2007年6月30日土曜日

サタンを信じない為に

世界の人々、そして多くのキリスト者でさえ 実は
サタンの言うことを信じている。
それでは サタンを信じない為の幾つかの対策とは?
思いつくままに。

1.対「サタンの過去話」
いきなり 許可もなく私の脳裏のスクリーンに 
総天然色ドキュメンタリー映画が写し出される。
鮮明にありありと突きつけられる私の過去の失敗 、罪、
そして 人には言えないあの時の恥ずかしくみじめな私。
暗い映画館の中 その映像をただぼう然と見つめ
底知れぬ穴に徐々に落ち込んでゆく私。

これが「この映画会社社長」得意の
無断 身勝手な「サタンの過去話」なのです。見たくも聞きたくもないのに、
全く迷惑千万な話です。彼のねらいは 私をサタンの死の中に閉じ込め 
神の命と真理から遠く切り離すことです。

☆でもこの対策は意外と簡単なのです。
「何度も何度も何だ!その映画はもう見飽きたよ。
御血で解決積みっ!領収書のコピー(神の言葉)あるよ、
あなた持ってク?」と言ってやればオーケー。

2.対「突如飛来して来る悪らつな思い」
私の中へ突然、どこからともなく飛来して来るとんでない思い、
例えば 兄弟姉妹への黒く醜い不信感が!
もしもその時サッと手を打たないと それに引き続き 
その他の雑多な変な思いが空の鳥の如くに
四方八方勝手に飛び回る。この現象は一体何なのだ。 

☆対策 「黙れサタン!何これ、これは全部あなたの思いでしょ、
そんな感覚の出所は私じゃないよ、勝手に人のせいにするな!
あなたの私に対する この騙し(だまし)の企ては
2千年前に既に破壊されていることを知らないのか!」
と断固一括してやりましょう。

私の内部から突き起こって来る 出会い頭の空恐ろしい感覚が
全部私の責任であるなどと
決して決めつけ 思いつめてはなりません。
サタンはよく突然 彼の物凄い思いを 私の中に注入するのです。
ですから 私達は常に目を覚ましているべきであり、また真の
キリスト者であるならば そういう感覚の異様な突発性や不均衡性、
アンバランスな異常性に気付く事が出来る筈です。
(これは もらい交通事故的ですね。また時にサタンは
この手段によって人を自殺に追い込むことさえ出来るのです)

「キリストと1つとされた私の中の真の人」がそんな悪魔的なことを
思う筈など絶対にないのです。その思いはあの欺く者が起源です。

ただ もしも私が 彼の言いなりになり、何らの抵抗もなく
「その思い」にただボンヤリと身をゆだねるだけであるならば、
その時に初めて問題となります。しかしそれでも 気付いたら直ちに
御血によって清められましょう。御血の効果は絶大です!

3.対「気分と感覚の奴隷状態」
次に 例えば朝の目覚めの不快感や体調不良、そんな時には 駄目で
無能な自分を実感し やたら「面白くない」感覚が漂う、わけもないのに。
或いは「腰が痛い」もう老化の一途だ!どう考えても悲惨な私と家族の
未来が見える、悲しく無意味な私の人生とその行く末よ、等と。
これは完全に私が「気分と感覚の奴隷」状態に陥ってしまっている姿です。
あな恐ろしや「私の」感覚!

☆対策は 敵に対する毅然とした抵抗、そして叱責と反撃です。
a.
「また来たね、サタン!
あなた、キリスト者の今の驚くべき立場と輝かしい未来について
聖書で読んだことないの?」と 自分の感覚からサッと身を引き
御言葉、真理に意識的に戻り、そして意志を用いて真理を信じると言う
基本的作業を確実に実行しなければなりません。
ボンヤリと成り行きに身をゆだねないことです。(対いじめ と同じ)
b.
「あなたが私に何を感じさせようと、構わない、平気だよ。
生まれながらの私が 堕落の感覚を持つのは当たり前でしょ。
別に驚くことではない。だからこそ神は既に御血を用意されたのだ」
と開き直る。私達は神との交わりへ 御血一つでいつでも直ちに
受け入れられ 戻ることが出来るのです。何と言う特権!
c.
最後に サタンに立ち向かおう。
「私は今 敢えてあなたに立ち向かい 証しのことばを宣告する。
さあよく聞きなさい」と神の真理、御言葉を彼にぶつける:

『永遠の中では その古い私は既に墓の向こうの腐乱死体、神が廃棄した
「腐乱死体の行状」がどうのこうのと あなた頭が変なんじゃない?
そうだよな、それがあなたの得意技 腐乱死体をつついて起こし 
何かをさせることはあなたの仕事、
でもね、それが せいぜいあなたに出来ること、正にあなたの限界なのだ。

さあそれでは いよいよ キリストと一つとされた私を見せてあげよう。
キリストと共に復活した私、今キリストと共に天に座している私は
あなたにとっては恐怖の対象であり 手も足も出ないことは分かっている。
だからこそ 私は今信仰を働かせ この神の永遠の崇高な真理、
復活の実際を万物に対して高らかに宣言し
そして「天地にある奥義的今日のキリスト」の中に私は安息する!

また
あなたから私に送られた あの腐敗した感覚は
神の言葉と矛盾するから はなから不合格、だめっ、 
要するにそれはあなたから来た虚偽に過ぎない。更に

復活の中に無く 永遠性を持たない あなたからの「事実」は総て、
いかにリアルに感じられたとしても、単にこの時空内のもの、一時的で 
たちまち蒸発し消え行く「低次元現象」であることは
あなたも知っているだろう。

その上 あなた自身は 所詮キリストによって既に頭を砕かれ、
「法的立場」の全く無い 唯人をだましおどすことしか出来ない無法者』

ここで少し横道にそれます:
法と義は 明確にこちらサイドにあります。これは動かし得ない事実です。
しかし もしあなたが「法的に守られているあなたの
絶対有利な自分の立場」を知らなかったら 
実際にはとても損をするでしょう。何故ならあなたは
多くの無知による不必要な苦労を自分で背負い込むことになるからです。
だから 私たちキリスト者は「明確に知る」必要があります。
その為に「お勉強」はやはり必要なのです。宇宙は神の力によってだけ
ではなく神の法で成り立っているのです。
知性にたけたあの敵は このことを良く知っているからこそ、ウソによって
無知な私達を やすやすと騙すことができるのです。
しかし知ってはいても しっかりと信じないのであればそれは不信仰です。
(ここで戻る) 

『サタンよ、確かにあなたの ある能力の高さだけは認めてあげよう、
でもそれはごく限られた範囲内でだけ、
それも一時的に許されているだけのこと、
「復活と言う超絶した高さ」と比べたらそれは正に うじ虫の世界の範囲。

時空内に閉じ込められ 単なる被造物に過ぎないあなたの、
程度が低くそんなに軽いウソを 
「復活と永遠と言う世界に住んでいる私」が信じるわけがないでしょ』と
叱責し 撃退する。

そのようにして サッサとそれらの感覚を全部 ちりとりに集めて 
黄泉のゴミステーションに ポイと捨てます。

*      *
さて
キリスト者の未来にひきかえ サタンの運命は極限的悲惨の中にある。
それを知っている彼は 今最後の悪アガキの時に入ろうとしている。
真の悪は いったん走り出したら もう引き返せないもの。だから
これから世界は 悪魔が悪のクライマックスへ突進して行く
最悪の時代を迎える。
人々も必然的に 彼の後を追い 暗闇の中を一寸先も分からず 
意味もなく 唯闇雲に(やみくもに)破滅に向かって進むことになる。

しかし、唯一『神のことばと復活』のみが 
その闇に十分対抗し得る光である。
闇が光に勝つはずなど絶対にあり得ないからである。
その光とはキリスト、そして 
その真の光なるキリストに結合しているキリスト者である。

2007年6月29日金曜日

恍惚の時

7/7に 息子の為に また下山です。
もう1週間 それまでに バスルームのプラスター工事とタイル工事は完、
と行きますかな。
皆さん プラスターはいいですよ。いくら下手に塗っても 
それが逆に味になるのですから。
今度お宅の 一部リメイクに使って見られたらいかがでしょう。

昨日は午後の あるキリスト者との電話での交りから:
花壇のそばに腰をおろし 
主との妨げの無い交わりを楽しんでおられるとのこと。
それそれ それですよ。キリスト者の力、不思議な影響力は 
そこから出てくるんですよネ。
私はそれを「主との恍惚の時」と呼びたいのです。

さて今日は 雨。
それでは 一寸腰が痛いけど 壁塗りやりますかね。
その前に 昼食用のサバを大根と一緒に炊いておかないと。
最近 動物性たんぱく質が足りないのです。



今 7:15PM
「主との恍惚の時」に反応して下さった聖徒がありました。
それへの私の反応:

嬉しいです。
私の場合 近所の山を超スロースピードで歩きながら
と言うのが多いのです。
その人によって 得意な時と所があるのでしょう。
 
私の場合 結構「主の方からの促し」もある
と思っております。
なかなか応じられないことが 多いのですけどね。

人であるならば 交わりへの渇望は当然のこと、
私達はもちろん人、 そして
イエスも やはり人なのです。



今 北の窓に 
遅い日没の残照が かすかなオレンジ色を残す。
今日も
阿武隈山中の 全く一人だけだった一日が暮れる。
間もなく 深い闇がこの小屋を包み
ただ 上よりの交わりへの静かな感謝が。 

2007年6月28日木曜日

家々 VS. シナゴーグ(会堂)

シナゴーグとは 固定と安定の「神を礼拝する」宗教、
家から家へ とは「動的な人の人間らしい生活の只中」のこと。

今イギリスのノーリッジで起こっていることは 多分 
聖霊による 反シナゴーグ的動きの一つの兆候なのであろう。
かつて家々の中に、つまり人間生活の只中に現れられたキリストは 
今この21世紀においても 
1点 一人のキリスト者の霊の中から キリスト者達の
いろいろな生活の中へ 伸縮自在に いろいろな表れ方を
されておられるようである、
家々で パブで ファミレスで、ストリートで。

人の命はライフ、生活もライフ、人生もライフ、みな同じライフである。
神は明らかに、とりすましたワンセットの 時間と場所が固定された
日曜礼拝などではなく 人の普通のライフが好きなのだ。
無制限な復活のキリストが
礼拝堂の中 日曜日の10時半からの1時間のみに
限定されることなど決して無いのである。
(今ノーリッジでは敢えて日曜集会をやめているという)

かつて キリストが登場されたのは その殆どが 
人が人間らしく振舞っている場面であった。
サマリヤの女の人目をはばかる水汲みの場面
(あの場面、女は遂にキリストをそこに見出し、実に固定的礼拝者から 
動的な真の礼拝者へと導かれたのであった!) 
人が病に苦しむ場面、男達の仕事の場面と食事の場面(復活後でさえも) 
カナでの酒宴の場面、少女の死の場面にさえ。
そんな人間的場面こそが 
神が人に語られる場面、人に接触される場面なのだ。
キリストが儀礼的に正装をして現れ、
人の礼拝を受けられたなどと言う場面は皆無である。

福音書を見ると 明確にある時を契機として 
キリストVS シナゴークと言う図式が先鋭化して行き
その結果 キリストを真に愛する者 はシナゴークから追放され
そして キリストご自身は「シナゴーグの真髄」によって 
遂に惨殺されることになる。

これこそが キリストとキリスト者達の 真の姿であり運命である。
今私達は 今日のシナゴーグと家々との 
どちらを選ぼうとしているのであろうか。

2007年6月27日水曜日

カリマンの森にて6

制限の無い復活のイエスを内に持つ制限の中に閉じ込められた私
と言う不思議さ、
無制限と制限の同居という不思議さ。

しかし その無制限なお方は いまだに人イエスであられる
という驚くべき事実がある。
無制限な「人」と言う存在が現にここにおられるのだ。
そして今 その無制限となられたアダムは 私というアダムと
完全に符合しているという真理。

だから もっとこの私から 無制限が現れていいのではなかろうか。
この地上の生物の自己複製でさえ極めて神秘的な現象であるとするならば
ましてや 天的複製の為には更に 
復活の中におられる、今日の奥義的天地の人 イエスに
「臆面も無く」依存するべきなのではなかろうか。

そのようにして
この地上の因果などとは関係なく 私達が住む「あの場所」*から
この天的無制限が現れるのでなければ
天的自己複製が 時空の中へ出現することなどあり得ない。
*ヨハネ14の2



つかの間の梅雨の晴れ間、
初夏の強烈な日の光が 
黒々とさえ見える濃い木々の緑に降り注ぎ 溢れている。
カリマンの森は今 天国の一かけら。

「霧の谷」に面する窓の向こうで 
ホトトギスがひと鳴きし 北の空へと飛び去った。
カッコウは あれからもう来てくれませんネ、どうしてかなー。


今日はバスルーム工事、 
初体験 プラスター塗りの初日です。
ジョイフル本田のプラスターは安かった。だから
もしこれ うまく行ったら きっとこの小屋のいろんな所が 
白い塗壁になることでしょう。

私の小屋作りの建材等 殆どこんな具合に決定されるのです。
源イメージは大切に、しかし
目先の工事は 正にその時の気分次第。

2007年6月25日月曜日

自己複製現象

昨夜 あるキリスト者から電話があり、その方の身近に起こっている
ある困った状況に関するアドバイスを求められた。
ところが 私にある唯一のものを さしあげる以外に 
私に何かあるわけではない。 

その唯一のものとは キリストの死と復活である。
真の命は 復活の中にある命であり 復活の命は どうしても
死を経過せざるを得ない。
しかし問題は 具体的に その死をどのように
わが身に適用するかであり 昨夜 その点に 私のアドバイスは集中した。

さて
この方 実はつい最近 埼玉県にあるご自宅を開き 
2,3人の他のキリスト者との交わりを 開始されたばかりである。
私達はこのことを喜ぶ。それは今 主の前に実に尊いことである。
この「2,3人の交わり」が これからの「主の動き」における
1つの重要な起点となるのではなかろうか と思われるからである。



しかし 起点が存在するだけでは 事は成就することはない。
次に 極めて重要で かつ難解に見える問題は 
そのごく普通のキリスト者に過ぎない2,3人による交わりが 
生物の自己複製現象の如くに もう一つの別の 
2,3人からなる交わりをどうやったら 自然に産み出し得るか 
と言うことである。

これは 今日のキリスト教の状況やキリスト者の常識を知る時、
全く困難なことのように見える。否 それは殆ど不可能に近いのだ。 

しかし 生物の世界に少し目を転じて見ると
この現象は 生物活動の基本であることが容易に分かる。
自己複製能力を失う時 その生物は絶滅するのだ。
しかし逆に言えば 命が正常でありさえすれば 当然の如くに 
その能力は あらゆる生き物達に 常に普通に存在する。
それは 生物の個体における複製においても 
また一細胞の増殖においても見られる基本的な生命現象である。
命とは 自己の複製、再現、増殖をせずにはおれない存在なのである。

ここで大切なことは その2,3人からなる命の1細胞が 
あるスーパーマンを中心に 他を取り込み
或いは痛めつけながら 肥大し、自己を誇示し 
強力に存在感を増して行くのではない と言うことである。
もしそうであるならば それはむしろ 悪性の病気なのであり、
遂には その生命体全体を 死に追いやることになる。
決して そうではないし また そうであってはならないのだ。

それでは どうであるべきなのか、 
その2,3人からなる 小さな交わりから 一人一人が 
キリストの死を わが身に適用することを 互いから具体的に
学び合い、日常生活の中で その死を実際に
わが身に適用するのである。

そうするときに  
復活の命の中の光が 彼らの普通の生活の中で 
その人の周囲にいる人々を引き付け照らし 真の自分を見させ 
命に触れさせ 更なる段階に至らしめるのである。
そのようにして 命の自己複製現象によって生まれた
2,3人を最小単位とする集まりと交わりが この地上の
いたる所に見られることになる、筈である。

真の命の増殖には デモンストレーションは不要である。
この命の増し加わりは 人々に隠され 秘められた方法で 
静かに進行する筈なのであり 日常的な人間生活を逸脱した所で 
ニギニギしく執り行われることはあり得無い。 

この現象が真に出現し 進行するとき 
その各面には計り知れない益がある。
そこには 幾多の驚くべき神の知恵が数限りなく隠されていることは
既に明白なのである。



しかし残念ながら 以上は いまだに 
私達の初歩的基本的なヴィジョン 或いは一提言に過ぎない。
現実に 真の命におけるこの自己複製現象が 
いかなる条件のもとに この地上に現れ得るのか、
そこには ここでは到底語り尽くせない
幾多の 重い課題が存在する事であろう。

しかし更に 大切なことは
この課題には 人の知恵から来る単なるハウツー的アプローチを 
やんわりと拒絶する何か を内在しているという深い事実がある
と言う点である。
もし私の誇大妄想でないとすれば
それは この最後の時代における キリスト者に対する 
神からの重い課題である故 であろうと私は思っている。

2007年6月24日日曜日

夏山の薪ストーブ

今は朝の4時半、4人の客人は まだ夢の中。

さて 今日はどうするか?
まずは あの87歳の スーパーおじいさん本松さんの炭焼き窯まで 
朝の散歩というのは どうだろう。
朝露できっと脚はぬれるだろうが、
霧の谷に下りて、典型的日本の里山的光景の中、
田んぼのお玉じゃくしを観察し 夏草むせる細道を 
のんびり歩く と言うのも悪くはないだろう。
きっと あの可憐なアヤメたちの幾つかは  
まだ咲き残っていてくれているだろう。
それに午前中 出来そうにもない と思っていた五十人山への小登山も 
もしかすると実現するかも知れない。

昨日は イギリスから来られたコニーさん、
日本の温泉を 楽しく初体験されたと言う。
特にジャグジー風呂がよかったそうで、
聞いた日本人 一安心したと笑う。   

さて
今朝は結構涼しい。
そうだ 薪ストーブを焚こう!
窓を開け放ち、心地よい夏の暖を取るのだ。
確かにこれも カリマンの森 夏山のおもてなしの一つなのだから。

2007年6月23日土曜日

お客が来る

外はまだ夜、夏至の未明。
今日は4人の客人をお迎え致します。

その内の一人が何と イギリスの女性なのです。
この小屋のバスルームがとうとう 間に合わなかった例のあの方ですよ。
ま、川内の温泉にでもつかってもらって
異文化体験をして頂くのもいいのではと。

残念なのは お連れしようと思っていた北欧風?レストラン:
オールドアウルスが土日はお休みだったこと。
それにしても土日が休みとはね!
きっと儲けなどどうでもよさそうな 
趣味でノンビリやっているお店なんでしょう。

そう言えば 私の隣の出羽海さんも 喫茶店を開くんだ
などと言っていましたよ。でも どこから客が来るのかな、
人よりもイノシシの方が多そうなこの山の中で。
これも店主の完全道楽喫茶店であることは間違いないのだ。

たった1泊だから 五十人山や、マイマウンテンの天王山登山でもあるまい。
最近一寸有名になった手倉山の下 高瀬川渓谷の散歩はどうだろう?
そうそう 奥さんと二人で 完璧アメリカンハウスを建築中の
広尾から来られた赤木さんや
きこりの芋久保さんを 突然訪問するのも楽しいかも知れない。

後はノンビリ談笑ですね。
確かにこれが この小屋での 一番のおもてなし。

短い夜が明けた。
南のロフトの窓から 秋のような涼しげな青空と白い雲がのぞく。
今日とあす 完璧つゆの晴れ間だと言う。

カリマンの森、断片集

*今日(こんにち)のキリスト。
*キリストが私に到達し 今日の天地にある
 奥義的イエスとされている。
*主と共に生かされている。
*一本の木とされた、あのブドウの木とされている。
(ブドウの木と枝をどう分けるのだろうか。それは分けられない)

*私の感覚、経験、環境(3K)はコップの中の嵐。
*サタンが私に何を感じさせようと 
 それで事実が変わるわけではない。
*信ずべきは唯一つ、神の目に見えること。

*サタンよ、あなたの復活は単なる蘇生。
*真の復活者よ、あなただけが本物です。
*復活こそ義。(ロマ4章)

*責任放棄、神に対して。
*私はいない方がいい、私は退職者、私は人生を彼に委託した。
*アダムとの一つ、私はアダム。
*アダム(人類)は死んだ、そして霊となった、それが第二の人。
*新しい日曜日、今は霊の時代、復活の時代。(ヨハネ20章)
*主はその場所を用意された、私はその場所にいる。(ヨハネ14章)

*ただ信じる生活、そして人生。
*主よ 唯一言のお言葉を下さい、一つの心を下さい。(マタイ8章)
*今日(きょう)も奇跡の日。

2007年6月22日金曜日

あるメールから

昨日 山にもどりました。
つくづくと 山はいい、日本はいい。

庭の花々の手入れをしている時でさえ 
ああ 私は主と一つなんだ
という事を知った と言うメールを有難う。

本当に 唯 
キリストから、彼との一つから、その事実への安息から
総てが出てくる。
1点キリストと 天地の間のキリストの伸縮自在 ですね。

そのキリストから あの使徒行伝にある
小さな家家での交わりさえも出てくる。
家々と言う意味は 日常の人間生活の只中 と言うことです。
集まりは 人間的、日常的であるほど良いのです。
大きくしようとすればするほど無理が出る、
非日常的に成ればなるほど 構えれば構えるほど 怪しくなる。

しかし その小さな交わりと 
天地の間にある「今日の奥義的キリスト」との交わりは 
伸縮自在です。だから私達は 今天に座してさえ いるのです!

改めて そんなことを思わせられた1週間でした。



小屋は 今正に 緑の海の 海中に没しています。
また 今日から山の暮らしです。


 

 

2007年6月15日金曜日

旅の朝

今日は山を降りる日:

早朝 3時の目覚め、南の森の向こうで 
ヨタカが キョキョキョッと 
梅雨の夜空に 鋭く叫ぶ。

この鳥
脚は弱く 昼は 殆ど歩くことさえないが 時々
酒に酔った人の如くに フワフワっと 
ほの暗い森に漂う奇妙な舞いを舞う。

しかし 夜は 凄い高速で 星空を飛行し 
大きな口を開けながら 空中の虫を飲み込むのだ。

もうすぐ この不思議な鳥の
短い夜が明ける。



朝の目覚めの時間 しばしば ある感覚が飛び込んでくる。

ダビデの晩年 主の前での 極めて深刻な罪を生んだ 
あの純情な王の心に忍び寄った 彼の中の「私」。

「数えてはならない」
無限な主の能力に 有限な人の指が 触れてはならないのだ。

何もしない、
ただ 心を解放し 主にのみ 霊を解き放つ。
 

2007年6月14日木曜日

一週間 山を下ります

不思議です、時々 何と言うか、 
ここの里山に カリマンの森に
パアーッと光が射し込んで来ているように思うんですよ。

エっ こんなにも美しい所だったの、知らなかった と 
つくずくと感じ入ることなど 今まであんまり無かったことなのです。
これ一体 何なのでしょうねー。
(とは言いながら実は 自分では分かっている気もするのですが)

ですから 一週間の小旅行も 一寸 後ろ髪引かれる思いが
しないでもない。
それに 大工仕事も面白くなって来た所だし。

たった今 ある人の嬉しいニュ-スを ブログで見た。
本当によかった 私への主のほほえみさえ!
だから 明日は 心スガスガしい気持ちでドライブ出来そう。
やっぱり明日も6号線ですね、波が白く光る 大きな太平洋ですね。

兄弟姉妹との交わりの他に 
障害を持つ息子に会うこと、
町の健康診断を受けること
コージとマルシアに お借りしたトランクをお返しすること、
妻と千葉ニュータウンのジョイフル本田に行って
漆喰を買うこと、カントリーハウスの洋書を探すこと等等。

良い旅になりそう、
何かとっても素晴らしいことが
待っていてくれそう。

小さな「私の」時間にも

「この小さな仕事を処理してから しっかりと主に戻ろう」は
大きなワナ。
キリストは 私のいかなる場面にも
注意深くスタンバイされておられるのだ。
ちょっと待って などと思わないで
自分で出来るから などとも思わないで
いつでも 直ちに彼との一つに戻ろう。

「これしきのこと主に戻るまでもない と見える
こんな小さな 私の時間の中にも
そして 音楽でも聴けば 直ぐに忘れられそうな
私の ちっぽけな焦りと困惑の中にさえ 
或いはまた とてもハッピーな場面にさえも

主よ今すぐ来てください。
そうです 今 私はあなたと一つなのですから」
 ☆

注:キリスト者は音楽を聴くべきではない、
  と言っているのではありません。

永遠二題


永遠と言う 誰にも動かし得ない巨大な岩の様な
遥かに超越した領域が確かに存在する。

サタンは 時空の中に限定され 
実は 永遠と言うものが どんなものかさえ知らないのだ。
ただ私達のみが 信仰によって 時空に居ながら 
いつでも直ちに
永遠と言う決定的、絶対的な安全地帯に逃げ込めるのだ。
何と驚くべき特権ではないか。
  


時空の中の 人の生老病死は 
神が 敢えてその存在を許し そして残された 
言わば宇宙の特設ステージ。
サタンの知性と思わくを
あざ笑うかの如き 神の驚くべき知恵と力は

今や 生老病死と言うステージの上に 
永遠と言う名の役者を登場させ  
ただそれだけを クッキリと際立たせるばかりである。

永遠の様々なリアリティが 
ただその真理を信じると言う 人の小さな行為によって 
時空と言うステージに浮かび上がり  
宇宙の諸々の被造物達を驚愕させる。

唯その為にある 時空の中の私の人間生活
唯その為にある あなたのこの時代における日常。 

当然 舞台は 役者の単なる引き立て役に過ぎない。
そうなのだ、
時空の中の生老病死は 
ただ永遠が輝く為に 神と人が用いるバックグラウンド!

2007年6月13日水曜日

カリマンの森にて5

今 早朝4時半 今日もよい天気。
それにしても きのうは暑かったですねー!
 所で今日が 梅雨入り前 最後の好天なのかも知れない、
これから暫くジメジメの季節、一寸 ユーウツです。

 きのうは水周りの設備が入るためのスタンバイが完了。
でも 設備屋さんが遅いのです。ま これはやむを得ません。



人がいつでも どうしても離れられない意識 それは
「私 私 私 アイ アイ アイ 私 私 私」

しかし 神の言葉は、そして神のチャレンジは
「よく見なさい 私が見るのはあれだけ、あれがあなたです!」

『あれ』とは キリスト、
それも今日のイエス、奥義的イエス、天地のナザレのイエス。


ヨハネの見た新エルサレムは 単なる模型なのだろうか?
そんな筈はない。それは永遠の中にいたヨハネが「見た」
永遠の中の真正の新エルサレム。
その原型が 私達が今住んでいる奥義的キリストイエスであるならば
永遠の中では 今 私達も既に新エルサレムに住んでいる!


*ハモラなくとも美しい*

近所の村井ガーデンのベンチに座って目をつむると
色んな命たちの 生きている「勝手な」音が耳に飛び込む:

小さな 山の清潔なハエとハチの 眠くなりそうな 
プーンと耳にかすかに届く羽音
またそれらを打ち破るようなヒヨドリ達の騒ぎ、
そして遠く田んぼの蛙の声、
それらが不思議にも かえって森の静寂を引き立たせ
更にそこに せせらぎの不協和音が加わると、
その全体が いろいろな命の様々な個性が、指揮者もいないのに 
技巧のない完全な 人を包み込み癒す 平和な音世界を創造するのだ。
これこそ命、いのちのハーモニー。

人の汗と涙なくしては決して産み出し得ないエリート達の
混声合唱やオーケストラを思う時

私は 唯 永遠と復活の中の 
巧まざる 人手によらない 天的命の交響曲を慕う。

   ☆        

2007年6月11日月曜日

   カリマンの森にて4

 今日は何と 午前3時起床。
でもこういうのは ここの暮らしではよくある事なのです。
山の生活が軌道に乗ると 睡眠時間は少なくなるようです。
どうしてかな。

 私の寝室は この小屋で一番小さな部屋、
45度の天井が迫るロフト(屋根裏部屋)なのですが
今朝フト目が覚めると コナラの木に掛かり
クリスマスの電飾のように キラキラと輝く夜明けの 逆3日月!

 さて きのうは台所のシンクとガス台 それに洗面台の高さを
88センチに調整。従来の和製のものは ちょっと低過ぎるのです。
 こんな作業 ツーバイフォーを使えばとても簡単、
ツーバイフォーはやっぱりお勧めですよ、皆さん。
  
 ☆

 御座におられる復活のイエスが 私にさえ到達し
今 そのイエスが私と共におられる、と言う明らかな事実が まずある。
すると どうなるのか。
言うまでも無く 御座におられるイエスと私の中のイエスは
全く同一のお方なのだから 
ここに 天と地にまたがる大いなる一人の人が
存在しなければならない と言うことになる。
    
 だから イエスと私は(もちろん総てのキリスト者は)
この天地の「奥義的な新しい一人の人間」を構成している 
と言えるのではなかろうか。
ここに「神と人との完全な一つ」への原型が実際となったのである。
     
 この頃の私 この『御座におられる復活のイエスが私に到達した』に
実はすっかり狂っているのです。特に『私に到達した』に。
 
 最近 両手を軽く上げ ウットリとして カリマンの小道を
ふらふら ニヤニヤ歩く 私を見て きっと 
森の藪陰のイノシシや カケスのジェイ君は 
きっと びっくり仰天していることでしょう。

2007年6月10日日曜日

   カリマンの森にて3

 カリマンの森の一角に 本松さんの農家がある。

その 本松おじいさんが今 
古い炭焼きがまを 新しい炭焼きがまに作り変えておられる。
たった一人で しかも非常に小柄、そして何とおん年87歳にして 
巨大な石を 唯一本の鉄の棒で 移動させ 積み重ねるのだ、
信じられますか、
そして決して急ぐことなしに。

彼 私の一人の理想の人なのです。


 この時期 森のいたるところに 毎年咲いてくれる とても可愛い
野性の小さなアヤメ達。
 絶妙な紫と白、黄色のコントラストが つゆ空の下に輝く。
だからこの可憐さに出会う時 いつも思うのです、
 このアヤメ もうすぐ 終わるよ、あなた 早く見に来ないと。


*ヨハネは光ではなかった、しかし、キリスト者は光、天の光を放つ。
*今 無制限のキリスト、しかし今 私達が制限をうけるのでなければ 
 キリストは無制限ではあり得ない。
*キリストの手の中の死、そのなかにある清め純化する火、
 この時代に存在する尊い火。
*1点なるキリストと その拡大なるキリストの伸縮自在。

  
  さてさて 今日は 洗面台の脚 取り付けかな、それに
 漆喰も 買いに行かないと。

2007年6月9日土曜日

   神は能率主義者にあらず

 私は何故 今こんな山奥で 
粗末な山小屋の「壁塗り」などを しているのであろうか。
都会にでも「進出し」世の為人のため また神の為に
もっと意味のある仕事をするべきなのではないだろうか、
などと。

 しかし 神は決して合理主義、能率主義者等ではないようである。
神は むしろ私達を 生涯を通し 不合理や非効率の中に、
時には不条理の中にさえ 敢えて閉じ込められるようにさえ見える。

 ところが
私達が 日常生活の「こんなことに何の意味があるのか」と思える
あまたの人間くさい面倒な「仕事」の中で 
完成された永遠の御業に注目し それに安息し 賛美するときに 

 神は 私の生活の中に 実に不思議な介入の仕方をされる、
とは言えないであろうか。言うならば そのような時に 
神は私の状況の中に乗り出して来られ 私の知らない時と所で 
私を取り巻く諸々の万象の中の ホンの一つ二つのものに 
軽くタッチされるかのように思えるのである。
 その神の軽いタッチが 何と言おうか 私に関わる状況の
総ての様相を キリストの復活の中で 根本から変えてしまうのである。

 思えば 神は神であり、イエスだけが 油塗られたキリストなのだ!
私の出る幕など 永遠にありそうに無いのは当然なのではなかろうか。

 神は 私達のチッポケな能率主義などを必要としない。
神は徹底的に キリスト主義、復活主義 永遠主義者なのだ

2007年6月8日金曜日

  カリマンの森にて2

 カリマンとは猟師のこと、ここの古来からの地名なのです。
だからカリマンの森は 言わば ハンターズ フォレスト。


 今朝 待望の 明確なるカッコウの初鳴き、
一羽の閑古鳥が 天王山から五十人山へ
輝く森の濃い緑を写す青空を飛行しながら。

 大好きな閑古鳥よ、もっと来い、明日も来い そして来年も来い。
(カリマンあたり ツツドリとホトトギスは 多いのに
カッコウは何故か少ないのです。)



*最後の晩餐とヨハネ* 

 あの最後の夜 まだ若かったヨハネが イエスと過ごした 
はるかに遠い あの晩餐の思い出。

 でも 
 一人生き残ったヨハネの中で 
パウロによる最終的とも見える神の啓示からさえ 
更に経過して行った 長い長い圧迫と熟成の歳月。
 その数十年間の時間の流れの中で 聖霊が 徐々に深く
彼に押し迫り、解き明かし
今 老成したヨハネの脳裏に 水晶の輝きの如く 
クリアに描かれ映し出されて行った
イエスの一語一語、一言一言、ワンフレーズ、ワンフレーズ。

 堰を切ったようなそれらのイエスの言葉は ヨハネの円熟と共に 
究極的な神から私達への 重い重い語りかけとなった。

2007年6月7日木曜日

    カリマンの森にて

  朝と夕 決して人間と遭遇することのない
近所の山、そしてその奥の森を 足の向くまま 気の向くまま 
歩き回っています。
  それが私のワーシップ(礼拝)タイム
黙想、語りかけ、祈り、御言葉宣言、真理の宣告、歩き、
寝っころがり、ひざまずき・・・

 そのような カリマンの森の断片集

*キリストは行なう人 私は唯 信じる人・・でいいのだ
 なにをあくせく腐乱死体が。
*神は キリストを通して私を見る、有り難いではないか。
 なのに何故 私は そんなにも私を見るのだ。
*「私の中に留まっていなさい」と言われる主よ、
 あなたがそうおっしゃるのだから 私はあなたの中にいるのです。
 主よ これ 信じます。

  今日 小屋を出たとたんに ごく近くの山でカッコウがひと鳴き。
 でもそれっきり。こんなことって あるのかな。

 今日は郡山まで床に張る 野地板を買いに行きます。

2007年6月6日水曜日

  大工さん再開

 近く大切なお客が来られると言うので きのうから何と 全く暫くぶり
大工仕事を再開したのです。
 
 山小屋作りもある程度まで進み とりあえず何とか生活が出来るとなると
人間 怠けるものですね。もう年だし この程度でいいかと 実のところ 
もう何年も 大工仕事はそっちのけだったのです。
 
 でも しばらくぶりで始めてみると 肉体労働は やはり楽しい。
こういうこと やっぱり 人間には必要なんだと 改めて実感、
自分の住環境をこつこつと自分で作り上げてゆく喜びの原点に
少し戻った感じなのです。
 一日も早く 水周りの設備屋さんに入ってもらう為に 
内装の合板張り工事は きのうは洗面所が完成、今日はシンクの後ろの
合板張りなんですが
 
 でもやっぱり 今回は 間に合わないみたい。
 お客さんには ごめんなさいですね。

2007年6月4日月曜日

キリスト VS 「正しさ」

 神が人に下さるものは あれでもなく これでもなく、唯 キリスト。
神が人に要求するものも あれでもなく これでもなく、唯 キリスト。
神が この基準を 譲歩することは 絶対にあり得ない。
 
 しかし人は 今現在の生けるキリストではなく 
様々な「正しいもの」を神や人に差し出そうとする。
 正しい生活、正しい教会生活 正しい教会観 正しい立場 
正しいキリスト観、正しい聖書観・・・
それらが 仮に 総て完全に正しく「聖書的」だとしても 
神の基準から見ると 総て不合格、
それらがもしも 今現在の生けるキリストでないならば。
かく言う 私の主張でさえ「これが 復活のキリストでなければ」
神が受け入れることはあり得ない。

 今日 キリストの十字架に耐えられないものは 将来の火のテストにも
耐えることはない。
 キリスト者の「正しさ」がキリストに取って代わるのは 
実に た易いのである。

 これが この度のヨーロッパ旅行で痛切に感じさせられたことでした。