2007年4月2日月曜日

  キリスト VS 固定化、安定化  

 (1)ダビデの罪
  歴代誌Ⅰの21章等を読むと ここの聖書記者は「ダビデがイスラエル
の人口を数えさせたと言う罪の深刻さは 例のバテシバ関連の
罪の比ではない」 とでも言っているかのように感じさせられます。

 神によって『功なり名を遂げた』晩年のダビデが 自国の人口調査をして
何故それが大罪となるのでしょうか、それは一体いかなる罪なのでしょうか。

 それは ダビデの心に忍び寄った 神の民イスラエルを私物化するという
意識であり  もう一つは イスラエルのために何かをなし得る唯一のお方 
主なる神への 信仰の 欠如 、或いは『私は 神無しでもイスラエルを
増し加えられるかも知れない』というダビデの自己依存 或いは自己信仰 
という罪であったのでしょう。

 そして更に私は この私物化と不信仰の罪の背後に、
「私が」この世界に根を張り 「私を」この地に 据え置こうとする
「固定化願望」 をさえ 汲み取れる事が 出来ると思います。
(ダビデには キリストの永遠の天的王国の幻さえ与えられていたのに)
 
 (2)今日的意味
 この世の人々には この世に根をはり、安定し、安心したいと言う
深い欲求があります。これは当然のことでしょう。

 しかしながらその欲求は 今日キリスト教の指導者の中にさえ
侵入してしまっており、その欲求は 常に信者の数を数える
「教勢」至上主義 となり 信者を自分の手の中に囲い込み 
果ては私物化する 「ウチの教会の信者さん」意識となり 
更にそれは 自分達の「箱もの」 即ち 五感に訴えやすく 
頼りがいのある  安定的な「ある建築物」
(物質の建物のみならず キリストが 無くとも 安定、
安心を獲得し得る方法、 組織、 体系の総て)を
確固たるものにしたいと言う願望に 繋がって行くのです。

 そしてもし いったん固定化 安定化を所有することに成功すれば 
キリストはもう 命のない 単なる飾り物になってしまうのです。即ち
それはキリストを追い出すことに成功したと言うことです。

 (3)バベルの塔 
 この様に見るとき 今に至るもサタンは キリストの体 に対して 
いかに 巧妙に 虚偽と死の武器を用いて
猛烈に働き 敵対し 反対しているか が分かるのではないでしょうか。
   
 この人間の根深い本性に存在する傾向は 聖書全般に描かれており 
古くはバベルの塔に見られ それがあの神の民を飲み込んだ人間の帝国
バビロンへと至り、 遂には 黙示録の「大いなるバビロン」として 熟成するに
至るのです。
  これらは 見えざる神の敵が 人間と結託して建て上げた
神への大いなる反逆 『サタンと人は神と肩を並べ得るのだ』と言う
一大デモンストレーションに他なりません。
 
 (4)私達への応用
 ですから当然 『今 私達普通のキリスト者の心にも入り込み 
私達の心にも住み着いている いかなる種類の固定化願望』 をも 
神が容認することはあり得ません。そのような私達の思考パターンは
私達の教会生活に 言い伝えや慣習としてさえ 既に相当の地位を占めて
おるのであり、これをたやすい敵だとは到底言えそうにもありません。

 神は 今生きておられる主イエスキリストのみに私たちの
信頼を置かせたいのであり、そして 固定等とは全く程遠い
復活のキリストに総ての期待を持たせ、
私達を この地に根を張ることのない旅人、
天につける国民とさせたいのであることは 
私がここで言うまでもないでしょう。
 
 このテーマに入り込むと 時間と紙面がいくらあっても足りません。
しかしここから キリスト者は今 何を警戒しなければならないのかについて 
また キリスト者と教会のあるべき姿に関して 多くの実際的 実行的 
重要な結論が引き出せるのではないだろうかと 私は考えているのです。

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