2011年1月31日月曜日

あるメールから2

しかし間もなく女は「イエスの言葉」(神の言葉)
に触れ 礼拝に関する光を得ます。
すなわち女は「ことば」を通し アタマではなく 
上からの光によって 礼拝とは何かに「触れる」のです。
時いたって女は神からの啓示を得たのです。

さて この光とはどのようなものでしょうか。
それはイエスという源から流れ出した命の結果です。それは
ヨハネの1章に
「この方にいのちがあった。このいのちは人の光であった」・・
そして「真の光が世(おんな)に来ようとしていた」
とある通りです。

だから大切なのは
「命と光の源と、それが生きたものとして
人の中へと実際的に流入すること」です。
更にまとめると その実体とは「命と光の流れ出としての
キリスト」である、と言えるでしょう。(このことは 
ヨハネによる福音書の主要な主題でもあるのです。)

さて
「この流入」さえあるならば そこには必ず
驚きと喜びと満足が表れます。
だから28節によると 女は「物質的なこの世の水」を
忘れてしまったほどです。

そして次に
この実質(じっしつ)はとても自然に更に多くの
人々の中へと流れ込まないわけには行きません。
その記録が4章42節までに書かれています。
(その人々の様子はイエス復活後に現われたエクレシアの
一つの絵であるとも言えるでしょう。)

即ち女の中へと流入したイエスといういのちが、今度は
天からの光を発する命の川々として女の腹から流れ出、
遂に 命と光が多くの人々へと到達し、さらに川々の
流れは、多くの分岐(ぶんき)をくり返しつつ
地の四隅にまで拡大して行くのです。

だから最も簡単に言えば 礼拝とは交わり、流れ出、流れ入り、
交流であり、一言で言えば 光を発するいのちの行き来、 
循環(じゅんかん)なのです。そして感謝なことに
「私達の交わりとは、御父および、御子イエスキリストとの
交わり」そのものなのです!(Ⅰヨハネ1の3)



私は今、この前の貴重な休日
お二人のくつろいだショッピングやお風呂の時間の中にさえ 
きっとイエス御自身が介入しておられたであろうことを
信じないわけには行かないのです、アーメン!

あるメールから1

この前
私たち夫婦は、とても良い休みのときを過ごしました。
お風呂に行ったり、買い物したり、大したことはしていない
のですが、とても楽しいときを過ごしました。

今朝、上のようなメールをいただきました。
この若い夫婦との それまでのやりとりから 私はこのメールに
こめられたある深い意味と喜びを知ることが出来ました。
それで次のような長い私の返信となってしまったのです。


サマリヤの女が出てくるヨハネ4章は
「礼拝とは何か」を私達に見せています。

ヨハネによる福音書4章は 礼拝とは
先ずは「あそこでも この時間でもない」ということを見せ
次に のどが渇いて「水を飲ませてください」と言うような
ありふれた人間の生活が「礼拝の下地」であることを
見せているようです。

しかし、最も肝心(かんじん)なことは
そこにイエスが介入されていることです。
イエスが その人の生活の中に確かにおられるならば、
そのありふれた人の生活は直ちに礼拝の場面となると
聖書は告げているのではないでしょうか。(余談ですが、
イエスみずから予定を変更してまで?このサマリヤの女に
会いに来られたのかも知れません!4の4)

しかし初めのうちは 私達がよくするように
女の「礼拝に関する宗教的な固定観念」が表れます。
この段階における彼女は まだアタマの世界で右往左往
しているだけであり 真理は全く見えていません。

もう一度 余談ですが 聖書で女と言うとき
宇宙における唯一の男子である神に対する人、
を表すことがよくあります。だからこのサマリやの女は
私達の代表です。

2011年1月30日日曜日

第一級の事実

神が イエスを十字架の上で「殺した」時(あえてこう言います)
そのイエスの中に神は太郎、花子、ヒロシ・・を
入れこみました。

だから太郎、花子、ヒロシ・・はイエスと共に
神によって殺されてしまいました。
そして当然、その後イエスに起ったことは総て
太郎、花子、ヒロシ・・にも起ったのです。

イエスが黄泉(よみ)に下ったとき、太郎、花子も
イエスの中で黄泉に下りました。
イエスが死を破壊(はかい)し墓から復活した時、
太郎、花子、ヒロシもイエスの中で死を破壊しました。
イエスが第三の天に昇った時、太郎、花子、ヒロシも
天に昇りました。
イエスが父なる神の右の座に着いた時、太郎、花子、
ヒロシ・・も同時に天の座に着きました。

だから「今現在、総ての邪悪(じゃあく)な力を足の下
にして イエスと共に天の王座(おうざ)についている」
これが今 イエスを真に信じる者達の地位です。

以上の事実が第一級の事実です。
この事実と比べるなら「他の事実と見えることがら」の
重さは比較にならないくらいに低く軽いのです。
神は この第一級の事実を「真理」と呼んでいます。
だから私達は「他の事実」ではなく 
先ずはこの真理をかたく信じるべきです。

*タロウ、ハナコ、ヒロシと同様
イエスとは当時のありふれた名前でした。

2011年1月27日木曜日

神のみこころ(2)

Ⅰヨハネ3の16
Jesus laid down his life for us; thus we ought to
lay down our lives for our fellow Christians.
訳:
イエスは私達の為に彼の魂を放棄しました(犠牲にしました)
そのように、私達も仲間のキリスト者達の為に私達の魂を放棄
(犠牲)に するべきです。

新改訳でlife「命」と訳された原語は、
よく誤解されているように肉体の命ではなく、
魂(ψυχή psychē)です。(or魂の命)また
lay down「捨てる」とは「放棄する,犠牲にする,
…をやめる」ことです。

だから結局私達がエクレシア(キリストの体)の為にする
べきこと と言えば「自分の魂の力を捨てる、放棄する、
犠牲にすること」です。
それこそが 私達に対する神のみこころの根本である
と言ってもさしつかえないでしょう。

この御言葉を見る限り(実に驚くべきことですが)
それはイエスに対する神のみこころと基本的には全く
同じです。
だから神のみこころとは結局「私の魂の命をキリストの
死に重ね合わせること」であると言えるようです。

2011年1月23日日曜日

何ておだやかな冬

明日 山では少し雪が降るとのこと。
少しでよかった。

ここ利根川のほとりの実家にいると
関東平野の気候の穏やかさをつくずくと実感する。
「何て平和な冬だろう」

山にいると絶対にこうは行かない。
それでも実は1月や2月は阿武隈に大雪が降ることは
少ない。太平洋に近い阿武隈に大雪が降るのは
むしろ冬型が終わりかける2月末から3月にかけてである。
山での勝負はこれからなのだ。


昨日考えておりました・・

誤解を恐れずに言うならば、
神は この世から私を完全に消し去りたいのです。
私をゼロにしたいのです。

その時 私に属する
「物、者、モノ、もの」など一切ありません。
私にはどんな所有物もないのです。
既に今墓の向こうへと過ぎ去った
無である私にどんな権利があるでしょう。

しかしそれは何と身軽なことでしょう、
それは何と自由でしょう。
空中を羽ばたく小鳥のようです。
私はその時あたかも 総てを
足の下にしているあの青空のように
とても高貴で豊かです。

十字架は
神が私達にそのような  実に軽快な人生を与えようとして
神の深い深い知恵の中から生み出されたものです。
だから私達は喜んであの古(いにしえ)の聖徒のように
十字架に口づけをさえするのです。

その十字架、あなたの死ぬ方法とは
自殺ではなく他殺、 そう「あの他殺」です。
即ち あなたは信仰によって
とても効き目のある 実に力強いイエスの死に
自分を重ねることによってのみ
永遠の死の効果があなたに伝達され、
あなたはこの世に対してゼロとされるのです。
これのみが 神と人にとって価値ある唯一の死です。

何故ならあなたが
そのように真に無とされる時
初めて神は安心して あなたを人々の為に
この世に遣(つか)わすことが出来るからです。

しかしここで不思議なことが起ります。
その日あなたは人としてとてもシッカリ
この世に存在するのです。
あなたは最も健全な方法で神と人の為に
日々嬉々として自分の分を果たすでしょう。

そのようにしてあなたが もしも
あの永遠のイエスの死を
この時間と空間の中でさえ
自分の死とするならば
あなたは生きながら 毎日死の中に存在し
死の中にありながら 
日々生き生きと生きるのです。

あなたはその日 
生と死のいずれに対しても
完全な自由を得るでしょう。

2011年1月21日金曜日

神の第二の創造

Ⅱペテロ1の3
the one who called us by his own glory and excellence.
(彼自身の栄光と卓越性によって私達を召しだされたお方)

召し出されたのは「実に強大な粘着力をもつこの世界」
からである。そしてその召しだされたた時に費やされた
神の力とは この神のみが所有される栄光と卓越性の中に
存在している、とペテロは言う。

その神の力によって先ずは 私達の心がこの「第一級の事実」に
関心を寄せる日が用意された。そして遂に私達は何故か 
人々が聞くことも見ることも出来ない、極めて信じ難い
それらの言葉を信じるに至ったのである。
この「あり得ない現象」の背後に「悪魔の粘着力に勝る」
卓越した神の力が働いていた、とペテロは言うのだ。

ここで目を転じて見ると 
「神の初めの創造」は実に壮大無比な大スペクタクルであった。
しかし神が最も大切にされる第二の創造・いわゆる新創造は
(実に不思議なことであるが)その壮大無比な大スペクタクル
とは全く無縁であり、むしろそれと真逆の状態の中に存在する。

この第二の創造が開始された最初の日とは
あのゴルゴタで起った奇妙な事件の3日後、人々が
(さらに有名な弟子達でさえも)まだ深い眠りに落ちていた 
あの夜明け前に実に密かに発生したのである。

さてしかし事は、前述の私達が人の目には信じ難いそのような
言葉を信じた際も全く同様であったのではないだろうか。その時
私達は決して そこに起った現象が壮大無比な大スペクタクル
であるとは感じなかったのである。
むしろ この新創造現象は 人の心の片隅で極めて密かに
発生するが故に、何とその本人でさえ気付かないことが多い
のである。それはあの三日目の夜明けのマグダラのマリヤの
経験と同様、むしろ何が何だか分らない状況の中で進行する
と言ってもよいのではなかろうか。

しかし確かにその時にこそ
私達の為に 神の最大の栄光と力とが(実にささやかと見える)
私の「回心と信仰」の背後において働いていたのである。
あの壮大なスペクタクルである旧創造は「神の口の言葉のみに
よってのみ」実現し得た。
しかし神の心の中心をさえ真に捕らえることが出来るこの
新しい創造は(イエスが十字架に向かわれた時の決心と神への
信仰において費やされた力をさえも含み)「神御自身の栄光と
卓越性」によってのみ初めて実現し得たのである。

今誰の目にも 神による第一の創造は明らかである。
殆どの人の目には そのような旧創造現象こそが「総ての総て
である」としか写らない。しかし私達は今 この種々雑多に
展開するこの世の現象の背後において あの最後の時代の開始の
時、神が密かに御子の命という最大の力を使い尽くして勝ち
得られた「第二の創造の意味」を霊的な目をもって
真に見る必要があるのではなかろうか。

しかし、
今この最後の時代のその終焉(しゅうえん)の時
イエスの復活の中で実現した新創造現象を 
今日 自分の生活の中でこそ 日々密かに発見する目は
更に幸いであると言えるであろう。

「今のこの時代において」神はキリスト者達に対し 壮大な
スペクタクルのパフォーマンスを期待することなど断じて
あり得ない。神は正にその真逆 即ち、私達が何でもない
ささやかな日常生活において密かに発生するキリストの
新創造現象 即ち神の第二の創造現象のみを
高く高く評価されるに違いない。

2011年1月20日木曜日

理想的暖房

朝5:58
小屋の外がマイナス8度で内が6度、差が14度。
これはいい数字だ。田村市はマイナス5度とマイナス1度。
曇り、風最大3m、降水量は零、これもいい。
即ち大量の雪はないと言うことだから。しかし実際には時々降る。

今日のメインの作業は二つのデッキの雪かき。これは
重労働である。その上、ロフトのデッキへの戸が外の雪で
開かないのでデッキに出られない。どうしようか。
何か方法があるのかな。

6:24
洗面所・トイレでの「朝の行事」一切を終える。この部屋、
小さな灯油ストーブ一個で短時間の内に17度くらいにはなる。
さらに天井の一つの穴をふさげば裕に20度以上になるであろう。
この小屋独特の?「そのツドの短時間局部的暖房」は極めて
省エネであり、私の灯油の消費は全体的に結構少ないのである。

しかし本音を言うならば 私が薪を大量に準備出来て 
24時間全館暖房が可能であれば、それは正に理想的暖房である
ことは論を待たない。

しかしその実現の為には、
先ずは小屋の北側に大きな薪小屋を建設しなければならない。
そして冬以外の季節は総て 樹木の伐採、カット、薪割り、
薪小屋への搬入の為に相当部分の時間が費やされるという
ライフスタイルを十分に覚悟しなければならないのである。
しかし私にそんな覚悟があるであろうか。

8:01
Ⅱペテロ1の3
his own glory and excellence.
(彼・神自身の栄光と卓越性)

「神ご自身の栄光と卓越性」の「ご自身の」とは
「神にしかあり得ない、神のみが所有される栄光と卓越性」を
暗示しているはずである。それは即ち その他のどんなモノ、者、
物においても所有し得ない永遠の実質を意味しているのである。

この世界においてはここに
「ありとあらゆる種類の栄光と卓越性」が存在するように
見える。それ故 人々はそれらを我が物としようとして人生の 
総ての時間を使い尽くすことに何らの疑問も持たないようである。
しかしそれらは真の意味で
栄光や卓越性の名に値するであろうか。

だまされてはなるまい、
真の栄光と卓越性はこの神の中にしかあり得ない。


「ご自身の」は
岩波訳では「自らに備わった」としています。
それは「神自らに備わった永遠の栄光と卓越した力」です。

2011年1月19日水曜日

焼きバナナ

4:26
田村市の今日、最低がマイナス3度、最高が0度、
晴れ、風なし。

昼間の時間は6:49~16:54。
冬至が6:47~16:32だったから、今日で日の出が2分間、
日の入りが 22分間伸びたことになる。
今日はほぼ満月である。今日 月見が出来るかな。

小屋は外がマイナス6度、内が4度で内外差が10度。
そんなに寒い日ではない。

5:03
たった今、居間から西の山に沈む明るい満月を
見てきた、美しい。
ここで焼きバナナの準備をする。芋もいいが、最近朝 バナナ
二本をフライパン で蒸して食べている。バナナは栄養の
バランスの取れたいい食品であると言う。

6:24
Ⅱペテロ1の3
through the rich knowledge of the one
(そのお方(神)を豊かに知ることを通して)
これまで述べた「素晴らしいもの」が私達に与えられるのは、
また神を豊かに「知ることを通して」である、とペテロは言う。

しかしこの「知る」とは(私達がよくするように)
メッセージのアウトラインを記憶して神の何かを知る
と言うようなことではない、ペテロがいう知識とは
脳ミソを働かせて得る知識などではない。

この「知る」とは 物質世界を超えた神からの光によって
初めて知り得る知識であり、それらの知識は本質的に学問的
知的知識等とは全く異なった性質のものである。更に
敢えて言うならばこの知識とは「全く別の世界から」直接私や
あなたに対し ただ神の憐れみによって神から送り届けられる
「ある確かな実体」とでも言うべきものである。

ある伝道者は言いました:
「私は長年聖書を学び 神に関する多くの知識をたくわえて来た。
だから私は それら無学文盲(もんもう)な田舎の婦人達に 
神について十分教えることが出来ると思っていた。

ところが私は間もなく気付かされたのです、聖書を読むことさえ
出来ないそのおばあさん達はしかし「その聖書を書かれた
生ける神ご自身、そのお方そのもの」を深くそして実際的に
知っている、という事実に。私はひどく恥じ入りました。

2011年1月18日火曜日

本日午後

風呂の漏水の箇所は
風呂の排水口がボイラー室の天井で塩ビ管とジョイントする所
であると判明。水の量は少量なので 防水のコーキングを
ジョイント部分に塗りたくって それで終わりに出来ない
だろうか。もしもそれで済むならあり難いのだが。

あとトイレの外のデッキの雪下ろしをした。ここは気温が
低いので自然に解けることは期待できない。だから雪下ろしは
どうしても必要である。そうしないと そのツドの降雪は
少しであっても、チリも積もって山となってしまうのである。

また自室の模様替えをし、あまり使用しない物を皆外に
追い出した。それで今 部屋がスッキリしてとてもいい気持ち
である。どうして私を含め、人は殆ど使用しないものを周囲に
乱雑に抱え込んで 落ち着きのない生活をしてしまうのだろう。
それは苦しいことなのに。

昨日ようやく年賀状の返信を書いた。面倒だが これから下の
集落のポストまで投函しに行かなければならない。よく晴れては
いるが風があり、樹木が大きく揺れている。

今日は山散歩 出来るかな

朝4:30
田村市は最低マイナス3度、最高0度。晴れ、少し風3。
小屋は外がマイナス7度、内が3度で内外差が10度。
気温の点で、ここカリマンは北海道なみなのかも知れない。
少なくも田村市の中では別格と言えそうだ。
今 風の音が森に響く。今日 山散歩が出来るかな?

昨日見てみると
浴室の排水が大量にもれて、地下のボイラー室に流れ出ていた。
今日その原因を突き止めなければならない。このリークは厳冬期
以外には起らなかった。 だから外へ出た排水が、外の配水管の
どこかで凍結して詰まっているせいかも知れない。もしもそれが
原因ならばことは簡単なのだが・・。


Ⅰペテロ1の3
everything necessary for life and godliness
(①命と②神に似ることのために必要な総てのもの)

ここで分かることは:
神は「私達が必要であるもの」は総て与えて下さるが その目的は
「世に言う人の幸福」のため等ではなく①命と②神に似るため 
である、と言うことである。

日本語ではよく「敬虔」(けいけん)と訳されているこの語は
英語ではgodliness と訳されていることが多いようだ。
(敬虔と言われても何のことか私には分らない)

さて
godliness、神に似ることは神の命から生ずる以外には
あり得ない。 逆に言えば神の命が人に与えられたのは神に
似るためである。「この目的のために 神は私達にとって必要な
総てを与えられるのです」と ペテロはこの箇所で暗示している
ようである。

更にその「総てのもの」中には私達から見て 
好ましい環境だけでなく、 とてもしばしば
「あまり好ましくない環境」も含まれているはずである。
ペテロの手紙が非常に困難な環境の中にある兄弟姉妹に
向けて書かれたと言う事実を思うならば 
それはなおさらの事ではなかろうか。

2011年1月17日月曜日

山散歩に行きたい(ケサの日記から)

朝6:50
外マイナス7度、内2度で内外差は9度。
嵐は去ったと思っていたのだが 今激(はげ)しく雪が
降っている。これは日本海側の雪雲が阿武隈まで延(の)びて
いるためである。しかしレーダーを見ると多分ここは、
その雲のはじっこのように見える。予報も9時からは
晴れとなっている。いずれにしろ、これから数日は
お日様マークなので、大雪に閉じ込められる可能性は少ない
筈である。それにしても このレーダーの図というのはあり難い。
より高き事実は人に安らぎを与えることが出来るから。
(http://weather.excite.co.jp/img/mesh/)

今日は風邪引き後初めて 山散歩に出かける準備をしたい。
これは私にとって どうしても必要な日課なのだ。
だから今日は長靴の破れを修理しようと思う。
今日の山散歩はこれから風も出てくるらしいので
難しいかも知れないが・・。

Ⅰペテロ1の3
his divine power has bestowed on us
everything necessary
(神の神聖な力は 私達に対して 必要である総てを
既に与えられておられる。)

私達の必要は総てすでに与えれれているのだ。
それは全く無条件にである。これは第一級の崇高(すうこう)な
神の事実である。(事実には第一級もあれば、第3級や第4、5
・・級の事実もある。ただし神の目から見て、真に事実と言える
ものはただ第一級の事実のみであろうが・・)

ただ私達がこの時空の中においてその事実を
「経験、実感するためには」
私達が「この肉体の中において」果たすべき条件がある
ことも確実なことではある。

2011年1月16日日曜日

嵐が去りました

明るい一月の朝の光が森をつつんでいる。外マイナス11度、
内2度、内外差13度。幸い昨夜の新雪は5~6cmほど、
これだと雪かきは全く不要である。更にあり難いことには
「私が何をしなくとも」これから数日の太陽光が雪を大分
解かしてくれるだろう。幸い今回の全国的な嵐は
ここには殆ど関係がなかったようである。


Ⅱペテロ1の1~2
through the righteousness of our God and
Savior,Jesus Christ
(私達の神と救い主、イエスキリストの義を通して)

「イエスの義によって」(新改訳)よりも
「イエスの義を通して」の方が ずっとよい。それは、
「~を通して」の方が
「イエスの義が すなわち私達の義とされる」と
いう驚くべき神の見方をよく指し示すことが出来るから
である。 私はこの恵の前にただひれ伏し、この神を
礼拝する以外に取るべき他の行動を知らない。

続く二つの聖句が以上のことを更に裏づけている→
①have been granted a faith(信仰が与えられたのである)
②May grace ・・be lavished on you
(恵があなた方に惜しげもなく ゼイタクなほど与えられる
ように)

総ては惜しげもなく与えられたものであり、また
これからも 与えられるのである。

2011年1月15日土曜日

極寒も楽しからずや

外マイナス7度、内3度で 内外差10度。今年の場合
マイナス7度位だと「なんだ今日はそんなに寒くない日だ」
と思ってしまう。

やはり昨晩 雪は無かった。今日は曇りで朝少し雪が降り、そして
また 今晩6時から明日の朝3時まで降り続くようだ。しかし、
降水量はせいぜい1なので今晩物すごく積もるということは無い
と見る。それに明日から4日間お日様マークが出ているから 
たとえ今晩積もったとしても 数日雪かきをすればロイヤルロード
からの脱出は可能である。

(問題なのは 重い雪がシンシンと丸一日以上降り続く、
というような場合である。積雪が車のバンパーを越えてしまう
程にでもなれば たった一人での長距離の雪かきは相当辛い
ものになってしまう。)

以上のような状況を見ると 今日の午後あたりに
小屋を捨てて本格的に「脱出」しなければならない、
と言う可能性は少ないであろうと一人結論を下す。

「チバラギ」の実家にいれば、雪模様対してこんなに
神経をとがらせることなどあり得ない。しかし確かに、
どう雪と極寒を乗り切るか、もまた楽しからずや、
である。

2011年1月14日金曜日

山暮らしの生命線

病院に入院費を払いに3時に出かけたのだが、
書類を忘れて引き返した。しかし幸い病院は土曜もやっている。
明日朝 出直そう。町立三春病院はいい病院である。

予報によると今日降るはずが無い雪が降って来てギョッとした。
しかし「気象レーダー」なるものを初めて見て安心した。
それによると「雪は明日の朝数時間」という事が私でも 
ある程度理解出来るのである。

万一 今晩ある程度積もったとしても朝 雪かきをすれば、
まさかロイヤル ロード(小屋から林道までの250メートル)を
抜け出せないことも無かろう。
水と道路、これが冬の山暮らしの正に生命線なのです。

普通の生活へ

今朝
外がマイナス12度、内が1度で内外差13度。(田村市は
マイナス5度と 最高がマイナス1度)晴れだが極寒である。

今日は新しいスタートの日、徐々に病気以前の生活に
戻して行きたい。
今日は フラフラ感の中でそれをする。郵便局、病院、買い物等
がある。その前に片付けと掃除。(掃除はムリかな?)

明日、あさっては「一時雪」となっている。これなら明日の
下山回避もあり得るか? いずれ天気情報から目が離せない。


「私達は 鏡のように主の栄光を映す・・」
(Ⅱコリント3の18)私は鏡です。だから私の使命は 
主という光の源の方向に私そのものを セットするだけ。
あれもこれも忘れたとしても これさえ出来れば
合格点はもらえるかも知れない。

その場合、光は時に他の人にさえ届けられる。その人は
私を介して 光そのもの(啓示と暖かさ)を得る。
(更に太陽は人が生きるための総てです)
─以上がこのたびの病気によって再確認させられた
ことの一つでした。

2011年1月13日木曜日

シュガー風邪2

早朝の体温が遂に6・2度。これが私の朝の平熱
なのだろう。(昨日朝は6・4度で、まだ多少違和感が
あった)これでようやく今回の風邪も「ほぼ治癒」と
言えそうである。(タンは少し残り、長く寝ていたせいで
フラフラ感はあるが)

今回もジャストぴったり2週間で癒えた。この期間の短縮は
気管支拡張を持つ私には殆ど 不可能であることが改めて確認
された。 そしてもう一つ このシュガー風邪には薬を飲んで
何もせずただ黙って寝ているしか 方法が無いと言うことも。

風邪が癒された時に行う私の「儀式」が入浴である。今日は
そのギシキを行い、その後またベッドに入り体を暖かくして
過ごそうと思う。明日は病院へ行き、二泊の入院費2万何がしを
払い、喘息の予防薬をもらう。出来ればお世話になった先生に
挨拶も したいのだが・・

週末は或いは大雪の可能性があると言う。だから最悪下山も
あり得る。 今日中のギシキはその大雪予報のせいでもある。
(土曜に実際の 雪模様を見てから、小屋を捨てて山から逃げ出す
ことになる かも知れない。)

①「私と私の状況」がどうであろうと②「主と主の完成された
御事実」に何の変化もない。①を見つめ過ぎて 霊的に
オタオタするべきではない。 ただ②に感謝し安息しよう。

2011年1月12日水曜日

シュガー風邪

~さん
ご心配をおかけしてすみません。

2日に退院した後は 確実に良い方に向かっているのですが
ただいつものように その回復のスピードが非常に遅いのです。
でも もう2、3日もあれば大分元気になるでしょう。

私は若いときから(中学生から45歳くらいまで)
かなりヒドイ喘息だったので
厄介なことに ゴク小さな風邪でも一旦引いてしまうと
必ず重くなるのです。(気管支の検査をし「気管支拡張」
がある とある医師が言った。小さな風邪でも必ず重くなって
しまうのはそのせいでしょう。)

その風邪の症状はこの数十年間 いつも殆ど同じ経過をたどり、
治るまで ほぼ2週間ほどかかります。その幾つかの症状の
推移のパターンも面白いように毎回同じです。

ということなので 一年半に一回くらい風邪をひいてしまうと、
(これはやむを得ないことです)
それがゴク軽い風邪であっても その軽い風邪がむしろダンダン
重くなり 遂には必ず寝こんでしまいまうのです。
そして風邪が治る最後の数日に至るまで
①気管支の炎症によるタン②微熱③体のダルさ④軽い頭痛、
があり、2週間が過ぎて それらが去ると初めて「あ、治った」と
分かるのです。今はその最後の数日にいるはずです。
だから私は勝手に これは私独特の「シュガー風邪」だと
思っております。


再度申しあげます。
以上のようなことですので
せっかくいただいた年賀状のお返事をまだ書けないでおります。
真に申し訳ございません。

2011年1月8日土曜日

新記録マイナス15度!

田村市の予報はマイナス4度か5度なのに 
今朝小屋のデッキの寒暖計は マイナス15度。
大幅な記録更新です。(これまでは-8度)
暖房をしていない居間はプラス3度であるから、内外差
18度であり、この点は嬉しい。(この小屋が外の低温の
影響を受けにくい ということだから)
凍結は全くありません。これも嬉しい。

風邪は鼻汁と気管支の炎症がまだ残っており、
そのためにダルさ、軽い頭痛 があります。
熱もきのう夕方は最高7・2度でした。まだ病人の
感覚です。

しかしこれらは 完全にこれまでの私の風邪の特徴そのものであり、
心配はしていません。おととしの場合も全治まで約2週間くらい
かかっています。そうだとすると今回の場合12日頃には良くなる
筈です。もう数日ジッとしていましょう。慎重に慎重にです。

洗濯、食事等 身の回りのことは何とかできます。
それにしても我ながら あの入院と退院のタイミングの絶妙さに
驚ろいています。もしもあの2日に入院出来なかったら必ず大事
(おおごと)になっていたでしょうね。(救急車を呼ぶとか)
本当に主に感謝です。

年賀状の返事は書いていませんが これはやむを得ません。
年賀状を下さった皆さんごめんなさい。

2011年1月5日水曜日

実は入院してました

大晦日
*一人風邪引きの山小屋*

風邪を引きました。症状は:
鼻─粘液が粘っこく中にへばりついている感じ。
しばしば鼻をかむ。
熱─体温計がないので分りませんが、37度ジャスト
くらいはあるかも 知れません。
ノド─エガエガあり。
気管、気管支─まだ風邪はそこまでは侵入していないと思います。
そうならなければいいが、と願います。しかしこれまで私の場合
ノドを占拠したウイルスが 更に気管、気管支へと侵入しなかった
例が無かったので、半ばもう覚悟は しております。
そうなると、この風邪は結構長引いて しまうでしょうね。
体力─今の所こうやってPCに向かえるのですから 感謝です。
(自分のためにも 自分の窮状を分析して書き表すことは
いいことですから。)

で生活をどうするか:
①とにかく寒くしないこと、洗面、炊事、トイレ、給油等のため
暖かい自室から出なければならない時は十分な配慮をすること。
②体が許す範囲で、自室にこもり 自室で可能なことのみを行う。
これから もし悪化し それにムリ感が生じればベッドで過ごす。
③食事─ダイニングで準備し、自室に運んで来て食べる。なるべく
各種の 食材を食する。(昨日オレンジを買って来ておいたので
よかった) 食料、燃料、 水さえあれば 風邪を引いても大丈夫!


このブログ、実は自分の日記をもとにして
今日5日小屋で書いています。この(1)の続編は次回から
少しずつ書いて行くつもりです。
で 結果を言えば、三日に入院をし、今日五日退院したのです。
しかしまだ完治には程遠い感じです。故に今ムリしてブログなど
長々書くべきではないでしょう。だから今日はこの辺でやめて
休みます。それでは皆さん お休みなさい。

2011年1月1日土曜日

妻からのレポート

こちらに来たあなたへの年賀状を山に転送しました。

29日にワタルたちが来ていました。
四つ切大の結婚写真と 葉書大の写真3枚ずつを3人分
持ってきてくれました。あなたの分はあとで送ります。

それからケンに、アイポット?だったかな、音楽を聞く
ことの出来る端末の機器ですが、プレゼントとして
持って来ました。病院で使えるかどうかは 病院に聞いて
見ますが、少なくとも退院の励みにはなるでしょう。
決して安いものではないと思います。気遣いが嬉しいですね。

ワタルですが1月には長年続いた、新潟のプロジェクトが
終わるので、いったん東京に引き上げ、その後、こちらで
新しいプロジェクトを捜す・待つことになるとのことです。

アツ子さんは相変わらず飾り気無く、明るく、率直で、
イロイロと気を遣ってくれてました。

最後に帰ろうとしていったんバイクの後ろにまたがったのに、
あわてて「アッ、忘れてた!」と、わざわざ降りてきて、
「良いお年をお迎えください」と挨拶するので、
こっちも大慌て…、道路の真ん中で大爆笑しました。

2人ともいい子です。