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ところである失敗をしてしまいました。
先日、私が「主との調和」などと、御心について語った矢先、
今回、ある品が欲しくて(必要なのではなく)買いに走ったのです。
実は運転しながら「これは少し違うかな」と感じていたのです。
でも「やってみなければ結果はわからない」などと、
自分に言い聞かせながら。
・・そして、遂に買い物、終了。
ところが、
財布、あらゆるカード類・現金・診察券、玄関の鍵・携帯電話etc
一切が入っている大切な手提げ袋、それをちょっと脇に置き、食料品を
カートから袋に移している間に、消えてしまったのです!
「置き引き」というのでしょうか。正に自失呆然、しかしすぐさま
店と最寄の交番に届け出ました。しかし未だ出て来ません。
今日で3日目です。
神とこの世の物 全てが、私に相続財産として与えられている、
としても、私が、自分の自由と自分の力を むやみに行使していい、
と言うことはない筈です。
本当にあの時「これはおかしいな」と思った時点で、やめるべきでした。
その「これはおかしいかな」と思ったことが聖霊からの直覚であったなら
私はそれに従うべきであり、それこそが真の「主との調和」なのだと、
今気が付かせられているのです。
今改めて、自分の肉の強さを思い知らされております。
私たちの「物質的な必要」を打ち明けるべき相手は神です。神は、
神の子たちの必要を満たし、そして私達を感動させて下さるお方です。
以前永い間、宗教的クリスチャンライフを送っていた時でさえ、
神はどんなにか、私の経済的困窮を豊かさに変えて下さったことか。
それも何回も。
そんな経験していながら、今回 無くてもよい物を無理に手に入れよう
として、私は神を試すようなことをしてしまったのです。
でも、これを悔い改めます。
そして今、
「私の体の中でキリストが拡大されることを
求める切なる願い」(ピリピ1の20)
これが、切なる私の願いです。
*Sugar:
「私の体の中で」とは、
「私が肉体に留まっている間、この時空の中で」と言う意味です。
とらわれの身であった当時のパウロを思うとき、
私達が幾多の重い制限の中、この地上で生きると言うことの
意味の深さを思わされます。
その後、パウロはしかし、なおも果敢に生きました。
ピリピ書等 極めて貴重な書簡を残した4、5年あと、
彼は最後のⅡテモテを、再び獄中で書き、そして
ネロの突然の大迫害によって殉教したとされています。
「私は今や注ぎの供え物となります。
私が世を去る時は既に来ました。
私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、
信仰を守り通しました。
今からは、義の栄冠が
私のために用いされているだけです。」
(Ⅱテモテ4の6,7,8)
確かに彼は死を征服したのです。
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