2011年3月30日水曜日

6つの名前

人の一生は、
(クリスチャンでもクリスチャンでなくとも)
そのほとんどが苦しみの連続ですが
その苦しはおもに「いつわり」と死とによります。
人の弱さや病は死の前ぶれですが、人はいずれ(幸い病気になら
ないとしても)遅かれ早かれ「何らかの方法で」死に飲みこまれ
てしまいます。これこそが、総ての人にとって最も差し迫った
極めて実際的、かつ確実な事実であり情報です。

原則として、直接人にその「いつわりと死」を与えるのは、
神ではなく神の敵です。彼の目的は偽りによって人を 誘惑し、
死にいたらせることです。

聖書によると
神の敵には11の呼び名がありますが、その中の6つを
あげて見ると・・
「サタン」とは敵、憎む者であり、
「ヘビ」はだます者、「龍」とは残酷(ざんこく)な者、
「悪魔」は誘惑者であり、そしてとどのつまり、
彼は「この世の神」「この世の支配者」です。
(この世の支配者は神ではありません。神は宇宙の支配者です。)

この地上にはこのように、神に反対する、巨大な意志が
明確に働いているのですから、今世界全体に、そしてまた
個人に対しても、何らかの方法で憎しみ、だまし、誘惑、
そして残酷が次から次とやって来るのは当然のことです。残念
ながら、 これこそが総ての人に共通する確実な「運命」です。

再度言いますが、
それらの「不幸」は結局、この世の神、この世の支配者の意志に
由来(ゆら)いするものです。彼はそのだましと誘惑を用いて
人類を自分の道、すなわち「破滅(はめつ)への道」へと
共連(ともずれ)することを目的として、人をして
「命なる神から完全に切り離される死」の中へと、 連れ込もうと
しているのです。(それは「悪の法則」の一つです)

私達は神の敵とは結局、共犯者(きょうはんしゃ)を求めて、
いつわりの中で 働く「大いなる人殺し」であることを
知らなければなりません。

どうか「みこころ」が天で行われるように、
地においても行われますように。

2011年3月28日月曜日

有難うございます

もみじ饅頭さんからコメントいただきました。
有難うございます。
パソコン音痴に近い私には結構難しいのですが・・


コメントの件ですが、グーグルのアカウントに
サインインしてからコメントを残すと自動的に
ブログにコメントが載るようです。 それ以外のコメント、
(グーグルアカウントにサインインしてない人、
グーグルのアカウントを持っていない人)のコメントは
全てスバム欄に入ります。よってアカウント設定でスバムに
入っているコメントを‘スバムでない’と確認するまでは、
スバムに入ったままになっています:ダッシュボードへ行き、
コメントをクリックするとスバム欄に入ったままで
確認待ちのコメントが見つかります。それらをクリックして
‘スバムでない’と定めれば、記事に載ります。

もうすでにわかっていることでしたら、すみません。

ことばの力

昨日、Marciaさんからのコメントです。
(コメントを入れるのがますます
難しくなっております。)

私にとって山小屋は第二のふるさとです
(私が勝手に思っています)。ことが落ち着いても、
すぐには行けないけど、Sugarさんが戻れたら
必ず行きますよ(^-^)。


シュガー:

マルシア、有難う。

さて昨日
もうお一人からコメントをいただきましたが
やはり載りませんね。
そして何と今私のコメントもうまく行きません。
どこが壊れたのかな?
いただいたコメントです。


電‐キーYAと書くと
グーグル八分の私はもうほとんどどこでも
コメントは無理なようです。
シュガーさんの所はセキュリティが
変わったのか、私のせいかやはり
コメント掲載は無理でした。

以下その内容です。載せても載せなくとも
構いません。

私の計算では福島第一からあの山小屋までは
直線だと25km程だとおもいました。
さて微妙な所でありますが、全て主はご存知です。
来る人は来ますし、来ない人は来ません。
(すみません、当たり前ですね)

あの原子の炎より
暖かく心地よい薪の炎をまた燃やしましょう。
人生の不思議さを今回もまた思わされました。


シュガー

コメント有難うございます。
きのうは次のようなことを考えておりました。

今の騒ぎがないとしても
この地上、どこもかしこも
いつも億兆の人のことばで満ちている。
しかしどこに永遠に変わらない、真実の言葉が
あるのだろうか。
本当に今、「真のことばの力」を知りたいと願う。

2011年3月27日日曜日

近況です

実家で元気にやっております。
小さなマウンテンバイクに乗って、近郊の田んぼ道や
小さな丘等を駆け回るのは今の私の楽しみの一つです。

それにしても
山小屋はどうなるのでしょう。

もしも小屋が
・再生不可能なほどにヒドク壊れているか
・今後、放射能の害が非常に大きくなり、末永く
小屋に近づけないほどになるとするならば、
その場合は小屋を放棄しキレイさっぱりあきらめましょう。

しかし私の感覚としてはかなり楽観的なのです。
それは大よそこうです:

「専門家、科学者達の教え」に従い、
山小屋近辺
(小屋は丁度あの30キロのボーダーラインくらいでしょう)
の「数値」が、健康に被害を及ぼす値を下回るほどに
「シッカリと安定する」ならば、
これまでと全く変わらない
山暮らしに早速戻りたいと思っております。
(しかし問題は、それがいつになるか、ですが・・)

この場合
世間のフンイキや私の気分ではなく
専門家、科学者達の言う数値に信頼を置くことが
重要であるはずです。

ここまで来ると
これは信仰の問題と似ていますね。
だからどうしても最後はやはり
「何を信じるか」ということになるのです。

最終的には
「何が本当に確かなものなのか」
と言う見きわめと
それに対する信仰ということになるのでしょう。

それだけはどんな人でも
自分でシッカリとやらなければならない筈です。
自分の将来と永遠を決定するのは
やはり自分以外にはありません。


私が小屋に戻れたとしても
今後、あえて山小屋に来てくれる人は
ずい分少なくなってしまうことでしょう。
ま、でもこれはやむを得ないことですね。

2011年3月18日金曜日

地震酔い

・・・
視覚情報と平衡感覚とのズレが原因だ。
ストレスも一因といい、
専門家は「不安を和らげることが大切」という。
(朝日新聞)

この人の身体にさえ悪影響を及ぼす現象は
キリスト者に対しては、今さらに大きいと私は思います。
それは実に惜しいことです。

何故なら
キリスト者でさえ、否キリスト者であればこそ
(放射能よりもはるかに恐ろしい)「今この世にただよう
ある空気」(地下からの煙)を吸い込むならば

実に不思議なことに、
キリスト者の霊はたちまち弱められてしまい、
キリスト者に課せられた、キリスト者だけに可能な、
最も尊く効果的な、
人々のための、日本のための奉仕である祈り、
その祈りへの意欲そのものが、逆に
奪われ、どこかに行ってしまうからです。

従って私達が
テレビや、さまざま人々からの雑多な情報の渦に
多くの時間、埋もれ、まかれてしまうことは
とても残念であり、危険なことであると言うべきでしょう。

私にとって今大切なことは、
自分に可能な「みことばと祈り」の為の一定時間を確保し
むしろ淡々粛々(しゅくしゅく)として、
あたかも「何事も起っていない」かのごとくに、人としての
基本的な日々の日常生活を、堅実に送ることではないでしょうか。



情報とは「私の意志が主のために主体的に知る」ものであり、
当然「私の総て」が情報に引き込まれ、吸い込まれ、
飲み込まれるべきものではないはずです。

そして「そのボーダーライン」がどこにあるかは
ただキリスト者の霊だけが「あの悪しき者」の意図を主体的に、
そして密かに「見る」ときに初めて知ることが出来るものです。

そのようにして私の霊が、私に危険を告げる時に、
私がその場から速やかに身を引き、直ちに「神の高所」に
かけ上らなければ「その津波」は私をたちまちどこかに
連れ去ってしまうことでしょう。

From.China2

Dear brother:

I'm so glad to hear about the wonderful preservation
from the Lord, He is ever faithful, and so is ever
to be believed on!

May the Lord continue to manifest His exceeding power
and grace to you and all the saints in Japan!
He really loves and saves everyone of His to the uttermost!

In Him: Lijie

2011年3月17日木曜日

大変だ!

今、
日本国中の人が一人残らず
「大変だ、大変だ」と言っているようです。

しかし、
もともと日本も、世界もそして私個人も
実に大変な状況の中にいることは
何も今に始まったことではありません。

例えば仮に
私達がこれからも今までのような「平和」を楽しむ
としても、今からわずか10年後、恐らく私を含め、
今生存している日本人の1/4は、この世のどこにも
存在していないことは明らかです。これも一つの
「大変な事実」であることは間違いないでしょう。

しかし実は、ここでの更に重大な問いと言うのは、
その時、そしてその後永遠に(10年間だけではない)
私の霊と魂は(即ち本当の私、私の実体は)
どこで何をしているのか、ということです。

聖書を見る時、人間にとって、いや万物やエネルギーに
とって「消滅」ということは絶対にあり得ません。
(人の死が本当に「人の存在の完全な消滅」ならば、
それは大して悲しむべきことではないでしょう。)
この真実こそ、遥かに、はるかに深刻な事実では
ないでしょうか。

人々が常に追い求めてやまない
人生や世界における「平和と見える現象」は
水面にただよう浮き草のようなものに過ぎません。それを
すえながく地上に留めおくことなど絶対に不可能です。それは
少しだけ、この世や個人の歴史を見るだけでも明らかでしょう。

私達は、今この世界に渦巻く
たやすく目に飛び込んでくる情報や事実(即ち物質世界)の
背後にひそむ世界にこそ目を向けるべきです。
そうしなければ、必ず私達は(何者かによって)
足をすくわれ、後世においてヒドイ損失をこうむるでしょう。

なぜならば、真に大切なものは、
物質と人の肉体が一皮むけたその向こうに、
即ち人の魂霊と、そして霊的な世界の中にこそ、
深く存在しているからです。私達はあまり
「モノ」に捕えられるべきではありません。

なぜなら
「私達の戦いは血肉に対するものではない」(パウロ)
からです。

2011年3月15日火曜日

二種類の情報

震災に関する「適度な情報」は当然大切ですが、
永遠の情報は更に大切です。

前者の情報を
「私にとって必要以上に」摂取(せっしゅ)する時
私は必ず黄泉から侵入する「死の力」の影響を受け、
いつの間にか「天的安全な場所」から
引きずり出されてしまいます。

しかし後者は私に、恐怖や「なげやり」とは
全く無縁(むえん)な不思議な命を与え
さらに超越した天的な視界(しかい)をも
与えてくれるのです。


この場合の「死の力」とは
「真の命である神」から人を切り離す作用を言います。
命は神ご自身から、具体的にはその「ことば」から
人に伝達、注入されます。それは極めて実際的な力です。

また「天的安全な場所」とはイエスが、
ヨハネによる福音書14の2で言われた場所のことです。
それは「いわゆる天国」ではありません。

2011年3月14日月曜日

From.China

Dear brother Sugars

we heard about the terrible earthquake in Japan
the day before yesterday?
How are u and ur family?
How are the brothers and sisters?
We do believe that the Lord will be responsible
to set apart and preserve every beloved one of His!

He is faithful! And what He has given us is
an unshakable kingdom!

If u can read this letter, please tell us ur
latest situation and ur prayer needs!
Nevertheless, we would pray for u and His saints
in Japan now!

your sister in the Lord: Lijie
Jehovah Shalom!

何も失うわけではない

仮にこれから
原発が最悪になり、放射能の汚染により
もう二度とあの美しいカリマンの地を踏むことが
出来ないとしても、またたとえ
最愛の者が目の前から消えたとしても、

私は何も失うわけではない。

イナむしろ、
そのような悲惨と見える喪失(そうしつ)は
この動かざる事実「私の永遠の所有」を単に
鮮明に浮き上がらせるだけである、

という不思議な感覚が深い深い心の奥底にある。
これは私であって私ではない。
だからこれは決して自慢話ではありません。

2011年3月12日土曜日

私は無事です

昨日、何故か
いつもより早めに小屋を出たのが幸いでした。
あの太平洋の海辺を走ったのですが、
午後ブジ実家に着きました。
今、実家におり、私も家内も無事です。

あの2時40分、
車はちょうど土浦の陸橋の上でした。
街全体が揺れ
あ今陸橋が崩壊するのか、と思いました。

実家も朝になって電気が復旧したので、
(昨日は携帯もダメで)
ようやく今こうやってパソコンに向かっているのです。
ガスはでます。しかし今でも断水は続いています。

山小屋がどうなっているかは全く分かりません。
しかし、総てのことの背後に主がおられるので
全部神におまかせして安心です。

それでは

2011年3月5日土曜日

創世記三章の原則

創世記三章を見ると、
そこに「完全に独立した三つの意志」があるのを見ます。
それは神の意志、ヘビの意志、そして人の意志です。

この際、問題なのは人の意志です。
人はその時
「神の意志(みこころ)を自分の意志として取る」という
断固(だんこ)とした自分の選択(せんたく)を
しなければなりませんでした。

「神は恵み深い方であるから、何もしなくとも
(ボーっとしていても)そのうちに何かが起り
私を助け、救って下さる」ということは
この創世記三章に関するかぎり
全くの幻想(げんそう)であることが分かります。(しかし
この幻想は今日クリスチャンの間で普通に見られる光景です)

神はその時、
ご自身が定められた宇宙の法律に従い
(人に与えた自由意志を尊重し)
その場面に登場され、エバの手を取ってエバを救助し
ヘビを滅ぼすということは出来ませんでした。
(この意味で神は全く「全能」ではありません)

しかし、ヘビ(この世の神)は人の意志が明確でないならば
すなわち、浮き草のように「何か」に身を委(ゆだ)ね、
奇跡(きせき)にあこがれ「何となく幸いを待つ」
だけであるならば、人の魂と体の欲求に対して大いに働き、
やすやすと神の意志から人を遠ざけてしまうことは明白です。


しばらく実家におりました。
今雪は20センチほどありますが、強い日差しに、
これからドンドン少なくなることでしょう。