2011年7月13日水曜日

ダビデの詩

主よ何と私の敵がふえて来たことでしょう。
私に立ち向かう者が多くいます。1節
私を取りかこんでいる、いく万の民をも私は恐れない。6節
あなたは私の敵のほほを打ち、
悪者の歯を打ちくだいて下さいます。7節
(第3編)

これはその生涯(しょうがい)
日々戦いに明けくれたダビデの詩ですが
ここで言われている、彼の命をねらう無数の敵とは
新約的に言うと、決して人ではなく
目に見えない神の敵・悪しき霊どもです。

今とは
ソロモンの「あからさまな王国時代」の前の、
日々戦わなければならない時代です。しかしそれは
人々には隠(かく)されており、ひそかに王国が
芽(め)を出す時代でもあります。

だから
私達は内的に激しく戦っているとしても、ことさら
そんな様子を人に誇示(こじ)するべきではありません。
むしろ何が起ろうと騒(さわ)ぐことなく、
淡々(たんたん)として、今日も、私に「わり与えられた」
普通の生活を送るだけです。

ダビデもこう言います:
「私は身を横たえて眠る。私はまた目をさます。
主が支えて下さるから。」5節


「神への賛美と敵との戦い」、それが詩篇ですが
実は賛美と戦いは一つであり、一つのことの表とうらです。
(ここで言う「賛美」とは歌を歌うことではありません。)



今日は、マキ小屋の
「ネタ張り」に入りたいと思っております。
今しがた、ゴジュウカラ?の夫婦が
「巣が作れる場所はないかな」と
西デッキのあたりを調べに来ておりました。

4 件のコメント:

匿名 さんのコメント...

詩篇はまさにダビデの内面がよく表現されてますね。
僕たちも最近詩篇に目を留めてました。

神への賛美と敵との戦いとは、主に安息しながら、敵と戦うということですね。
安息しているから普通の生活が出来ますね。
また、安息とは既に主に勝利されたという永遠の中に立つことだと思いました。

Mr.Sugar さんのコメント...

そうだと思います。
主が勝ち得て下さった私達の地位
(イン・クライストによって)に
安息することなしに戦うことは不可能です。

敵との抗争は「高さの争い」である、とも
言えるでしょうね。

Willie Yanaka さんのコメント...

yasu さん、シュガーさん、おもしろい交わりですね!

賛美(安息)と敵との戦い、これは本当に不可分なんですね。

日常に適用していきたいです。

>敵との抗争は「高さの争い」である

これはよろしければ、また教えてください。

Mr.Sugar さんのコメント...

コメント感謝です。

「高さの争い」はとても深いテーマです。
今後おいおい交わって行きたいです。

大まかに言うと・・

キリストの御業の故に
「キリストと私達は一つ」ですので
(Ⅰコリント1の30)
神は私達に(この宇宙で)
最も高い地位を既に与えられました。
それがキリストと共なる
私達の圧倒的天地な地位です。

対してサタンには
復活がありませんので
彼の地位は黄泉とその表現である地上です。

これは天地の差です。
以上はキリストの中、永遠の中における
不変の天的真理です。

この真理を私達は信仰という
霊的な手段によって
この時間のなかにも「引き出し」
この世界においても
「真理」を事実とするべきです。

もしもそうしなければ、
「サタンの職場であるこの時空」の中では
彼はこの世の王なので
(彼の地位は私に勝る故)
私は彼に苦しめられることになります。
(エジプトでの神の民のように)

しかし
一つの具体的な戦いの方法は
天的諸真理を
サタンに対して、声に出して
日々しばしば宣告することです。

それは一つの有力な賛美となり
サタンの手下・悪霊を
(暫時)退かせることが出来る筈です。

なぜならその際、私達は賛美によって
エジプトの軍勢の水没を
高所から見下ろすことになるからです。