2009年4月11日土曜日

あるメールから

・・・
ところである失敗をしてしまいました。
先日、私が「主との調和」などと、御心について語った矢先、
今回、ある品が欲しくて(必要なのではなく)買いに走ったのです。
実は運転しながら「これは少し違うかな」と感じていたのです。
でも「やってみなければ結果はわからない」などと、
自分に言い聞かせながら。
・・そして、遂に買い物、終了。

ところが、
財布、あらゆるカード類・現金・診察券、玄関の鍵・携帯電話etc
一切が入っている大切な手提げ袋、それをちょっと脇に置き、食料品を
カートから袋に移している間に、消えてしまったのです!
「置き引き」というのでしょうか。正に自失呆然、しかしすぐさま
店と最寄の交番に届け出ました。しかし未だ出て来ません。
今日で3日目です。

神とこの世の物 全てが、私に相続財産として与えられている、
としても、私が、自分の自由と自分の力を むやみに行使していい、
と言うことはない筈です。
本当にあの時「これはおかしいな」と思った時点で、やめるべきでした。
その「これはおかしいかな」と思ったことが聖霊からの直覚であったなら
私はそれに従うべきであり、それこそが真の「主との調和」なのだと、
今気が付かせられているのです。
今改めて、自分の肉の強さを思い知らされております。

私たちの「物質的な必要」を打ち明けるべき相手は神です。神は、
神の子たちの必要を満たし、そして私達を感動させて下さるお方です。
以前永い間、宗教的クリスチャンライフを送っていた時でさえ、
神はどんなにか、私の経済的困窮を豊かさに変えて下さったことか。
それも何回も。
そんな経験していながら、今回 無くてもよい物を無理に手に入れよう
として、私は神を試すようなことをしてしまったのです。
でも、これを悔い改めます。

そして今、
「私の体の中でキリストが拡大されることを
求める切なる願い」(ピリピ1の20)
これが、切なる私の願いです。

*Sugar:
「私の体の中で」とは、
「私が肉体に留まっている間、この時空の中で」と言う意味です。

とらわれの身であった当時のパウロを思うとき、
私達が幾多の重い制限の中、この地上で生きると言うことの
意味の深さを思わされます。

その後、パウロはしかし、なおも果敢に生きました。
ピリピ書等 極めて貴重な書簡を残した4、5年あと、
彼は最後のⅡテモテを、再び獄中で書き、そして
ネロの突然の大迫害によって殉教したとされています。

「私は今や注ぎの供え物となります。
私が世を去る時は既に来ました。
私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、
信仰を守り通しました。
今からは、義の栄冠が
私のために用いされているだけです。」
(Ⅱテモテ4の6,7,8)
確かに彼は死を征服したのです。

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