2008年8月28日木曜日

新・礼拝は24時間(1)

昨晩のことです、
「礼拝は24時間です」の全部が何故か突然消え去ってしまいました。
そのことを知ったコージさんが、彼が取っておられたコピーを先ほど
親切にも送ってくださったのです。(コージさん、有難う!)
それで「これはラッキー」と有頂天の中で、送ってもらったコピーを
眺めながら 今こうして「新 礼拝は24時間」をいきなり書き始めて
いるのです。果たしてタイトルが本当にこの「礼拝は24時間」で
いいものかどうかさえよく考えもせずに、です。
それでも とにかく始めることにします。

新「礼拝は24時間」(1)

礼拝と訳された原語の意味は意外にも
「奉仕する、おじぎする、仕える、求める、ひざまづく」等たくさんあること、
(何故たくさんあるの?)更にもう一つ ドクターK氏によれば それは
何と「ワンちゃんが主人を慕うように 慕う」であることは既に見ました。

そこで
それら「奉仕する、仕える、ひざまずく、慕う」などというさまざまな行為は
一体どの様な特徴を持つ行為であろうかと身構えてよく見ると、別に
身構えるまでもなく、これらはどれも新約時代のキリスト者であれば、
普段の生活の中に適宜自然に現れる当たり前の行為である事が
分かるのです。(なーんだ)

だとするならばです、 
①それら全部を礼拝などと言う「おごそかな」言葉に変える必要があるの
だろうか、 即ちそれら全部を敢えて一つの「礼拝」と言う言葉に
置き換えたり しないで、
②そこに一つ一つ上記の訳語をあててもよかったのではないのか、また
③「愚直なまでの忠実さ」と言うものが聖書というような一字一句を
おろそかにするべきでない本(聖書は先ずは文学ではないはず)を
訳すときに必要な第一の姿勢ではなかったのか、
と言う疑問がやはり残るのです。 (どうしてそうしなかったのだろう?)


ヨハネ4章の「礼拝」と訳された原語について、ドクターK氏曰く:
「ワンコが主人の手をなめるようにキスすること」です。
分かりやすく言い換えると、「じゃれ回る、父の前でじゃれたり、
父をなめたりする」が原義です。

また「みことばざんまい」の別の箇所でK氏は:
「礼拝する」とは「神を愛すること」です。まるで子犬が主人を見つけて
喜び走り回るように愛することです。(ワンコと暮らしている方ならすぐに
分かる)。マーレーは「礼拝する」という単語を「愛する」とほぼ同様の
意味で使用しているはずです。・・ 「礼拝する」を「愛する」に
置き換えてもまったく異論も違和感も感じません。
神を愛することは人間の最高の栄誉です。
・・・とも述べておられます。
多分これらのヒント(情報)はこれから大きな意味を持つことでしょう。

2 件のコメント:

mopoopoo さんのコメント...

犬が主人とじゃれている姿は、帰ってきた放蕩息子と父の姿に似ていると思います。
ちなみに私はダックスフンドと一緒に暮らすのが夢です。

Mr.Sugar さんのコメント...

放蕩息子、
あ、そうですね。これいただきます!
でもじゃれ具合は 父のほうも相当ですね。