2009年7月5日日曜日

霊の感覚と感情の相違

それでは、
霊からの感覚と、そして感情は どのようにして識別したらよいの
でしょうか。先ず感情ですが、それはいつも人の外側からやって来ます。
しかし霊からの感覚は逆に必ず内側からです。霊感(と便宜上簡単に
いいます)は聖霊によって与えられるものであり、実に人の深い
存在からです。この点が両者の基本的な相違です。
それは、外からと内からの相違です。


例えば、人が美しい自然に接する時、自然に内面に一つの感覚が
わき上がって来ます。美しいなーと感じ、喜びさえ覚えるのです。これは
感情です。また、自分が愛している人を見る時や思うときに、何か
その人に私が引き寄せられる力が働くかのようです。これも感情です。
美しい景色も、愛する人も私の外にあります。このように人の外側に
あるものによって引き起こされる感覚、それが感情なのです。


しかし霊感はそうではありません。霊感はひとえに人の深い内側にあって、
「ただ聖霊の影響から来る」のです。聖霊のみが、霊の動き、感動を人に
与えることが出来ます。霊の所在は人の最深部であり、聖霊は更に霊の
内側に住んでおられるのですから、霊感は必ず内側から来るのです。

これは大切な事実ですが、
何と霊感は、美しい景色や愛する人のような外側からの刺激とは全く
関係がありません。それは独立しており、その主張は不動です。この点が
重要なポイントです。それは聖霊なのですから、当然と言えば当然のこと
でしょう。と言うわけで、霊感は外側からの影響が全くない場合でも、
即ち環境とは関わりなく十分起こり得るのです。霊への感覚は魂や、
更にその外の状況には影響されない独立的な、
しかし極めて奥深く繊細な「あなたへの主張」です。


それとは反対に、感情は外側からの働きかけ(刺激)がなくなると
すぐに、或いは間もなくなくなります。(思い出すことによって感じる
こともやはり外からであり原理は同じです。)ここに、外側の
環境と人の感情は強く繋がっていることを見ることが出来ます。
結局、感情は環境によって引き起こされるのです。

ですから、そのような人の生活が どうしても環境に影響されてしまう
のは避けられないことです。例えば、キリスト者をよい方向に向かって
前進させようとすれば、多くの場合、彼にはしばしば(or定期的に)
外から励ます状況や刺激する環境が必要となります。
そうでないと彼の前進は停止してしまうのです。

また彼は外側に、例えば体調不良などの「好ましくない憂鬱な環境」が
やって来るととても容易にその感情は混乱しその結果、彼の生活において
正常で穏当な判断が出来にくくなります。その結果、彼の生活も混乱して
しまうのです。これはキリスト者にもよく見られる光景です。

以上のように、おもに環境によって彼の感情が刺激され、次に感情に
強く影響されて、その人の生活が変化してしまうのであれば、その人は
「感情に支配されている人」と言わなければなりません。
(環境の変化→感情の変化→生活の変化となります。)
感情は魂の一部ですから、その人は霊的な人であるとは言えず、
やはり魂的な人ということになります。


所が、霊からの静かな語りかけは外側からの環境の刺激によって
影響されることは全くありません。ですから、もしもあるキリスト者が
その霊に従って歩くのであれば、彼は外の環境からの影響をあまり
受けることなく、内的な聖霊からの動機に従って、堅実に歩いて行く
ことが出来ます。従って彼の生活にアップダウンはとても少ないのです。
これは霊的な人です。

5 件のコメント:

千葉のM さんのコメント...

「日々自分の十字架を負う」とは、外部環境(出来事、過去の記憶等)にしたがって反応している魂の機能(思・情・意)を弱めたり変えたりすることではなく、それを機能させている大本のエネルギー(命)=魂の命を弱体化させることです。弱体化させない限り、私たちクリスチャンが神からいただいた神の命、永遠なる命、魂の命のように創られた命ではなく、創られたものではない命は生かしだされることは決してありません。ですから日々自分の十字架を負うことを逃げ隠れせず真正面から行おうとすると必ずある痛み、苦痛が生じるものです。これは決して歯を食いしばって起こる痛み、苦痛とは異なります。そこには神の直接の働きがあるのです。死には必ず痛みが生じるものです。逃げ隠れせず真正面から自分の十字架を負う決意がすべての始まりです。

鷲のように翼を張って さんのコメント...

千葉のMさんお久しぶりです。
江東のSです。 

>逃げ隠れせず真正面から自分の十字架を負>う決意がすべての始まりです。

スッキリしていて、なんだかそれだけで力をうける言葉です。覚悟が出来れば、キリストと正面から向き合う歩みがはじまりますからね。そして、結果はいつも「主に信頼するものは失望させられることはない」に終着するわけです。現実には何も変化が見れなくても、こころは平安と希望にかえられます。そのためには、絶えず主と交わり、御言葉をしたい求めます。日々、刻々、イエスの名を呼び、御言葉を求め、内なる御言葉による慰めや確信によってキリストの命を受けます。私たちがキリストに近づけば近づくほど、キリストも私たちに近づいてくださるというのは本当です。ですから、日々のキリストとの交わりは命を深く受けられるか、全く受けても鈍感になにも感じないで空しいままかに非常に大きな影響があることが分かりました。主が与える平安は、味わったものしか分からない、言葉にできない満足をあたえてくれるものですよね。わたしたちキリスト者は信仰によらなけらば生きられないように創られているのですから、水が高いところから低いところに流れるように、ごく自然なことといえますね。喜びの中でしか、生きられないのです。苦しみからは逃げられませんが、苦しければ苦しいほど、後に来る喜びは大きいですね。

いつまた、お会いしたいです。元気な奥様にも!

シャローム

Mr.Sugar さんのコメント...

お二人の真摯なコメント、
有難うございます。

千葉のM さんのコメント...

Sさん、お久ぶりです。私は相変わらず元気でやっています。今年は家内がガーデニングに凝って、色んな花が色とりどりに咲き乱れ、リビングからの眺めは何とも言えない平安を運んできます。

さて最近の私見ですが、所詮魂は、魂の命のエネルギーの変換器(つまり物)だと思っています。この変換器という表現が私にはしっくりきます。
外側の出来事や環境を題材にして魂が魂の命のエネルギーを使って変換したものが、思いや感情だということです。
たとえばガソリンがエネルギーに相当し、エンジンが魂に相当します。
そして変換された結果が車を動かす力や熱であり、これが「思い」や「感情」に相当します。
だから思いや感情は、変換器の役目である魂が魂のエネルギーを変換した結果だと言えるのです。
そして脳やからだは、魂が同じパターンで何回も変換していくと生化学的な形で脳やからだにそのパターンが刻み込まれていきます。それが記憶、性格、個性、自己です。
この魂のエネルギーを使っての一連の作用、働き、流れ、システム、その一連のシステムから生じる力、そして脳や体に刻み込まれたパターンが肉と呼ばれている正体ではないでしょうか。
よって思い切って言うのなら、創造的なアイディア、個性、善的行為、思い、ポジティブな感情、感覚も、それらが魂の命のエネルギーから変換されて生じたものであるならすべて肉ということになります。

では日々自分の十字架を負うとはどういうことでしょうか?
それは、
①魂のエネルギーを使って魂が変換した結果である「思い」や「感情」のすべては、創造的な事柄や善的なことであっても、自分の魂が造り出した肉だと認め、真正面からそれを受け止める
②その思いや感情を自分の十字架に付け、その十字架を自分で負う
③その思いや感情が神の働きによって(自分の働きではない)死に渡され、死んでいくことに全幅の信頼を置き、神の働きに任せる
④暗闇の期間は続き、痛みを感じるかも知れないが、この期間にキリストの十字架の死の効力が作用し続ける
⑤魂の変換の結果である「思い」「感情」が死ぬor弱められると、その大元、源である魂のエネルギーが弱められる
また一つの仮説ですが、「思い」や「感情」が死んだり弱体化すると脳や体に刻み込まれた生化学的パターンも緩だりほどけたりしてくるのではないでしょうか
⑥その結果、神の命が生かし出される
⑦魂は変換器に過ぎませんから、今度は魂の命から生じるエネルギーではなく、神の命から生じるエネルギーを使って「思い」や「感情」を造り出します
⑧この「思い」や「感情」は神のいのちと平安に満ちたものでり、真の創造的産物、個性ということになります

自分の実際はさておき長々と書いてしまい失礼しました。

鷲のように翼を張って さんのコメント...

Sさん、すごくお元気そうで主に感謝です!
猫ちゃんたちが戯れていたお庭やみなさんの
ことを思い出すと、いつも幸せな気持ちになります。

信仰を共にする分かち合える兄弟、姉妹がおられることに とても励まされています。
それは私の祈りでもありますが、主に感謝します。

Sさんの頭の中の思考経路を見たような気がしています。男性は女性より理性的であるとはよく言われることですが、納得です。
思考回路をこのように言語化できると、他の
理解を助けることになるでしょうね。でも、実践するかどうかはそれを受け取る人にゆだねられていんですね。神様は人の自由意志を尊重される、お優しい方ですから、とても忍耐をしておられるんでしょう。
だから、私に出来ないこと でも確かに神からのよきものを受け取ろうとしない人に関しては、主に言いつけます。それを阻止しようとするあらゆる肉、無知、かたくなさ、悪霊、サタンをイエスの名によって縛り、追い出します。そして御霊の導かれるままに、祈ります。そして 主に任せていいんだという御言葉が来るまでしつこく、しつこく主に聞き、訴え、そして御言葉を開くと、・・・
「すげーーー。」としか言えない主の介入の約束をいただいたりするのです。キリスト者神からゆだねられたものが非常に大きいのではないかと最近日増しに思わされています。