的へと突き進む。
それしか出来ないのだから。

 しかし 人はサタンの死を
「主の手から受け取る」ことによって 唯それだけによって
サタンの届かぬ 遥かな復活と言う領域へ 
光に満ちた神の永遠の領域へと超越する。
 
 死と復活
 それは 神から人にのみ与えられた驚愕すべき特権なのだ。 
 サタンは 愚かにも 人に死をもたらすことによって 滅ぶ。
 サタンから来る死は サタンを殺戮する。

2007年3月29日木曜日

    *ア チャレンジ*
「主よ あなたの為に私のするべきことは何ですか?」
「何も無い。あなたが何かを始めることを恐れるので 
私は あなたを木に釘づけたのだ。あなたは今 
墓の中の腐乱死体ではないのか。」

2007年3月28日水曜日

エネルギーと呼ぶにはあまりに静か

その力は あなたの魂の力を強固にするのではない。
「あなた」を強くする と言うことでさえもない。
 そこには ガソリンエンジンのうなりも 
強力な筋肉の誇示もない。

 むしろそれは あなたの総てを弱める力、
目には見えない あなたの周辺にうごめく 
暗闇の悪しき勢力をさえ静める不思議な力。

 汗はいらない、争いも、説得も会議も要らない、
焦りも、ふんばりもデモもいらない。

 地球を動かす やさしい無言の力のように
それをエネルギーと呼ぶには あまりに静か。

2007年3月27日火曜日

順境

逆境の時 
キリスト者と言えども キリストと共に
その中を経過して行くことは簡単ではない。
私たちはそのような時 とてもたやすくただ
逆境からの解放の願望と言う唯一の穴の中に
閉じ込められてしまうからである。

しかし順境の時
「この時代の風」の中、 
真にキリストの中を歩むのは 
なお更むずかしいのではなかろうか。
もとより、順境に至る事、順境を獲得することに
価値があるのではない。
このような享楽的な時代 将来の自分の地獄の穴を掘らずに
平凡な日常を送れる人は 極めてまれであろうと私は思う。
要するに 順境であろうが 逆境であろうが 
人でありさえすれば 
人生は日々刻々むずかしいのである。
 

  人生 さびしい

 きのう午後遅く小屋に帰って来ました。
で、その第一感覚がこれ。

 65歳 たった一人のロングドライブの疲れのためか 
夏井川のあたりから チラチラとそうだった。
右手首の腱鞘炎は治らない、全身の筋肉は加速度的に
その老化の度を加え、
体全体が 着実にそのサビつきを増している実感。
これから 私は一体どうなるの と。
 小屋に落ち着いてみれば なおさらの事 迫り来る夕闇に 
見慣れた向こうの山影も 人を吸い寄せる悪魔のマントに 
見えないこともない。
 これがあの 得体の知れない人生の寂寥感というものか。
私は中高年男性の自殺者を 笑う気になどなれないのです。

 でもね、ここからが私のユニークさ。聞いて下さい。
ウソみたいなホントの話。
ハイ その秘訣はこんなところにあるんです。それは:
ある一つの事実「私とキリストとの一つの命」という事実に戻るだけ。
 
 どうなのでしょう皆さん 本音のところ
人生の淋しさと言う あの深く手ごわい空虚感の解消は、
誰かと「命の中でさえ一つである」と言う事実と、
そして その事実に信頼を置く時 そのあとに ジワリと訪れる 
その人との内的一体感、またそこから来る
とても奥深い親密な暖かさにタッチされること、
 これ以外のどにある得るのでしょうか。

2007年3月16日金曜日

  「サウロ、なぜ私を」

 西暦35年のある日
この日もサウロは「あなた」に 残酷この上ないムチを当てる下役ドモの
監督をしていたのかも知れない。
 あなたの背中の皮膚は破れ、肉が飛び出し、したたり流れる血は
あたりの地面を赤く染めたことであろう。
 その時 イエスは実感された 「なぜ私を」
 
 更に、或いは
 サウロは あなたの腕をギリギリと縛り上げる若者達を 
まだ足らないと 殺害の意に燃えて
しった激励していたのではなかろうか。
 イエスを愛するあなたは それでも自分の意志に反し
低い苦痛のうめきの声を もらさざるを得なかったことであろう。    
 その時、イエスはつぶやかれた、 「サウロ、なぜ私を」
 
 そして
 そのような日々、ある日サウロがダマスコの近くまで来た時
 遂にイエスは声を上げられた。
   
   「サウロ、サウロ。なぜ私を迫害するのか。」
   「私はあなたが 迫害しているイエスである。」

   明日から旅です

 旅というのは実家に帰ることです。
 都路村を後にし 
詩人草野心平の川内村、その本物の「熊出没注意」の
看板を横目に 対向車の殆ど無い県道を飛ばす。 
更に典雅な日本画の世界 夏井川渓谷の風情を楽しみ
遂には 大きな空と広い広い太平洋の6号線へと出る。
 青い海を眺めながら よくオヤツをぱくつく鵜の岬。
たまには 岬の潮騒を聴きながら 昼寝も悪くはない。 
 そのようにして浜街道、東海村から水戸へと出る。
 ここまで来れば 大河利根川沿いの我が家は
そこから ゆっくり2時間あまり。
 
 ドライブは 出来ればのんびり ゆっくりに限ります。
 人生と同じかな?

     *ア チャレンジ*
 「サウロ、サウロ、何ぞ我を迫害するか」と言う声を聞き、
「主よ、なんじは誰ぞ」と答えしに「われはなんじが迫害する
ナザレのイエスなり」と言いたまえり。(聖書使徒行伝22‐7、8)

 サウロは自分が迫害しているのはイエスではなく信者達である と思った。
しかし 神の右におられるナザレのイエスは
「あなたが迫害しているのは私である」と言われた。
だから 天上のイエスは「地上にいる信者達」をご自身である と言われたことになる!

*イエスは私達を 何と「今日の」ナザレのイエスご自身である とされる。
*至高の神、その右におられるお方は 今に至るもなお
 「あのナザレのイエス」である。(今 人が神の右に!)

2007年3月15日木曜日

    小さな大丈夫

 ブログをやるとは 世間に 自分を全部 さらけ出してしまうことだと
今頃気がついた。

 「えっそうなの、ホンと?!恥ずかしい、かっこ悪い、
もう神秘的人間 気取れない、 ヤバイ、
前途に収集の着かないとんでもない事態が・・おれってやっぱりバカだ!」
と あわてふためき 「もう遅いんだ、でもどうしよう」と結構 クヨクヨ。
 
 ところが! そのあと何故か 「大丈夫、私には原点がある」と
すっかり落ち着いてしまったのです。これ不思議。
 
 原点とは 見えないけれど とてもシンプルで小さな1点、
大丈夫とは「大きくて凄い人」のこと。

 なんだ 簡単なんだ。

2007年3月14日水曜日

   私のケチイズム

 まずは この山小屋の建築、そのやりかたが正にケチイズム。
 外壁はベニヤ板、窓サッシの 多くは 人が捨てたもの、以前の浴槽は
路上での拾い物、南東側のデッキの根太は 隣の農家のお婆さんの
風呂用の薪を もらって来たもの、この小屋のベストな3つのドアでさえ 
完全いただきもの etc.etc.
 そんなふうにして山小屋を建てる、 そのことに無上の幸せを
覚える というのだから ケチはもう  私の立派な趣味なのです。
 「正当ケチイズム」に合理主義はありません。だから ケチケチやったら
損する と分かっていても  やるのです。その上 全く自分でも
おかしいくらい  このケチイズムは 山の生活の 
いろんな場面にも顔を出す。
 そのつど  私は一人で ささやかな喜びを感じているのです。

          

      * 真理の窓 *
  真理とは単なる事実ではありません。
更に真理とは 決してすばらしいメッセージ、霊的書物、
そして霊的な人でさえありません。
それらは総て単なる「真理の窓」に過ぎないのです。
  真理とは 窓の外の「生ける世界」であり、頬をなでる爽やかな風、
輝く日の光、さえずる鳥の声そのものです。
だからあなたは 自分の足で立ち、窓を後にし、歩き、森を通り、
「生ける真理そのもの」に触れに行かなければなりません。
 そうでなければ、あなたは決して 森の奥の谷間にひそむ
甘美な泉の味を楽しむことはないでしょう。
  いつまでも窓と窓とを比べ、窓をほめそやし、
窓に追従するだけの人であってはならないのです。

2007年3月12日月曜日

ブログ開設 ご挨拶

 いやいや 皆さん お待たせ。 
何とかかんとか 今日の日を迎える運びとなりました。

 これも 総て 皆様方の おかげ、
ホントに 有難うございました。

 しかし むずかしいものです、
不特定多数の人に 物を書くと言うのは。

 さっきから そのことばかり考えているのですが
いくら考えても 答えは出ません。 (前途多難!)      
 
 だから もう考えるのは やめました。
 
   答えがあるとすれば ただ一つ 
 そう  それは あの不思議な同居人 

   このブログの タイトルの人。