2008年4月28日月曜日

神に依存し、人から独立する

「ついて行かないで交わる」の次は「神に依存し、人から独立する」です。
私達は表題とは逆に 実にたやすく
「見える人に依存し、見えない神から独立する」のです。
これが人の本姓です。そしてここにこそ総ての問題の根源があるのです。

しかしあるべき姿はそうではなく、個個人が人からは独立し、しっかりと
「神に依存する」ことです。もしもあなたが「神に依存すること」の意味を
知らず、それを体験的に学ぶこともなければ、必然的にあなたは
「人に粘着する」ことになるでしょう。そしてその人への粘着は
必ずある日 腐敗し悪臭を放つようになるのです。

しかしとても不思議なことなのですが 逆に
「神へ依存し、人からは独立すること」を堅く土台とするならば、
そこに初めてキリスト者達(複数の個人)のあるべき姿の集まりが
生え出て来、真の交わりが自然に花咲くのです。
「神への依存がどんなことかを知り、人には独立して決して隷属せず、しかし
いかなるキリスト者とも交わる態度を有する広い心を持つ人」の周辺にこそ
真に多くの人々を結び付け一つにする復活の命の自然な働きがなされる
のを いずれあなたは見ることが出来るでしょう。


「神に依存する」「神に信頼する」とは「神を私の必要の総てとすること」
であり、その「神を私の必要の総てとすること」の最も素晴らしい姿は
「私と一つとなって下さったキリスト」の中に安息するキリスト者において
見出されます。そして神は既にキリストによって 正にそのことを
実現して下さったのです。 そして何とこの真の「神への依存」の中に
キリスト者の集まりの本質が隠されているのです。

キリストは断言されました(これは新約の一つの頂点を示す言葉です):
私が行って、あなた方に「場所」を備えたら、また来て、
あなた方を「私自身に」(原文)迎えます。「私のいる所」に、あなた方も
おらせるためです。(ヨハネ14の3)

この聖句の「私が行って」とはイエスが十字架に行くことであり、そして
「場所」も「私のいる所」も「私自身」即ち復活のキリスト御自身です。
そしてキリストは「その場所」即ち、復活の御自身そのものに「私達総て」を
既に迎えて下さっているのです。従って復活のキリスト御自身の中に
(in Christ,主の中に,主にあって)古今東西の総てのキリスト者の
交わり、集会の「場所」があることになります。
その場所にこそキリスト者の集まりの本質・原点があるのです。
キリスト者達が集まるべき場所、それはあそこでもここでもなく
唯キリストの中です。そしてあなたがその「場所」に留まる時に
あなたは最も素晴らしい姿で神に依存しているのです。
そして更に その場所(復活のキリスト)の中には時空を超えて 
総てのキリスト者達が集っていると言えるのです。
要するに あなたが神に依存する場所が同時に
総てのキリスト者と共に集う場所でもあるのです。
復活のキリストの中には神への依存と
キリスト者達の完全な一つが共存しているのです。 

ですから、例えば あなたがたった一人で山の中にいたとしても
あなが「その場所」に留まり安息するならば
あなたは神に依存しているのであり、また
あなたは46時中、時空を超えて総てのキリスト者と共に、
御父と御子イエスキリストとの交わりの中にいることになります。
その永遠の交わりこそ「完全な集まり」であり
そこにこそ集会の本質、実質が存在するのです。

これまでを要約すれば 集会の本質、原点とは:
その場所は礼拝堂などでなく「復活のキリスト御自身」であり、
その時間とは日曜日10時半から などではなく永遠、いつもであり、
集まりの目的は
良いメッセージを聞いて一時的に「聖なる」気分に浸ること等ではなく
御父、及び御子イエスキリストとの時空を超えた交わりであり、
また「その場所」にある総てのキリスト者との天的な交流なのです。


だから当然 この永遠における集会・交わりが今時空に出現する
キリスト者の集会においても、それと全く同じ
原点、本質、実質がそこに存在していなければなりません。
従って先ずは 私達個個人が 上記の「永遠における交わり」の中に
いる必要があるのです。

もしそうでなければ 
今この時間の中でいくら熱心に沢山のキリスト者が
良いメッセージを聞く為に集まったとしても、
それは交わりや集会の実質・本質に欠けることになるのです。
その実質のない集まりは単なる生まれながらの人間の
「粘着する魂の集合」に過ぎません。(そこからはいずれ異質な
何ものかが必ず出現して来ます)それは 決して
聖書で言う「交わり」でも真のキリスト者の集まりでもないのです。
従って あなたがその目に見えない永遠の交わりの実際を今持つこと無しに
目に見える時空の中の交わりを持つことはあり得ないのです。

それ故 総ての事の初めに私達は 集まりの原点は目に見えない所、
即ち霊の永遠の領域・キリストの復活の中にあることを 
私達の霊の中で明瞭に見る必要があるのです。何故なら
今ある「目に見える交わり」と言うのは
単に「永遠における原型としての交わり」が時空の中へと
再現、或いは投影されたものに過ぎないからです。


「私の言うことを信じなさい。あなた方が父を礼拝するのは、この山でもなく、
エルサレム(目に見える物質的なもの)でもない、そういう時が来ます。・・・
神は霊ですから(神は時空を超えた霊であるから)神を礼拝する者は、
霊とまことによって礼拝しなければなりません。」(ヨハネ4の21、24)

「私達の交わりとは、御父および御子イエスキリストとの交わりです。」
                           (Ⅰヨハネ1の3)
「私達は見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。
見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。」
                         (Ⅱコリント4の18)
「父よ、あなたが私におられ、私があなたにいるように、彼らが皆一つとなる
為です。また、彼らも私達におるようになるためです。」(ヨハネ17の21)

「父よ。お願いします。あなたが私に下さったもの(総てのキリスト者)を
私のいる所に私と一緒におらせてください。」(ヨハネ17の24)

「私に留まりなさい。」(ヨハネ15の4)

2008年4月26日土曜日

「ついて行く」のでなく「交わる」

キリスト者がついて行くのはただキリストお一人です。
この原則は絶対的に重要です。
そしてキリスト者が交わるべきは「総ての兄弟姉妹」です。
あなたはいかなるキリスト者にもについて行ってはなりません。
しかし、彼との交わりは遮断してはならないのです。
ついて行かないで彼と交わるのです。彼と対等に交わるのです。

この原則を乱したのは神の敵です。いつの間にかキリスト者達は
人と交わらずに、人について行くようになってしまいました。
そのようにして「交わりとは何か」の真の知識と経験をキリスト者は
見失しなってしまったのです。この様な風潮の中では人は 先ず、
それぞれ自分の好みに従って自分がついて行けそうな人を品定め吟味し、
そして最後に決定するのです。この作業が終わればあとは楽です。
後はその人について行くだけですから。
(その「楽さかげん」の中にはキリストの死と復活の学びなど
あるはずがありません。従って真の交わりもありません。)

しかし「人が人についてゆく」世界、これは大変です。
もしもそれを安定的に持続しようとするならば
①強固な「宗教セット」と「人の一生丸抱え体制」を構築するか
②強固なカリスマ性のもとに人々の上に強固な宗教的権威を発揮する
以外にありません。

もしも①の強固な体制を築き上げてしまえば たとえリーダーが多少
いい加減であったとしてもそこにある体制が人の散逸を防いでくれます。
ここに例えば「サンデーモーニング礼拝絶対噂守思想」等が
生まれるのです。その場合最も大切なのは神でもリーダーでもなく   
「礼拝を守ること」です。だから「自分の信者さん達」を散逸から守ろうと
するならば「儀式セット」と「人の一生丸抱え体制」は不可欠なのです。

しかし強固な宗教セットは聖書的でないと判断する人達であれば、後は
強固なカリスマ性のもとに人を恐れさせさえする絶対的な宗教的権威を
導入しなければなりません。その場合 彼らのリーダーに従うことが
イコール神に従うことになります。この場合リーダーは一人ですが、
その一人がいなくなった場合でも その権威を受け継いだ複数の人たちの
グループによっても持続可能です。(しかし弱体化は避けられないでしょう)
このケースにおいては「私達だけが聖書的で正しく純粋なグループである」
と言う信念と誇りが効果的に信者達の散逸を防御する機能を発揮します。

さて以上の2つの方法とも神の方法ではないと退ける人達の場合は
どうでしょうか。 それ以外の方法で人々の散逸を防御する方法が
あり得るでしょうか。それは相当難しいのです。結論から言うとありません。
しかしある人は言うでしょう。上の①②が無いとしても「もしも一人の人が
聖書的で賜物豊かな魅力あるメッセージが出来さえすれば 多くの人々を
引き付けることが出来 大きな集団でさえ維持出来るのではないか」と。

しかしこの方法を取る人たちは実は大変です。なぜならこの場合 
どうしても人々の視線の方向が その一人の人に集中するからです。
そして、人々は当然その人の人格に信頼するが故に自然に 
その人の言うことに ついて行こうとするからです。
これらを防ぐてだては全くありません。
彼は宗教セットや絶対的権威の使用は出来ません。だから彼は
言わば丸腰で勝負するしかないのです。彼が持つ武器、それは
「彼のメッセージと彼と言う人」だけです。従って人々は
彼の思惑など省みず 正にその2点・彼のメッセージと人格に
総ての注意を集中させてしまうのです。

しかしながら 元々このような人々の篤い視線の集中に
耐えられる人は存在しません。人はあくまでも人です。
人の内面の本質は腐敗と死と虚偽です。早晩必ずある日
何らかの事態の中で その人の真の内面の一部がしみ出し、
暴露される時が来ます。その時、その人の周りに集まっていた人々は
落胆しその集団は崩壊に向かうことになるのです。
少なくも多くの人々は彼のもとから離れて行くでしょう。
だから「1人の人の周りに良いメッセージを聞こうとして人が集まる
と言う構造」には 彼が①か②を採用しない限り 
初めから無理があるのです。

新約聖書には ①と②は言うに及ばず、とても素晴らしく見える
この第3のケースでさえも(実際には①②③の巧みな混合が見られる)
それを擁護する箇所はどこにも見出されません。そういう模範は
無いのです。聖書はひたすら「極めて明確かつ確固とした力強い
ただ一人のリーダーを神は絶対的に定められた」と主張するのです。
そしてその一人のお方こそがキリストです。神の目から見れば
「リーダー・キリストがそこに あなたのすぐそばにおられる」のです。
これが神の定めであるが故に 神とキリストはこの定めを無視し
「現にそこにあるキリストの実際的効果的強力なカバーリングと導き」を
現実には無いかのごとく無視する人々を許すことは絶対に出来ないのです。

問題の所在はひとえに「人について行く」にあります。キリスト者達の間で
そこにあるべき唯一のものは「交わり」であってメッセージではありません。
私達は 人について行くのではなく 唯彼と交わるのです。
このことが真に分かっている人であるならば「リーダーとおぼしき人」が
ある日、どんな状態に陥ったとしても彼を憐れみこそすれ つまずくことなど
あり得ないのです。なぜなら彼は人とは初めからそういうものに過ぎない
ことを知っているし、現実的に彼の真のリーダーは唯キリストだけであり 
他の導き手など全く不必要であるからです。その人は初めから
あなたが従うべき人などではなく 
あなたが対等に交わるべき人に過ぎなかったのです。


さて「真の交わり」が存在するところにだけ、実際的なキリストが出現する
可能性があります。そして「生けるキリストがキリスト者間の交わりから真に
現れる」ならばそこにこそ キリスト者間の自然で美しい「服従」でさえ
生み出て来るのです。それこそはキリストの復活の命から生え出てきた
服従です。これは夢物語などでは決してありません。もしもその様な
「交わり」を私達が知り学び、実際的に体験することがないとするならば、
私達に前途は全く無いと言ってもよいでしょう。
もう一度言います。私達は決して人について行くのではなく、
ただ人と交わるのです。

*「交わり」はお話し合いではありません。
 ましてや会議、討論、説得、対決ではありません。
*次回は実際面を「交わり」ます。

2008年4月17日木曜日

明日は旅

また一日かけてのんびりと坂東太郎の我が家に向かいます。
小屋へ戻るのは28日頃になるでしょうか。

今回は下でどんなことがあるのでしょう。
とにかく私自身はゆったり構えていたい。
ただ「キリストの中に留まること」では怠りなく、ですね。
その様にして、キリストの復活の力を
私はかたわらに立って見ていたいのです。

きのう、2つの地下部屋工事に取り掛かったのですが、家全体の
仕上げ工事をする前にやっておきたい工事をそれとなく挙げて見たら、
あるはあるは その工事の多さに改めてびっくりしたのです。
(私は欲張りなのかな)
何とこの地下部屋工事以外に今気がつくだけでも・・

・一階の物入れを撤去してそこにダイニングスペースを作る。
・その撤去した物入れを 和室の隣に移動する。
・和室のそと 東の軒の雨じまい工事。(足場をしっかりと組まないと)
・和室東の壁に明り取り窓を作る。
・ロフトデッキの床の張替え。
・ロフトのデッキのベンチを仕上げ、ロフトデッキ全体を完成する。
・南デッキに大きな橋をかける。
・南東デッキを拡大しコーヒースペースを作る。
・バーベキュースペース新設工事。
・露天風呂新設工事・・等々なのです。

これでは、仕上げの白い漆喰の壁工事や仕上げの床張り工事なんて全く
いつになることやら、ですね。
*坂東太郎とは利根川のことだそうです。

2008年4月16日水曜日

今日はコメリです

のどかな4月のカリマンの朝、陽光に林が白く輝いています。

昨日、南東デッキの壁に この間龍ヶ崎のハードオフで500円で
買って来たアイスクリームショップの看板をはり付けて見ました。
ウン、悪くない。
南東デッキはコーヒーコーナーにすればいいのかな。

さて作業、リビングの一角にダイニングスペースを作ろうかとも
思ったのですが、それは後まわし。先ずはやっぱり地下部屋です。
で今日、コメリに安い2バイ4を沢山買いに行くことになるでしょう。
とにかく毎日、体を動かし作業をすること。
そうすれば、いつかは完成するのだから。やはり怠けてはいけないのだ。

下の写真はデッキにはる前のアイスクリームの看板(左)
右側のコーヒーの看板は地下室の入り口にでも飾ったら似合うかな。



今 神がことを始めておられる、と信じます。私達はただそれに乗るだけ。
「仮にもしもそうでなければ」と思うと気が遠くなる。
そんな大変なシンドイ生き方、そんな不確かな人生は送りたくありません。
自分で考えたくない、働きたくない。これが超怠け者・私の生き方なのです。

2008年4月14日月曜日

下山は18日です

すみません、間違いました。山を下りるのは18日です。
やはり疲れていたのかな。そのせいか昨晩はぐっすりと眠りました。
さあ、これからいよいよ貴重な中4日の始まりです。

何をしましょうか。やはりケンやジュンが来ることに備えて
地下に2つの個室を作る作業でしょうか。それともその他の
大工仕事でしょうか。この春 来客の予定もあるので その準備も
ありますね。


今確かに主も働いておられます。人を通し人を用いて 神がこの地上で
ことをなさるとは!その神の作業の原則は唯一「死と復活」。

今考えていることは
「主と共に御座に着かせられている」と言う意味。これは
沢山いるキリスト者が窮屈にも一つの御座(椅子)にぎゅうぎゅう
座らせられている、のではない筈です。だからここでもキリスト者と
キリストの完全な一つが前提となっているのです。

キリストとの一つ:これが曖昧ならばどんな前進も無いでしょう。
だから、大切なのは①キリストとの一つ ②死 ③復活ということに
なります。これ以外はどんなものでも大して価値はありません。
仮にあったとしてもそれは一時的、
敢えて言うならば瞬間的。

2008年4月13日日曜日

暫くぶりの小屋です

外はもう真っ暗。
春の雨が静かに小屋のトタン屋根に落ちています。

途中のいわきや小名浜が桜の満開でした。
だからここの桜はまだまだずっと先なのです。
でもさっきラジオを聞いていたら、隣の三春町の
有名な「滝桜」がチラホラ開花し始めたそうですよ。
ここは三春よりもずっと標高が高いから。
そうそう、夏井川渓谷の有名な岩つつじが岸壁に鮮やかでした。
でも脇を通る電車がこの季節、一時停止をしてくれると言うのは
本当かな。

さっき無事 小屋についてヤレヤレと、玄米茶をわかして
いわきで買ってきた寿司を一人食する。その時の主との交わりは
なかなかのものでした。何でしょうね、こういう楽しさと言うのは。
しみじみとした幸福感が体を包むと言った感じでしょうか。
この小屋の雰囲気、やはり何かがあるのかも知れません。

25日には山を下ります。今回、わずか中4日の山暮らしです。

2008年4月7日月曜日

近況、山を想う

家族の必要の為、まだ下におります。
山帰りは14日あたりでしょうか。

今利根川のほとりで
あの匂い立つ阿武隈の遅い春を思っています。
その値千金の日々に 山にいないのは惜しい、確かに惜しい。
ましかし、あわてて山に帰ることもないではないか、と。
(ただこの春に小屋に来てくれる方々の為の準備はいるわけですが。)

とにかく人生 アタフタすることは無い。
アタフタするのは まだ自分には「望み見たいなもの」がある
などと思っているからではないのか。

私はもう、
バプテスマをしてしまった身なれば、もう墓に埋葬され済み。(ロマ6の4)
何をあくせく明日をのみ思い煩う。


あなたのメールに接し、厳粛なものを感じさせられました。
これからとても大切な重い時間を経過して行くのかもしれません。
確かに言えることは 主の動くことの無い真実さ。
ただ問われるのは 私達の真実。