2009年4月29日水曜日

ラザロ

*御両家の皆様へ*
こんな用事をメールですみません。
お心遣い、本当に有難うございました。


ブログに書いた「wさんへ」は私達の真実な心です。
本当に不思議です。あの時以来、それ以前にはなかった、
「深く確かな安らぎ」のようなものが、
我が家をとても暖かく包んでいるようです。

そうそう、今思い出しましたよ!
16日に、ブログの「二つの不思議なメール」を
ジュンが読んでくれて、涙を流したことを。

そして18日、
病院に私達が駆けつけた時、激しい完全な即死にも関わらず、
何故か
ジュンの顔と体の表面に、転落の損傷が全く見られず、
全身、一筋の出血さえも無かったこと。そして、
その顔が、正にあの眠っているジュンであったこと。
(最初に手当に当たられた担当者が敢えて告げた。)

それは、
病気に苦しみ、汚れた生き物が
その病気を舐めているばかりのあのラザロをさえ、
人が普通に持つべき心の満たしもなく、神に対して何らの
功績も記録されることの無かった貧乏人ラザロをさえ、
アブラハムの懐に連れて行ってくれた御使いの、
きっと「その手の支え」であったのでしょう。

そのような、
ラザロのようなジュンの死でさえも
このエクレシアの中においては、
時空を超えて
霊の中における総ての聖徒達との
深い繋がりの中においては、これからも
少なからず、ある意味を持って行くのではないだろうか、
なぜか、そんな気さえするのです。


心からの神への賛美の中、 
この感謝を御両家の皆様に送ります。
本当に有難うございました。


   ☆          ☆
ラザロ:
ルカ16章。このラザロはあのマリヤ、マルタの兄弟、
蘇生したラザロとは全く別人物です。
ラザロを舐めていた犬、ユダヤ教においては、
それは汚れた生き物(原文は複数)でした。
「ラザロの信仰」、それは一体どんなものだったのでしょう。
聖書はそれについて、直接には何も語っておりません。

w さんへ

*             
昨日、新緑の輝く光の中、

ジュンの部屋の片付けから帰る道すがら、

それは、

妻と深い静かな「喜び」を 分かち合うひと時となりました。

「ジュンは本当に爽やかに、サッと私達から去って行ったね。」

これが、妻との完全に一致した、とても不思議な思いでした。


主イエスよ、ジュンのこと

これまで、ホンとに有難う。

「偉大な御心」との関連において

*ジュンは今どこで何をしているか2*
総ての問題は、それ一個で屹立(きつりつ)することは少なく、
他の多くの問題との深い関連の中で起こります。「ジュンは今・・」
のこともその例外ではありません。この問題の背景をなす諸問題の
背景は驚くほど深いようです。

先ず、私達は「その人の生涯に対する神の御心」とその一問題、
との関連を見なければなりません。
それは、「ダビデの心」が先ずあり、そして「ダビデの国」の一国民である
その人に突然降りかかった「悲劇」が次にあった、と言うことです。
その問題を唯一単独であると捉え、もしもその人がいつまでも、それのみを
凝視し続けるならば、彼の倒れ方は酷いでしょう。そして倒れ方が酷い
だけでなく、彼のそれ以後の人生に深い意味を見出すことはとても
困難なものとなるでしょう。それは極めて残念な事です。

しかし、彼がダビデの偉大な心を真に知り、もしも彼がダビデと一つである
ならば、たとえ彼が一晩は夜通し泣き明かすとしても、翌朝には早くも、
イスラエル全体の問題の中における彼の一問題の位置づけに彼は容易に
気づくに違いありません。即ちその問題は、他の多くの神の心に関わる、
価値ある大切な問題との関連において、敢えて
「神によって」許されたものである、と言う事実に思い及ぶ筈です。

そして更に彼は、彼の個人的であると見えるその一問題が意外にも、実に
大きな価値さえをも含んでいることを知るのです。ここに至るならば、
彼は何の無理も無く賛美と感謝を神に捧げることでしょう。

それだけではありません。この段階に到達し彼は初めて、
「彼の個人的な悲劇そのものにさえ注がれたダビデの深いケア」をも
知るのです。即ち彼は、自分の心のケアよりもむしろ、王ダビデの深い
御心に思い及ぶとき、その時彼は、既にダビデがいかに彼の個人的問題に
対しても、大きな愛の配慮と決め細やかなケアを注意深く
用意されておられたかを知るのです。この時、
彼の涙の性質は完全に変化することでしょう。


今私達も、
先ずは「私達の真のダビデ」が今何を目指し、何を大切にしておられるのか
を本当に知る必要があるのではないでしょうか。次にそれとの
関連において、ダビデが「私の全生涯」にどのような御心を持っておられる
のかも知るべきです。それがパウロの言う
彼の「全行程」「走るべき道のり」(Ⅱテモテ4の7)です。

それでは、「その道のり」をどうやって今私達が知り得るのか。
これはまたもや、実に大きなテーマとなります。
しかし敢えて簡単に言うならば: 

①先ずはダビデの心にある偉大な神の御心に関する幾多の「知識」が
必要です。それを簡単に言うならば、カナンのよき地において、それを
不法占拠している多くの強敵と日々戦い、それらを駆逐し、その様にして、
その地に神の宮(今現在は主のからだとしてのエクレシア)を建造し、
次に時代における「完全なソロモンの王政と主権」とを
天地にもたらす、備えをすると言うことです。
私達は今それらの詳細に関わる、神からの私に対する個人的な啓示に
深く触れられ、印象付けられる必要があるでしょう。

②ここに至るとあなたは喜んで、あなたの神の御心を前にして、
神に対して喜んで「真の献身」をするに違いありません。

③次に今度は「私の生涯に関する神の御心」を知ることを
願う真実な心が必要とされます。
そうする時に、必ず神はあなたの霊に(頭にではありません)
喜んでそれを啓示されるに違いありません。
それが一旦与えられるとき、あなたはそれを、人の言葉で他人に
軽々に語ることさえ はばかられるかも知れません。しかしあなたは、
それをある深い、動かしえない神からの、あなたに対する
生涯の御心として、確信することが出来るのです。

そして更にあなたは、それ以後、一歩一歩の日常生活における
神に対する従順の中で、それが真に神の御心であったことを追認識し
(その時、具体的で深い思いへの理解も与えられるでしょう)
そして、ただ神を賛美するに至るのです。

2009年4月28日火曜日

ジュンは今どこで何をしているのか

この問題に人の頭脳が答えようとする、
それは一言「愚かです」と言うしかありません。
ですから、この問題への正しい、そして正直な反応は
唯一「分かりません」である筈です。

何故なら、人の頭脳はしょせん物質であり、頭脳が持つ能力の
範囲は「物質の世界」(いわゆる自然界)即ち、時空内現象に
限定されるからです。それでは、人の魂はどうでしょうか。
魂は明らかに物質ではない側面を持ちます。
しかし私達は人の魂とは、物質起源のものであることを
記憶しなければなりません。魂の基本的な特徴はこの世界に属する
と言うことです。(従って余談ですが、自然的な人が「魂の命」から
脱却することは極めて困難なのです。)

ジュンは今どこで何をしているのか、この質問は絶対に人には
答えられません。これは今シッカリと確認しなければならない
とても重要なポイントです。


しかしながらここに、
大いなる希望と逆転の根拠があります。
それは、
「初めにことば(御子)があった。
ことばは神と共にあった。
ことばは神であった。・・
総てのもの はこれによってできた」
と言う真理です。

「総てのもの」ですから、そこには時空とその中の万物も含まれる
はずです。ですから、ある日ある時、全宇宙は御子によって創造された
のです。ヨハネ1の1の「ことば」とは人に対して表現された神、
と言う意味です。(人もそのことばによってその人を表現するように)
神は「そのことば」(御子)によって万物を創造されたのです。
更に、コロサイ1の16によると、万物は「御子のなかで」創造された
とさえ言っております。何と御子は大きなお方でしょう!

従って真に偉大なのはこの御子であり、時空などではありません。
この広大な全宇宙でさえも、それはある時、神のことばによって、
神のことばの中で創造された、物質の一体系に過ぎないのです。

さて、もしもそのような神が実在するのであれば、
その神は当然、大いなる能力と知性をお持ちになる筈です。従って万物の
創造においても、そこには人では計り知ることが出来ない立案性、計画性、
そして芸術性さえあるはずです。ですから、この時空世界の創造には、
明確な目的があり、ある時に始まり、その目的が達成された日には
必ず終結を迎えるはずです。


ジュンは今どこで何をしているのだろうか?
それは、初めから神と共にあった「ことば」に聞けばよいのです。
それは「ことば」なのですから、これも私の「真実なことば」によって
その「ことば」にお聞きしようとする、真実な私の心さえあるならば、
その「ことば」は、むしろ直ちに答えようとして、私の「ことば」
(問いかけ、祈り)を待ち構えていて下さるのではないでしょうか。

しかしそうしないで、人の頭脳と魂、そしてその感覚の世界に、この
質問を投げかけそして、そこからの反応に不用意に触れ、受け入れて行く
ならば、それは必ず大変な時間の無駄となり、そして更に単に無駄である
に留まらず、極めて深刻かつ、底の見えない深い悲しみに「引きずり
込まれる」結果となるのです。(これについては後日触れる積もりです。
これは大きな問題です。)繰り返しますが、もしも万物を創造されたお方、
万物の前に「存在された」お方がおられるのであれば、その方にお聞き
するのが一番であり、むしろそれはとても賢いことであるはずです。

万物そのもの、即ち自然界については科学者に聞けばいいのです。
感謝なことです、私達は、彼の血と汗による何十年の成果を
一つの質問によって直ちに手に入れ、その恩恵に浴することが出来ます。

しかし、自然界を超えた事柄については、彼に聞くのはお門違いですし、
彼も困惑するばかりでしょう。しかしながら自分の頭脳や人の魂の感覚に
聞くことは更に愚かであり、それ以上に極めて危険であると言えるのです。
ですからここに至り、どうしてもやはり、このたぐいの質問は「初めに」
万物の前に「存在」されたお方、にお聞きする以外に他の方法は
全くあり得ない、と言う結論に到達せざるを得ないのです。

2009年4月27日月曜日

初めに

ヨハネ1の1「初めにことばがあった」の初めに、は
「究極的な過去」いわゆる「永遠の過去」です。
創世記1の1の「初めに」は
時間の創造における「初めに」です。


初めにことば(御子)があった。
ことばは神と共にあった。
ことばは神であった。・・
「総てのもの」はこれによってできた。

ある姉妹の言葉

昨日電話で、この数年来ガンと戦っておられる
ある姉妹と交わることが出来ました。
最近はこの姉妹、そのブログの更新も自由になりません。
声もかすれ、長い電話での会話にも注意が必要です。
以下は彼女の言葉です:

今私には死への不安、恐怖のようなものはありません。
苦しみは多いのですが深い所において、動かしえない安らぎ、
「感覚を超えた安らぎ」があるのです。
それに不思議ですが、あのジュンさんの生前の大変な苦しみが、私には
手に取るように分かったのです。だから、遂に得られたアブラハムの
懐でのジュンさんの今の安息が実に真実なものであるとの
確信が私にはあるのです。

・肉体の死を見ることなく天に携え挙げられるために、今死に抵抗すること、
・主イエスとの一つ、そして総ての聖徒達とのエクレシアにおける有機的
 結合の中において更にこの地上に留まること、
・そして勇躍パラダイスの安息に入らせられること、
今私はこの三つの素晴らしい事実の中で、どれを最も願うべきなのか
その板ばさみの中にいるかのようです。

最近こんなことがありました。
薬の副作用だったのでしょう、私は様々な混乱した画像、
映像のような感覚に悩まされたのです。
ところが、そのようなものとは全く別に、私に
ある深い、声でないような声が来た、と思います。
それは「今この時点が折り返し点ですよ」と言うものでした。
(それは奇しくも18日正午頃のことでした。)

2009年4月26日日曜日

真のダビデ、ソロモン、ブドウの木&永遠の命

「真のダビデ」とはエクレシア時代における王キリストです。
「ソロモンより勝った者」とは次の千年期における王キリストです。
キリストだけがいつの時代においても「ザ・王」であり、「ザ・主」です。

ヨハネ15の1で、主イエスは「私は真のブドウの木」と言われました。
この言い方をそのまま受け入れるならば、ブドウの木とはキリストであり、
他のいわゆるブドウの木は、真のブドウの木ではなくなることになります!
これは大変な主張ですが、こういう表現は新約聖書にいくらでもあります。
(真の~、永遠の~、等はみなそうです。)

そうです。新約聖書における基本的な主張の一つは正に
この点にあるのです。即ち、紀元前千年頃に生きていたあのダビデや
ソロモンは実は真のダビデ、ソロモンではなく、そのリアリティは
キリストである。彼らは単に、真のダビデ、ソロモンとは
いかなるものであるかを描く絵、説明、ひな型に過ぎない、
と言っているのです。即ち、リアリティ、実在、真の存在とは
神ご自身であり、キリストであり、復活のキリストである、
と言っているのです。

そういわれて見ると★「究極的な過去」においては時空も、宇宙も無く、
ただ霊である神のみが存在していたはずです。(もしそうでなければ
時空や宇宙が神よりも偉大であることになってしまいます。)
だから初めのリアリティは見えないもの・霊なる神でした。
それは創造されず、時空の前にあり、初めも終わりもない正に
「存在」そのものでした。それこそが真のリアリティです。
聖書で言う「真の」「永遠の」というのは正にこの意味で、なのです。

ですから後に「神のことばによって」出現した「時空と目に見える
その中の万物」の「実在の度合い」は「真の実在である神」の
「実在の度合い」と比較するならば問題にならないくらいに低いのです。
それは限りなくゼロに近づきます。いや結局それらは実在ではないのです。

所で、私達が受け入れ、私達の中にある「永遠の命」とは
正にそのようなたぐいの「真の」命です。だからこの場合の
「永遠」とは、この物質界にある「いわゆる時間」のエンドレス
などではありません。永遠の命とは、初めからあった、
創造されることのなかった、しかも人の死を破壊し尽くし、今や
何物にも制限されることのあり得ない、卓越した神の命なのです。

・神はモーセに言われた:私は「私はある」という者である。
 意訳すれば、私こそ「存在」である。(出エジプト3の14)
・私(イエスキリスト)が実際なのです。(ヨハネ14の6)
・私達は見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。
 見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。
(Ⅱコリント4の18)

★「究極的な過去」:ヨハネ1の1「初めにことばがあった」の
初めに、が「究極的な過去」、いわゆる「永遠の過去」です。
創世記1の1の「初めに」は時間の創造における「初め」です。

「初めにことばがあった。
ことばは神と共にあった。」

2009年4月25日土曜日

ダビデの時代

・・
そのためには、「無数の日々の礼拝」
(交わりと祈り、そして賛美と感謝)は
どうしても欠かすことの出来ない要素です。

しかしながら
その真の礼拝の背後には必ず、
敵との戦争が存在しなければなりません。
ですから「今の時代」
即ち「ダビデの時代」における礼拝はどうしても
剣を帯び、甲冑をまとった
「敵の前の宴(うたげ)」「荒野の食卓」(詩23)
でなければならないのです。
・・
そのような激しい戦闘を伴った宴が
私達の現実となる日、即ち私達がダビデに従い
流血を伴う無数の戦いを経過する時、
神の義が支配するソロモンの絶対的な王国へと、
真に時代が転換する可能性があるのです。

「見よ、真のダビデがここにいる、
ソロモンより勝った者がここにいる!」


「真のダビデ」とはエクレシア時代における王キリストです。
「ソロモンより勝った者」とは次の千年期における王キリストです。
キリストだけがいつの時代においても「ザ・王」であり、「ザ・主」です。
*「流血」とはキリストと共に十字架に付けられて私の「天然の命」
魂の命を注ぎだすこと、即ち「私の旧創造」を死に渡すと言うことです。
それによってのみ、私達は戦いに勝利する可能性があります。

ただし、
この「流血」は神の子キリストにおける贖いの流血ではありません。
当然のことながら絶対的に私達罪人にその分はあり得ません。

2009年4月24日金曜日

痴呆症の父と私の「礼拝」

*あるメールから*
父がICUに入ってから一週間がたった頃から、
天に召されるのだなという覚悟ができてきた。
もう頭も身体も疲れていて、
毎日 その日が過ぎていくにまかせていた。
父も昏睡状態に入り
声をかけても、応答できなくなっていた。

召される2日前だった。
眠っている父に、「お父さん、お父さんの好きな
『人生の海の嵐に』を歌おうね。」と語りかけたら
ピクッと眉毛が動いた。

父の耳元で静かに歌い、
「さあ、『主の祈り』を祈ろうね。」と続けて言うと、
私の声にあわせて、まるで祈りの言葉をかみ締めるかのように
ユックリ、ユックリと首を振っている。

私自身、心も身体も限界に来ていた。
それまで反応が無かった父が、賛美と祈りに応答したことが
慰めであり、天で再び会えることが希望であった。


あれから7年が過ぎようとしている。
かってアンドリュー・マーレーの「キリストの御霊」を読んだ時
人間的なものからいっさい解放された、
霊とまことの礼拝について書かれている箇所を読み、
そうありたいと願い続けてきた。

7年前、あの惨めさの極限を超え、肉体、魂の力がつきはてた時、
父は主に向かい、ただ主だけを礼拝していたのだ、
と気がついたのは、ごく最近のことだ。

気がついた時、ただただ泣いた。声を上げて泣いた。
頬をつたう涙は、温かかった。
慰め主なるお方を、ほめたたえる。

天にまします我らの父よ
ねがわくは、御名をあがめさせたまえ
御国を来たらせたまえ
御心の天になるごとく
地にもなさせたまえ
我らの日用の糧を 今日もあたえたまえ
我らに罪をおかす者を 我らがゆるすごとく
我らの罪をもゆるしたまえ
我らをこころみにあわせず
悪より救いだしたまえ
国とちからと栄えとは
限りなくなんじのものなればなり (主の祈り)

確かに人には「霊」がある。
信じる者には、キリストが内に住んでくださる。
そして、主との豊かな交わりが持てる。
慰めてくださるお方が、共にいてくださる。


Sugar:
有難う、更に慰めを得ました。
今はもう、
総てを後にする時であると、感じさせられております。

無数の礼拝が必要です

簡単にお答えします。
総ては「神対サタン」です。ですから私達は
断固 神に組し、サタンに恥辱を加えるべきです。
キリスト者が今敢えて時空の中に残されている意味は
正にその点にあるのです。

「今回のこと」もおそらくそれでしょう。
神が何かをなさろうとするとき、何故か彼は先ず
キリスト者の霊に「ある負担」を与え、そして祈らせます。
しかし、祈っても初めの内、思いの中ではそれが何であるのか、クリア
でないことが多いのです。しかしとにかくその時あなたは、神に対して
その負担を祈りとして「あのうめき」と共に表出しなければなりません。
だからこそ、様々な「祈りと交わり」(礼拝)が多く必要とされるのです。
(これこそ、実は「戦闘」の開始なのです。)

以上の一つ一つの過程がもしも「本物であるならば」そこに必ず
サタンが到来し、キリスト者の礼拝と実生活を迫害、攻撃します。
(しかし多くの場合は、残念ながら本物ではないので、
サタンはそれらを殆ど無視することが出来ます。)サタンの攻撃の結果、
それは一見、手ひどいキリスト者の敗北のように見えます。
(主の十字架のように)

しかし、実はその時こそ、永遠性のキリストイエスの復活が、時空内に
到来し、サタンの時空内現象に対し、遥かに超越するチャンスとなり得る
のです。即ち永遠のキリストの復活の超越性が、様々な勝利現象
として時空に残されている「弱くはかなきキリスト者の肉体」と
その環境の中に現れるのです。

これこそが今、時空(特に地上)を支配するサタンが恥辱を受ける方法です。
これが神のやり方の原則であり、このようにしてのみ、神の業は進んで行く
のです。この原則が働いていない いかなる「キリスト者の活動」も
絶対的に「神の業」の名に値することはありません。

今こそ私達は「神の御こころ」とそれを遂行する
神の原則(十字架と復活)を内的に見、尊重しなければなりません。
神が何かをされようとするとき、いかなる時であろうとも私達は留まって
一休みなどすることなく、神と共に前進しなければなりません。(しかし
ながら真に「神と共に前進する」とは「真に死ぬ」ことに他なりませんが・・)

そのためには、「日々の礼拝」(真の交わりと祈り、そして賛美と感謝)は
どうしても欠かすことの出来ない要素です。従って真の礼拝と言うものの
背景には必ず「激しい戦闘」が存在するのです。ですから
この時代(ダビデの時代)における礼拝は必ず
「敵の前の宴」「荒野の食卓」(詩23)でなければならないのです。

①神からの負担と、祈りへの促しが来る→
②日常生活におけるキリスト者の祈りと交わり(礼拝)→
③必ずサタンからの死と虚偽による攻撃、迫害がある→
④「永遠性の」キリストの復活・超越、勝利が
明確な現象として「時空の中へと」現れる→
①「神からの、更に進展した祈りと交わりへの促し」
この循環は極めて重要です。

必ず「このような循環」がこれから地上の至るところに
出現しなければなりません。それが現実となる時にこそ初めて
(隠された総てがあらわにされる、ソロモンによる
絶対的な王国へと)真に時代が転換する可能性があるのです。

ですから聖徒達よ!
あなたが住むその場所で、神が与えたあなたのパートナーと共に
この「礼拝の生活」に、今直ちに入られるようにと切望いたします。
何故なら今、時は迫っているからです。
(「使徒の働き」13の1,2)

2009年4月23日木曜日

兄弟の言葉、そのままに2

ジュン君は『殉教した』。
私はそう思います。
ジュン君の死は「種」となり、
祈りによって関わった私達エクレシア
の中に蒔かれました。
ジュン君の20年間には
キリストの足跡だけが残って見えます。

そして長男のケン君も「主の所有」として、
違う形で、違う場面で、違う領域で、
出番が用意されているのでしょう。

今回のシュガー兄弟を中心とした一連の主の業は、
私に励ましと慰めとを与えて下さいました。

2009年4月22日水曜日

ある記録

ジュンが突如として主の安息に入ったのは
18日の正午頃です。
誰がこのようなことを予測できたでしょうか。
誰にも出来はしません。

しかし、
その3日前あたり、少なくも4人のキリスト者がジュンに関して、
「ある程度ハッキリした感覚を主から受け取った」
と言うことはどうも事実のようです。そこで
ここに、ブログやメールに残されているそれらの言葉を
まとめて置きたいと思います。


15日朝6時 
私シュガーが「ジュンの為の祈りの依頼」をブログに載せた。
(当然このようなことの公表に多少のためらいがあったことは
否めませんが、内側にある促しがあったことも事実です)

15日夜
それに応じて
T姉妹が祈った後に受けたもの:
ジュンさんの上に起こっていることは、
何か主があらかじめ予定されていたことのように感じています。
必ず神の御業が現れるように感じます。
主が何かをする、というような感覚を受け取っています。
主は「わたしはわたしの民を整える」とも言われます。

T兄弟:
主は「わたしはする」と言われたように思います。

16日朝8時、
シュガー:
今のジュンの状況は少し大変ですが、「必ず一両日の内には」
何とか「収束に向かう」のではないか、と感じております。
人を「困惑のさ中に閉じ込める、このような出来事」の中にも、
何らかの「主の積極的な意図」が隠されているはずです。
先ず私がそれを信じること。そして、霊の中で、神の敵に
対する絶対的な優位な地位と立場を堅持して行きたい、
と願っております。
T姉妹へ、
「ジュンさんを縛っているもの」が取り除かれるように、
と言うあなたの一句がとても感謝です。(特に最近、それこそが
親としての切実な願いでした。)

16日午後1時
Y姉妹:
ブログでジュン君のことを読んだ瞬間
私よりも先に「私の中におられるお方が祈っておられる」
ことを知らされました。

兄弟の言葉、そのままに

ハレルヤ!
キリストはサタンを打ち砕きました!
主はシュガー兄弟を御自身と一つになさり、死の中に置かれました。
兄弟が御こころに抵抗されないさま。
主の御心への服従のさま。
私には、人の子イエスの弱さの様が、そこに
オーバーラップして見えたのです。

ジュン君を、主が用いられましたね。
何度も、ではなく、ただ一度流された御血の様に!
ジュン君の「人生」は「キリストの中」で完結したのです。
ハレルヤ!ハレルヤ!

主の御計画は、はかり難いです。
そして兄弟の中でまた新たな主の働きが、
この春の初々しい若葉の様に、もう既に芽生えている事でしょう。
主の御心の故にただ感謝と賛美を捧げます。

メールを有難う

シュガーさんへ
ブログを読み、感動しています。
柄沢登兄弟のこと、彼が私に模範を示してくれたと感じています。
正に「神の勝利、サタンの恥辱」・・この言葉ずんときました。

私もまた、いつかこの地上で、体から解き放たれる時が
必ずあるのですが、登兄弟のことはその時まで私の記憶に
留まるでしょう。いろいろな思いが私にあり、
今までメールを送ることもできませんでした。

ジュンさんのこと・・このような形で主の計画が訪れるとは、
私もうちの兄弟も考えませんでした。4月15日の夜の祈りで、
ジュンさんのことを祈ると、私に「わたしはわたしの民を整える」
そしてうちの兄弟には「わたしはする」と聞こえたように
思われました。しかし、私たちはその時、その意味を明確に理解する
ことはできませんでした。だから私達は思いの中で、
ジュンさんが癒されるのでは、と考えていました。

そしてその3日後に主がされたことを知り絶句しました。
でも、シュガーさんに電話を取り次いで下さった奥様の声は
明るく平安に満ちていました。主がそこにおられました。
私は難しいことは分かりませんが、ただ「そこに主がおられること」
を感じ取れたのです。ハレルヤです。

またいつか、主がシュガー兄弟と会わせて下さると
思っています。今、私にも平安があります。主に感謝です、  
止めどなく涙が流れるままに。


「4月15日の夜の祈りで、ジュンさんのことを祈ると、
私には主から「わたしはわたしの民を整える」
そしてうちの兄弟には「わたしはする」と聞こえたように
思われました。

このことを知らせてくれて、本当に有難う。
ここに一つの事実があります。
ジュンのことを、神の聖徒達が主に真剣に祈った時、
明らかに「主が反応された」のです。
だから、その結果がどうであろうと、それは
「主から出た神の御こころ」であったと、確信出来るのです。
今「息子を取り去ったのは、主であった」と心から信じることが
出来る父親は何と幸いでしょう!

今私も
「これら総てが神の真実から出たものである」と
感じる取ることが出来ます。
しかしこれは、正に霊的な戦いです。
これからも、私はこの「神からのレーマの言葉」を信じ、
悪霊から来る総ての邪悪な感覚を直ちに退けます。
主の御こころを私の意志として取ります。
ただ主を賛美します。


☆  ☆                       
 

柄沢家、訪問診療の医師の言葉

おととい、柄沢登さんの為に、
担当医による訪問診療が行われました。
その時の医師の言葉です:

「柄沢さんが、今一生懸命に無理をして
演技をしているのでなければ、
黄疸(おうだん)がここまで進行している患者が
これほどの 安らかさ の中におられるというのは
常識では全く考えられないことです。
耐えられないほど過酷な全身のダルさの為に
暴れる患者も珍しくはないのです。」


今兄弟は、重い病にもかかわらず、
全地のエクレシア(キリストのからだ)との、
有機的な繋がりの中、神の国の前進の為に
大きな役割を担っておられることは明白です。

これは医師や人間に対してのみならず、
事のほかキリスト者達に絶えず注目している、
目に見えない世界に生きる、超自然的能力を持つ
無数の「生き物達」
に対する強烈な証でもあります。
これが、「時空」に表現された
「永遠」における神の勝利、サタンの恥辱なのです。


ここにこそ
キリスト者が永遠性の霊の他に 
時空、物質に接し得る肉体を持つと言う
極めて稀有な存在意義があるのです。
(「今の時代においては」その両性質を持つ存在は
イエスの他、キリスト者に限られております。)

そして、これまたこの時代において「サタンの活動範囲」は
時空、物質に制限されています。(魂も物質の領域に属します)
従って、キリスト者が、神によって
「敢えて肉体(時空)の中に留まらせられる短い時間」を
どう過ごすのか、
と言う問題は極みに至るまで大きい、
と言わなければなりません。
何故なら、全宇宙における気宇壮大なストーリーは
結局「神対サタンの戦い」であるからです。

この時空の中、私達は一体
誰の為に生きようとするのでしょうか。

姉妹、メール感謝です

シュガーさん
おはようございます。

今朝のブログを読ませていただいて、
わたしの中に大きな喜びが沸き起こりました。
そして口をついて出てくる賛美は:

「死と悪魔に勝ちし 
君こそ勝利の主なれ 
君こそ真の主なれ
褒めよイエスを 
勝利のイエスを」と、

賛美が沸き起こるではありませんか。
更に天から復活の大きな波と言うのでしょうか、
あるいは力とでも言うのでしょうか、
それがワーと押し寄せてくるのです。

これは
「私がすでにキリストと共に天のみ座の前にいる」と言うことが
啓示によって開かれたときの感覚と一緒のものです。
すごいすごい!今こうしているときも天から
復活の事実が押し寄せてきます。
ジュンさんの死は勝利に飲み込まれてしまいました。 
ハレルヤ!!

美しい花籠を贈ってくれた兄弟へ

兄弟、残念ながら
花は昨日のジュンの場面には間に合いませんでしたよ。
でも、妻がその豪華でとても落ち着いた色調の
花籠を居間のテーブルの上に飾りました。
我が家の居間が美しく変化しました。
以下はその時 私が妻に告げた「あなたのお言葉」です:

「・・しかし、後に残った者の感情は、信仰に立っていても複雑な
ものがあります。特に男性よりも女性、中でも母親は大変です。
お差支えなければ、お祈りのために、奥さまやお子様のお名前を
お教えいただけますか。」

それを聞いた彼女は長男に笑いかけ、
「あ、私は母ではないかもね」と言いました。
これは事のほか嬉しいジョークです。

更に兄弟、実は私にとって全く予期出来なかった、
驚くべき「天からのプレゼント」があったのです。
それは、私が本当に長年の間 彼女の口から聞くことの
出来なかった「信仰の言葉」です。

・先ずはおととい、ジュンがなじんだ町八千代市の役所と
ジュンの部屋に行く車の中、突如として彼女が語り出したのです:
「確かに信仰は働く。人には分からないことが多い。でも
信じることによっていずれ主が状況の中で御業をなさる。
それだけは確実。」私が聞いた「主」と言う言葉の驚き。

・次は昨日 葬儀ホールの一室、ジュンのヒツギのかたわらで
彼女の口から捧げられた祈りの言葉です。

・火葬を待つ間、ロビーで私に語りかけてくれた言葉:
「ジュンの体との最後の別れは辛かった。しかし、それによって、
新エルサレムの意義が明らかになった。キリスト教で言う、
天国へ行くだけであるならば それは何か足らない。人の体は
復活する、そして万物は新たな形に再生する。この確かさこそ
素晴らしい。だから体は人に必要なのだし、いとおしい。」

それに次いだ私の言葉:「ジュンは今日焼かれるが、
かの日必ず復活する。それは決して蘇生などではない。
だから万物も必ずある日焼かれなければならない。」
これらは確かに上からの啓示です。

最近、ジュンの死の前から、彼女の内面に
何かが起こっていたことは疑い得ない事実のようです。
これはジュンの死が我が家にもたらした
最も価値あるものの一つでしょう。

だから確かに、
「あの時のジュンの死」とその前後の出来事は
総て永遠の過去において予期され、
そして注意深く準備された天来のものに違いありません。

T姉妹、そしてM家の皆様へ

メール有難う。私は元気ですよ。
でもそれは一つの条件付き。キリスト者がどうしてもつい
使ってしまうあの言葉「不思議」を伴った元気さです。
そう、私はその不思議の中で元気なのです。

キリスト者にとって親族の死とどう向き合えばいいのか、
これはやはり大問題ですね。愛する親族に明確な信仰告白が 
無かった場合であればなおさらでしょう。私達は
これらを一体どう考えるべきでしょうか。

いずれにしろ、やはりキリスト者はそれらを必ず克服して
行かねばなりませんし、今私はそれは可能であると考えております。
キリスト者にいわゆる「タブー」や「不問に付す」等と言う言葉が
あってはなりません。あのイエス様にその様な暗い部分などある筈が
ありましょうか。ですから、これらについてもおいおい、このたび
受けた沢山の「不思議な」思いを少しずつ書いて行きたいと
考えております。(でも私の考えはかなり風変わり、
皆さんがそれを受け入れて下さることが出来るでしょうか)

とにかく、ジュンの死は、これから(もう既にかな?)何らかの形で、
様々な面で生かされて行くことは確実である、との
これも「不思議な」感じがあるのです。
私はこれから必ず種々の不思議さをいろいろな場面で
見て行くことになるでしょう。

しかしどうしても残る言葉は、やはり「主に対する感謝と賛美」、
これは今の私にとっても、最後の不動の言葉です。

2009年4月20日月曜日

ジュンのこと 2

17から35才に至る彼の後半生は
この厄介な病・統合失調症との激しすぎる戦いでした。
近年 彼の精神病はある程度 改善されはしましたが、それにも
かかわらず、未だに残された病根の深さには計り知れないものが
あったと思われます。

更にまた、病気のある程度の改善は、新たな重い問題の
浮上でもあったのです。それは、それまで病気がブロックしていた
「病気を持たない人間の悩み」の部分的出現です。それを彼は
「あの頃は無神経であったから」という言い方で説明するのです。

次に 彼独特の性格的な弱さです。
はたで見ていても痛々しい程の余りに繊細で傷付きやすい
生来の彼の心です。それ故、例えば対人関係における他人との
距離感と言うものに、彼ほど神経をすり減らした人間も
いないのではないでしょうか。

最後に、どうしても克服出来ない飲酒と喫煙。しかし今このように
見て見ると、あれほど苦しんだ飲酒と喫煙でさえ彼にとっては
マイナーな問題点に過ぎなかったのかも知れないと思います。

こういう様々な要素が複雑に入りくんだ問題を抱え、それでも
彼はけなげにも、その解決の為に具体的かつ様々な努力を
し続けたのです。(例えば、安らぎを得んが為のギターの練習、
青空を見る、ファミレスの安価なドリンクバーの試み、絵を描く・・)

しかし、残念ながらその努力はことごとく壁に突き当たっていた
ようでした。何をしても何の感動もない、何の興味もわかない、
がその悲惨な結論だったのです。
結果、生きることの上で彼には「楽しむと言うことが殆ど存在しない
毎日の生活」が残るのです。ここで敢えて、あの忌まわしい病の圧迫から
逃れることが出来なかった彼の18年間を一言で表現しようとするならば、
世に言う「心の捨て所」や「はけ口」などというものからは、
完全に見放されてしまった短い一生の殆どであった、
とさえ言えるのではないかと思わされます。

にもかかわらず、
それでも、これから私がどのような言葉をいくら懸命に書き連ね
ようとも、彼の心の奥底の闇を的確に表現する人間の言葉など
この世には決してあり得ないに違いありません。

(「ジュンのこと2」は以上です)


ここで一つの「ただし書き」が必要でしょう。
次回等で、逐次触れて行く積もりなのですが
菅原家は確かに悲しみの中にあります、しかしまた、一面
今、奥深い不思議な安らぎと喜びと平安が今この家を包んでいる、
とも言えるのです。

恐らく「ジュンのこと3、4・・」では、どうしても
皆様方にとって「非常識極まりない」多くの言葉を書き連ね
なければならないであろうと今から妙な懸念を致しております。
なぜなら、それは私にとって極めて真実であるからです。


本日「彼の古き体」をダビに付します。しかし、彼の霊と魂、即ち
「彼そのもの」は「アブラハムの懐、パラダイス」で、彼が生前
どうしても得られなかった全き安息を楽しんでいることは確実です。
それ故、もはやジュンの為ではなく、
私達の為にお祈り下されば幸いです。

2009年4月19日日曜日

ジュンのこと

わが次男、潤、35歳は18日1:02PM 肉体の束縛から解かれ、
主イエスにある全き安息に入れられました。(実際には正午頃)
公的文書に記録された「状況説明」は高所からの転落です。

潤はある「教会」の小学生クラス、中高生クラスによく出席し、
中学生の時にバプテスマを受けています。その頃、その教会では
「主の御名を呼ぶ」ことを熱心に行い、潤もしばしば
「オー、主イエスよ!」と叫んでおりました。

とは言え彼は近年、主から遠ざかり「イエス様のことが分からない」
などと兄に話していたそうですが、霊の外側の人の機能、魂の思いに
おける思考によって、クリスチャンがそのような発言に至って
しまうことは十分あり得ることです。

永遠の救いは単なる感覚や思考の問題ではなく、誕生、命の問題です。
従って一度イエスの復活の命によって、人の最深の機能である霊の中で
誕生した者は永遠の完全な救いにあずかります。

「主の名を呼ぶものは皆 救われる」(使徒2の21)
「信じてバプテスマを受ける者は救われます」(マルコ16の16)
などの御ことばによっても彼の救いは確信出来るでしょう。


21日朝、ある葬儀ホールの一室で、
「家族だけの」小さな会合を持ち、
その後、火葬場へ向かいます。
その他、一切の儀式的行事は行いません。
  

2009年4月18日土曜日

神の道

私に何ができましょう。

主イエスよ、

私はどこに行けばいいのですか。


そうです、

私にはただあなたしかありません。

この私情を超え、あなたの道の故に

私の家族の一切をあなたに委ねます。

あなたの道が総てです。

今あなたの道のみを高く掲げます。



ジュンの為に
皆様方に祈っていただいたこと、
今深く感謝致しております。

2009年4月17日金曜日

高山家の父上、その最後の日

それは今月、3日のことでした。
医学的、数値的には 生きているのさえ全く不思議と言う
ほぼ半年もの間、娘清子さんのもとで楽しく生活しておられた
父上はその前日まで、それまでと全く変わらない
とても安定した暮らしぶりであった、と言います。

しかしその日の朝を迎え、
まずはトイレで十分用を足されたのでしたが
(これは意味のあることなのです)
前日まで驚くほど食欲旺盛であった父上がその朝に限って、
朝食をとられなかったのだそうです。様子がなんだかダルそう
なので、たまたま来ておられた清子さんのお母さんが、
その夫を布団に寝かせたのです。
しかしその内、お母様はフトと、何とご主人の目の瞳孔が
開いているのに気づかれたと言うのです。

その様にして、救急車で病院に送られたお父上は
遂に午後一時に至り、とても穏やかな空気の中
眠るように息を引き取られたのです。

その日、以上の出来事の一こま一こまが総て、
平穏と人々の落ち着きの中で執り行われて行きました。
その不思議さを、今清子さんは感嘆の中で話されるのです。
その4月3日はまた、それも全くの「偶然」だったのですが、
何と親族一同が高山家に揃っておられたのでした。

父上の人生最後の一日、それは、
バタバタするような雰囲気のまるで無い、娘清子さん、そして
親族の皆さん一人一人にとって、全員が十分納得する
最後の「お見送りの日」となったのです。


☆   
以下は
当ブログ昨年10月31日の転載です。

突然入院された高山清子さんの父上92才のその後です。
お父様はおととい深夜、急に苦しみを訴えられ救急車で病院へ。
心不全、腎不全が原因で肺に水が入り、呼吸が苦しくなられたのだ
そうです。肺炎の恐れもあり、重篤な事態を迎える際には、もはや
過分な医療は行わず、自然死を選択すると言う遺族の意志さえ確認
させられたのだと言います。

その時、清子姉妹は正直に主に次の様に祈ったそうです。
「主よ、御心に従います。でもわがままを言わせてもらえるならば、
もうしばらく地上で、父と一緒にいる時間を与えて下さい。
私はまだ父と一緒にいたいのです」と。

「私はまだ父と一緒にいたいのです」と言う娘の祈り、
その結果なのかどうか、その後 医師が投じたある薬の効果が
顕著に現れ、何と病状は急激に改善され、早や昨日の夜などは食事を、
普通の量の三分の二ほども食べらるまでに回復されたのだと言います。

皆様のお祈りを感謝します。
それにしても、改めて主のなさることは不思議と言わざるを得ません。
今後の高山家において、主は一体何をされるお積りなのでしょうか。

大村兄弟から

主の御名を崇め賛美します。
ジュンさんは少し落ち着かれましたか?

私のためにもお祈りくださり、ありがとうございます。
今週の検査の結果を見て順調な回復以上の回復をみせているので
担当医が驚いています。担当医は、軽度から中等度の心不全は
残ると考えておられたようです。しかし、今週の検査結果は、
軽度の心不全の状態まで改善していたのです。
まさに兄姉方のお祈りに主が答えられているようです。
菅原兄とご家族のためには祈り続けます。


「軽度の心不全の状態まで改善していた」!
何ということでしょう、本当にびっくりですね。
ただ主を賛美するのみです。

ハイ、ジュンは今落ち着いています。
しかし昨日も大小4本の缶ビールを飲んだようです。
(日本酒からビールへは改善点かも知れませんが・・)
今日、ジュンと三人で「NPO茨城断酒つくばね会」
と言う所に行って見ようと思っております。
ジュンに関し大村兄弟から何かアドバイスでも
いただけたら幸いです。(薬で治すのは無理としても)
皆様のお祈りに本当に深く感謝致しております。


ジュンさんの状態が落ち着いて本当によかったですね。
依存症には「・・・会」がとてもよいと思います。

アルコールでも、ギャンブルでも、同じことをしても
脳内の神経回路や化学伝達物質が依存症にならない人
とは、違うということが分かってきているようです。
ですから「御霊による自制」のことは横に置いておいて、
依存症になりにくい人々が大脳における自制心が弱い
とか強いとか言える話ではないと思います。

断酒会に行けば、同じ苦しみの中にある人たちに会えます。
ご本人にはそれが大きな慰めと励ましになると思います。
自分だけではない。Aさんは、断酒を決心しても5回も
失敗している、でもまた頑張っているんだ。
という話を聞いたりすることもよいことです。
同じ悩みを持っている人の中では、段々と本当の気持ち
を話せたり、人の話を聞いて自分と同じだと思ったり、
時間はかかりますが、決して依存症のない人たちには
なしえないことが起こると思います。
うまくいっている時は、「よかったね」
飲んでしまったことを告白された時は、「がっかりしないで
何度でも挑戦してみたら」と普通の表情で言ってあげることが
できたらと思います。

大切なことは、とにかく断酒会に行き続けてもらうことです。
断酒会に行けないときには、ひそかに断酒をやめていることも
あります。
時を主に委ねて、とにかくお祈りしています。
大村

神のいのちは

・・・
それは
キリストのからだの肢体たちが、死と復活の中でキリストと
一つになることによってのみ可能です。
この一つを知るまで、私たちのクリスチャン生活は
ほとんど有効ではありません

自分がキリストと共に古い自己に対して死んだこと、そして野心、
欲望、計画、観念、規範いっさいを伴う古い世に対して死んだことを、
最初に一度限り十分に認めることによって、私たちは自分の席に
着かなければなりません。

そして次に、復活のいのちが私たちの間でますます現されるために、
死が私たちの中に日毎に働くことを許さなければなりません。
神のいのちは旧創造の中に来ることはできません。
それは新創造のいのちです。
(オースチン スパークス)
*以上は
ブログ「イエスの愛と満足のために」から。

私たちの自由

礼拝は使徒信条から始まって同じ時間、同じプログラムの
流れに型組みされて・・・・肉はそれで一安心
「今は教会に行っていない」というと「では礼拝はどうして
いるの?」と聞かれる。
「だって、朝起きた時から礼拝でしょ?」と問うと
しばし不思議な沈黙が漂う。

もちろん一日中主を意識して主のことばかりを考えて
いるわけではないけれど、
日曜礼拝をやめてからというもの、主の事柄を考えたりを
主に時間を捧げたりまた、思わぬ交わりが開かれたり、
2年前の状態と比べたら雲泥の差、
こんな豊さがあったのかと思う。

「教会」を否定しているのではない。新生してから教会に躓いた
という思いは一度もしていない。むしろ自分を十字架につける
訓練の良き場であると今でも思う。それほど自分という存在が
厄介であることを教会は私に教えてくれた。
教会をとおして豊かに主が働いてくださったことも大きな事実だ。

だからこそ、そのなかにある「不自由」が悲しい。
でもそれは「きれいごと」だとよく人は言う。
でもわたしは妥協したくない。こけようが躓こうが、この先
小さな教会に導かれようが、主がご自身のいのちをかけて
解き放ってくださったこの自由を何ものとも引き換えに
したくはないからだ。

ただ十字架を日々見上げて生きる事、主の大きな目的に向かって
歩むこと、開かれた交わりを主のなかで慈しむ事 
それはどこで何をしていようと、
「この地」に来てからも変わりない主からの導き。

今朝もささやかな主の語り、
「私がすべてを知っているから いいではないか」
はい、おまかせいたします。

・「キリストはこの自由へと私たちを解き放ってくださったのだ。
それゆえに、あなたがたは堅く立って、
再び奴隷状態のくびきにはまってはならない。」ガラテヤ 5章1節
・「まさに、キリストイエスにおいては、割礼も無割礼もなんの
効力ももたず、むしろ愛をとおして働く信仰が効力をもつの
である。」ガラテヤ 5章6節
(ブログIn Adorationから)

2009年4月16日木曜日

二つの不思議なメール

こんにちは、
ブログでジュン君のことを読んだ瞬間から
祈りよりさきに
私の中におられる方が
祈っておられることを思い知らされました。
祈っています。
(Y)
私も、ジュンさんの上に起こっていることは、
何か、主があらかじめ予定されていたことのように感じています。
必ず、神の御業が現れるように感じています。
主は、うちの兄弟との祈りの中で、明確には答えられていませんが、
主が何かをする、というような感覚を受け取っています。
さらに、祈り続けます。
(T)


お祈り本当に感謝です。

ジュンは長年の精神障害が、近年相当改善し
(とは言え当然、統合失調症は完治したとは
言えない)私ども親は大喜びしていたのです。
所が、これは不覚にも後で分かったことなのですが、4年間
施設で過ごしていた頃、病気からのストレス故の飲酒が習慣化
してしまい、ある程度「依存」傾向も見えていたようです。
それが数日前、飲酒の上の、外出先でのトラブルに
繋がったのです。残念ながら、今ジュンの生活の上で
毎日の飲酒はもう欠かせないほどのものになっています。

極めて深刻なアルコール依存症になってしまう前、遅くも
今のような段階で、なんとかよい方向に方向転換してくれれば、
と言うのが「親としての」正直かつ切実な気持ちです。

ジュンは小さい頃から「教会」の集まりに参加しておりました。
しかしこの2・3年、キリストへの関心が相当薄らいでいるような
感じが私には見受けられ、気にしていた所でもあります。

今日のおもしろ一句

*あるメールから*
S兄弟やK兄弟、あるいは 
ほかの兄弟姉妹との交わりを通して、
自分の内側(霊・精神・身体)が
健やかになって行きつつあることを、
メールを読み返すたびに感じるのです。
でも、
甘党だけはどうしようもないようで!

お祈り感謝します

シュガーさんへ
ブログ読みました。すぐに、家で兄弟と二人で祈りました。
これからも、ずっと息子さんたちのために二人で祈ります。
私達は主がそれを望んでいると感じています。

私たちにできることはわずかです。
でも、私たちが心を合わせて主に祈り求めるとき、
必ず主はそれに答えてくださると信じます。
いろいろな苦難がこの地上の幕屋では起きます。
でも、全部主の許しの中で行われていることですよね。

祈り、それこそが私たちに許されている特権です。また
当然ですが、その祈る対象である素晴らしい主である
神がおられること、そして
私たちは決して「みなしご」ではないことを主に感謝します。

また、ジュンさんを縛っているものが、
取り除かれるようこれからも祈ります。


ジュンのこと、お祈り感謝します。
昨日は彼のことで、夜遅くまで八千代市の彼のアパートやら、
病院やらを、3回ほど往復しました。
私にまだこんな力が残っているのか、と思いました。

そのようにして昨晩、
彼をとりあえず実家に連れて来ることが出来たのです。
少し大変ですが、必ず一両日の内には
何とか収束に向かうのではないか、と今感じております。

こんな人を困惑のさ中に閉じ込めるような出来事の中にも、
きっと何らかの主の積極的な意図が隠されているはずです。
先ず私がそれを信じること、
そして、少なくとも霊の中で、神の敵に対する絶対的な
優位な地位と立場を堅持して行きたい、と願っております。

「神の敵に対する絶対的な優位な地位と立場」
それはあのキリストの十字架、復活、昇天、そして
御座によって既に完璧に成就され、そしてそれが
私にも与えられているのですから。

そして、
「ジュンさんを縛っているものが取り除かれるように」
この一句がとても感謝です。
どうか続けてお祈りに覚えて下さいますように。

2009年4月15日水曜日

第三歩目で皆こけた

一歩目は再生、新生です。
聖霊が人の霊を生かし、彼を神の国の中に誕生させます。
これは完全に聖霊の働きでありその時、神と天使、そして人も
大いに喜びます。この段階においては「人のもの」が介入する
余地は皆無と言っていいでしょう。

二歩目は、小さな交わりです。一人の真に新生したキリスト者は
必ず他の新生したキリスト者との触れ合いを慕います。(そうでなければ、
その「クリスチャン」は偽者です。)それは、同じ父から生まれた
神の子供としての、自然な「命の成り行き」であるからです。だから彼は
他の同じ命を受けた少数の兄弟と「交わらない」わけには行かないのです。
この第二歩目・二人、三人の交わりも純粋に聖霊からのものです。

この現象は例えば、今「硬直した組織」の中にいるキリスト者であっても 
偶然出会った他のキリスト者と図らずも小さな交わりを
交わす時などに容易に感知出来るものです。
何故ならその時、彼らがそこで楽しんでいるのは、その純粋な交わり
そのものであるからです。彼らはその時、彼らの「とても難しい背景」を
総て忘れ、ただ「交わりそのもの」を楽しんでいるのです。
これは何と素晴らしいことでしょう。
(しかし仮にそこで、一方のキリスト者がひそかに「ある意図」を抱く
場合、その純粋な交わりは直ちに破壊されるでしょう)

このように一歩目、二歩目においては何の問題もありません。
何故なら、繰り返しますが、この第二歩目までは神を源とする生命現象
そのものであるからであり、その交わりの主導者は聖霊であるからです。
第二歩目までの命の現象「誕生と交わり」は完全に「神のもの」です。


それではこれから第三歩目を見て行きましょう。
さてここで仮に、第二歩目までに現れた小さな純粋な交わりが
ある地域に6、7個 現れたとします。
その時 人はどんな反応を示すのでしょうか。

結論から言ってしまえば、人は「その反応」の結果、必ず
この三歩目で「こける」のです。第一歩と二歩目でこけることは
むしろ難しいことでしょう。しかしながら、第三歩目となると
何故か人は実にたやすくこけるのです。

これは何故なのでしょう。
何故なら人がその6、7個の第二歩現象に接するとき、そこに
「人のもの」が巧妙に「入り込まざるを得ない」からです。
悲しいかな、その「人のもの」を完全に防御するのは至難の業である、
と言ってもよいでしょう。だからこの二千年間、どんなに優れた
キリスト者のリーダーであったとしても 
(彼らの総て、と言っても良いかも知れない)
この第三歩目で皆こけたのです。


☆私情報
千葉の八千代市で一人暮らしを始めた
次男のジュン(精神障害を持つ)がこのところ
不安定な状況に陥り、私はいまだに実家におります。
何らかの対応が必要になるかも知れません。
皆様の祈りに覚えていただければとても幸いです。

2009年4月14日火曜日

佐倉訪問

*あるメールから*

もう、何と言ったら良いか分からないほどの
喜びで満たされています。
主は私の願いを、今日かなえてくださり、柄沢登兄弟、そして
その姉妹たちに会わせて下さったのです。

登兄弟の平安に満ちたお顔を拝見し、そして語り合い
「もう主は何というお方だろう!」と主を誉め称えます。
言葉はいらない、会っただけで全てが通じ合うのだ、と分かりました。

W姉妹と再会できたことも感謝です。主が、今日会うための道を既に、
去年の12月から備えておられたのでした。
エゼキエル33章と34章について私が語ったとき、瞬時に彼女が
反応してくれたこと。私はこんなに嬉しいことがないほど喜びました。

主が私を 既にたくさんの人達と繋げてくださっているのだと
今確信しています。主に感謝します。
「この道」は、主が全てを用意されておられ、私たちはそこを
進むだけです。これからも、主に自分の全部を明け渡し、
喜びと平安に満たされて歩くことが出来る!と感じているのです。
主に感謝しつつ。 

2009年4月13日月曜日

柄沢兄弟の為にお祈り下さい(7)

*余りにかけ離れた二つの情景*

柄沢登兄弟が
本日4月13日、自宅に戻られました。

[医師の判断とその言葉]
黄疸の症状が重く、数値的に極めて悲観的な状況である。
腹内に漏れ、散らばった胆汁を取り出さないと他の臓器の為に危険
である。しかし、胆汁を取り出そうとすれば、危険は更に増大する。
現実はそれほどまでにきびしい。

家族や親族が希望的に見るのは自由であるが、客観的に見て、
急速に日に日に悪化の度を加えており、回復は全くあり得ない、
これは直らない。ハッキリ言うと必ず死にます。だから最期の時、
緩和ケアを受けるか、自宅にするかを決めてもらったのです。
もしも明日、そういう時が来たら、本人が話せなくなり
意識を失った様に見えたとしても、話しかけ続けて下さい、
本人には分かるものです。

[病院内と帰宅の際の登さんの様子]
・登さんの様子と雰囲気:全く無理をしていない様に見える、自然体、
そして苦痛の表情がない。
・退院の前:登さんは一人でシッカリ シャワーを浴びた。
・退院に際しての看護士さんの言葉:柄沢さんは、こちらにミスがあった時も
嫌な顔一つすることなく、いつもニコニコしてくれたこと、本当に感謝です。
・最も病室にいることの多かった妻、良子さんの言葉:とにかく、
一緒にいることの大変さと言うものが全くなかった。

・どうやって帰宅したか:マイカーで帰った。こういう場合、途中の
急変にそなえ、それ用の車両を用いるのが普通であるが、本人の
希望により、良子さんの運転する自家用車で、娘と三人で帰宅した。
途中、スターバックスに寄り、
登さんの好きなアイスコーヒーを買い、楽しんで飲んだ。
・入院中、登さんがよく口にした言葉:有難う、嬉しい、
イエス様を信じてよかった。


真実に主を受け入れる前の登さんは、
自分をさらけ出すことなど決してなく、どちらかと言えば、
自分の中に閉じこもる人であったと言います。

今、以上の様な二つの余りにかけ離れた情景を前にし、
姉妹達はただ驚くばかり、
僅かの期間に、登さんをこのように変えてしまわれた主を
ただ賛美するばかりのようです。

祈ります:
「主よ、登兄弟が地上のエクレシアの中で、あなたが彼に与えられた
果たすべき使命を、余すところなく完全に達成するまでは、
主イエスよ、彼がみもとに帰ることを決して許さないで下さい。
それがいつであるか、一体誰に分かるでしょう。
登兄弟の父なる神よ、私達はあなたに完全に信頼し、
一切を委ねます。」

千葉は佐倉、柄沢登兄弟の家、
午前10時、朝ごとの礼拝が あす再開します。

☆  ☆

三つの方法

*あるブログから*
クリスチャンが死に勝利する3つの方法:
(1)私達の働きが終わるまでは死ぬことはないと
信頼することによって。
(2)死が訪れるとしても、死のとげは抜かれてしまった
と知るゆえに、死に対する恐れを全く持たないことによって。
(3)主が戻られる時には取り上げられるのだから、私達は完全に
死から解放される、と信じることによって。

「働きが終わるまでは死を見ない」ということ;
クリスチャンが自分の働きが終わり、もはや(地上に)留まりなさい
という主の要求がないと単純にわかるのでないかぎり、
その人は何としても死に抵抗すべきです。もし死の兆候が既に
体に現れていたとしても、まだ働きが終わっていないなら、
彼は積極的に死とその兆候に抵抗すべきです。彼が抵抗したことに対して、
主が働いてくださることを信じなければなりません。
彼にはまだ成すべきことがあるからです。

それゆえ、任命された働きから解雇されるまでは、身体的に危険な
兆候があったとしても、私達は安心して主を信頼することができます。
主と協力し死に抵抗することで、私達は即座に主が主のいのちによって
死を飲み込む働きを見ることになるでしょう。
(ウォッチマン・ニー著 「霊の人」より 私訳)
*   *
心に大きなアーメンがあります。
emi


Sugar:
「主が戻られる時には取り上げられる」とは
キリスト者が、自分の肉体の死を経験することなく、
天に取り上げられること、携挙。

私を捕囚にせんとする巨大な力、即ち
私を取り巻く環境、感覚と経験(物質界の総ての様相)を
一切無視し、
「私に対する主の御こころ」のみを
「私の意志」として立つ。

2009年4月12日日曜日

死を征服する

*昨晩のメールから*

「霊の人」の最終章を少しずつ読み始めました。
興味深いです。

私達は、罪に服従するべきでないのと同様に、
やすやすと死にさえ服従するべきではないのです!

これには 敵に対してと同様、
「私の態度」と言うものが鍵となるでしょう。

ニー兄弟はひどい持病を持ち、その上
極めて過酷な環境を通らされました。
にも関わらず、70年以上も生きられた。
これはそのことと深く関係がある筈です。

今「主の御心」を知りたい、と
深く願わされております。

2009年4月11日土曜日

あるメールから

・・・
ところである失敗をしてしまいました。
先日、私が「主との調和」などと、御心について語った矢先、
今回、ある品が欲しくて(必要なのではなく)買いに走ったのです。
実は運転しながら「これは少し違うかな」と感じていたのです。
でも「やってみなければ結果はわからない」などと、
自分に言い聞かせながら。
・・そして、遂に買い物、終了。

ところが、
財布、あらゆるカード類・現金・診察券、玄関の鍵・携帯電話etc
一切が入っている大切な手提げ袋、それをちょっと脇に置き、食料品を
カートから袋に移している間に、消えてしまったのです!
「置き引き」というのでしょうか。正に自失呆然、しかしすぐさま
店と最寄の交番に届け出ました。しかし未だ出て来ません。
今日で3日目です。

神とこの世の物 全てが、私に相続財産として与えられている、
としても、私が、自分の自由と自分の力を むやみに行使していい、
と言うことはない筈です。
本当にあの時「これはおかしいな」と思った時点で、やめるべきでした。
その「これはおかしいかな」と思ったことが聖霊からの直覚であったなら
私はそれに従うべきであり、それこそが真の「主との調和」なのだと、
今気が付かせられているのです。
今改めて、自分の肉の強さを思い知らされております。

私たちの「物質的な必要」を打ち明けるべき相手は神です。神は、
神の子たちの必要を満たし、そして私達を感動させて下さるお方です。
以前永い間、宗教的クリスチャンライフを送っていた時でさえ、
神はどんなにか、私の経済的困窮を豊かさに変えて下さったことか。
それも何回も。
そんな経験していながら、今回 無くてもよい物を無理に手に入れよう
として、私は神を試すようなことをしてしまったのです。
でも、これを悔い改めます。

そして今、
「私の体の中でキリストが拡大されることを
求める切なる願い」(ピリピ1の20)
これが、切なる私の願いです。

*Sugar:
「私の体の中で」とは、
「私が肉体に留まっている間、この時空の中で」と言う意味です。

とらわれの身であった当時のパウロを思うとき、
私達が幾多の重い制限の中、この地上で生きると言うことの
意味の深さを思わされます。

その後、パウロはしかし、なおも果敢に生きました。
ピリピ書等 極めて貴重な書簡を残した4、5年あと、
彼は最後のⅡテモテを、再び獄中で書き、そして
ネロの突然の大迫害によって殉教したとされています。

「私は今や注ぎの供え物となります。
私が世を去る時は既に来ました。
私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、
信仰を守り通しました。
今からは、義の栄冠が
私のために用いされているだけです。」
(Ⅱテモテ4の6,7,8)
確かに彼は死を征服したのです。

今日のメールから

なぜか、とても、わくわくしています。
広がっていく「この流れ」を感じているのかも知れません。

今日、3時から兄弟と「祈り、聖書を読み、また祈る」という時間を
持ちました。その時に、兄弟に次のようなイメージが主から
送られて来たのです:
太い川があり、そこから無数の細い川が流れ出て地を潤していく。
その細い支流はまるで人の毛細血管のようであったと。
そして、その川の源に主である神が、水を注ぎ入れている、と言うのです。
完全な映像ではないのですが、イメージのように見えた、と言っています。

私も、主は明らかに今、何かを始められていると感じています。
私は、ここのところ2度「見よ、わたしは新しいことをする。
それがもう起きている」という言葉を受けています。
「何だろうね」と私と兄弟は言い合っていますが、具体的には何も
分かりません。しかし、主は「新しいこと」を始められたのです、
今までになかった何かを。

2009年4月10日金曜日

辞められない

*あるメールから*

「クリスチャンは辞められない」
これはまた「教会」にも言えることです。
「聖書で言っている教会」は
人がいったん「その中に生まれたなら」
辞めることはもう不可能です。
入会や脱会など無用ですし関係ありません。
これを真に霊の目で見るなら、もはやその人の
右往左往は完全に停止するでしょう。

最近私はその混乱を避けるため、教会でなく
エクレシアと言う原語を使っています。

「物質の十字架を印とするソサイティとしての教会」
は辞めることが出来ます。しかし、
エクレシアは永遠に辞めることは出来ません。

2009年4月9日木曜日

Ⅰコリント7:14、聖別の意味

この箇所のパウロのことば:
「キリスト者の妻や子供が聖別される」にある「聖別」とは
性質上の聖の所有ではなく、地位的な聖別、言わば神による
区別に過ぎません。元々聖別とは、神の目的の為に分離される事
です。神から見てキリスト者は性質上あまりにも聖い
(キリストの故に)ので「そのキリスト者に属する妻子」
は、地位的に、時空の中、物質世界において、神は彼らを
「他のものから分離、聖別する」のです。

この「地位上の聖」については原則的に
「黄金を聖いものとする神殿」(マタイ23の17)や
「祈りによって聖められる食物」(Ⅰテモテ4の5)
と同じ原則が適用出来るでしょう。


真のキリスト者とは、人の霊の中において、
実質上、本質的に、神そのものの命と一つにされた聖なる存在、
即ち聖徒です。だから内的には彼はイエスと全く同じです!
それは神にとってあまりにも貴重な存在です。

故に、その「キリスト者に属する」人さえ、即ち彼の妻子も
「地上的には、物質的には」彼の一部なので、立場上「他の彼に
属していないもの」とは区別して、神は大切に扱って下さるのです。
それが地位的な聖別、分離、区別です。
だからキリスト者の妻子が「永遠の命を頂く」ためには 
とても恵まれた場所、救いに極めて近い所にいると言えるでしょう。

しかしある時、彼らでさえ、個人的にイエスに心を開き、
イエスを神の子として受け入れる瞬間が必要です。
その瞬間その人は、神の命を内に頂き、神の国の中へ、何と
「神から生まれる」のです。それは「ある身分の賦与」のみならず
言わば「神の家族の霊的天的な血」*を受け継ぐことです。
それは決定的、本質的、性質上の問題なのです。


人が救われる為に、信仰は欠かすことが出来ません。仮にもし
「キリストの血は全世界のためであったから、人は神を信じなくとも
救われる筈である」と人が言うならば、それは神の真理の
根源的な部分を破壊することになるでしょう。
これは決して小さなことではありません。
信仰は恵みと絶対的に一つであり、それらを人の手によって
切り離すことは出来ません。それは「神の定め」なのです。

アブラハムとサラは決して「別れられなかった」のですが、
その場合、サラは恵みを、アブラハムは信仰を表しています。
従って、もしある人が「その一方の信仰」を破壊するならば、
その人は、神の恵みをも破壊することになり、彼はいずれ、
相当深刻な事態を身に招くでしょう。(アブラハム、サラの物語から)

人は、キリストの十字架が「個人的にその人に適用されること」によって
初めて救われるのす。しかし、またもや人が、人は「肉の血縁」によって
救われると言うのならば、彼は神の救いの真理の根幹に触れ、おのずと
「キリストの十字架の価値」と「その適用の必要」の真理に
抵触して行くことになってしまうのです。これは深刻な事態です。
「神の第一級の」性質上の命の救いにはどうしても、人の信仰による
個人的適用が欠かせないのです。


以下は付録として記します。

しかし聖書にこういう他の面はあります。
真のキリスト者は神にとってあまりに尊いので、それ故に
そのキリスト者が艱難に遭遇している時、水一杯をキリスト者
(イエスの兄弟)に恵んだ人でさえ、その行為の故に
その人が「神から頂くある大きな幸い」から逃れることはありません。
その恵んだ人は「神を内に命として頂くという性質上の救い」
に預かることはありませんが「神の救いの領域の中に」救われる
人となるでしょう。そういう人々は最終的には新エルサレムにおいて
「地的領域における諸国民」を形成するでしょう。

また命を分与される「恵みの福音」或いは「天国の福音」でなく、
艱難時代に「永遠の福音」を受け入れた人々も同様です。
(黙示録14)彼らは神を正当に拝む人々となるでしょう。
しかし彼らとて「神の家族、イエスの兄弟」となり、
命・性質において神のものになる、ことはあり得ません。


キリスト者、キリストの命を内に持つ者とは、あまりにも卓越した
霊的、天的な存在です。はや千年王国でさえ、彼らの中の
「正常な者達」は「天において」イエスと共に、
地と地の民とを支配するでしょう。
一方「物質的、地的な神の民」ユダヤ人、そのレムナントは
地的領域を支配し、人々に、真の神への礼拝を指導する筈です。

しかしそれらの素晴らしい救いでさえ、あの「第一級の卓越した救い」
には遠く遠く及ばないのです。
今この時代に永遠の命を頂くという稀有な救いに預かる少数の人々は
言わば「気が遠くなるような」恵みに浴するのである、
と言ってもよいでしょう。それは完全に人の思想を超越する事実です。
何と彼らは「神の子となる特権」にあずかるのですから。

注*:
「神の家族の霊的天的な血」と書きましたが
厳密に言って、天には「からだ」はあっても、血はありません。
何故ならイエスの血は、あの十字架において
総てその骨肉から注ぎ出されたからです。
今回、分かりやすさの為、「命の結合」を表現するべく、
敢えてこの言葉を用いました。

2009年4月8日水曜日

emi さんのブログから

姉妹から、K兄弟の病院での様子を聞いた:
主に直結してしまった兄弟。内におられる御霊が、
日々いのちを与えておられる。内なる主の認識、御言葉の近さ。
院内のスタバへ行かれたこと、きびきびとした動き。

今日、生かしてくださる方。
「生きよ」と言われる方。
よみがえりのいのち。
主から流れてくるものが、私たちの内で働き、
また私たちから流れて行く。

神の全能の力の働きによって、私たち信じる者に働く
神のすぐれた力が、どのように偉大なものであるかを、
あなたがたが知ることができますように。

Romans 8:11
もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、
あなたがたのうちに住んでおられるなら、
キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、
あなたがたのうちに
住んでおられる御霊によって、
あなたがたの死ぬべきからだをも
生かしてくださるのです。

柄沢兄弟のことば

*柄沢兄弟の為にお祈り下さい(6)*

昨日、妻の良子さんが病室から
帰られたあと、医師が一言
「家に帰っても、もう点滴、いらないですよ」と
言ったという。
いろいろな意味に取れる、この不用意で舌足らずな
医師のことばに、登さんはすっかり落ちこんでしまいました。
このことを知った姉妹は、直ちに励ましの言葉を
登さんに送ったのです。

以下は、それに対する登さんからの反応です。
これは彼が落ち込んだ、それから間もない頃に
書かれたと言います。


主は私のただ中におられます。

「シオンよ。恐れるな。気力を失うな。
私の神、主は、私のただ中におられる。
救いの勇士だ。」

私に、その愛によって安らぎを与える主に
感謝、感謝、感謝 ♪♪(この音符も彼です)


今日登さんの様子は
とても「元気」であったそうです。

2009年4月6日月曜日

同じ思い

*あるメールから*

柄沢兄弟のこと、
どのように祈ったらよいのだろうか、
と思わされ、そして私はある所に行き着いのです・・

人として、自分に体があるならば
癒しを求めるのは当たり前のこと。
でも
本当に価値あることはそれなのだろうか。
ならば、先ずは「神の目に価値あるもの」を
求め、そのために祈れないものであろうか、と。

私に信仰があるとするならば、次に私は
私の総てを真に「神のもの」として欲しい、と思うはず、
だとすれば、私はそれを決心し、そして実際に
私自身を神に捧げるべきではないのだろうか、と。


驚ろいたことは
これと同じことを良子さんが思い、
その答えをお姉さんから与えられ・・と言う出来事。
なんと不思議でしょう。
私に与えられた祈りが、
遠く離れた所にいる姉妹たちと
全く同じだったとは。

信じます。
これは本当に
主から来たことに違いありません。

兄弟はこれから、どこでどう過ごそうとも、
身も心も真に主のものです。
ただ神を賛美します。

知覚を超えた喜び

*あるメール交換から*

神に自分を捧げてからは、
自分の苦しみは神の苦しみとなり、
またそれを自覚(理解)することで、苦しみの共有に至る。
生のすべてが主に取って有用となり、価値を持つ。
主が受け取って下さったあとは、
それは霊においてのことがらなので、
意識において何を感じていようと、
あるいは感じることができなくても、
関係ないのでしょう。
私もまた、ただ主を信頼していようと思います。

スタート地点においては「自分の苦しみ」であっても、 
霊において主と共有するのは、それも含む主の
さらに広範囲に渡る苦しみ…
「聖徒たちが完成に至るための苦しみ」なのでしょう。
そこに、共に預からせていただける。何ということでしょう。
理解が深まりました、感謝です。



「意識において何を感じていようと、
あるいは感じることができなくても・・」

そうです。
私達の場合、
苦しみのただ中にいるとしても
「主と共なる苦しみ」であるが故に
「ある深い喜び」が確かにあるのでしょう。
しかし、それは殆ど知覚出来ない、知覚を超えた
苦しみの中の喜び。

しかしかつて
「父と共なる」苦しみをさえ
完全に奪われた、ただ一人の人がいたのです。
しかし「その人」にも、唯一確かな
知覚出来ない喜びがあったのでしょう。
それは、命なる父からさえ、
遠く切り離されたその無限の苦しみと死こそが
正にその父なる神の「御こころ」。

そして、
この苦しみと死は、
復活への只一つの門であり、
かつては神の敵であった、多くの人々をして
「超越した彼御自身」・
「エクレシア」の中へと至らしめ得る絶対確実な門。


「私が(十字架に)上げられるなら、私は総ての人を
自分のところに引き寄せます。」(ヨハネ12の32)

2009年4月5日日曜日

柄沢兄弟の為にお祈り下さい(5)

*柄沢兄弟の献身*

・「あなた方の手足を不義の器として罪にささげてはいけません。
むしろ、死者の中から生かされたものとして、あなた方自身と
その手足を義の器として神にささげなさい。」(ローマ6の13)
・「あなた方のからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物として
ささげなさい。それこそ、あなた方の霊的な礼拝です。」(ローマ12の1)

この御ことばについて聞いた姉妹は、すぐにこれを登兄弟に伝えたい
と思いました。そこで、先ず妻の良子さんにそのことを話しました。
するとある不思議なことが分かったのです。と言うのは・・
良子姉妹はその日に至るまで、御前で次のように思い巡らし、
求めていたと言うのです:

「私は夫の為に、これから何をしてあげるべきなのだろうか。
彼が永遠の命を神からいただいたこと、これは言うまでもなく、
感謝なことではある。でも果たしてそれだけでいいのだろうか。
完全な永遠の救いを与えられた今、この貴重な時間の中で次に
「永遠に価値のあること」があるとすれば、それは一体何なのだろうか。
神の御前で、私は夫の為に何を話してあげるべきなのであろうか・・」と。

その時お姉さんから、あの「ロマ書の御ことば」を示された
良子さんは直ちに「それこそ私が神の御前で求めていたもの、
そのものであることが分かった」のです。

病室に登さんを見舞い、その二つの神の御ことばを
彼の前に置いた姉妹達は兄弟に語りました。
「登さん、この御ことばは決して神の強制ではありません。
でもそれは、永遠の命を既に持っている兄弟への神からの勧めです。
だから、あなたは自分の判断でそれを受け入れるかどうかを
自分で決めればいいのです。それで、登さんはどうされますか?」と。

登さんはどうされたと思いますか。
彼はハッキリ「その御ことばを受け入れます」と言われたのです。
ベッドに横たわったまま彼は、次のように祈ったと言います。
「主よ、私はこの私のからだを、あなたにおささげ致します。」


多分あすかあさって
登兄弟は大切な決定をしなければなりません。それは
今後、退院し、自宅で療養を続けるか、それとも
ホスピスのような緩和ケアを受けるのか、と言う決断です。
幸いなことに、
私がお聞きしたところによれば、3日現在、兄弟は、
「大過のない」時間を過ごしておられます。


祈ります:
その献身を喜んで受けられた「柄沢兄弟の神」よ、
あなたの御手の中に置かれた兄弟の霊と魂とからだを、
この時代の中、そして、エクレシア・神の国において、
今こそ生きて働く永遠に価値あるものとして下さい。
そして、神よ、あなたはその御業を
今既に力強く行われていることを信じます。

2009年4月4日土曜日

献身

「あなた方の手足を不義の器として罪にささげてはいけません。
むしろ、死者の中から生かされたものとして、あなた方自身と
その手足を義の器として神にささげなさい。」(ローマ6の13)
これは確かに「神の勧め」ですが、決して「神の強制」ではありません。

ここに一つの事実があります。それは、
神は「人の自発性」を事のほか尊重される、と言うことです。
確かに信仰とは「神ご自身がキリストにあって既に達成されたこと」をただ
信じ受け入れることです。それ故にキリスト者の生活とその態度は、総て
「神から受動的に受け入れるだけである」とキリスト者は誤解し勝ちですが、
実は決してそうではありません。

自由意志、これがキーであり、人と神の間にある決定的な要素です。
神はいったん人に自由意志を与えられた以上、神にさえ介入出来ない
「人の部分」と言うものが確かにあり得るのです。
敢えて言えば、神はあの日以来、大いなる制限の中にご自分を
閉じ込められた、と言ってもいいでしょう。偉大な神は、人が自由意志を
行使し、神を拒絶する「権利」をさえ人に与えられたのです!
従って「人の自発性」というものが、神と人の双方にとって極めて重大な
意味を持つのはこのような背景から十分言えることなのです。

それでは、神が事のほか喜ばれる人が実行すべき「その部分」とは
一体何でしょうか。それは「人が自分の自由意志を十分に行使し、立って、
神の御こころ、神の意志を、自分の意志として選らび取ることです。

前述の「自分の手足を神にささげること」はその最たるものでしょう。
人にその義務はありません。しかし、それをあなたが神の心をくんで
自発的に行うとき、神は、あなた自身とあなたの手足とを、事のほか
喜んで引き受けられるのです。これこそが真に聖書的な「神への献身」
です。(現在広く常識となっている「職業的な伝道者に志願する」
等と言う意味は聖書のどこを捜してもありません。)

あなたが、あなた自身を神にささげた日以来、神はあなたの手足、
体の総てを、神ご自身のものとして受け入れられるでしょう。手足とは
何か時間の中の存在です。従って神は、あなたの人生の残された
総ての時間をも、あなたの手足同様、御自分のものとして
ご覧になり、取り扱われるのです。

それは、神と私にとって、
その日までの「私のための神」から「神のための私」への
一大転換の日となるのです。

2009年4月2日木曜日

不思議な導き

*以下はルーク氏のブログからの転載です*

今晩、九州のHさんからお電話をいただいた。
30年以上前にペンテコステ系の"教会"でぼろぼろになり、
その後聖書に立ち返り、個人的な主との交わりにあって真理が
開かれ、結果としてそこを追い出されて、現在は名前もない
兄弟姉妹の交わりを非定期に行っているとのこと。彼は言われた、
「キリスト教とはもう縁を切った。大切なのはいのちであって、
普通の生活を淡々と主と共に生きることです。今のいわゆる
リバイバル運動などは偽者です」と。

驚きました。何か打ち合わせたかのように、私と同じ事を
言われるのです。年齢も私よりも上で、ちょうどSugarさんと同じ位。
55で早期退職をして、主の道に専念し、現在は20人程度の兄弟姉妹と
集まっておられる。「教会はキリストの体だから別に名前をつける
こともない」として、名前もない。しかも毎週集まるわけでもない。
集まる時は兄弟姉妹の交わりを楽しみ、主を賛美するだけ。

こう言った歩みをされている方がいるのです、全国のあちこちに。
キリスト教と言う囲いに閉じ込められることなく、広い牧草地に
出られたことは幸いであったと。かなり厳しいところを通られたよう
ですが、今、主にあって安息しつつ歩むことを願っているそうです。
初めてのお話でしたが、何だかあっと言う間に違和感なく主にある
交わりに入れました。いつかお目にかかる日も近いことでしょう。


これは掛け値なしに素晴らしい。
何か純度を感じさせられます。
敵はこれから、その業をエスカレートさせて行くでしょうが、
主も間違いなく働かれます。このような人々がこの地上のあちこちに
もうすでに準備されていると私は何故か信じているのです。
それは人の汗と熱などとは全く無縁な何かでしょう。
本当にただ主を賛美するだけです。

ある兄弟のメールから

3/31
昨晩の実験はうまく行きませんでした。
今日がリミットのラストデイです。

4/1 朝8時
今電車で東京本社に向かっています。とても残念ですが、
以前から私が会社経営幹部の方々に約束したレベルまでは
到達出来ないまま、リミット3月31を迎えてしまったのです。
今日、他のことも含めて社長に状況を説明します。

しかし、
いかなる状況でも、総ては神の御手の中にあり、自己を死に渡す
絶好のチャンスです。今私は、神の同労者になることの真の
苦悶の中にあると感じております。
状況は違っても、柄沢兄弟も同じこのような苦痛や苦悶、キリストの
十字架の死を通過することができますようにと祈っております。

夜10時
不思議です。
今日の午後4時頃、現在の状況を社長に説明しましたが、驚くことに
社長は「別会社にして、やれるところまでやりなさい」と
言われたのです。そして、更にまた不思議なことには、
先程工場に電話して見たら、目標に達するデータが出たと言うのです。
まさに1日遅れで目標値に達したのです。
本当に不思議です。

ある情報から

アメリカでは、臨死体験者が急増しているようです。
魂が肉体から離脱し、二つを結んでいる銀のひもが
延命治療のために切断されず、魂が天国体験、神体験、光体験等、
超能力体験をして人生が変わる、と言うのです。
東洋でも、神秘体験やヨガの呼吸法などでも、
臨死体験が起こるとされます。
ヒマラヤの神智学、クンダリーニと言われている蛇の覚醒、
チャネリングと称して宇宙意識の声を聴く瞑想。
ブリーヂングと呼ばれている過呼吸法などがあります。
クリスチャンの中にも、臨死体験を十字架の死だと
信じている人もいるそうです。


兄弟、情報をありがとう。
「神はただ、人の霊の直覚を通してのみ
神の御こころを知らせられる」
と言う真理がいまこそ強く主張されなければなりません。
これは神の一大原則なのです。

しかしながら今もう既に、相当の悪影響がキリスト者達を侵害して
しまっていることでしょう。私たちも今、神の前にへりくだり
既に受けてしまったであろう「霊的な」影響を想定し、それらをよく
調べて見る必要があるのではないでしょうか。なぜなら
「空中を源とするこの世に吹く風」を「優しく」ほほに受けた
ことのないキリスト者はほぼ皆無であろう、と考えるからです。

私たちが記憶しなければならないのはこれです:
あまたある人の書物の中で「ただ聖書」のみ、そして
あまたある人の知覚の中で「ただ人の霊(直覚)」のみ、
と言うあまりにも基本的な真理です。

「内側から人の霊に語る聖霊、そして外から語る聖書」オンリー
神が人に語る手段はただこの二つです。これをまとめて言えば
「聖霊」は「聖書」を通して「人の霊」に語る、
と言うことになるでしょう。「おびただしい数の書の中で、
ただ聖書、そして、無数の人の知覚の中で、ただ直覚」だけです。
(この両者、聖霊と聖書は内外で互いに呼応・エコーイングすること
を知るべきです。その両者の実質は全く同じであるからです。)

これは明確な神の定めであり、神はこの二つの為にこれまで敵と
幾多のバトルを繰り返して来られたのです。この時代以後その有様は
必ずその度を増し加えるでしょうが、表面的には敵が優位に立つ
かの様に見えるでしょう。そのような混沌とした状況の只中に住んで
いる故に、真に真理を識別出来る「キリスト者」はごくごく少数に
限られるはずです。人々はいともたやすく諸々の「悪霊」の仕業を、
神の働きとみなし、それらを礼拝するでしょう。ここで礼拝するとは、
それらの現象を尊重し愛することを意味します。
(その場合の礼拝もやはり24時間です。)

もし聖書がなければ、どこに神のことばがあるのでしょう。
そこにあるのはただ混沌です。
もし人の内的な機能である「人の霊」がなければ、
どこで神の声を聞くのでしょう。
そこにあるのはただ大混乱です。
しかし今既に、その混沌と大混乱が地上を埋め尽くそうと
している、と私達は見るべきです。


上述の「空中を源とするこの世に吹く風」:それは
「この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として、
今も不従順の子らの中に働いている霊」です。(エペソ2の2)


「あまたある人の知覚」について:
これについて述べるとすれば、殆ど際限がないことになるでしょう。
人の感情の持つ無数の知覚、思いに訪れるおびただしい考え、身体の
多くの器官が感ずる諸感覚、それらの一つ一つに対して「他の霊」は
「不思議で素晴らしい」働きかけをすることが十分可能です、
もしもあなたが神の意志を自分の意志として取り、その上に立ち、
「諸霊」に対して断固抵抗するのでなければ・・。

「愛する者達、霊だからと言って、みな信じてはいけません。それらの
霊が神からのものかどうかを、試しなさい。何故ならにせ預言者が
たくさん世に出て来たからです。」(Ⅰヨハネ4の1)

2009年4月1日水曜日

今朝、ある兄弟のメールから

以下はある本の記述です。

『私はキリストのために生きます。
これはどのような意味でしょうか?
多くの人は、主のために生きるとは、「主のために働くこと」である、
あるいは、「主を愛すること」であると思っています。
そうではありません。

主のために生きるとは、神のみこころのため、
神の利益のため、神の王国のために「生きること」です。(中略)

私たちが単に、私たちの自己のために、神からの慰めと幸いを
求めているだけなら、それは神のみこころを行なうことではありません。
(中略)主のために生きるとは、自分自身のために少しの余地も残さず、
進んで自己を完全に死に渡すことを意味します。』


さて、
総ての状況は神の御手の中にあり、自己を死に渡す
絶好のチャンスです。実は、私も仕事の上で今
とてもとても苦しい立場に立たせられております。
柄沢兄弟はしかし、比較すら出来ないような、言語に絶する
苦痛、苦悶の中におられます。
にもかかわらず私はこの時、兄弟がその苦しみのさ中においてさえ
主イエスと共に「真の十字架の死」を通過して
行かれるようにと祈らざるを得ないのです。



Sugar:
イエスは弟子はおろか、彼が忠実に従われた父からさえ見離され、
全く完全孤独の中、ただ御こころ成就の為に、
一人黙って死の真ん中を通って行かれました。
しかし私達は孤独ではありません。その主御自身が私の苦しみを
共に担われるだけでなく、「キリストの苦しみの交わり」
(ピリピ3の10、原文)をも与えようしておられるのです。

柄沢兄弟の為にお祈り下さい(4)

幸いなことに、
入院後直ちに受けられた水分の点滴によって
登さんは元気を取り戻し、
その晩はよく眠られたと言います。

しかしながら客観情勢は極めて厳しいものです。
黄だんの症状は重く、飲食物の通過障害が激しく、
更に、もしも胆汁が血液に流れ込み脳に達することがあるならば、
精神的な錯乱もあり得るとのことです。
そのような状況から、担当医師は何と「あと二ヶ月」を覚悟して下さい
と言われたのです。しかしセカンドオピニオン(姉妹達の兄弟
である医師)の判断は更に更に過酷なものであったと言います。

今、その「覚悟」について触れるならば、
登さんは、神に対する様々な願いは願いとして
「主に一切を委ねる」と言う心積もりは、
相当以前から持っておられたようです。

今、登さんをもまじえた姉妹達の交わりの中で、
世に言ういわゆる「禁句」のようなものは一切無いと言います。
死について、覚悟について、彼らの間でその他必要な会話を阻害する
壁は、彼ら主の復活にあずかった聖徒達の間からは、
ことごとく取り払われてしまった、と言えそうです。


旧約聖書から、ゼパニヤ書、3章の14節から17節。
これは妻の良子さんが、
ご主人の為にと主から与えられた神の御ことばです。
これを登さんは病室で、
今、毎日のように読んでおられるのです。


シオンの娘よ。喜び歌え。
イスラエルよ。喜び叫べ。
エルサレムの娘よ。心の底から、喜び勝ち誇れ。
主は、あなたへの宣告を取り除き、
あなたの敵を追い払われた。
イスラエルの王、主は、
あなたのただ中におられる。あなたはもう、わざわいを恐れない。
その日、エルサレムはこう言われる。
シオンよ。恐れるな。気力を失うな。
あなたの神、主は、あなたのただ中におられる。
救いの勇士だ。
主は喜びをもってあなたのことを楽しみ、
その愛によって安らぎを与える。
主は高らかに歌って、
あなたのことを喜ばれる。


「主は、あなたへの宣告を取り除き、
あなたの敵を追い払われた。
イスラエルの王、主は、
あなたのただ中におられる。
あなたはもう、わざわいを恐れない。」