2010年2月17日水曜日

一つなのに区別がある 1

エシュコルさん、
「一つとはいえ、区別があるなんて
実に不可思議(ふかしぎ)なものである。」
とのコメント、感謝でした。

Sugar:
言われるように これは実に不可思議です。
これはやはり人の頭脳では その完全理解は
不可能なことなのでしょう。
御父と御子も 二人ですが、一つです。
これはなかなか解きにくい算数です。
それは 合同の二つの三角形が一つであるように一つである、
のではないのですから。

だから結論をまず言うならば
「神が言われる意味において」一つである、
と理解すればよいのではないでしょうか。
神が言われるその意味において、
私達とキリスト、総てのキリスト者は一つなのだ
と単純に信じればよいのです。
神が一つだといわれるのだから「その意味において」一つです。
これは絶対に確実ですし、そのような態度は神のことばを信じる
キリスト者のあるべき姿でもあるでしょう。

しかし、そうは言うものの
私は この一つという大切な問題は
「今日の天地のキリスト」と大きな関係があると考えています。
それを除外(じょがい)しては解けないでしょう。
「今日の奥義的(おくぎてき)なキリスト」において
御父、御子、聖霊が一つであるように
「そのキリストにおいて」私達も初めて一つとされるのです。

これは あの最後の晩餐(ばんさん)の席上 
イエスが与えられた心からのメッセージの中心テーマでしたし、
神と人、総ての人の一つと言うのは
黙示録の結論、即ち全聖書の結論でもあります。

また私達のために 次のことも言えるでしょう。それは
単なる知的な好奇心(こうきしん)からでなく、
私達がこの問題を 自分を十字架の上に置きつつ
神の御前で 神のために追い求めるならば、
多大の霊的益を得ることが出来る ということです。
大切で必要なのは「霊的な実益」です。
そうでなければ、この問題には 多くの時間をむだにする
可能性が大いにある と言えるでしょう。

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