2011年7月31日日曜日

お見舞い有難う

早朝の地震は大きかったですね。
私も目が覚めました。
大丈夫でしたか?
ズーッと気になっていたのでメールしました。


ハイ、有難うございます、大丈夫でしたよ。
相当、ゆれはゆれたのでしたが、被害はゼロです。

ふり返って、3・11ですが、
近所の別荘では壁がめちゃめちゃになって、
全部・作り直しだそうです。でも、この小屋の母屋はヘンです、
全く大丈夫だったのです。

「電柱のやぐら」の上に建っていて、地球に直接接してない
建物なので、ゆれ方は物すごいのですが、その構造がかえって
免震効果になっているのかも知れません。

それはそれとして、寒いですよ。
やはり夏は夏らしくカッと暑い方がいいです。

2011年7月30日土曜日

ベッドの高さ

自分にちょうどよい
ベッドの高さの「みきわめ」は微妙(びみょう)です。
それが少しでも高すぎると、部屋の中での
「おさまり」が悪くなり、人も落ち着きを失います。
このことは霊的なことがらにも当てはまりそうです。



*二つの協力(祈りと十字架)*

さて、敵の手段とは、私達に対する
いろいろな程度のウソと殺し(死)であり、
彼等の願望、意図は この二つを用いて、人をして
「自分の滅亡という運命」の中に引き入れることです。
彼は人を「とも連(づ)れ」にしたいのです。

しかし、彼等の画策(かくさく)は、とうぜん神の微妙
(びみょう)なサジ加減によって制限されます。※1

この局面でこそ、私たちの祈り、懇願(こんがん)の必要が
生じます。実のところ「敵の手前」、神でさえ、人の祈りを
必要とされるのです。何故でしょう。それはその際
人の懇願(こんがん)は、神が敵に対してその力を「公に」
発動することを可能とする根拠、あるいは「うしろだて」とさえ
なるからです。だから、そのような祈りは神への大きな
協力となる、と言うことが出来ます。

そのような「神とサタン間の敵意あるやりとり」をへて初めて
「サタンに許された分量の攻撃」が私たちに及ぶのですが、
当然その背後には「サタンを出しぬく」神の知恵が
隠(かく)されております。

それゆえ、祈り以外に キリスト者が自分の意志で
「十字架を自分に適用する」と言うもう一つの
「神への協力」が、ここで必要とされることになります。

今回くわしく書くことはできませんが、この十字架は
(特にサタンに対して)神が上記の「神の知恵」を発揮
(はっき)されることと実に深い関係があるのです。それゆえ
キリスト者が、日々自分の十字架を負うことは、神にとって
とても大きな価値を持つのです。

(十字架とは「みこころの中において」自分を閉じこめ、
制限し、不自由にする状況を喜んで受け入れることです。)

ところがこの際、実はその事態を私達が
①「十字架として受け入れる」べきか、
②「敵に対して直ちに命を適用するべきか」(※2)という
問題がここにはあるのですが、そのいずれを選ぶべきかは
必ず主が私達の霊の中に示して下さるはずです。
(この段落の記述は今分かりにくいかも知れません。
お許し下さい。)

いずれにせよ私達の敵への対抗手段は
「(私を経由しての)キリストの効き目のある死と命」です。
人がサタンに対抗する手段は、キリストにある「死と命」
以外にはあり得ません。しかし感謝なことに、
この片方には他方も含まれているのです。


※1
この事実はヨブ記などでも分かるのですが、しばしば
その神のサジ加減は 人が頭で考える程度を越えます。
従って、神への信仰はどうしても必要となります。
要するに信仰とは「何がどうであろうと、あなたは
神なのですから、あなたに信頼します」と言うことに
つきるでしょう。

※2
「みことば」をツルギとしてつきつけ、
悪霊を追いつめることなどです。

2011年7月29日金曜日

ベッドけん食卓が完成

まるでツユのような空模様(もよう)、
涼しいというよりはチョッと寒いです。

きのう一日もかからずに、ほぼイメージピッタリの
「ベッドけん食卓」が完成しました。
(あまりに早く簡単にできたので、フシギな感じです。)
ふだんはこれをデーベッド(昼寝台?)にするつもりです。

もしも客が来てくれたら
(そのようなことはとても少ないでしょうが・・)
直ちに天板を高くして食卓に早がわりさせます。
そのシカケはきわめて単純ですが、とても実用的です。


「みこころ」の中にある
強い祈り、神への懇願(こんがん)は
神の敵の巧妙(こうみょう)な画策(かくさく)でさえ
破壊(はかい)し・つぶすだけでなく
神のものを立ち上げ、建て上げます。 何と祈りは
結果「十字架や聖霊」とほぼ同様の働きをするのです。

だから敵にとって
キリスト者の祈りほどイヤナものは無いはずです。
なぜなら祈りは 悪霊達のまん前に
「神の力」を引き出し、招(まね)き入れるからです。

霊的な戦いに関して言えば
私達は絶対的に無力ですが 、真に
その「無力の認識」に立つことが出来るならば、
祈りという霊的な手段を持つがゆえに
キリスト者は「神の敵の道」の真ん中に
上からおりて立つ障害物、強力な妨害(ぼうがい)者
となることさえ可能でしょう。

私達は、むしろ事の始まる前にこそ 祈りによって
静かに働き、そして戦うのです。


★美しい言葉★

「ただおことばをいただかせて下さい。」(ルカ7ノ7)
これは
異邦人である百人隊長が、遠くから部下をつかわして
うやうやしくイエスに伝えたことです。
とても美しい言葉だと思います。

2011年7月28日木曜日

マキ置き場1が完成しました

きのうはマキ置き場の一つが完成し、
マキを少し積みました。
電柱と電柱の間に、森からとって来たミズナラを
3m二本に切って、レール状に置き、その上に、
板を打ち付けたのです。大きなミズナラの木を森から
引きずり出すのには骨が折れました。

電柱というのは
小屋の周りを囲むデッキ(ベランダ)を作るために
地中にうめたものです。地震でデッキが落下した部分等
を利用して、ここにマキ置き場を作っているわけです。

今日は雨模様、ベッド作りになるのでしょうか。


詩篇9の1:

私は・・ あなたの奇(くす)しい業を
余すところなく語り告げます。
(I will recount all of your wonderful deeds.)

「あなたの奇(くす)しい業」とは せんじつめて言えば
神の勝利と敵の敗北であり、
その実質は
キリストの戦いとその結果の中にあります。

ダビデは
①その事実の上に立っただけでなく、さらに
②彼はその内容を「余すところなく語り告げ」ると言っています。

これは確かに 彼の賛美(2節)と共に
「ダビデの有力な戦いの方法」であったのです。

語り告げる(recount)とは
「…を詳しく話す、詳述する、物語る、
…を順を追って話す、…を列挙する」
と言う意味だそうです。

だから私達も
神の勝利と敵の敗北とは「どんなものであるか」を
霊の中で明確に知り・その上に立ち、次に
その内容を余すところなく
万物に対して語り告げる必要があるのです。

「奇しい」とはワンダフル(wonderful)であり、
キリストの御業は、wonder(驚異・きょうい・不思議)で
満ち満ちている、 と言う意味です。

確かにキリストの死、復活、昇天、御座は
「驚異、ふしぎ」でいっぱいなので
私たち信じる者が
日々「ワンダフル!」と叫んでしまうのに
なんのフシギもないのです。

2011年7月27日水曜日

冬対策

間もなく来る(実際そうでしょう)冬の為に
けっこう作業を急がなければならないようです。
相当の仕事量になります。


ストーブで燃やせる建築残骸(ざんがい)を、
小さな四角形を形成する森の4本の木の間に、
うず高く積み上げたのだが、
その上に防雨シートを屋根状につるす。

マキ小屋以外に、マキ置き場を「電柱間に」作る。
なるべく真っ直ぐな木を周囲の森から伐採して利用する。
電柱間は9フィートはあろうか。これが4、5か所ある。

あちこちに散乱しているマキを、2のまき置き場に
積み上げて干す。
早く干さないとマキが冬に間に合わないので、
マキ小屋作りは後回しです。

マキ小屋を完成させる。
屋根は波トタンとする、この手が一番安くて丈夫そう。

一階だけで生活出来るように、一階に
「ベッドけん食卓」を作る。この作業は雨天にやる。
2バイ10使用で1×2メートルの大きさです。


一階だけで生活するために、部屋の「模様がえ」をする。
おもにタンス、本棚等の移動である。

階段の左右の壁に合板等を張って、壁をある程度仕上げる。
(これは8のため)

ロフト(二階)への階段を封鎖、密閉する。しかし
何とかして開閉も出来るようにしなければならない。

壊れた地下の客室を整備する。
10
地下の客室にある水道管に凍結防止対策を
ほどこす。

ヤレヤレ
「人が暮らす」ということは大変なことですね。

急きょ入山しました

突然ある事情が発生し、入山しました。


元来、祈り・神への懇願(こんがん)は
・私には「神の業」を行うことなど
全く不可能であるという認識と
・神にだけ
それは可能であると言う認識のもとに

自然に発生するものではないでしょうか。
その時私はいやおう無しに
どうしても祈らざるを得ないのです。

なぜなら、
潜在(せんざい)的にせよ、心のどこかで
「私にも少しは出来るのではないか」と
感じているならば、もともと何も祈る必要などなく、
自分でやればいいわけで、
その神への祈りは真実性に欠けるのです。

事実、
時間と空間の中に制限され、
自然界しか知らない私たちに、

超自然的力を持つ神の敵の
周到(しゅうとう)な 画策(かくさく)に
対抗する力など モウトウあるはずがありません。
それは悪漢の前の赤ちゃん同様です。

しかし時がいたり、
「私は本当に全く何も出来ない!」と
シミジミ感じること、
私の無力と神の有力を本当に「知る」こと、
これが霊的学課のレッスン1であり、

神でさえ苦労されて
私たち一人一人にどうしても教えなければならない
基礎中の基礎であるはずです。

しかし一面
「その認識の程度」は生涯にわたって
深まって行くことも確かなようです。

2011年7月26日火曜日

虫が少ない

今日も早朝
利根川の散歩が出来ました。
広い大きな空と朝日に輝く雲が美しいです。
ここは虫が少ないので助かります。


十字架は、
私の中にある「敵のもの」を破壊(はかい)し
その後、聖霊は私の中に
「神のもの」を建(たて)あげます。

この二つのものは一つの中で働きます。
すなわち、
十字架は、私の中の「神のものでないもの」を
倒しますが、そのこわしの後、私たちを
必ず復活の聖霊のもとにある「立ち上げ」に導かれます。
ところがその聖霊は再び「十字架に向かうように」と
私たちを促(うなが)すのです。

神が私達の中でなさりたい業とは、要するに
この二つのもの(破壊と建造)の循環(じゅんかん)
に過ぎません。

今の時代と次の時代において、
神はキリスト者達の中に
「王国の立ち上げ」を意図(いと)されているのであり、
(今は隠された方法で、次の時代にはオープンに)
究極的には必ず新エルサレムという建造に到達されます。

しかし今この時、この循環がとどこおりなく
行われるためには私に対する「神の働きかけ」への
「私のアーメン」がどうしても必要とされるでしょう。
(私にとって、どんな貴重なものが倒されるとしても・・)

2011年7月25日月曜日

利根川の土手

利根川のどて(堤防)は巨大です。
もしもこの川が氾濫(はんらん)したら
その被害はそうとうなものでしょう。
早朝、
その土手の上をユックリと歩くのが好きです。


「小さな群れよ、恐れることはありません。
あなた方の父なる神は、喜んであなた方に
御国をお与えになるからです。」
(ルカ12の32)

私たちキリスト者はよく
「自分たちのグループ」が偉大になることを夢に見ます。
しかしその願いの本音が「私達は大きい」と誇りたい
所にあるとするならば
そのような発想の源はどこにあるのでしょうか。

実際、永遠において
「エクレシア(教会の原語)ほどに
高く偉大なものはありません。」
しかし神は
今時間の中に存在するエクレシアの中にいる人々に
「私たちは大きくてスゴイ」という感覚を
与えたいとは決して思われません。

神がキリスト者をして
「普通の家々で集まるように」意図されたことには、
深い神の知恵が隠されております。
私達はこの世において
「よるべの無い小さな群れ」に過ぎない、
という感覚はむしろ正常です。

聖書は
「小さな群れ」と正反対である大いなる宗教を
見せております。そこには、人間が大好きな
「グレート」という言葉が何度も現れます。

彼女(大バビロン)は心の中で「私は女王の座に
着いている者であり、やもめではないから、
悲しみを知らない」と言う。(黙示録18の7)


ここで言う宗教とは
「神のもの(金と宝石と真珠)を飾りとした(利用した)
自分のための業」のことです。(黙示録17の4)

2011年7月23日土曜日

今、実家にいます

利根川のほとりも結構寒いですね。
さて、ケサある別のことを書こうとして書き始めたら、結局
次のようになってしまいました。これはままあることです。


「あまたのこの世の者、モノ、物、もの」の中で特に
一つか二つが、キリスト者をして強力に、この世に粘着
(ねんちゃく)させます・・」という意味のことを暗示
(あんじ)された直後、イエスは

「何はともあれ、
あなた方は、神の国を求めなさい。・・」
(ルカ12の31)と言われました。
だからキリスト者は
「何はともあれ」日々神の国を求めなければなりません。

「者、モノ、物、もの」の粘着力は
相当なものであり、実はキリスト者を苦しめます。
(一見それを楽しんでいるように見え、
また見せてはいますが、そこには欲望、愛欲による
「縛(しば)られ」があり
「真の自由」がないので分かります。※

ここでキリスト者はよく
「それを捨てることなど私には出来ない、
神が私に代わってして下さらないと・・」と言って
退(しりぞ)き、再び世に向かうのです。
その言葉自体はナンだか霊的に聞こえ、他人には奇妙な
説得力を持ちますが、それは霊的ではなく単に
怠惰(たいだ)から来る神に対するツブヤキです。

このような、いつまでもグズグズした弁解(べんかい)や
「さきのばし」を神が正当化されることはありません。
このたぐいの、神に対する「霊的姿勢やスタンス」についての
警告(けいこく)は聖書に多いのです。

イエスはハッキリと
神の国を「求めなさい」といわれたのであり、それは
「明確な命令」です。ですから、少なくともキリスト者には
その罪を憎み、主を正視(せいし)し「おことばですから」と
自分の足でシッカリと立ち上がる意志が要求されるのです。
聖書の中ではこの実例もしばしば見られます。

ふしぎですが、
信仰は「正にその時を」基点(きてん)として、生きて働き始め、
その後も、神の一歩一歩の導きが、あなたの一歩一歩の意志の
応答に伴(とも)なって、初めて現実のものとなる、という
現象(それは神の力)を、あなたは見ることが出来るのです。
これは間違いなく霊的な経験です。


神の国とは、
実際的には霊的な「支配」です。それはまず
「人々が、一人の人、イエスキリストにより(総てのものを)
いのちにあって支配する」現象において現れます。
(ローマ5の17)

2011年7月21日木曜日

ストーブをつけていますよ

その上、上は三枚、下は二枚着ています。
まだ山におります。


さて、きのう以下のように書きました:

「永遠の」事実、すなわち真理を 、
今この望みのない時空の中で 生きざるを得ない人々に、
また 総ての造られた者達、また悪魔に対して
力強く宣告するために・・と。

全く同じ真理の内容でも
①人に対しては(自分もふくめ)命と光になりますが
②悪霊に対しては剣(ツルギ)となって、彼等を退かせ、
③神と良き天使達に対しては大きな喜びとなります。
(実は、誰が、どんなことばを、誰に向かって、
どんなふうに発するかは宇宙的時代・天地の時代をも
変えるほどのことです!)

当然、それぞれに対してその「語調」は異なるでしょう。
しかしまた、
神をふくめた「総ての生きもの」に対して、
一度に宣告することも不可能ではありません。
(むろん、対象を明確に意識することは重要です。)

確かに世界に真理は存在するのですが
ウソの方がはるかに優勢(ゆうせい)に見え
真理はどこかに押しこめられているかのようです。
(だから「真理がある」だけでは不十分なのです)

今この時代(艱難前)実際に口を用いて
真理を宣告するのは、天使でなく人の役目です。

しかし、
あれこれリクツをこねるのではなく
人の前でラッパを吹きならすのでもなく、
他人に教えをたれるのでもなく、
日常の隠れた小さな場面で、意識を持って立ち止まり、
一人見えざる敵に対して、オリにふれしばしば
神の真理を宣言する人はきわめてマレです。

いずれ来る艱難の時になると、
天使が空から大がかりでオープンな宣告をしますが
(黙示録14の6、7)今「か弱そうな人の子」による
「ささいな人間生活の中での隠された宣言」の価値は
それよりも実ははるかに大きいのです。

あなたの霊が
「何者かによって」押しこめられることに反発し、
意志を用いて自分の霊を外界(がいかい)に向けて
強く押し出すべきです。
本来、宣告や宣言は決して気楽なものではありません。
宣言とは実は霊的なバトル(戦闘)であるからです。


神のことばを宣告することによって
「天地の時代」をさえ変えた人の一例は
パプテストのヨハネです。何故なら彼は
初臨のキリストをこの時代の中へ導入したからです。

2011年7月20日水曜日

真の汚染(おせん)

そうです、
神の敵はこの地を深く深く汚染(おせん)しました。
その汚染は 元来人の欲望、特に安楽願望等の
心に乗じた「悪魔」を起源(きげん)とするものであり
その悪の根は無限と言えるほどの深さです。

そして それは人の体と心から、
この世界全体へと世代世代において増し加わり
浸透(しんとう)して行ったのです。 この汚染は
人の力の全くおよび得ないほどのものです。

私は今回の出来事を通しても 改めて
日本のみならず、この世界のどこにおいても
200%一切の望みがないとの 確信に至りました。

ところが
この惨禍(さんか)は、この程度で終結することは
決してなく 、人の努力と善意をあざ笑うかのように
浮沈(ふちん)をくり返しつつ、さらに徐々に、
しかも確実に 全く絶望的な次元(じげん)にまで
深まって行くことでしょう。


しかし感謝します。
ここに一すじの光があります。

それゆえ
上記の ヒドイ現実にもかかわらず、
2千年前、神が「最後のアダム」である
イエスという青銅(せいどう)のヘビの上に
その総ての汚染を置かれ、それをのろい、
すでに黄泉(よみ)にまで送られたという
永遠の真理にもとづき、

間もなくもう一度、主イエスが来たりて
具体的、徹底的、抜本的(ばっぽんてき)に
人の心の汚染に留(とど)まらず
物質的な汚染をさえ
遂には永遠の火の池深くへと
投げすてられることを私は信じます。

そしてこの「永遠の」事実、すなわち真理を 、
今この望みのない時空の中で 生きざるを得ない人々に、
また 総ての造られた者達、また悪魔に対して
力強く宣告するために

主のたまわる清い純粋(じゅんすい)な食物、
すなわち、神の口から出る聖なる食物を
日々食べ続けて行くことを心から願い、

人類にとって唯一の希望である
「あの青銅のヘビ」(民数記21ノ8)を見上げます。

アーメン、
主イエスよ、早く来て下さい!

2011年7月19日火曜日

ダビデのプロスキネオ

主よ、
朝空けに、私の声を聞いてください。
朝空けに、私はあなたの為に備えをし、見張りをします。
(詩篇5の3)

ダビデは「朝型人間」だったのでしょうか!
そうとう早く起きて、かなり大きな声を出し、
主に祈ったようです。
(・・そこには必ず賛美があったはずです。)

また
「備えをし、見張った」とありますから
彼は真のウオッチマン(見はり人)であり
その心は常時、敵に対する警戒(けいかい)に満ち
早朝から「あなた」(神の国)のために敵を見はったのです。
(・・これは戦いです。)


「主よ、
朝空けに私の声を聞いてください。」

それにしても、この表現には
何と彼のプロスキネオ(真の礼拝)の心が
あふれていることでしょう。
彼は目覚めと共に主を愛し、
早朝「一人」深く神を礼拝したに違いありません。

プロスキネオ(礼拝)とは
「愛をこめて、主にとても親しく触れること」です。

2011年7月18日月曜日

余談ですが・・

さらに最も短く表現するならば、プロスキネオとは
①「神との交わり」であると言えるでしょう。
「交わり」はキリスト者の最深の部分(霊)の中の
三つの主要な機能の内の一つです。

他の二つとは
②ある事実を「霊的に知る」機能(霊的知覚機能)
である「直覚」と
③信者の中で「今この時点で」彼のある行為や
傾向に禁止を発する「良心」です。

そのようにして、キリスト者とは常時・霊の中で霊的に
①神と交わり(礼拝、プロスキネオし)
②神を知り
③何かを断って神に従う者ですが、
この三つは絶えず交互に深く関係し、生き生きと循環
(じゅんかん)しているのではないでしょうか。


マキ小屋作りはうまく行っています。
今、屋根のタルキをのせる台を
柱ケン基礎にあたる電柱の上に作っています。
水平器が大活躍しております。実際に屋根が乗るのは
「次回の入山」まで待つことになるでしょう。

この珍しい電柱の説明は、長くなりますので
いずれまた・・

プロスキネオ

これはギリシャ語のことばで
προσκυνέωです。

これを英語的に書くと、proskyneo(プロスキネオ)で
新約聖書に52回も出て来ると言います

その語源的な意味は
「犬が主人の手をなめるように、キスすること」
だそうです。キスするです!

これをクリスチャン的に言いかえて見ると
「敬愛をこめて、主にとても親しく触れること」であり
簡単に言えば「主に対する愛と接触」です。
すなわちプロスキネオには
「神への真の愛と実際的なタッチ」が
どうしても必要なのです

聖書の訳者達は
これを多く「礼拝する」「拝む」と訳しています。
あえてその訳は間違っているとは言えないでしょう。

しかし確かに言えることはこうです:
キリスト者の「主に対する真の愛とタッチ」は
目には見えない心の中のことであり「神へのキス」は
極めて貴重な「霊的な」経験です。それは魂的、
肉体的、物質的なことではありません。

いずれにしろ、
プロスキネオがそのような意味なのですから、少なくも
「一つの時間と場所を定めた形式的行為」を高くかかげ、
それを特別あつかいにして、プロスキネオと呼ぶのは、
どう考えて見てもムリのようです。

永遠の滅亡から救い出された罪人として
神への礼拝(プロスキネオ)すなわち
「敬愛をこめて神の手にキスすること」は私達の
「24時間の経験・姿」でなければならないはずです。

2011年7月17日日曜日

もう冬じたくです

マキ小屋ですが、
床は張り終え、今日は、今立っている直けい25cm
ほどの長ーい電柱を二本カットしなければなりません。
これに屋根用の「土台」をのせるわけですが
さらにその土台に、合板をはるためのタルキを
並べるという寸法です。

それにしても私の小さいチェンソーで大丈夫でしょうか。
これは多少危険な作業になります。(危険とは
カット直後の電柱の落下です)それにしても
回りの森の伐採(ばっさい)等の、今後の作業を
思うと、どうしても大きいチェンソーがいりますね。

きのうは上の別荘、中村さんちの「地震で出なく
なった水道」をお手伝いができてよかった。
(中村邸は「おも屋」も相当やられたのです)
その時、ブヨかなんかにさされて、左手がハレ
かゆくてかゆくて大変でした。今もはれています。
私はどうも虫に弱い。きのうは蚊とり線香を
切らしており、いつもするように腰か首に
「携帯蚊とり線香」をぶら下げられなかった
のが原因でした。

今ある客用食卓ですが、
これを冬はベッドに、夏は食卓にできるように
改造しなければなりません。天板は2バイ8の
板を並べればいいでしょう。本当は立派な一枚板
でも欲しい所ですが、ま、これでもいいでしょう。

冬になぜ下にベッドを置くのか、それは、夜昼一個の
マキストーブで総てすむように、ロフトへの階段を完全
封鎖(ふうさ)して、暖気を一階に閉じこめるためです。

以上のようなことですので、
これから、冬じたくがたくさんあるようです。

2011年7月16日土曜日

キリスト者の賛美

キリスト者の賛美は
「キリストの十字架における勝利」を
根拠(こんきょ)にしています。
その勝利とは、サタンに対する勝利ですので、
(女のすえイエスキリストはサタンの頭をくだいた)
私達の賛美はサタンを強く意識したものであるべきです。
従って今日「悪霊との日ごとの戦い」と賛美を分ける
ことは出来ません。

確かに私達は、
堕落(だらく)を知らない天使達と共に
「神の創造の偉大さ」を賛美することもありますが、
しかし「人であれば」その賛美の後でさえ、「完全な」
創造(自分をふくむ)に侵入(しんにゅう)したサタンの
深い汚染(最も深刻な内部ひばく)に気づかないわけには
行きません。(それは放射能どころではありません)
だからここでも、人は十字架にもどらされるはずです。

従って神の二つの偉大な業とは
創造と「あがない」であると言えるでしょう。
この二者の間に、サタンの侵入があるわけです。
(創造→サタンの汚染→贖い)

しかしサタンの侵入(しんにゅう)は、神にとって
神の第二の創造(新創造)を、キリストの復活の中に
導入する機会となりました。
これは何と偉大で計りがたい神の力と知恵でしょう。
それを見るとき、キリスト者は「最も深い賛美」を
ささげ、ただ神を礼拝せざるを得ないのです。
(初めの創造→サタンの汚染→贖い→新創造)

2011年7月14日木曜日

けさのメールから

Dear シュガー
その後どうしておられますか?
私たちは、もう少し前にbay area( San Francisco方面)
から帰ってきたところです。・・・
主の恵みが共にありますように。


兄弟姉妹
今14日、午前9:49、大工仕事の休憩タイムです。
今日は7時頃から大工を始めたのですが、これは
いい方法です。第一涼しいし、この現場は、午前中は
日陰になるので汗もかかないしとても能率が上がります。
(午後になると滝のような汗ですよ。)

今5、6坪のマキ小屋を作っているのですが、
ネタは殆ど張り終え、午後は床板を張ることが
出来るでしょうか。
壁、屋根と出来上がって行くのが楽しいです。
(この小屋には、マキ割りをしたマキを入れようと
思っております。割る前のマキは露天につんでおいて・・)

さて
私は震災前と比べて、生活も心境もほとんど変わって
おりません。我ながら一寸ヘンなのですが、ここでの
生活がこんなに楽しいと感じたことは今までに
無かったように思いますし、さらに
ここの山と森が「こんなにも美しかったかな」等と思うほどです。
なぜそうなのかは私にもよく分かりませんが・・

最近、
「私とは何なのか」と言うと、私とは霊であり、
魂と体は、この世に触れるための単なる手段なのではないか、
と言う思いが強くなって来ております。
これは奥深い課題となりそうです。これをさらにつき止め、
実際生活で経験して行きたいと願っております。

今、高原の涼風がとても気持ちがいいです。
さ、それではこれからまた大工です。


あ、今地震です。
小屋がユサユサと揺れています。
驚かれるでしょうが、こういうのは殆ど毎日ですよ。

2011年7月13日水曜日

ダビデの詩

主よ何と私の敵がふえて来たことでしょう。
私に立ち向かう者が多くいます。1節
私を取りかこんでいる、いく万の民をも私は恐れない。6節
あなたは私の敵のほほを打ち、
悪者の歯を打ちくだいて下さいます。7節
(第3編)

これはその生涯(しょうがい)
日々戦いに明けくれたダビデの詩ですが
ここで言われている、彼の命をねらう無数の敵とは
新約的に言うと、決して人ではなく
目に見えない神の敵・悪しき霊どもです。

今とは
ソロモンの「あからさまな王国時代」の前の、
日々戦わなければならない時代です。しかしそれは
人々には隠(かく)されており、ひそかに王国が
芽(め)を出す時代でもあります。

だから
私達は内的に激しく戦っているとしても、ことさら
そんな様子を人に誇示(こじ)するべきではありません。
むしろ何が起ろうと騒(さわ)ぐことなく、
淡々(たんたん)として、今日も、私に「わり与えられた」
普通の生活を送るだけです。

ダビデもこう言います:
「私は身を横たえて眠る。私はまた目をさます。
主が支えて下さるから。」5節


「神への賛美と敵との戦い」、それが詩篇ですが
実は賛美と戦いは一つであり、一つのことの表とうらです。
(ここで言う「賛美」とは歌を歌うことではありません。)



今日は、マキ小屋の
「ネタ張り」に入りたいと思っております。
今しがた、ゴジュウカラ?の夫婦が
「巣が作れる場所はないかな」と
西デッキのあたりを調べに来ておりました。

2011年7月12日火曜日

食卓用ベンチ

今日はまず、
食卓のベンチを作るための2バイ8の板を見ます。
それは、きのう落下させた北デッキの一部から出たもの
ですが、腐食(ふしょく)が進んでいればダメですね。

次にマキ小屋作りに取りかかって見ます。
マキ小屋だから暖房はいらないし、スキ間風も
オーケーですからラクなものでしょう。しかし
雨だけはなるべく当たらないようにしないと。
建材は北デッキの残骸(ざんがい)を利用します。


さて
神に喜怒哀楽(きどあいらく)はあるのでしょうか。
当然あります。

例えば、詩篇2編は「天の御座におられる方は笑う。
主はその者どもをあざけられる。・・燃える怒りで
彼等をおののかせる。」と言い、

ルカ10の21では「ちょうどこのとき、イエスは・・
聖霊によって喜びにあふれていわれた。」とあります。
だから神も、彼の幸せを求めておられることは明らかです。

人は例外なく、自分の幸福を求めます。しかし、
キリスト者であれば、まずは神の幸福を求めるべき
ではないでしょうか。(その時に神は人に必ず
「真の幸福」を与えられます。この順番は重要です。)

聖書では、この神の喜怒哀楽は総て、
神の敵に関連して、神の敵の存在を背景(はいけい)
として表現されております。例外は一つもないと
言えそうです。(ハッキリ言えば、神は、
悪魔をひどく憎んでいるのです。)

具体的な話、
もしも神がいるのであれば、悪魔もいます。
キリスト者が
神の敵の存在を大いに意識しなければならないことは
きわめて明白です。

2011年7月11日月曜日

北デッキの解体がほぼ完了

山の上とは言え、結構暑い。
きのう、地震のあと、残った北デッキの撤去(てっきょ)を
始めました。くされかけた高さ4・5メートルのデッキの
作業はそうとう危険です。炎天下(えんてんか)の作業、
熱中症にもゆだんなりません。

そうしていたら・まもなく、たちまち空はかき曇り、
雷、大雨の襲来(しゅうらい)、夕立です。

ピアノをひきながら、しばらく待っていると雨はやみ、
北デッキの解体は、ほどなく終えることが出来ました。
(これは予定以上だ)


この世界は
「真理対ウソ」という構造です。
「小さな」真理によって、
ウソで築(きず)きあげた巨大で複雑な
サタンの建築物(けんちくぶつ)を
じょじょに破壊(はかい)してゆくこと、
これが現在における神の深い意図(いと)です。
(神は破壊者ですよ!)そこで一言サタンに物もうす:

私達が宣告する
「小さな」神の言葉の本質は真理であるが、
あなたが人に感じさせるもの、目に見させる現象(げんしょう)
状況、すなわち大きな山(マルコ11の23)の正体は
実はウソです。
サタンよ、
「真理対ウソ」ではしょせん問題にならないでしょう。

明快な真理の宣言は、ウソを消し去ります。
より正確に言えば、ウソを後退させます。
(上の記事とは関係ないですよ)


今日も無風快晴、
解体した残骸(ざんがい)の山のかたづけです。
(ツユ、終わったのかな)

2011年7月10日日曜日

あれはキツツキですよ

このところ毎日、予報に反して美しい朝です。

地震でこわれた北デッキの解体はきのう終わりました。
これで震災の後始末はほぼ終えましたね。
それにしても長くかかりました。ささやかな山小屋の、
この小さな災害にしてこうなのですから・・・

最後に残った、地震で壊れた地下室のフィックス
窓は冬までに新しくすればいいでしょう。

今日は北デッキの
地震で壊れなかった部分も解体しようと思います。
なぜならケッコウ腐食(ふしょく)が進んでいますし、
これを使用することは殆どないからです。でも
4・5mから落ちないようにしないと。

マキ小屋はやはりいるかな、と思います。
できれば、長野の友人のように冬中ストーブを
つけっ放しのストーブライフをして見たいからです。
そうすれば冬用・老人部屋(私のことです)を
新築しないですみますし・・

薪小屋を作るのはラクでしょう。というのは
この小屋の付属物(古電柱)を柱に利用すればホイホイ
出来てしまうだろう、と今のところは思っているのです。
いよいよ「震災の修復」でない工事を開始できるのは
とても楽しいことです。

今キツツキ(アオゲラでしょう)が、隣(となり)の別荘を
つついています。そうとう大きな音ですが、これはドラミング
とは違います。まるで大工さんが仕事をしているよう。
初めて聞く人は、あれがまさかトリだとは思わないでしょう。

今思い出しましたが
今年シオカラトンボをたくさん見かけます。これは
小さいころ沢山いたトンボで、嬉しいかぎりです。

ところが、バッタはいなくなりましたね。
昔は、色んなバッタがあんなに沢山いたのに・・
夏のさかりの、あの巨大なトノサマバッタの豪快な
羽音がなつかしい。

2011年7月8日金曜日

北デッキ解体初日

昨日、午後のこと:

北デッキの解体をしようと、現場に行った。
巨大なデッキが3、4m落下して地面にななめに
立っている。少し動かすだけでも大変そう、
その上、現場は傾斜地(けいしゃち)である。

かねてから「ネタからクギを一本一本抜くしかない」と
思っていたのだが、ためしに1、2本やって見ると、
それはとてもムリと分かる。釘が太い上に、釘の数が
ハンパではないし、何しろ足場が悪いから、このままでの
状態では、この方法はかなり難しい。

「合板はカットしたくない」と思っていたのだが、
こうなると、それは出来ない相談である。結局
「チェンソーでバリバリと切断するしかないのか」と
あきらめた。「頭と現場は違う」と改めて
思わせられたのであった。

ところがである。
さらに肝心のチェンソーが動かないのだ。これには困った、
森林組合で働いていたイモクボさんの所に行って
聞くしかないか、と思いつつも、チェンソーのフタを開けて
何心なくフタの「カス」を掃除(そうじ)して見たら、
何とチェンソーは元気良く動いてしまったのである。
これ一体どうなってるの?

かように、
山暮らしは「思いがけない」の連続です。でも
「思いがけない」のは山暮らしだけではありません。
(誰が3・11を予測できたでしょう)

さて、今日の作業はここまでとしましょう。
こんな時、意気ごんで、足場の悪い現場で、
チェンソーを動かすのは危険です、と言うわけで
きのうは早めに散歩にでかけてしまいました。


「古くなった合板でも、カットしたくない」というのは
この「石巻合板」と言う会社の製品がすばらしいから
です。特にその腐食(ふしょく)に対する強さには
ビックリです。(ま、値段もいいのですが・・)

2011年7月7日木曜日

コウモリが帰って来た

地下の暗さが、
ちょうどよい洞窟(どうくつ)状態なのか、
一羽のコウモリが住みついていて、
私が入って行くとヒラヒラと飛びます。

今、朝の6時半、
予報に反し天気はよいが、
3枚着て、ちょうどよいのです。その上
とうとうストーブをつけてしまいました。
これが阿武隈の夏、冬が寒いわけです。

きのう中に焼却(しょうきゃく)完了まで行けたので、
今日は「例の北デッキ」の解体に取りかかることが
出来るでしょう。よい合板を使っているので、
ストーブで燃やしてしまうにはもったいない。
(ネタに使った2バイ6もですが・・)
だから薪小屋の壁にでも利用しましょうか。



主よ、
あなたは既(すで)にサタンを襲(おそ)いました。
サタンよ、あなたはキリストに襲われたね!
「キリストというワシ」に襲われて
滅(ほろ)ぼされない者があろうか。

しかしながら
十字架におけるキリストの勝利は
一見彼の敗北とさえ見えるほどの
隠(かく)された方法においてでした。
(だから、あの時の彼の
「完全な勝利」を見る人はとても幸いです。)


さらに、①の「集約された勝利」はオープンな方法で
時間の中に「一部」引き出され、間もなく
総ての人々が「猛禽類(もうきんるい)なるキリスト」
を見るでしょう。

①もっと強い者(キリスト)が襲ってきて、
彼(強い人)に打ち勝った。(ルカ11の22)
②死体のある所にはハゲタカ(orワシ)が集まります。
(ルカ17の37)

注:
ハゲタカが複数であるのは、①とは異なり、その時の主は
勝利者達を伴(とも)なっておられるからです。

2011年7月6日水曜日

「御こころの外(そと)」は不法

いわゆる「山上の教え」は明らかに
キリスト者に対して語られたのですが
その最後(マタイ7ノ21~27)で(結論的に)
イエスが強く主張されたことは
「御こころを行うことが一番大切です」
ということでした。

「主よ、主よ」と言うこと
予言をすること
悪霊を追い出すこと
奇跡を行うことは
最高級のことのように言われておりますが、

しかし、それらでさえ
もしも「御こころ(法)の外で」行うならば、
そのキリスト者は
不法(anomia、lawless)を行う者であると
イエスは見なされます。

他の聖書のか所で、この不法という言葉は
サタンに対して用いられておりますので
その意味あいは深刻(しんこく)です。


今日の作業は
焼却(しょうきゃく)の下準備でしょうか。
昨晩、山の端(は)に輝く三日月は
ことのほかきれいでした。
今日もよい天気です。

2011年7月5日火曜日

整理整トン

ケサは「寒い」です。上に三枚も着ています。
ツイ先ほど一時的に
物すごい突風、雷、豪雨がありました。


さて、地下に
地震で壊(こわ)れなかったタナも4つほどあります。
大変ですが・今日あたりついでに、その棚の整理もしようと
思っているのです。しかし、

言うはやすし、それはけっこう難しい仕事です。
私も「これは捨てないでおこう。その内・何かに使えるかも
知れない。」とよく思うタイプですので。

でも今回はどうしてもやらないと!
「不要なもの」をいつまでもかかえていると
人生を「不幸」にしてしまうからです。

収納(しゅうのう)のコツは、
「一見して・あれは何」と分かるように「しまう」ことでしょう。
その点、物とモノを積み重ねたりすると、ものカゲになって
見えなくなり、たちまちそれは「無用の長物(ちょうぶつ)」
(不幸の原因)になってしまうようです。

だから、同類の物は、「透明な」一枚の大きな
ビニール袋に入れます。(ビニール袋はとても安い)
こうやって置けば、その棚をちょっと見るだけで「これは何、
あれは何」とスグに分かるのです。だから、
使うにも捨てるにも、パッと行動に移せるでしょう。


話は変わりますが・・

聖書のイエスの言葉を読むと、彼は決して
「分かりやすく」話そうとはされなかったように見えます。
(彼の表現は平易(へいい)ですが
内容はけっこう難しいし、その奥深さは無限です。)

なぜでしょう。それは、彼はただ
「聖霊を信じておられた」と言うことに違いありません。
彼は深く認識(にんしき)しておられました、
もしも聖霊が人に教えるのでなければ、その人は
「何も分かったことにはならない」と言うことを。

「しかし、その方(聖霊)が来ると、あなた方を
総ての真理に導き入れます。」(ヨハネ16ノ13)

2011年7月4日月曜日

十字架と宣言は一つです

「私と福音のために命を失う者は
それ(自分の命)を救うのです。」(マルコ8ノ35)

福音とは
「主の勝利とサタンの敗北」の事実です。
この福音は必ず
「総ての造られた者達」に
布告(ふこく)宣言されなければなりません。

それは第一に、
堕落(だらく)した見えない生き物達に対してです。
(何とイエスは「自分を失った」あと「よみ」に
行かれても、それ(宣告)をされました。Ⅰペテロ3ノ19)

だからその宣べ伝えは、もしも人が、
自分・自分の命(魂)を失うのでなければ
容易(ようい)なことではありません、

結論として
自分の命が救われるために、最も大切なことは
自分を失うこと(十字架)と
福音を「宣べ伝え」ることです。そして
この「十字架と宣言」という二つを
切り離すことは不可能です。



風の強い曇り空です。

今日以後の作業:
①ボイラー室においた建材等を新しく作ったタナに収納する。
③大量にたまってしまった雑物の焼却(しょうきゃく)
②↑火事になったら大変ですので、先ずは
焼却場の整理が先決(せんけつ)。
④落下させた北デッキ(2×3m)の解体(かいたい)
⑤地下の客室の窓(この窓だけが地震にヤラレタ)を
片付けて、全く新しい窓を手作りする。プラスチックの
フィックス窓ならば簡単。

以上で地震の後始末は完了ですが、まだまだかかりますね。

⑥小屋の周囲に散らばっている一年分のマキの整理。
(どこに保管しましょうか)

2011年7月3日日曜日

地球はまわっています

真理・事実・神のことばは、
私の「気分や機嫌(きげん)」とは
全く関係がありません。

私の気分がどうであれ、
太陽が西から昇ることはありえません。
私の機嫌と関係なく、地球は太陽のまわりをまわり、
太陽は必ず東から昇ります。

そのように神の真理・キリストの達成は、
私の状態とは関係なく常に一定不動です。

さて、
サタンはその神の真理を
「人が知り、それだけでなく次にそれを表明すること」を
恐れます。(世界の歴史をも変えるのは、第一に人の
小さな口です、ガリレオの時のように!)

サタンは、真理が「そこにあるだけでは」恐れません。
それは「悪をさばく立派な法律があっても」
誰もそれを口に出して抗議しなければ、
悪人は全然恐れないのと同じです。

今サタンは安らかです。なぜなら、
サタンの悪事を糾弾(きゅうだん)し「サタンへの
神の裁(さば)き」をオオッピラにする人がどこにも
いないからです。(人は人を相手に戦うだけです。)

実はサタンは人間を自分の子分だと思っています。
だからもしも、ある子分が、悪から足を洗い
法律を手に取り、立って(気分に打ち勝ち)
条文を声高らかに宣言するならば、
彼は相当アワテふためくでしょう。
これがキリスト者の戦いです。


旧約聖書ヨブ記に
「地動説」を暗示する記述があります。
「神は・・何もないところに地球をかける(つるす)」
(26の7)神によって何もないところにかけられたのですから
地球は空間に浮かんでいる、のではないでしょうか。

2011年7月2日土曜日

あるごあいさつ

お元気のことでしょう。

私は相変わらず、平気で山暮らしと
「下界」の生活を楽しんでおります。
(このノンキさは一体何でしょう)

地震の後始末(しまつ)はまだまだですが、
ようやく先が見えて来た感じです。
ふしぎと母屋(おもや)は守られたのですが、
デッキや地下のタナが手ひどくやられたのです。
それでも、山はいいです。

もうこれから、ここに来てくれる人は
ほとんどいないでしょうが、
この山の快適さは何にも代えられない、
と言ったところでしょうか。

主にあっては、あえて
毎日「スリリング」な日々を送っているとでも
言いましょう。

ただただ、この素晴らしい主を賛美し
感謝するのみです。

シュガー

2011年7月1日金曜日

タナに建材をしまう作業です

風のある、とても美しく晴れた朝です。
今、新設したタナに、外に放り出したままの
建材等をしまいこむ作業をしています。
今日で殆ど終わるでしょう。ただしあの
「一年分のマキ」は明日以後です。


「虫食い」がいつの間にか「大きな布」に、とても
小さな穴をあちこちに開けるように、神の国は、決して
目立たず、少しずつ、しかし確実に拡大して行くのかな、
と思っております。

その布とは、神にとっては、どうにもならない
古い不要な布ですので、ツギをあててよくすることは
出来ません。

そうするときに、ある日、主イエスが来られて
布全体がドサッと落下し、
「天国の時代」が明らかに幕(まく)開くことでしょう。

古い布とは、四スミを持ち、
地上の総ての生き物を入れる今の世界のことであり、
「新しい布」とは、次の時代において、王イエスの支配が
つつみこむ神の国の範囲を表します。その神の国は「死の大水」
の中を通った後、総てに超越(ちょうえつ)したあの箱舟に
よっても表現されています。それゆえ、私達は今既に
「その新しい空間」の中にいる必要があるのです。
(この場合、箱舟はキリストであり、その新しい空間とは
キリストの中、in.Christです。)


今朝、
自発的服従、主体的服従ということを
思っておりました。
私達は神の意志(みこころ)に服従すべきですが、
それは主体的服従であるべきです。
神は、私達が「意識的に」彼に従うことを喜ばれる
のです。これは今日失われつつある大切な真理です。

神は人に自由意志を与えられた、と言う
「人間創造の大原則」を決して忘れるべきでは
ありません。そうでないと悪しき者が忍(しの)びこみ
私を奪(うば)い去るでしょう。
(エバ母さんとアダム父さんを奪ったように)

私達にとって今日の一日が、
その忍び込む者の存在を知り、対抗し
果敢(かかん)に立ち上がる日でありますように。