2010年2月26日金曜日

真理とその実行への門

黙示録3の7、8の「閉じられたら 誰も開くことが
出来ない・・門・・」とは 
どんな時の事を言われているのでしょう。


ここの段落(だんらく)は「フィラデルヒヤにある教会」への神の御ことば
です。この教会は19世紀初頭(しょとう)から イギリスで開始された
比較的正しい教会(キリスト者達)です。主は その「フィラデルヒヤ
にある教会」を強く擁護(ようご)して この言葉を語られたのです。

開いたり閉じたりされる絶対的(ぜったいてき)なお方はイエス様です。
イエスキリストは この教会に対して 聖書の「真理とその実行」への
門を広く開かれました。しかし、他に対しては その門はかたく
閉ざされました。これは厳粛(げんしゅく)な事実です。

私達も今 この御ことばから警告(けいこく)を受けるべきです。
私達は このフィラデルヒヤの教会の実際にならい、
真理とその実行への門が 神によって自分達に開かれるには 
どうであるべきか、を真剣に追い求め また、その門が
閉じられてしまう条件を 自分の上に作らないように細心(さいしん)の
注意を払(はら)わなければなりません。

実は今日、私達が恩恵(おんけい)にあずかっている多くの
貴重な真理は 彼らの努力と発見、そしてその実行による
ところが大きいのです。
しかし何故か現在 彼らの本を 日本のキリスト教の本屋で探すのは
相当むずかしいことです。これは日本のキリスト者達にとって
大きな悲劇ではないでしょうか。
従って私達は今日「奪(うば)うようにしてまでも」その諸真理を
学ぼうとする強い願いを持たなければならないはずです。

2010年2月25日木曜日

陽子さんの証し

陽子さんは 
最近よく私のブログにコメントを寄せて下さる 
とても明るい姉妹です。
その清純朴訥(ぼくとつ)な信仰は 
私達を大いに励(はげ)ましてくれるものがあります。

ある老人施設で そのケアを受けていた陽子さんのご主人は、
突然 その脳内がとても重篤(じゅうとく)な状態に陥
(おちい)り、即刻(そっこく)病院に搬送(はんそう)
されたのです。その時点(じてん)では「どうしたらいいか
分からない」といった雰囲気(ふんいき)を 
彼女のメールから私は感じさせられました。

ところが・・
その後の姉妹のメールです:

主に感謝します。
主人は 何と来週そうそう「日の出紫苑」に戻ることが
出来るようです。主人は 奇跡的な早さで癒やされたのです。

今回私は 
主人の大変な病気によって とても大切なものを知ることが
出来ました。それは、神様の栄光を現すには
「常に 神様を目の前に置かなければならない」と
いうことです。

それまでの私は 目の前の「主」ではなく 目の前の「現実」
にのみ心を奪(うば)われ「主人が可愛そう、早く癒して
ください」というだけの祈りをしていたのです。

しかし大切なのは ただ主を全面的に信じ 主に全く委ねる
信仰です。そのようにして主に委ねた時に 私は心がとても
楽になったのです。

主人に正に奇跡が起きました:
主人の脳内の機能(きのう)が全く働いていない状態から
脳がいわば「復活した」のです。
現に レントゲンではそのように写っているそうです。
脳外科の先生も「これは 私も初めての経験です」と
とてもびっくりされておられました。
ただ主にのみ賛美をささげます。


陽子姉妹、本当によかったですね。
私もとても嬉しいです。

私は更に次のことを思わされました:
今回、ご主人が癒されたことは 当然すばらしいことですが、
それ以上に価値あることは、

今回のつらく大変な経験を通ることによって 
陽子さんが確実に「ある分量のキリスト」を自分の内に
獲得(かくとく)され、逆(ぎゃく)に
陽子さんの「生まれながらの傾向(けいこう)」が
ある程度(ていど) 削(けず)り落とされたことです。
これに勝る幸いは他にはあり得ないでしょう。

なぜなら
その削り落とされた隙間(すきま)からのみ 
キリストが流れ出ることが出来るからです。

2010年2月24日水曜日

罪人にして義人

Sugarさんの考えをお聞かせ下さい。
私達キリスト者は「罪人にして義人」でありますが、
「もはや罪人ではなくキリストにあって義人」という考えは、
誤まり、おかしな考えなのでしょうか?

A
「キリストにあって」は 私達は完全な義人です。
①キリストにあって、
②永遠の中では、
③キリストの贖(あがな)いが完全だったので神から見て、
すなわち、神の「法的な見地から」私達は完全に義人です。
B
しかし、キリストの外では、時空の中においては、肉体の中では、
私達は あい変わらず罪を犯しますのでやはり罪人です。時空の中、
すなわち この肉体の中にいる間 私たちが「罪なき完全」に到達
(とうたつ)することはあり得ないでしょう。これはあの90才?の
使徒ヨハネが彼の手紙の中で断言(だんげん)していることでもあります。

しかし、
1.日夜 Aの事実(神の真理・永遠で復活性の無限な事実)
を愛し、いつくしみ、尊重し、見つめ、信じ、宣言し
2.日々 自分を死に追いやる環境の中で キリストの十字架の死の
効果をわが身に受け続けることによって 真に死に続けるならば、
時空と肉体の中においてさえ、キリストの復活の命の力によって 
Aの実際(じっさい)がBの中にも、すなわち私達の肉体を通しても
徐々に現れてくることは十分可能です。

2はとても重要です。いくら理屈(りくつ)が言えても 
この2をおろそかにするならば 何の効果もないだけでなく、その人に
むしろ偽善(ぎぜん)や宗教性をもたらすだけでしょう。やはり実際的な
死を実生活の中で神の手から受け入れているかどうか がポイントです。

このAの世界とBの世界の間には 人には決して越(こ)えられない
大きな「フチ」のようなものがあります。
しかし感謝します。そのフチを越えることさえ キリストによるならば
可能です。そして私達には神によって 何とそのフチを越える「キリストの
信仰」が与えられているのです。キリストこそAとBを(すなわち天と地とを)
つなぐハシゴ(or その道、The Way)そのものです。 

そのキリストの信仰を私達が用いるとき、神の崇高(すうこう)な
真理Aは 時空の中の現実Bに対して ゆうゆうと勝利するのを 
私達はかたわらに立って 見ていることが出来るでしょう。


簡単に書きました。このテーマは相当の時間が必要です。
特に「永遠と時空の関係」は理解がとてもむずかしいです。しかし、
兄弟が自分の意志を用い、自ら進んで「霊的な実益(じつえき)のために」
神の門を強くたたき、神の御前で真剣に この問題と取り組まれるならば、
門は必ず開かれるでしょう。なぜなら あなたに対してそれが開かれる
ことは 神ご自身の強い願いでもあるからです。

夕べはあたたかでした

お風呂の 
水とお湯の混合栓(こんごうせん)からの漏水(ろうすい)
のため 混合栓は結局 全部取りかえ となってしましました。
新しいのをジョイフルホンダで買うことになるでしょう。
ヤレヤレですね。これは器具(きぐ)の「かっこよさ」を
優先(ゆうせん)してしまったツケかな?
メーカーはKVK という会社がいいとか・・

夕べはとても暖かく、ある時間は、ストーブをつけないで過ごす
ことができました。寒冷地(かんれいち)に住むものにとって 
これは一つの春の感動です。


霊的には スリリングな毎日です。
私達はつい、自分を見て「ああ、この私の見える部分 特に 
この私の肉体だけが私の総てである」と思い勝ちですが
明らかに新約聖書は はるかにそれ以上のことを言っています。

私とは「私が感じる私」だけではないのです。
すなわち「私と結合され、私と一つとなられたキリスト」を
私達に指し示すことは パウロの極(きわ)めて強い願いであり、私達は
どうしても「その大きな天地の神の生命体」を知る必要があるのです。

私達は今 その生命体、すなわち
「今日の天地におられる大きなキリスト」と神によって結合させられている
のであり、更に その天地のキリストが 何と私という存在(そんざい)
の本質であり、実体なのです!なぜなら、古き私は既(すで)に
十字架につけられ除外(じょがい)されているからです。

わたし達はよく自分を見てガッカリしがちですが、
もしもキリストの贖(あがな)いが 中途半端(はんぱ)なもの
でなかったならば この聖書の主張は信ぜざるを得ないはずです。

そして
神の全力投球されたあの贖い(あがない)の御業(みわざ)が
ホンの1%でも不完全であったなど 
絶対にあり得ないことではありませんか。

パウロは言います:
「キリストの内にこそ、神の満ち満ちたご性質が、形をとって
宿っています。そして、あなた方は、キリストにあって
満ち満ちているのです。」(コロサイ2の9)

2010年2月23日火曜日

今日この頃

今、焼き芋の朝食を終えました。あたたかいジャガイモに
バターをつけるとおいしいです。

聖書は、黙示録とダニエルの七十週を見ています。
ここからも「実際的、霊的な益」を引き出す必要があります。
七つの封印(ふういん)という巻物の中の一期間が 子羊によって
開かれつつある現在であることは明白です。

このように壮大で 自分にも深い関係のあるドラマの中に生かされている
という興味、これ以上の「面白さ」がこの世にあろうとは考えられません。

毎年の花粉症のため、15日に殆ど症状がないのに薬をもらって
飲み始めたら、3日後から 何と軽い頭痛になっています。
それで、薬は おとといからやめて今様子を見ているのです。
でも頭痛の真の原因は何かのか、インターネットで調べてみると、
それはなかなか難しいことらしいです。どうやら、やっかいな
病気ではなさそうなのですが・・。

とはいえ、神は何にもまして環境によって人に語られます。
「一刻もはやく癒(いや)してください」ではなく 主よ 
この頭痛によって、あなたは何を意図されているるのですかと
神に問うべきです。

今日は 故障(こしょう)を調べてもらった浴室の混合栓
(こんごうせん)を取り付けることになるでしょう。
うまく行くといいのですが・・。

「みちのくの最南端(さいなんたん)」も今日からは本格的に暖かく
なりそうなので、喜んでいます。(とはいえ せいぜい10度)
なぜか今 冬はもうあきあき、と言う気分です。これ、年のせい?

きのうから暖かくなり始めたので お湯が出ましたよ。
お湯があると炊事(すいじ)は楽です。
それにしても、冬の阿武隈(あぶくま)の このものすごい
冷水で炊事をした昔の人はエライ。

2010年2月20日土曜日

今、山です

きのう入山して 少し驚きました。
林道から小屋に至(いた)る道(「奥の細道」or
「ロイヤルロード」と勝手に命名)が
私の車でようやく入れた、と言うほどの積雪(せきせつ)が
あったのです。
(ハンドルを取られないように、その間 決して停止を
してはならないと言う懸命な運転でした)

やはり11日に急いで下山したのは正解(せいかい)でしたね。
私のいない期間、多い時で4、50センチ近くには
なったのではないでしょうか。

でも今日あすの日照(にっしょう)でだいぶとけるでしょうし、
あさってからは ぐっと春めいた気温になるとのことですから、
もう雪の心配は「多分?」ないでしょう。

水のほうは、やはり台所のお湯がだめでした。次の冬までは
更に対策(たいさく)を講(こう)じなければなりません。

今回 26日に下山になります。

2010年2月17日水曜日

一つなのに区別がある 1

エシュコルさん、
「一つとはいえ、区別があるなんて
実に不可思議(ふかしぎ)なものである。」
とのコメント、感謝でした。

Sugar:
言われるように これは実に不可思議です。
これはやはり人の頭脳では その完全理解は
不可能なことなのでしょう。
御父と御子も 二人ですが、一つです。
これはなかなか解きにくい算数です。
それは 合同の二つの三角形が一つであるように一つである、
のではないのですから。

だから結論をまず言うならば
「神が言われる意味において」一つである、
と理解すればよいのではないでしょうか。
神が言われるその意味において、
私達とキリスト、総てのキリスト者は一つなのだ
と単純に信じればよいのです。
神が一つだといわれるのだから「その意味において」一つです。
これは絶対に確実ですし、そのような態度は神のことばを信じる
キリスト者のあるべき姿でもあるでしょう。

しかし、そうは言うものの
私は この一つという大切な問題は
「今日の天地のキリスト」と大きな関係があると考えています。
それを除外(じょがい)しては解けないでしょう。
「今日の奥義的(おくぎてき)なキリスト」において
御父、御子、聖霊が一つであるように
「そのキリストにおいて」私達も初めて一つとされるのです。

これは あの最後の晩餐(ばんさん)の席上 
イエスが与えられた心からのメッセージの中心テーマでしたし、
神と人、総ての人の一つと言うのは
黙示録の結論、即ち全聖書の結論でもあります。

また私達のために 次のことも言えるでしょう。それは
単なる知的な好奇心(こうきしん)からでなく、
私達がこの問題を 自分を十字架の上に置きつつ
神の御前で 神のために追い求めるならば、
多大の霊的益を得ることが出来る ということです。
大切で必要なのは「霊的な実益」です。
そうでなければ、この問題には 多くの時間をむだにする
可能性が大いにある と言えるでしょう。

2010年2月16日火曜日

私達の一つ

このメールがあなたに届くことを
願いつつ・・


あなたは今
「天地におられる今日のキリスト」と一つです。
この一つというのは 
「今あなたは そのキリストと
完全に一つに重なっている」
という意味です。

そして、
その重なりの意味:それは、
二枚が 神のノリでくっついている、のでさえなく
もう「全く一つになっている」という意味です。
これは神のみに可能な
人の理解を超えた「神の一つ」です。
それは驚くことに
あの「父と御子の一つ」と全く同様なのです。

その一つは神が、その御一人子に命じ、そして 
御子が従順に 人と「人の罪を共有すること」に同意され
そして彼が その魂と肉体の命を実際に捨てられて初めて
あの木の上で実現した 尊く稀有(けう)な一つです。

その彼との一つは 私にも同様です。
だから そのキリストとの一つの故に、
私は 今あなたとも一つなのです。

この私達の一つは 
これ以外のどんな場所にもあるはずがありません。
何と堅固(けんご)この上ない
一つを 私達は共有していることでしょう。

今外側の相違(そうい)がどうであろうと 
私達は今こそ、声高らかに 
「この完全な一つは永遠である」ことを
神の敵と万物に対して誇(ほこ)るのです。


あなたを
その神の大きく安全な御手に委(ゆだ)ねます。

信仰とは結合です

聖書で言う信仰とは、「とても偉大なものとの結合」です。
もろもろの制限に閉(と)じこめられ 朽(く)ち行く物質に
過(す)ぎない人間が 信仰によって「永遠」と結合するのです。

その価値をぺテロは「尊い」信仰と表現しました。それ以上の
ことばを人は持っていないからです。
またパウロは 人を救うのは あたかも信仰そのものである 
かのように表現しました。
なぜなら信仰は救いとの結合であるからです。

ところでイエスはどうでしょう。イエスが
人の優秀さや努力をほめられた記録がどこかにあるでしょうか?
しかし、驚(おどろ)くことに 取るに足りない人間の信仰はこれを
手放しで臆面(おくめん)もなく?賞賛(しょうさん)されました。

信仰とは 最も価値のないものが最も偉大なもの、
最も価値あるものとの結合を意味するのです。時空の中での
あなたの経験から言うと IN CHRIST(キリストとの結合)は
あなたがキリストを信じた瞬間(しゅんかん)に実現したのです。

信仰 それは明らかに一つの偉大な奇跡である
と言わざるを得ないのではないでしょうか。

2010年2月15日月曜日

信じる使命 2

しかしどうでしょう、私的には、彼自身においては今は最早
信仰を行使する時代ではない、と思います。

その私の感覚が正しいとしての仮りの話ですが・・
もしもそうだとすれば今 信仰を行使し、
「天を地にもたらすという偉大な使命」を担うのは一体誰でしょう、
天使でしょうか、或いはパラダイスにいる歴代の聖徒達でしょうか。
その答えはヘブル書等から多分 否でしょう。

そうです、
その使命を担うのは明らかに 今地上におり、
はかなき肉体の制限の中で日夜圧迫されている
キリスト者以外にはあり得ないでしょう。

にもかかわらず 
その私達の信仰は「キリストの」でなければならない
ことは確かであり IN CHRIST の大きな必要が
ここにもあります。

結論として
「キリストの体を地上で受けついでいるキリスト者達」が
(「キリスト無き」今のこの地上において)この制限の多い 
弱き肉体の中でこそ 信仰を行使しなければならない
と言う意味と使命は極めて大きいと 考えております。

「私達が地上にあるキリストのからだ」であると言う
意味の深さに驚くばかりです。

信じる使命

ソルトさん、
コメントの欄に書いていたら とても長くなりそうなので
ここに書くことにしました。お許しください。


永遠を時空にもたらす信仰の創始者としてのキリスト、
これは明確な事実です。

そもそも聖書で言う信仰とは
「いわゆる人が生来持つ一精神機能」
を遥かに超え、本来地上には無いものでり、復活性や 
永遠性をさえ有する霊的な天来のものであるからです。

従って 信仰は どうしてもキリスト「の」
でなければならないのです。その意味では奇跡は
信じることから始まるのでしょう。


更にこう考えます:まず
体を伴なったキリストの単独の存在は 最早天にあり地にはない、
という一つの面は否定できません。彼は天に帰られたのです。

さて、
その天にあるイエスは
今信仰を行使しているのでしょうか?
これは一つのテーマとなり得ます。これについては聖書を十分、
調べる必要があるでしょう。

明らかに地上において復活前の「弱き」※肉体を持っておられた頃、
神の子でさえ信仰を行使したのです、いや彼とて
その肉体の中においては、信仰を行使しなければ
ならなかったのです。(ここに肉体と信仰の深い関係がある
と私は考えます。)

※「キリストの弱さ」:Ⅱコリント13の4、これは人として制限を
受けられたという意味です。「制限」の究極が十字架です。

2010年2月13日土曜日

キリストの信仰

神は

キリストという「ただ一つの入れ物」に
古い創造の総てを入れこんで、キリストを死なせました。
これは「万物と万事」にとって「一巻のおわり」となりました。 

しかし、三日後、
神にとって必要なものは キリストと共に「復活という形」で
よみがえりました。これこそ「神わざ」でした。
絶対にあり得ないことが起こったからです。

以上が神の方法であり、
「永遠において」はそれは既に完成しました。


ところが、私達は まだ時間と空間の中にいます。
時間と永遠の間には大きな淵(ふち)があり
上の①と②の効果は時間の中には決しておよびません。

しかし神は信仰という
「永遠を時空に導入できる機能(きのう)」を
人に与えられました。それは「キリストの」信仰です。

ですから人が「キリストのうながし」に協力(きょうりょく)し 
その信仰を動かして 永遠の事実を信じる時に 
人の霊の中の信仰(キリスト)を通して
永遠の事実が 時空の中に及(およ)ぶと言う
あり得ないことが起こるのです。なぜなら、
キリストは永遠と時空を連結するハシゴだからです。

イエスやパウロが
信仰をとても高く評価(ひょうか)する理由が
そこにあるのです。


ローマ3の26、ガラテヤ2の16、3の22、エペソ3の12、
ピリピ3の9等 総てキリスト(御子)「の」信仰です。
信仰の源は完全にキリストにあります。

2010年2月12日金曜日

神の完成と信者の証明

※じるしの部分(前の記事)の説明です。

神が既に達成、完成していることなので、
私達にも実現可能(じつげんかのう)なのです。
神が2千年前「永遠のゴルゴタで」達成したことを 私達は
時空の「いたるところで」達成し証明(しょうめい)するのです。
それが信者の使命(しめい)です。

ぎゃくに もしも事実がないのであれば当然 
証明できるはずがありません。既にそこに無いのであれば 
どう信じたとて実現は不可能です。

ですから 私達一人一人が、何が真に「神による事実」であるのか、
「神が既に何を完成されたのか」を霊の中に 神によって
示して(啓示して)いただくことはどうしても必要です。
神の啓示 これが最大の前提(ぜんてい)となります。

そこにこそ、
私達が聖書を一字一句 真剣(しんけん)に
読まなければならない理由があるのです。
それは「神の完成」を自分の目でシッカリと見るためです。

どうやって殺すのか 2

すなわち まず神は
①最後のアダム・イエスの中に万物すべてを集め 一まとめにし
イエスの死の中で 不要物一切(いっさい)を墓に送り
(死とは分別、分かいです)そして
②必要なものだけをキリストとともに復活させたのです。
しかし、それは「生の蘇生」(そせい)ではなく
「復活という永遠の形」で です。永遠においては 
この宇宙最大のテスト、神の分別はもう完了しました。

ですから今私達も 
その神の達成(たっせい)、神の仕事の完成を単純に信じ 
時空の中でも、それと同じことをして、
その神のことばが 今でも真実であることを
「時空の王」サタンに対して 証明して見せるべきです。※
それこそ 現在「時空(じくう)と肉体の中に あえて残された」
私達キリスト者に課(か)せられた仕事です。

あなたがこれを 真の信仰によって行うとき、
神が完成した永遠の真理が、あなたの時空、すなわち
あなたの肉体を通して あなたの環境の中にも
引き出され 現れてくるでしょう。その時
「永遠の見えない真理」が「見える時空の事実」に勝利するのを
あなたは確かに見ることが出来るはずです。

どうやって殺すのか

コロサイ書でのパウロの言葉:
「地上の体の諸部分(しょぶぶん)、すなわち、不品行、汚れ、
情欲、悪い欲、そしてむさぼり、を殺してしまいなさい。」
「総てこれらのこと、怒り・・口からでる恥ずべきことばを、
捨ててしまいなさい。」(コロサイ3の5、8)
私達:
「でも、どうやって殺すのですか、どうやって捨てるのですか」

それは
そういう私たちの本当の姿、ありさまを心から憎(にく)み 
(それが無ければダメです)
自分とそれらを「ひとまとめに」梱包(こんぽう)して
「あの最後の人、イエス」の中にセットすることによります。

それらのものは 
常に私に付着(ふちゃく)します(くっついて来ます)、
ですから 一まとめにするのは簡単でしょう。もう一つに
なっているからです。しかしその意識(いしき)は重要です。

実は 神の御業(みわざ)の中で とても奥義的(おくぎてき)な
方法は 総てをキリストの中に「一つにする」「ひとまとめ」
にするという方法です。(エペソ1の10)そして、
そのことは永遠において 神によってすでに達成されました。
万物総ては キリストの中へと入れられたのです。



きのう夕方 無事 実家に着きました。とちゅう、
「数奇(すき)屋」の420円の定食がおいしかったです。
小屋への道がオーケーなら16日には山に向かいたいと
思っているのですが、今回「下」で主は何をなさるのでしょうか。
今私には分かりません。

 

2010年2月11日木曜日

山小屋脱出(だっしゅつ)

けさ、一番にパソコンで天気予報を見たら 何と何と
今夜から明日にかけて 東京でも 積雪(せきせつ)が
あるかもしれないとか!
もしそうであれば、ここ阿武隈(あぶくま)は大変です。
一晩中 ふり続こうものなら 相当の積雪(せきせつ)に
なるでしょう。

というわけで 今日は午前中に
山小屋脱出(だっしゅつ)をはかるべし、と
さきほど即刻(そっこく)結論(けつろん)を
くだしたところです。

思えば さくじつ、
地下室の防寒(ぼうかん)工事が終わったことは
妙(たえ)なるタイミングでした。
ですから安心して今日 エキソダス(脱出)ができるのです。
春先の山は これだから むずかしい。

それではこれから 
ゆっくりヤキイモでも食べて 
したくに取りかかることに致しましょう。

今、窓から夜明けの南景(なんけい)を見たら
もう既(すで)に うっすらと積雪です。

2010年2月10日水曜日

今日のくらし

最近、朝食にサツマイモの焼きイモを食べています。
ダッチオーブンに入れて 小さなストーブの上におくだけで
とてもおいしく仕上がります。

ピアノ室の二重窓工事は おととい終わりました。
でもあの「ムーンライト」の練習開始はいつになるのでしょう。

今日の午前は 全くしばらくぶりに となり村のお風呂
「せせらぎ荘」に行ってきました。やはり大きなお風呂はいいですね。

午後は 台所への水道管を 今後の凍結(とうけつ)から
守るために 地下室の外ドアの防寒工事(ぼうかんこうじ)をしました。
今日の完成など とてもムリムリと思っていたのですが
やって見ると ごご2時から始めたというのに
アレヨアレヨという間に 出来あがってしまったのです。
大工をしていると、よくこういうことがあって面白いです。
ま、そのギャクもよくあるのですが・・。

今日は冷たい雨もようなので 
夕方の いつもの山登りは出来ません。

今日はほぼ これで終了です。

2010年2月9日火曜日

十字架はフィルター 2

死のテストに合格できないものは 必ず総て
ゴミステーション・聖書でいう黄泉(よみ)
に暫時(ざんじ)保管され、
最終段階においては「焼きゃく場」
(聖書で言う「火のまじったガラスの海」or火の池)で焼かれます。

もしそれが真実であるならば、
今現在 私達キリスト者が になうべき責任は何でしょうか。
それは 私達が信仰によって キリストの十字架を今 自分と
自分にかかわる もろもろの状況に たえず適用することです。

もしも私達が そのことにおいて神に忠実であるならば、かの日
あの「火のテスト」が軽減(けいげん)されるための それは 
唯一の有効な手段となるでしょう。

コリント書の「一時的火のテスト」は明らかにキリスト者のためです。
黙示録の「永遠の火の池」は 決してキリスト者のためではありません。
にもかかわらず、私が永遠に救われたキリスト者であるとしても
今十字架(深い水による死)を経過(けいか)しなかった「私のある部分」
が残るならば いずれ不要物を総て焼きつくすための
「一時的神の火」が用意されていることを私達は知るべきです。

ある意味「滅びをもたらす神の手段」である水と火は同じ効果を持ちます。
もしもそうであるならば 私達は いたずらに将来の火を待つのではなく、
今 水による死(十字架)を有効に用いるべきです。

あなたが「よいキリスト者になろう」とするのは大変結構ですが
このフィルターを経過(けいか)しないキリスト者の
決心、決意、善行など何の役にも立ちません。

私達は常に①私そのもの ②「私にくっついて来る一切の状況」
(楽しい状況をふくむ)を    
ただキリストの中にセットするべきです。
これはキリスト者が一日中行うべき、そして今日こそ可能な 
とても大切な仕事、清掃(せいそう)作業です。

大阪府・和泉市 その後

高名な「人助けヒューマニズムキリスト教」の指導者のもと 
「ある教会の代表」であった70才代の姉妹が あるキッカケから
徐々(じょじょ)にその指導者と相容(あいいれ)ないもの
・聖書と違うもの を感じはじめ、ついに昨年11月、
姉妹はその「大先生」とハッキリ決別(けつべつ)したのです。

この姉妹の 主の前における潔さ(いさぎよさ)はみごとでした。
しかしその間 実に大変な状況(じょうきょう)があったようです。

多くはその「先生」に従いましたが、10名足らずの聖徒たちは
この姉妹と行動を共にしました。

さて
今週2月7日の集まりは もうすぐ関東に移住する 
この姉妹の息子さんの送別会でした。そのさい、息子さんのために
参加されたゲストの人々は その集い(つどい)の中にある
「兄弟姉妹の自然な一つとあたたかさ」を
確かに感じられ びっくりされたようです。

そして更に驚くことには、
そのゲストのクリスチャン達の中に そのような集い、すなわち 
「普通のキリスト者だけで行う集い or
エライ人を必要としない集り」を
既に開始していた人々が二組もあったということです。

*Sugar
「えらい人や先生」はイエス様お一人で
十分ではないでしょうか。

十字架はフィルター

*ある質問に答えて*
私達のするべきことは 
①自分と
②自分にくっついて来るものや状況(じょうきょう)を
一まとめ、一くくりに梱包(こんぽう)し 
「最後のアダム(イエス)という箱」の中に
シッカリとキチンと入れることです。
この箱の中に
①と②を入れる作業は 日常しばしば行う必要があります。

どうやって入れるのか、
それは真剣な祈り、宣告(せんこく)等によります。
「主よ、今私は ①私自身と②~の状況総てをキリストの中に置きます」
となるべく具体的に神に祈り宣言するのです。(その祈りと宣告の
背後には必ず「神の言葉・真理への信仰」があるはずです。)

そうするならば、自動的に
「最後のアダム・イエス」と一つになっているフィルター(十字架)が
働いてくれます。

どんなふうに働くのか:
まず
一①と②の一切は総てフィルター・十字架を通過します。
 その時 一切は死にます。
 それは一切ですから、人から見て良いものも 悪いものも同じです。
二しかし、その後
 その死というフィルターに耐えるものだけが
 死をくぐって、復活という異次元(いじげん)の形で
 死から出てきます。(これは神業です)   、

その死というテストをくぐり そこから出てくるものだけが、
初めて神の国の役に立つのです。


フィルター:
液体や気体の中の不要物を通過させない装置。濾過(ろか)器。
濾過装置。(国語辞書)

2010年2月8日月曜日

おとといの雪

山の林道からさえ そうとうの距離(きょり)があり、村の
除雪車(じょせつしゃ)も来てくれない この小屋の冬の暮らしは
一点だけ問題があります。それは大雪の場合です。

入山の翌日・6日は少し大変でした。朝からの雪ふりがやみそうに
なかったからです。もしも車のバンパー以上に雪がつもれば
ホンとに困ります。車が小屋から出られなくなるからです。

いつの冬だったかな、
太平洋に近く、大雪はふらないはずのこのカリマンの里も 
ひと冬中 小屋に近づけないほどの
雪でおおわれたのです。

ですから、
雪が降り続くような空もようの場合には パソコンで 
天気予報とのにらめっこが欠かせません。よき決断(けつだん)をして
早めに小屋を脱出(だっしゅつ)しなければならないからです。

6日の場合 
その夜10時ころまで雪が続くだけで 小屋の前の積雪(せきせつ)は 
ゆうにバンパーを越えるでしょう。もし朝まで続いたらそれこそ 
大変です。しかし私は、予報を見て 午後4時半ころには雪はきっと
やむはず と判断しました。

今回の場合 
空がはたしてその通りになってくれ、事なきを得たのです。
ホンとにヤレヤレでした。

とは言え 雪の危険(きけん)は 残る2月と 
冬型の気候がゆるむ 3月初旬(しょじゅん)が本番でしょう。
それにしても 冬のこの小屋の暮らし、
食料と燃料の備蓄(びちく)は欠かせませんね。

2010年2月7日日曜日

会いたい、集まりたい

これは私の感じですが、
皆が集まるのは 決してムリをしないことです。
とにかく「むりなく、自然に」がとても大切です。
私達は「会いたい、集まりたいから集まる」のです。
大きな集まりにむりな感じが出てきたらむしろ 
すぐにやめた方がよいでしょう。
そしてあらためて また考えればよいではありませんか。

イエスの再臨の前、
そんなふうにして世界のいろいろなところに 無理なく自然に
種々(しゅじゅ)多くの交わりが生まれてくるであろう、
と私は予想しております。

ある交わりだけは
特別に聖だから「絶対に守るべし」ということはありません。いったい
キリスト者の集まりは「守る」ものなのでしょうか?
それは非人間的でキツイです、それはイエスの心でしょうか。
私ははなはだ疑問です。

そういうのは、人を縛り(しばり)つける 
ユダヤ教やその他の宗教から来ているのだと私は思います。
イエスはそんな「権威(けんい)主義」を破棄(はき)されたのでは
ありませんか?もしも聖なる場所がこの世にあるとすれば、
それはただ一かしょ、キリストがおられるところ以外のどこにもありません。

A市でも
「月いち」で ノンビリやっております。
そんな感じで よいと思います。
しかし、とにかくその他 いろんなかたちで、さまざまに、自由に
交流すればよいのです。二人とか 三人とか、または
十人くらい、必要に応じてさらにより多くとか・・。
そして場所もさまざまでけっこうです。
(会うのがむずかしければ電話その他もあるでしょう。)
その中の一つが あなたとお姉さんとの交わりです。
これはカクになる交わりですから お二人にとって重要です。

言えることは 
キリスト者は決して「集まりをやめる」べきではないということです。
なぜなら あるキリスト者に「交わりをしたう心」が「もし一日でも」
なくなるならば それはその人の霊的不健康(ハッキリ言えば病気)が
現れていることになります。

もしも仮(かり)にその人が そのうめ合わせや罪ほろぼしのために、
定期的ないわゆる「礼拝」を「守る」のであれば
彼の病状(びょうじょう)は
そうとう深刻(しんこく)であると言えるでしょう。

2010年2月6日土曜日

水道凍結(とうけつ)!

昨日の夕方 小屋についてみると あんのじょう 水道の凍結です。
洗面所、洗濯機、トイレは出るのですが、台所がいけません。
流しが出ないと暮らせません。

さてどうなったか。
昨晩は 今日の下山も覚悟(かくご)したのでしたが、
けさ、流しの水道管が走っている地下室を 二つの灯油ストーブで
ガンガンあたためて見ると何と出たのですよ。まだお湯はなぜか
出てくれないのですが 水はもう大じょうぶです。
これだと何とかなりそうです。

村の友人の話ですと、都路(みやこじ)村
今年はハンパでなく寒いらしいのです。
予報によると今晩あたりマイナス8、9度になるかも知れない!
しかし明日の朝も、重い石油ストーブを二台も地下室に
運ぶわけには行きません。

というわけで 流しの水道管凍結防御(ぼうぎょ)のために
今日から 地下室の徹底的(てっていてき)防寒(ぼうかん)対策を
こうじなければなりません。もう一つ、

多分、フロの混合栓(こんごうせん)内のカートリッジが凍結で
破損(はそん)してしまったのでしょう、漏水(ろうすい)があるのです。
経験がおありでしょうか、
漏水というのは実に「不ゆかい」なものです。
というわけで、フロはあきらめ、しばらく となり村の
オフロに通うことになるかも知れない。
チョッとやれやれですね。

2010年2月4日木曜日

あるメールのやりとりから

X日(日)に、もし休みが取れるようなら、
山田兄弟姉妹と集まって、
私の家でパン裂きをしようか と話しています。


すばらしいです。

「このパンとさかずきは私です」とイエスは言われました。
ですから まずは だまってしばらく、テーブルの上の
一つのパンと一つのさかずきを ながめて下さい。

次に
そこで感じさせられ、気付かされたキリストの姿 また
発見したキリストのかく面を 皆さんで 率直に表現するのです。
キリストの中にある 彼の種々の面の数と、
その各面上に存在する さまざまな点の数は実は無限です。

たとえば
「ああ こまやかでせんさいな麦粉のようなイエスは
30年間 神によってねられ、そしてついに
十字架の上で神によって焼かれたのか!」等々。
このようにして交わるならば、時間がいくらあっても
足りないでしょう。 

その表現のしかたは
感謝、賛美、祈り、交わり等 何でもありであり、
何がどういう順序で現れてもよいのです。
自由でリラックスしており、家庭的なふんいきが大切です。
なぜならエクレシア・教会は家であるからです。
決して 誰かを「えらい人」にしたてあげる
「格式(かくしき)ばって ありがたいギシキ」にしてはなりません。 

このたび 皆さんの場所でのパン裂きは 神にとっても 
「何か大切なこと」のスタートとなるでしょう。
神に対し 皆さんの霊と心を広くオープンし、
皆様方の献身(けんしん)を 新たにしたらどうでしょうか。

兄弟姉妹の自由な交わりは 単なる一つの集会にとどまらず、
じょじょに 復活のキリストによる無限の広がり に至(いた)る
ものである と信じております。

PS:
多分あす山に入ります。
水道が「とうけつ」していなければよいのですが・・

タンポポは死んで・・

あなたというタンポポは
春の「日ざしと風雪」の中、 
ついに死んで 
初めて実を結びます。

だから
タンポポの一番の仕事は
死ぬことです。

死ねば、 
やわらかな「風」が来て 
タンポポの中の命を 
「空」に運びます。

その命の種が どこに落ちるかは 
タンポポは知りません。

それは
タンポポのすぐそばかも知れませんし
あなたの知らない
遠い遠い場所かも知れません。
「風」は
思いのままに吹くからです。


ヨハネ福音12の24、3の8
「日ざしと風雪」はこの世
「空」は復活、
「風」は聖霊です。

2010年2月3日水曜日

死の連続

・兄弟達、私たちにとって、毎日が死の連続です。
(Ⅰコリント15の31)
この箇所でパウロは 毎日身近に迫り来る「肉体の死」を意味して
いますが、「それ以上の死」を暗示していることは明白です。
同じ15章、
・愚かな人だ、あなたの蒔くものは、死ななければ、生かされません。
(Ⅰコリント15の36)
その他、彼の書簡と生き様は死に満ちています。
・「いつでも」イエスの死をこの身に帯びています。
・私達 生きている者はイエスのために「絶えず」死に渡されています。
・こうして死は私達に働き、命はあなた方の内に働くのです。
(Ⅰコリント4の10~12)

従って私達も「死の連続」の中に
「いつでも」「絶えず」死の中にいるべきであり、それは
楽しい時、愉快な時、「ひと息ついている時」
「困難が取り去られた時」「希望に溢れている時」も全く同様です。
否、そのような時の方がむしろ私達にとって最も
死を必要としている時なのでしょう。

なぜなら、
そのような時 私達はとても容易に野放図
(野に放たれた野生の図)になり勝ちだからです。

「野」とは
キリストの死の効果を 私の肉体と魂に及ぼさせず、
私の存在が肉体や魂によって「主導」され それらによって
生かされている「私」を意味します。その「私」は何と
悪霊達が付着する場とさえなるでしょう。
その「私」は野に放たれた馬のように力があり 
生き生きと美しく見えるかも知れません。
しかしそれは神の御用には全く役に立たず、むしろ危険です。

パウロはキリスト者における計り知れない死の価値、
その実際的で絶大な効果を知っていました。
イエスも「ヨハネからの死」(バプテスマ)という一点から
スタートし、向こうに見える一点・十字架の死に向かわれました。
彼らは正に「死の連続」の中に生きました。簡単に言えば、
パウロやイエスの歩みに 死以外の何物もありませんでした。

ですから
十字架こそ、私達の家であるべきです。
十字架以外に私のいる場所はあり得ません。
実際的な死の連続こそ 私達の人生そのものである筈です。

2010年2月1日月曜日

ここ数日の夢

昨晩、降りしきる冷たい雪の中
関西の二人の妹達のところから帰って来ました。

妹たちも年を重ねましたが その子供達はおい育ち
結婚し、私の突然の訪問にもかかわらず、
その新婚の伴侶などを伴って駆けつけてくれたのです。

そこには当然、止どめようもない時間の経過と
生き物の命の成長と変化を見ます。
(残念ながら「老い」もね)

しかしまた私達は
真の命 キリストの命の増し加わりをも
見ることが出来るのです。
目には見えない小さな種のようであった
キリストが いつの間にか人の中から芽を吹き、
そして人の間を行き来さえするのです。

この数日
私は確かに 真の命を所有する者達の間にある
小さくも美しい幾つかの愛と命のストーリーを
目の当たりにすることが出来たように思います。

その真の命は
個人や親族の中でも成長するのですが、
幾本にも別れ流れて行く泉のように 徐々に
その小さな「囲い」の外にさえ流れ出て行き、
遂には「永遠の都」に至るという
壮大な夢をも この度主は私に 見せて下さったようです。