2007年6月9日土曜日

   神は能率主義者にあらず

 私は何故 今こんな山奥で 
粗末な山小屋の「壁塗り」などを しているのであろうか。
都会にでも「進出し」世の為人のため また神の為に
もっと意味のある仕事をするべきなのではないだろうか、
などと。

 しかし 神は決して合理主義、能率主義者等ではないようである。
神は むしろ私達を 生涯を通し 不合理や非効率の中に、
時には不条理の中にさえ 敢えて閉じ込められるようにさえ見える。

 ところが
私達が 日常生活の「こんなことに何の意味があるのか」と思える
あまたの人間くさい面倒な「仕事」の中で 
完成された永遠の御業に注目し それに安息し 賛美するときに 

 神は 私の生活の中に 実に不思議な介入の仕方をされる、
とは言えないであろうか。言うならば そのような時に 
神は私の状況の中に乗り出して来られ 私の知らない時と所で 
私を取り巻く諸々の万象の中の ホンの一つ二つのものに 
軽くタッチされるかのように思えるのである。
 その神の軽いタッチが 何と言おうか 私に関わる状況の
総ての様相を キリストの復活の中で 根本から変えてしまうのである。

 思えば 神は神であり、イエスだけが 油塗られたキリストなのだ!
私の出る幕など 永遠にありそうに無いのは当然なのではなかろうか。

 神は 私達のチッポケな能率主義などを必要としない。
神は徹底的に キリスト主義、復活主義 永遠主義者なのだ

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