ある点について霊、魂、の問題が提起されました。
この機会にこの問題に関して私が日頃感じていることに
少し触れて見たいと思います。
いずれにしろ、人がこの問題に真剣に向き合うと言うことは、
素晴らしいことだと思います。僭越ながらもしも「人・自分の内面
がどうなっているのか」について真摯な関心がないとするならば、
キリスト者として、どんな前進も殆ど期待出来ない
と私は真剣に思っているからです。
さて私は先ず、二つのことを確認する必要があると考えます。
①この「自分の内面がどうなっているのか」の追求の目的は
私たちの普段の生き方が、私達からキリストが表現され、それによって
神の敵が、即ち「この世の悪の根源」があばかれ退却する事に確実に
繋がって行くようになるためです。即ちそれは神と人の
実際的な益のため、でなければならないと思います。
この時代において、キリストはキリスト者と言う「存在」を通してのみ
初めて地上に表現されます。だからこそ、私達は自分と言う「存在」の
中央部分に関する正確で真の「知識」を必要とするのです。
しかしもしもこの目的を別にして、この霊と魂などと言う途方もない
問題(それはあまりにも膨大で深い背景を持っている)に入り込む事は
正に雲をつかむようなことになってしまい、たちまち壁に
ぶつかるか、仲たがいするか、疲れ果てるか、でしょう。
「知的好奇心から」だけでは、労多くして、益はあまりに少ないのです。
②これらの問題の底はどうしても「永遠と言う領域」にさえ触れて
行かざるを得ません。そして何とそこには生ける神が存在するのです。
即ち、これらの問題の根は「神の真理に直接触れざるを得ない」
と言うことです。更に言えば、その「神の真理の実質」とは単なる
事実・モノなどではなく、今日の生けるキリスト御自身に
他なりません。真理とは実に「神聖で純粋なあのお方」なのです。
この時空の中の、あれやこれやのモノ・事象については、随分詳しく
知ることが出来るのに、人類は自分にとって一番大切な「人の根源的問題」
についてはどうして何も分からないのでしょう。なぜなら、その様な人の
根本的問題の底は「神の真理」に繋がっており、更にその真理とは
生ける神、復活のキリストだからです。そしてキリストは神の「奥義」
であります。(コロサイ2の2)
当時の群集は十字架以前の「イエスの物質的な体と魂」に物質的に
また心理的に触れることは確かに可能でした。しかし復活後の
キリストに触れることは、当時のキリスト者といえども
なかなか難しいことだったようです。
そのキリストに触れる秘訣は何でしょうか。それは唯、
マリヤのように、ひたすらイエスのみを慕う心を持つことと、
弟子達のように単純に信じることだけでした。
ですから、私達の限られた知性のみで真理なるこの復活のイエスに
触れることなど絶対に不可能であると言えるでしょう。
もしも単なる被造物・人間の限定された知性のみで、この霊・魂の問題
が全部分かるとするならば、世の頭のよい人々は皆、神と人に関する
根本的な問題についてきっと「正しい知識」を持つ筈です。しかし現実は
その逆です。もしも私達でさえ、自分の意志を振り絞り「頭だけで」
霊と魂について知り尽くそうとするならば、そのような時イエスは多分
あなたの知性のみの追求を敢えて妨害しに入って来られることでしょう。
パウロなどは(極端にも?)次のように断定しているほどです。
「生まれながらの人(原文では魂の人)は神の霊に属することを受け入れ
ません。・・またそれを悟ることが出来ません」と。(Ⅰコリント2の14)
しかし、感謝です、主イエスは「その方、即ち真理の御霊が来ると、
あなた方を総ての真理に導き入れます。」(ヨハネ16の13)と
言われました。
私がもしも聖霊により頼み、神が必ず私の心の目を開いて下さる
(エペソ1の18)と言うことを信じ、そして焦ることなく主を待つ
ことが出来るならば、神は必ず私を導き、真理に触れさせ、
神と人の為に真の益に繋がる素晴らしい結果を、私の普通の
生き方から、生み出させて下さる事でしょう。
それは実に軽やかで楽しい道であるに違いありません。
★お知らせ
6日に来られるはずであった台湾の楊さんですが、今回はどうも無理
のようです。と言うのは、6日にどうしても、ある人と会わなければ
ならない必要が生じてしまったからだそうです。何とか調整できない
だろうかと色々工面されたようですが、私は「どうか無理なさいません
ように、主は逃げて行きませんから」と言いました。
あしからず御了承ください。
0 件のコメント:
コメントを投稿