キリスト者とは キリストの復活の証人です。
復活の証し人は 先ずは十字架 即ち死に向かう人です。
人が真に十字架に向かっており、しかも他の条件が揃うとき
或いはその人は「殉教の喜びと栄誉」に預かるかも知れません。
(マタイ5の12)
ですから 私が本当に殉教を望むのであれば、どうしても
今日既に「十字架の道」にいなければなりません。
(証人と殉教者はギリシャ語では同じ言葉が使用されているようです。)
しかし真の殉教は難しいです。何故なら 殉教は100パーセント
「キリストの故」でなければならかいからです。どんな場合でも
100パーセントと言うのは簡単ではないのです。
キリスト者が「その塩気を失って人々に踏みつけられる」(マタイ5の13)
のは十字架ではありません。「罪を犯して打ち叩かれる」(Ⅰペテロ2の20)
のは単なる自己責任です。
またキリスト者が体の弱さを覚え、病気になり 遂には死に至るのでさえ
必ずしも十字架とは言えないでしょう。それは下手をすると「死に至る罪」
の故(Ⅰヨハネ5の16、Ⅰコリント11の30)かもしれません。
ですから「苦難イコール十字架」と言う公式はあり得ません。
しかし、
日常生活の中によくある小さな場面、例えば「人がもし、
不当な苦しみを受けても、神の前における良心の故に、
悲しみをこらえるのは」(Ⅰペテロ2の19)確かに十字架であり、
殉教に至る道でしょう。
だから今日こそ
特に人との小さなありふれた接触における私の態度、
心のありかた、些細と見える言葉使いにおいて
私は、自分と正当な自己義認をさえ墓の下に
置き去りにする
十字架と殉教に至る道を選ばなければならない筈です。
5 件のコメント:
しばしば私たちの味わう"苦難"は自分の肉の刈り取りなのですが、それを十字架と思い込みたくなるわけです。
真に100%、主の故の十字架を負うことができることは、まさに日常の小さな場面での十字架を知ることなしには不可能。
殉教に憧憬を抱きつつ、ますますそれに預かることができるのは、真に純度が100%になる瞬間なのだろうと夢想しております。
兄弟
本当に感謝です。
究極の恵みなのでしょうね。誰もができるわけではないのでしょう。
果たして私の地上の去り方は・・・
①ベッドの上で安らかに逝く
②コロセアム(?)に引き出されて殺される
③携挙される
いずれにせよ、大石蔵内助の歌が詠めたらいいなあと思っています。
あらたのし/思いははるる/身は捨つる/浮き世の月に/かかる雲なし
ローマ帝政時代や中国の地下教会の人達はいつも十字架を負っていたんでしょうね。
私もイエスに頼り続けます。
特に最近ヴィオロンサンがブログに十字架を書いていて、励まされています。
「今日真に死んでいれば、明日も死ねる」
筈。
そして、
私は死ねませんが、
「私の死はあのイエスの死の中にある」
のでしょうね。
私も「イエスに」頼り続けます。
エシュコルさん、
その一句に感謝です。
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