2007年4月25日水曜日

   また 旅です

 明日から 旅。
 今回も一週間くらいでしょう。

 旅の後で 教員時代の夜間中学の教え子夫婦が 
小屋に泊まりに来てくれます。
 楽しみです。
 
 今日はちょっと寒い雨。
 夜は村の合唱隊の練習、2回目の参加です。

 「千の風になって」を歌うと言う:
 墓になんかいない、千の風になってどこにでも!
 これ イエスさまの事じゃないですかネ。

  
 楽しい「死について」   
*サタンの手にある死   :それは 神と命から 私を切り離すだけ。
*主イエスの手に渡された死:それは サタンや否定的な総てのものから 
              私を切り離し 更に 
              切り離しや隔絶さえをも超越した
              「驚くべき領域」へと私を至らせる門となる。
  
       このことについては旅の後で詳しく書きたいと思っております。
        
       じゃ 行ってきます。

2007年4月24日火曜日

   十字架を負うとは

 十字架を負うとは「苦労すること」ではない。
 
 神の永遠のご計画が啓示され また
私に対する神の御旨を知り、それに捕らえられ
心がそれに向けられるとき
そこにおのずと 敵の霊的領域から
ある種の 抵抗し反発する力が必ず発生する。

 十字架を負うことは その抵抗するパワーにもかかわらず 
御旨を見つめ なおもその方向に進もうとする
あなたの毅然とした心のたたずまいから 発する。
 
 十字架を負うとは その暗闇の抵抗の中で
御旨に向かって 歩を進める一歩一歩の歩みそのものであり、
時には 更に深い制限と圧迫の中に運ばれて行くこと、である。
  
 あなたが神の御旨の価値を知ることにより
毅然とした心のたたずまいをあなたが示し、
死の圧迫の中でさえ 御旨の方向に歩を進めること:
それはあなたが 主イエスの手から そのケースの為に
特別に用意された あなたの為だけの十字架を 
直接受け取ることを意味する。

 これは しかし よく誤解されているように 
決して一世一代の深刻な 歯を食いしばる経験と
するべきではない。
これは 日常の些細な場面において しばしば
経験されるべき「あなた用の日々の十字架」なのだから。

 あなたは毎日のように平然として その中を経過して
行くのであり、遂には 死とその後に訪れる復活の経験を  
当たり前のように 内的な笑みをさえ たたえながら
「楽しむ」ことになる。

2007年4月22日日曜日

 ある . 家での集まりの為に

   私たちの心の願いは ただひたすら
            復活のキリストに自由を与えることです。
その為に: 

一 先ずキリストを経験する日常生活があって 次に初めて 
  集まりがある と知らなければなりません。

二 「キリスト経験」とは
  ①「キリストを信じることの効き目」   と
  ②「キリストの死の効き目」を わが身にいただくこと の
   具体的な実行をすることです。
  
   実行をする とは 「信じる、いただく」と言う安息に入るための
  実行を日々自分の意志で 事あるごとに何度でも行なうことです。 

三 キリスト経験があれば ごく自然に「キリスト現象」が伴うはずです。
  キリスト現象とは 「不思議、人を照らし自分の真の姿を見させる光、
  人を引き付ける力」等としてのキリストが次第に 
  あなたとあなたの周囲に現れ、いろいろな人の上に キリストご自身の
  影響が及ぶようになることです。
   しかしあなたが その栄光を受けることはありません。
   
四 信じることの実行とは 私が「今日 天地におられるキリスト、
  奥義的生命体、あの天地のブドウの樹」と既に一つとされているが故に 
  私とキリストはあらゆることで同じ運命を共有することを信じ その結果 
  その驚くべき天的樹の樹液の供給と
  ブドウの樹の中を流れる豊かな交流(交わり)を楽しむことです。

五 「キリストの死の効き目をいただくことの実行」とは 日常生活で
  
  ①私の一つ一つの具体的な罪に キリストの御血を注いでいただき、
   神の目から見て 多くの罪から私が全く清められたが故に   
   私自身の良心も完全に自由にされることです。
  
  ②私の「罪深い性質」に対して キリストの中で 既に
   私は死んでいることを信じ 罪からの解放の事実を見  
   その結果 実際的に罪深い性質からの自由をさえ
   発見して行くことです。
   
   *この①と②の為のキリストの御業は 既に完成されて
    しまっているのです。 
    つまり それは私達が今更どうにも出来ない過去の「既成事実」
    なので 私が今じたばたしたからとて絶対 変化するはずがなく
    私達はその事実を あり難く信じ頂戴し そのキリストの 
    勝利を 実際場面に応用して 十分効果的であることを
    楽しむだけでよいのです。 
  
  *              *              *
  
   ③の問題: これは 私達の魂の命の上にいただくべき死の効力 
         についてであり
         日々私達が負うべき主観的十字架と
         言われる死の適用についてです。
      
 

   A.私達の魂を弱くし 破れ目を作る死
    それは 
    神が許されて あなたに与えられる「困難な死の環境」
   でさえも あなたが キリストの御手からそれを受け取り 
   その辛い環境の中で あなたの魂の命に 
   キリストの「死なせる効き目」を及ぼしてもらうことです。
   
   1.もしもあなたが魂の命の上に 真に死の効き目をいただく
     ことが出来るならば その結果 その後一時的にせよ 
     復活のキリスト現象が出現します。たとえあなた自身は 
     その現象に気付くことが無いとしても それはキリストの
     御からだのどこかに必ず 命を供給するのです。
     
     そしてキリスト者が更に深く進ませられると

   2. 今はまだ 本能的に「これぐらいのことなら自分の力でも
     やって行ける」とつい反応してしまうあなたの魂の命が
     神の前での多くの失敗と 面目なく恥ずかしい沢山の経験によって 
     ようやく徐々に弱くされ、魂の中に 少しずつ「破れ目」を
     作っていただくことになります。
      あなたに この「破れ目」が生じて初めて 
     キリストをして あなたの霊の中から その破れ目の分だけ
     恒常的にも あなたから流れ出ていただくことが
     出来るようになるのです。
         
      ③は  ①②とは全く異なり 私自身が日々主観的に 
     キリストの十字架の死の効き目を まるで薬を塗ってもらうように 
     私の魂に直接適用してもらう事です。
     
   B. 私達の魂の命  
    この過程は決して 短期間では終わらないでしょう。
   それだけ 私達の魂の命は 『神に依存しなくとも自分の力で 
   神と人の為に 何かよいことを 行なって行けるだろう』と
   何となく習慣的に そして頑固に感じているのです。
     
    神は私達に 実は「私が生きることの総て100%」を 
   ご自身の霊の命にのみ 頼らせたいのです。これが正に
   私達の思いを超えた神の本心であり 神が私達に譲歩してくれない
   集中点なのです。
    
    これ故に 私達はいろいろな問題に直面させられ 遂には
   自分の意志で 日々自分の魂に 死の効き目を適用していただくように
   させられるのです。
   そのようにさせられる人は真に幸いなのです。 
     
   C. 私の心はどこにあるか   
    究極的に 神が私において求められるものとは一体 何でしょうか。
   それはただ キリストご自身のみを追い求める私の心、 こころね 
   そして キリストのみを真っ直ぐ見つめる、ハトのような
   「純粋な目」に他なりません。
   もしもそれが無ければ キリストの心が私において 
   真に満足されたとは言えないでしょう。
    
    いまだに 神ご自身以外に私が保持する ある貴重なもの
   本能的に つい掴みに行ってしまう ただ一つのもの 
   心のどこかで どうしても執着してしまう何か、
   或いは生涯私が 愛を注ぎ つちかい 築き上げて来た
   「神のための」何かでさえ 
   それが仮に 心のある部分であったとしても 
   私の心が そのものに捕らえている とするならば 
   キリストは私を完全に獲得された と言うことは出来ません。
   
    神の子がこの世に「人として」来られ ひたすら死に向かって
   歩みを進め、ご自身の総て、その命でさえも砕いてしまわれたのは
   ただ「人の総ての集約点なるこころ」を獲得するためであったのです。
  
    神は愛、神と人との物語は愛、極限的な愛のかたち!
   
    先ず 彼が惜しげもなく与えつくされた私への愛の故に、 
    そして 比類なきキリストの価値そのものの故に   
   私の心を 主の足元に置き 私の総ての貴重なものさえも 
   今 この時代において キリストご自身の上に注ぎ尽すこと、 
    それのみを神は欲しておられるのです。
    
    キリストの十字架における死の効力が 最終的に私の上で
   働かなければならないのは 実にこの点においてなのです。
  
 

2007年4月21日土曜日

神のフォーカス

      神の事業は総て
   キリストの復活の上にかかっている。   
        だから
     復活こそ 神の満足   
   復活こそ 神の奥義の中の奥義
    復活こそ正に神の心。
      
     しかしその復活は
    死ぬことが可能な人が
     もしいなければ 
    存在する事はあり得ない。
 
    だから 『人の死』 こそ
     神のフォーカス。

  神の冤罪!

         あの朝 
   地球の あの場所に 忽然と現れた
    神の大法廷と処刑の十字架。
         
     神の御こころに完全に従った、
    純粋、無垢なるあのナザレ人が
     黙って死刑に処せられた。
          
 『でも そんなことがあっていいのだろうか!』  
    
    『もしそれが事実であるならば、
  それは神の冤罪でなければ 正に不条理』
     と言う考えがよぎる。

     しかし 次の瞬間、
     あの処刑の木の上に
     私の諸々の咎と
  人類の重く巨大な罪のかたまりが
確かに存在していたのだと 分かる。
         
     もしそうでなければ 
  その時 宇宙は大崩壊したはずである。

  死について5.

(6)「あの招かれざる客」の目当て
  
 それでは「死について2」の「さまざまな顔を持つ死」と言う
困った客 を私たちはどのように取り扱うべきなのでしょうか。
① 先ずは 常日頃から 彼らの来訪は絶対に避けられないものと
覚悟を決めておかねばなりません。
 所が 私たちはそれが出来ません。彼らはいずれやって来ると 
どこかで分かっているのに それをよくも考えず、考えることさえ避け 
むしろ見ないように 無視するように努めるのです。しかし本心では
常に不安なのです。これでは 要するに逃避です。
② 突然の来訪にもあわてず、騒がず。
 ところが、これが更に難しいのです。私たちは 先ずはあわてます、
悲しみ 騒ぎます そして落ち込みます。はてはこんな客が来るのは
他人のせいだと 人を恨みます。正に 暗黒と混乱です。

 さて以上の情景は何を物語っているのでしょうか。
それは「死は今 完全にサタンの手の中にある」と言う事実です。
したがって この①②の状態の中にいる限り 私たちは神から 命から
切り離され 死が死を生み 更に「神と命からの隔絶」に向かって
突き進んでいるのです。
 キリスト者であっても ひどい場合 中には神を恨む人さえいるかも
知れません。これではサタンは ほくそえむばかりです。
 これは正に 「サタンの武器 死と虚偽」が完全に機能している姿です。

 さて以上は いわば 横綱級の客 相当深刻な来訪の描写です。
しかし現実には 私たちの日常生活の もっと身近な所に頻繁に訪れる、
中小の客の方が多いのです。しかし彼らの目当ても 
原則としては同じです。

2007年4月19日木曜日

  死について4.

 (4)サタンの手の中の死
 
 普通、自然な状態では、死はサタンの手の中にあり、サタンはまんまと
人々を神から切り離し、神から 遥か離れた場所に隔絶することに
成功しております。
今や人は 『神の命から遠く離れ』(エペソ4‐18) 神の影響を
受けることが全く無くなったのですから、神に対していかなる反応も
持たず、どんな機能を発揮することもありません。
「死が全人類に広がった」(ローマ5‐12)のです。総ての人は死人となり、
今や互いに 死の影響力を行使し、ひたすら神から他人を 更に更に
遠くへ押しやると言う サタンの死の機能を発揮するばかり
となってしまったのです。
 従って 今現在 サタンはもはや、人々に特に働きかける必要も
無いことでしょう。何故なら 人々の中の死がとても有効に
オートマティックに機能しているからです。

(5)サタンのもう一つの武器:ウソ

 ここで私達は サタンのたくらみ:「死によって、人を神から隔絶する」
と言う彼の究極的目的は 既に打ち破られたことを知らねばなりません。
何が サタンを打ち破ったのか?ほかでもない それはキリストの
十字架と復活です。十字架と復活を通して 神と人との隔絶は あたかも
オセロゲームのように 見事に完全に ひっくり返り 逆に 
サタンがどうしても阻止したかった、
キリストと人間との本質的結合が達成されたのです!ハレルヤ!
 何という神の力と知恵でしょう。サタンは完全に敗北したのです。

☆ただし、今述べたサタンの敗北等の 復活の中にある霊的事実が 
 真にあなたのものとなり あなたがその経験の中に入る為には
 人に与えられている驚くべき霊的機能・信仰を行使する必要があります。
  これは 極めて重要なテーマです。後日 触れることになるでしょう。
 
 さて今 このサタンの完全な敗北と言う事実を
シッカリと押さえた上で、私たちは更に話を進めなければなりません。
 それは その敗北したサタンが今 何をしているかと言うことです。
サタンの隔絶のもくろみは 崩壊しました。そうであるならば 
サタンに残された道は何でしょうか。
 それは その事実を隠すか ウソをつくことです。
 虚偽、ウソ、偽装 そこにこそ サタンの本質があるのです。

 ですから私たちには彼を恐れる理由など全く無いのです。
今彼が頼りとするものは ウソをつくことであり
また 偽装の中の 非合法的私達に対する脅迫です。
 ウソ、虚偽、偽装、虚構:その本質は まことにはかなく 弱いものです。
この世界で最も軽いもの、その名はウソです。

 しかし、「手の込んだ巧みなウソ」は 
「力強い構築物」として、また 人の目に美しく また好ましい実態として
私達に迫り 私達を魅了する大きな力であること、
 そしてまた、こと この人をだます と言う能力にかけては 
サタンの力には計り知れないものがあること、  この二つの事実に 
私達はこの時代 ことのほか注意を傾ける必要があるのです。
 
 
  ★   ★




  死について3.

 普通、自然な状態では、死はサタンの手の中にあり、サタンはまんまと
人々を神から切り離し、人々を神から 遥か離れた場所に切り離し
隔絶することに成功しております。
今や人は 『神の命から遠く離れ』(エペソ4‐18)全く神の影響を
受けることが全く無くなったのですから、神に対していかなる反応も
持たず、どんな機能を発揮することもありません。
「死が全人類に広がった」(ローマ5‐12)のです。総ての人は死人となり、
今や互いに 死の影響力を行使し、ひたすら神から他人を 更に更に
遠くへ押しやると言う サタンの死の機能を発揮するばかり
となってしまったのです。
 従って 今現在 サタンはもはや、人々に特に働きかける必要も
無いことでしょう。何故なら 人々の中の死がとても有効に
オートマティックに機能しているからです。

2007年4月18日水曜日

   死について 2.

  (3)青き,水の地球

 この世は「死の水槽」の中に沈んでおります。
ですからこの世のあらゆるものは 
その中に「死の水分」を含んでいることになります。
 相当遠くの宇宙から地球を見ると 地球は青く見え
水の玉ようであると 宇宙飛行士は言います。
 また鏡を見ると もうすぐ66歳になる私の顔も だいぶこの頃 
水け(死気)が増えて来ているようです。しかし私の顔だけでは
ありませんよ。この世の総てのものは 少し叩くだけで 
中の水が、死の気配が 水音を立てるのです。
 
 さて ある高貴な武士は 切腹を目前にした最後の食事の際 
彼の体に合わない食べ物は丁重に辞退したと言うことです。
この態度はとても立派です。私達は いたずらに自ら 
自分の中に死を呼び込むようなことをしてはなりません。
それは人の道にもとります。私たちは端然として常に死ぬまで
「生の道、人の道」を歩むべきです。

 それにしても「さまざまな顔をした死」は人生のいたるところのコーナーで
私たちを待ち構えております。苦痛、不和、争い、弱さ、体力の衰え、老化、
混乱、さびしさ、孤独、病、圧迫、制限、事故、別れ、死別、等・・・は 
死の顔のホンの一部に過ぎません。

  招かれざる客
 さて 日々、いや、時々刻々 私たちに面会を求めにくるこれらの
「死と言う来客」に対して 私達はどうするべきなのでしょうか。
簡単です、玄関口で礼をつくして お引取り願えばいいのです。
その際 その時の私の態度一つで 帰ってくれる客もきっと
少なくない筈です。 

 ところが、それでもどうしても帰ってくれない、無遠慮にも 土足で 
ズカズカと座敷に上がりこんで来そうな「死ドモ」に対しては、いや、 
もう既に 上がりこんでしまっている この大変な客に対しては
私たちはどんな態度で対応するべきなのでしょうか。

2007年4月16日月曜日

   死について

 (1)死とは隔絶、機能停止

 一般に 死とは消滅であると思われているようですが 
それは大きな間違いです。
エネルギーでさえ不滅なのですから 総てのものは「何らかの姿で」
いつまでも存在し続けるのではないでしょうか。

 聖書によると万物は、少なくも人間は、永遠に存在します。
「もの」が存在する究極的最悪の場所は「火の池」ですが、
そこで ものが消滅してしまうと言う事は決して無いのです。

 またよく 死とは『終り』であると言われますが その意味はとても
曖昧です。それは完結や区切りのことでしょうか、それとも駄目になり 
滅亡することなのでしょうか?いずれにしても分かりにくいのです。
 
 新約聖書全般から見て 死とは 命の対極にあるものであり、
命から人を徹底的に隔絶しようとする力です。
死の根源 力はサタンであり、「命の究極的な姿」が神です。
ですから 神の敵サタンの死の力は 「究極的な命である神」から 
人をひたすら隔絶するために働きます。彼の目的は 神と人との
1つを成就させず 2の原則をもたらすこと、即ち
『神から人を徹底的に切り離し、隔絶すること』にあるのです。
 
 さて今 もしもあなたが 命なる神から切り離されている人である
ならば あなたには 神に対してどんな感覚や 反応、機能もありません。 
従って今 既にあなたは神に対しては死人です。ここから 
死や、滅びの第2の意味 『無反応、機能停止、不能』が引き出されます。
 死とは 先ずは究極的な切り離し、隔絶であり、第2の意味は
機能停止や無反応なのです。

 (2)死を神の手から受ける
 
 さて 死はもともと サタンの力ですが、
しかしひとたび あなたによって あなたの周囲の死と死の環境が
神の手に渡されるその瞬間 何と死さえも神の所有となり!
『神からの隔絶と神に対する機能停止』は完全に終焉するだけでなく
あなたは直ちに神へと結合し 神に対して機能し反応する立場を
獲得するのです。
 そのようにして『隔絶と機能停止』が 今度は 
神のために 実に有効な働きを開始することになるのです。

 あなたが 敢えて神の御心の中で あなたの意志を用いて
この死と死の状況を総て 神の手から受ける時 
そして時には キリストと共にその死の中を経過して行くとき 
死はこの上もなく 偉大な力を発揮するのです。

2007年4月14日土曜日

   あるチャレンジ

 (1)ノウハウでは役に立たない

 もしも これからの時代 人々の心の中に 
① 神を求める真の飢え渇きが生じ    それによって人々が
② 『信仰』と『キリストの死をいただくこと』の絶大なる効き目を
 知り、体験することが   実現して行くのでなければ

 たとえ 例えば『家から家』の理論やノウハウが確立し、それが
いくら聖書的であると力説し、人々を説得することに成功したとしても 
全く何の役にも立たないし、総ては無駄なのである。
   
 (2)最も大切な問題
 
 さてここで、②は①に 完全に依存していることは明かである。故に
『どうすれば、人々の中に 神を求める真の飢え渇きが生ずるのか』が 
総ての問題の土台をなしている ことが分かる。
 
 所が 考察がここまで到達してしまうと 私達は巨大な壁を
目の前にしているような気がするのではなかろうか。

 『私達がどうすれば 人々は真剣に神を求めるようになるのか』
 知性 或いは感情に訴えた良い話をたくさん聞かせることなのか。
それは否である。日本全国の 無数の日曜礼拝説教の存在が 
その見事なまでの無効性を既に十分証明しているではないか。
 
 それにしても 基本的に この問題の真の解答を 
人の中に捜すこと自体 愚かなことなのではないのだろうか。
  
 (3)福音の目的 - 唯キリストの価値の故に
 
 しかし、かつて(二十世紀前半)
とても解けそうにもないこの問題を前に ある一人の若きキリスト者が
次のように断言したのである。
『人々の飢え渇きは 人によって 造られるべきものである』と。
 
 この兄弟の後半生の多くを占めた 
人として極みに至るまで圧迫され制限された生活は 
正に『そのこと』の為に 神によって用意されたものであった。
 
 それは 彼の霊性に優れた多くのメッセージでさえない。
 地に深く埋められてしまったかのような、 
彼が神の手から受け取った生き方そのものに隠された
到底 語りつくせぬ「あるもの」こそが 
キリストの再臨のその日まで 敢えて言うが 「決して多くはない」
人々の心に 神に対する極めて深い 真の飢え渇きを 
日々生じ続けるであろうことは明白である。
  
   私達は正に「そのような時代」に
 キリスト者として 今ここに置かせられているのである。
    *          *           *

 『われ今 汝らのために受くる苦しみを喜び、又キリストの体なる教会の為
わが身をもてキリストの患難の欠けたるを補う。』 コロサイ 1‐24

   どうして!

 御子をさえ賜ったほどに その子達を愛される父、
その同じ父から 霊の命によって生まれた真の兄弟達であるのに  
どうして私たちは今 自由に交わることさえ出来ないのだろう!   

 例えば 中国に預けられた幼い妹と帰国した小さな兄、    
半世紀もの長い歳月が経過してしまった今でさえ 
たとえ 老いてしまって互いの顔の認識が出来ないとしても  
不思議な命の本能の中、彼らの心の中に 
強く慕いあう何かが確かにある と彼らでさえ証しているのに。

  *     *      *
 
 キリスト者は完全に自由なはずなのに、
その自由を キリストはご自身の命を捨ててまでも 
私たちに与えて下さった筈なのに、
 そして絶対に「私の主は 唯キリストお一人だけである」のに
どうして
『キリストと私たちの間に立つ何物か』の故に
こんなにも悩まなければならないのだろう!

2007年4月13日金曜日

  『家から家へ』雑感(1)

*家における集まりは 最低2人いれば可能である。
 「2人でも3人でも、私の名において集まる所には
 私もその中にいる。」(マタイ18‐20)
 これはイエスの明確な教会についての言及である。

*したがって家は教会の基本単位である。
 (しかし家は誰も固定し得ない生き物でもある)

*共に集う原則は唯一つ『父から同じ命をいただいた兄弟姉妹どうし
 家族どうしだから自然に集う』  それだけである。
  同じ家族の兄弟であれば それまでの互いの背景、経歴 
 それまでの宗教的人間的しがらみの一切、それらが仮に 
 問題となるように見えたとしても それが 兄弟を敬遠したり
 切り捨ててもよいと言う理由にはならない。

*人間生活を尊重し、無理をせず、自然に。
 (この中には多くの具体的な項目が含まれる。それは順次・・)

*誰も家々を私物化したり、まとめて大きくしようとしてはならない。
 その意識は必ず 人の誉れに繋がる「あの塔の建築」を
 もたらすことになる。 

*それとは逆に 家は横へと命の枝を伸ばす。つまり家が家を生み、
 家から家へと 四方にどこまでも成長する、
   あの葡萄の木のごとくに。

*今現在 神の敵はこの地を不法占拠している。しかし 
 まことの葡萄の木が神の命によって その枝の『ひげ』を伸ばし
 そして実を結ぶ時 正にその分だけ 神の御国が
 「死と虚偽を力とする暗闇の王国」を侵害し 命と光の支配の領土を
 拡大する。
  この人間生活の中における 神の命の拡大とその命による
 愛の支配こそが、そしてそれのみが キリストの再臨を促すのである。

2007年4月12日木曜日

   家々で

 新約聖書が啓示する当時の教会生活 集会生活の形態は
どんなものであったのだろうか。
所が それはこうだと断定するには 聖書の記述はあまりに
断片的過ぎるのである。
にもかかわらず 聖書が 明確に私達に指し示していることの一つは 
『当時の集まりは 家々で であった』と言うことの様である。

 教会初期の頃は 宮においても集まったが それは長くは続かなかった。
このことには神の介入があったのではないか と私は思っている。
(後日 宮は壊滅的な破壊を受けてしまった。)
 また、ペテロのメッセージで3千人ほどが『弟子に加えられた』とあるが、
ローマの強力な支配下にあった当時のエルサレムの状況を思えば 
3千人が一同に会して集会をしたとは考えにくい。   
 更に新約聖書のどこにも 彼らの所有する集会所(礼拝堂等)の
存在を匂わせるような箇所は無いようである。

 少なくも「初期以後」平常の彼らの集会生活は明らかに
家々が中心であった。    
 もしもそうであるならば この事実によって 聖書がそして神が 
教会生活に関して 私達に対し極めて重大なメッセージを送っておられる
筈である と心するべきではないのだろうか。 

 この聖書の啓示から引き出し得る キリスト者のあるべき姿についての
示唆には相当意味深いものがある。
 例えば、キリスト者にデモンストレーションは似つかわしくないこと、
 キリスト者は「箱もの」によって 
この世に固定化されるべきではないこと、また 
 集まりは非日常的ではなく むしろ人間的で 自然なものであり 
日常生活の延長線上にあるべきことなどである。

 神は何故か 極めて人を重んじておられる。故に当然
その『人間の生活こそ』が神が最も尊重されるものに違いない。
従って 家々でのキリスト者の日常生活と その延長線上での
『人間らしい自然な集まり』 そこにこそ 
今日でさえ 神の厚い御心が注がれている と言えないであろうか。 

2007年4月11日水曜日

  山に戻りました

 *このたびの旅から*
 クリスチャンの生活とは 24時間交わりの生活です。
1.家々で 無理のない範囲で兄弟姉妹と交わる:
  それは リラックスした雰囲気の中で、自然さを大切にした、
  人間生活の延長にある交わりであるべき。
2.その交わりからキリストが流れ出てくるか否かは 
  それまでの各人の日常生活で決まる。
3.その日常生活では しばしば
  ①真理に対する信仰を活用するべき。(信仰を機能させる、
   信仰を使用する、信仰を動かす)
  ②キリストの死を わが身にいただくべきである。
  *交わりとは:クリスチャン間を流れる
         復活のキリストご自身である。

2007年4月5日木曜日

  あした 山をおります

 今回は多分 一週間ほどの旅になりますかネ。
 あの大きな河、利根川沿いの散歩が楽しみです。
こちらでな 山歩き、向こうでは 川歩き?
 歩いてばかりの人生です。

     

    *毎日のパプテスマ*
      問題は常に    
 「私か キリストか」のどちらが残るか
    ということである。
    第三の可能性はない。
      だから 
 私を腐乱死体に送ればよいのだ。ただそれだけ。
  そうすれば キリストのみが残る。
  これは唯 信仰によって可能である。

  何故なら 神の領域においては
  この厳然たる事実は 既に真理として
    そこにあるのだから。
★ 聖書全体が神の契約なんだ! 何と膨大な契約書類。
 『神が心血を注いで』私達に約束されたのだ!
  そんなにしてまで。
(4:30am, ヘブル13‐20
『永遠の契約の血』の文字が目に飛び込んできた)

2007年4月4日水曜日

 元気について

 元気の時代:
 ある医者が患者に『元気を出してください』と言ったらその患者は
『先生 その元気を私に下さい』と言ったという。

 今は元気の時代である。テレビは元気な人でないと出演する資格も
無いように見える。まさか 元気のない者は人にあらず、
等とという積もりもあるまいが。
しかしながら今 世の中全体が「元気出せー、元気だせー」と言っている
ことは確かなようである。
大体 かく言う私も『口ぐせ』のように つい誰にでも 
元気?などと言ってしまうのだ。
 
 ところでそもそも 元気とはそんなにも素晴らしいものであろうか?
何も元気はだめだ というつもりは無い。
しかし元気にならねばならない と言うこともないのではないか、
と言う気がする。

 単なる私の過剰反応なのだろうか。しかし『どうもこの元気主義には 
ウソっぽい何かがあるみたいだ、その背後に 何らかの「だまし」が
隠れているのかも知れない、それにしても それは一体何なのだろう』 
と言う思いが消えないのである。
 とりあえず一つだけ確実に言える事がある、総ての人の元気は早晩
必ず消え去ってしまうという事実である。
  
 当然 聖書は 元気主義などではない。イエスもパウロも
『元気を出せ』等と人を励ました例はないのではないか。
彼らの「口ぐせ」は『恵み、平安、感謝、喜び そして信じなさい』
等であると思われる。
 そこにある共通項は むしろ ある種の
『内的な深い静けさ 落ち着きのようなもの』である。
元気主義とは どこかで根本的に違うのだ。
 
 いかがでしょう。ここから何か面白いものが引き出せそうだと
思いませんか。
                 (もし出てきたら続けます)
                  

2007年4月3日火曜日

ちょっと 山 歩いて来ます

 先ずは 霧谷の下、田んぼのそばの湧き水を
一杯ゴクリと飲んで
松本山をせっせと登る、汗が少し。
落ち葉でフカフカの山の斜面にひっくり返り、
コナラ林の空を見上げます。

青空 少しは覗いてくれるかな
今日は 月 まだ出てないのかな。

 眺め山のてっぺんから 
 いつか登った
遠くの小倉山を捜します。
運がよければ 
遥かに青い山のかなた 海のカケラが光るだろう。 

 少し寒いけど 薄曇り
歩くにはちょうどよい日和です。

 それじゃ。 

2007年4月2日月曜日

   もしも復活と比べるならば

 それが単に
 架空のもの 夢まぼろしや人の想像であるならばまだしも
復活 或いは『復活の領域』という明らかな実体が 
現にここに存在している今
復活でないものに どんな価値があるのだろう。
復活の超絶性、至高の地位、
そして その敵に対する超圧倒的立場を思うときに。
(Ⅰコリント15章)

  キリスト VS 固定化、安定化  

 (1)ダビデの罪
  歴代誌Ⅰの21章等を読むと ここの聖書記者は「ダビデがイスラエル
の人口を数えさせたと言う罪の深刻さは 例のバテシバ関連の
罪の比ではない」 とでも言っているかのように感じさせられます。

 神によって『功なり名を遂げた』晩年のダビデが 自国の人口調査をして
何故それが大罪となるのでしょうか、それは一体いかなる罪なのでしょうか。

 それは ダビデの心に忍び寄った 神の民イスラエルを私物化するという
意識であり  もう一つは イスラエルのために何かをなし得る唯一のお方 
主なる神への 信仰の 欠如 、或いは『私は 神無しでもイスラエルを
増し加えられるかも知れない』というダビデの自己依存 或いは自己信仰 
という罪であったのでしょう。

 そして更に私は この私物化と不信仰の罪の背後に、
「私が」この世界に根を張り 「私を」この地に 据え置こうとする
「固定化願望」 をさえ 汲み取れる事が 出来ると思います。
(ダビデには キリストの永遠の天的王国の幻さえ与えられていたのに)
 
 (2)今日的意味
 この世の人々には この世に根をはり、安定し、安心したいと言う
深い欲求があります。これは当然のことでしょう。

 しかしながらその欲求は 今日キリスト教の指導者の中にさえ
侵入してしまっており、その欲求は 常に信者の数を数える
「教勢」至上主義 となり 信者を自分の手の中に囲い込み 
果ては私物化する 「ウチの教会の信者さん」意識となり 
更にそれは 自分達の「箱もの」 即ち 五感に訴えやすく 
頼りがいのある  安定的な「ある建築物」
(物質の建物のみならず キリストが 無くとも 安定、
安心を獲得し得る方法、 組織、 体系の総て)を
確固たるものにしたいと言う願望に 繋がって行くのです。

 そしてもし いったん固定化 安定化を所有することに成功すれば 
キリストはもう 命のない 単なる飾り物になってしまうのです。即ち
それはキリストを追い出すことに成功したと言うことです。

 (3)バベルの塔 
 この様に見るとき 今に至るもサタンは キリストの体 に対して 
いかに 巧妙に 虚偽と死の武器を用いて
猛烈に働き 敵対し 反対しているか が分かるのではないでしょうか。
   
 この人間の根深い本性に存在する傾向は 聖書全般に描かれており 
古くはバベルの塔に見られ それがあの神の民を飲み込んだ人間の帝国
バビロンへと至り、 遂には 黙示録の「大いなるバビロン」として 熟成するに
至るのです。
  これらは 見えざる神の敵が 人間と結託して建て上げた
神への大いなる反逆 『サタンと人は神と肩を並べ得るのだ』と言う
一大デモンストレーションに他なりません。
 
 (4)私達への応用
 ですから当然 『今 私達普通のキリスト者の心にも入り込み 
私達の心にも住み着いている いかなる種類の固定化願望』 をも 
神が容認することはあり得ません。そのような私達の思考パターンは
私達の教会生活に 言い伝えや慣習としてさえ 既に相当の地位を占めて
おるのであり、これをたやすい敵だとは到底言えそうにもありません。

 神は 今生きておられる主イエスキリストのみに私たちの
信頼を置かせたいのであり、そして 固定等とは全く程遠い
復活のキリストに総ての期待を持たせ、
私達を この地に根を張ることのない旅人、
天につける国民とさせたいのであることは 
私がここで言うまでもないでしょう。
 
 このテーマに入り込むと 時間と紙面がいくらあっても足りません。
しかしここから キリスト者は今 何を警戒しなければならないのかについて 
また キリスト者と教会のあるべき姿に関して 多くの実際的 実行的 
重要な結論が引き出せるのではないだろうかと 私は考えているのです。

2007年4月1日日曜日

   *プラスはマイナス、マイナスはプラス*
 キリスト教礼拝堂の屋根の飾りは+(プラス)に見えるが
キリストの十字架は飾りなどではなく 神の強力なマイナス作用である。
あなたが真に あなたの身の上に そのマイナス作用を許すとき
キリストの復活において 初めてそのマイナスがプラスに転ずる。
 
 『あなたとあなたのもの』が完全に無に帰されることがもし無ければ
神と人のために益となる何物も一つとして存在し得ない。
これが イエスが万難を排して 十字架に向かわれたゆえんである。