2010年1月29日金曜日

人類の総合計

キリストは最後のアダムとして 受肉されました。
しかし最後のアダムとは一体何でしょう。
それは
イエスは「人類の総合計」であったと言うことです。

しかし、「受肉」は準備段階でした。
総ての開始は 彼の十字架です。

あの木に掛けられた「醜悪な者」が イエスだけであった、
ということは極めて不合理であり、あり得ないことです。
何故なら、真に神に呪われるべき存在は「私」であり
イエスではなかったからです。

しかし、
私が神に呪われ 私に死刑が執行された瞬間 
そこにおられたのはイエスでした。所がその者は
イエスであるようですが実は私です。にも拘らず
やはり彼は事実イエスに違いないのです。

これこそが、
神が人類と一つになる稀有な手段でした、それは
「ラクダが針の穴を通る」よりもあり得ない方法です。
しかし、
ラクダをして針の穴を通らせしめたのは神でした。
何と言うことでしょう、神の子が
「人の罪において」人と一つになられたのです。

しかし、その瞬間こそがあのIN CHRIST の開始です。
IN CHRIST がなければ、新約は崩壊します。
それが総ての神の業の始まりです。

私達は日に 少なくとも10度は その事実
十字架、キリストの死、IN CHRIST、更に「私の終結」
に戻らなければなりません。
もしもそれがなかったなら、
キリスト者の生活というものは
根本的に存在し得ないことでしょう。

*IN CHRIST :
キリストにあって、主の中にある、主と一つ

2010年1月28日木曜日

主の懲らしめ

キリスト者とは 
安楽で快適な人生を送る人々である、とするのは明らかに間違いです。
むしろ私達は キリスト者であればこそ
苦難や悲しみを多く また深く受けると言うべきでしょう。

キリストの復活の証人として、
純度100パーセント「ただキリストの故に」死に至る苦難を受けるのは
明らかに第一級の人生であり、最高の死に方であることは 
聖書が一貫して見せているところです。

しかし、
そのような素晴らしい苦難を受ける特権と深い喜びに預かる人は
まれでしょう。多くの場合、私達は残念ながら、
自分の責任や過失の故に苦難を受けているのです。

キリスト者の苦難の原因を突き詰めて行くと、そこには極めて複雑で
奥深いものがあります。しかし大まかに言って それはおもに、
自分の罪、肉、この世、おのれ等から生じます。

しかし、とても感謝なことに神は 
キリスト者の自己責任から生ずる苦難でさえも 
「懲らしめ」や「取り扱い」or 「訓練」として
私達の永遠の益のために 大いに活用して下さるのです。
その基本的な神の動機は「神の愛」以外の何物でもありません。

それ故私達も 主の懲らしめを 事のほか重んずる必要があります。
それがたとえ「肉の刈り取り」であったとしても(大方そうでしょう)
神からのものとして受け入れる時に 神のためにさえ 
それらは計り知れない大きな意味と価値を生み出すのです。
これは 全聖書における極めて強い神の主張であることは明らかです。
(特にヘブル書12章)

2010年1月27日水曜日

殉教は難しい

キリスト者とは キリストの復活の証人です。
復活の証し人は 先ずは十字架 即ち死に向かう人です。
人が真に十字架に向かっており、しかも他の条件が揃うとき 
或いはその人は「殉教の喜びと栄誉」に預かるかも知れません。
(マタイ5の12)

ですから 私が本当に殉教を望むのであれば、どうしても
今日既に「十字架の道」にいなければなりません。
(証人と殉教者はギリシャ語では同じ言葉が使用されているようです。)

しかし真の殉教は難しいです。何故なら 殉教は100パーセント
「キリストの故」でなければならかいからです。どんな場合でも
100パーセントと言うのは簡単ではないのです。

キリスト者が「その塩気を失って人々に踏みつけられる」(マタイ5の13)
のは十字架ではありません。「罪を犯して打ち叩かれる」(Ⅰペテロ2の20)
のは単なる自己責任です。
またキリスト者が体の弱さを覚え、病気になり 遂には死に至るのでさえ 
必ずしも十字架とは言えないでしょう。それは下手をすると「死に至る罪」
の故(Ⅰヨハネ5の16、Ⅰコリント11の30)かもしれません。
ですから「苦難イコール十字架」と言う公式はあり得ません。

しかし、
日常生活の中によくある小さな場面、例えば「人がもし、
不当な苦しみを受けても、神の前における良心の故に、
悲しみをこらえるのは」(Ⅰペテロ2の19)確かに十字架であり、
殉教に至る道でしょう。

だから今日こそ 
特に人との小さなありふれた接触における私の態度、
心のありかた、些細と見える言葉使いにおいて
私は、自分と正当な自己義認をさえ墓の下に
置き去りにする
十字架と殉教に至る道を選ばなければならない筈です。

2010年1月25日月曜日

キリストの死の中に置く

今、
サスケさん自身と、そして
敵による
「死の力」の圧迫の中にある
この家族の一切の状況を
更に力のある
キリストの「あの永遠の死」の中に置きます!

所が今
このように言うまでもなく、
もう既にキリストの死によって
この世の死は滅ぼされ
「永遠のキリスト」の中では  
その状況の中の蘇るべき要素は 
キリストと共に復活し、
更に昇天の地位にさえあります。

それはキリストにある絶対的な購いの結果であり、
真に確定的な 動かしえない神の事実です。

にも関わらず私達は祈ります:

どうか、主よ
永遠においてだけでなく、 
今この時空の中においても 
あの家族の「時間と場所」においても 
キリストによる あの永遠の達成 成就が 
神による絶対的真理であったことを 

この虚構に満たされた時空の中で
この事態を凝視している 
あなたの敵の強大な軍勢の眼前で
「再現」し、明確に立証、証明してください!

サスケさん御家族の為にお祈り下さい

今敢えて懇願致します。

皆さん、
今現在、今日 あした 
極めて深刻な局面に立たせられている、
この兄弟、また、その御家族のために
ゼヒお祈りください。
彼らに残された日かずは あと数日です。
(リミットは今月29日、
延ばしてもも2月5日までであると
聞いております。)

最近始められた彼のブログです:
http://blog.7ecclesia.com/

2010年1月24日日曜日

神の評価の基準

あなたは今 
ある「現実」を目の前にしています。

しかし今あなたが困惑している 
その山のように見える「現実」は これから100年も続く
のでしょうか、それはこれから 全く変化しないのでしょうか。
それは永久不変なのでしょうか。 

また今 あなたが喜んでいるその現実は
あなたが いつまでも握りしめていることが出来るもの 
なのでしょうか。間もなく明日にでもそこに フト
「回転の影」のようなものが表れないでしょうか。

また以上二種類の現実には 
この世の悪の影響と侵入が全くない と言えるでしょうか。
この世の死の力の混入によって それは本来 ほどなく腐敗腐食し 
遂には崩壊して行かざるを得ないもの なのではないでしょうか。

さて神は その両者とも、即ち 
そのような二つの「現実」とも「価値」とは認められず、
何と総て「無価値」と断定されます。
何故なら、神は不変、永遠、不死、無変質、即ち
神ご自身の性質と存在のみを 価値ありと評価されるからです。

即ち 神が存在するように存在するもの、
「ミスター BE」即ち「私は在る」という存在のみを 
唯一存在として認められ そのような存在と性質のみを
神は価値ありと評価されるのです。

冒頭の二者は 
確かに私達の目にはリアルこの上ない「現実」ではありますが、
今 永久不変、無腐敗である神の存在と性質と比べるならば、
その一つの小さな要素、その存在する時間の長さだけを取って見ても、
(永遠とは どこまでも長く長く存続するものなのですから)
限りなく瞬間に、否 ゼロや無に近づくわけです。

従って神は 現実に「真の存在」を「極めて間近に」ご覧になっている
以上どうしても「瞬間や無やゼロ」を価値と見なすわけには行かないのです。
敢えて言えば 神の目には それらは「現実」とさえ写らないのです。

ましてやその性質に着目し 
悪の要素や腐敗や死の要素が少しでも混入されているのであれば 
全く言うに及ばずです。それらが 完全な義であり、
聖であられる神によって評価されることなどあり得ません。

2010年1月22日金曜日

昨日のメールから

兄弟、
ぼくは今、ほんとうに清々しい気持ちで一杯です。
心から主を愛しています。
本当に主の愛を感じています。
今まで主は 私にとてもよくしてくれました。
そんなにまでも私を愛し、よくしてくれた主を、
どうして今愛さずにいられるでしょう。

毎日のようにショックを受け、悲しくて、涙しますが、
その度に、自分が衰え、主が盛んになられるのを見ます。
不思議ですが、私はとても爽やかです。
今ぼくはただひたすら 主に従って行きたいと願っております。


今朝 下山します。
昨晩は強風で 小屋が揺れました。
ドー ドドーッという物凄い山の風の音で 
夜中に目が覚めました。
しかしすぐに その目覚めは
私がある負担を解放するためであることに気付きました。
その後牛乳を飲み グッスリと眠りました。
今日は やはり強風と快晴の中
爽やかなドライブとなることでしょう。

2010年1月21日木曜日

神に勝つ人生と神に負ける人生

多くの場合 
私たちキリスト者は 神に打ち勝つ人生を送ります。
神はしかし、私達に抵抗し、私達の極めて深いところで 
私達に語りかけておられない、のではないのです。

所がこの時代、
私達の人格やプライドを ことのほか尊重される神は
私の小さな議論にたやすく打ち負かされるように見えます。 
偉大な神が 私の小さな「へ理屈」にさえ屈服させられるかのようです。

ですから、今の時代、私たちが「神との勝負」に勝つのは
そんなに難しいことではありません。
そのようにして、神は「一旦」私から退かれるのです。
これがキリスト者が神に勝つ人生です。

ところで、
私たちにとって 神への敗北は簡単ではありません。
何故でしょう。何故なら 私が神に打ち負かされることは即ち 
私が「人々の前に」極めて「具体的な」敗北と惨めさを露呈することに
なるからです。それはまるで人々のみならず 全宇宙が私の失敗と
「駄目さかげん」を あざ笑うかのようです。

しかし私はこのたび、
二人の神に打ち負かされた人を見ることが出来ました。
その中の一人は あのナザレのイエスです。
彼はある時に至り「急転直下」彼に期待をかけていた彼の弟子、また
母や弟妹達、また故郷ナザレの人達にとって 
何の達成もない 惨めこの上ない人生の失敗者となりました。

そしてまたその時 
ユダヤ人、ローマ人、ギリシャ人(即ち全人類)は何の理由もなく 
彼を憎みました。また神によってさえ 彼の恥は全宇宙に
さらされたのです。私たちが聖画に見る彼の「腰の布」さえも
或いは 無かったのかも知れません。

しかし今日、
神が私たちの内側に かすかに聞こえる御声で常に語られることは 
私たちがただ このイエスの足跡に踏み従うことです。
今この時代の時間の中で 人々の怒号とあざけりの狭き道を 
イエスと同じ 恥辱の十字架を背負って 
一歩一歩進み行く決心をすることです。そうすれば 
間もなく「人々が」私を十字架に付ける結果となるでしょう。

完全な自由意志が 神によって私たちに許されているこの時代、
自ら進んで「神の細き声」に打ち負かされること
これこそが 人がサタンに打ち勝つ唯一の方法です。

「彼はさげすまれ、のけ者にされた・・
神は、私達の総ての咎を彼に負わせた」
(イザヤ53章)
 

2010年1月20日水曜日

御名をみだりに唱えてはならない(3)

出エジプト記20章の1節から7節は 一つの段落であり、
「人の神に対する直接的なあり方」に関する戒めです。
この段落はそれに続く総ての戒めの土台となるものでしょう。

そして その段落での強調は
「人は 神を単一に愛すべし」というものでした。
もし人がその一点をおろそかにするならば、他の総ての
戒めは あまり意味をなさないものとなるでしょう。

それでは 7節は一体何であるか と言うと 
もし人が神を単一に愛さなかった場合に
「人が自然に陥るであろう状態」を描写していると思われます。即ち
それは、人がもし神を単一に愛さないならば、どうしても 神との正常な
関係から逸脱した主の御名の用い方をしてしまう、と言うことです。

彼は 主の御名の中で生活し、主の御名で祈り また主の御名を
崇め、主の御名を呼んでいるように見えますが、いかんせん 
彼と主の御名・即ち「主御自身」との間に 
ある種のズレ、隔離 一致しない何かが生じてしまうのです。

従って彼は「神のための行動」において 
とても熱心に 的に向かって矢を射っているようですが
「何故か」いつもその中心をはずしてしまうのです。

従って7節は決して 一つだけ唐突に突き出た戒めではなく、
あくまでも「人は 神を単一に愛すべきである」という戒めの
延長、或いは警告と取るべきであろうと思われます。



今日は暖かな朝です。雪もだいぶ解けてしまいました。
今日あたり、ピアノ室の大きなガラスの二重窓用のサッシが
メーカーから郡山のジョイフル山新に届くはずです。電話があれば
早速 駆けつけるつもりでいるのです。もちろんサッシの
組み立ては私がしなければなりません。
小屋から郡山まで 片道 一時間以上かかります。  

2010年1月19日火曜日

あるメールより

愛するO兄弟

メールを大層嬉しく拝見しました。
図らずも S兄弟を通して今再び 兄弟と このような
交わりが与えられたこと、ナンだか不思議です。

先ずは 
兄弟が あの心臓の大手術にもかかわらず
現在 一日5時間も働いておられるとのこと、
本当に驚きです。

また、
私の分かりにくいブログを読んで下さっている
そうですが とても嬉しいです。

兄弟の言葉:
「癌の方と その連れ合いの方を 主が
御救いくださる所を見させていただきました。」

素晴らしいことですね。それは正に 主ご自身の御業で
あったのでしょう。

私も今 主が いろんな方法でいろんな所で 
働いておられるなー と実感しているのです。
本当に 主の来臨はそんなに遠くはないのでしょう。

再び 兄弟の言葉:
「御言葉をご紹介させて頂いても、イエスさまのたとえの
ごとく、道端の心の人もあれば、良き地の心の人もいて
色々ですね。」

本当にいろんな人がいますね。
私も 最近 肉の努力でがんばっても何にもならないなー と
痛く感じさせられているのです。

さて、
今私は 山におります。
いよいよこれから、一年で一番厳しい時節に入ります。
しかし山にいると これから2月にかけて 日がどんどん
長くなり、光が山に溢れてくるのが実感できます。 
これは 何とも言えない深い喜びです。

ですから
いつの日か、主が 兄弟をこの山小屋に連れてきて
くれないものであろうか、と
心から願わざるを得ないのです。

それでは
奥様、お嬢様によろしく、
(あの日 お宅での 皆様の様子が今 
目に浮かんでおります。)

Sugar

2010年1月18日月曜日

御名をみだりに唱えてはならない(2)

英語国民は 
強い感情を表す時よく「オーマイ ゴッド!」と言います。
当然その時彼に 神を信じる真面目な信仰があるわけではありません。
また単に何かをのろうような時、「ジー!」(ジーザスから来ている)とか
「ガッシュ!」(ゴッドから来ている)等という表現も用いるようです。

しかし神は 単に 
神の民イスラエルに対して そのようなことをさせないために 
あの戒めを与えられたのでしょうか。
確かに 前述のような事は「主の御名をみだりに唱えること」かも
知れませんが 十戒における神の意図は 
もっと深いところにあるように思われます。
先ほどのような解釈は「御名をみだりに唱える」と言う日本語の
意訳から 単に私たちが受けた印象によるものかも知れません。

この箇所のヘブル後の原文の意味は 
「御名をむなしく取る」「御名を誤用する」と言う意味が 
より正確のようです。もしそうであるならば 私たちは 
主の名を「意味も無く 空虚に使用したり 主の名を誤用して 
的外れな用い方、正しい神との関係から逸脱した用い方  
をしてはならない」ということになります。
しかし、これは本当の所 どのような意味なのでしょうか。



山の寒さも本格的になって来ました。
きのうの工事は ピアノ室の壁を張ることでした。一応
北と西面は終えました。今日は天井を張ることになるでしょう。
壁材に木の板を縦張りにするのは 最終的に白のペンキを塗って
仕上げとなるのですが、その完成の 優雅な?雰囲気を夢見ての
今の「耐寒仕事」ということなのです。
ピアノ室が無いので、ピアノの練習は当分出来そうもありません、
もう楽譜は買ってあるというのに!

2010年1月17日日曜日

御名をみだりに唱えてはならない(1)

出エジプト20章7節の
「あなたは、あなたの神、主の御名をみだりに
唱えてはならない。主は、御名をみだりに唱える者を、
罰せずにはおかない」、とはどのような事なのでしょうか?


私の答えはこうです:
いわゆる十戒の中で、1節から7節までは 
最も重要な戒めです。それは
「人の神に対する関係」がテーマです。

この段落での強調は
神は 人に先ず 神を単一に愛して欲しい、と言うことです。
ここでは実は
「愛の量」よりも 愛の単一さ、純粋さに重きがあります。
即ち 神は「たくさん愛する」よりも、私たちが他のものに
心を奪われずに、単一に神だけを愛して欲しいということです。
それが「ねたむ神」の私達に対する基本的な要求です。
「ねたみ」とはそもそも 愛する対象が単一な愛を欠く
所から生ずるのではないでしょうか。

しかし、
もし人が 他の物事を愛することを排し、神を単一に愛する
ことが出来るならば、その時から その愛の量も自然に健全に
増し加わるでしょう。なぜなら、実は単一に神を愛する
愛の中には既に 愛の強さ、深さが内在しているからです。
従って人はその時に初めて
「心を尽くし 思いを尽くし 神を愛する」と言う新約の
要求にさえ迫ることが出来るのです。
しかし、先ず私たちは 
神を単一に愛することを学ばなければなりません。

2010年1月14日木曜日

種なしパンの作り方

とても上手にパンを作るある姉妹から寄せて頂きました。



私が教わったパンの作り方です。

(材料)
小麦粉…大さじ1つ位(パンの大きさによりますが)
水  …適量

① 小さめの器に小麦粉を入れ、少しずつ水を加えながら
指先でこねていきます 
② 小麦粉が固まりになってきたら、器から出して
両手の指先でこねていきます
硬さは耳たぶ位の硬さです
主のことを思いながら、さらにこねていきます
③もう十分だと思ったら、ボールの様に丸めてから、つぶし、
麺棒で丸くのばしていきます
④最後は油を引かないで焼きます
温めたフライパンか お鍋を弱火にしてパンをのせます
⑤焼いているとパンが反ったりするので、菜ばしでパンを
押さえながら時々返しながら、両面を焼いていきます
少し焦げ目がついてもいいと思います

以上ですが、おわかり頂けたでしょうか?
パンさきが行われるのは、本当にすばらしいです。


種が無い、
と言うのは 完全に純粋なと言うことですから、
パンを 膨張させたり、人の口ざわりをよくしたり
する物質は一切混入しません。
この事実は パンの味を舌で味わう私たちに 
主とこの道の純粋さと素朴さを感知させることでしょう。

私Sugar の好みかも知れませんが、
薄くて(主の弱さ)焦げ目のあるパンが慕わしいです。
何故なら 
それを兄弟姉妹が一人一人 自分の手で
パリッと裂く(割る)とき、
「ああ、主イエスもこのように裂かれたんだ」と
十字架上のイエスを 自分の指と目と耳で ある程度 
感じることが出来るからです。

私達、テーブルの下の汚れた子犬達は 
今日 テーブル(宗教)から落下した 
「パンくずの実体」を
日々 いただくことによって生きているのです。

2010年1月12日火曜日

パン裂き

何の「資格」もない普通の兄弟姉妹が 
当たり前の人間生活のレベルで 家々で 種無しパンを裂いて 
主の死を記念すること、それを聖書的に言えば、
「パン裂きの集まり」とでも呼ぶべきでしょう。

偶然と言えば偶然ですが
この1月10日(日)、そのようなパン裂きが 埼玉県のある町と
大阪、和泉市で初めて行われました。
和泉市では15人くらい集まったそうです。

そこには 
キリストの御座以外 いかなる本部も司令塔もありません。
また特別に「偉い人」や組織、制度や肩書き 
そして いわゆる「権威」も、「ある意図」を持った
互いの連絡さえないのです。
あるべきは唯 生けるキリストと
主を見上げる兄弟姉妹の単純な心です。

私の知る限り、東京近郊にも
そのような集まりが他にも 数箇所あります。
時代の最期、キリストイエスの再臨を促そうとされる 
これは 聖霊ご自身の御業なのでしょうか。

以下は埼玉の兄弟からのメールです:
「普通の家でパン裂きが行われることを願います」
まったくの同感です。
ひとりひとりが、祭司としての務めを実践することを、
主は願っておられますが、特に家長となる男性が、その務めを
果たしていくときに、主の教会は整えられるのだと信じています。
ウチに来られる兄弟たちが、家庭を持ち、
そこでパンを裂くことを期待しています。


もう既に11時、
午後から いよいよピアノ室の工事にかかります。
先ずは、天井と壁へ断熱材を入れること、
それが終わったら、仕上げの板を張ります。
材はリビングの床材と同じ 
日本で一番安い無垢材・野地板です。
(一束1500円)

2010年1月11日月曜日

新春のお喜びを申し上げます

山にいると 
春の喜びは四月を待つ必要はありません。
それは今既に、厳冬をさえ切り裂くような太陽の光の 
日々の増し加わりの中に確実に存在するからです。

昨日の日の出は6時51分で この数日変わりませんが
日の入りは 昨日は4時46分、 
これは毎日1分ずつ確実に長くなって行くのです。

この昼の時間の長さ以上に
山で如実に感じるのは 日の高さの変化です。
この日の長さと高さが 
山全体の空気の明るさを日ごとに増し加えるのです。
その光が意識せずとも 人の体と心にさえ伝達され、
山で味わう新春の深い喜びとなっているようです。
これも確かに「新春の喜び」に違いありません。


この山小屋へ
電子ピアノの突如の到来は不思議でした。
怪しい言葉で表現すれば
私はそれを以前から予測していたかのようです。

更に今 私は
友が遠来この小屋を訪れ ガラス張りのピアノ室で
都会の憂鬱と喧騒から解き放たれ
彼の至福の中 南の森を眺めながらピアノを弾いて欲しいと 
心から願っていること、そして・・もう一つ

「もったいないではないか、
私も老化防止のため、ピアノを弾いてみようかな」と
思い至ったことでした。
実は楽譜はもう船引の本屋に注文したのです。

その曲のタイトルはと言えば・・
ベートーベンのピアノソナタ ムーンライトの第一楽章!
もうすぐ69歳、
私の人生 これは一体どうなることでしょう。


レンジフード
きのうはその為の 下ごしらえでした。
今日は多分セットできるでしょう。

2010年1月10日日曜日

きのうの工事

きのうはダイニングコーナーの床の釘打ちを終えました。
それはよかったのですが、完成して見ると何と
「床鳴り」がするではありませんか。
ダイニングに入ると、床がキュキュッと鳴るのです。
プロはその防止の為、床材の下面に接着剤を塗布するのですが・・
ま、しかしこれも「愛嬌」ですかね。

それと電子ピアノの椅子が出来ました。
4センチだけ高さの調整が効きます。
私の中では それも一つの不思議でした。その説明はまたいつか・・
もう一つ、食卓の高さを普通の高さに変えました。
ピアノ室は注文したサッシが届くまで 工事は待つほうがいいでしょう。
今日から 延ばしに延ばしたレンジフードの取り付けにかかります。

現在、過去、未来・・

現在、過去、未来の他に 
もしも「永遠を現す時制」があれば何と便利でしょう。
しかし、残念ながらそれはありませんから、聖書においても
永遠を表現するには、やはり現在形、過去形、未来形のどれかを
使用せざるを得ません。

聖書は 一方では御言葉を通して
誰でもが容易に神に触れることが出来ますが、
方や極めて理解が困難な本であるとも言えます。
その理由の一つとして 特に新約聖書においては
どの記述が「時空の中の事実」なのか、どの言葉が「永遠性のもの」
なのかが 分かりにくいことが挙げられるでしょう。

未来形を用いていても それは永遠を表しているかも知れません。
過去形を用いていても それは永遠を表しているかも知れませんし、
現在形を用いていても それは永遠を表しているのかも知れません。
聖書は「時間の中の事実」と「永遠の事実」が様々な糸で織られた
織物のように記述されているのです。それは、普通の言い回し
の中に 永遠の記述が隠され ひそんでいる、とも言えるでしょう。

ですから私たちは
聖書を読む時、永遠性の事やものに格別の注意を払い、
その記述を見逃さないようにする必要があります。

何故なら、キリスト者に対して 神は
「時間の中の命と事実」よりも「永遠性の命と事実」を 
はるかに優先させて生きるようにと切望しておられるからです。
神が私たちに「永遠の命」を与えられたのは正にその理由によります。
命は実際に生きるためです。

そもそも私たちは「永遠の中に生まれた」のです。
しかし、それのみならず キリスト者とは今この瞬間でさえ、
神によって物質の命と死を果敢に退け
永遠の事実と命によって生きるようにと計画された
極めて特別な「生きもの」に違いないのです。

2010年1月7日木曜日

神が幸せであるように

神は幸せや 悲しみを感じるお方でしょうか。
答えは明らかに YESです。
それでは、
神は今幸せでしょうか。何と私の答えはノーです。
仮にもしそうであるとすれば、即ち神は必ずしも 今幸せを
感じておられないとするならば、
何をさておいても
先ずは神に幸せになっていただく必要が
あるのではないでしょうか。
何故なら、
総ての存在の中で神が最も尊いお方であるからです。

だから私は祈ります、
「神よ、何をさしおいても
先ずはあなたが幸せになって下さい!」


今日は予報がはずれて、
「もう春が来たのかな」というような素晴らしい天気です。
午後3時頃から曇ってくるようなので、
昼食後は緑山のふもとまで歩くつもりです。

工事ですが、
ピアノの椅子は後回しにして、
今日は居間の床張りをしております。
椅子は明日になるでしょう。

2010年1月6日水曜日

神を信じる

・・にもかかわらず 
私たちは 
何がどうであろうと
どんなことが どう展開されようと、
神を信じることが出来ます。

これは不思議なことですが、
人に与えられた能力と知識の範囲は
極めて小さなものです。 
何故でしょう、それは
「人の能力と知識の矮小(わいしょう)さ」に
十分に取って代わる
「信じる」と言う真に稀有(けう)な能力が
人には賦与されているからです。

故に 
人に対する神の要求は
決して能力と知識にあるのではなく
神を信じることにあるのです。
「神を信じる」
これ以上に 人に可能な「よきこと」は他にありません。

私達の信じる神は 
その私達の全幅の信頼に応じ、
なお十二分に余りあるお方であることは
真に確かな事実です。

かの日、
私は その神の十全性を見る時
かつての私の不信仰に
恥じ入ることになるかも知れません。
何故なら、私は
そのとき「神が真に神である」ことを
アリアリとこの目で目撃することになるからです。



今日は電子ピアノ用の椅子を作ります。
ピアノ用の椅子の高さは微妙です。
一般に食卓用の椅子でも 低過ぎるようです。
調整可能なら 一番よいのですが、
それは私には無理でしょう。

外は今猛烈な風です。

2010年1月5日火曜日

今年もよろしく

ハイ私は相変わらず元気です。
今 山に来ております。


すぐる12月30日 
ある聖徒達との何気ない会話です:
「山小屋に本物のピアノは バランス的に大きすぎるよ。
その点、電子ピアノだったら、主もそれを用いて下さる
のではないのかな」
そうしたら何と その3日後に、突然ある人たちが小屋に来て 
「電子ピアノをもらってくれたら 嬉しいのですが・・」
と手ごろな電子ピアノを小屋に置いて、3時間後に
さっさと山を降りて行ったのです。

それで昨日から ピアノ室に改造するべく 
居間の突き出し部分にガラスで間仕切りをする作業に
取り掛かっているのです。


その電子ピアノを持って来たのは 
私の末っ子の婚約者です。正月2日、
潜水士をしている三男は彼女を乗せて はるばる東京中野から 
あの強風吹きすさぶ阿武隈まで大型バイクで来てくれたのです。
彼らの目的は 5月に正式に両家の顔合わせをしたい、
と私に告げることでした。


長年 ガンで苦しんでこられた姉妹が
今極めて危機的な状況です。
彼女の霊と総てを神に委ねます。