2008年12月21日日曜日

山に来ております

今朝(けさ)の山:
春のような暖かい陽光がさんさんと降り注ぎ、
正に気持ちのよい阿武隈の師走です。

今回19日に、一緒に山に入ったケンが、昨晩から今朝にかけて
精神的に「悪い底を打った」という感じがすると、今朝一番に
嬉しそうに私に報告してくれました。これは、或いはとてもよい
キザシなのかも知れないと私も大層喜んでおります。
しかし実は私自身も、これから一つのコーナーを(いつの日か!)
首尾よく曲がり切れるといいな、と真面目に思わせられているのです。


キリスト者はいつまでも肉と罪(そして「この世」)の奴隷状態に
あるべきではありません。即ちそれは、私達の魂が肉と罪から
自由にされると言うことですね。
 
しかし、更に何と「私達の霊」は「私達の魂」からも自由にされる
必要があるのです。なぜなら、もしそうでないと「私達において」
キリストにある神はこの地上で大きな制限を受けることになるから
です。そしてキリスト者も本当を言って真の自由を享受すること等
絶対にあり得ないだろうと私は心底思っているのです。


しかし、この問題は実は極めて見えにくいのです。
実はこの数日、この問題が改めて私の前に浮上し、と言うか、
私自身にとって正直この問題があまりに大きく解決不可能にさえ見え、
それに全く打ちのめされていた、と言った方が正確かも知れません。

キリストの十字架は旧創造の一切を解決しました。しかし、
私達はそのキリストにある勝利の事実を今この時空において証明し、
神への信仰と従順によって、今この私達の環境において追体験する
必要があるのです。(それはおもに、神の敵の故です。)

しかし、そのあまたの旧創造に含まれる事項の内、この「魂の命の問題」
(魂の性質や機能ではなく)ほど無視されている重大な問題はありません。
何故ならそれはとても見えにくいからです。見えていないのだから、
人々にとってそれが問題視されることなどある筈がありません。私は
そのようなコメントや声をこの数年、或いは数十年間どこからも殆ど聞いた
ことさえ無いのです。だからなおさら、この問題の深刻さ、
困難さがあると言えるでしょう。

26日に下山する予定です。
話が中途半端ですみません。

2008年12月17日水曜日

霊融合

聞く所によると、
ある物質の分裂(1→2の原則)は相当のエネルギーを発散するが、
汚染等の恐ろしい弊害を持つのに対して、物質の融合(2→1の原則)
にはその恐れは無く、何と融合から生ずるエネルギーの実用化には、
或いは人類の未来の希望がかかっているかも知れないとある識者達
(あのルーク氏も)は考えておられるようです。


さて神の「命の息」が人の体に吹き込まれた時に人は生きた魂となった、
と創世記2の7は告げています。従ってその命の息こそが人の霊であると
考えられます。(しかし、この段階においては人は神の命そのものを
所有したわけではありません。)

しかし後に、キリストは「命を与える霊」となられ(Ⅰコリント15の45)
弟子たちに「息を吹きかけて・・聖霊を受けよ」と言われました。
(ヨハネ20の22)従ってここに、人の霊の中に永遠の命である
キリストの霊、聖霊が入り込み二つの霊が一つに融合したと言う驚くべき
事実を見るのです。このことをパウロも「主と交われば、一つの霊となる」
(Ⅰコリント6の17)と断言しております。

従ってキリスト者とは「少なくとも霊の部分においては何と
神と一つになっている存在」であると言えるのです。
これこそ、正に途方も無い主張ではないでしょうか。しかしながら聖書を
神の言葉であると信じる人であるならば、このとてつもなく見える言葉
でさえも信仰によって受け入れることが出来る筈です。(その完全な知的
理解は不可能でしょう。しかし、信仰の後にその実感を
体験することは可能なのです。)
さて、もしもこれが事実であるとするならば、
更に幾つかのことが言い得るでしょう。

・今やキリスト者の霊は復活のキリストの霊と一つである故に、
そこは完全に「聖域」(至聖所)であり、神の敵が
入り込むことは全く不可能であることです。
ただしキリスト者の霊に対してさえ、外部からある影響を間接的に
与える可能性は排除できないかも知れません。しかしこと人の「魂や体」
に対しては悪しき霊は直接的な関わりを持つことが可能です。
福音書はまた、悪しき諸霊が動物や物質(水中など)に入り込む
と言う事例をも見せています。

・二つの霊が融合して、一つになった霊には膨大な(実は無限の)
エネルギーと能力が秘められております。
しかしながらそのエネルギーの表れは決して爆発的なものではなく、
生命現象的に現れます。従ってそのエネルギー、命の表現には必ず
美しさ、他のものとの調和、静けさ等が伴うのです。それはあたかも、
核分裂のような破壊的凄まじいエネルギーによって焦土と化した大地も
いつの間にか、静かな生命のエネルギーの多種多様な出現によって
覆われてしまうようなものでしょうか。

・最後に「一人一人のキリスト者がこの上なく重要である」ことが
指摘されます。なぜならば上記のようなエネルギーを内に秘めているのは、
一人一人総てのキリスト者であるからです。そこには例外はありません。
従って「一人の有能で魅力的な人物の周りに多くの人々を付着させよう
とする」キリスト教に普通に見られる図式や動向に対して、
聖霊が同意する等と言うことは決してあり得ません。何故なら、
そこには一人一人のキリスト者が持っている天的で聖なる命、エネルギーを
抹殺してしまおうとする敵の意図がアリアリと明白であるからです。

2008年12月16日火曜日

でもクリさんへ

1ヨハネ1:7の「・・・神が光の中におられるように、
私たちも光の中を歩んでいるなら・・・」私たちが光の
中を歩んでいる状態は、罪の中を歩んでいない状態であると
考えていたのです。このへんのところがよくわかりません。
その状態は罪のない状態だと思ったのです。
このあたりのことが今でもすっきりしません。


「私達が光の中を歩んでいる状態は、罪の中を歩んでいない状態である」
と言うでもクリさんの御指摘は全くその通りでしょう。だからもしも仮に
私達が24時間、完全に光りの中にい続けることが出来るならば、私達は
複数形の罪一個でさえ犯す可能性はないことになります。

にもかかわらず、仮に私達がそういう状態であったとしても、それは、
罪の根が完全に根こそぎにされている、と言う意味ではありません。
罪の根(the Sin)はやはりそこにあるのです。

しかし、一つの法則であるthe Sinと「魂の機能やからだ」を
「仲立ちする肉」が今や十字架上で除去されてしまったので、
the Sinの力は「魂の機能や体」にはもはや届かず、
the Sinは今や、言わば職場を失った状態と言えるでしょう。
(その前の状態:大文字の罪→肉→魂の機能とからだ)

この状態をパウロは次のように描写しています。
「私達の古い人(肉)がキリストと共に十字架に付けられたのは、
罪のからだが滅びて私達(魂の機能とからだ)がもはやこれからは、
罪の奴隷でなくなるためである。」(ローマ6の6)

この場合の「罪のからだが滅びて」の「滅びて」と言うのは原文では
「不能、失業状態にされて」と言う意味だそうです。
今やからだや魂の機能は「罪に対しては」不能状態にされたのです。


ここで私達は更にハレルヤと叫ばなければなりません。
と言うのは、いまや私達の内側には、私達が新しく生きる為の
神の力「キリストイエスにある命の霊の法則」(ローマ8の2)が
存在しているからです。

もしも私達がその法則の力を真に信じ、その力に自分を委ねることが
出来るならば、現実にその法則が私達の魂とからだを支配して下さる
素晴らしい状況を、私達はそのかたわらに立って見ていることが
出来る筈です。今私達はこの法則の力を現実的に経験し、
それを十分に楽しむ必要があるのです。

「こう言うわけで、今はキリストイエスにある者が罪に定められることは
決してありません。なぜなら、キリストイエスにある、命の霊の法則が、
罪と死の法則からあなたを解放したからです。」
(ローマ8の1、2)

2008年12月14日日曜日

「本当の私」に留まる

A兄弟へ:
「私が後悔していること・・・」

このあなたの言われる「失敗」は御血によって既に
清くされています。神が既にそうされたのだから、
あなたがこだわるのは変と言うものです。

大切なのは今これからです。
さて事実「Aさんの総て一切、あなたそのもの」は
十字架に釘付けられ、今墓の中です。

そして、本当のあなた「A兄弟」は復活し、今天に座し、
総ての暗闇の勢力を足の下にして安息しています。
これは、神御自身がそのように見ておられると言う
「本当のあなたの姿」です。

何故こんな「とてつもないこと」を私は言うのでしょう。
それは:「どうにもならない古いAさん」を神が
十字架に付けた時に、イエスキリストがそこにいたからです!
従ってその時古いあなたはキリストと共に死去したのです。
これは、あのキリストの十字架において
全能の神が達成された永遠の事実です。

しかしあなたは引き続き、キリストと一つの中にいるので、
墓の中からキリストと共に復活し、何と今は天に座しているのです。
これこそが確かに神が見ておられる所の「本当のあなた」です。

だから今 あなたがするべきことは:
①一切の「ねばならない」を無視し!
決して何もしないこと、動かないことです。そして
②神の目から見える「現実のあなたが今どうであるか」即ち
キリストと一つである「あなたA兄弟の真の状態」に安心して留まり、
その勝利の陣地に堅く立ち、そこからおびき出されないことです。

しかし
敵は必ず「墓の中の古いAさん」を黄泉から引っぱり出して来て、
それをあなたに対し実にアリアリと見せようとすることでしょう。
しかしそれは絶対的にウソです。
だからそんな場合には「今の本当のあなたの姿」を、神の真理の
立ち場に立ち、何度でも「そのウソつき」の顔面に
「声に出して」たたきつけてやるべきです:
「私は今、キリストと共に復活の中にあって天に座している!
それをお前はチャンと知っているくせに、
何を言うかこのウソつきめ!」と。
それこそが、あなたがなし得る最上の「奉仕」・仕事である、
と私は思っています。


要は、「何を信じるのか」と言う問題です。あなたは
自分の推論と感覚が「自分の永遠」を委ねることができる程に
信頼に足るものであると本当に思われるのでしょうか。

それとも、物質界を超えた極めて高次元に位置する神の真理を、それが
神とイエスの言葉であると言う理由だけで受け入れようとするのでしょうか。
神の言葉であるが故に、完全に理解不可能であることでさえ
受け入れること、それを信仰と言うのです。


そのようにして私達が信じるならば、それに引き続き:
今日におけるキリスト御自身の「あなたの時空内での御業」を
あなたは日々かたわらに立って「見物」することになるのです。

「キリスト」と言う意味はごく平たく言うと「仕事人」です。そして、
実にあのイエスのみがキリストです。ですから当然、あなたはキリスト
ではありまりません。従ってあなたには仕事をする必要など全くない
のです。あなたのするべき事は只、あの唯一人の仕事人・聖霊
として働かれるキリストの仕事ぶりを日々楽しむことだけなのです。

2008年12月12日金曜日

肉と罪(SIN) 2

1.
肉の中に罪(Sin)があるとしたら、肉からの開放は、Sinからも
解放されるということにならないでしょうか?私は、このあたりの
ことがよく分からないのです。
2.
(1ヨハネ1:8)と(1ヨハネ1:7)の関係も
釈然としないのです。


二つの疑問の内 
1.については更に検討しなければならないでしょう。
やはり難しい問題です。それは後日に回しましょう。
(しかし、これからもこれらの大切な問題について、お互いに
交わりあうことは素晴らしいことだと思います。)

ただ、
神は「あなたの罪を根絶するように」とはどこにも言われていないので、
実際生活において私達は「肉を対処するだけでよい」のではない
でしょうか。しかしそれだけでも実際にはたやすい事ではありません。
(罪と肉の問題の他に「この世」や「己」の対処の問題があります!)


2.は簡単です。それは いわゆる複数形の罪の問題であり、sins は
キリストの御血によって総て洗い清められます。「総ての罪」の中には
大小様ざまな罪、赦されそうな罪、赦されそうに思えない罪、覚えている罪、
無意識の罪、過去の罪、明日犯す罪、その他総てのありとあらゆる罪が
含まれますのでその告白をし、神の言葉を信じるならば、複数形の罪に
関する限り直ちに平安が得られるはずです。

しかしそれは、私がいつの日か、複数形の罪を一切犯さなくなる
と言う意味では全くないわけで、そこで複数形の罪の根源である
私(肉、古き人)の死が必要となるわけです。
御血によってsins が清められ、十字架上での「私の死」によって、
私の肉が取り除かれるのです。

実際上の罪の対処に関して、聖書で取り扱っているのはこの分野まで、
ではないでしょうか。罪の抜本的な根絶はこの時代にはあり得ないと
私は思っています。それは次の時代を待ちましょう。

しかし
「信仰による先取り」によって、千年期や永遠における勝利や完全を
この時代の中でさえ「前味わいする」と言うことが聖書にはあります。
何しろ聖書の真理は時間を超えた永遠の中にあるのですから。
前味わい、これもこの時代における
キリスト者の大いなる楽しみの一つです。

肉と罪(SIN)

*でもクリさんへ*

罪(Sin)は肉の中にあります。
「それを行っているのは、最早私ではなく、私の内に住みついている
罪なのです。私は、私の内、即ち私の肉の内に善が住んでいない
ことを知っている。」(ローマ7の17)

「私の内に住み着いている罪」、
この場合の「私」は、その後の記述から分かるように「肉」です。
このことはローマ3の20、ヨハネ3の6、更にガラテヤ2の16
「なぜなら律法の行いによって義と認められる肉(原文)
は一人もいない。」などからも明らかでしょう。


肉は、罪深いものへのどうにもならない傾向、傾き、即ち人の根源的な
「罪の性質」です。そしてその肉の中に単数形の「あの罪」が宿って
いるのです。罪とは「ある不思議な力」であると言えるでしょう。
それはこうです:罪とは肉を動機付け、呼び覚まし、掻き立て、遂には
肉の欲を全解放するように強いるある奥深い力です。

その結果、私達は多くの罪(複数形の罪)を犯します。これに
抵抗する「すべ」を人は一切持っていません。
解決はただキリストにおける十字架上の肉の「割礼」にあるのです。
結論として、肉は罪へ傾く傾向そのものですが、それを発動させる
強力な力が肉の中に住んでおり、それが罪(the Sin)である、
と言えるのではないでしょうか。


しかし、以上のような知識は、ただ知識として持っているだけでは何の
役にも立ちません。必要なのは実際生活上での「魂の、肉からの解放」
です。聖書はこの時代における「罪の根絶」について語っているとは
思えません。何故ならヨハネは「罪が無いと言うなら・・真理は
私たちの内にありません。」と言っているからです。(Ⅰヨハネ1の8)
しかし、肉からの解放については聖書は何度も明確に語っています。
それ故、もし神の言葉に偽りがないのであれば、キリスト者はキリストの
達成とその命によって、現実に肉から解放され得る筈です。

ですから私達は自分の生活の中でその勝利を求め、その為に神から啓示を
与えられ、キリストが十字架上で達成された事実に安息することにより、
実際的に肉からの解放、即ち「罪に対して死んだ私達」(ローマ6の2)
を経験するべきです。


以上がキリスト者の勝利の為の消極面です。私達は積極面においても、
更にキリスト者の霊の中にある「勝利する命」「命の御霊の法則の力」
をも同時に知り、経験することが出来るのです。

2008年12月10日水曜日

魂の機能と魂の性質・肉

魂の機能(魂の器官)は当然
魂の性質、魂の強い傾き、魂の強烈な傾向、即ち肉とは異なります。
肉は神が創造された人の中には無かったものです。肉はある時に
人の体を通して魂の領域にまで進入し、人に根本的な「傾き」、罪深い
モノへ傾く強い傾向を与えてしまいました。(ここに人類は大問題を
抱えることとなったのです。)

本来キリスト者とは神の性質・傾き(神の徳)を「神の命、
エネルギー」によってのみ表現するべき存在です。即ち私達は
神の性質を神の命によって表現するべきです。その際、神の命・
神の力は当然「キリスト者一人一人の個性的な魂の諸機能」を経由する
わけです。(即ち魂の機能・器官を神の命・力が発動させると言うこと)

神は人の魂の機能までも十字架につけることはなさいません。
除去されるべきは外部から進入した肉です。

人の魂に存在する諸々の徳、知情意などの機能・器官
(その機能には個性がある)を神は永遠に守られます。
なぜならそれらこそ、神のイメージ、神のかたち
(創世記1の16、17)であるからです。

ですから、A兄弟は永遠においてさえやはりA兄弟であり、千年期や
永遠においてAさんが突然Bさんになったり、別の生き物になったり
と言う様な奇妙なことを神が決してなさいません。(それは
人の宗教の発想です。)

なぜなら神は一つ(それはキリストにある)の中の多様性を
重んじられるからであり、それによって神の偉大さを展覧なさりたい
からです。一項目「神の知恵」においてさえ、その多種多様な現れを
神はエクレシアに対して望んでおられます。(エペソ3の10)

取り除かれるべき要素は「魂に強烈な影響を与える肉」です。肉とは
人の罪深い性質・傾き・強い傾向です。ですから古き人である本来の
私はどうしても罪に傾くのです。肉はあたかも私になってしまった
かのようです。(肉から生まれるのは肉であり、古き人、古き私は
肉であるからです)しかし、ハレルヤ、私達の肉(傾き)は
既に十字架に釘付けられてしまったのです。「私達の古い人が
キリストと共に十字架に付けられたのは、罪のからだが滅びて私達が
もはやこれからは、罪の奴隷でなくなるためである。」
(ローマ6の6)

従って今まだ「罪の根」はそこに存在しているとしても、罪は
肉の除去により人の魂の機能にまで達することが出来ません。
私の中の肉・古き人は罪に対して死んだからです。


私達はこの「魂の、肉からの解放」を私の生活において現実的に
経験するべきであり、来る日も来る日も肉の支配下で生活する
べきではありません。もしもキリスト者が繰り返し、汚れた肉の
奴隷状態にいるとすれば、それはむしろ不自然です。魂が肉から
解放されること、それは決して私たちの手の届かない所にある
のではありません。何故ならば、
それはキリストによって既に解決済みであるからです。

しかし、これらの神の真理に対する信頼がなければ、その事実が
「あなたの現実」に降りて来ることはあり得ません。何故なら
真理はただキリストの中にあるからです。即ちそれはキリストの
復活の中にある永遠の領域にのみ存在するものであるからです。
従って人の側から見るとき、総ては信仰にかかっている、
と言えるでしょう。

2008年12月9日火曜日

二つのこと

主は必要に応じ、当然多人数のキリスト者の集まりを与えて
下さいます。この多人数の集まりは相互間の重要な「情報」の交換の場
として用いられます、スポーツの試合におけるミーティングの様に。
しかしエクレシアにおける、主要な敵との戦いの前線と神の働きの基点は
むしろ一人、或いは二、三人にあるでしょう。(マタイ18章等)

なぜならキリスト者が一人、二三人でいる状況は、人の生活にとても近い
からです。神は人の命、生活、人生即ち人のLIFEを愛されます。
しかし神の敵も人のライフをめぐって昼夜働らいているのです。

*ロゴスとレーマについて*
どちらかと言うと、多くの集まりで語られたロゴスは一人、或いは
二三人の場において「レーマ化」することが多いようです。ロゴスとは
恒常的な神のことばです。しかし白黒の新旧約聖書の神のことば・ロゴスを
ただ所有しているだけであるならば、それは死んだ文字に過ぎません。
それはそのままでは何の役にも立たないだけでなく、もしも私が他人に
対してそれをナマのままで用いるならば何と私はその人を殺すことになる
でしょう。(Ⅱコリント3の6、この場合パウロが言った文字とは
明らかに旧約聖書の文字です)

しかしある時、あなたが記憶していたロゴスがあなたの内でレーマ化
する時即ち神がそのロゴスを用いてあなたに直接に語りかけられる時
神のことばが初めてあなたに対して効力を発揮することになるのです。
記憶されたロゴスが即時的に、その時の状況に応じて神からの生きた
言葉としてあなたを照らし、あなたの霊に直接触れ、あなたを生かす
ならば次に、そのことばがレーマとしてあなたを通して人々に対し真に
役に立つものとなるのです。

なぜならエクレシアとは「今日の天地にある生けるキリスト」が私達と
言う「人間性を通して」表現されたものであるからです。今日の
キリストが命のない何物とも、即ち生きていないキリスト以外の
どんなモノとも融合することなど決してないからです。


ここに一つの危険性があります。
それは人が「誤謬なき正当なロゴスを振り回す」ことです。例えば、
大音量の拡声器で人の滅亡について伝える無機質な声を人々に聞かせ、
説得しようとすることなどです。これは殆ど効果がありません。なぜなら、
ロゴスが人の霊と人の生活を経由することによってレーマ化していない
からです。多くの場合それはむしろ人々を神のレーマ(神からの直接的な
語りかけ)から遠ざける働きをするだけでしょう。

私たちにも危険性があります。
それは私達が例えば、ある「霊的な人」のことばを取ってそれを、
ナマのまま他人の説得に用いようとすること等です。そのことばが、
その霊的な人の口から発せられた時はレーマであったとしても、それを私が
「権威ある霊的な人のことばとして」人の説得に用いようとするとき、
殆どの場合それは「正統で無機質なロゴス」に過ぎません。そのような
方法でそれらの「正しいことば」を用いる私は正に「トラの威を借りる狐」
のようなものです。私達はキリストの十字架によって自分の中に住む
「狐」を日々対処しなければならないのです。(雅歌2の15)

このように私達には「霊的なことば」を「新しい律法」に変化させる
危険性さえあるのです。それは一つの「宗教」を立ち上げるのに役に立つ
だけでしょう。そういう時、そこに働くのは宗教的権威です。ですから、
その宗教的な権威の力の故に私が発したロゴスは或いは相手を
平伏させることに成功するかも知れません。しかしその平伏は決して
「今日の天地にある生きたキリスト」とは相容れないものです。

むしろそれは確実に神の敵に用いられるでしょう。神の敵もロゴスを
用いるからです。(しかし彼は決してレーマに触れることは出来ません。
なぜならレーマには天の成分、十字架と復活の成分が
含まれているからです。)


たとえそれが
「聖書通りの誤謬のないロゴス」であったとしても
私達がそれを用いる時に「必ず経過しなければ
ならないもの」が幾つかあります。
それは「私の魂の機能と体」即ち
私と言う個性的な人間性であり、そしてまた
日々の「古き私」を死に至らしめる十字架です。

私達は神のことばを「新しい私」を通して語らねばなりません。その時 
神のことばは他人からの借り物ではなく「人間であるイエスとあなたの
ことば」となるでしょう。神のことばは今日「十字架を経られたキリストと
あなたの一つ」を通して語り出されなければならないのです。何故なら
今の時代、神は、天使の口によってではなく、原則として
「キリスト・者、キリスト・人」を通してのみ語り出されるように
定めておられるからです。

あるメールから(14)

先日の土曜日の集会は初めてお会いする方達もおられたせいか、
集会の印象がいまいち自分の中ではっきりしていませんでした。

ところが、今夜 我が家ではなぜか、土曜日の集会の話になり
参加されたお一人お一人の名前を思い出したり
どんな話をされたか、とか、とりあげられた御言葉とか
頂いたプリントの内容、とか 思い出しながら
二人で話していました。

そうしましたら、あの時には分からなかった事や
気づかなかった事を主が明らかに語ってくださり
なんと豊かに主が流れていて下さったことかと
一日おいてやって実感がわいてきたと言いますか
消化されてきた感じです。

やはりミーティングには肢体分の豊かさがありますね。
その豊かさに与(あずか)れましたことを感謝します。

また、御言葉をロゴスでなくレーマとすると言う事は
御言葉を自分の経験にするということでしょうか!?
朝読んだ御言葉もお昼には忘れてしまっていますが
いつかレーマとなることを願い、与り続けたいと思います。
このたび、兄弟姉妹と共に主に与れましたこと、感謝します。

2008年12月7日日曜日

あるメールから(13)

昨日の集まりで、私も一言、話させていただいたのですが、
どうも私は話し下手で、後で言い足りないなーといつも思うのです。
そういうわけで、昨日の話に補足させて下さい。

以前行っていた「教会」の姉妹たちが集まると必ず世間話しになって
信仰の面を語り合うことができなくて、そんな状態が続くうちに、
私が「神様に直接訴える」という事を実行するようになりました。
それをしていたある時ウオッチマン ニーの「神を知る道」と言う本を
読んでいたら「神に直接話す、神に直接訴える」ということが書いて
ありました。その時「ああ、これは私が今やっていることだ」と分かり、
私はとても喜びました。とはいえ、それはやむを得ず、仕方なしに
やっていたことでした。しかしとにかくその時以来私は、神様に直接
向かうようになったのです。

それからは、自分の問題を直接神様に向かってあーだのこーだのとやる
ようになり「総ての解決は内住のキリストにある」と思うように
なったのです。そして、クリスチャンとして生きてゆく土台は、自分
ではなく「あの内住のお方」なのだと確信し、その結果それまで
行っていた「教会」を去る決心がついたのです。

今は、真に神様が願われている教会・エクレシアの姿や本当の交わり
について、そしてまた内住のお方によって生きることとは何かを
少しずつ教えられて幸を得ているのです。


もう一つ、クリスチャンはよく愛を語り、愛のある行為とは何か
と言うことについてよく話しますが、それでは一体「最も」愛のある
行為とは何か、についても教えられたように思います。

ヨハネ 15:13に 人がその友のために「いのちを捨てる」という、 
これよりも大きな愛はだれも持っていません とあり
Ⅱコリ 4:12には 死は私たちのうちに働き、いのちはあなたがたの
うちに働くのです、とあります。

私が自分に死ぬ、即ち「自分の魂の命」を死に渡すことの結果として
初めて、復活のキリストの命が私の友の内側にも到達するのである
と言うこと、そしてそのような愛の行為・即ち自分の魂の命を死に渡すこと
以上の愛と言うものは、他にはあり得ないのだと思うようになっています。
それは私の色々な親切な行為より、はるかに勝るものではなかろうか
と理解するようになったのです。
ということで、これからもよろしくお願いします。

★原文は公開用のものではありません。それで申し訳ないのですが、
出来るだけ本人の意を汲んで?私が補充したところがあります。
御了承ください。

2008年12月6日土曜日

ある会話

Dさん:
このたび経験したことと言うのは・・・
キリストの中では(飛行船の中では)もし
それが「人の発案」ではなく「主の発案」から始められた
ことならば、部分的な祝福ではなく、まったき祝福となり
すべての事において主のバックアップを見るのです、という
ある兄弟の言葉の体験であったと思うのです。

「主の発案」は人が介入できない事柄のなかへ主が介入
され、事が主のなかで自然に運ばれて行く事。
それを見ていく事ほど楽しく胸ときめく事はありません。

sugar:
飛行船、いいですねー。
何かみたいにキンキンする爆音もなく汗も流さず、
高き所にいて地の景色を見下ろし、
スガスガしい天の空気を沢山吸いながら。

そんな風にして、
彼の運転に総てを委ね、
ただ運ばれていただけとはね

Dさん:
はい、夢のようでした。(*^_^*)
でも、今思い出したのですが今回の旅立ち?の前にアチコチの
兄弟姉妹たちが「私たちって何もやらなくっていいんだよねエ~」
とささやいているのを小耳にして出かけましたから、これもまた
予言的なささやきだったかなって驚いています。 
あの不思議がいろいろなところまだまだ隠れていそうです。

2008年12月3日水曜日

マルシアからです

お久しぶりです。お元気ですか?
私はやっと月曜日から産休に入り、赤ちゃんを迎える準備をし始めた
ところです。予定日通りには行かないと思うので、今日は早速入院の
荷造りをし、明日は退院時の赤ちゃんの服を揃えれば、もういつ陣痛が
来ても大丈夫です(^-^)。

一時はお腹が張り過ぎて早産の可能性があり、産休の予定より早く休ま
なくてはならないとの心配がありましたが、もっと細かい検査して見たら
正常範囲内だと分かり、予定通りに産休に入りました。

しかしお腹が大きくなり、ちょっとした動作ですぐ疲れてしまいます。
仕事している時、あまり眠れないことも悩みでした。産休に入って、
家でのんびりできるので、夜は眠れなくても、いつでもお昼ねできるから
よかったです。眠れないことや眠りが浅いことは、これから子どもの世話を
するための、一つの体の準備と聞きました。「なるほどだね」と思いました。

仕事をしていたおかげで、あまり体重が増えず、脚がむくんだりすることも
ありませんでした。もちろん仕事をすること自体は毎日疲れましたけど・・・・

現在私の体重は5kg弱しか増えなかったけど、休みに入ったことで
これから増えるかもしれません。少なくても、2kg以上は増やしたくない
と思います。全体の体重が増えなくても赤ちゃんが元気に成長していれば
問題ない、と医者から聞きました。最近の妊婦は太り過ぎると
注意されるそうです。

赤ちゃんは元気に相変わらずよく動いています。性別が分かるための
「大事なところ」がこれまで何回も隠れていたけれど、8ヶ月目に入って
やっと見せてくれました。医師が間違えてなければ女の子です。2回も見て
頂いたので、大丈夫だと思います。

最後の検診では赤ちゃんは2400gまで成長していました。今のところは
逆子ではないことが分かりました。よく動く子なので、これからぐるっと
回って逆子にならないで欲しいなと願っています。37週目まで逆子に
ならなければ自然出産ができるとのことです。現在34週目に入った
ばかりです。

出産後、皆様にその報告をしたいと思います。最後まで、
出産という大きな仕事を問題なくやり遂げられるように願っています。
では、(^-^)

PS:
この子を連れて、また山小屋に行ける日を楽しみにしています。
またね(^^)

sugar:
本人が「日本語の変な所は直して下さい」とのことでしたが、
それはごく僅かでした。
日本語が全く分からなかったブラジル生まれの小さな娘が、
総て独力で高校、大学を経て、遂にここまでに至ったこと、
ホンとに偉いと思います。
無事な出産と、赤ちゃんを連れてまた山に
来てくれることを心から祈るばかりです。

明日、下山します。


その後のマルシアからのメールです↓
「いまだに日本語に自信がありません。
直して頂き、ありがとうございました。
新しい鍋が届き、よかったですね。私達が栄養の
あるものを作りに山に行かなくても、ちゃんと作っている
ようで、安心しました。下山なさるなら松戸にもお立ち寄り下さい。
大きなお腹は期間限定ですから、今しか見られませんよ。
(^-^)では。」

希望・神は人の霊を守られる

宇宙には種々の霊が存在しますが、人の霊は特別です。
それは何と神の命の息でした。

しかし、それは神御自身ではありません。即ち霊としての神
ではないのです。しかし人の霊は、間もなく「永遠の命」としての
神を迎えるための存在ではあったのです。

従って当初の人の霊は当然ながら、神によって純粋に守られた
のです。今日の人々の霊でさえ、神はそれを守っておられると私は
信じています。だからどんな人にでも、まだ希望があるのです。
その魂(感情と思いと意志)と体において汚れ果てた「悪人」の
霊(良心を含む)でさえ、彼の霊だけは「ある意味で」聖域です。
(ですから私達は福音を伝える時、自分の霊を用いて、その人の
思いや感情に対して、と言うよりも、その人の霊に向かって
彼の霊に触れに行く必要があるのではないでしょうか。)

本論に戻ります。しかしながら、ご存知のように 人の霊は
アダムにおいて死んでしまったのです。この場合の死とは、その
機能の停止です。即ちそれは「神との交流の停止」と言う意味での
死です。人の霊は神に対する正常な機能を失ったのです。従って
今日、時に人は神を思うことがあったとしても、彼の神観念は
正に支離滅裂なのです。(だから先ずはとにかく、人の
「死んだ霊」が新しく生まれる必要があるのです。)

なぜ人はそのようになってしまったのでしょうか。それは、
人が「永遠の命」を拒否し「善悪を知る」を選択したからです。
即ち彼は神の命に依存せず、自分の魂の命のエネルギーによって
生きる生き方を選んでしまったからです。

その日以来、彼の魂はその分限を超えて「成長」し続けました。
その結果、度を越えて肥大した魂の力によって、遂に魂は、本来
魂の主人であるべき霊に絡まり抑圧することにより、霊と魂の
本来の地位関係を完全に逆転してしまったのです。人が神から
独立する道を選択したことは、かように人の内面に不秩序と混乱を
生じさせると言う実に巨大な代償を払う結果となったのです。

しかし事はそれで終わりではありませんでした。
更に人は坂道を下り続け、遂には、何と体の「肉」が魂を制圧する
に至りました。即ち肉が人の総ての王権を握ったのです。これが
人の終着点でした。その事実を聖書では「人は肉に過ぎない」
と表現しています(創世記6の3)。もはや人の意志が正常に機能
するはずもなく、人の理性や感情も肉の力に圧倒されてしまった
のです。これは「霊を総てのよりどころとする、霊→魂→体」と
言う人本来のあるべき姿から見るならば何たる恥辱でしょうか。

しかし、この状態こそ昨今普通に見られる世情の真の有様では
ないでしょうか。しかしこの全世界的傾向はこれからも更に
増大し続け、人々は必ずある極点を迎えることになるでしょう。
正に今は「大洪水」前であるからです。
(このような圧倒的世情の只中で「真の箱舟」を
建造せんとするのは一体誰でしょうか。)


しかし私達はそれでも神を賛美するのです。なぜなら今でさえ
人の霊は「聖域」であるからです。神に感謝します、どんな人で
あろうと、神は彼の霊を守られます。なぜでしょう、それは
人はこれから、その場所・彼の霊の中に、あの「人の子となられた
聖なる永遠の復活の霊」を迎え入れる可能性が
いまだに残されているからです。

ですから、人の必要は唯 真の命によって彼の霊が新たに
生まれる事、次に「主と一つになった彼の霊」(Ⅰコリント6の17)が
正常に機能するために、次第に成長、円熟して行くことなのです。

2008年12月2日火曜日

あるブログのコメントから

candyさん:
交わりの喜び、いのちを共有していることが、多くの説明を必要と
しない、嬉しい交わりですね。いのちの成長が、個人のものだけ
ではなく、共に成長させられていることを感じさせられます。

sugar:
交わりの本質、交わりの真の中身、即ち「~間を」行きめぐる今日の
キリストそのものこそが、エクレシアであると信じます。
今、姉妹の近辺にそのエクレシアが生きて存在しているのである、と
感じさせられ、こんな嬉しいことはありません。
ただ、神に感謝を捧げます。

candyさん:
アーメン!御父と御子との間にある同じ親密さの中へ入れられただけ
でなく、その喜びを真に味わい、楽しむように導かれていることは
なんと素晴らしいのでしょう。主の下に引き寄せられたいのちの
交わりの内に、神の現存を見出す喜び、あぁここにも主がおられる・・
その安心はなんと深いものでしょう。
ただ、ただ主ですね。私たちは主がしてくださることの中に、安らいで
いるだけ。贈り物に満ちた主の恵みは今日も本当に十分ですね。

5層三階建て高級ステンレス鍋

実際に使って見ると、あの私のダッチオーヴンにも、
多少デメリットがあることが分かって来ました。
少し小さいのですよ。なるべく沢山作り置きして調理を怠けたい
私にとってはそれはイマイチです。その上、前に書いたように、
調理後の洗いが結構面倒、更に、当たり前だが結構重いのです。
結論的に、アウトドアとか時々ならいいが、これからの人生
毎日三度三度ダッチオーヴンじゃ、やはり大変です。

その時です。
何と突然、この5層三階建てステンレス高級鍋が与えられた
のです。(おとといの午後くろねこヤマトが運んで来た)
5層とは鍋の本体のステンレスが5層と言うことです。(だから
結構重い)鍋の壁が5層であることによって鍋としての数々の優れた
機能が生ずると言うのです。三階建てとは一度に一階、二階、三階の
三つの部屋で三種類の食材を同時に蒸すことが出来るということです。

使って見ると中々いいのです。ダッチオーブンの機能は全部備えて
いるし、これで何とも前述の幾つかの欠点は見事全部解消して
しまったのですよ。実際料理して見るとすぐに分かりました、
ああこの鍋、一生ものだなと。鍋の世界もバカにならないものです。
全く知らなかったよ、こんな鍋がこの世にあったなんて。


それにしても、どうにも不思議です。またまた、絶妙の
タイミングで私の調理のトラブルが全部見事に解消してしまった事。
それも、私が全然意図しない所から降って沸いたように突然。
何と言ったらいいのでしょう、正直、主はまるで「これでもか
これでもか」と私の食生活をケアして下さっていると言う感じです。
これただの偶然?それにしては出来過ぎです。

要するに主は例外なく、私の生活のすみずみに至るまで、
「私の総ての必要」になられたいお方である、
と言うことなのでしょう。しかし実の所、言うはやすしです、
「主をして私の総てとならしめる」と言うのは。

PS:
ダッチオーブンの方は焼き芋用にまわしました。
ダッチオーヴンのジャガイモ、
バターをつけたりして結構いけますよ。

2008年12月1日月曜日

霊、魂の問題

ある点について霊、魂、の問題が提起されました。
この機会にこの問題に関して私が日頃感じていることに
少し触れて見たいと思います。

いずれにしろ、人がこの問題に真剣に向き合うと言うことは、
素晴らしいことだと思います。僭越ながらもしも「人・自分の内面
がどうなっているのか」について真摯な関心がないとするならば、
キリスト者として、どんな前進も殆ど期待出来ない
と私は真剣に思っているからです。
さて私は先ず、二つのことを確認する必要があると考えます。

①この「自分の内面がどうなっているのか」の追求の目的は
私たちの普段の生き方が、私達からキリストが表現され、それによって
神の敵が、即ち「この世の悪の根源」があばかれ退却する事に確実に
繋がって行くようになるためです。即ちそれは神と人の
実際的な益のため、でなければならないと思います。

この時代において、キリストはキリスト者と言う「存在」を通してのみ
初めて地上に表現されます。だからこそ、私達は自分と言う「存在」の
中央部分に関する正確で真の「知識」を必要とするのです。

しかしもしもこの目的を別にして、この霊と魂などと言う途方もない
問題(それはあまりにも膨大で深い背景を持っている)に入り込む事は
正に雲をつかむようなことになってしまい、たちまち壁に
ぶつかるか、仲たがいするか、疲れ果てるか、でしょう。
「知的好奇心から」だけでは、労多くして、益はあまりに少ないのです。

②これらの問題の底はどうしても「永遠と言う領域」にさえ触れて
行かざるを得ません。そして何とそこには生ける神が存在するのです。
即ち、これらの問題の根は「神の真理に直接触れざるを得ない」
と言うことです。更に言えば、その「神の真理の実質」とは単なる
事実・モノなどではなく、今日の生けるキリスト御自身に
他なりません。真理とは実に「神聖で純粋なあのお方」なのです。

この時空の中の、あれやこれやのモノ・事象については、随分詳しく
知ることが出来るのに、人類は自分にとって一番大切な「人の根源的問題」
についてはどうして何も分からないのでしょう。なぜなら、その様な人の
根本的問題の底は「神の真理」に繋がっており、更にその真理とは
生ける神、復活のキリストだからです。そしてキリストは神の「奥義」
であります。(コロサイ2の2)

当時の群集は十字架以前の「イエスの物質的な体と魂」に物質的に
また心理的に触れることは確かに可能でした。しかし復活後の
キリストに触れることは、当時のキリスト者といえども
なかなか難しいことだったようです。
そのキリストに触れる秘訣は何でしょうか。それは唯、
マリヤのように、ひたすらイエスのみを慕う心を持つことと、
弟子達のように単純に信じることだけでした。

ですから、私達の限られた知性のみで真理なるこの復活のイエスに
触れることなど絶対に不可能であると言えるでしょう。
もしも単なる被造物・人間の限定された知性のみで、この霊・魂の問題
が全部分かるとするならば、世の頭のよい人々は皆、神と人に関する
根本的な問題についてきっと「正しい知識」を持つ筈です。しかし現実は
その逆です。もしも私達でさえ、自分の意志を振り絞り「頭だけで」
霊と魂について知り尽くそうとするならば、そのような時イエスは多分
あなたの知性のみの追求を敢えて妨害しに入って来られることでしょう。

パウロなどは(極端にも?)次のように断定しているほどです。
「生まれながらの人(原文では魂の人)は神の霊に属することを受け入れ
ません。・・またそれを悟ることが出来ません」と。(Ⅰコリント2の14)
しかし、感謝です、主イエスは「その方、即ち真理の御霊が来ると、
あなた方を総ての真理に導き入れます。」(ヨハネ16の13)と
言われました。

私がもしも聖霊により頼み、神が必ず私の心の目を開いて下さる
(エペソ1の18)と言うことを信じ、そして焦ることなく主を待つ
ことが出来るならば、神は必ず私を導き、真理に触れさせ、
神と人の為に真の益に繋がる素晴らしい結果を、私の普通の
生き方から、生み出させて下さる事でしょう。
それは実に軽やかで楽しい道であるに違いありません。

★お知らせ
6日に来られるはずであった台湾の楊さんですが、今回はどうも無理
のようです。と言うのは、6日にどうしても、ある人と会わなければ
ならない必要が生じてしまったからだそうです。何とか調整できない
だろうかと色々工面されたようですが、私は「どうか無理なさいません
ように、主は逃げて行きませんから」と言いました。
あしからず御了承ください。