2007年11月30日金曜日

網状結合

エペソ 4の10から16
コロサイ2の19から3の3
網状結合と言う言葉の方が、
ネットワーキングよりもずっといいですね。
ネットワークと言うとなんだか商売などが思わされますが
網状結合と聞くと 人間の体内、各部分の神秘的とも言える
命の結合を連想させられます。

頭(かしら・キリスト)から来る健康な命の力によって
微細な結合や癒しがいつの間にか体のあちこちに発生し 
そのようにして体は健康を得、成長して行く。
そこには自然に無理なく 滋養分、癒し、他の部分への慈しみ、
温かさ、エネルギー、そして必要な情報の実質でさえ
生ける交流の中で必要な部分に届けられる。

この網状結合においてとても大切なことは
各部分が 頭の命に直接繋がっていると言う一点だけなのであって
「一つになろう」等とスローガンを叫ぶことではないのです。
なぜなら「かしら」の命にしっかり結合している所からは
自ずと麗しい一つが生み出されて行くからです。
健全な縦関係があってこそ初めて健康な横関係が生み出されて行く
のではないでしょうか。
(誰かこれを「人体学的に」説明してくれないかなー)

エペソ書、コロサイ書をこのような見地から再読してみると、
キリストの体のその健康なあり方と その中で必要な癒しと成長が 
容易に無理なくそして新鮮に理解出来るように思われます。
キリストのからだは 時代の教えの風と掛け声や汗等によって
人々が「立ち上げ」なければならない「組織」とは全く無縁です。
きっとパウロはここでそんなことを言いたかったに違いありません。

かしらなるキリストによって神聖な命の中の網状結合が
日本国中 あちらにもこちらにも そして今日も明日も 
生み出されて行きますように!





*emiさんのブログに寄せた私のコメントを転載しました。

外形も内容も

「神は言われた、
我々のイメージの中で、我々に似せて人を造ろう。」
「見よ、それは非常に良かった。」(創世記1の26、31)

これは何たる言葉であろうか。
この段階でさえ人は既に神の敵に対してある程度の支配権を
行使していたようである。(悲劇はその後に起きたが)
 
ところが2千年前に人は外形のみならず 命として神の実質さえも
人の内容として有するに至った。
しかもイエスの肉において
敵の足場となり得る一切が死に処せられてしまったのである。

現在 神の敵が人に隠しておきたい事実の総てがここにある、
と言えないであろうか。
ただその真贋(しんがん)の判断と
真への信仰のみが人の分に他ならない。

ある手紙から

あの方が皆さんから去って行かれたことは良いことでした。
何事も偶然に起こることなどありません。
主の御許しが無ければ それはあり得ないことでした。

頼るべきはいかなる人でもありません。
ここで皆さんが、ただキリストのみを見上げ、
唯キリストに向かって真心からの声を発すること、
この目的の為にのみ神がそのことを許されたのである、
私は心からそう信じております。

2007年11月26日月曜日

今日の独り言

コロサイ3の2に「あなた方は既に死んでおり・・」とある。
この神の言葉によれば
聖なる働きに関する限り 私は死んでいるのである。
そこには一切 私の分などと言うものは無い。
しかしこれは何という解放であろうか、何という安らぎであろうか!

神の敵が拠り所にしていた「この時空」という古く極めて有限なものを
キリストはその肉において十字架に釘づけてしまわれた。
だから敵は今その働き場を失ってしまっているのである。
その上でキリストは
「復活と言う超越した新しい時空そのもの」となられた。
この新しい創造に敵は近づき触れることさえ出来ない。
否、それは敵にとって大いなる恐怖でさえあるのだ。

私はこの超越した神の事実(真理)を当然の如くに信じ、
今目に見えている「低次元の現実」を足の下に踏み
その遥か上空を歩むべきである。

2007年11月25日日曜日

皆さんのお祈りに感謝

昨日夕方、小屋に戻りました。
11/9の一泊を除けば、何と24日ぶりの山の空気です。
やはり山はいいです。
夕べぐっすりと眠って 早朝ロフトのデッキに出たら西に沈む未明の
白く大きな月がほほ笑んでいるかのようでした。
もう木々はすっかり葉を落としています。

さてケンのこと:
ホンと この事態をどう説明したらよいのか私にはわかりません。
とにかく状況はこれ以上はあり得ない程の嬉しい結果になったのです。
発病して10年、これまで何度もひどくこじらせ 病状をぶり返し
入退院を繰り返して来た統合失調症の患者がこれほどよくなる
ものだろうか、と思う程の回復なのです。
11/9の失踪もどうやら健常者の感覚に近くなった彼が
病院の雰囲気にいたたまれなくなって
つい取ってしまった行動のようです。
とにかく何故かこのたび 我が家にあり得ないことが突然起こりました。
この不思議としか言いようの無い感覚はきっとこれからの私をしばしば
幸福にしてくれることでしょう。
と言うわけで主治医の太鼓判のもと、20日ケンは正式に退院、家に戻り
これから社会復帰に向けてその歩を踏み出して行くことになります。

この度の明確でそして一見急激とも見える「主の介入」:
思えば私がある促しを感じ ケンについて「恥も外聞もなく」ブログに
載せられたこと これが一つのきっかけになったように思わされます。
(これは 神とサタンと人間の前にケンをそして私を置いた 
と言う事なのかも知れない)
その結果 多くの聖徒達の関心がケンに注がれることになり 沢山の
真摯な祈りが神に捧げられたことを私は感じたように思われます。

キリスト者の生活と言えども決してその実態はハッピー、順調、ラブ
ラブだけなどと言うことなどあり得ません。一皮むけば、むしろ悲惨で
悲しく大変な現実が沢山あり得るのです。むしろその方が自然であると
言うべきも知れません。
しかし私たちの主イエスはむしろそのような局面の只中に喜んで
来ようとされるお方なのではないでしょうか。
福音書はそのような例に満ちているように思われます。

「主よ、私の実情はこの通りです。この悲惨さが私の実力です。
でも主よ 私はこの総てを全能のあなたの手の上に置くことが出来ます。
主よ私は自分の弱さを誇ります。なぜならその私の弱さにおいてのみ
あなたはあなたがお働きになるチャンスを得ることが出来るからです」

この度 私が小屋を留守にいていた間
わが息子ケンのことを覚えて頂いた方々、
それからこのブログにコメントをお寄せ頂いた皆さん、
本当に有難うございました。


下の写真は居間:
未だに断熱材むき出しのこの部屋も
光が少ないと美しくさえ見える。

2007年11月10日土曜日

長男失踪

昨日夕方小屋に到着して程なく、現在精神病院に入院中の長男ケンが
病院から失踪したと妻から連絡がありました。
ケンの病院失踪はこれで2度目です。
直ちにとんぼ返りするのは体力的に無理だったので、
今日これから山を下ります。

この5日、もう一人の精神障害者である次男と妻、私そしてケンとで
実家に集まった際にはケンはとてもよい状態だったのです。
ですからあのケンがまたこんなことをするなんてと
まるで出会い頭の不意打ちをつかれた感じです。
(事はいつもこのようにして起こりますね)
警察への捜索願いは出したので 
後は本人からの連絡を待つしかありません。病院からの情報によれば
所持金は僅かとのことなので「無事だとすれば」ケンからの連絡は多分
今日中にはあるだろう、と踏んではいるのですが・・。
しかしもちろん「あらゆる事態」を
想定内に入れておかなければなりません。

昨夜、夜中に起きて改めて主の前に出ました。
きのうあたり、主との楽しみの時が
少し欠けていたかな、と感じさせられました。
(でも御血を適用したらあまり自分を見つめてはいけません。)
いずれにしろ 今私に出来ることはあまり複雑ではない筈です。
要するにそれはただ主を信じ、今私のなすべきことの中を、
今私に与えられている諸々の事象の中を
平静に淡々と歩んで行くだけなのです。
私の内面に、精神に、肉体に、私を取り巻く諸々の環境に
たとえどんな激動があろうとも、
「今日天地におられるただ一人の人復活のキリスト」に
どんな変化もあるはずがないからです。
だからそのキリストと一つにされている私そしてケン、
その不動の事実に安息するべきです。
その神と人の一つが神の喜び(ピリピ2の13)であるが故に
そこに留まるべきです。

確かに敵は何かをしているのでしょう。
しかし私は神に信頼します(今宣言します)
なぜなら神の方法、その行動の原則は殆どの場合、
あの十字架の時と同様その計り知れない叡智の中
サタンの攻撃を見事に逆手に取ることなのだから。

それでは後日。

2007年11月1日木曜日

今日 下山です

小屋に帰るのは多分9日でしょう。
今回の旅では どんなことがあるのでしょうか。
なんだかいろいろありそう。
やっぱり楽しみです。  

実は今3名 大切なお客が泊まっているのです。
誰とは言わないが となりの部屋からいびきが聞こえる!
昨晩いろいろ話してみるとやっぱり見解の相違点も出てきたりして。
でも考えてみるとそれは当然のこと。
それもまたいいのだ。
人間意見が全部同じことなんてあり得ない。
大切なのは交わりの持続、それが無理なく出来るかどうか、
そして相手の中の「命」を本当に大切に思えるかどうか。
それさえ出来ればネ。

じゃ、私も寝ます。