2009年12月31日木曜日

それでも只神を信じる

手探りするあなたの
その手で触れられるものは何も無く
更に何も見えない暗黒の中で、
それでも 
神を信じ続けられますように。

積極的な何物をも感じ取れない穴の中で
ただ神を信じること、
それこそが信仰だからです。

神を信じるとは決して
自分の感覚に よりどころを求めること
ではありません。
決してものや現象を信じることでもありません。
何が見えないとしても、全く何を感知出来ないとしても
ただ神の真実と彼の約束を信じること、
目に映る色彩がまるでない
無色と暗黒の中で ただ神を信じることです。

驚くべきことに
あなたに神に向かう口がありさえすれば、
信仰があるのです。
今こそあなたが
声にさえならない深いうめきと共に
その信仰の簡明な言葉を
神にだけ申し上げて下さいますように、
「主よ、それでも私は ただあなたを信じます」と。

2009年12月25日金曜日

遅くなることはない

もっと優れた、いつまでも残る
財産を持っていることを知っていたので、
自分の財産が奪われても、喜んで忍びました。

ですから あなた方の確信を投げ捨ててはなりません。
それは大きな報いをもたらすものなのです。
あなた方が神の御心を行って、約束のものを手に入れる為に
必要なのは忍耐です。
「もうしばらくすれば、
来るべき方が来られる。遅くなることはない。
私の義人は信仰によって生きる。
もし恐れ退くなら、
私の心は彼を喜ばない。」

私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく
信じて命を保つ者です。

信仰とは(今この時空間と肉体の中で:Sugar)
「望んでいる事柄」を実体化し、
「目に見えないもの」を確認させるものです。
(ヘブル10の34~11の1)

新情報感謝

初めまして。
Steven Kaung のメッセージは以下でも聞けますよ。
http://www.christiantapeministry.com/

William

2009年12月23日水曜日

事実の等級

ここに 二種類の事実があります。
一つは 私たちが「毎日 見聞きする
五感や理性で知るこの世界の事実」であり、
もう一つは「見えない」世界の事実です。

この両者の内、どちらの方が「リアル感」に優れているかと言えば
それは間違いなくこの世界の事実でしょう。
にもかかわらず、どうしてキリスト者は一見 
「とてつもない」と見える いわゆる「見えない」事実の方に 
軍配を上げるのでしょうか。

それは 後者の事実と前者の事実では 同じ事実ではあっても
その両事実の「レベル、等級」が格段に違うからです。
それは格段の差がある と言うだけでは足りません。
「後者の事実の優位性」は「無限に高い」とでも言うしかないのです。
それは比較にならないのです。

あまりにも単純に
「事実であればその価値は決まる、事実であれば問題ない」
と言うわけには行きません。
「事実の世界」には明らかに等級、レベルの差があるからです。
従って「事実」と言われるものには
その事実の等級、レベルを冠せられねばならない筈です。

私達は ある「事実」を信じ、
特に それに「自分の永遠を賭けよう」とするような場合、先ずは、
その事実の等級、レベルの「ラベル」を
よくよく吟味する必要があるのです。

2009年12月21日月曜日

ある情報

*IN CHRIST に関連して*

William (Bill)Mallon兄弟、
以前ローカルチャーチにいた兄弟ですが、"In Christ" と題して
3つのメッセージをしていますが、
そこでは、"in the sphere of new life of Christ" という
意味だという話しから始め、メッセージを進めています。
詳しくは下記のサイトでダウンロードできます。
そのサイトの一番下の"SCA Winter Conference 2004" にあります。
http://www.seattlechristianassembly.org/Messages/SpecialMsgsEn.html


この情報は在米の ある日本人の兄弟から寄せられたものです。

この中で、
当時中国大陸において、
w.ニーの若き同労者の一人であられ 
現在なお90数歳の高齢にも関わらず
(彼が唯一人の生存者かも知れない)
主の為に働いておられるスティーヴン・カン兄弟の
メッセージ等も聞くことが出来るようです。
(英語です)

2009年12月20日日曜日

進むべき行程から


「私が進むべき行程」から
少し横道にそれるだけで、唯それだけで、
私の命運は とても容易なものとなるだろう。
しかし、私は確かに知っている、
わが主は 何と過酷な行程を進まれたかを。


それ故 私はこの世を全く捨て去り 
その結びつきを 総て断ち切る。
私の行く道は なお狭きものとなり
世は総て 私に敵対して立ち上るであろう。


人々は 顔をしかめ、軽蔑してあざ笑うとしても
私は 主の笑顔のみを慕う、
ひとえに 彼の「よくやった」を願う、
地上のこの つかの間の時間の中でこそ。


偉大さを追い求めまい、
地上の栄光を追い求めまい。
ただ身を低くし 主にのみ仕えたい、
かの日、彼の誉め言葉を得んがために。


私は今 
「あの裁きの座」から来るその光を見つめる。
総ての私の生き方と働きが、
「かの火のテスト」に耐え得るために。


人々は総てをかけ
自分の成功を求め、栄光と富と名声を追求し、
自己の偉大さや 自分の追従者、
そして自身の栄誉を獲得しようとするだろう。


しかし私は
魂の中の繁栄ではなく、
ひどい孤独と貧困の中でさえ 
「彼」に忠信に従うことを求める、
あのゴールに到達するに至るまで。


私は知っている、地上におられた時 
主の歩まれた道は唯一つ 
あの十字架に向かう道であったことを。
それ故、私も彼と共に 
ただ損失をこうむることを願う。


総ての私の光栄は「かの前方」に備えられている。
それ故 ここで 私は総てを耐え忍ぶ。
主の御前において、主を差し置き、
今 自分の栄誉を求めることなど出来ようか。

10
しかし、来たるべきかの時、私は誉を賜るだろう、
主御自身 総て私の涙をぬぐい取って下さるという誉を。
それ故 今この時代 忠信に 私はただひたすら前に進む、
私の主が出現される かの日に至るまで。



この詩は W. ニーが拘束される かなり以前に
書かれたものです。例の証同様、在米のある日本人が
送って下さいました。ただしこれは 
「英語訳からの」一つの試みの訳に過ぎません。

If From the Right Course I Depart


If from the right course I depart,
Then ease my lot would be;
But I remember
How my Lord Did suffer agony.

2
I'll utterly forsake this world,
And sever all its ties.
My path may narrow more and more;
And all against me rise.

3
Though men may scowl and laugh to scorn,
I only want His smile.
His "well done" only I'd secure
While here this little while.


Not after greatness do I seek,
Nor glory here desire,
But humbly I would serve the Lord,
His praise that day acquire.

5
I'm daily gazing at the light
Shed from His judgment seat,
That all my living and my work
The test of fire may meet.

6
Let others seek for great success,
For glory,wealth,and name;
Let them procure their grandeur here,
Their followers and fame.

7
In solitude and poverty,
Though prospering not in soul,
Yet faithfully I'll follow Him
Until I reach the goal.

8
I know that when on earth He dwelt
His lot was but the cross;
And that is why I only wish
With Him to suffer loss.

9
Since all my glories lie ahead,
I must to patience cleave.
I will not go before my Lord
And glory here receive.

10
That day my honors I will have;
The Lord will dry my tears.
So faithfully I'll still press on
Until my Lord appears.


ある方の要請に応え、
10月27日のW.ニーの詩「進むべき行程から」の英訳
(原文は中国語でしょう)を載せました。
次に御批評を仰ぐために、また参考の為に 
私の訳を次に再掲載致します。

2009年12月15日火曜日

冬の遠景

山の冬は確かに厳しいのですが、
その時になってみると、実はそう大変でもないのです。
連日 もうこの所 
朝はマイナス4度くらいにはなっているのですが、
慣れてみると どおってことはありません。

それよりも 
近くの丘から眺める 遥か遠く 連山の上
薄く青い 何とも言えない夕暮れの空の美しさは
山の暮らしの大変さを忘れさせるのに十分です。
これがあるから、
何度でもまた山に来てしまうのでしょう。

明日 下山です。

2009年12月13日日曜日

あるメールから

メール感謝でした。

あなたが書いておられた「主の御名において」
の実質は当然 パウロが172回も用いたあのフレーズ 
IN CHRIST です。

それでは IN CHRIST の IN とは何でしょう。それは、 
イエスとあなたは 相似形の二つの三角形のように
一つになり得る状態、そして更に言えばピタッと合同でさえある、
と言う「永遠の状態」のことです。

一面 兄弟は地上にいる小さな三角形です。しかしその小さな
地上の三角形は 天の三角形(御座のキリスト)と相似なので 
天のキリストと合同にもなるのです。
それが今 キリストと共に天の御座に座すあなたです!
御座は一つしかないんですよ。(エペソ1の20、2の6)
そこで天地はキリストとあなたにおいて完全に繋がるのです。

その天地をつなぐはしご(そのはしごも人の子・新しき人)
を今現在 御使い達が上り下りしております。(ヨハネ1の51)
ナタナエルやパウロだけでなく 総てのキリスト者は 
ゼヒともこのはしごを内的に見る必要があります。


しかし、他面、今まだ 
この肉体・時空の中にいる私たちは、
自分の内側から生じて来る or
外から自分に粘着して来る汚れや不義、「人間関係」を
むしろ自分と一緒にグルグル巻きにして、それらを 
キリストの死の中に 
毎日何度でも置き続ける必要があります。言い換えれば 
「古い自分をも含んだ梱包されたそのゴミの塊」を墓に持って行き 
そこに置き去ると言う清掃作業は欠かせないのです。
死は正に分別、隔絶です。(ある時 不要物は焼却炉の中に入れられ
それはエンドレスに燃え続けるでしょう。)

もし私たちが「思いを切って」それをすることが出来るならば
(しかし御存知のように 物質的なゴミ・不要物でさえ
「本当に捨て去る」のはそんなに簡単なことではありません)
その後いつの間にか 
私達から自然に現れて来るのが真の神の力 復活のキリストです。
その時私達は そこには何らの汗の努力やがんばりは
全く必要でないことを真に知るでしょう。
これこそが、キリスト者の本当の楽しみです。

2009年12月12日土曜日

このごろの思いです

神があの木に釘付け、滅ぼそうと意図されたのは 
私・旧創造でした。(そうでなけば、不合理です。)
そして正に 神はそれを2千年前に実行されたのです。
ですから、あの時
十字架上に磔(はりつけ)になったのは
私以外の何物でもありませんでした。
ところがその時、実際にそこにおられたのは
イエス・キリストでした。

ここに大きな真理が啓示されています。
それはその瞬間 キリストと私は全く一つとされたのです。

「私はキリストと共に 十字架に付けられた。」(ガラテヤ2の20)
「私が地上から(木に)上げられるなら、私は総ての人を
私に引き寄せます。」(ヨハネ12の32)


人については 語らずに祈る方がよい。
私が語るのは ただ
「キリストそのお方について」でありたい。


ようやく雨が上がりました。
今日から、風で飛ばされた三枚の透明屋根の
修復にかかります。明日には終わるでしょう。

2009年12月10日木曜日

山に来ております

昨日 夕方小屋に着くと何と
9月に代えたばかりの南デッキの透明屋根が
3枚 みごと風に吹き飛ばされているではないか。
やはりここの風は馬鹿にならないのです。
それにしても全部でなくてよかった。

今日はあちこちの見回りと 補修の幾つか、
それに、水道管凍結対策をやらないといけません。 
(まだ完全ではないのです。)

今日は比較的暖か、
やはり山の清浄で穏やかな空気は格別です。

そして明日はと言うと
例の車屋さんに行って、スタッドレスタイヤを付けて
もらわなければなりません。
今年は暖冬なのかな、しかしここの生活では仮に 
これから全く雪が降らないとしても
まさか冬タイヤを付けない 
と言うわけには行かないのです。

下山は早16日の予定です。
昼までにそれでは もう一作業やりますかね。

2009年12月7日月曜日

真理の学びの目的

状況がどうであろうと(即ち 前途が明るく感じられるときも、
暗黒しか感じられない時も)
私たちが「ただ主を信じぬく」ことが出来ますように。

「聖書の真理の学び」については 心配しないで下さい。
必ず主は兄弟に そのための道を開いて下さいますから。

しかし実のところ、真理の学びと言っても その目的は
要するに どんなことが環境の中に起ころうとも 
私たちが「神を信じ抜くようになること」です。

決して 何か難しい教理を記憶したり ああだこうだと
自分の知識や経験を 人に宣伝したり議論したりすることでは
ありません。それは「キリストご自身を持つこと」が既に
「総ての解決を持つこと」であるとの信仰を持ち、更に
その事実を 生活の中で経験的に知ることです。

ですから、今 八寺兄弟姉妹は 本当の意味で
環境の中で真理の学びをしていることになります。
主よ「総ての解決そのもの」であるあなたを
生活の中で経験するという学びを 今日も学ばせてください、
と祈り、そのことで神に信頼するなら それが本当の学びです。
これは いつどこにいても 誰にでも出来ることです。
神は誰にでも とても公平なお方です。

でも人はすぐ 学びと自分の日常生活を切り離してしまいます。
それは大きな間違いです。何故なら、
神は絶えず総ての環境の背後におられ、
「どんなことがあったとしても 神を信じ抜くこと」を
学ばせようとして、私たちの環境を適宜に こまごまと
絶えず 微調整さえして整えておられるからです。
ですから毎日 目が覚めた時から 眠りにつく瞬間までが
学びのときです。それには一瞬の例外もありません。

私もよくあることなのですが、
私に対するその神の意図を退け、神が与えられた環境を軽視し、
その神を意識的にさえ離れ 好き勝手な自分の好き好みだけを
追求するという この日常的な誘惑から 
どうか私を今日も守って下さいますように。

2009年12月5日土曜日

人は・・

人は あの木にかけられ 血を流す身替りの子羊を信じて 
神の命を得、永遠に救われます。
何と幸いでしょう、
この永遠の救いには一点の疑いもありません。


そして人は 
木にかけられ、神に呪われたあの人は 正に私であったことを見て、
罪、この世、己からの実際的な解放の可能性が生じます。

何故なら、その時 
人は初めて「キリストとの結合」を知るからです。
私と一つなるキリストから「総てのよきものと勝利」を引き出す
以外に 私たちが 正常なキリスト者の生活を送り得る
可能性はあり得ません。

2009年12月4日金曜日

真の世界を獲得する

総ては「真の世界」のためです。

私たちは今現在 

この「虚空の世界」の中で 

瞬間瞬間 死に続けることによって

また「天地のキリスト」に自分を結合させることによって

「真の世界」を 自分の内に獲得しつつあるのです。

これは、何たる栄光でしょうか。