2008年7月31日木曜日

サマリヤの女への啓示

「礼拝する」と訳された原語が「慕う」だとすれば、ヨハネ4章で
サマリヤの女は「父を慕うべき場所」はどこなのか、この山か
エルサレムかと言う問題を主イエスに持ちかけました。

さて
女が属していた旧約時代は(新約時代と異なり)言わば完全に
「時空の中の物質の時代」でした。ですから旧約下においては 
一定の時と場所の制限の中で 物質の供え物を通して「父を慕う」
必要があったわけです。
それが祭司を中心とした「公に父に仕えること」なのでしょうか。殆どの
訳者が「公に仕えることを通して父を慕う」を「礼拝する」と訳しているのは、
それを背景としているからかも知れません。

ここで 私達は
ユダヤ教下においてその「慕い求め」がいつの間にか、真実で実質的な
「慕い求め」を失ってしまい、単なる儀式に堕していた事実を
思い起こさなければなりません。

そこで イエスは
その機会を 御自身の御業に関して女の目を開くチャンスとされたのです。
即ち主は:
間もなく彼が迎える十字架の死において
①特定の場所と時間の拘束と、物質の供え物という制限一切を 
最後のアダムである御自身の物質なる肉体に総て包含し、
②それら全部を御自身の肉において十字架に釘付け破棄し
(コロサイ2の14)
③そしてその後 栄光なる復活に入られる、
と言うことを前提として次の宣告を女にされたのです。
「(時代は変わる)神は霊であるから 父を慕い求める者達は
物質によってではなく 霊と真理の中で慕い求めるのです。
その時が今正に来ようとしているのだよ」と。

復活において
キリストは時空を超えられました。そのキリストを受け入れた
私達は人の霊の中にその無制限のキリストを所有しているのです。
(何という真理でしょう!)だから私達も時空を超えて今(どこでとか、何の日
と言う区別の制限を受けることなく)常に「父を慕うこと」が可能なのです。
これが新約のキリスト者です。

「主日礼拝を守る」と言う考え方の中には 人をユダヤ教に引き戻そう
とする何ものかが働いていることは明白です。それは
「神の御業の中心であるキリストの十字架と復活」を無にしてしまう
可能性さえ十分にあると私は考えております。

2008年7月30日水曜日

礼拝と訳された原語について(3)

4.
ヨハネ4章の「礼拝」の正体
ドクターK氏曰く:
ヨハネ4の23aの直訳は「父を心から慕っている者たちが
霊と真理の中で、父を大いに慕い求める時がきている、今がその時だ」
或いは「心底父に惚れこんでいる者たちが、霊と真理の中で子犬が
喜び跳ねるように、父と戯れる時が来ている、今がその時だ。」であり、
ヨハネ4の24は「神は霊である、だから、彼を慕い求める者たちは
霊と真理の中で、慕い求める必要がある。」なのです。

日本語訳を見ると、日曜礼拝を守らない者はキリスト者にあらず、的な
誘導の意図が感じられます。原典にはそんなことは全く書かれていません。
主イエスがとりなして下さっているのだから、安心して父と戯れよ、
これがこの聖句の真意です。

Mr.Suger の感想:
へーそうなんですか。「礼拝者」でなく「心から慕い求める者」、「礼拝する」
でなく「大いに慕い求める」なんですね。もしそうならば「礼拝する」は
本当の所「礼拝する」ではなく、逆にとても親密な愛を感じさせる表現だった
と言うことになります。即ち 原語は「礼拝する」が与える語感とは全く
対極的なイメージの言葉だったのです。 だとすれば これは「単なる誤訳」
で片付けられる問題ではなさそうです。

2008年7月29日火曜日

礼拝と訳された原語について(2)

「礼拝と訳されたギリシャ語」の検証を偶然というべきか、ドクターK氏
が試みておられたのにはビックリです。 主に感謝します。
1.
ピリピ3の3「神の御霊によって礼拝をし」(新改訳)と言う訳について
K氏曰く:ここは単純に「神の霊に仕える」という訳出で良いはずです。
ダービーの訳もウエブスターの訳も「礼拝し」となっているが、
(どうして「礼拝し」と言う訳にしたのか)よく分かりません。
2.
使徒行伝13の2「彼らが主に礼拝をしていると」(新改訳)
K氏の試み:「彼らが主に公然と仕えていると」「彼らは人目を
はばからずに主に仕えていた、或いはお世話をしていた」
ということになります。
3.
へブル10の11「また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、
同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることが
できません。」(新改訳)
K氏:この訳はその通りではないでしょうか。
また毎日立って礼拝の務めをなすことは意味がない、とあります。即ち
へブル10:18に「これらのことが赦されるところでは、罪のための
ささげ物はもはや無用です。」(新改訳) とありますので、先の聖句と
合わせて考えると、 毎日立って礼拝の務めをなすことはもはや無用である
ということになります。

詳しくはドクターK氏のブログ:「みことばざんまい」をご覧下さい。
いずれにしろ、少なくともこれら3箇所の聖句からは、今日の
「いわゆる礼拝」を擁護するようなヒントは全く見ることが
出来ない事は明らかです。
このようにして 新約聖書において「礼拝」と訳された総ての箇所を
総点検することは多大な益があるでしょう。
なぜならば 今日のキリスト教宗教において「礼拝」はあたかも
その「扇の要」的役割を演じているからです。

仮に今日の「いわゆる礼拝」が神の御心から逸脱したものである
ならば キリスト者が毎週熱心に励行しているあの実行は正に
イエスが重く断罪する「言い伝え」であることになり、それは極めて
深刻な事態である と言わなければなりません。
私たちはイエスのように、キリスト教の長い長い歴史の中で
肥大成長して来た「昔の先祖達の言い伝え」を断罪し
神の御こころ「神のことば」のみを断固選び取るべきです。
(マタイ15の1~9)

2008年7月28日月曜日

礼拝と訳された原語について

ある人によれば 
礼拝と訳された言葉は種々あると言います。
例えばそれは:奉仕する、おじぎする、仕える、求める、ひざまづく、
公の奉仕、告白的一致、等だそうです。

ですから
そもそもそれらの多くの言葉に一律に礼拝と言う訳語を付すのは
あまりにも乱暴過ぎ、大ざっぱ過ぎるのです。のみならず、
これら種々の言葉を全部、礼拝(英語ではワーシップやサービス)と言う
言葉に置き換え、更にその「礼拝」と言う言葉に
「欠席すれば天罰が下るよ」的、確定的でメインな集まり
と言うような概念をかぶせている背後には
ある策略の存在さえ感じざるを得ないのです。要するに 私達の頭に既に
刷り込まれている所の 日本語の聖書に出てくる「礼拝」=「あの日曜礼拝」
と言うワンパターンには大いに警戒しなければなりません。
従って私達は、礼拝と訳された元もとの言葉の意味を一つ一つ調べ、
それに基づき、更に文脈を考慮した上で、適切な解釈や訳語を施す
べきです。そうでないとあのウソつきにまんまと騙されるでしょう。

一例をあげれば
使徒行伝13の2は新改訳や岩波訳では
「彼ら(バルナバやサウロ等アンテオケ教会の主だった兄弟達)が主に
礼拝し、断食をしていると・・」と訳しています。この訳に接したキリスト者は
ああ バルナバ達も「あの礼拝」をしていたんだ、だから私も「あの礼拝」を
しなきゃ と直ちに反応するに違いありません。しかし ある兄弟によれば
この箇所のギリシャ語の意味は「公的奉仕」「主に仕え」が正しいそうです。
この「主に仕える」には極めて重要な意味が含まれているのであり、絶対に
それをあのサンデーモーニングサービス(礼拝)等と言う安っぽい儀式に
置き換えてはならないのです。この点に、
確かに一つの敵の巧妙な策略が隠れていることは明白です。

イエスは・・言われた。「何故、あなたがたも、自分達の言い伝えのために
神の戒めを犯すのですか。」「彼らが、私を拝んでも、むだなことである。」
(マタイ15の3、9)


ところが
かく言う怠け者のMr.Sugar はギリシャ語の素養が皆無であり、
恥ずかしながら英語力も不十分です。
皆さん、ドクターK さん、ルークさん、助けてください。

2008年7月26日土曜日

時間と場所の区別

*神は人の生活を愛す*(6)

聖書は「~の区別は無い、キリストが総てである」と言います。
キリストは時空を超えて総ての場所と時間の神であり主です。更に
聖なるものとは唯一復活のキリストです。キリストがおられる時間、
キリストが自由に流れ行く所が即ち聖なる時間、聖なる場所なのです。

しかし人はある定まった時間と場所の区別をして何とかそこに聖と
キリストを安置し固定しようとします。所が人が勝手に時間と場所を
あらかじめ定め そこに復活のキリストを呼び込むことは不可能です。
もしも そのようにしてキリストを呼び込み、はめ込むことが出来るとする
ならばそれは物質のキリスト,アイドルでしょう。キリストは臨機応変、
伸縮自在、神出鬼没、縦横無尽な時空を超越した復活のお方なのです
から、そのお方が人間の都合によって定められた時間と場所の中に
鎮座し固定されることなど絶対にありません。

人が熱心に時間と場所の枠を定め、そこで集中的に礼拝をしようとするの
は単に都合がよいからです。将来私に刑罰を与えるであろう恐ろしい神を
うやうやしく拝むという言う「私の行為」によって神を「なだめ」「私は
こんなにも代価を払ってここで集中的にあなたを礼拝したのだから 
将来はどうか私を滅ぼさないで下さい、そしてせめて他の場面では
私に目をつぶって下さい、なんとかこの礼拝で勘弁して下さい。」と言う
巧妙な人の心理がそこで働いているのです。

これが宗教と言うものの本質です。ですから人は礼拝を守った後
(礼拝って守るもの?)天下晴れて何のとがめもなく自由な時間と場所に
出かけ、そこの雰囲気を心おきなくエンジョイ出来るのです。古今東西 
総ての宗教の礼拝場のすぐそばに悪徳がまかり通る場所が設けられて
いたのはそのためです。それはユダヤ教においてさえ見られましたし、
初代教会時代も同様でした。

しかし原則的に言って今日キリスト者が礼拝後 待ってましたとばかりに
直ちにリラックスし礼拝からの自由解放を楽しむのも 神の目から見れば
大して相違は無いのです。このようにして人々は「ここで礼拝を行って神を
なだめれば後は安心、あなたは自由何でも出来るよ」と言わんばかりの
ワンセットを用意し客を招くのです。
それが今日の「礼拝と言う興行」に他なりません。

あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、
そういう時が来ます。(ヨハネ4章)

2008年7月25日金曜日

台湾からの手紙

菅原兄弟
今 電話でお声を聞いて大変嬉しく心がスッキリする思いでした。
おっしゃること総てピッタリです。

早速 電話でお話ししたものをお送りしますが ついでに別の2つの
小冊子も送ります。これも総て主の御業です。私は今 台湾の為に
主の御心に従い一生懸命働いています、もちろん言われるように
「無理なく自然に」。
ですから苦になるどころか、とても楽しいのです。

それではお目にかかってゆっくり
お交わり出来る日をたのしみにしつつ。


とても88歳とは思えないこのご婦人は社会的な、或いは政治的な
働きにおいても 超多忙な日々を送られているようです。
しかし内的にとても正直なよき心が私には感じられるのです。この方
この8月、一人の日本人の姉妹を伴い「外国の」粗末な山小屋での
ささやかな交わりのために 一週間かそこら滞在されると言われるのです。
これはどうしてもこの夏の私のスケジュールは この老姉妹との交わりを
軸に組み直さなければならないでしょう。

これらを通し主は一体何をされる御つもりなのでしょうか。
いずれしにろ 私はこの交流が主の再来にとって直接益になるもの
であることを願うばかりです。

2008年7月23日水曜日

夏の森


夏の森
ホトトギスとヒグラシ、
夜はトラツグミとヨタカ。

2008年7月20日日曜日

臨機応変、伸縮自在、神出鬼没

エクレシア、コイノニヤの時空における現れは
臨機応変、伸縮自在、そして神出鬼没であるべきです。
何故でしょう、それは復活したキリストが正にそうであるからです。
そのような現在のキリストと聖徒達を、この世の何者も(そして多くの
キリスト者でさえも)捕らえることは出来ません。そしてまた決して
誰も自分のものとして所有することも不可能です。

このような エクレシア、コイノニヤの姿には神の無限の知恵が
隠されています。この最後の時代 神はそのような復活の中の
隠された知恵を隠された方法で行使されるでしょう。
そのような有様のエクレシアのみが 遂には次の時代 
極めて圧倒的かつあからさまな王国の到来を招致出来るのです。

あなたがある固定された箱の中へ、固定された時間に行って見る時、
もしも 決まってある同じ人物が登場し、その人を見るために「お客」が
集まって来ると言う風景に固定的に出会うのであれば、そこには復活、
不死、無限の性質はなく、健康な人間性も見ることは出来ません。

そこで見られるのは
四隅を区切られた時空の中の限りある朽ち行く物質の性質です。
なぜなら その固定、制限、区別と言う箱(時空)によって限定された
ひと時内でのみ活動を許されている王は かつてのルシファー、
永遠の苦悩と恥辱と破滅の運命が既に固定確定されている
今現在のサタンであるからです。

私達は
敢えて時空内に留まり 時空の中で勝ち誇って 
復活の中の永遠のリアリティを「彼」に見せつける、
と言う「宇宙最高の」役割を楽しむためにこそ
今ここで生きているのです。

2008年7月18日金曜日

興行は区別にある

*神は人の生活を愛す(5)*

「あなた方は古い人をその行いと一緒に脱ぎ捨て、新しい人を
着たのです。・・そこには・・区別はありません。キリストが総てであり、
総ての内におられるのです。」(コロサイ3の9~11)

第一に
キリスト者が一人でいる時、そこに隠れた根の生活があるべきであり
その結果、命の引き寄せによって2、3人が接触し集まり、それが
日常の人間生活における エクレシアの実行的な前線となるのです。
しかしながらそれらが全く存在しないのに敢えて多人数の集まりを持つ
と言う場合、その集まりは必ず興行の性質を帯びることになります。
そしてその興行の第一の特徴は区分、区別、切り分けです。

先ず興行には
集まる場所と時間の明確な区分が必要です。 そもそも興行を打とうと
する場合、場所と時間を明示しなかったなら興行は成り立ちません。
劇場、寄席、相撲等は総てある特定の場所(箱)の中 特定の
時間内で執り行われるのです。そうでなければ集客は不可能であるから
です。そして当然 興行の場所(箱)には、その出し物にふさわしい外観、
しかるべき雰囲気、体裁が施されなければなりません。人々を惹き付ける
キャッチポイントは 興行にとって極めて大切な要素であるのです。
それは「さえない」日常生活において人々が目にするものとは
完全に「区別」されていなければなりません。

それは「礼拝」と言う興行:「非日常的かつ超人間的な雰囲気の箱の中、
よい話と音楽が供せられる 神を拝む為の厳かな
ワンセットの区別された時間帯」においても同様です。


コロサイ3の11は原文においては「~の区別は無い」ではなく、
根本的に「~は無い、キリストが総てである」と言うものです。
それは神の目から見て「存在の名に値するもの」は復活のキリスト
以外は何も無いと言うことです。何とそれは ただ彼のみが
「I  AM」 (私は存在する、私こそ存在・真のリアリティである)を
名乗ることが出来る と言う意味です。
しかしながら人の目には「あれがあり、そしてこれもある」と写り、
そして更に 人々はあれとこれを「区別」するのです。

2008年7月17日木曜日

私は聖徒

・・実は長い間、聖徒という言葉には抵抗がありました。
聖徒というにはあまりにも、自分はみじめで醜く、罪に振り回されて、
その閉じ込めから どうする事もできなかったのですから。

ところが
救われてから3年目の葛藤の極みの時、主はご自身が 十字架上で
処刑される絵に私を重ねた幻を鮮やかに見せてくださいました。
私たち2人が重なって張り付けにされたかと思うや否や
一瞬の内にその十字架は粉々に砕かれてしまい その後、
天から気が狂いそうな喜びが注がれたのでした。  

私にとっては記念すべき解放の一瞬でした。
「あなたはもう終わっている。あなたには何もできない。私が
あなたの内にいるのだから」  
それ以来、召された者はすべて聖徒であるとはっきと言えるように
なりました。なぜなら「私」とはこの在ってある方、測り知れない方が
住まわれる神殿であると聖書に書いてあり、  
その方が生きるので「私」も生きると書いてあるのですから、
キリストの血によって神の血縁関係にされたのですから、
私は聖なる者でなくてなんでしょう!

そのような立場と地位を得ておきながらも、日々に失敗をし、自己嫌悪に
陥り、その繰り返しの者ですが、そんな自分への関心も薄れ、
ただ引き寄せてくださる主が 私の最大の関心の的となってくださっている
とは なんという恵みでしょう。


ブログIn Adorationからの無断転載です。
真理を裏付けるこのような神からの幻は 
エクレシア共有のもの、 私達全部の信仰のためです。

2008年7月16日水曜日

証の言葉

改めてキリストの存在、絶対的な「I AM」 なるお方に
思いをはせて見ました。
だとしたら、今の自分の惨めな、何かに圧迫されたこの息苦しさは何?
そうだ!サタンに対してキリストの勝利の真実を突きつけて見よう:


「キリストの勝利とはサタンへの勝利、サタンは打ち砕かれたのだ。 
敵は死の力をもって支配すること等できない。 
神は信じるものの味方になられた。神は全能者、神はあなたを
瞳のように守られる。キリストの愛から引き離すものは、今も後も永遠に
何もない。何故ならあなたは今キリストと一つにされているから。
悪しき者は復活の中にある私に近づくことが出来ない。
義なる神は贖いの十字架によって信じるものを義とされた。
キリストの十字架、身代わりの十字架によってのろいは消滅したのだ。

キリストの外におびき出そうとするサタンの策略。だから
御言葉をサタンに突きつけよう、こう書いてあると。
真理は事実よりも強い。キリストは神の右の座し、勝利し支配をして
おられる。神の計画は必ずなる。 いや、すでに成就している。
キリストの贖いはすでに完了している。
信じるものは神の目に完全な者とされている、キリストと同じように。
また神は信じるものを愛しておられる、そして弱さを哀れんでくださる。
弱いときにこそ強いと書いてある。

私たちはまた、祈り求めることができる。
求めたものは、すでに受けたと信じることが出来る。
信じるならそのようになる、と書いてある。
職場の支配者達のエゴに勝利しているキリスト。金儲けの力は、
すでに働かなくされている。名誉欲、権威欲、昇進欲etc は
総て既に裁かれている、敗北している。
この世の支配者の力は、見破られ、裁かれてる、
キリストが勝利したから。

サタンの惑わしはウソ、所詮うそは真理には勝てない。 
うそは消える運命にある。神の目にウソはすでに処罰され、
火の燃える池に投げ込まれた! 
ウソよ、イエス・キリストの御名によって命ずる、化けの皮がはがされよ。 
人々を苦しめ、惑わし、神の栄光が輝くことを妨害し、
己が神になろうとしている。策略のすべては見破られている。
手足をもぎ取られ、燃える火の池に投げ込まれよ! 

サタンよお前の支配は終わっている。全能の神、主が全世界の全て、
小鳥の一羽まで支配しておられる。神のゆるしなしに、一羽のすずめさえ
地に落ちることはない。信じる者は、神との平和を受けている。」


改めてキリスの真理を敵にぶつけると、効果があることが分かります。
希望の光が心の奥のほうにポッと灯りましたよ。私のなかで神の国が
前進しています。真理を、このサタンの支配する空気に向かって
語り出すこと、更に自分に語り、神に宣言し、人々に語ることを
主はお待ちになっています。今そのことがよく分かります。
証の言葉の宣告、これこそが私の本当の仕事です!

      ・      ・      ・      ・

以上は
東京のS姉妹の「証の言葉」です。 これが「法廷」において
敵の前で事実(真理)を全面に押し出し、真理を活用する実例です。
私を取り巻くリアル感十分の感覚、経験、環境(3K)の只中において 
ただ茫然として気分や雰囲気に押し流され その中に漂っているだけで
あるならば、必ず敵のウソが勝ちます!

私たちは実は日夜 宇宙的法廷の中に置かれているのです。
敵の訴えの主要な対象は神であり、被告は何と私達です。それ故に
聖書おいてしばしば「目を覚ましていなさい」と言う
警告が発せられているのです。法廷で眠ることは許されません!

私達の兄弟達の告発者、日夜彼らを私達の神の御前で訴えている者・・
兄弟達は子羊の血と「自分達の」証の言葉の故に彼に打ち勝った。
(黙12の10、11)

2008年7月15日火曜日

自然さこそ

*ある兄弟のメールから*

S姉妹からお便りを頂きました。

その文面は真実に溢れ、そしてとても自然でした。

自然さこそ まことの信仰に直結します。

思いで獲得した信仰は、時々自然さから離れ、罠に陥ります。

神の愛は自然さから自然に出て来ます。

信仰も思いを超越したものだと思います。

「電話コイノニヤ」 いいですねー。

ある撃退法

*姉妹の証しから*

先ほど、エホバの証人の若い男性二人が来ました。 
「最近読んだ聖書の言葉で何が一番印象的でしたか?」と
聞かれましたので 「キリストとわたしは一つです。古い私は死んで、
今いきているのは、キリストを信じる信仰によるのです」と答えました。

そしたら、それまでニコニコしていた顔から、笑顔がさっと引いて、
難しい顔に変わり、それでは・・と言って帰ってしまいました。 
不思議ですねー。いつもなら ああ言えばこう言うで
決して引かない彼等なのに。

さて 今日もキリストを中心に一日が回って行きます。 
これから、主はどんなことをされるのか、もっともっと知りたい、信じたい、
体験したい、そして分かち合いたいのです。


「私たちの格闘は血肉(人間)に対するものではありません。」
(エペソ6の12)
キリスト者は「どうするべきか」等と言う理論で応戦するのではなく 、
私達が日常生活の中で実際に「どこにいるか、どこに立っているか、
何と触れているかだけ」が見えない霊的な敵に対する衝撃力となります。
「どこにいるか」、当然キリストとの一つの中にです。そして大切なのは
もう一点、古い私は十字架に付けられた、です。
その引き算の答え、ただ復活のキリストそのもの以外に、
敵を後退させられるものは他に何一つありません。

2008年7月12日土曜日

日立の海


.
実はまだ下です。
山行きは16日あたりかな。
今日も駐車場作り、頑張らないと。
妻の中古の軽自動車ですか?
ハイ、 とうとう買ってしまいましたので。
写真は常磐道から遠望する日立の海。

2008年7月11日金曜日

高山家 その後

6月16日に
あの心臓の大手術を受けられ、一週間後にはもう退院が可能である
ことを告げられた貞三氏は、望むならばもっと病院に留まることも
出来たにも関わらず 直ちに退院する との意志を表明されたのでした。
と言うのは、彼にはその時 なるべく早く病院を後にし
(いつまでも病気を 引きずることなく) 「新しい生活へのスタートを
今すぐ切るべきである」との心積もりが明確にあったからだと言います。

そして今は心落ち着き 
以前の家庭生活に戻られた高山御夫妻の口から思わず毎日出て来る
言葉は「今私たちはちゃんと毎日おいしいご飯が食べられる、そして
その上 夜はぐっすり眠る事が出来る。それにしても これは
不思議だ不思議だ」 なのだそうです。

とは言え 清子さんは、
これから私達はどうなるのかと言う話題をつい家族に持ち出して
しまうのだそうですが、そのような時貞三氏は
「私達はもう総てを下ろしてしまったではないか。もう主が既に
全部決めて下さっているのだよ。」と言われ、マルコ11章の
「祈って求めるものは何でも、既に受けたと信じなさい」を
引用されるのだそうです。清子さんにとって御主人はとても短期間の内に
主によって「造り変えられてしまった」と言えるほどなのです。
そして更に清子さんから見て実に不思議なのは 若い2人の娘さんの
「泰然自若とした」言葉と態度だと言います。


さていよいよ
一週間後、弁護士と会計士が高山家に来られます。
それは他でもない今後の御家族の「身の振り方」について
最終的な結論を下すためです。

その話し合いの上に、そしてまたその話し合いの中で
この愛すべき御家族と共に今生きておられるキリスト御自身が 
この御家族の信仰に応えて、明確に主の御心が示され、そして唯 
神にのみ栄光が帰されますように、と祈ります。

2008年7月10日木曜日

今朝のメールから

「こんなすばらしいお仕事を 三位一体の神、全能の神と共に
することができる光栄を、心からありがたく感謝します。」


「こんな素晴らしいお仕事」、 アーメンです。
その仕事とは 仰せの如く
「私たちの完全な安全地帯・キリストから ただウソによって
巧みに私たちを誘い出そうとする「天才」に対抗し、 シッカリと
勝利の場所に踏みとどまり、そこに安息すると言う唯一つの仕事」です。
これ正に私達の24時間勤務。(安息が仕事だなんて!)
この世界 「ウソほど軽いものはない」、情けないサタンよ。

敵の武器のもう一つは死です。
彼は死の感覚を絶えず私たちに送ります。
死の対極は命です。だから敵の思惑は 死を用いて命なる神から
私たちを切り離すこと、否「命なる神から切り離されていると言う錯覚」
を与えることなのでしょう。
正に死と虚偽はサタンの化身ですね。
彼は勤勉です、その死とウソの攻撃は日夜やむことはありません。

「兄弟達の告発者、
日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が
投げ落とされた・・ 。
兄弟達は、子羊の血と自分達の証のことばの故に彼に打ち勝った。
彼らは死に至るまでも自分の魂の命を惜しまなかった。」
(黙示録12の10、11)


・証のことばとは敵に対する「真理の宣告」です。
・「投げ落とされた」は永遠においてです、時空においては
 彼は今正に訴え続けているのです。しかし、私達は
 時空をはるかに凌駕する永遠(復活)を持つのです。

2008年7月9日水曜日

「礼拝」と言う名の興行

*神は人の生活を愛す(4)*

物事にはおおむね優先順位というものがあります。
①キリスト者には先ずどうしても 人前ではなく神の前における隠された
生活が無ければなりません。それが総ての根となります。その根が
シッカリと存在するならば そこに必ず発生するのが他のキリスト者
との交わりへの大きな欲求です。
(その欲求の有無は①のチェックとなります。)

②その結果 自然に日常生活レベルでのコイノニヤ(交わり)が現れます。
これは無理の無い人間生活のものですから 自ずと少数の
キリスト者間において行われます。
このコイノニヤにおいて「人々に隠れた所で経験された死」
の結果として復活が現れます。それは「復活のキリスト現象」
に他なりません。復活のキリストの時空への出現は必ず敵の後退となり、
敵の不法占拠に対する神の力と権威による侵害・進行となります。
それこそがこの時代における神の国の拡大です。
従って②こそはエクレシアの敵に対する戦いの前線なのです。

③ただ時には 少数のキリスト者間のコイノニヤが更に拡大した形の
大きなコイノニヤが必要かも知れません。その多数の集まりの機能には
二つの側面があるでしょうが、それは後日述べたいと思います。

さて
③とは以上のような経過を経て初めて 自ずと出現するべきものです。
③の必要が生ずる前には先ず①②が存在していなければなりません。
これは犯すことの出来ない優先順序です。
何故なら③は①と②の為であるからです。

しかしもしも①②を無視して③を第一優先にする、或いはそれしかない、
とします。そこにはどんな状況が現れるのでしょうか。
いずれにしろそのような多人数のキリスト者の集まりの性質は
とても難しいものとなります。即ちそのような集まりとは
一体何であるかはとても分かりにくいのです。

しかし私に言わせるならば、それはどうしても「礼拝」と言う名の興行、
にならざるを得ないのではないかと思っております。
興行とは
ある辞書によると次のように説明されております:
1 観客を集め、料金を取って演劇・音曲・映画・相撲・見世物などを
催すこと。また、その催し物。「顔見世―」
2 儀式などを催すこと。 「禅法の―天下にかまびそし」(太平記)

2008年7月8日火曜日

安息の日

イエスは・・彼らに息を吹きかけて言われた。
「聖霊を受けなさい。」(ヨハネ20の22)

キリストの総てはキリストです。
彼を輪切りにしたどの部分もキリストです。
彼のからだのどの小さな部分をとってもキリストです。
だから当然「彼の息」もキリストです。
彼の復活後、即ち今
「その息」が宇宙に充満しています。

だから私たちはこの大気の中 
彼に向かい唯ここにいるだけで
彼を吸い込んでしまうのです。何故なら
彼の息には吹きかける気圧が加わっているからです。

だから 今日と言う一日が
ただ彼を安らかに呼吸する
安息の日でありますように。

2008年7月3日木曜日

神は人のLIFEを愛す(3)

*キリスト者の3つのあり方について*
神は人間の命や人間の生活を愛するのであるならば キリスト者の
集まり方も「人間らしい」ものでなければならない筈です。 ここで
キリスト者の在り方を人数的に見てみると 2・3人と多数の二種類が
あると言えるでしょう。 しかし実は2・3人の前に一人があるのです。一人
では集まるとは言えませんが、キリスト者が一人でいる時の在り方が
2・3人と多数で集まる場合の土台となることは明らかです。キリスト者が
一人でいる時 もしもそこに何も無ければ、即ちキリストが無ければ 
2・3人が集まっても多数が集っても そこには 神にとって価値あるものは
何物も生じることは無いだろうと言わなければなりません。
A:
キリスト者が一人でいる時、主としてそれは他の人々には隠された部分
即ち「根」を形成します。根が無ければ地上に現れる命に いかなる
実体もありません。ですから一人のキリスト者が人々から隠れた
場所でどうであるかは「最重要部分」であると言えるのです。
B:
2・3人の場合 主としてそれはエクレシアの最前線です。そこでこそ 
キリスト者は敵と戦い、具体的に神の国を前進させるのです。なぜなら
2・3人での集まり(即ち極少数でのキリスト者のコンタクト) は
人間生活から殆ど離れることなく集まる事が出来る 最も無理なく
自然で融通の利く集まり方(接触、或いは「絡み」)であるからです。
日常における人の生活こそわたし達の真の戦場であることを
決して忘れてはなりません。
C:
多人数の集まり、主としてそれは そのこと自体が目的なのではなく、
それは健全なA、Bの為に機能するのです。聖書によると 時に教会の
大きな問題の解決や方向転換の為に大きな集まりが用いられていた
ことが分かります。CはA、Bが正常に機能するためだったのです。
一人でいる時のキリスト者のあり方やキリスト者の日常生活の為に
こそ多数の集まりが存在するのであり、多数の集まりの為に
それらがあるのではありません。(正常なA、Bの状態が 素晴らしい
Cをもたらすことは明らかですが)

深く根を張った一人一人の隠れた生活があって初めて 2・3人での正常
な教会の機能が日常において現れ、その結果 神の国が拡大されます。
この部分こそ教会の前線・メインであり、その場面では
兄弟姉妹が何ものにも拘束される事の無い主体的で自由な
活動が断固として守られなければなりません。

使徒行伝等において、また各時代においてもそうであったように、この
メインの無数の普通の兄弟姉妹による活動は一々記述されることはなく
隠されています。「主のことばは、ますます盛んになり広まって行った。」
(使徒行伝12の24)と言うような簡単な記載でさえ多いとは言えません。
しかしこの簡明な記述の背後に いかに膨大な数の命の拡大ストーリーが
存在したことでしょう。

しかしまた「時には」その2・3人の単位が多数集まることによって教会の
問題が解決され、励ましを受け、またエクレシアの方向が啓示によって
新たに示されることもあるでしょう。しかしそれはその時の確かな必要に
応じて神が与える特別な集まり方であるはずです。従って新約聖書に
おいて数回 この面の内容がある程度詳しく記述されているのです。
当然それはそれに続く各時代の為であったのです。

従って もはや今の時代においては
こういう種類の集まり方は「理想から言えば」無いに越したことは
無いのです。世の迫害のもと神の言葉が日々、ただ命による広がりを見せる
中、かつてそうであったようにいずれこれからも この無数の2・3人による
命の働きが、世の栄光からは隠された方法で 世界のあちこちに
出現する時代が必ずや到来する事でしょう。

2008年7月2日水曜日

駐車場作り 苦戦

苦戦の原因は 土留めのコンクリートが物凄く硬くて 
壊すのが並大抵でないからです。ハツリなどではとてもとても、
と言うことが きのうやって見て初めて分かったのですよ。
やはり物事は総てやって見ないと分からないものですね。
と言うわけできのう 作業を中断してケンを連れてジョイフルホンダに
「大ハンマー」(長さ1メートルはあろうか)を買いに行ったわけです。

今日はその大ハンマーでコンクリートをブッたたいて見ますが、それでも
駄目なら道路工事現場なんかでよく見るあの コンクリート壊し機ダダダ
しかないですね。 大ハンマーだとコンクリートの破片が猛烈な勢いで飛び
散り お隣にも被害が及ぶ可能性があるのです。
こういう所がしろうと現場仕事の難しさです。大体いつも意外な
障害が突然ふってわいて来る。
ダダダは一万円何がしですがこれはやむを得ないでしょう。


さて その後: 何と今 
コンクリート破壊工事が無事完了し、とてもホッとしている所です。
ハイ、大ハンマーだけで何とかなってしまったのです。と言うことは例の
高価なダダダを買わなくて済んだと言うこと、これはとてもラッキー。
隣の高級車に破片が飛んで行かないように二枚のシーツで養生してから
ガツンガツン、ドスンドスンとハンマーを振り回した数時間。(とは言え
あとあとの我が肉体がどう痛み出すかは今定かではありません。)

明日からは今度は土堀りと土運び、土の量はかなりのものになりそうです。
二三日ではとても終わりそうもない、だから完成は「次回」ですね。
午後またホンダへ行って一輪車を買ってこないと。


こうやっていろいろ道具を揃えたりすると確かにお金はかかりますが
それでも業者に依頼することを思えば けた違いに経済的なのです。
道具はまた どこかで使えますし、適度な体の運動にもなる。
やはりこれはお勧めです。一輪車、五千円以内で買えましたよ。

「苦戦」と思っていると 実際はまるっきりの楽勝。何と「人生」
こういうことが多いことでしょう。確かにその逆もありますがね・・。
一寸先は全く何も分からない、とにかくクヨクヨしていたら損
と言うことかな。

マルシヤから

「子どもの心臓が完成し チャンと動いている」

と分かった瞬間、 思わず泣き出してしまいました。

その時、不安が取り除かれました。

新しい命、神秘を感じさせられたのです。

・・・12日に検診を受けたいと思っています。
最近、おなかに弱い痛みを感じ、腰も痛いです。
(いつもではありません。でも今日は腰です)。
仕事は普通に行っています。
家にいる時には ほとんど横になって休んでいます。

2008年7月1日火曜日

よかったね、マルシヤ

*↓マルシヤからのメールです*

・・・実は
この二ヶ月(五,六月)が私にとってかなり辛かったのです。
でもそれは嬉しい辛さなんですけどね。
この二ヶ月のほとんど毎日つわりでちょっと体調がよくありません。
初めの頃よりは少し弱くなりましたが、今もまだ完全には治まっていません。
そういうことです!私達は少々時間かかりましたが、子どもを授かる
ことができました。赤ちゃんが明日から四ヶ月目に入り、元気に成長して
います。一月十三日が出産予定日です。性別はまだ分かりません。

どうですか、ジジになった気分になりましたか?
実は先生、Luke氏や五月の連休に出会った皆様、あの時から
新しい命が私の中に宿っていました。自分自身はまだ知らなかったです
けどね・・・・もう少し早く子どもを作ればよかったと後悔していた時です。
今月もダメだろうと思っていた時、子どもができたことが分かり、
言葉では言い表すことのできないくらい嬉しかったです。

この妊娠期間は順調であれば、ぎりぎりまで働くつもりです。
産休は十二月から、育児休暇は子どもが一歳になるまでです。
もしよろしければ、ブログで山小屋でお世話になった皆様に
知らせて下さい。幸せのお裾わけだと思っています。
皆様も喜んで下さるのではないかと思っています。

では (^-^)