*神は人の生活を愛す*(6)
聖書は「~の区別は無い、キリストが総てである」と言います。
キリストは時空を超えて総ての場所と時間の神であり主です。更に
聖なるものとは唯一復活のキリストです。キリストがおられる時間、
キリストが自由に流れ行く所が即ち聖なる時間、聖なる場所なのです。
しかし人はある定まった時間と場所の区別をして何とかそこに聖と
キリストを安置し固定しようとします。所が人が勝手に時間と場所を
あらかじめ定め そこに復活のキリストを呼び込むことは不可能です。
もしも そのようにしてキリストを呼び込み、はめ込むことが出来るとする
ならばそれは物質のキリスト,アイドルでしょう。キリストは臨機応変、
伸縮自在、神出鬼没、縦横無尽な時空を超越した復活のお方なのです
から、そのお方が人間の都合によって定められた時間と場所の中に
鎮座し固定されることなど絶対にありません。
*
人が熱心に時間と場所の枠を定め、そこで集中的に礼拝をしようとするの
は単に都合がよいからです。将来私に刑罰を与えるであろう恐ろしい神を
うやうやしく拝むという言う「私の行為」によって神を「なだめ」「私は
こんなにも代価を払ってここで集中的にあなたを礼拝したのだから
将来はどうか私を滅ぼさないで下さい、そしてせめて他の場面では
私に目をつぶって下さい、なんとかこの礼拝で勘弁して下さい。」と言う
巧妙な人の心理がそこで働いているのです。
これが宗教と言うものの本質です。ですから人は礼拝を守った後
(礼拝って守るもの?)天下晴れて何のとがめもなく自由な時間と場所に
出かけ、そこの雰囲気を心おきなくエンジョイ出来るのです。古今東西
総ての宗教の礼拝場のすぐそばに悪徳がまかり通る場所が設けられて
いたのはそのためです。それはユダヤ教においてさえ見られましたし、
初代教会時代も同様でした。
しかし原則的に言って今日キリスト者が礼拝後 待ってましたとばかりに
直ちにリラックスし礼拝からの自由解放を楽しむのも 神の目から見れば
大して相違は無いのです。このようにして人々は「ここで礼拝を行って神を
なだめれば後は安心、あなたは自由何でも出来るよ」と言わんばかりの
ワンセットを用意し客を招くのです。
それが今日の「礼拝と言う興行」に他なりません。
*
あなたがたが父を礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、
そういう時が来ます。(ヨハネ4章)
3 件のコメント:
ニーの新契約を通読中です。Sugarさんがよく言われるエペソ2章1~10節にある神が既に達成された事実、すなわちキリストと共なる死、復活、さらには昇天をどのように自分自身に適用すればいいのでしょうか?
これは約束ではなく事実です。既に達成されたものだから、それを祈り求める必要はありません。祈り求めると、かえって空回りに陥ります。ただそれを信じ、そして信じたなら、この事実を態度として生活の中に適用すべきだと思います。この態度というのが鍵のような気がします。
話は変わりますが、複雑系という学問があります。その中にゆらぎという概念があります。水が氷に変化するとき、一挙に変化するのではありません。0度に近くなると、水と氷が少しずつ入れ替わりながら変化していくのです。つまり一度氷になった部分ももう一度水に戻り、また次には氷になりとこのように繰り返しながら完全に別物の氷になるのです。この氷になったり、また水に戻ったりする現象を「ゆらぎ」と言います。ところがいったん氷になってしまうとすぐには水には戻らない。水とか氷のような「状態」を「相」といいますが、完全に状態が変わってしまうことを「相転移」と言います。それでこの「ゆらぎ」から「相転移」にいたるにおいて、自分で臨界状態に達して相転移を起こしている場合を「自己組織的な臨界現象」と言います。自分で自分の系に新たな秩序をつくろうとするんですね。それじゃ自分で自分を変化させているのだから、いつどのように変化するかを予測できるかというと、予測できる場合もあるが、まったく予測できない場合があるんですね。この予測できない現象を複雑系と言うんです。結果が原因に比例しないと言えば分かりやすいかも知れませんね。
ちょっと長くなりましたが、神が成し遂げた事実と約束と契約とゆらぎと相転移と複雑系、これらを今、思い巡らしているます。
「キリストとの一つと言う永遠の真理を
どのようにして時空にもたらすか、
それは信じること」
以上のことを口で言うことは簡単なのですが
本当に「あのキリストそのお方」を
私の住む時空に私を通して来ていただく
ことはそんなに安易ではありません。
しかしそれは在り得ることであるのは
確かですし、もしもそれが真に現実のもの
とならなければ 総ての私達の論議は
空しい、と私は考えます。
これからの私達の生活、集まり、そして
追求は正にその1点に集中するべきである
とさえ思っております。
まさにおっしゃるとおり、キリストの実際を実体験し、キリストをこの世に降ろすことができなければ、十字架の死を含め総ては空論です。私たちの多くの場合、何かの本を読んでいたり、聖書を読んでいたり、何かを思い巡らしをしていたり、誰かのメッセージを聞いていたり、交わりをしているときに「あっ分かった!!」という感動やインスパイアや啓示があっても、しばらくするとしぼんでいってしまうのが実態ではないでしょうか。それらの多くは、瞬間的な、あるいはしばらくは続く脳の興奮に過ぎなかったのだと言い切ってしまった方がいいのかもしれないと最近思うのです。何しろ鍵は信じること、信仰です。日々信仰を追求し、そして生活の中で意識満々にその時点での信仰を適用(実験)し、またその適用してみた結果を思い巡らしさらに深化した信仰を追求していくという愚直な繰り返しをしていくしか方法はないのではないでしょうか。そうすると信仰のゆらぎから、ある日突然、聖霊を通し御子の信仰を授かるのではないでしょうか。私はこれらの愚直な繰り返しをすることにより、必ずやキリストの実際をいただける者と信じ、やっともがき始めたスタートラインに立った者です。
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