2010年9月6日月曜日

六度目の脳梗塞

間違いました。
心筋梗塞ではなく 脳梗塞です。
肝心なところのミスでした。ごめんなさい。


しばらくの間 
「山暮らしのキリスト」をお休み致します。

六度目の心筋梗塞(2)

その前日 即ちご主人の容態が悪化した日、
主は施設に ある人を配置しておられました。

既に三つの病院では 重篤(じゅうとく)なご主人を
受け入れることは困難でした。しかし何と
一人の看護士さんのある機転によって  
以前入院していた一番理想的なあの病院に
入院することが出来たのです。

ほどなく ご主人の体から点滴等の一切の管が
はずされました。舌はよく動かないのですが、
介添(かいぞ)えの人が口まで運んでくれる食べ物を
自力で飲み込むことが出来るのです。

顔に安らぎがうかがわれ その様子は正に幼子のようにすなお、
目と耳はよく働き、特に「イエス様のこと」
聖書の言葉や賛美に ことごとくよい反応を示されます。
皆で祈っているとき、彼は右手を天に差し伸べるのです。

2週間が経過(けいか)し、ご主人は入院前と同様
福生の「日の出荘」に落ち着かれました。
陽子さんにもまた以前の平和な日常が戻ったのです。

2010年9月5日日曜日

六度目の心筋梗塞(1)

陽子さんのご主人のその後です。
8月の初め その前日
陽子さんは自分の部屋で一人で祈っていました。
主はその時、過ぎし日の彼ら夫婦の姿について
陽子さんの目の前にアリアリと描き出されたのです。
たまらず陽子さんはあふれる涙の中
主に自分たちの 御前における罪について
一つ一つを心から主に赦しを願ったのだそうです。

そしてその祈りの中 
不思議なことに陽子さんは 
遠い施設におられるご主人の霊も共に
主に向かって祈っているのを
明確に感じられたと言います。

その翌日 陽子さんは突然 
施設からご主人の 極めて深刻な急変を知らされます。
(既に右脳と前部の脳の機能は停止状態の中
今回は左脳へのアタックだったようです。)
陽子さんは直ちに数時間かけて施設へと向かいます。

しかしその陽子さんよりも前に
娘さんが彼の部屋に着きました。
何とそれを認識出来たご主人は
まるで「怪獣のように」泣き始められたのです。

陽子さんがようやく到着しました。
娘さんが
「お父さん、待ち人到着よ!」と大きな声で言った
そのトタン えんえん一時間半に渡る怪獣のような
彼の号泣はピタリとやんだと言います。

2010年9月2日木曜日

祭壇

キリストの十字架は 旧約では
祭壇(さいだん)として描(えが)かれております。

従って祭壇上に縛(しば)りつけられ、
鋭利(えいり)な刃物で切り裂かれ
神の火で焼かれ 灰になった動物の実体は
実はイエスです。

更に旧約において
人が「その獣」の頭に手を置いた時
人はその獣と一つとされました。
手を置くことは一つ・連合を意味するからです。

これは何たる絵でしょうか。
私達が今日 
信仰によってキリストの頭に手を置く時
神によって私達はキリストと一つと見なされ

従って
「私と私の一切」はキリストと共に 
神の火によって焼き尽くされ、
そして
その煙は直ちに天にかけ上り それは
神を喜ばせる芳香(ほうこう)とさえなるのです。

これのみが
人が神の喜びとなる唯一の方法です。

2010年9月1日水曜日

プロポーション

九月
気持ちのよい朝です。
外では黒ツグミが元気よく歌っています。
さすが阿武隈 今朝は驚くほど涼しい朝でした。

部屋や家の「全体」が美しく見えるかどうかは
個々の物品の単独の値段や豪華さにあるのではなく

それらがたとえ安物であっても
個々の物品が「どう配置されているか」
にあるようです。
(私はこれを自分流に
「プロポーション」と呼んでおります)

俳句のよさも
単語の選択と配置で決まる
ように

私一人が見つめられたなら 
私はどうにもならない人間であっても

もしも私がキリストの体
エクレシアの中にあり
神によって 
適切な場所に置かれたのなら
私でさえ 
キリストの体の故に
その全体の美しさの故に
美しくも見えるようになる、
ようなものかも知れません。