2008年8月31日日曜日

ある兄弟の祈り

私は今 信仰とは
とてつもない恵みだということを再実感しています。
我々はこの特権に気付き、気付かされ、能動的に信じなければ
なりません。「神である永遠」の一かけらだけでもいいから「聖なる信仰」
によって見たい、という願いがとても強くなっていることを感じるのです。
その一かけらを見ること、
それに勝る「信仰の好循環」はないのではないでしょうか。

「聖なる信仰」と
「肉的信仰」は文字どおり天と地の差なのですね。
神の敵が決して入り込むことが出来ない永遠、
敵はその一かけらさえ見ることが出来ない「神である永遠」 。

神が、時空が始まる前 永遠の過去に 既に定めておられた御計画、
それは、復活のキリストの中にその永遠のすべてを納め、
聖なる信仰のみを通して
それを人間だけに与えられる と言う「信じられないような」恵み。

私は今神に対し
「時空に属する見せかけの恵み」などではなく、「神なる永遠の恵み」の
一かけらを垣間見させて下さい、と祈りをささげるのです。

ああハレルヤ、
父なる神を、永遠なる神を、復活のキリストを賛美します。

山に来ております

先ほど小屋に着きました。
今日は日曜日、朝9時前、わー凄いと思うほど増水した大河利根川の
我が家を出たのです。日曜、この時間の出発はいいですね、
なにしろ道がすいているのです。高速は水戸から日立北まで1250円分
だけだったのですが ドアトゥードアで258キロを5時間半くらい
だったでしょうかね。(鵜の岬での昼食と北茨城のスーパーでの
買い物を含めて。)

イヤー山はやはりいいです。
八月最後の午後の光が柔らかにあたりを包んでいます。このおとなしい
陽の光はもう完全に秋ですね。
小屋、こちらも相当の雨量だった筈ですが、被害は全くありませんでした。
こういうこと、素人大工の私にとってはとても嬉しいことなのです。

今度の山滞在は9月中旬まででしょう。実は今回 私期待の楽しみが
二つあるのです。それはのちほど・・。
それと工事の方はダイニング工事に本格着手しないとね。その前に
「なんでも押し込みクローゼット」を和室隣に移動する必要があるのです。
それから、今回ハードオフから買ってきた3500円の食器戸棚は小さ
過ぎるので、戸棚の下の方に安い2バイ4で細工をして大きくしないと
いけません。こうやって見るとヤッパリいろいろと大変かな。

今晩は買ってきたサンマでも焼きましょう。車を走らせながら横目で
小名浜近くの魚屋をみて見たら 大きな箱一箱1000円ですよ。
もちろん今晩のはそれではありません。 今度いつか
「サンマ食い放題パーティ」などどんなものでしょう。

もう、既に5時40分。
あたりは完全な静寂そのもの。
一人ぼっちの夏の終わり、
ちょっとさびしい山の夕暮れです。

2008年8月29日金曜日

新・礼拝は24時間(2)

今回は 大胆にある類推をして見ることにします。
それは以下のようなものです。
先ず 幸か不幸か「礼拝する」と訳されてしまった所の
「①奉仕する②おじぎする③仕える④求める⑤ひざまづく⑥ワンちゃん
が 主人を慕うように慕う愛する」と言う幾つかのキリスト者の行為の
間に何か相互関係のようなものがないのだろうか、と考えて見たのです。

そして、そこから得た結論はこうです。
まず⑥の「慕い愛する」がなければならないこと、もしそれさえあれば 
その結果としてキリスト者の生活に①~⑤は自ずと現れるものである、
と言うことです。

私たちが
真に神を慕い愛する時にのみ初めて、私たちは更に神を「求め」、真に
神に「仕え、奉仕し、ひざまづき、おじぎ」できるのです。この優先順序は
大切です。天的愛があって初めて天的エネルギーが湧いてくるのです。
愛がなければ、人は、そして神でさえ何もなし得ないのです。(例えば
人に対する父と御子の深い愛が存在したが故に、創造と贖いの御業が
それに続いたのです。)従ってキリスト者が「神を愛し慕うということ」が
この礼拝問題のキーと基本になるように思われます。

ここで思い出すのが
「最も大切な戒め」についての主イエスの言及です。彼は言われました:
第一の戒めは、心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなた方の神
である主を愛せよであり、第二の戒めはあなたの隣人をあなた自身
のように愛せよである、と。(マタイ22の37~40)

ここで私は補足したいのですが、
この「あなたの隣人」とは一体誰でしょう。この復活の時代 私たちに最も
近い隣人は他ならぬ私たちに内在する主イエスです。従って父なる神を
慕い愛することが第一であり、次にこの内住の主イエスを自分自身
のように愛すること、ガラテヤ2の20的に言うならば
「真の自分」即ち「一つ命を主イエスと共有する自分」或いは「私と一つに
なられたキリストと言う自分!」を真に愛することが 第二の戒めなのです。

「あなた方の
寛容な心を、総ての人に知らせなさい。主は近いのです。」(ピリピ4の5)
主が私と一つとなるほど近くなられたからこそ、その主が私を通して
他の人々への寛容となり得るのです。これのみが私たちが 多くの隣人を
愛する唯一つの方法です。

いずれにしろ、
父と子を慕い愛すること、それが人の最高の栄誉・特権であり、
総ての基本です。ここにこそ「礼拝は24時間」を解く鍵がある
ように私には思われるのです。

2008年8月28日木曜日

新・礼拝は24時間(1)

昨晩のことです、
「礼拝は24時間です」の全部が何故か突然消え去ってしまいました。
そのことを知ったコージさんが、彼が取っておられたコピーを先ほど
親切にも送ってくださったのです。(コージさん、有難う!)
それで「これはラッキー」と有頂天の中で、送ってもらったコピーを
眺めながら 今こうして「新 礼拝は24時間」をいきなり書き始めて
いるのです。果たしてタイトルが本当にこの「礼拝は24時間」で
いいものかどうかさえよく考えもせずに、です。
それでも とにかく始めることにします。

新「礼拝は24時間」(1)

礼拝と訳された原語の意味は意外にも
「奉仕する、おじぎする、仕える、求める、ひざまづく」等たくさんあること、
(何故たくさんあるの?)更にもう一つ ドクターK氏によれば それは
何と「ワンちゃんが主人を慕うように 慕う」であることは既に見ました。

そこで
それら「奉仕する、仕える、ひざまずく、慕う」などというさまざまな行為は
一体どの様な特徴を持つ行為であろうかと身構えてよく見ると、別に
身構えるまでもなく、これらはどれも新約時代のキリスト者であれば、
普段の生活の中に適宜自然に現れる当たり前の行為である事が
分かるのです。(なーんだ)

だとするならばです、 
①それら全部を礼拝などと言う「おごそかな」言葉に変える必要があるの
だろうか、 即ちそれら全部を敢えて一つの「礼拝」と言う言葉に
置き換えたり しないで、
②そこに一つ一つ上記の訳語をあててもよかったのではないのか、また
③「愚直なまでの忠実さ」と言うものが聖書というような一字一句を
おろそかにするべきでない本(聖書は先ずは文学ではないはず)を
訳すときに必要な第一の姿勢ではなかったのか、
と言う疑問がやはり残るのです。 (どうしてそうしなかったのだろう?)


ヨハネ4章の「礼拝」と訳された原語について、ドクターK氏曰く:
「ワンコが主人の手をなめるようにキスすること」です。
分かりやすく言い換えると、「じゃれ回る、父の前でじゃれたり、
父をなめたりする」が原義です。

また「みことばざんまい」の別の箇所でK氏は:
「礼拝する」とは「神を愛すること」です。まるで子犬が主人を見つけて
喜び走り回るように愛することです。(ワンコと暮らしている方ならすぐに
分かる)。マーレーは「礼拝する」という単語を「愛する」とほぼ同様の
意味で使用しているはずです。・・ 「礼拝する」を「愛する」に
置き換えてもまったく異論も違和感も感じません。
神を愛することは人間の最高の栄誉です。
・・・とも述べておられます。
多分これらのヒント(情報)はこれから大きな意味を持つことでしょう。

利根川のほとり、近況です

9月から 次男のジュンが
いよいよ施設を出て八千代市でアパートの一人暮らしを始めます。
彼が私の車から降り、夕日の中を一人施設に帰って行く後ろ姿を
なぜか今思いだします。あれからもう4年半が経過したのです。
おととい、ジョイフルホンダで彼の買い物のお手伝いをした
のでしたが「蛍光灯、ホンとに自分で付けられるのかな」と気になり
今日も行ってみようかな、と思っているのです。引越し当日は行けない
状況でもあるし・・。と思って電話したら 大丈夫だから、と言う彼の
反応でした。これはちょっと嬉しいような・・。

長男のケンは
病気そのものの状態は非常によくなり、もう病気の後退は無いのでは
ないか、 などと思わせるほどの回復ぶりです。これは極めて驚くべき
ことには違いありません。この間、一人暮らしを支援するべく生活訓練を
してくれる施設に4日間体験入所したのでしたが、体の疲れを強く感じる
ということで 今様子見の状態です。しかし精神状態はとても穏やかに
安定しているので 妻も安心しきっているようです。これらの状況は私に
とってとても感謝なことなのです。

前の記事「礼拝は24時間です」が何故か突然全部消えてしまいました。
こんなことがあるんですかね。多分 原因は私の操作ミスなのでしょうが。
その内 書き直しですね。これは大事なテーマですから。

妻は2泊の群馬旅行から
今日の夜 帰ることになっております。とにかく 妻が幸せそうに活動
しているのを見るのは よいことには違いありません。

この様子だと山帰りは31日あたりでしょう。

2008年8月26日火曜日

聖徒達の言葉

A姉妹:
今回の集まりでは、キリストの体について教えられました。
キリストの体は、教会と表現されたり、またブドウの木にたとえられたり
します。しかもそれは有機的なものなのです。でも、これまでの私はそれを
よく把握しておりませんでした。

ある兄弟は以前から「一肢体が自分の十字架を負って、自分を死の
立場に置くなら、その人に復活の命が現れると同時に、必ず他の肢体にも
命が流れて行くものである」と語っておりました。それを何回も耳にしながら
これまで 私はそれをつかむことができなかったのです。

今回、改めてそれが語られ、キリストの体の一肢体としての自分のあり方が
正に一新したのです。即ち自分を真に有機的な体の一部分として
位置づけることができたのです。
感謝します、距離的には相変わらず兄弟姉妹から遠く離れた所に一人
ぼっちでいる私なのですが、 たとえ離れていても、私はからだの他の部分と
有機的なつながりを持つ一肢体である との意識に変わったのです。

更に今回、たとえ信者が、「キリストが達成してくださった客観的な立場」は
持っていても、それだけで終わってしまっている場合があり得ると言うことが
分かりました。自分だってその例に漏れないものですが、キリストの体の
一肢体として、有機的に他の肢体に影響を及ぼさざるを得ないからだの
一部分として、 死と復活を主観的に経験をして行くべき責任があることを
今思わせられています。自分を一人ぼっちだと思っていた時と比べて、
今とても 気が引き締まる思いがするのです。

とは言っても、1肢体としてのあるべき姿とは ただ自分の十字架を
負うことなんでしょうね。これこそ他の肢体に命を流し出すコツですものね。
私はよく失敗をする者ですが、キリストの血により頼みながら、自分を死の
立場に置き続けて行きたいと思います。


B姉妹:
A姉妹のメールを読み「教会=有機的キリストの体」でよいのだと、すっきり
いたしました。キリストの体は有機体なのですから、体に血液が流れている
ように十字架を経た復活の命は他の体の部分にも流れて行くのですね。
いや~これはホンとに嬉しいことです。

それにもう一つ
「信者が キリストが達成してくださった客観的な立場は持っていても、
それだけで終わってしまっている場合があると言うこと。」 これですよ!
私はどうもこの部類なんですね。本当に他の体の部分に影響を
及ぼさざるを得ない体の一部分としての経験と認識、これが私にとって
希薄なものであったことに気付かせていただいたのです。

こうしたメールでのやりとり、遠距離のため私達は顔を合わせる
こともあまりありませんが、しかしこのやりとりも
有機的キリストの体の交わり なんですね。

当然また十字架を負う立場、この自分の死の立場も忘れないで
行きたい と願わされております。


C兄弟:
キリストという一本の同じ木の中に 多くの兄弟姉妹が留まっているという
事実を信じることができる神の恵みに、ただただ感謝です。

2008年8月24日日曜日

あるメールから(2)

Sugar:
今日(23日)は月一の我孫子市でのコイノニヤ(交わり)でした。
最後の40分間くらいの間 あなたの名前をあげて聖徒達が
「あのプロジェクト」とあなたについて熱心に祈りました。
それはとても「御からだ」を感じる祈りでした。


余談ですが、この集まりの中で 
一人のサラリーマンの兄弟が彼の職場で経験した とても不思議な
主の復活の御業について語っておられました:
それまでこの兄弟は 会社の中の非常に険悪な対立関係の
只中に巻き込まれ、とても悩んでいたのです。

しかし我孫子での7月の集まりの後、彼は「会社の中における彼自身の
本当の姿」を神からの光によって見せられる経験をしたのです。
そしてその結果「最早職場のことで悩んでいても仕方が無い、もうあの
状況は主に委ね ただ主に感謝、賛美を捧げよう」と言う結論に達した
のだそうです。そして彼はそれを直ちに実行ました。

それから「3日目」のことです。即ち彼が自分を照らす光の中で
賛美と感謝を始めてから最初に出勤したその日、あの悪い雰囲気が
更に増幅されてしまうかの様な事件が起こってしまったのです。
そしてその日彼が 正にその対立の当事者本人だったのです。
それは一触即発の事態でした。

しかし、何とその直後です、
全く「ありえないような事態」が突如として起ったのです。
先ずは彼の心に不思議な平安と冷静さが訪れたました。そして
その直後それまで どう考えても どうにもならないような職場の悪い
空気の根が全く一掃されてしまう展開となって行ったと言うのです。
事後談ですがその後 彼の中には 会社勤務の間、深い静かな平安が
宿るようになったと言います。
(ごめんなさい、余談が長くなってしまいました。)


M兄弟:
「まだこれまで一度もお会いしたことはありませんが、同じ命で私と
しっかりつながっている我孫子の兄弟姉妹に感謝します。
御からだの一つ一つの肢体、同じブドウの枝であり、途方もない
永遠なる神の命、キリストの復活の命、即ちこの時空ではあり得ない
永遠からの贈り物を 私と共有している兄弟姉妹に感謝します。
愛する兄弟姉妹によろしくお伝え下さい。」

あるメールから

そうだ、あれこれ考えること等いらない、信じるだけ。
「主よ 私はすでにあなたと一つです。私とあなたは既に共に一本の
ぶどうの木です。これはあなたのみ言葉ですから、ただ信じます。」 
この言葉を毎日意識して過ごします。


その通りです。大らかに考えていいのです。「無理なく自然に」が
大切です。自分をあまり観察せず、結果は主に任せましょう。
日常生活では 主があなたの肩をポンと叩くときや
自分でフトそのことを思い出す時に主に向かって
「その告白」をすればいいのです。

後は自分で決めた時間、主との交わりの時、朝や夜などは
ジックリと祈り、「一つに関する真理」を聖書から読み、思いめぐらす
ことは勿論大切です。そしてその時「主と一つであることの甘い感覚」
を味わうところまで行ければ最高です。
しかし、それが無くとも全く焦る必要はありません。感覚は主に
委ねましょう。信じることが総てに優先します。

これは一般論ですが
私たちの心が実は一番重要でしょう。
主にのみ向かうこころ、そのこころがなければ 
単なるハウツーは殆ど意味を持たないと思います。

2008年8月23日土曜日

御からだの祈りが必要です

ある兄弟の為にお祈り下さい。この方 
ある大企業の中でとても大きなプロジェクトを任せられております。

その兄弟の言葉:
今私のプロジェクトを神はこれでもかこれでもかと最悪の状態に
追い込んでおられます。神は「お前ではなく私だ、お前は完全降伏
せよ!」と私に迫っているのです。
今はっきりこれが分かります。はっきりこれが見えます。
私ではなくキリストです!神がこのような状況を与えてくれたことを
感謝します。ハレルヤ、ハレルヤ!
我が父よ、主イエスよ、あなたを心から賛美します。

Sugar の感想:
一般論に過ぎませんが、ヨブ記で見るように、
総てのことは「神の許し」の元に起こります。しかし先ず
多くの場合、神の敵がキリスト者とその環境に攻撃を加えます。
その殆どは罪、肉、この世を通してですが、
中には敵が直接 手を下すこともあるようです。
この場合においては、私達は神に対して「この不当不合法極まりない
悪者」に仕返しをして下さるように「しつこく訴える」必要があります。
ルカ18章の「裁判をする」は「仕返しをする」と言う意味だそうです。
(自分の過失、罪、肉、この世によってひき起こる問題、私たちが
神の法則や自然の法則を無視して起こるトラブルに関しては
当然全く別の対策が要ります。)

にもかかわらず、
私たちの環境の中でひき起こる総ての事象の下には
神の大きな御手があることは明らかです、
神の業が現れるために。


その後 この兄弟からメールをいただきました。以下がその内容です:
祈りの呼びかけを感謝します。Sugar さんが言われる通り 今回 
敵というより神の御手を感じます。これは正に「自分の十字架」を
負うこと、十字架の閉じ込めです。事をなすのは私ではなくキリストですね。
これまでの私の人生の中でこれまでも多くの困難はありましたが、殆どが
自分の力で切り抜けて来たわけです。しかし今回は、事の大小は別にして、
「私ではなくキリストに生きていただく」という思いが強いのです。

2008年8月20日水曜日

レナタさんの経験

シュガーさんへ
私は今日 休日で家でくつろいでいます。
さて妻のレナタからシュガーさんへ次のようなことを
伝えて下さいと言われました。下はレナタの言葉です:

W. ニーの「事実、信仰、経験」を読み終わり、
洋裁を勉強することへの罪悪感から解放されました!
私は今 大好きな洋裁をキリストの中で楽しんでいるという
実感と平安の中にいるのです。
続いて「座す、歩む、立つ」を神の臨在の中で読んでいます。

Sugar の感想:
生まれた時からメキシコの強烈なカトリック風土の中で育てられた
レナタさん、彼女自身の真面目な性格とあいまって、多くの精神的な
束縛やさまざまな宗教的義務感にとても苦しんで来られたようでした。
その彼女にこんなにも早く かくも大きな解放と真理への渇望が
与えられようとは ただ驚くばかりです。

人がある所に集まると

「ふっと力を抜くと次から次から、感謝や賛美のことばが静かにあふれ出し、
今回集ってくれた兄弟姉妹や集うはずだった兄弟姉妹、また集いたくても
集えない兄弟姉妹への想いが私の中を流れて行くのを感じる。
何かが確実に始まっており、動いている。どこかに集まることに特別な
意味があるわけではない。キリストのからだとは何なのかということを、
その奥義を信仰によってとらえることが、集まってそこにいることよりも
重要だ。遠方に住んでおられたり、健康のことや、さまざまな事情で
簡単に集まることが許されない兄弟姉妹には、そのことを強く伝えたい。」

と言うあるキリスト者の言葉に触れた。
人はよく あるところにある人たちが集まると、その人たちを
ある一くくりのフレーズで表現しようとする。 しかしそんなものは何の
意味もないし、私達にどんなフレーズもいらない。
意味のあるのは唯、時空を越えたキリストの一つのからだであり、
必要なのは そこにいた人もいなかった人も 
その奥義を信仰によって捕らえることだけである。

2008年8月19日火曜日

涼し過ぎる夏、近況です

今朝10時 和歌山の妹夫婦が山をおりました。
今晩は新潟のホテルに一泊、明日は今槍ヶ岳山荘でアルバイトを
している次女の洋子チャンを松本で拾い一緒に和歌山に帰るのだ
そうです。本当に仲の良い家族に主の祝福をと祈るばかりです。

36度のウダル関西から、服を3枚重ねなければならない
涼し過ぎる みちのくの8月に驚いた二人。
いろいろな事の合間にさまざまな会話がはずみました。
そこには、そこはかとない穏やかな空気が流れ、とてもよい二泊三日
だったと思います。昼寝をしに来ると言う彼らの夏の阿武隈旅行も
今年で3年目。来年はマイマウンテンにでも登り、オールドアウルスの
ランチなどはどうだろうか。

義弟ももう1年半で退職、退職後は信州に別邸を購入したいとのこと。
それいいですねー、ゼヒ私も行かせてもらいます。穂高に登る日に備え、
私も脚を鍛え直さないと。


台湾の88才の主にある姉妹の山小屋訪問のこと、
何故かその後連絡がありません。どうしたのでしょう、少し心配な
ことは確かです。彼女が来られると言うので、せっかくの関西旅行も
キャンセルしたと言うのに・・。
でもこれもきっと主にとって何か明確な意図があるのでしょう。
主よあなたを信じます。あなたは神ですから。


21日、実家に戻ります。
いよいよ施設を出て、八千代市でアパート暮らしを始める
次男のジュンの為に 買い物の手伝いなどをする日々となるでしょう。
今度戻ってくる山はもう かすかに秋の気配かも知れません。

2008年8月17日日曜日

「奇妙なやり取り」の必要

「私が神の神殿」、ですか?でも何でこんな私のうちに神様が住むことが
出来ましょう。心の中には絶えず戦いがあり、そこにはドロドロしたものが
つまっていて私は全然清くなんかないのです。また「キリストが私のうちに
生きておられる」ですって?
はい確かにパウロさんはそうかもしれませんけれど・・。

信仰によって受け止めればよいのでしょうが、私がそうするととても
ウソっぽくて、無理して信じているなと・・そして信じられない私が明らかに
なって・・これは一体何なのかとわめいているのが、本当の私の姿
なのです。心は荒れ模様、信仰の歩みはなんと難しいのでしょう。
喜んでいるときも確かにあるのです。
しかし実際は上に下にと忙しいのです。


メール有難うございます。
早速ですが今あれこれ 難しいことを言ってもしかたがないでしょう。
ですから今日は敢えてある具体的な「ノウハウ」を試みて見ましょうか。
それは「キリストに自分を重ねること」です。

先ずは
私達の「あらゆる望み」はキリストにしか無いということを確認しましょう。
総ての「よきもの」は絶対的に 唯一キリストから来るのです。
従って先ず、道は「あらゆる善であるキリスト」に自分を重ねるしかない、
と言うことになるのです。この宇宙の中で価値あるものは唯キリストです。
次にそれ故、私がそのキリストを獲得すること、獲得するとは即ち
私がキリストと真に結合され、重なること、私とキリストが完全に一つと
されることが価値ということになります。

そこでもしも仮に
キリストとあなたが重なる等と言うことが本当に在り得るならば、即ち
現実に「あのキリスト」があなたと一つとなると言うことがあり得るならば、
その結果 あなたの身からキリストが現れない筈がありましょうか!
ま、とにかく理屈はどうでも 私たちは何とかしてこの経験「キリストが
私から出現する」に到達したいのです。即ち「キリストと私の一つ」の現れを
この地上においてさえ見たいのです。

御言葉から言えば、
神は既にキリストと私を完全に一つに重ねておられます。先ずそれが
真理、確固たる事実でない とするならば 次に何かが起こって来る
可能性は全くjありません。しかし感謝します、それは天地の間に堅く
定まっている神の真理です。それ故に私達が負うべき責務は唯一つ、
それは信仰、即ち「神のことばを信じ、その上に安息すること」だけ
と言うことになります。
ですから次に、どうすれば「私たちの信仰」を実際に機能させるのか
と言う問題が浮上することになります。

しかしこの段階になると
キリスト者はある試行錯誤に入って行くことになります。私達はよく
次のような祈りをし、ある停滞をさえ感じることが多いのです。
「主イエスよ、あなたに私を重ねます。私をあなたと一つにして下さい。
あ、少し違いました、あなたは既に私をキリストと一つにして下さったの
でしたね、分かりました。 それではただ信じます。・・でもあなたに私を
重ねます、あなたと一つにして下さい」 と言うふうに。しかも、そこには
「こんなことをやっていて 一体どうなるの」と言った感覚さえ残るのです。
それは一見 「奇妙な神とのやり取り」とでも言うべきものかも知れません。

それでは
こういうやり取りは無駄なのでしょうか。いいえ決してそうでは
ありません。神の御前での真剣なこのようなやり取りの時こそ
実に尊く、そして私達に欠くべからざる一定期間であると私は思います。
従ってここで真に大切なものは「神の御前における私達の願い」である
と言うことが明らかになります。私は結局一体何を得たいのか、要するに
具体的に何をターゲットにして人生を歩むのか、と言うことです。私の
心はどこにあるのでしょう、私の心はあの「キリストそのもの」に
フォーカスされているでしょうか。それとも私は所詮キリストと似て非な
ある特定の「私の良きもの」を求めているだけなのでしょうか。

さて 実のところ実際の信仰は
決して見栄えのするものでも大げさなものでもありません。それは
まるで小さな種がいつの間にか手の間からすり抜け 地に落下する
ようなものと言えるでしょう。それはやはり不思議な命の現象なのです。
無論まずそこには「種を蒔くというあなたの意志」が
不可欠であることは 言うまでもありませんが・・。


さてAさん、以上述べた試みをあなたの意志を用いて事あるごとに、
そして思い出すたびごとにやって見て下さい。「主よ私はすでにあなたと
一つです。私とあなたは共に一本のブドウの木です。
これはあなたの御言葉ですから唯信じます」と。
もしこれを続けるならば、即ちあなたの心が神の御前で 真剣に神の門を
叩き続けるならば、ある時その中の一つが偶然に?ヒットしその一個の
とても小さな、しかし純粋なカラシダネのような「命ある信仰」が発芽し、
そしてその後 そこからある確かな天の現象を生ずるのです。

それではその時 
一体どういうことが起こっているのでしょうか。それはこうです:
当然、物理的にはキリストとあなたは離れています。しかし霊的には
即ち 神の目にはあなたとキリストは既に完全に一つとされています。
従ってキリストにある永遠の真理が、即ち何と復活のキリスト御自身が
今地上にいるあなたとあなたの環境の中にさえ「あなたの時空」である
あなたの肉体を介して顕現されるのです。その際、
永遠と時空の間にある「人には渡りえない深い淵」を繋ぐはしごが
唯一 命ある小さな信頼(信仰)なのです。
しかしあなたがこの経験に一度でも到達することはあなたにとって大きな
励ましとなるに違いありません。そのようにして次の経験は 更に容易に
なることでしょう。あなたはあるコツを掴んだからです。

本来実は 
人から復活のイエスが現れるのはとても理にかなっているのです。
なぜなら あなたも彼も全く同じアダムであるらです。あなたは元々イエスと
完全に一つとなるように 神によって造られているからです。だから
キリストの十字架以来 あなたとキリストは一つとされたのです。
その原因は唯一つ、偉大な神の意志と能力です。要するに
神がそうされたからそうなったのです(Ⅰコリント1の30)。くり返しますが 
しかしそこには 「あなたの信仰」が不可欠です、そうです「恵みと信仰」は
全く不可分であるからです。

「そのやり取り」の後は
あまり自分を見ずに自然に振舞いましょう。そのようにしているならば
フトある時 あなたは自分からキリストが現れるのをかたわらに立って
見ることが出来るのです。即ちあなたからキリストが出現すると言う
「復活のキリスト現象」にある日ある時 あなたはハッキリと気づくのです。
その現象はあなたの努力とは全く無縁です。
しかし確かに あなたの心とは深い関係があるでしょう。

その復活のキリストは
①あなたとはまるで関係ないかのように
②しかしあなたしか分からない方法で(他人が気づくことはまれ)
③あなたの普通の生活の中で、あなたとあなたの周辺において
④「小さな不思議」、あの復活の御業の「再現」を行われ、
そしてその結果 あなたは一人 奥深くひそかな喜びに浸ることが出来、
何と更に「幸せ」はあなたの周囲の人々にまで及ぶのです。それが
「祝福の到来」です。しかしその時 あなたに栄光が帰されることは
決してありません。これこそが真の神への奉仕であり、礼拝です。

2008年8月15日金曜日

キリストに自分を重ねる

私が行って、あなた方に場所を備えたら、また来て
私自身にあなた方を迎えます。私のいるところ(私自身)に
あなたがたもおらせるためです。(ヨハネ14の3)

私は既にキリストと共に十字架に付けられました。
もはや私が生きているのではなく キリストが私の内に
生きておられるのです。(ガラテヤ2の20)

あなた方は既に死んでおり、あなた方の命は、キリストと共に、
神の内に隠されてあるのです。(コロサイ3の3)

キリストイエスの中で、共によみがえらせ、共に天のところに
座らせて下さいました。(エペソ2の6)

あなた方は神の神殿です。(Ⅰコリント3の16)

総てはあなた方のものです。パウロであれ、アポロであれ、ケパであれ、
また世界であれ、命であれ、死であれ、また現在のものであれ、
未来のものであれ、総てあなた方のものです。(Ⅰコリント3の21、22)


もしもこれらの「とてつもない」聖書のことばを、神のことばであるが故に
1パーセントも割引出来ないものであるとするならば、即ち 
詩を読むように単に神の美しいことばとして左から右と私の目の前を
通り過ぎることを許さないとするならば、
「今日の天地におられる復活のキリスト」に「自分を重ねる」以外に、
これらのことばを「理解する」ことは到底不可能のように思われます。

2008年8月10日日曜日

盛夏、近況です

昨日午後、
小屋に戻りました。山はやはり涼しいです。夜中、目が覚めて
タオルケットの上に上掛けを一枚重ねなければならない程でした。
グッスリ寝て、けだるい心穏やかな朝を迎えております。
今日からまた暫く山の暮らしです。
こうしてぼんやり小屋のロフトのパソコンに向かうと
何か書く気になるから不思議です。

今利根川の家にいる
妻に送るデスクトップパソコン本体のダンボール詰めを終わった所です。
このパソコンの本体、私がパソコンを始めた当時 ある方から頂いた
ものなのですが、私がどうしても持ち歩きの出来るPCが必要になり、
ノートパソコンに切り替えたので要らなくなっていたものなのです。
ところが妻のパソコンの本体が最近壊れてしまって どうしようと
言う事になり今日の運びとなったのです。兄弟手作りのパソコンが
我が家ではこんな具合にとても役に立っているのです。
本当に有難うございました。

実家では
買った中古の軽自動車に妻が喜んで乗っています。(ハイ、 駐車場
とてもうまい具合に完成したのですよ。これも何だかとても不思議な
感じです。)機械音痴の60歳主婦がオートマながら初志一徹
見事免許をとったのには私もビックリ。息子のケンの移動のためにも
これは役に立つでしょう。私も少しは楽になるのかな。
女性がよく乗っているような形の軽自動車だとイヤだなと思っていたら、
妻の方が乗り気でターボのパジェロミニを買ったのです。これだと
山にも乗って行けると私は内心喜んでいるのです。

明日から
「熊に主意」のケンちゃん家族が泊まりに来られます。どんな 2泊3日に
なるのでしょう。夜クワガタが明かり目がけて飛んで来てくれるかな。
葛尾川で釣りのいいポイントが見つかるかな。
皆で五十人山に登ってみるのもいいかも知れない。

2008年8月3日日曜日

「いわゆる礼拝」は新約聖書のどこに?

日本人が
礼拝ときいてイメージするものは「拝むこと」です。日本人の キリスト者
が礼拝と聞いて思い浮かべる情景はあの「主日礼拝」即ち 最も権威ある
集会とされ「それを守らない者は不信仰者に近い」的な 集まりでしょう。
以下それを「いわゆる礼拝」と呼びます。

今日
いわゆる礼拝はこの日本でさえ 津々浦々において「守られて」おり、
それは明らかに「日本キリスト教」におけるメインな集会です。仮にもしも
それが崩壊するようなことがあれば総ては存続不可能と思えるほど
「日本キリスト教」はそれを中心に回っていると言えるでしょう。
牧師と礼拝堂(チャペル)を伴ったいわゆる礼拝が
今日の「キリスト教シーン」であることは明白です。

それでは2千年前、
パウロ、ヨハネがいた時代、どこにそのようなシーンがあったのでしょう。
もしも今日の様ないわゆる礼拝が「神の御旨」であるとするならば、その
いわゆる礼拝は、使徒行伝のあちこちに出て来なければならない筈です。
新約聖書全体を隈なく探してようやく一箇所あった、ではなく、
そのシーンは頻繁に出て来なければならないのです。

ここである人は
「新約聖書の時代はそれに至る過渡期であったのだから まだだったのだ」と
言うかも知れません。仮にそうだとしても 少なくとも使徒行伝や書簡に
おいて「日曜礼拝は神の御心の中心であるから、ゼヒとも我々はそれに
向かってまい進しようではないか」と言った使徒たちの強い主張や
そのような機運が確実に見られる筈です。(チャペル建築や牧師の活動の
記録が一つ位 出て来てもよさそうなものではありませんか。)

しかしながら
そのようなシーン(①牧師②礼拝堂③主日礼拝と言うセット)は
新約聖書のどこにも出て来ない、と私は思います。
しかしあなたはどう思われるでしょうか。新約聖書に「それはここでは?」
と言う箇所があるならばどうぞコメントをお寄せ下さい。一緒にベレヤの人々
のように「はたしてその通りかどうかと聖書を調べ」て見ましょう。

私達は
単に知識を得たいとか論争をしたいのでは決してなく、ただ神の御心を
誤解したくない、唯御こころが何であるかを正確に知りたい、だけなのです。
もしも「あのシーン」の隆盛が神の御旨であることが明らかになるならば、
私は直ちにそれに従うことでしょう。

2008年8月1日金曜日

熊に主意

きのう突然、役場の車が来たので何かと思ったら 
近所で熊が出たので 山に入らないように、と言うことでした。
わざわざ一軒一軒回っている所を見ると相当確かな情報なのでしょう。

以前 小屋に泊まりに来てくれた小学生のケンちゃんが小屋の
入り口の小道に「熊に注意」の看板を立てました。しかしよく見ると
注意の注のサンズイが無いのです。ですから「熊に主意」です。
熊に主意!これなんだろう。私が熊に食べられそうになった時、
熊に主の御こころが及びますようにと言うことかな。
面白いのでその看板はずっとそのままにしてあります。
それにしてもこの看板を見た役場の人はどう思ったのでしょうか。

薪割りはなかなかよいものです。この所連日その作業です。その前に
チェンソーでカットするのですが、それも面白い。しかし出来上がった
薪を腕にかかえて遠い保管場所に運ぶのは骨が折れます。
さて これから来られるお客様一人一人が小屋にあがられる前、
薪を一本だけ割ってもらうと言うのはどんなものでしょう。
あなたならどうされますか。
今朝、夜が明けたら下山です。戻るのは10日かな。