2009年7月31日金曜日

魂からの愛(3)

愛とは何でしょう。確かにそれは一面、誰でもが(動物さえも!)
容易に感じることが出来るものです。しかし他面そこには極めて
奥深いものがあります。(確かに愛にはいくつかのレベル、或いは
「本質的な相違」があるようです。)

先人の「魂からの愛」に関するシビアと見える言葉は続きます。彼は
今それらの愛の中でも 最高度の愛「神の愛」への言及に際して、
私達が容易に陥りがちな一つの誤解に敢えて触れつつある
と思われます。もう少しお付き合い下さい。
次回から次なる論旨へと入る筈です。

☆     ☆

主イエスの苦難は今日の信者の心の中で いかに無力になっている
ことでしょう!彼らが主の苦難について語る時、実の所「自分達こそ
主を愛しているのであり、他の人たちとは比べる事が出来ない」
と誇っているのです!これらのことについて語る最中
彼らはあたかも天の民のように見えるのですが・・。

しかし、彼らは実際には「哀れな自己」から少しも離れていないのです。
彼らの言葉を聞くなら あなたは彼らが非常に主を愛している
と思うでしょう。それどころか彼らを褒め賞賛するかも知れません。
ところが、実際は彼らは完全に自分自身を愛しているのです。

彼らは主を記念し、主を語り「主を慕い」ますが、その理由は、実は
それが彼らを幸せに感じさせるからです。彼らがそのように行うのは、
彼らの目的が「彼らの天的な幸せ感覚」を得たいからに過ぎません。
もしもそうであるならば、それは主のためではありません。
そのように主を記念するのは、彼らの「いわゆる霊性」を心地よく
感じさせるからです。

しかし、それらは魂に属し、地に属します。それらは「神から」
ではありません。従って決して霊に属するものではないのです。

★       ★

ケンが入院しました。
しばらくぶりで、今日山に入ります。小屋は無事でしょうか。

2009年7月30日木曜日

魂からの愛(2)

☆      ☆
ここで彼が強烈に訴えていることを 容易に受け入れるキリスト者は
むしろ少ないでしょう。多くの人はむしろ ある種の抵抗を感じざるを
得ないのではないでしょうか。

しかしながら確かに私達は 例えば「聖書にそって」作られた「イエスの
物語」に人が感動すれば、その感動と感覚は必ず「神からである」などとは
決して言えないことを知っています。神により頼むことなど全く無く、
単にこの世の興行目的の為に、極めて美しく作られたキリストストーリーが
「人々の魂」を揺り動かすことは十分あり得ることです。何故ならそれは
人々の魂の感動を獲得すると言う唯一のターゲットの下に、これまた
あらゆる人の魂の力を総動員して作られたものであるからです。

その点にこそ その「キリストストーリー」の根源があるのです。今日の
世相の中で、人々の求めるものはひたすら「魂の感動」です。それ故に当然
人々は真にキリストを愛したからではなく、唯「自分の魂の感動」を得た
ので涙さえ流すのです。その感動の根源は正に人の魂です。従ってその
ような感動の中に、人の命に永遠的な影響を与え得る天の要素が
皆無であることは全く論を待たないのです。

従って事の要点、総ての重要なポイントは それらのものの「根、源」に
あります。「神ご自身と復活のキリスト」と言う唯一の源から発しない、
いかなるものも 神が評価なさることは決してありません。
それが「この神」の極めてユニークで決して譲ることのない特徴です。

そして「キリストの復活以外の一切のもの」に対する神の絶対的な評価が
「あの死罪」だったのです。従ってそれら総ては イエスキリストの中で
死ななければなりません。イエスの十字架とは旧創造の「総ての物、者、
事」に対する神の絶対的な否定であり、復活とは 神の唯一の絶対的な
肯定です。即ち 死を完全に撃破したものだけを神は肯定されたのです。
それが復活のキリストです。従って「私達の神への愛」を含め、あらゆる
ものが 唯復活のキリストからのみ発せられなければならないのです。

今その復活の主なるキリスト御自身が 私達の霊の中におられるとは
何たる事実でしょう!従って私達の「神の器としての魂の感情」はその
霊への完全な服従のもとで、真の神の愛を流し出す可能性があるのです。

魂からの愛(1)

私達は決して「自分で神を愛することが出来る」などと思うべきでは
ありません。生来の私達には本来 神を愛する「真の愛」の
持ち合わせはありません。主は「人の自己」から出て来たものであれば
それがいかなるものであっても否定されます。神は 私起源であると言う
理由の故に「私の美しく見える主に対する愛」でさえ
受け入れることが出来ないのです。

しかしもし私達が 主に対して愛を全く持たない、と言うのであれば 
神は当然 悲しまれます。しかしながらこの他に、私達の主をことのほか
悲しませる理由があり得るのです。
それは私達が主を「人の魂で」愛することです。

もし信者が魂の力で主を愛するなら、それは主を喜ばせることはあり得
ません。信者の愛は、主を愛すると言う目的のためでさえも
「完全に霊の支配の下に」いなければならないのです。

今日 あまりにも多くのキリスト者が「この世的な愛」によって、即ち
「魂からの愛」によって主を愛しています。真に「神の愛によって」
主を愛するのを見ることはとてもまれです。
これは実際にはどのような意味でしょうか。

今日、多くの人々は「人の心で」神の事柄を受け入れています。彼らは
父なる神の愛について語ります。彼らは主を「愛する主よ」と呼びます。
そして主の苦難を記念します。このようにする時、彼らの心は喜びに
満たされ主の愛に「感動」します。

彼らは、この感覚は「主からである」と確信します。ある者は 主の
十字架を思うとき、涙を抑えることが出来ません。それを見ると私達は 
彼らには主イエスに対する言い尽くせない燃える愛があると思うでしょう。

しかし、非常に確かなことは
そのような感覚は「彼らの命」をすぐに「ケロリとして」素通りしてしまう
ことです。その跡に何も残るものはありません。そこには「永遠的天的な
要素」を彼らに与えるものは全くありません。それはまるで
「跡を残さないで」海を行く船のようです。一体、これはどのような
愛なのでしょうか。その愛の根源はどこにあるのでしょうか。

このような愛の源は決して「永遠からのもの」ではありません。それは
「人の自己を幸いにする愛」であることには間違いありません。しかし
それは決して「真に神を愛する愛」ではあり得ません。
それではそのような時、彼らが愛している本当の対象は何なのでしょうか。
それは、彼らが自己の魂で感じる「幸いな感覚」です。彼らは 主の苦難を
外側から見て感動するのですが、そこには非常に大切な事実が欠けている
のです。それは、そのような愛においては、内側にある真理は「彼の命」に
霊的ないかなる影響も与えることが出来ない、と言うことです。

2009年7月29日水曜日

「神にあって」、「神のために」

ところが、
キリスト者が神の剥奪により「自分の愛するもの達」を失ったように見えた
としても、もしもそこに、キリストの死が真に介入していなかった
のであれば、それらはこの世にある「艱難辛苦の物語」と何らの相違も
ありません。従ってそこに神の霊的効力を期待することは出来ないのです。

また、自分の自由意志によって、自ら「自分に親しいもの」を捨て去った
としても、もしそこに、彼の信仰の機能が働き、キリストの死の効力が
「彼の十字架」に伝達されていなかったのであれば、
そこに霊的力を期待することは全く不可能です。

しかし、彼がそれらの一つ一つの経験において、真に「自分の十字架」を
負い、深い死の水の中を通る経験をしたのであれば・・

☆      ☆

彼はいずれある日 自分の心が、他の人を愛することにおいて、
どれ程 純粋であるかに気づくことになります。
その時には既に、彼の愛の中に「自分からのもの」は混入されていません。
彼の心の総ては神のためであり、彼の一切は神の中にあります。

過去において、確かに彼は他の人を愛しましたが、自分自身を他の人よりも
多く愛し、自分自身を他の人よりも重要なものと見なしました。しかし今、
彼は他の人と喜びや悲しみを分かち合い、愛をもって、他の人の重荷を担い
仕えることが出来ます。今彼は 自分が愛したい者を「自由に」愛する
というのではなく、「神が彼に愛して欲しい人」を「神の中で」愛するのです。

彼は他の人を自分自身よりも多く愛すると言うのではありません。
彼は他の人を自分自身のように愛するのです。
彼は自分自身を「神にあって」、「神のために」愛するので、
他の人をも「神にあって」、「神のために」愛するのです。
ですから、彼は他の人を自分自身のように愛することが出来るのです。


人の愛情とは何と取り扱いにくいものでしょう。もしも敢えて私達が
愛情において「神の御こころのもとに服する」のでなければ、いつでも
私達の愛情は「霊の命を損なってしまう」危険性があります。
間違った思想を正すことは比較的容易です。
しかし、間違った愛情を正すのは容易なことではありません。

キリスト者が神に「自分の愛情を管理していただく」ことは、
私達の霊の成長に不可欠なものであることを知らなければなりません。
私達は心を尽くして主を愛し、また主に私達の愛を
「支配していただく」必要があるのです。

☆     ☆

これまではおおよそ、キリスト者が他人をどう愛するか、
と言う問題を取り扱ったものでした。次回からは
キリスト者が神をどう愛するか、と言うテーマに入って行きます。
私達は自分は神を愛していると思っています。彼によれば、しかしながら
そこには極めて容易ならざる問題が含まれているようです。

2009年7月28日火曜日

神の剥奪

愛なる神は、
キリスト者の愛してやまない者、物、事を奪い取られる、
というのは本当です。
何故でしょうか。それは
信者の「永遠の益や福祉」のためであり、それは
信者がかつて「神に自分の総てを献げた」と言う献身を根拠として
行なわれるのです。神は「私の一切をあなたに委ねます」と言う
私の一つの祈りを忘れることはありません。

例えば、神は
「私が愛する者」の心そのものに変化を与えてしまうか、
またある環境を起こし、私にその対象を もはや愛させないように
してしまわれます。
また、私の愛する者が遠い旅に出てしまうか、
或いは この世を去るという環境を許されるかも知れません。

いずれにしろ 神に対するあなたの献身が本物であるならば、
神はそれに応じて「あなたの総てのもの」を剥奪しにかかられるのです。
そして遂に残るは「ただ神ご自身だけ」にしてしまわれます。あなたに
敢えて神が許される状況の中には あなたに近づく死という可能性さえ
あるかも知れません。いずれにしろ、神は時間の中でそれを必ず実行
されます。それはただひたすら「永遠という範囲を人生のスパンとする
あなた」の真の益のためです。

従ってあなたは 何もそのような可能性を漠然と待つ必要はありません。
あなたが「天国の故に、霊的な生活を奪い取りたい」のであるならば、
一刻も早く「あなたに親しいもの」総てを自ら進んで捨て去る方が
はるかによいのです。
あなたは今の時(肉体と時間に留まっている時)を生かして用いる
必要があるのです。なぜなら今は悪い時代であるからです。

それは「神の御こころと願望」を、更新された人の自由意志を用いて 
自ら選び取る という人間最高の行為に繋がるのです。そのように、
確かにキリスト者の真の賢さは 総てを捨て去るまでの時間の長短に
現れる、とも言えるでしょう。(エペソ5の14~18)

いずれにしろ神は必ず ご自身を愛する者の心に、ご自身以外の一切を
放棄するようにと、忍耐強く働き続けられます。私達の中の霊の命でさえも
私達の愛の対象が「神と何か」へと分割され、また「さ迷う」ことを許され
ません。私達の視界の焦点は あたかも「あの鳩の目」(雅歌4の1)
のように、単一にキリストの上にのみ焦点づけられるべきです。

所が多くの場合 私の生来の愛は 動機において間違い、過剰において
間違い、目標において間違うものですが、何とそれらは神にとっては 
汚れとさえ映っているのです。事実神の目から見るとき 私の自己から
出てくる「私起源の愛情」は総て 私の憎しみと同じように
汚れていると言わなければならないのです。

☆     ☆

「あなたの宝のある所に、あなたの心もあります。・・
もしもあなたの目が単一(ダービー訳)ならば、
あなたの全身が明るいのです。」(マタイ6の21、22)

2009年7月27日月曜日

神の意図

以上のように見ると、キリスト者が他の人を愛する必要はない
のでしょうか。もちろん、そんなことはありません。兄弟達を愛し、
敵をさえ愛するように、との聖書の繰り返された命令を見るだけでも、
キリスト者が他の人を愛さないのは 神の意図でないことは明白です。
それでは神の意図はどこにあるのでしょうか。それは:

あなたが他の人を愛する時、神はあなたに対して、
「あなたのために」「あなた自身によって」ではなく、
「神ご自身のために」また「主ご自身の中」だけで
愛して欲しいのです。

もしもそのようにして私達が人を愛することが出来るならば、
その時には、もはや「私起源の愛情」に その地位は無いでしょう。
私の生まれながらの情愛はその力を完全に失っているでしょう。

即ち神は 人々に対する私達の愛において「主ご自身の愛の力」の
完全な支配を受けて欲しいのです。それが成就されるならば、
神が私達に ある人を愛して欲しい時 私達はそれに従うことが
出来ます。また神が私達に ある人との関係を終わらせて欲しい
場合には、私達は直ちに それにも従うことが出来るのです。

このようなキリスト者の姿は その信者における十字架の現れです。
私達の内に、聖霊によって、キリストの永遠の死が深く適用され、
私の魂の命を「キリストの死に渡す」ことを真に経験する時にのみ、
信者は「自分の愛情、天然の情愛」において、
「自己を失う」ことが可能となるのです。

私の魂が死を経過する時、もはや私の愛情が誰かに粘りつくことは
ありません。その時、私は ただ「神の命令」によって導かれます。
私の魂の命が 深い死の段階を経過して初めて、
私達は 生来の「私発の」愛情において あたかも
死んだように力を失うのです。

その後において、私達が他の人々をどのように「新しく愛するか」
について神は 私達を直接導くことが可能となります。そして神は
私達に、過去私達が愛した人たちとの「全く新しい関係」を
「御自身の中で」開始させるのです。

天然の愛情関係はことごとく終結しなければなりません。
私達の愛情は総て十字架の死の中を通り、今や
復活の領域の側(がわ)で 他の人々との新しい関係へと
入って行くべきです。

そのような生活は、私達にとって何と難しく見えることでしょう。
しかし、このように生きた人だけが、
これが何たる祝福であるかを
真に経験しているのではないでしょうか。

2009年7月26日日曜日

ただ神をのみ愛す

私達は本当に知らなければなりませんが、
私達はただ一人の人を愛し、ただ一人の主人に
仕えることが出来るだけです。
この意味は何でしょうか。

それは、
もしも私達が人を愛するのであれば、同時に
神を愛することは出来ない、と言うことです。
それ故、私達は
いかなる人との「秘密の関係」も絶つべきです。

ただ神のみが キリスト者の心を 
満足させることが出来るのです。
いかなる人間も、私達の心に
真の満足を与えることは不可能です。

非常に多くの信者が失敗するのは、
「ただ神の中でのみ得られるもの」を、
「人の中に」捜し求めるからに他なりません。

「人が与える愛」はむなしさ以外の
何ものでもありません。
神の愛のみが 信者の願いと満足とを
初めて完全に満たすことが出来るのです。

神の目から見るならば
もし人が神以外のものに愛を求めるのであれば、
彼の霊的状態は直ちに堕落してしまうのです。

人はただ神の愛によって
生きることが出来るのみです。


私のほかに、他の神々があってはならない。
(出エジプト20の3)

2009年7月25日土曜日

「神に対する愛」の純度(2)

*二種類の「~のために」「~を通して」*
さて結論的に言うならば確かに、キリスト者が「ある者(物)のために」
「あるものを通して」神を愛するのであるならば 神を純粋に真実に
愛することなど到底不可能である、と言うことが出来ます。私達は
ただ単純に「神ご自身のために」「神ご自身を通して」「神そのものを」
愛することが出来るだけです。
これは神たる方の願いであり、また当然の要求なのです。

愛に関して、神が私達に求めておられる最重要点はその純度です。
神に対する価値ある愛は 先ず第一にその純度にあります。それは
100パーセントの純度であるべきですが、実はそれは初心者にも
十分可能であるはずです。(それを現実性のない「高度なキリスト教」
であるなどとするのは間違いです。後日この説明も必要となるでしょう)

方や 神に対する愛の「強さや深さ」は、その信者の信仰の程度に応じて
成長して行くのですから、それには「ある一定期間」を要するのは
やむを得ないことでしょう。神はそのことは十分にご存知です。

しかしあなたが、万事につけ、注意深く「神への愛の純度」を高く保つ
ことに忠実であるならば、その結果としてあなたの信仰と命の成長は、
とても健全なものになることは明らかです。それは命における霊的天的な
自然現象であるからです。実はそこにだけ、即ち「主に対する純粋な愛が
存在する所」にだけ、命の自然で健康な成長が期待できるのです。


・「神に対する愛」の純度を獲得するために、
実際的な十字架を自分の魂に適用すること、
(色々な愛を掴んでしまうのは魂ですから)
・次に生活の種々の場面で注意深く(目を覚まして)
その純度を維持すること、
それだけが私達の日々の責務です。


青いリンゴの実はとても小さく固いのです。
まだ食べるには早すぎるでしょう。
それでも
リンゴであるその純度は間違いなく100%です。
だから、それは必ず
「あの天の忠実なる農夫の手入れ」によって
美しくおいしい果実へと成長するでしょう。
それは、神と人との大きな喜びとなるためです。

「神に対する愛」の純度(1)

*二種類の「~のために」「~を通して」*
神の子供達の多くは、自分の愛する者が自分の霊的な成長に 
どんなふうに妨げになるかを認識しておりません。あるケースを
考えて見ましょう。キリスト者が他のキリスト者を愛するのは当然
ですし必要なことです。しかし、キリスト者への愛でさえ決して
「ある愛し方」に陥ってはなりません。その様な場合でも彼は 
神以外に「別の愛」の対象を持つことになるのです。
要するにそれも「愛の分割」に過ぎません。

ある日 信者が神以外にそのような愛を所有し始める時、彼は彼の中で
「自分にとっての神の重要性」が減少してしまったことを感じざるを
得ないでしょう。そのような場合、彼は神を愛していないのでしょうか。
いいえ、彼はある意味では やはり神を愛していると言えるのです。
しかし、彼が神を愛するその愛の内容は もはや「神ご自身を通して」
「神のために」神を愛するのではなく、キリスト者である
「その愛する者を通して」「その人のために」何とか神を愛する、に
変質してしまっているのです。

さてこの神に対する愛は真実と言えるのでしょうか。彼のために
命までも捨てられた神は本当にそのような彼の愛し方によって
満足出来るでしょうか。答えは当然、強い否です。

信者が「自分の愛する者を通して」「その人のために」神を愛する時に、
神と「その相手」をちょうど半分の量で愛することさえ不可能です。
どうしても彼の心は神よりも、その対象に、より多く注がれることは
避けられません。何故なら そもそも彼は 単に神を「その人を通して」
「その人のために」愛しているに過ぎないからです。

その間、その信者の命が成長することは決してあり得ません。彼の命は
必ず後退します。しかし一見彼の外観には何らの変化もないように見える
でしょう。従ってそれだけ、これはそのキリスト者にとって深刻な事態
であると言えるのです。

それでも なおかつ彼がもしも「あの人は信仰の上で私によい影響を与えて
くれるので・・」と彼の理由を申し立て、その「愛」を「潔く捨てる」
ことなく時間が経過して行くならば、不思議なことに、その相手は彼に
対して別の影響を与え、今度は最悪「神に対する彼の愛を失わせる」可能性
さえ生ずるかも知れないのです。何故なら彼は 神を「その人のために、
その人を通して」愛して来ただけなので、その人の影響でたやすく彼の総て
が揺れ動いてしまうからです。そこにはどうしても肉の介入は
避けられません。彼はそれまで とても危うい信仰の土台に立って来た
ことは言うまでもありませんが、実はそれ以上に危惧される点は、それらは
極めて大きな不純を抱えた「神への愛」であるという事なのです。

もう一点残念ながら、以上述べたような状況はしばしば
今日多くのキリスト者の群れとそのリーダーとの間にも十分起こり得る
一つの傾向であることを申し添えて置かなければならないでしょう。

2009年7月24日金曜日

不思議な喜びに満たされています

*あるメールから*
私達はこのブログに今書かれていることの実際を歩み始めていると
思います。主だけを愛すること、主だけに向くこと…主に向けば主が
見えてくる。主はあまりに素晴らしいから。そして、主以外のものへの
愛は十字架を通って復活の領域で「主からの愛として」戻ってくることが
わかるから何も心配ないです。

「人への心」を置いて主に向く…これは日に何度も、その都度行って
います。人から主へ心の向きを変え、主の約束を思い、主の方法を
思い出す。その時々の心をそのまま主に注ぎ出し、願いを訴え、主が成して
下さることを信じて感謝し、委ね、任せる。その結果、不安、思い煩い、
恐れから、安息と幸いと豊かさ(これらは主そのものと思います)に
移されます。この一瞬の心の操作に十字架がありますね。

十字架の機会が多ければ多いほど、主が生きられる機会が多い。主の
邪魔をしているものを取り除きさえすれば、自動的に当たり前に主は生き
始めてくださいますね。そして、突然、信仰に満たされたのです。

約束の地、復活の領域に足を踏み入れた感じ。
今までとは全く違う領域が開かれてきています。「抜けた!」という
はっきりした違いです。あまりの素晴らしさに、嬉しくて興奮して
寝付けないほどでした。遥か遠くに仰ぎ見ていたものへの扉のすぐ近くに
来ていたのだと気付いています。日々、主ご自身が御霊を通して一歩一歩
教え導いてくださっています。

互いを比べて恐れたり 不満に思ったり 自分を測ったりすることが
激減しました、私さえも!皆がただ主を見、主を愛し、主の御旨が成る
ことを願うように変えられてきている。心が一つになってきている。
何とも嬉しいことです。

私の病気においても、主から与えられている御言葉をただ信じる
ところに導かれ、信じたらそのとおりになる、ということへの信仰が
与えられました。これからまだまだ生きられる…主が真実であること、
そして復活の領域の証をするために…、と言う信仰だけで、もうその
喜びは大変なものでした。生きられる という喜びはその一部に
すぎません。ただ御言葉は本当であるということが本当にわかった喜び
です。これ、本当にわかったら、私たちは冷静でなどいられるはずが
ありません。あまりにすごいことなのです。

どうやら、今回この病を通して主が私に与えてくださったレッスンが
終わりに近づいているのだと思います。
とにかく今、姉妹たちと共にワクワクしています。
これからあちこちで表れてくる証と実が大いに楽しみです。

主に対する心

私達キリスト者にかかわる「神の喜び」は一体どこにあるのでしょうか。
実は 主は私達が、ご自身のためにどれだけ働いているか、どれだけ
活動しているかを見られるのではありません。神はただ私達が純粋に
ご自身を愛するのを見て喜ばれるのです。

エペソにある教会は主のために労苦しました。それにもかかわらず、
彼らは「主に対する初めの愛」から離れました(黙示録2章)。
ですから、主は 彼らのその心の状態を喜ばれませんでした。主が
喜ばれるのは、彼らが「主を愛する愛という源」から働き出すことでした。
しかし、彼らはそうではありませんでした。

もしも主に対する愛情が無く、彼を真に愛していないのなら、たとえ、
外面的に彼のために多くのことを行ったとしても、また世の人々の救い
の為に「私の体を焼かれるために渡しても」また他のキリスト者達の
覚醒の為に日夜いくら叫んでみたとしても、キリストご自身への真の心
がないならば、それが何の役に立つでしょう。

「主のために」大変な努力をしている人でも「主ご自身を愛していない」
という可能性は十分あり得る、と言う事実を私達は知らなければ
なりません。しかしこれがかつてのエペソにある教会の実情でした。

主は常に私達の心を見られます。
「口で」主よ主よと言い続け「体で」一日中主のために労苦したとしても、
肝心の「心で」もしも彼を愛していないのなら、それは神の御前では
いかなる価値もないのです。

どうか、主に対して私達が ただ絶対的な心を持つことが出来ますように。
どうか、神が私に光をあてて「真実 私の活動は何ゆえであるのか」を
見させ、ひたすら主に対する私の愛の心が強められますように。


☆        ☆
ただ100% 主をのみ愛すべきである、と言う
「彼」の論調は続きます。
これを読んで下さっている兄弟姉妹の中には 
「それではキリスト者は、キリスト以外の人やものを絶対に
愛してはいけないのですか?あなたの言う意味は一体なんですか?」
「そもそも人がそんなに純粋になれるのですか?」と
質問したい方々も多いことでしょう。そのお気持ち、
よく分かります。
しかし、もう数回分を 忍耐をもってお読み下さい。
その後 「この今の論調を基礎として」ある展開を見るでしょう。

2009年7月23日木曜日

祭壇に下る火

私達は神以外のものを何と多く愛することでしょう。それは、或いは
アブラハムにとってのイサク、ヤコブにとってのラケルのように、
今私達の最も親しい人かもしれません。

神は私に対して、それらの私が最も愛する者を 敢えて「祭壇の上に」
置くことを求められます。主は「ご自身と競争する私が愛するもの」、
その保留を決して看過されることはありません。私達が所有しているものは
総て、神に対して完全に献げ尽くされるべきです。これは聖書全体が私達に
明らかに語っている当然の主張ではないでしょうか。その意味において今
「ほどほどに」とか「適当に」などと言う言葉は全く該当しません。ただ
単一に神を愛し、他の私の愛を祭壇の上に献げること、それだけが、
キリスト者が霊の力を得る方法です。

献げ物が祭壇の上に置かれる時、その時初めて、火は天から下ります。
祭壇(十字架)が無ければ、天からの火はあり得ません。私が十字架を
負うことなしに、即ち「私の愛する総てを主に献げること」なしに、
どうして聖霊の力を見ることができるでしょうか。祭壇にはその上に
置かれる献げ物は欠かす事が出来ません。何故なら天からの火は、ただ
祭壇の「いけにえ」のみを焼き尽くすからです。

兄弟達よ、頭で十字架を理解することによって、或いは、十字架について
語ることによって 聖霊の力を得ることは不可能です。聖霊の力を
得るのは、ただ 総てを献げ尽くすことによってです。
もし私達に、まだ寸断してない秘密の関係があるのなら、またもし私達の
心の中に 羊や牛、或いはアガグを神に献げることを惜しんでいる部分が
少しでもあるのなら、私達を通して現される聖霊の力を見ることは決して
出来ないでしょう。

キリスト者が「心を尽くして主を愛すること」がいかに重要であるかを、
私達は決して無視することが出来ないのです。何故なら、神に対する
キリスト者の愛以上に神の心を満足させ得るものは他には
あり得ないからです。それは神の心なのです。

☆    ☆
これは実体験から得た彼自身のリアルで切実な証でもあります。
それにしても、創造主が それほどまでに私達を愛されるとは!

2009年7月22日水曜日

愛は分割されてはならない

神はキリスト者達が完全に「ご自身のみを」愛することを要求
されます。主は信者の心が「ご自身と誰か」、或いは「ご自身と
何か」に分割されることに決して寛大ではありません。たとえ信者の
愛の大部分が主に対するものであったとしても、それでも主は
喜ばれないのです。

主は私達が自分の愛する者や物を、完全に手放すように求めて
おられます。神の要求は正に絶対的です。神はご自身の子供達の
愛情を、他の人やものが獲得することを少しも許すことが出来ません。

更に主は 私が「私流のやり方で」主を愛そうとすることを
願われません。神は私達が「神ご自身に従って」ただ神を愛すること
のみを願われます。こと愛については、主は私達が絶対的であることを
願われます。神はあなたの愛を独占したいのです!
主は本当に「ねたむ神」です。(出エジプト20の5)

非常に残念なことに、あるキリスト者達は「彼らが愛するものを
自由に愛し、また同時に主を愛することが出来る」と思っています。
彼らは、自分の愛するものを愛するのなら、同時に主を愛することは
不可能であると言う事実をまだ認識しておりません。


しかしながら、もしも私達の愛が決して分割されることなく、
完全にただ主にのみ献げられるのであれば、その時、信者の魂の命、即ち
「全く自分本位であった魂の命」はある決定的な致命傷を受けるのです。

「私はあなたの他に誰を天に持ちえよう。
地にはあなたのほかに慕うものはない」(詩篇73の25)

私達も神に向かい、この詩篇記者アサフのように高らかに言うべき
ではないでしょうか。「地にはあなたの他に慕うものはない!」
その時、私達は何と素晴らしい命の享受と解放を経験することでしょう。

「心を尽くし、魂を尽くし、思いを尽くして、主なるあなたの神を愛せよ。
これが大切な第一の戒めです。」(マタイ22の37、38)


☆      ☆
「もしも私達の愛が決して分割されることなく完全に ただ主にのみ
献げられるのであれば、その時、信者の魂の命、即ち全く自分本位
であった魂の命はある決定的な致命傷を受けるのです。」

それは何故でしょう。それはキリストの十字架に連結された
「あなたの十字架」には「生来のもの」に死をもたらす天的永遠的
神の力があるからです。その十字架の力があればこそ、初めて私達が
「神をのみ愛する」という可能性が生ずるのです。

しかしそのためにはあなたに対し、
ヨルダン川の死の水の中へと踏み入れる、
実際的な「小さな」一歩が要求されなければなりません。
なぜなら神は、一度人に与えられた自由意志を
とても尊重されるからです。
神にはあなたの信仰という
「協力」がどうしても必要なのです。

どうかあなたが、あなたに迫らずにはおられない
神の切実な愛の要求を 真に受け入れて下さいますように。

2009年7月21日火曜日

主に私の愛を献げること

キリスト者の経験において、おそらく最も難しい事は愛情に関して主に
服従することでしょう。しかしながら神は 何と他の何物よりも 私達の
愛情に最も注意を注がれるのです。神の「要求」は、信者が先ず自分の
愛を100パーセント神御自身にのみに献げ、「真に神を私の神とする
こと」であり「真に主を自分の主とすること」です。

私達はキリスト者がしばしば献身について語るのを聞きます。私達は
献身が 信者の霊的生活への第一歩であることを知っています。それは
霊性の到着点ではなく、献身した時に初めて「霊性への行程」がスタート
すると言うことです。献身は私達を聖別されて行く場所に導いてくれる
のです。従って先ずは献身(即ち自分の「総て」を主に献げること)が
なければ、将来 霊的な生活が存在する可能性は全くあり得ません。

さて私の献身において、献げるべき最も大切なものは私の愛情です。
キリスト者の献身が本物か否かは、真に私の愛を主に献げているかどうか
で分るのです。愛情は献身の試金石です。実は自分の時間、金銭、能力、
職業その他多くのものを主にささげることは比較的容易です。しかし、
私達の愛情を実際的に「主に献げ尽くすこと」は
決して容易なことではありません。

もちろん私達が「キリストを愛さない」などと言うはずはありません。
むしろ私達は気楽に「私は心から主を愛します」と叫びます。しかしながら
私は、主を愛していることは愛してはいるが、実は主以外の誰かを(或いは
何かを)第一とし、主を第二第三としているのかも知れないのです。また
主を愛するとは言うものの、本当は単に「自分自身の愛情」をひたすら
見つめ、それを後生大事にしているだけなのかも知れません。ということが
事実であるならば、私はまだ主を「完全には」愛していないのです。

私が持つべき極めて重要な認識は、もしもキリスト者であるならば、
何よりも最初に、主なる神に対して私の愛情が100%献げられねば
ならない、と言うことです。もしもそうでないのであれば、事実として
私は神に対して「まだ何も献げていない」ことになるのではないでしょうか。

☆       ☆

私の手元に持っている愛が、神にだけ100パーセント献げられるので
あれば、私の元に 愛はもう1パーセントも残っていないことになります。
その時、神以外に献げる私の手持ちの愛は全くゼロです。ですから
私の愛の対象は全部神です。私は完全に神しか愛しません:
神は先ずこのことをキリスト者に求められます。

しかし、不思議なことですが、その時になって初めてキリスト者は
「他人を自分と同じように愛する」ことが出来る筈です。何故なら
その時あなたは自分自身を完全に離れ、ひたすら純粋に「神のために、
神の中で、神の愛によって」人を愛するようになるからです。

大筋以上のようなことを彼は後のページで語っております。
もしもそれがキリスト者にとって可能な実際であるならば、
それこそあの「山上の垂訓」の成就ですね。

2009年7月20日月曜日

霊的な力と代価

前回の「人々を引き付ける力」が要求される働き人達が、
真実をこめて求めるべき「本来のターゲット」とは一体何でしょう。
それは他ならぬ「霊的な力」です。彼らは自己の能力を発展させて
魅力的な伝道者になろうなどとするのではなく、単一に
キリストにある真の「霊の力」を求めるべきです。

しかしながら、真の霊の力は、ただそれを強く願うだけで与えられる
ものではありません。それには実際的に「代価が支払われること」
が強く要求されるのです。

今それを簡略に言うとするならば以下のようになるでしょう。
もしも私達が 本当に自分の感情に対して死んでいるならば、結果として
私達はごく自然に「霊の力」を持つのです。私達が霊の力に欠けるのは、
余りにも多く自分の感情に従って生活しているからです。そして、
私達には あまりにも欲望、自分の好み、感覚が多いからです。

もしも私達が 確かに自分の感情に従って歩まないのなら、また総ての
ことで「自分自身を喜ばせる欲望と行為」を死に渡すなら、私達は
とても自然にキリストの命における力と能力とを見るでしょう。

それはキリストの十字架のより深い死が、十分私達を霊的な力で満たす
ことが出来るからです。これ以外に道はありません。十字架が私達の
欲望を対処し、私達を神のために生きさせる時、霊の力は私達から
静かに現わされるでしょう。

もしも信者が霊的な働きにおいて、「自分の感情に打ち勝つ」
(キリストの死の適用によって)のでなければ 感情は多くの方法で
私達の前進を明確に阻むでしょう。感情が影響を及ぼす限りにおいて、
信者の霊は感情を支配することは不可能です。

従ってその人が「神の最高のみこころ」を成就することは出来ません。
感情はあらゆる種類のものを用いて、彼の働きの前進を妨げるからです。


☆     ☆
私のような者に、上記のような物言いは
なかなか出来るものではありません。

「彼」はその奉仕の生涯において極めて過酷な代価を払い続けて
来たと言えるでしょう。しかしながら、主によって彼の自我が
奪い取られ、彼の中の旧創造を総て献げ尽くしたその墓の向こうにおいて、
彼が真に経験した、卓越した「霊の命の完全さ」と「御国の実際」
を思うとき、彼は人の払うべき「ほんの小さな代価」について
どうしても私達に語らざるを得なかったのではないでしょうか。


以上で「感情」についての総論はひとまず終りです。
次回はその各論として、先ず「愛情」です。
そこでは、更に詳細に述べられる「代価」への言及は
どうしても避けられないことでしょう。

2009年7月19日日曜日

伝道者の魅力

キリスト教の世界において今日強く求められているものは
よき働き人であり、更にその伝道者に「多くの人々を引き付ける力」
があるかどうか、と言うことではないでしょうか。

この時代において、もしも彼に様々な手段を駆使して人々を
引き付ける能力があるならば、要するに人々から見てその伝道者が
魅力的ならば、彼は有力な働き人なのであり、きっとその働きは
成功するだろうと見るのです。逆に人々を引き付ける力に欠ける
のであれば、働き人としては不適格であり、その成功はまるで
おぼつかない、とされるのです。

しかしながら、もしも以上のような「キリスト者の働き」についての
評価が正しいとされるならば、そこには「根本的に大切な何か」が
完全に欠落しているのではないでしょうか。そもそもキリスト者の
働きとはそのようなものなのでしょうか。例えば私達が使徒行伝
などを読む時、その様なものを高く評価するヒントの
一かけらでさえ見出すことが出来るのでしょうか。

「昨日の」使徒の意図は、「総て魂に属するものをことごとく
覆ってしまうこと」でした。何と「天然に属するもの」は総て
死の十字架に付けられなければならない、それがあの使徒の
明確な主張だったのです。

それでは「根本的に大切な何か」とは一体なんでしょう。それは
彼の腹から、聖霊と一つになった純粋な清い霊が流れ出ているかどうか
と言うことであり、彼の人間的魅力や能力などではありません。
そのような多くの人々を吸引する人の魅力が聖霊の働きを助ける
ことなど決してあり得ません。従って逆に、ある兄弟がたとえ、人を
引き付け、人を沢山集める能力に欠けているとしても、それで
彼が霊の働きを妨げてしまう理由には決してならないのです。

いずれにしろ、働き人が実際的に日々自分の魂の命を否み、真に
「霊に従って」歩まないのであれば その働きの結果は総てむなしい
ものであり、神がそれを評価することなど全くあり得ません。

2009年7月18日土曜日

「婦人の頭のおおい」と感情

使徒パウロは、総て女の人は祈ったり預言をしたりするとき、
頭におおいをかけなければならない、と言いました。これは一体
何でしょう。この事については人々の様々な説明や見方があります。
どの解釈が正しいのか、今ここで決めようとは思いませんが、
一つのことは明らかだと思います。

その意図は一つに「感情の働きを阻むこと」です。彼は人の生来の感情
から出てくる一切を完全に覆ってしまいたかったのです。特に婦人が
宣べ伝えたり祈ったりする時、容易に人々の感情を刺激してしまう
傾向があります。おおいと言うものは身体的に言えば、頭を覆う
だけでよいのですが、これを霊的に見るなら、その目的は「感情に
属する総てのもの」を完全に覆ってしまうこと、即ち「感情を死に
渡す」ことです。これは十字架です。

聖書では男は頭をおおいなさい、とは言われていませんが、
霊的な意味では 兄弟達も同様にやはり頭、即ち「思い」のみならず
感情をもおおう必要があるのです。

このことから、感情というものは 神の働きにおいて、容易に表に現れて
しまうやっかいなものである、ことを見ることが出来るでしょう。それを
より詳しく言うならば、キリスト者は総て、私達の魂にある感情の命、即ち
「感情を動かす生まれながらのエネルギー」を完全にキリストの死に渡す
必要がある、と言うことです。

さもなければ、聖霊は私達において、私達の魂の一機能(感情)を
神の器として自由に使用することが出来ないでしょう。
私達の生きる力の総ては完全にただ聖霊から来なければなりません。
本来キリスト者の生きる力即ち「命」は私達天然の人の中に存在する
はずがありません。聖霊にある「キリストこそが私達の命」でなければ
ならないのです。ただキリストだけが私達の総ての力です。

☆    ☆
ここで言う「預言」とは未来についての予告のみでなく
「神のために立って語ること」を意味しているでしょう。

2009年7月17日金曜日

ジョイフルホンダのスズメ

山形温泉旅行のおみやげ話 楽しく拝読。
よかったですね。
福島にも行かれた!
それは何だかとても嬉しい。


最近は私、午後 本を読んだり祈ったりするために 
ジョイフルホンダに一人で出かけております。
涼しくて広いのでとても快適なのです。

そこのレストランのスズメ達(もちろん野生の)は 
パンくずを拾いに なれなれしく
人のすぐそばまで来るのです。
いやかわいいものです。

それで今日はこれから
米を持参で 出かけます。

「人に永遠の命を得させること」と感情

人に神の福音を伝えようとするとき、私達は或いは いろいろな
方法を用いて感動を与え、キリスト教に対する興味を持たせようと
するかも知れません。また人に過去を悔いさせ、悲しませ、
恥ずかしく思わせ、そのようにして来るべき裁きを恐れさせようと
努めるかも知れません。更に人にキリストを賞賛させ、そして遂には
他のキリスト者と接触することを願わせることに成功するかも知れません。
その時その人はもう素晴らしいキリスト者のように見えることでしょう。

しかしそれだからと言って、その人が再生(新しい永遠の命を受けること)
を受けたわけではありません。興味、後悔、悲しみ、恥ずかしさ、恐れ、
賞賛、願望、あわれみ、喜びなどを感じさせることに成功したとしても、
それらは単に種々の感情の作用に過ぎません。人はそれらの全部を
体験したとしても、依然として彼の霊は死んだままなのです。

何故なら、彼はまだ「新しく生まれて」はおらず、彼の「霊の直覚
において」神を知ったのではないからです。それらは総て感情の作用に
過ぎないのであり、それらが真の再生を証明するわけではありません。
再生の現れとは、人の霊が生きること、霊が生き出すことであり、
再生された人の直覚において神を認識する(神を知る)ことです。

もし私達の目的が人々に「キリストの命を得させること」であると
分かっているなら、むしろ感情を用いて彼らにキリスト教を認めさせ、
キリスト教に好感を持たせようなどと試みるべきではありません。

人は本来神の命に欠け、その霊は死んでいること、それ故に「人の霊を
新たに生かすこと」こそが真の必要であることを私達がハッキリと知る時、
自分自身に頼ってなされる働きは総てむなしいことを認識するでしょう。
どれ程人が変わったとしても、それは その人の「自己と言う範囲」の中で 
ある変化が起こったに過ぎません。彼はその範囲を一歩も出たわけでは
ありません。要するに彼は感情に与えられたある感動によって
生来の「彼の魂の中で」ある変化をしたに過ぎないのであり、
彼の霊に決定的に永遠の命が分与されたのではないのです。
それだけでは神の御前においては何らの価値もありません。

ですから「霊的目的には霊的な方法を必要とする」という事実を
私達が真に見る事が出来ますように。私達の霊的な目的は
人々を再生させることです。それ故私達が働くとき、
ただひたすら「霊的な方法」に頼るしかない筈です。

☆    ☆
再び「感情」の総論に戻って来ました。

2009年7月16日木曜日

感覚の生活と本分(2)

信者はキリスト者の最高の生活が「人の本分」と矛盾するものでは
ないことを知るべきです。ローマ書、コロサイ書、エペソ書の後ろの方
を読むとき、キリスト者は「人の本分」を果たさなければならない
ことが分かります。

キリスト者のあるべき生活は、決して限られた場所と時間に限定される
ものではありません。それはいつでも、どこででも十分に表現される
べきです。従ってここだけは神にいてもらいたくない「私だけの場所や
また時間」などあるべきでありませんし、また神の前では比較的低劣な
時間帯などもある筈がありません。家事を行うことと、メッセージを
すること、祈ること、病床に伏していなければならないことの間に全く
何の優劣もないのです。キリストの命は、ありとあらゆる私達
キリスト者の生活を通して表現されなければなりません。

現在おかれている私の立場と状況に対する不満(この状況では 本分を
果たすことができないとする不満)は、実は私達が「感情の生活」を
している結果です。私達が反抗する理由は「私が願っている私の幸い」が、
この状況においては得られそうもないと思うからです。しかし本来、
キリスト者の生活は決して「自分の幸い」のためではありません。

それでは何故 私達は幸いを求めるのでしょうか。なぜなら、私達が
陥りがちな「私の感覚主導の生活」は、私に与えられた本分を重んじ
なくてもよいからです。しかし信仰の生活はそうではありません。
神に対する私達の愛は、私達の友人(周囲にいる人々)や敵に対して、
私の本分を捨てるように求める筈はありません。もし私達が
総ての事柄で、総ての時間、神と結合しているなら、あらゆる人に
対する私の本分が何であるのか、どのようにして彼らを助けるべきか
を知っている筈です。


Sugar 私見:
7/10の続きです。これは感情についての総論ではなく、
そのもとの1項目、「感覚の生活」の一部です。先回、うっかり
この部分の紹介を忘れてしまったのです。

2009年7月15日水曜日

神の愛は本気です

「私は今 一日中 
十字架を離れることが出来ないのです」
と言うあなたのお言葉、
実に貴重なものとしてお受け致しました。


「人の中の旧創造すべてを処する十字架」
それが今 生きてあなたの前にあるのですね。
それにしても、考えられないほどです、
旧創造の「総てを」とは。

神が与えたあなたの十字架、
それが 単なる美辞ではなく、
ある日私達の手が触れる現実となり
そして私の目の前に迫って来るとき
殆どのキリスト者にとって それでも
自分の中に強い抵抗を
感じないわけには行かないでしょう。

しかし十字架は
私とあなたを決して逃がしはしないのです。
なぜならば、
そこには、私に対する神の愛という
とても確かな裏づけがあるからです。
だから私も進んで、そして喜んで「それ」を捨てるのです。

これは確かに、
人の魂の感覚など物ともしない
この世に存在するあらゆる実感を超えた実体・信仰
と言う驚くべき賜の所産です。
それは明らかに人に訪れる最初の奇跡であり、
決してこの世のものではありません。

この道を真に歩もうとするキリスト者に対し 
真の「甘美さ」、即ち永遠の世界において 
決して動くことのない「御父と御子の間にあった甘美さ」
にさえ到達させようとする
神の本気の取り扱いは何と真実なことでしょう。

2009年7月14日火曜日

あるメールから

私達はともにこれから
主の十字架の死のパワーを見せていただこうと思っています。

すべての取り扱いは結局のところ、私たちが世にあって主を知ること、
そして、主の御愛を本当に知ることの幸いにあずかり 主の御からだ為の
器となるために 妨げになっているものを処理することが目的なのでしょう。
つまり、「神が神である」ことを私たちが学ぶためのお取り扱いですね。
主に明け渡した者達に対しては、決して敵も大きなことはできません。
いや、敵がすることは「主の御手の中で都合の良い道具となる」
だけですね。

苦しいことを経る中で「感情や体の反応」を客観的に見て、それなりに
対処することもできるようになって来て 翻弄されることが少なくなり、
とても楽になりました。

世の暗闇の中で 私たちは神を知り、感謝し、主そのものである
平安、喜びを享受しつつ、真に主に寄り頼み、主を礼拝する者と
なって行く。求める者は皆その過程にあるのでしょうね。
元気な人たちを羨ましいとは思いますが、でも、もっと素晴らしい
ものを知り味わう機会を与えられていることを感謝しています。

読むことも、PCの前に座っていることも
あまり簡単ではなくなってきています。
これからは ますますそうでしょう。
でも主は真実であり、十分です。

主の愛を心から感謝します。

霊の働きと感情

別のところでも強調したことですが、ただ霊だけが
「霊の働き」をすることが出来ます。総て他の働きは
霊的には何らの価値もありません。

今日、人々は人の心理に多くの注意を払っています。主の働き人
の中にも熱心に心理学を学んでいる人がいます。もしも 自分の
メッセージが人々の心理に受け入れられるなら、多くの人を捕らえて 
彼らを主にもたらすことが出来ると思っているのでしょう。しかし
この心理というものは所詮人の感情の作用です。感情に頼ることは
全く霊的な意義はありません。

私達は、人の最大の必要は再生、霊の中の再生であることを
知っています。ですから、もし人の死んだ霊が生かされ「非受造の命」
(創造されたことのない神の命)にあずかり 再生された霊に、聖霊を
内住させることが出来ないなら、どんな働きも全く役に立ちません。
もし信者の働きの目的が、命を他の人に分け与えることでなければ、
その宣べ伝えの結果は、人に悪魔を拝むように勧めるのと少しも
違いがありません。心理学は人に命を得させることは出来ません。
聖霊御自身が働くのでなければ、一切はむなしいのです。

感情は完全に天然に属するものであり、それは神の命を源とする
ものではない と言うことを信者は認識しなければなりません。
どうか私達が、感情には「全く神の命はない」ことを 
本当に知ることが出来ますように!

ですから、涙を流すとか、悲しい顔をするとか、或いは声を出して
泣くなどして、感情の力を用い、人を救おうと考えてはなりません。
総ての感情の働きは「人の暗くされた死せる霊」に対しては、どんな
方法をもってしても いかなる影響も与えることは出来ないのです。

聖霊が人に命を与えるのでなければ 誰も命を受けることは出来ません。
もしも私達が聖霊に頼らないで感情に頼るのであれば、私達の働きは
総てむなしいものとなり、真の価値ある効果は全く期待出来ないのです。
感情は決して人に命を与えることは出来ません。主のために働く人は
ハッキリと見なければなりません、もしも自分に頼るならば、
人の中に神の命を生み出すことなど全く出来ないと言うことを。

*Sugar 私見:
「感情」の総論の中の「霊の働きと感情」に入りました。
この部分の紹介は多分あと2、3回を要するでしょう。

2009年7月13日月曜日

ねたむ愛

この道は一つの原則があるだけであり、自己のための余地は
残されていません。神の御こころからの少しの逸脱でさえ、
私達をこの道から運び去るでしょう。
魂の命が消滅させられ、自分の習慣、好み、願望、切望が
一つ一つ砕かれ、もはや、私の中の何ものも神に反対しなくなる時、
その時必然的に、私はそれを 困難な道であるとは感じないでしょう。

残念ながら、多くの信者達は門にも入っておらず、この道を
歩いてさえいません。またある人は忍耐がなく、甘美な地点に
到達する前にこの道から離れてしまいます。


今朝 以上の言葉に対する
「あなたの真摯な文章」をもう一度 読み返しました。

「習慣、好み、願望、切望が一つ一つ砕かれ、
もはや、私の中の何ものも神に反対しなくなる。」
これは決して ヨハネの書簡で言う「罪なき完全」のことでは
ありません。「罪なき完全」は当然あり得ません。それは偽りです。

しかしここで言われているのは 
「ある段階に到達した信者達」の堅実な様の描写です。
このような信者はあり得ないのでしょうか。
イエイエそんなことはありません。
私達はあの多くの証人に
雲のように取り囲まれているではありませんか。
(ヘブル12の1)

今日のキリスト者にはある種の 根拠のない「あきらめ」がある
ように思います。(それも敵の企てではないのですか)
ですから、「間違った霊性」が信ぜられ宣伝される可能性があり、
また「習慣、好み、願望、切望」は神が許しているからいいのだ、
神はこの世のお父さん以上に、度量のとても広いお方ではないのか、
と自らを慰めるキリスト者も多いのです。

ここで言う「習慣、好み、願望、切望」は、
神に隠れた所で求める、神から独立した、
「私の世界」の中の、
私一人の為の、私のための
「習慣、好み、願望、切望」と言う意味に限定されます。

もしもそうであるのなら、
私個人に対する「神のねたむ愛」は それらの一つたりとも 
ただの一分間さえ許すことは出来ないはずです。
例外的にその点においてだけは 
神の度量も極めて小さいのです。

その「死と黄泉のような愛」の故に、
「私」のための「習慣、好み、願望、切望」が
真に私の深刻な悩みとなり、
次にそれらの一つ一つが丁寧に
私の心からの祈りの中で
キリストの死に重ね合わされる時、
キリストの十字架の霊的な死の力は
私の十字架へと 時空を超えて確実に伝達されます。

その後 ある時に至り、 
確かな天の「殺す力」が 
私にさえ フトありありと
確認されるに至るでしょう。

☆     ☆

多分、私の分を超えたであろう
このような発言を
どうぞお許しくださいますように。

2009年7月11日土曜日

一つの実際的なアドバイス

もしキリスト者が内的に混乱しているならば「そのような時
神が彼を導くことはあり得ない」と言うことを覚えておくこと
だけでも益があるでしょう。これは多くの失敗から彼を守ります。

心が混乱し、感情が騒いでいるときに、決して何事かを決定
したり始めたりするべきではありません。もしもその感情の
おもむくままに行動するならばきっと間違えてしまうでしょう。


感情が混乱状態にある時には「思い」も信頼できません。思いは
感情によって大きな影響を受けるものです。一旦思いが弱くなると、
何が正しく何が間違っているかを見分けることが非常に難しくなります。

そのような時には、同時に彼の「良心」でさえ頼りになりません。
感情が乱れ、思いが欺かれている時、良心は正しいか間違って
いるかを正確に見分ける標準を失っているのです。

そういう状況においては、信者が何を決定しようと、それは
不正確になり、その行動はあとあとまで悔いを残す結果と
なるかも知れません。


感情の乱れを感じたなら、キリスト者は意志を用いて感情を
拒絶し、感情の動きを停止しなければなりません。
感情が揺れ動かなくなり、完全に静かになった時にのみ、
人は正しい決定をする可能性があるのです。

いずれにしろ、生活の中で信者は、なるべく自分の感情が乱される
ような事態を招かないように注意しなければならないのは
やはり当然のことなのです。


Sugar 私見:
再び「感情」の総論に戻りました。今ようやくその総論の
終わりに近づいています。

このアドバイスで言われているように、日常生活において
私達が「自分の感情をおさめようとする試み」は決して
無駄なことではないでしょう。
むしろ「霊によって感情を支配出来る」キリスト者であった
としても、絶えず目を覚まし、感情に対して目を配り続ける
と言う配慮は やはり欠かせない事ではないでしょうか。
「霊的な人になれば自分を放棄し、成り行きに任せても、聖霊が
彼の総ての責任を取り、自然にその人を霊的な状態に守られる」
などとするのは完全な幻想です。

2009年7月10日金曜日

感覚の生活と本分

キリスト者が「感覚的生活」によって支配されている時、
彼は他の人々に対して果たすべき彼本来の本分をなおざりにする
かも知れません。なぜなら感覚の生活は自己を中心とするからです。
そういうキリスト者が人々(キリスト者と他の人々)の必要に
真に心を留めることはないでしょう。

信者は感覚ではなく、信仰と意志を用いて自分の本分を果たさなければ
なりません。本分を果たす責任は感覚にはよりません。他の人に対する
私達の本分は定まっていますし、自分自身の働きに対する本分も定まって
います。それは確固としたものであり神によるのです。それらは決して、
感覚によって軽々に変わるものではありません。本分とは「原則に
従って」成し遂げられるべきものであり、それは私達がどの様に感じるか
によって変化する事はあり得ません。

感覚によって支配されているキリスト者は、もし彼の主との
交わりが非常に幸いならば、そのような時間を深く愛します。
彼が一旦、楽しい感覚の中で幸せを経験する時、彼の最大の望みは、
出来るならいつも主と共にいて、自分の周りの他の事柄をあまり
顧みることなく、一日中その幸いの中にいることです。
そのようなキリスト者は、出て行って働くことを好みません。何故なら
世に出て行くならば、さまざまな誘惑と困難が避けられないからです。

彼が主と顔を合わせている時、自分が聖く勝利であると感じます。しかし
いったん自分自身の本分を果たすために出て行くなら、彼は以前のように
敗北し、自分が汚れていることに直面しなければなりません。それは彼に
とっては非常に辛いことです。彼は自分の本分を「世的なもの」のように
考え、聖くて勝利を得た自分が関心を持つことではない、と考えるのかも
知れません。ですから、主との交わりを持つ時と場所は
非常に大切にするのですが、彼の幸いを妨げる彼の本分に対する
責任はおろそかにしてしまうのです。

もしもこれが実際の親ならば、そのような親は子供を養育することが
出来ません。まともな親であれば 育児を楽しいとか楽しくないとかの
感覚でするわけではありません。(親は育児の喜びを感じることが
ないと言っているのではありません)同様に、感覚的なキリスト者も、
主に忠実に仕えることは難しいのです。彼らは内心 これらのことは
世的で些細な事に過ぎないのであり、自分は霊的で素晴らしい
ものを追及しているのだから、自分の様な者が関心を持つ必要は
ないとするのです。これは極めて大きな誤解です。


この理由は、彼はまだ十分「信仰によって」生活していない
ことによります。彼はまだ煩雑な日常生活においては、神との
結合の中にいないのです。

だから彼は隔離された特別な時間と場所の中で神と交わることが
出来るだけです。彼は「総てのことで、24時間」主の臨在感覚が
あろうとなかろうと、ただ信仰によって見えない主を仰ぎ望み、
主と共に働くことをまだ学んでいません。彼は普通のわずらわしい
人間生活の中で、どのようにして主との結合の中にあるべきかを
まだ知らないのです。彼が神を経験する範囲は、
ただ感覚の中に制限されています。

ですから、彼は山に留まり一人長い間、主と共に住むことは喜びますが、
山から下りて来て(人間生活の中の)悪鬼を追い出したくはないのです。


Sugar 私見:
先回までの掲載は先人による「感情に関する総論」の一部でした。
総論の後は 愛情、欲望、感覚の生活、信仰の生活、という各論に
移ります。今日の紹介は その中の「感覚の生活」の小さな部分です。

簡単に述べられた「事実→信仰→経験」に関するメッセージはよく
耳にもし、私達も「分かった積もり」になり勝ちなのですが、実は
それは「極めて大きな森」のような巨大なテーマであることが
分かります。その一部でさえ安易に入り込むことは出来ません。
感情や感覚と言う、実際生活で扱う段になると非常に難しい問題も、
この巨大テーマのごく一部に過ぎません。

また、この森に入り込むには常に「全体と詳細部分」を見わける目を、
即ち全体を部分から、部分を全体から見る目を失うことがないように
細心の注意深さが必要のようです。

2009年7月9日木曜日

三つの欲望

お答えします:
私達には確かに
家族など他人のために自分の義務を果たすと言う
「人の本分」はありますが
いかなる環境も人も、それらを変える義務はないし、
その使命もありません。
また明らかに私達にそのような能力は無いのです。

ただ唯一与えられている責務は、
一切の自分の欲望に対して
「私」をキリストの死に重ねて滅ぼし、私の環境の中に
「神の欲望とサタンの欲望のみを残すこと」です。
そこに私の欲望が少しでも残っているならば、
神に大きなハンデを与えることになるでしょう。
私の欲望は完全に舞台から退却しなければなりません。


追伸:
真に「神の欲望とサタンの欲望のみを残す」ならば、
続いてその人は「神の欲望を即自分の欲望とする」筈です。
その時初めて神は、その環境を、彼を通して変えることも
可能となるのです。

2009年7月8日水曜日

神の原則と感情

正常な行動は必ず一定の原則に従っています。
霊には法則と進路と原則とがあります。従って霊に従って歩くとは、
全面的に霊の法則に従って歩くことです。

霊の原則において、総ての是と非の「おおもと」には、明らかに
定められた基準があります。空が晴れていても曇っていても、もしそれが、
しかりであれば 必ずしかりです。その人が幸福でも、落胆していても、
もしそれが否であれば否です。そのように、正常なキリスト者の生活も、
必ず一定の原則に従ったものです。

さて感情による生活は、原則に従った生活とは全く異なります
もし信者が自分の感情を死に渡していなければ、彼の生活はきっと
基準のないものになってしまうでしょう。何故なら、感情は
勝手気ままに変化するからです。

従って彼の生活には定まった原則がなく、彼は変わりやすい感情の
感覚に従って生きてしまうのです。自分の感情に従って歩む信者は、
あることを行うかどうかを決める際、神の原則などあまり意に介さず、
或いは忘れ、そしてまた「人の正当な理由」(本分)も尊重しません。
彼は自分の感情に強い影響を受け、ついそれに従ってしまうのです。

そういう人は、もしも自分の好むものがあれば、当然それを自分の喜びと
するでしょう。ですから愛するものが目前にあれば、それを行うのが
明らかに不合理で原則に反することが分かっていても、彼にとって
それは強い誘惑となります。恐らく彼はそれを実行してしまうでしょう。

逆にもし彼の心がその時 冷淡、憂鬱で、意気消沈しているならば、
彼が本来なすべきことも果たさないかも知れません。何故なら、彼の
感情が原則について行かないからです。

このように、もしも神の子供達が自分の感情を少し観察して見るならば
いかに自分の感情が変わりやすいものか、また感情にしたがって歩く
ことがいかに危険であるかを認識するでしょう。

もし、彼の感情や趣向が「神の原則」に適合する場合だけそれに従い、
自分の感情に合わないならばそれを拒絶する、のであるならば、
それは全く霊的な生活とは言えません。
誰でも霊的な生活をしたいと願うなら全面的に瞬間瞬間、神の原則
のみに従って歩かなければなりません。


Sugar 私見:
先人は「霊には原則があり、感情にはそれが無い」と
言っているようです。確かに「聖霊が内住する自分の霊」に
従わなければ、私達は「実に勝手気ままな感情や自分の好き好み」or 
その時の「気分」に常に強く左右されながら生きるしかありません。

さてこの「気分」と言う日本語はその「感情の気ままさ加減」を
絶妙に言い表している言葉ではないでしょうか。実に私達の「気分」
は奔放です。それは時に私を全く無視しているかのようです。
一体このような「気分の源」はどこにあるのでしょうか。

この箇所において、先人は、それは「環境の影響である」と言われる
のですが、本当に環境のせいだけなのでしょうか。私的には「気分」は
「いわゆる環境」の背後に潜む「目に見えないある影響力」と関わりを
持つかも知れないと思っております。従って、仮にもし「気分にも原則
がある」とするならば、その原則は多分その様な「影響力達」が本来
持っている原則なのでしょう。そしてその原則とは「死と分裂」と言う
トンでもない「原則」であることを私達は知らなければなりません。
(実はこのテーマについてはある所で先人も語っておられます。)

2009年7月7日火曜日

感情に従って歩いてしまう理由

キリスト者が霊に従わず、感情に従って歩んでしまうのは
どうしてなのでしょうか。二つの理由が考えられます。

先ず、信者が霊に従って歩むことを真剣に願い、追い求めないからです。
少なくも真剣さがなければ、このことが達成されることはあり得ません。
ですから、この場合 当然彼は感情に従って生活するでしょう。

彼は感情が動き、それが衝動となるとき、仮にまずいと感じたとしても、
それをどのように否むべきかを知りません。
ですから結果、感情に流され、行うべきでないことを行ってしまうのです。
しかしそれでもその際、彼の霊の直覚に全く霊的な感覚が生じなかった
わけではないのです。しかし、彼のある弱さの故に、彼は感情に耳を傾け、
直覚を無視してしまうのです。
その時 感情は更に強まり、彼は全く自分を制御できなくなって
しまいます。しかし、実行した後で悔いるでしょう。


もう一つのケースは、既に霊と魂の相違を経験的に知っている信者です。
彼らは感情の影響を受けると、これは感情からのものだと分かり、
直ちにそれを拒絶します。

しかしながら、このような信者でさえ、感情に従って歩く可能性が
あります。それは「ある欺き」によるのです。彼の感情がしばしば
「霊的感覚を装う」からです。この場合、彼には外見上、彼の感情と
霊的感覚は全く同じに見えてしまいます。これは彼の「ある無知」に
起因します。ですから、ある程度 霊的な識別のある人でさえ、
感情に従って行動することは十分あり得るのです。


Sugar 私見:
先人はここで、二つの理由についての概要を語っているに過ぎません。
特に第二の理由に関しては 後に相当のページをさいて
詳細に述べております。

霊と魂の問題は、決して安易な問題ではありません。
そのことに言及された際のイエス御自身の真剣さを知ればそれが
分かります。しかしそのイエスの心からの言葉は、弟子達の頭の上を
風のように吹き抜けてしまったようです。彼らはその直後決まって、
自分達の間で誰が一番偉いのかと論じたのです。(あなたの魂を
捨てなさい、と言われた直後に)

私自身、この問題には少なくも「決してあきらめない
粘り強い真剣さ」がどうしても必要であると考えております。
真剣に叩かずして、どうして天国の門が開けてもらえる
(パラダイスに連れて行かれるではなく)でしょう。更にその上
洗礼者ヨハネのように、天国は「奪い取る」必要さえあるのです。
(マタイ11の12)

2009年7月6日月曜日

冷静さの性質

ここで私達は、ある点に注意しなければなりません。
もしも、ある人の感情が静かで冷静でありさえすれば、彼は霊の
支配下に入り、彼は霊的になったと言えるのでしょうか。
当然そうではありません。この時 重要なのは、彼の冷静さは
一体どんな性質のものか、と言うことです。

あるキリスト者が、もしも感情の高ぶりによって手痛い失敗を
すると、きっと彼はその感情を抑圧しようとするでしょう。そして
もしも何とかそれに成功したと思うならば、或いは
「私は冷静になった、だから霊的になったのかな」と
思うかも知れません。しかしこれは明らかに誤解です。

また感情の高ぶりの後、そこに一種の反作用が生じ、
感情の自然現象として、その後 冷静さが生じることがあります。
しかし当然、これも霊性ではなく単なる感情の別の面が現れた
に過ぎません。


以上のような魂から生じる冷静さは、彼をしてむしろ、神のことについて
興味を失わせ、他のキリスト者への愛を減少させ、或いは交わりを慕わなく
させることに繋がるのです。或いは彼は冷静になったのではなく、
単に冷たくなっただけなのかも知れません。そうであれば、これは彼に
とってはむしろ後退です。正常なキリスト者が「真の情熱」を
失うことなどある筈がないのです。

大切なことは、今存在している冷静さが、彼の魂が真に
十字架によって取り扱われた結果であるかどうか、と言うことです。


Sugar 私見:
神はいかなる「よきもの」でさえも「生来の人」を源とする
一切に反対されます。それこそキリストの十字架が主張することに
他なりません。「キリストの十字架は旧創造の一切を含む」と言う
「聖書における最大の神の宣告」は、私達一人一人に極めて重く鋭い
チャレンジを投げかけていると言わなければなりません。私達は、
しかしそれを「神の過酷さ」として感じるのでしょうか、それとも
喜びの中で「キリスト者への福音」として信じ受け入れるのでしょうか。


先人は「実際的な日々の十字架の適用」については、別の箇所で
極めて詳細に論じております。この言わば「キリスト者の為の
感情論」は、従って、彼が既に述べた「実際的な十字架の適用」に
関する読者の「真の知識」を前提としていると言えるでしょう。

しかし、先人のどんなメッセージを見ても、十字架への言及を伴わない
ケースはとても少ないのです。何故なら十字架の適用の範囲は広範囲に
渡る上に、その一つ一つが極めて深いものであるからであり、また
総ての聖書の項目の根底には必ず十字架が横たわっているからです。
従ってこれから このシリーズの随所にも十字架への言及が現れて
来ざるを得ないと思われます。(ただしこの「感情シリーズ」を私が
いつまで続けることが出来るかは定かではありませんが・・)

2009年7月5日日曜日

霊の感覚と感情の相違

それでは、
霊からの感覚と、そして感情は どのようにして識別したらよいの
でしょうか。先ず感情ですが、それはいつも人の外側からやって来ます。
しかし霊からの感覚は逆に必ず内側からです。霊感(と便宜上簡単に
いいます)は聖霊によって与えられるものであり、実に人の深い
存在からです。この点が両者の基本的な相違です。
それは、外からと内からの相違です。


例えば、人が美しい自然に接する時、自然に内面に一つの感覚が
わき上がって来ます。美しいなーと感じ、喜びさえ覚えるのです。これは
感情です。また、自分が愛している人を見る時や思うときに、何か
その人に私が引き寄せられる力が働くかのようです。これも感情です。
美しい景色も、愛する人も私の外にあります。このように人の外側に
あるものによって引き起こされる感覚、それが感情なのです。


しかし霊感はそうではありません。霊感はひとえに人の深い内側にあって、
「ただ聖霊の影響から来る」のです。聖霊のみが、霊の動き、感動を人に
与えることが出来ます。霊の所在は人の最深部であり、聖霊は更に霊の
内側に住んでおられるのですから、霊感は必ず内側から来るのです。

これは大切な事実ですが、
何と霊感は、美しい景色や愛する人のような外側からの刺激とは全く
関係がありません。それは独立しており、その主張は不動です。この点が
重要なポイントです。それは聖霊なのですから、当然と言えば当然のこと
でしょう。と言うわけで、霊感は外側からの影響が全くない場合でも、
即ち環境とは関わりなく十分起こり得るのです。霊への感覚は魂や、
更にその外の状況には影響されない独立的な、
しかし極めて奥深く繊細な「あなたへの主張」です。


それとは反対に、感情は外側からの働きかけ(刺激)がなくなると
すぐに、或いは間もなくなくなります。(思い出すことによって感じる
こともやはり外からであり原理は同じです。)ここに、外側の
環境と人の感情は強く繋がっていることを見ることが出来ます。
結局、感情は環境によって引き起こされるのです。

ですから、そのような人の生活が どうしても環境に影響されてしまう
のは避けられないことです。例えば、キリスト者をよい方向に向かって
前進させようとすれば、多くの場合、彼にはしばしば(or定期的に)
外から励ます状況や刺激する環境が必要となります。
そうでないと彼の前進は停止してしまうのです。

また彼は外側に、例えば体調不良などの「好ましくない憂鬱な環境」が
やって来るととても容易にその感情は混乱しその結果、彼の生活において
正常で穏当な判断が出来にくくなります。その結果、彼の生活も混乱して
しまうのです。これはキリスト者にもよく見られる光景です。

以上のように、おもに環境によって彼の感情が刺激され、次に感情に
強く影響されて、その人の生活が変化してしまうのであれば、その人は
「感情に支配されている人」と言わなければなりません。
(環境の変化→感情の変化→生活の変化となります。)
感情は魂の一部ですから、その人は霊的な人であるとは言えず、
やはり魂的な人ということになります。


所が、霊からの静かな語りかけは外側からの環境の刺激によって
影響されることは全くありません。ですから、もしもあるキリスト者が
その霊に従って歩くのであれば、彼は外の環境からの影響をあまり
受けることなく、内的な聖霊からの動機に従って、堅実に歩いて行く
ことが出来ます。従って彼の生活にアップダウンはとても少ないのです。
これは霊的な人です。

2009年7月3日金曜日

内的聖霊の声が無視される理由

*平静な感情の必要*
前回までに述べた事実から
霊に従って歩もうとするキリスト者にとって、最大の「敵」は感情
であると言っても言い過ぎではないでしょう。(もちろんここで言う
感情とは、感情の総てではなく、感情の命、感情を動かすエネルギー
のことです。以下、全部この意味で用います。)

キリスト者であるならば、肉ではなく、霊に従って生活しなければ
ならないのは当然です。しかし、霊に従って歩くためには、生活の
あらゆる時点で、キリスト者は内側の霊の導きに十分
注意していなければなりません。

霊からの「感覚」は極めて優しく、細やかで、繊細です。
ですから信者が注意深く「霊に語る聖霊の声」(直覚に)を
待ち望まない限り、彼が決して霊の導きを受けることはあり得ません。

従って、霊に従って歩くには「感情が完全に静まっている」必要がある
のです。霊の小さく繊細な感覚が、私達によって殆ど無視されがちなのは
私達の感情が、まるで押し寄せる大波のように大きな音を立てている
からです。そのような時、私達が、静かな霊の声に気づくのはとても
難しいことです。本来私達キリスト者は、霊の感覚を十分感じる取る
ことが出来る能力を持っているのですが、別の感覚が絶えず大声を
出して騒いでいるならば、霊の声を識別することが
全く出来なくなってしまうのです。

しかしながら誰であれ「感情を静寂に保つことが出来る」キリスト者
であるならば、直覚の声を察知するのはそんなに困難なことではない
ことを知るでしょう。


さて、感情の起伏は、信者をして決して霊に従って歩ませないだけでなく、
直接肉に従って歩かせてしまいます。
キリスト者であっても、霊に従って歩いていない時には、自然に肉に
従って歩くことになります。第三の状態はあり得ません。ですからもし
霊の導きを得ることが出来ないなら、自然に彼は感情の衝動や浮沈に
従って歩くのです。

よく霊に従って歩んでいるキリスト者であってとしても、霊の導きに
従っていない場合には、直ちに感情が彼を導くことを始めます。
そのような時、信者は自然に、感情を霊の導きのようにしてしまい、
魂の衝動を霊の感動のように誤解するのです。


Sugar 私見:
ここで言う内的な聖霊の声とは
人の内的な一機能である「人の霊」の中におられる聖霊の声です。
それは決して、人の魂や体に対し、超自然的に直接何かを感じさせる
「神ならぬ霊」の声ではありません。これの識別は極めて重要です。

さて、先人によると
「魂の感覚」よりも更に深いところから語られる繊細な声
を感知するには、
・感情を完全に平静に保つ
・聖霊の語りかけに大いに注意を払う
・その語りかけを待つ
ことは不可欠のようです。

とは言われても、私達としては「それでは、その感情を平静に
保つにはどうすればいいのですか」と聞きたくなりますよね。

2009年7月2日木曜日

十字架と結実

十字架は実を結びます。
総ての十字架は神の命の実を得させます。
神が与えられる実際の十字架を、
自ら進んで受けようとする者は、彼自身
「混ざりもののない霊の命」を生きていることを
見出すでしょう。

私達は、神の願いに従って、日々十字架を負うことを
実行しなければなりません。
総ての十字架には特別な使命があります。
その十字架は、必ず私達の中で「神の働きの一部」を
成し遂げるでしょう。
どうか私達に臨む十字架が一つとして
無駄になることなどありませんように。
(先見者の言葉より)


Sugar 私見:
上記の文は「先人の言葉」のシリーズとは
全く別のものです。

この文で分かること、それは:
①十字架は私のために、神がそのつど
一つ一つ測って与えられる、と言うこと。
②そしてもしも「私の十字架」における精度が
一定基準をクリアしているならば、
それは必ず神の御こころの一部を成し遂げると言うことです。
しかし、
③決して私達が直接神の働きをするのではない、
と言うことは重要です。それは当然のことであり、また
そんなことは不可能です。
私達に与えられた使命、それは日々、
神から与えられる十字架を進んで受け入れること、
ただそれだけです。

アップダウンの生活

人の生活における「感情のありさま」を観察すればするほど、
感情と言うものはひどく揺れ動くものであり、そんなに信頼出来る
ものではないことが分かるでしょう。
もし信者が霊に従って生きるのではなく、そのような感情に従って
生きるのなら、彼の生活も波のように揺れ動いてしまうのは当然です。


だから多くの信者は自分の生活を嘆いています。彼らの生活の姿は
あまりにも不安定過ぎるからです。ある時は、まるで第三の天にいる
かのようで、彼は喜びに溢れ、人生の一切を超越しています。ところが、
間もなくすると、彼はひどく意気消沈し、その有様は全く普通の人と
変わらないようになってしまいます。要するに、彼のクリスチャン
生活は激しく上がったり下がったりを繰り返しているのです。

しかしよく見ると、そのように彼を激変させるほど、外面的に何か
重大なことが起こったわけではないようです。実はホンの少し、
自分の意に反することが彼に臨んだだけで、そのような激しい
変化を招いてしまっている、というのが実情です。

このような現象は、彼が感情に支配されていると言う明確な事実を
示しております。彼は決して「霊に支配されている」と言うことは
出来ません。彼においては、明らかに感情が、その生活の大きな要素
となっているのです。要するに感情が彼を日々揺れ動かしているのです。


何故でしょう。一言で言えば、彼自身がまだ、真に十字架にもたらされた
ことがないからです。その結果、彼の霊が聖霊によって強められて
いないからです。言い換えれば、彼の霊は依然として弱いのです。ですから
彼の霊が彼の全存在を支配することなど到底出来ません。故に、彼が感情
に打ち勝つことが出来ないのは当然です。それはまた、彼の魂の中の感情
の命が、彼の中で第一次的な地位を占めているからだとも言えましょう。

もしも、感情の地位が彼の全存在の中で第二次的になるならば、
彼の感情は霊の支配下に置かれることになります。もし彼が聖霊によって
自分の感情の命を十字架につけ、総ての事柄で聖霊を主とすることが
出来るなら、彼は初めて、激しくアップダウンする
クリスチャン生活から免れることが出来るでしょう。
(先人の言葉より)

2009年7月1日水曜日

制御出来ない感情の二つの性質

もし私達が、感情に存在する様々な感覚に注意を払うなら、感情
というものは、いかに変わりやすいかが分かるでしょう。おそらく
この世において感情ほど変わりやすいものはないでしょう。
私達は今の一分間、何かを感じていたかと思うと、次の一分間では
たちまち別のことを感じているのです。感情は何らかの影響によって
変化し、そして決して留まることなく次々と変わって行くのです。

また人の感情にはしばしば「反作用」が見られます。つまり、
感覚が一つの方向でしばらく活動すると、それに続いて正反対の
感覚が生まれて来るのです。例えば、自分の中に生ずる悲しみは、
不思議にもしばしば幸福感の後に来るのです。実際に人を愛する
こともそうです。愛が始まったとしても、一ときを経過すると、
何かの影響によって、愛は何故かまるで正反対の激しい
憎しみに変わってしまうことさえあるのです。
誰がこれらを制御出来るのでしょうか。


Sugar 私見:
本当にそうです。仮に、私の中に①真の私と②感情、の二者がある
とすれば、一体、権威と力のある主人はどちらなのでしょう。
その場合、私が感情を制御するのは、相当難しいことです。
むしろ勝手気ままな「感情さん」が自由奔放に私を引きずり回し、
毎日私を困惑させ悩ませている、と言うのが実情ではないでしょうか。
しかし、確かにその感情は「私」でもあるのです。